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46話.ジェナッツィとロバ伯爵の対決〔前編〕

《 主な登場人物 》
■カミーユ・ジェナッツィ:1868年生まれ。“赤い悪魔”と呼ばれるベルギー人スピード狂。
■シャスルー・ロバ伯爵:1865年頃の生まれ。ジェナッツィと速度を競い合うイギリス貴族。
■シャルル・ジャントー:1875年生まれ。ロバ伯爵に電気自動車を提供するフランス人。


 スピードという魔物に取り付かれた人間が、最初に競争を始めたのは自転車だった 


ブログ『クルマの歴史300話 第一巻 自動車の誕生』は、いよいよ本話を含めて5話を残すのみとなった。

さて、本書では読者のために、自動車の発展史に関する書物を所々で案内しているが、折口 透(おりぐち・とおる)氏が書いた『自動車はじめて物語』という本をここで紹介しよう。

この本の著者は、月刊誌『モーターマガジン』の編集長を長く務め、モータージャーナリストとして活躍してきたので、読者の中でも知っている人は多いと思う。
折口 透氏が著作し、1989年9月に立風書房より発刊した『自動車はじめて物語』は、自動車産業の勃興期の話がいろいろ書かれていて、たいへんおもしろい。
特に、“あとがき”の文章がすばらしいので、ここに転載して紹介することにしよう。

『自動車が誕生して既に1世紀が経過している。そしてその100年間の自動車の技術の進歩発展のかたちは、まさに目を見はらんばかりのきらびやかさといってよい。人間が歴史の中で作り出した“道具”の中で、自動車ほど短時間のうちに、高度の精巧さに達したものの例はごく少ない。しいていえば、第2次世界大戦後の電子機器があるくらいだろうが、自動車は20世紀を特徴づける最大の存在であり、また、人々に最も身近で、強い親近性を持った機械である。それが社会生活に及ぼした影響は例えようがないほど大きく、また20世紀人に密着したものだった。
そして、その自動車の進歩と発達に携わった技術者、発明家の数は(今は忘れ去られた数多くの人々を含めて)膨大なものとなっている。自動車は、単にヘンリー・フォードやフェルディナント・ポルシェといった一握りの天才の手によって発育したわけではない。今日まで誕生以来作られた車の銘柄は、4000とも5000ともいわれ、その本当の数は永久に不明だろう。そして、それだけの人間が才能と熱情を傾けて自動車の発展に努力を続けてきたことになる。人類がただひとつの道具に、これだけの力を集中的に注いだことはかってなかった。自動車が現在、日常性の中に埋没して、いわば空気のような存在と化しているが、時にはその歩んできた道程を振り返ってみることも、意味のあることのように思える。
技術にはすべて、その起源と発達進化の流れがある。産業考古学という耳慣れない言葉も最近使われるようになったが、これはそのようなあるひとつの誕生から生育までの過程を、過去にさかのぼって探ろうというものらしい。』
(『自動車はじめて物語』P-214から転載)

著者の折口 透氏は“産業考古学”という新しいコンセプトを紹介しているが、この考えは筆者が『クルマの歴史300話』を書き始めようと思った動機に、図らずも一致している。
自動車ファンであり、長年生活消費財のマーケティングに携わってきた筆者は、つい最近まで産業考古学という言葉を知らなかった。この本で初めて知ることになったが、大切なコンセプトであると思っている。


折口 透氏が書いた自動車関連書籍は『自動車はじめて物語』ばかりではなく、1992年にグランプリ出版から発行された『スピードのかたち』という本も実におもしろい。
この本は、タイトルにあるように、新たに誕生した乗り物に“スピード”を求め、その結果、乗り物のかたちが大きく変化していくようすを、読者の興味が高まるように語っているが、その変化を示すイラストもすばらしいので、特に若い読者にお勧めできる内容になっている。

そこで、『スピードのかたち』を参考にしながら、人類の誕生から19世紀末までの期間、スピードを追求する人々の情熱をひもとくことにしよう。


人間が何の道具も使わずにスピードを体験できるのは、走ることである。
そのスピードは、100メートルを10秒で走行したとすると、時速では36キロと計算される。
42.195キロを走るマラソンを2時間10分で走りきると、平均時速は19.5キロになる。
この数字は、現代人のものであって、栄養状態が充分でない古代には、これらの記録に遠く及ばなかったと思われる。

人類と乗り物の関係は、古くから形成された。
中でもスピードの出る馬は、地球上のあちこちで毎日の生活に欠かせない乗り物であった。
この馬をうまく操ってスピード競争をすることは、どんな国でも日常的なイベントであった。

19世紀に入り、人類は動力をもつ乗り物を生み出すようになり、スピードへの挑戦が始まった。
動力を持った乗り物として実用化されたのは、蒸気機関車が最初である。
誕生したての蒸気機関車は、馬と比べてどちらが速いかが人々の話題となった。

