3話.産業革命の始まり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エイブラハム・ダービー:1677年生まれ。コークスを燃料に使う製鉄所経営者。
■ジョン・ケイ:1706年生まれ。飛杼を使う織機を開発するイギリス人技術者。
■リチャード・アークライト:1732年生まれ。水力紡績機を発明するイギリス人。
■アダム・スミス:1723年生まれ。“古典派経済学の始祖”と呼ばれる経済学者。


 ダービー卿が石炭コークス製鉄法を開発したことによって、産業革命は進展した  


産業革命では製鉄業が果たした役割はきわめて大きかった。
そこで、製鉄の基本となる技術が、どんなふうに進化したかを学ぶことにしよう。

“鉄”をつくるという仕事は紀元前1000年以前にトルコの地で始まり、紀元前800年頃にヨーロッパ大陸に伝わったといわれている。
純粋な鉄はやわらかく、ハンマーなどで圧力を加えると、よく伸びて薄い板になるが、もろいので実用性はさほど高くない。
そこで、これを強くするために、適量の炭素を加えて“鋼”という合金にする技術が必要となった。
炭素の量は、多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
この炭素の量を適量混合することが実に難しかった。

中世以前では、鉄鉱石を高温で溶解して鉄分を分離する際に、充分な高温まで上昇させる技術がなかったので、錬鉄(れんてつ)という半溶解状のものしか製造することができなかった。
それでも、錬鉄のうち、炭素を多く含んでいたものをハンマーでたたき上げて鍛造することによって、刃物として強靭な性質を持たせることは経験的に知っていた。
16世紀のヨーロッパのライン川中流地域において、高炉(といっても高さ10メートルほどのものであるが)を設置して、原料となる鉄鉱石を燃料となる木炭とともに投入して溶解状の銑鉄(せんてつ)をつくる、“高炉法”という新しい製鉄技術が開発された。

高炉法は、瞬く間に産業革命勃興期のイギリスで普及したが、問題が発生した。
旺盛な鉄鋼需要を満たすために燃料となる木炭が大量に必要となり、森林の伐採が進んで資源が枯渇してきたのだ。
この状況を危惧したイギリス政府が、森林資源保護のために木炭使用量に制限を加えたため、製鉄産業は木炭に代わる燃料による製造法を開発しなくてはならなくなった。

イギリスでは、新しいエネルギー源として石炭に注目が集まり、燃料を石炭に代えてみたところ、多くの難問が発生して高品質な鉄鋼製品を製造することができなかった。
これを解決したのはエイブラハム・ダービーという人物である。
ダービーは石炭をそのまま使うのではなく“コークス”という状態にして使うことを考えた。
コークスとは、石炭を不完全燃焼させて、硫黄その他の揮発性成分を追い出した後に残った、穴がいっぱいあいている塊のことである。
ダービーはコークスを燃料として使用しても、木炭に負けない品質の銑鉄ができる技術を1709年に開発した。
その後、高炉法とコークス精錬技術を組み合わせた技術として、1784年に“パドル法”がヘンリー・コートによって開発され、大きな前進を見ることになった。
これらの技術改善によって安くて品質のよい鉄鋼製品が市場に供給され続けたので、燃料となる石炭需要はうなぎ登りに上昇を続けるのであった。


Darby,Abraham1上003話
〈コークスを生み出したエイブラハム・ダービー〉







 イギリス人アダム・スミスは近代資本主義の原点となる思想を『国富論』で発表した 


このような時代の大きな変化をどう考察したらいいのか述べ、近代資本主義理論を打ち立てたのがアダム・スミスである。
イギリスにおける市民社会の出現が、ヨーロッパにおいて初めて生まれた近代社会であると規定して、誕生しつつある“資本主義”社会をどのように理解したらいいかを『国富論』(1776年刊)で論じたスミスは、「国民の富の源泉は労働にある。
したがって、経済発展の根本には労働の生産力向上が欠かせない」ことを明らかにし、経済メカニズムを説明しようとしたのである。
そして、労働生産力の向上を生み出すのは、各人の自己実現意欲であるとして、自己実現の表現である“自由競争”を大切にするように主張した。
スミスのこの思想は、この時代に急成長しつつあった市民階級の経済行動を理論的に裏打ちするものとなり、資本主義経済発展に大きな影響を与えることになった。

