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29話.アルマン・プジョーの活躍〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。自動車への進出を企てるプジョー兄弟社経営者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。パナール&ルヴァソール社の共同経営者。
■ルイーズ・ルヴァソール:1858年頃の生まれ。ルヴァソールと再婚する前サラザン夫人。
■ピエール・ジファール:1870年頃の生まれ。ル・プティ・ジュルナル新聞の記者。
■アルベール・ド・ディオン伯爵:1856年生まれ。蒸気自動車ヴィクトリアを開発する貴族。


 アルマン・プジョーは蒸気自動車を諦め、ガソリンエンジン車に転じる方針を固めた 


この頃のフランスでは蒸気自動車はかなり発展していて、技術的に見ても完成度が高く市場での評価は定まっていた。
一方、ガソリンエンジン車の方は、ほんの一部が動き出したばかりで、海のものとも山のものともつかない状態だったが、博覧会場でダイムラーのガソリンエンジン車を見て以降、アルマンの心はガソリンエンジン車に傾きつつあった。

今は未完成でも、すぐそこにガソリンエンジン車が走り回る時代がやってくるという考えが、やがて確信に変わるのであった。

自分の所でガソリンエンジン車を製作するとなると、肝心のガソリンエンジンをどうするかの答えを出さなくてはならない。
自社開発が望ましいが、プジョー兄弟社には技術がないので難しい。
他社から支援を仰ぐとなるとどこがいいのか、ヨーロッパ各国のガソリンエンジンの実力を掌握しようと必死になって情報収集に努めた。

この結果、最高のガソリンエンジンをつくっているのは、やはりドイツのダイムラー社であることが確認でき、さらにフランスでこのエンジンをパナール&ルヴァソール社がライセンス生産している事実と直面することになった。

パナール&ルヴァソール社はルネ・パナールとエミール・ルヴァソールが共同して経営している会社である。
運がいいことにアルマン・プジョーはかねてからルヴァソールと知り合いで、時々食事をして情報交換をしている仲であった。

さっそくルヴァソールに連絡を入れ、「プジョー兄弟社としてガソリンエンジン車をつくりたいので、パナール&ルヴァソール社からダイムラーエンジンを供給してもらえないか」と、話を持ちかけた。

エミールの答えは、「自分としては、工場の操業効率も上がるので大歓迎であるが、ダイムラーエンジンのフランスでの営業代理権はルイーズ・サラザン夫人が持っている。自分の一存では答えられないので、ルイーズさんの所へ行って、お願いしてみたらどうですか」というものであった。


Peugeot,Armand①第一巻029話
〈ガソリンエンジン車に転換したアルマン・プジョー〉





アルマンはさっそくサラザン夫人を訪れ、プジョー兄弟社としての考えを伝えたところ、彼女から賛同を得ることができた。

その後、カンスタットのダイムラー本社で、ライセンサーであるゴットリープ・ダイムラー、フランスでの代理人であるルイーズ・サラザン、フランスでの製造業者であるエミール・ルヴァソール、それにアルマン・プジョーという4人による話し合いが持たれた。
その結果、パナール&ルヴァソール社がダイムラー社のライセンスを得てフランスで製造するガソリンエンジンは、パナール&ルヴァソール社が使用する分以外は全てプジョー兄弟社に供給されることが決定した。




 プジョーのエンジンは、パナール&ルヴァソール社から供給を受けることになった 


アルマン・プジョーはこの決定を喜び、すぐ部下に対して新しいガソリンエンジン車をつくるように命じた。

1号モデルである蒸気自動車の時は初めてのことばかりで時間がかかったが、苦労した分だけ自動車製作技術のノウハウの蓄積ができていたので、プジョー兄弟社の技術陣は、今度はスピーディにガソリンエンジン車の開発を進めた。
そして水冷方式を採用し排気量1リッターで出力2HPを出すV型配列2気筒のダイムラー製エンジンを搭載するガソリンエンジン車を1890年に完成させたのである。