本ブログの「7話 スティーブンソンと鉄道システム」で語られたように、ジョージ・スティーブンソンが製作した蒸気機関車ロケット号は、他の蒸気機関車ばかりでなく馬とも競い合った。
スタート時点では馬の方が速かったが、加速がついたロケット号は、すぐに馬に追いついた。
この時、ロケット号は、時速47キロというスピードを出したという。

蒸気機関車の性能は著しく向上して、ロケット号から10年後の1839年には、ルシファー号の最高スピードは時速91キロに到達して、馬をはるか後方に追いやった。
この後も蒸気機関車は巨大化して、よりスピードの出る乗り物への進化が進み、1890年にクロンプトン604型は時速144キロというスピードを記録したのである。

このように蒸気機関車が出すスピードはどんどん速くなっていったが、ヨーロッパの地でスピード競争を大衆の関心事にした乗り物は自転車だった。
既に本ブログで取り上げているように、オーディナリー型によって乗り物としての完成度を高めた自転車は、19世紀の後半には凄まじい勢いで普及していった。
それと同時に、乗り手の脚力で決まる自転車のスピードに人々の興味が集まるようになり、あちこちでレースが開催されるようになった。

自転車レースには、競技参加者が一定区間を走行して、順位を競うタイプと、別々に走って走行時間の短さを競うタイプの2つがあったが、どちらにも挑戦者が絶えなかった。

その中で有名になったのはフランス人のアルベール・シャンピオンで、1キロを66秒で走ったという。
平均時速に直すと55キロというスピードとなり、この速度を超えることが挑戦者たちの次の目標となった。
そして、19世紀末に登場したクルマが、自転車の速度記録を書き換えることができるかどうかに、興味が移ってきた。




 ベルギー人のカミーユ・ジェナッツィは自動車によるスピードの限界に挑戦を始めた 


自動車でのスピード記録樹立に向かって最初に立ち向かったのが、ベルギー人のカミーユ・ジェナッツィという野心家であった。

少年の頃のジェナッツィは自転車のスピードに魅せられて数多くの競技会に参加し、優勝カップを手にするまでペダルをこぎ続けるというスピード狂だった。
青年になると、一転して建築土木工学を学んで、土木技師として地道に暮らしていた。

ある時パリに行く用事があり、19世紀末の都会の華やかな生活ぶりに触れることによって、ジェナッツィの野心が大きく頭をもたげてきた。
「このまま土木技師として埋もれる人生はつまらない。自分の存在を多くの人々に認めてもらいたい」

そこで、どうしたら世間で目立つことができるかを考えたジェナッツィの結論は、「時速55キロというスピード記録を塗り替えよう!」というものだった。
「自転車競技に出るには自分は歳を取りすぎている。自転車に優るスピードを出す可能性があるのは自動車しかない。それもスピードが出る電気自動車なら、きっと自転車に勝てるに違いない」と考えて、さっそく電気自動車の研究に取り掛かった。

19世紀末のフランスでは、電気自動車は実用的な乗り物として普及しており、パリではタクシーとしても走り始めていた。
そうはいっても、現実には数多くの欠点があった。
そのひとつは、遠くに行くためにはバッテリーの補給をしなくてはならないという点にあるが、短距離でのスピード競争はまったく問題がなく、電気自動車はスピード競争をするにはうってつけの乗り物であった。

19世紀末のフランスでは、スピード競争に異常な関心が高まっていた。
あるフランスの雑誌社は、パリ郊外の公園に直線2キロのスピード競技コースを設定した。
このうち最初の1キロは助走区間とし、残りの1キロが走行記録区間とした。
走り始めてから1キロに到達する時間から平均走行スピードを割り出すのをスタンディングスタート競技といい、1キロを経過してから2キロまでの走行時間から平均スピードを割り出すのがフライングスタート競技であったので、このやり方だと2つの競技が一緒にやれるので便利だった。

(金曜日の〔46話:後編〕に続く)


45話.パウル・ダイムラーの苦悩〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ロベルト・ボッシュ:1861年生まれ。部品メーカーのボッシュ社を創業したドイツ人。
■ゴッリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ダイムラー社の創業者社長。
■パウル・ダイムラー:1859年生まれ。ゴットリープ・ダイムラーの長男で技術者。


 G.ダイムラーから教育を受けた息子パウルが設計したPDモデルは売れなかった 


ドイツ自動車産業のリーダーであるベンツ社は難しい局面を迎えつつあったが、もうひとつのリーダー企業であるダイムラー社の方にも、新しい動きがあった。

少し時代はさかのぼることになるが、会社経営と新車開発に神経をすり減らしている毎日を過ごし、年齢を重ねて、残りの人生が少なくなっていることを自覚するようになったゴットリープ・ダイムラーは、長男のパウルに、自分が興した自動車会社を引き継がせたいと考えるようになっていた。