(「3話」は、ここまで)


Smith,Adam1上003話
〈資本主義の原理を主張したアダム・スミス〉



3話.産業革命の始まり〔前編〕

《 主な登場人物 》
■エイブラハム・ダービー:1677年生まれ。コークスを燃料に使う製鉄所経営者。
■ジョン・ケイ:1706年生まれ。飛杼を使う織機を開発するイギリス人技術者。
■リチャード・アークライト:1732年生まれ。水力紡績機を発明するイギリス人。
■アダム・スミス:1723年生まれ。“古典派経済学の始祖”と呼ばれる経済学者。


 イングランドとスコットランドが大合同したイギリスは、ヨーロッパの最強国となった 


本書ではこれから、18世紀の中頃からイギリスで発生した産業革命の嵐が、ヨーロッパ大陸に渡ってフランスやドイツでも吹き荒れるという話が語られる。
産業革命を理解するには、当時のヨーロッパ先進国であるイギリスとフランス、そしてこれら2国に大きく遅れていたドイツの国情がどうなっていたかを把握しなくてはならないので、イギリスの政治経済から話を始めるとしよう。
17世紀の中頃までのイギリスは、イングランド王国とスコットランド王国が争っていて、まだ強国となっていなかった。
それまでの強国はスペインだったが、この頃から急速に没落し始めて、海洋貿易に強いイギリスに強国になるチャンスがやってきた。
これにルイ十四世の指導力で実力を蓄えたフランスが登場し、両国による覇権争いが始まった。

イギリスが大国になるきっかけとなったのは、イングランドとスコットランドという両王国が統一されて“大英帝国”(本書での国名表記はイギリスで統一)が誕生したことである。
新たに生まれたイギリスの王室が賢明だったのは、国王が絶対権力者となる王制にこだわらないで、立憲君主制をつくり上げたことにある。
この新しい仕組みは、法制機関である議会が機能することと、行政の最高機関である内閣が国政に当ることが組み合わされた政治制度であり、国王は名目的、儀礼的存在であって「君臨すれど統治せず」という立憲君主制の基本がイギリスで確立した。
こうして着実に力をつけてきたイギリスと、ヨーロッパの覇権を狙うフランスとの間で熾烈な闘争が始まることになったが、イギリス優位を決定づけたのは1756~63年の〔プロイセンVSオーストリア〕戦争だった。


オーストリアは長い間ハプスブルク家が支配している王国であり、積極的な婚姻外交によって、ヨーロッパ中に血縁ネットワークができあがり、東ヨーロッパの広大なエリアを支配していた。
このハプスブルク家に対抗する勢力になってきたのがホーエンツォレルン家であり、この一族が支配している国家がドイツ北部エリアのプロイセンである。

オーストリアとの戦争が始まり、いったんは敗戦寸前まで追い込まれたプロイセンであるが、イギリスからの支援がやってきた。
これで反攻に転じるきっかけをつかみ、フランスのブルボン王家の支援を得てきたオーストリアとの7年間にわたる戦争に決着をつけることができた。

この〔プロイセンVSオーストリア〕戦争の後、敗戦国オーストリアのハプスブルク家とこれを支援したブルボン家は共に弱体化し、その一方で戦争勝利によってホーエンツォレルン家のプロイセンは大国にのしあがった。
戦争終結に伴って締結されたパリ条約で、フランスは今まで蓄積してきた北アメリカ、インド、アフリカにおける利権の多くを失い、代わってこの受け皿になったイギリスの存在が急浮上してきたのである。