029話プジョーのワイヤーホイール車
〈プジョーのワイヤーホイール車〉




このクルマの車輪は自転車のワイヤーホイールと同じで軽量車に仕上がっていた。
また、前後車軸の間隔をいうホイールベースが140センチと短く、全長230センチ×全幅135センチであり、自動車の全長×全幅で算出される道路占有面積が3.1平方メートルしかない極めてコンパクトなクルマは、“ワイヤーホイール車”とネーミングされた。

ちなみに道路占有面積というのは、『クルマの歴史物語』ではたびたび出てくる概念で、道路に占める自動車の大きさを示す指標である。

20世紀末時点での日本の軽自動車は、全長が340センチ、全幅が148センチに制限されているので、道路占有面積は5平方メートルと計算される。
日本人読者はこれより大きいか小さいかを、ある種の基準として持っていると自動車の大きさが理解し易くなるだろう。
実際、ワイヤーホイール車は軽自動車の5分の3ほどの大きさしかなかったのである。

ワイヤーホイール車の駆動方式は、車体横に設置された2組のチェーンにより後輪を駆動するしくみで、走行性能としては時速18キロを出すことができた。
アルマン・プジョーはこのクルマのできに満足し、1891年に同じクルマを4台追加して、合計で5台製造した。
この時代の自動車は全て手づくりで1台限りのものが多く、同じガソリンエンジン車を5台つくったワイヤーホイール車はフランスでも珍しい例となった。


フランス東部のスイス国境近くに本拠を置くプジョー兄弟社は、こうしてガソリンエンジン車事業をスタートさせたが、全てが順調にいったわけではなかった。
その原因のひとつに生産拠点があまりにもパリから離れていて、パリの顧客には修理などのサービスが充分できない点があった。

そこでアルマンは、自分のエリアから近いドイツやスイスでプジョー車を販売したいと思うようになってきたが、そもそもプジョーのエンジンはドイツのダイムラー製であるので、契約上できるはずもなかった。

これを解決するには、自社製エンジンを搭載するクルマが必要なことがわかっていたアルマンは、何とかして自社技術による新エンジンを開発したいと思いつめるようになった。


さて、46歳になっていたが独身のエミール・ルヴァソールは、ルイーズと仕事の打ち合わせを重ねるうちに、彼女に強く惹かれる何かを感じるようになり、真剣に結婚を考え始めるのである。
夫を亡くしたばかりで、ちゅうちょする気持ちもないわけではないルイーズだったが、ルヴァソールの愛を受け入れて、2人は結婚することになった。

振り返ってみれば、独身のルヴァソールは、冷静にダイムラーのエンジンを評価したかもしれないが、既にその時点で知的な美しさを持つルイーズを見そめていて、心をときめかせていたのかもしれない。
もちろん、誰もルヴァソールの心を知ることはできないのだが。

(「29話」はここまで)


29話.アルマン・プジョーの活躍〔前編〕

《 主な登場人物 》
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。自動車への進出を企てるプジョー兄弟社経営者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。パナール&ルヴァソール社の共同経営者。
■ルイーズ・ルヴァソール:1858年頃の生まれ。ルヴァソールと再婚する前サラザン夫人。
■ピエール・ジファール:1870年頃の生まれ。ル・プティ・ジュルナル新聞の記者。
■アルベール・ド・ディオン伯爵:1856年生まれ。蒸気自動車ヴィクトリアを開発する貴族。


 プジョー兄弟社のアルマン・プジョーは、自動車分野への新規参入を強行突破した 


本ブログの「14話 プジョーの自転車」で、フランスを代表する自転車メーカーとしてプジョー兄弟社の話が登場しているが、「29話 アルマン・プジョーの活躍」はこの続きである。

古くから金属加工業を生業としていたプジョー兄弟社は、1885年から自転車ビジネスに参入して、瞬く間にフランスを代表する自転車メーカーに育っていった。
この会社の社長はジュール・プジョーであり、その甥に当たるアルマン・プジョーは専務として会社経営の中心にいた。

時代に先行して新規事業に取り組むことがビジネスでは勝利の条件となるという信念を持っているアルマンは、自転車メーカーとしての基盤を形成したプジョー兄弟社が、このまま安住してしまったなら、永続的な発展は難しくなると危惧し、急成長を続ける自動車ビジネスに着目した。
そしてこの分野へ進出して、自社のメイン事業を自転車から自動車に転換するという戦略を組み立てた。