ここでパウル・ダイムラーについて触れておこう。
パウルは1859年生まれであり、父がドイツ社を辞めて独立した年には17歳になっていて、この頃から機械に興味を持つようになった。
そんなタイミングを逃さず、父ダイムラーは技術を身に付けさせたいと、自ら先生になっていろいろな訓練を施し、息子の技術水準の向上に努めたのである。

一方、息子パウルは父の強引なやり方に時には反発をすることもあったが、機械技術に関しては関心がある部分なので、一所懸命学ぶ姿勢をとり続けた。
パウルは性格が素直で純真である。
だから、父親のような強引さとは無縁で、周りの誰にも好かれていた。

パウルは父だけを先生にしたのではない。特に自動車に関する先進技術を開発し続けているウィルヘルム・マイバッハは最高の先生であった。
マイバッハの方も、自分たちの世代から次世代への技術の伝承は重要な課題であると認識していて、パウルを特別に可愛がってくれた。
こうして、パウル・ダイムラーは、着実にエンジニアとしての技量がアップして、独り立ちできるようになってきた。


Daimler,Paul ①第一巻045話
〈父から技術を学ぶパウル・ダイムラー〉





息子の成長を喜んだ父は、パウルに新車を自由に設計させることにした。
完成した設計図を見た父は、これなら市販可能であると判断して製作に入ることになり、パウル設計車は、パウル・ダイムラーのイニシャルを使って“ダイムラー/PD”という名前が付けられた。

1899年に売り出されたこの新型モデルは、ダイムラー親子が期待したようには売れなかった。
そもそも期待が大きすぎたのであって、他人には厳しいが自分の息子に甘い、ここら辺が親馬鹿ぶりとして現れた結果である。

父は、パウル設計の新車が好評であったら、このタイミングを逃さず、パウルを社長に据えて、自分は引退することを考えていた。
実際、パウルは40歳代に入っていて、この時代の社長就任としては、決して早すぎるという年齢ではなかった。

ところが父に健康問題が発生して、パウルの人生が大きく狂ってきたのである。
19世紀最後の年の3月に、ゴットリープ・ダイムラーの肉体は病魔に蝕まれて、66歳で帰らぬ人になってしまったのである。


“自動車の生みの親”ともいうべきカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーの2人は、同時代に同じ仕事に取り組んでいて、120キロほどしか活動の本拠地が離れていなかったにもかかわらず、生涯に一度も顔を合わせたことがなかったという。

もしも2人が会見して対話する機会が訪れたら、どうなったであろうか。
同じ仲間として意気投合するのか、けんか別れするのか興味津々であるが、筆者は後者のようになるのではないかと心配をするが、読者の皆さんの見方はいかがであろうか。




 パウルは追われるようにダイムラー社を去り、イギリスのデイムラー社に移った 


社長急逝に伴って、ダイムラー社は銀行出身者が経営の中心に座る新しい経営体制に移ることになった。

自分が設計したクルマの市場での評価が低く、ちっとも売れないという事実にショックを受けたパウル・ダイムラーは、自信をなくしかけている時に、父がこの世を去ってしまった。
そして、父に代わって社長に就いた人は冷徹なビジネスマンで、パウルは自分に対する社内の視線が日ごと厳しくなっていくのを実感するのである。

このままドイツにいても、自分の出番はないと不安な日々を過ごすようになってきたそんな時に、イギリスでデイムラー社を設立したハリー・ローソンという実業家が、輸入したダイムラー車のプレートを張り替えるだけのビジネスから、国内生産化に転換するという情報が入ってきた。

しかも、最初の組み立て生産車は自分が設計した〈ダイムラー/PD〉になるということで、パウルにとってはこのイギリス人が救いの神に思えてきた。
そこに、技術責任者をドイツ本国から派遣して欲しいという要請がデイムラー社からきたものだから、渡りに舟と考えたパウルは勇んでイギリス行きを志願したのである。
それから2カ月が経って、ハリー・ローソンが構えているロンドンのオフィスを赴任の挨拶のためにパウル・ダイムラーが訪問した。
「初めまして、今度デイムラー社の技師長の任命を受けたパウル・ダイムラーと申します」
パウルはぎこちない英語で挨拶をした。

「お前さんがダイムラーさんの息子さんか。お父さんは気の毒に早く亡くなられてのう」
父に対するお悔やみの言葉を最初に述べたローソンを、さすがにイギリス紳士であると、パウルは思った。

「ごていねいなお言葉をありがとうございます。長年蓄積した疲労が父の命を縮めたのだと思うのです」

「ところで、今度デイムラー社ではお前さんが設計したクルマの組み立て生産が始まることになったが、このクルマはドイツ本国ではあまり評判が良くないそうだな」
初対面で、しかもそのクルマの設計者である本人を目の前にして、ぶしつけな質問をするイギリス人のボスの印象はいっぺんに悪くなってしまった。