この時代のイギリス社会は、貴族や大地主が支配する封建社会であった。
人口の大多数は農民であり、多くの農民は地主から仕事をもらい小作農として細々と暮らしていた。
都市部に手工業がないわけではなかったが、組織的に活動する企業とは程遠く、親方とその弟子というように上下関係がはっきりしている徒弟制度をベースとした繋がりばかりであった。
このような社会構造は、フランスやドイツといったヨーロッパ大陸の国々もほとんど同じ状況にあった。



 地球上のあらゆる体制の大変革を促す産業革命は、小さな織機の開発から始まった 


糸を紡ぎ、布を織ることは、太古の昔から人々が生活するうえで欠かせない仕事である。
布は、たて糸とよこ糸を織り合わせたものであるが、これをどのような道具で効率的に織ったらよいかということは、文明ができてから人類が抱えていた共通のテーマであった。
ところが、一見簡単そうな技術が、18世紀まではまったくといっていいほど進歩することはなく、世界中どこでも原始的な手織り方式が続いていた。

この問題の突破口を開くことに成功したのはイギリス人のジョン・ケイであって、1733年に飛杼(とびひ)をつかう織機を開発した。
この織機は、それまでよこ糸を動かす杼(英語ではシャトルという)をいちいち手でたて糸の間を行ったり来たりさせていたものを、引き綱を引くことによって自動的に左右に走らせるようにした新しい仕組みで、それ以前のやり方から比べ飛躍的な能率アップをもたらした。

こうして布を織ることは、18世紀に入って前進をみたが、糸を紡ぐ技術も18世紀後半から改良が進んだ。
1767年にジェームス・ハーグリーブスが開発したジェニー紡績機では、新方式が採用されて格段に能率が上がった。
これによって仕事を奪われると感じた糸紡ぎ労働者から、ハーグリーブスが迫害を受けるという事態が発生した事実から見て、当時の世相では衝撃的な発明であったことがうかがわれる。
翌々年にリチャード・アークライトが水力紡績機を発明したが、この機械は工程の連続化、熟練の不要化など、今日の産業において常識となっている考えが導入されており、イギリスの産業界に与えた影響は大きかった。

アークライトが発明した紡績機の威力によって、糸は効率的に大量生産できるようになって有り余る状態が出現したのに対し、糸を使って布に織る織物工が不足していることを知って、エドムンド・カーライトは手回しするだけで織物ができる力織機を1785年に開発した。
このような繊維産業の近代化は、イギリスの経済社会構造の変革に大きなインパクトを与え、やがてそれは“産業革命”という歴史に残る大きなうねりになってゆく。

(「3話」は金曜日に続く)


Arkwright,Richard1上003話
〈水力紡績機を発明したリチャード・アークライト〉






2話.馬車と道路の発展〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ユリウス・カエサル:B.C.100年生まれ。英雄ジュリアス・シーザーの本名。
■ルドルフ・アッカーマン:1795年生まれ。馬車の舵取り装置を発明するドイツ人。
■ルイ十四世:1638年生まれ。フランス国王(在位1643~1715年)。


 ヨーロッパ第一の経済大国となったフランスに国立の道路橋梁学校が設立された 


LouisⅩⅣ1上002話
〈“太陽王”と呼ばれたルイ十四世〉









17世紀に王権が強化されてヨーロッパ第一の経済大国となったフランスは、道路の建設に力を入れた。
“太陽王”といわれたルイ十四世は土木技術の専門家を登用し道路の建設に当らせた。
1747年には道路橋梁(きょうりょう)学校を設立して、土木技術者の養成を行った。
そしてこれら専門技術者の指導のもと、住民を多数徴用して道路整備に努めた。
18世紀に入る15年ほど前には、全長延べ4万キロにわたる馬車の通行可能な幹線道路ネットワークがフランスにできたのである。

ところが、1789年のフランス革命の結果、それまで国王に所属していた多くの技術者たちは外国に亡命してしまった。
そのため新政府は短期間に多くの技術者を養成する必要に迫られた。
そこで、身分に関係なく優秀な人材を集めて高度技術者を養成する学校として、1796年に“エコール・ポリテクニク”が設立された。
この頃から、フランスでは多くの科学分野が学問として体系化され、この学校で基礎的科学教育を受けた後、より専門性が高い土木学校や鉱山学校へ進学するという教育体系ができあがったという。