この時点で、自動車の動力としてガソリンエンジン、蒸気機関、電気バッテリーの中からどれを選択するかという重要な検討事項があり、これに基づく会社としての意思決定(ビジネス用語で、会社の方針を正式に決めること)が必要であったが、アルマンはきちっとした形で実行しなかった。

1880年代後半のフランスでは、電気自動車の実用化は進展しておらず、ガソリンエンジン車に関してもドイツから持ってきたロジェ・ベンツが数台パリの街を走り出したばかりの時期であった。
こんな状況の中で、アルマンが「自動車といえば蒸気自動車」と短絡して結論を出したのはごく自然な流れであった。

ここで問題があったのは、“蒸気自動車”への進出の意思決定ではない。
意思決定そのもののプロセスが充分でなかった点である。
この背景として、かつての自転車分野への進出に際して、社内の抵抗勢力が強く、役員全員の納得を得るため時間を要したことで進出時期が遅れしまったことを思い出したアルマンは、今度は社長や経営幹部を説得するのに時間をかけず、役員会でも充分な説明をしないまま、“プジョー”の名前を付けた蒸気自動車を生産して売り出すことを社内外に向かってぶち上げたのである。

ところが現実は厳しく、プジョー兄弟社のエンジニアたちは自転車をつくらせればプロだが自動車となると素人同然であり、新車開発は遅々として進まなかった。




 プジョーの1号車はレオン・セルポレ製の蒸気機関を動力とする蒸気自動車となった 


Serpollet,Leon第一巻029話
〈フラッシュボイラーを発明したレオン・セルポレ〉

そこでアルマンが注目したのが、フラッシュボイラーという新技術を開発したレオン・セルポレであり、この男と話しをつけて、セルポレ製の蒸気機関をプジョーとして最初となる自動車の動力として採用したのである。

こうしてエンジンは用意できたが、難航したのがステアリング装置や制動装置である。
これらは自動車として欠かせない基幹技術であるだけに、プジョー兄弟社の技術者たちは苦労を重ねた末になんとかこれらをやり遂げ、1889年に最初となるプジョー製蒸気自動車が完成を見たのである。

このクルマを1889年のパリ万国博覧会に出展したところ、当時としては数少ない国産自動車ということでフランス人大衆の人気を集めることになった。

アルマン・プジョーは自社のブースでプジョー車の人気ぶりを見て一安心した。
その後、博覧会のあちこちを見て回り、お目当てのドイツ館にやってきたアルマンは、ゴットリープ・ダイムラーがつくった“シュタールラートワーゲン”と名付けられたガソリンエンジン車に目が釘づけになった。
アルマンがそれまで見たどの自動車よりも完成度の高いガソリンエンジン車の出現を知って、強い衝撃を受けたのである。

プジョー兄弟社としてのクルマづくりは蒸気自動車で間違いないと信じて今日まできたが、本当にそれでいいのか、ひょっとしたらガソリンエンジン車がこれからの主流になるのではないかという考えが生まれ、それを打ち消すことができなくなり、冷や汗が一斉に吹き出した。

(「29話」は金曜日に続く)


28話.パナール&ルヴァソールの先行〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ:1856年生まれ。車に挑戦したフランス人。
■ルネ・パナール:1841年生まれ。ペラン・パナール社を経営するフランス人技術者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。ルネ・パナールと手を組むフランス人技術者。
■エドワール・サラザン:1855年頃生まれ。ベルギー人の弁護士でG.ダイムラーの知人。
■ルイーズ・サラザン:1858年頃生まれ。フランス人でエドワール・サラザンの妻。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ドイツにあるダイムラーエンジン社の社長。


 パナールとルヴァソールの友人ピエール・サラザンはダイムラー社長を紹介した 


ガソリンエンジンを開発しようとして、適切なパートナーを探していたルネ・パナールとエミール・ルヴァソールは、自分たちの友人であるエドワール・サラザンに相談を持ちかけた。
「サラザンさん。私たちは蒸気機関ビジネスで成功を収めてきましたが、20世紀はガソリンエンジンの時代だと見ています。残念なことに自分たちは、ガソリンエンジンのことはからっきしわかりません。サラザンさんは交友範囲が広いので、優秀な方をご存じないでしょうか」