「決してそのようなことはありません。イギリスでは評判を呼ぶと思います」

抗弁するパウルを無視してローソンは話を続けた。
「この機会にお前さんに言っておきたいことがある」
この新しいボスは本当にイギリス紳士だろうかと疑問を抱き始めたパウルであるが、今日のところは静かに聞いておくしかないと考えた。
「第一に、英語を早くマスターして、決してドイツ語を使わないように。この会社では、全ての技術用語は英語で統一をするのだ」

ガソリンエンジン車に関する技術用語としてドイツ語は世界各地で使用されている。はてさて難儀なことを押しつけられたとパウルは困惑した。

「第二に、デイムラー社はわしが支配する自動車王国の一部に過ぎないという点を片時も忘れないように。お前さんも知っているように、わしにとっては、デイムラーであろうと、MMCであろうと、どちらのクルマが売れてもいいのじゃ。要は、いちばん競争力がある商品が生き残るのであって、わしはどうしてもデイムラーを育てなくてはならないという考えを持ってないことを知っておくように」

パウルの落胆は大きかった。自分はいったい何のためにドイツからこうしてイギリスにやって来たのか。父ゴットリープ・ダイムラーが営々として築き上げてきた名声を、イギリスの地で広めるのが長男である自分の役割だと認識しているのに、このイギリス人はなんて恐ろしいことを言うのだろう。
志願してイギリスに来たとはいえ、ここはたいへんな所かも知れないと、一瞬悔やんだが、それを振り払うように自分の思うところを話してみることにした。

「ローソンさん。初対面早々にお伺いした2つの事項に関して、自分なりの意見を申し上げたいと思います。第一の英語の件ですが、自動車は複雑な構造物であり、部品ひとつひとつには発明した人々の知恵と想いが込められた名前が付いています。ガソリンエンジン車はドイツで発明された部分が多くあります。したがって、一般名は英語でも大丈夫だと思いますが、専用部品はオリジナルどおりドイツ語を使うべきだと思います」

最初の頃は静かに聞いていたローソンであるが、パウルの話が進むにしたがって表情が険しくなり、だんだんと目がつり上がってきた。
「お前は何か根本のところで間違いを犯しているようだな。お前は、いったい誰に向かって口を聞いているのかわかっているのか!」

「ダイムラー社のパートナーであるハリー・ローソンさんだと思って、自分の意見を申したのですが・・・・」

「それが間違えているんだ、馬鹿野郎。いいか、俺はお前のパートナーなんかではないんだ。よく聞けよ、お前はローソン帝国を構成するダイムラー部門の技術責任者に過ぎないんだ。お前のボスはわしで、ここではボスの命令は絶対だ。デイムラー車の技術用語は全部英語にすること。これはボスの命令だ、わかったな!」

ローソンのあまりの剣幕におびえてしまったパウルは、「わかりました」と答えるのが精一杯であったが、これで終ってしまったら、主人と従者の関係がこれから先ずっと続くことになりかねない。
言うべきことはしっかり言っておかなくてはと思い直し、勇気を振り絞って自分の意見を述べることにした。
「ローソンさん。第二点に関して僕の想いを知って欲しいと思うのです。僕にとってダイムラー、いやデイムラーは唯一絶対のブランドです。これが成功しないということになれば、自分の存在そのものが否定されることになりますので、そのつもりで仕事に取り組むことを知っておいてください」
パウルは、この発言に対してもローソンから猛反発がくることを覚悟したが、以外にも表情はさっきより柔和になったのである。

「第二の点に関する、お前の見解はよくわかった。俺とお前では立場が違う。お前はデイムラーのことだけを考えればよい。そして、デイムラー車が売れるようにすることがいちばん大切だと思うことは決して悪いことではない。しかし、さっき言ったことは、わしの立場に立った見解だが、これを決して忘れないように仕事をすることだな。わかったら、さっそく今日から仕事にとりかかってもらおうか」

デイムラー社におけるパウルの最初の仕事は、マイバッハが開発した気化器やボッシュ製電気点火装置など最新技術を盛りこんだ、排気量1.5リッター直列2気筒エンジンが載せられていた新型車の組み立て生産をすることであった。
最初の頃は、多くの部品はドイツから輸入されたが、パウルはイギリス製で代替できるものは積極的に使用するようにし、〈デイムラー/PD〉はイギリスのデイムラー社製国産自動車として、徐々に認知されて行き、イギリスのお金持ちから支持を受けるようになったのである。

(「45話」はここまで)


45話.パウル・ダイムラーの苦悩〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ロベルト・ボッシュ:1861年生まれ。部品メーカーのボッシュ社を創業したドイツ人。
■ゴッリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ダイムラー社の創業者社長。
■パウル・ダイムラー:1859年生まれ。ゴットリープ・ダイムラーの長男で技術者。