「そうですか。私は技術のことは門外漢でよくわかりませんが、ガソリンエンジン技術だったらドイツのゴットリープ・ダイムラーさんが一番だと思いますよ。ダイムラーさんなら、ここ数年親しくお付き合いをしていますので、ご紹介しましょうか」

サラザンの返事を得て、2人はこのドイツ人に強い関心を持つこととなった。


Sarazin,Edouard第一巻028話
〈ドイツとフランスの橋渡し役:エドワール・サラザン〉





パナールとルヴァソールの直面したガソリンエンジン開発問題の解決に一肌脱ごうと思ったサラザンは、その一方でこの話を自分のビジネスに取り込むことを考えた。
そして、ドイツに赴きゴットリープ・ダイムラーに会って、「フランスでのダイムラーエンジン現地生産化には大きなビジネスチャンスがあるので、この営業代理権を自分に与えるよう」、熱心に要請したのである。

最初は、フランスがドイツと政治的に不仲の関係にあるので、ちゅうちょしたダイムラーであるが、やがてその熱意にうたれ、サラザンに自分の技術を供与することを決断した。

サラザンは、さっそくパナールとルヴァソールを訪問し、自分が権利を得たいきさつを話したところ、喜んだ2人はダイムラー製エンジンを搭載する新しいガソリンエンジン車の開発に取り組みを開始したのである。


ところが、新しいビジネス関係がスタートしようという矢先に、エドワール・サラザンの急死という悲劇が襲い、せっかくの計画は頓挫する危機に直面した。

この危機を救ったのが、エドワール・サラザンの妻ルイーズであって、けなげにも夫の後任として、仕事を引き継ぐ決意を固めるのである。
ルイーズが事実関係を調べてみると、エドワールとゴットリープ・ダイムラーの間には口頭での約束はあったが、文書化された契約は何もないという事実が浮かび上がってきた。

エドワールの葬儀を終えると間もなく、ルイーズはカンスタットのダイムラー本社に赴きゴットリープ・ダイムラー社長を訪問して、フランスでの営業代理権取得に関する交渉に臨むことになったのである。


Sarazin,Louise第一巻028話
〈夫の仕事を継いだルイーズ・サラザン>








 夫の意志を継いだルイーズ・サラザンの英知と美貌がフランス自動車界に貢献した 


ルイーズは、この難局を乗り切るには誠意ある態度を示すことしかないと思って、この仕事を自分に任せてくれるよう懇請を繰り返した。
ダイムラーは、ルイーズの熱情とその魅力に負けて、彼女にフランスとベルギーでのダイムラーエンジンの営業代理権を与えることに同意したのである。

交渉を終えて一刻も早く仕事が進むようにと、ダイムラーの新型エンジン1基を旅行荷物として梱包し、ルイーズは国際急行列車に乗って帰国の途についた。
ところが、パリに向かう国境での手荷物検査で、梱包した荷物が税関検査員の目に留まってしまった。
危うく旅行荷物を開封されエンジンが没収されるところであったが、列車のコンパートメントでルイーズと談笑していたフランス人政治家が税関員に声をかけてくれたおかげで、ルイーズは間一髪、窮状から脱出することができたのである。

こうして無事パリに運ばれた新型エンジンは、パナールとルヴァソールの手に引き渡された。
2人は徹底的にエンジンを分解してみて、ダイムラー製エンジンの優秀性を真に理解した。
そして、これを使って自動車をつくるという判断の正しさを、改めて認識したのである。


新しい自動車づくりは、エンジンを得てからは急ピッチに進み、ガソリンエンジンをクルマの中央に搭載するパナール&ルヴァソール社としての1号車が1890年2月に完成することになった。