 ロベルト・ボッシュが創業したボッシュ社は、高性能エンジン点火装置で発展した 


Bosch,Rober①t第一巻045話
〈ボッシュ社を創業したロベルト・ボッシュ〉

19世紀末のドイツでは、自動車メーカーばかりが誕生したわけではない。
自動車を構成する部品製造業者もあちこちで誕生した。
そのひとつが、世界最大級の自動車部品メーカーになっているボッシュ社であり、この会社の創業者はロベルト・ボッシュという。

1861年、ドイツの農村でビール醸造業と旅館を営む両親の間で、2人目の子供として誕生したボッシュは、学校を卒業すると職人の徒弟になり、毎日親方から技術の指導を受けて成長した。
20歳になると国民の義務として兵役に従事し、退役後は仕事に就いたが、ここで基礎学力の不足を痛感することになり、夜は工科大学でエンジニアリングの全てを学ぶことになった。

23歳になったボッシュはアメリカ合衆国に渡り、多くのことを身に付けて帰国し、かねてから念願の機械と電気器具の設置と修理を営む会社を設立した。
ボッシュは自分の会社の発展を願ってがむしゃらに働いたが、無念にも倒産の危機にさらされることになり、せっかく採用した従業員の半数以上に解雇を告げるという、つらい体験もした。

19世紀末のドイツはガソリン自動車の黎明期であった。
ゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツという自動車のパイオニアたちが、エンジンづくりでいちばん苦労していたのが点火装置であり、多くの自動車技術者にとっては頭痛の種となっていた。

この解決に向かって、種々の装置が考え出されたが、主流はバーナーでパイプを熱くし、それを点火のきっかけにするやり方で、赤熱管点火装置と呼ばれていた。
このやり方は、タイミングを誤ると始動時にケッチンをくらったり、ひどい時には火災事故まで引き起こす危険があった。

エンジン点火のもうひとつの手法として、マグネット方式というのがあった。
この方式がうまく動くためには装置の精密さが求められていたが、現実は信頼性の低い装置しかできなかった。

このような状況にあって、エンジンの点火装置に関する相談を受けることが多くなったボッシュ社は、マグネット点火装置に可能性を見いだし、会社をあげて研究を重ねて、とうとう信頼性の高い装置をつくり出すことに成功した。

この画期的な新製品は関係者の注目を集め、1897年にフランスのド・ディオン・ブートン社、1900年にはダイムラー社というように採用が相次ぎ、ボッシュ式点火装置は高品質という定評が確立し、フランス、イギリス、イタリアというヨーロッパばかりでなくアメリカ合衆国へも輸出されるようになった。

ボッシュ自身は発明家ではなかった。
しかし経営者として技術に関する評価眼を持っていた。
そして強いリーダーシップを発揮し、ボッシュ社は自動車部品メーカーとして20世紀に向かって着実に地盤を形成するのである。




 国際戦略に熱心なダイムラー社は、アメリカ、イギリス、オーストリアへ進出を図った 


ゴットリープ・ダイムラーはアシスタントのウィルヘルム・マイバッハと力を合わせて、世界で最初となるガソリンエンジンで動くオートバイを製作して以降、馬車型の4輪車、シュタールラートワーゲン、リーメンワーゲンというように新型車を開発し続けていた。

この間、新車開発という経営の基本戦略をめぐり、銀行出身の経営陣との対決というごたごたによって、ゴットリープ・ダイムラーはダイムラー社を飛び出した時期もあったが、イギリス人のフレデリック・シムズの仲介によってダイムラー社に復帰して、再び事業の拡大への陣頭指揮を執っていた。

ゴットリープ・ダイムラーは技術者でありながら、その一方では海外戦略に積極的に取り組み、アメリカ合衆国ではピアノ王として有名なウィリアム・スタインウェイと合弁企業を、イギリスではハリー・ローソンと共同してデイムラー社を設立したりしていた。


1866年の〔プロイセンVSオーストリア〕戦争で完敗したオーストリアでは民族蜂起の嵐が吹き荒れ、中でもハンガリーの独立運動を抑えることができなくなって、オーストリアハンガリーが出現した。

首都ウィーン郊外で蒸気機関を生産しているフィッシャー兄弟機械製作所という会社は、19世紀末になって自動車分野への新規参入を考えた。
ところが、自社には自動車を熟知している技術者がひとりもいなかったので、ドイツのダイムラー社から技術指導を受けたいと思って、ライセンス生産の許諾交渉が行なわれることになった。

この結果、フィッシャー兄弟機械製作所はダイムラー社の資本を受け入れることによって、オーストリアハンガリーでの独占的な営業権を許され、会社名をオーストロダイムラー社に変更することになった。(オーストロはオーストリアの意味である。)

正式な契約が完了したら、さっそくエンジンなど主要部品をダイムラー社から輸入してノックダウン方式で自動車の生産にかかり、1899年に“オーストロダイムラー”ブランドの1号モデルとなるガソリンエンジン車が完成した。

(金曜日の〔45話:後編〕に続く)


44話.アウグスト・ホルヒの独立〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ユリウス・ガンス:1860年頃の生まれ。ドイツ人でベンツ社の営業部門責任者。
■アウグスト・ホルヒ:1868年生まれ。ドイツ生まれのベンツ社の若手自動車技術者。
■エドムント・ルンプラー:1872年生まれ。ネッセルスドルフ社で働くチェコ人技術者。


 アウグスト・ホルヒはベンツ社で技術を磨いた後に独立し、ホルヒ社を創業した 


ユリウス・ガンス常務からアンチ社長同盟の仲間に入るように要請を受けたアウグスト・ホルヒは、今夜の誘いの意図をはっきり理解した。
それがゆえに、この要請を受けるのか断るのか、自分の考えを表明せざるを得ない状況にあることはわかったが、答えはまとまっていなかった。

今日のところは、あいまいな返事しかできないと考えた。
「ガンスさんのお考えはよくわかりました。しかし、会社の将来のことを考える以前に、俺自身の将来を考えなくてはなりません。今日のご要望に対してどう答えを出すか、1カ月の時間をください」

ガンスは、思ってもみなかったホルヒの言葉をビールの苦さとともに味わうのであった。

このように、19世紀末までの15年間、世界中のガソリンエンジン車産業の中心に位置づけられているベンツ社では、会社内部での不協和音がだんだん大きくなり、20世紀での発展への暗雲が垂れ込めていたのである。


ベンツ社の新車開発業務において、その実力をいかんなく発揮してきたアウグスト・ホルヒであるが、カール・ベンツ社長の長男オイゲンが技術担当専務として就任したことによって、それ以前からやもやしていたものが一気に表面化して、この会社で仕事をすることに嫌気が差すようになっていた。

そんな時に、ユリウス・ガンス常務に声をかけられてビアホールで話を聞いたら、多数派工作のために誘ったのだとわかったので、ガンスを支援する気持ちもなくなってしまった。
だからといって社長とオイゲン専務を支援するわけでもなく、しばらく悶々とした日々を過ごすことになった。


ベンツ社に入社して以降、たくさんの自動車技術を学び、そして新技術を身につけて新車開発に携わり、若手技術者のリーダーとして順調にここまでの人生を歩んできたホルヒに、幸運の女神が降り立った。

ホルヒの技術を見込んでスポンサーがつき、独立して自動車ビジネスをやらないかと勧められ、自動車の修理や整備をメイン事業とするホルヒ社が1899年11月に設立されることになった。

こうして新しい会社がスタートしたが、自動車修理業で満足するようなホルヒではない。
なんとか自分のオリジナル車ができないかと考えて、設計図を引き、夢中になって試作を重ね、20世紀でのドイツ自動車業界の覇者たらんと目を輝かすのである。




 チェコの地でネッセルスドルフ社のエドムント・ルンプラーはプレジデントを製作した 


次の話の舞台はオーストリアである。

オーストリアは典型的な多民族国家である。
1848年の3月革命は、諸民族の自立への刺激剤となり、各地の民族運動を顕在化させるきっかけとなった。
1866年の〔プロイセンVSオーストリア〕戦争で完敗したオーストリア政府を襲ったのは、この機に独立を勝ち取ろうとする各地の民族蜂起であった。
中でもハンガリーの独立運動を抑えることができなくなって、妥協の産物として、君主と外交・軍事・財政は共通するが、内政は別とするユニークな体制のオーストリアハンガリー帝国という奇妙な国家が出現した。

この当時チェコの地は、オーストリアハンガリーに支配されていた。
チェコ地方のネッセルスドルフという所で馬車製造業をやっていたネッセルスドルフ社は、当地で鉄道が開通するようになったので鉄道車両をつくるようになり機械工学技術を蓄積していた。

1890年代の後半に入ると、ドイツやフランスの自動車がチェコの地でも見かけられるようになってきた。
チェコで走るクルマは外国車ばかりとなってしまうという危機感から、自社技術で国産自動車をつくろうという気運がこの会社で生まれてきた。

そこで、ベンツを手本にしながらも、自分たちの技術を積み重ねて1897年に完成したのが、排気量2.7リッターのベンツ製2気筒エンジンを後部に搭載する“プレジデント”である。
エンジン以外の部品は、すべて自社技術で開発されたこのクルマは、ネッセルスドルフ社としての1号モデルであると同時に、オーストリアハンガリーでの初の国産自動車の出現となった。
このプレジデントの完成に大きな役割を果たしたのはエドムント・ルンプラーという技術者であった。