しかし完成した1号車は走行試験を重ねると、安定性に問題があることがわかった。
そこで、より走行安定性を高めるために、車両の構造のあり方にメスを入れる必要性を痛感した。
その結果、エンジンを最前部に置いて、クラッチ、ギアボックス、ファイナルドライブという順にレイアウトして、エンジンの回転力を後輪に伝え、この力で後輪を駆動するという、フロントエンジン・リアドライブ(FR)構造の原型となる方式が採用された。

この方式は、後に“システム・パナール”と呼ばれ駆動方式の標準になるが、2人にとっては一所懸命クルマづくりに取り組んだだけで、自分たちが歴史に名を残すような大きな仕事をしたという認識はまったくなかったのである。

(「28話」はここまで。「29話」は来週火曜日に登場。)


panhard-levassor1上028話
〈“パナール&ルヴァソール”のブランドマーク>




28話.パナール&ルヴァソールの先行〔前編〕

《 主な登場人物 》
■エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ:1856年生まれ。車に挑戦したフランス人。
■ルネ・パナール:1841年生まれ。ペラン・パナール社を経営するフランス人技術者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。ルネ・パナールと手を組むフランス人技術者。
■エドワール・サラザン:1855年頃生まれ。ベルギー人の弁護士でG.ダイムラーの知人。
■ルイーズ・サラザン:1858年頃生まれ。フランス人でエドワール・サラザンの妻。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ドイツにあるダイムラーエンジン社の社長。


 ドゥブドヴィーユが世界初となるガソリンエンジン車をつくったという記録が残っている 


産業革命によって、世界をリードしたのはイギリスであった。
そのイギリスに続いて、フランスが工業国の仲間入りをし、さらに統一を果たしたドイツが続くことになった。

一方、ガソリンエンジン車の発展の歴史を見ると、世界で最初に実用化に成功したのはゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツを生み出したドイツであるが、ドイツで開発されたガソリンエンジン車は、フランスで発達することになった。
そして、フランスの影響を受けたイギリスが3大国では最後になるというように、産業革命の誕生とその影響の流れとはまったく逆になったのは、何という皮肉であろう。


ドイツでのガソリンエンジン車誕生の話に続いて、これからフランスでのガソリンエンジン車の誕生と発展の物語を始めることにする。

この時代、ヨーロッパで最も道路整備が進んでいた国はフランスであった。
フランスは、馬車交通網が既にできあがっていたので、鉄道に対する関心はあったものの、イギリスのように急速に全国レベルで鉄道建設が進んだわけではない。
むしろ、19世紀末に誕生した自動車に対する関心の強さは他のヨーロッパ人にはないもので、道路を自由に動き回ることができる乗り物に対する期待は高まっていた。

フランスのルーアン郊外で織物業を営んでいたエドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユという、とてつもなく長い名前の男が、1883年に排気量4.4リッターで2気筒の2ストロークエンジンの開発に挑戦した。

その記録によると、期待どおりにはエンジンは動かなかったという。
翌年ドゥブドヴィーユは、石炭ガスを燃料とするエンジンを開発し、馬車を改造したボディにエンジンを載せて試走に成功したことになっているが、この話が本当であるという証拠は今のところ見出されていないようだ。

しかし、ドイツのダイムラーやベンツに先立つ1884年2月に、電気スパーク点火装置、キャブレター、ラジエターなどを備えたエンジンと、最低限の装置を備えた乗り物に関する特許をドゥブドヴィーユがフランス特許局に申請したという記録が残されている。

それゆえに、フランス人の中にはドゥブドヴィーユをガソリンエンジン車の第1号とみなす人もいるが、現在ではフランス以外の国の自動車人はドゥブドヴィーユをガソリンエンジン車のパイオニアとは認めていないようだ。


Deboutteville,Delamare第一巻028話
〈エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ〉








 ルネ・パナールとエミール・ルヴァソールは、力を合わせて自動車メーカーをつくった 


蒸気自動車の全盛期を迎えていたこの時代、フランスにおいてガソリンエンジンで自動車を動かそうと真剣に考えたのは、ドゥブドヴィーユだけではなかった。
ルネ・パナールとその友人のエミール・ルヴァソールという2人の男も、これからはガソリンエンジン車の時代が来るかもしれないと予感していた。