Nesselsdorfer1下44話
←“ネッセルスドルフ”のブランドマーク

この時代、チェコでも自動車レースへの関心が高まっていて、当地で紡績業を営んで大成功した富豪から、レース専用車を開発して欲しいという要請が会社にきた。

ルンプラーを中心とする技術陣は、さっそく準備に入り、走行スピードアップという一点に集中した研究を進めて、自社開発エンジンのチューンアップによって、レース専用車を完成させたのである。

このクルマは1900年春に、発注主である富豪の所に届けられ、6月に開催された第1回目のザルツブルグ国際ロードレースに出場したところ、優勝は逃したものの2位に入ることができて、チェコ域内ばかりでなく、ヨーロッパの先進諸国の自動車業界からネッセルスドルフ車は注目されるようになったのである。

(「44話」はここまで)



Rumpler,Edmund①第一巻044話
〈レース専用車をつくったエドムント・ルンプラー〉






44話.アウグスト・ホルヒの独立〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ユリウス・ガンス:1860年頃の生まれ。ドイツ人でベンツ社の営業部門責任者。
■アウグスト・ホルヒ:1868年生まれ。ドイツ生まれのベンツ社の若手自動車技術者。
■エドムント・ルンプラー:1872年生まれ。ネッセルスドルフ社で働くチェコ人技術者。


 ベンツ社長、フィッシャー専務、ガンス常務というベンツ社のトロイカ体制が敷かれた 


1886年にガソリンエンジン車を開発して以降、世界の自動車業界のリーダー企業になっているベンツ社の経営体制は、カール・ベンツ社長と、内務を取り仕切る温厚なフリードリッヒ・フィッシャー専務、それに営業を担当し常務に昇進したユリウス・ガンスというトロイカ体制で経営が推進されていた。

順調な発展が続く中で、カール・ベンツは自分の年齢を強く意識するようになり、息子にこの会社を継がせることを、周りの人間にわかってもらおうと考え、長男のオイゲンを一気に専務に引き上げた。

このことは、ナンバー3というガンス常務の位置づけがナンバー4に変わることを意味していて、会社に貢献しているという自負心が強いガンスは、内心ではおもしろくないものを感じるようになった。


Ganss,Julius第一巻044話
〈ベンツ社の営業を牛耳るユリウス・ガンス〉




1899年夏、ユリウス・ガンスは39歳という働き盛りにあった。
この年は春先からベンツ車の売込みでフランス、イギリス、そしてアメリカ合衆国という3国に行きっぱなしで、久方ぶりにドイツに帰国して1週間が経ったばかりであった。

そんなある日、仕事が終わったタイミングを見計らって、ガンスは新車開発を担当しているアウグスト・ホルヒを行きつけのビアホールに誘ったのである。この時、ホルヒは31歳になっていた。

地元産ビールがウェイターの手によって運ばれ、今にもあふれんばかりに注がれた大ジョッキで2人は乾杯した。

「ドイツのビールは最高だね」
ガンスの言葉には、実感がこもっていた。

「世界中で売り込みに奔走していらっしゃるガンスさんの意見として、ビールの味はやはりドイツがいちばんですか」
学生時代にイギリスに行ったことがあるホルヒは、ビールといってもお国柄でまったく味が違うことは知っていた。

「食事とアルコール飲料の組み合わせは、その民族の文化そのものといえるが、ことビールに関してはドイツがいちばんだな。ところで、ホルヒ君。仕事の方は順調にいっているかい」

「おかげさまで。最近の新車開発に関しては、ベンツ社長が以前ほど意見を言わなくなりましたので、少しやりやすくなりました。今年出した前進4速トランスミッション付きの“スパイダー”では、俺たち若手技術者の要望をたくさん取り入れていただきました。また、現在販売準備中の“トノー”に関しては、フロントエンジン・リアドライブという当社にとってまったく新しい構造が採用されていますが、この新車では社長の影響力はほとんどなくなっており、その分新しい技術が導入されています」

「それは何よりだ」
相槌をうったものの、今日はホルヒから不満の種を引き出そうと考えていたガンスは、少し拍子抜けをした。

「ガンスさん。社長の影響力が少なくなったのは好ましいことですが、最近、別の問題が発生しつつあります」

やっぱり来るべきものが来たかと、ガンスはほくそ笑んだ。
「それは、長男のオイゲンのことだろう」

「図星ですよ、ガンスさん。さすがですね。オイゲンはまだ自動車技術がわかっていないくせに、専務という自分の立場を前面に出して、5年先輩の俺の仕事に口出しするようになってきて困ることが増えているのです」

今日のうちに、ホルヒを自分の陣営に引き入れようと考えていたガンスは、さっそく思う壺の意見を聞いて嬉しくなったが、表情に表わすことはなかった。

「そうなんだよな。ホルヒ君も知っているように、うちの会社はベンツ社長、次いで内部統括のフィッシャー専務、それに営業担当の自分というスリートップ体制で経営を担っているように見えるが、その実態は、社長がいなくても経営できるように、この数年でフィッシャーさんと私で近代化を進めてきたのだ」

「その点は、多くの社員は知っていますよ」

「そこに、ベンツ社長が強引に長男のオイゲンを専務に引き上げたことで、自分たちの間にあったバランスが崩れてしまったのだ」
ガンスは、ため息混じりに現状を憂いているように見えたが、その実は社長の横暴を告発している厳しい見解であった。

「ここのところ、フィッシャー専務はお休みになっていますよね」

「フィッシャーさんは当社の組織体制が旧態依然としている現状を打破しようと多面的な考察を重ね、組織改定案を取りまとめている最中に病気になってしまったのだ」

「もし、フィッシャー専務が復帰できなくなると、ベンツ社長がトップで、次がオイゲン専務、そしてガンス常務という体制になるということですか」
かねてよりベンツ社長のクルマづくりの思想に共鳴できないものを感じていたホルヒは、そんな事態に陥ったら自分にとって一大事になるという危機感を強めていたので、ガンスに問いただすことになった。

「そんな馬鹿なことがと思うが、それが当社の現実なのだ」
ガンスのクールな返事を聞いて、ホルヒは会社の将来が心配になってきた。




 ベンツ社では、J.ガンス常務とC.ベンツ社長との間で経営路線の違いが表面化した 


ベンツ社の営業を一手に引き受け、売上拡大に奔走しているユリウス・ガンス常務はアウグスト・ホルヒを、行きつけのビアホールに誘って、その腹の内を探っていた。

既に、大ジョッキは飲み干し、注文してあったソーセージとジャガイモが2杯目のジョッキとともに運ばれてきた。さっそく、ガンスはそれをつまみ始めたら、ホルヒが息巻いていた。

「ガンスさん。オイゲンの専務昇格の件は、未だ社員は納得していませんよ。だいたい、20歳代の後半に入ったばかりの息子を、経営陣に無理やり押し込むこと自体が間違っていると思いませんか」
ホルヒの社長批判の舌鋒は、だんだん鋭くなってきた。

「私も社長には、何度か話したのだが、聞き入れてもらえなかったのだ」

「社長も既に50歳台に入っていて頭が固くなってしまったに違いありません。会社を私物化することは許されませんよね、ガンスさん」
アルコールがホルヒの舌の運びをさらに滑らかにした。

「ホルヒ君。うちの社内には生産体制の革新という問題もあるのだ。私はかねてより、価格競争力を強めるために生産体制の合理化を役員会で主張しているのだが、品質を支えるためには職人技術を大切にする生産方式を維持することしかないと信じているベンツ社長が必ず反対するので、一歩も前に進めないのだ」

「ガンスさん。実際、生産の現場では、長年仕事をやっている職人の親方がすごい権力を握っているので、俺たち学校で学んできた若手技術者の意見はなかなか取り入れてもらえないんです」

「うちの職人たちは確かに腕は一流だが、頑固で融通がきかないからな。この生産合理化問題に関して、私が役員会で意見を繰り返すものだから、社長は私の存在を煙たく思い始めているようだ」


ガンスは、ベンツ社長と自分の対立が役員間でシリアスになっていることをホルヒに知ってもらい、自分をバックアップして欲しいと期待していた。

「当社が今日あるのはガンスさんのおかげだということで、若手社員はガンスさんを応援していますよ」

ガンスはホルヒの言葉を聞いて安心し、ここは後一押しが必要だと考えた。
「自慢するわけじゃないが、1895年に年間135台であったベンツ車の売上台数が、ここのところ毎年100台単位で伸びており、今年は年間500台突破が実現できそうな勢いだ。フランスやイギリス向けの輸出台数が国内販売より多くなっているという事実があることだから、社長も営業力をもっと評価して欲しいと思うのだが、何ぶん品質しか関心がないのだから、困ったことだ」

ガンスが蒔いた火種は、ベンツ社長に対するホルヒの反発心によって火炎になってきた。
「ガンスさん、会社の実情はよくわかりました。根本的な問題を解決しないと、ベンツ車は競争に負けてしまう恐れがあります。ガンスさん。いったいどのようにして、この問題の解決を図ろうと考えているのですか」

ホルヒの質問はあまりにストレートであるが、本質を突いているのは確かである。これにどう答えるか、ガンスはしばし沈黙した後に声を潜めた。
「ホルヒ君。ここだけの話だけど、私は会社のために行動を起すことを考えているのだ」。

「行動とはどんなことですか」
興味津々のホルヒが質問を重ねた。

「実はホルヒ君と同じ考えを持っている社員は他にもたくさんいるのだ。この人たちの総意を何らかの形で、社長に伝えるつもりなのだ。そこで君にもわれわれの仲間に入ってもらいたいのだ」
何だか秘密結社のような話になってきたことに、ホルヒは困惑を禁じえなかった。

(金曜日の〔44話:後編〕に続く)