ここで、2人の会社であるパナール&ルヴァソール社に関して、会社設立の経緯を簡単に説明しておこう。
1841年生まれのルネ・パナールは、若い時にペラン社という木工機械の会社に就職した。
技術者としてだんだんと頭角を現したパナールは、やがてこの会社の共同経営者となり、会社名はペラン・パナール社に変わることになった。
その後、パナールの友人で3歳若いエミール・ルヴァソールが経営に加わることによって、会社名はパナール&ルヴァソール社となった。

パナールとルヴァソールが手を結ぶことになった頃、木工機械をメインビジネスにしていた会社は金属機械会社への転身を図った。
そして、定置用蒸気機関を製作したところ、その高性能ぶりで評判を得るようになった。

しかし世の中の動きを見ると、10数年後にやってくる20世紀は蒸気機関ではなくガソリンエンジンの時代に違いないと考えるようになったものの、蒸気機関を専門としていたので、まったく異なる技術基盤にあるガソリンエンジンを開発することは容易ではなかった。

パリの街でドイツ製ガソリンエンジン車が走るのを見かけることが多くなってきて、ルヴァソールから「自分たちもガソリンエンジン車をつくろう」という提案がなされたら、技術者としてプライドが高いパナールに強いインパクトをもたらし、今まで蓄積してきた機械技術の全てを動員して、自動車のメカニズムの研究に取り組みを始めるのであった。

時間はかかったが、パナールの尽力によってクルマの基本構造である舵取り装置は何とかできあがり、ボディを完成させる目途はだんだん立ってきたが、肝心要のガソリンエンジンに関しては、技術的な問題点が多く、開発の見通しが立たない状態が続いていた。


Panhard,Rene第一巻028話
〈ルヴァソールとコンビを組んだルネ・パナール〉





一方、これに先立つ数年前のこと、ドイツ社のニコラス・オットーは、フランスでの4ストロークエンジンの特許トラブルに関して、パリ在住ベルギー人のエドワール・サラザン弁護士に問題解決を依頼した。

この時オットーの代理人としてサラザンと打ち合わせを重ねたのがドイツ社の技師長をしていたゴットリープ・ダイムラーであった。
それ以来、2人は大の仲良しになり、どんなことでも話し合える関係ができていた。

(「28話」は金曜日に続く)


27話.ヴェロで躍進するベンツ社〔後編〕

《 主な登場人物 》
■カール・ベンツ:1844年生まれ。自動車メーカーとして着実に前進するベンツ社社長。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ベンツ社を追走するダイムラー社社長。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。ダイムラー社で社長をサポートする技師長。
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。ダイムラー車の商権を狙うイギリス人。


 スピード規制の出現で小型化したヴェロは、ベンツ社として初のヒット商品となった 


ところが「好事魔多し」という言葉があるように、苦労してつくりあげた自動車が売れ始めたところに、当局から思わぬ連絡が入った。

「自動車の走行スピードは、都市部は時速6キロ、郊外では12キロ以下で走行すること。また、他の自動車や馬車に出会ったら、必ず速度を下げること」という指図書がベンツ社に届いたのである。これにカール・ベンツはびびってしまった。

こうなると、もっと小さいクルマをつくらなくてはいけないかと思って、ヴィクトリアより小さい排気量1.1リッターで1.5HP出力のエンジンを搭載した“ヴェロ”が1894年にベンツの3号モデルとして開発された。


027話ベンツ・ヴェロ
〈ベンツ/ヴェロ〉後期スチールホイール車




このクルマは2人乗りに徹した構造を採用した。
前輪の径を後輪より小さくして、ヴィクトリアの欠点である前面視界不良を改善した。タイヤは軽量のメリットを追及して自転車用のワイヤーホイールが採用されたが、後に強度のあるスチールホイールに変更されることになる。
このクルマの変速装置は、最初の頃は2速であったが、やがて3速になり中間軸にプラネタリー・ギアが使われた。

馬車でもなく、自転車にも似ていないコンセプトをうまく表現したヴェロは、ヴィクトリアが4千マルクの値札が付いていたのに対して、半額の2千マルクという安い価格が設定された。
販売が開始されると、カール・ベンツ自身が驚くほどの反響が起こり、ベンツ社として初めてのヒット商品となったのである。


benz1上027話
“ベンツ”のブランドマーク



1893年に発表した4人乗りのヴィクトリアで市場の評価を獲得し、翌年2人乗りのヴェロでヒットをとばすというように、ベンツ社の乗用車ビジネスは順調な売上の拡大が続き、19世紀末のヨーロッパはガソリンエンジン車ブームの様相を呈してきた。

そんな時にシュツットガルトで乗合馬車を経営している実業家がいた。
坂の多いシュツットガルトの街には、馬車では行けない所があって、このような細い道でも通ることができる新型自動車のヴェロに着目した。
そして、このクルマをタクシーとして活用しようと考えたのだ。
こうして、1896年3月にシュツットガルトの街を史上初の“タクシー”として、2台のヴェロが走り出したのである。




 C.ベンツとG..ダイムラーは自転車型から始め、馬車型を経てクルマ型を完成させた 


世界で最初にガソリンエンジン車を開発したのはカール・ベンツであるが、1895年までにベンツが開発に携わってきたモデルを整理してみると以下のようになる。
  1号モデル(1886年)ガスモトールワーゲン/自転車型の3輪車
  2号モデル(1893年)ヴィクトリア/馬車型の4輪車
  3号モデル(1894年)ヴェロ/クルマ型の4輪車

一方、ゴットリープ・ダイムラーが開発したモデルは以下のようになる。
  1号モデル(1885年)ライトワーゲン/オートバイ型の2輪車
  2号モデル(1886年)馬車型の4輪車
  3号モデル(1889年)シュタールラートワーゲン/自転車型の4輪車
  4号モデル(1893年)リーメンワーゲン/クルマ型の4輪車

このように整理してみると、カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーは共通した開発プロセスをたどっていることが理解できると思う。

その共通点の第一は、ベンツは3輪車、ダイムラーは2輪車と乗り物としての形態は異なるものの、ガソリンエンジン車の1号モデルはともに、自転車をベースに置いた小型車の設計がなされているという点である。
ダイムラーの1号車は現代のオートバイの形態をとったが、オートバイそのものの存在が知られていない時代に、見も知らぬ乗り物に関心を示す酔狂な顧客は1人もいなかった。
ベンツの1号モデルも似たようなもので、エンジンが付いただけの3輪自転車に付いている値札を見て、普通の自転車の何十倍もする価格に驚くばかりで、買ってみようという物好きはほとんどいなかった。
結果を見ると、どちらの1号モデルも評判を得ることはできなかったのだ。

ベンツ車とダイムラー車の新車開発プロセスにおける共通点の第二は、自転車ベースの1号モデルの次に、2号モデルとして、馬車のイメージを取り込んだ4輪車を開発したことである。
カール・ベンツもゴットリープ・ダイムラーも根っからの技術者であり、『最初に技術ありき』の発想でつくった1号モデルが極めて不評で、新聞の論評の中には、馬車で親しんだ豪華なイメージがひとつもない乗り物という酷評もあったようだ。
そこで、これらの意見を受け入れ、高い値段を納得してもらうために馬車のコンセプトを取り入れた新型車を開発することにしたが、実際に馬車型自動車が完成したら評判が良くなったというわけではなかった。
いくらがんばってみても、生まれたばかりの自動車が本物の馬車に勝てるわけではなく、馬車型自動車は一種のカタワであり、やはり受け入れられなかったのである。

こうして、自転車型の1号モデル、馬車型の2号モデルという経験を経て、次に自動車のあるべき姿を創造したとことが、ベンツとダイムラーに共通する第三のポイントである。
ベンツの場合は、3号モデルとなったのがヴェロ(1894年発表)であり、自動車として適度な大きさと、自転車と馬車のどちらにも似ていない形態ができあがった。
ダイムラーの場合は少し違って、3号モデルの自転車型(シュタールラートワーゲン)を経て、4号モデルとしてリーメンワーゲンを1893年に発表したが、このクルマで自動車のあるべきサイズとデザインに到達したのである。

(「27話」はここまで。28話は来週の火曜日に登場。)