そして、フランスの道路は10世紀ぶりにローマ時代のレベルに回復し、それを凌いだと考えられる。
周辺諸国であるベルギーやオランダもフランスに倣って道路の建設に力を入れるようになり、アルプス越えの道路も18世紀末には馬車が通行可能な幅に広げられ、そこを郵便馬車が通うようになった。



 ヨーロッパ諸国では発明者を保護する特許制度が整って、近代工業化が促進された 


002話馬車の完成した形
〈馬車の完成した形〉

19世紀に入った頃から、馬車は著しい進歩を遂げることになる。
そのひとつは、走行上の衝撃を吸収する装置の開発であって、リーフスプリングの強度アップが図られ、馬車の走行スピードはアップした。

この他に、もうひとつ解決しなければならない難問があった。
この時代の馬車構造は、馬がカーブを切っても車体は直進しようとするので、内輪となる車輪にブレーキをかけて外輪を回さなければならなかったから、走行しながらカーブを切ることは極めて難しかった。
そこで、スムースにカーブを切ることができるように、舵取り装置を開発することが必要となった。

この問題を解決したのは、キングピンの発明である。
2つの前輪中央部に大きくて強固な止め金具(これを王様の意味をこめてキングピンと呼称する)をつくって、前輪を支える車体の中心点をキングピンの上に乗せるのである。

その後、キングピン方式を改良して、もっと効率の良い舵取り装置ができないかという技術者の挑戦が続いたが、この突破口を開いたのはルドルフ・アッカーマンという男であった。
アッカーマンは、キングピンを車軸の中心ではなく、車軸の両端に2つ置くことを考えた。
そして前輪の車軸は動かないように固定して、車輪だけを動かす工夫を重ねた。
新しい仕組みは、車軸に対して平行四辺形になるようにステアリング専用の装置を設置し、車軸と並行となっている棒を動かすことによって、車輪を左右に動かせるという仕組みであった。

これは、後に自動車に応用されるようになり、“アッカーマン機構”と呼ばれて、現代のクルマにも用いられている優れた考えであり、今から約200年間遡る1817年に、アッカーマンによって特許が取得されているのだ。


Ackermann,Rudolph1上002話
〈優れた舵取り装置を発明したルドルフ・アッカーマン〉







『クルマの歴史物語』では、随所に特許の話が出てくることになる。
特許とは、個人および企業が発明したモノ(コト)の利用に関して、その国の監督機関が、発明者またはその継承人に対して独占使用権を設定することをいう。
特許制度は、ルネッサンス以降、北部イタリアに発達した都市が各種の商業上の特権を、限られた大手商人に与えたことから始まったといわれている。
その後、特許状を特定の人に付与することによって、特許料収入で権力者の財政をまかなうという知恵が生まれた。

イギリスにおける専売条例は近代特許法の先駆けといわれており、保護制度を整備したことで、イギリスの近代工業化が促進したとも考えられる。
イギリスから保護制度の重要性を学んだヨーロッパ諸国は、パリで開催された初めての万国博覧会を契機に話し合いを進め、工業所有権保護同盟条約を締結することになったが、これによってヨーロッパ諸国に共通する特許制度が普及することになった。

(〔2話〕は、ここまで)


2話.馬車と道路の発展〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ユリウス・カエサル:B.C.100年生まれ。英雄ジュリアス・シーザーの本名。
■ルドルフ・アッカーマン:1795年生まれ。馬車の舵取り装置を発明するドイツ人。


 ローマの英雄ユリウス・カエサルはヨーロッパ中に道路網を張り巡らすように命じた 


現代社会では自動車の発達と道路は不可分の関係にあるが、古代では道路の概念が明確ではなかった。
そもそも“道”は太古の昔から、それこそ人が誕生する以前から存在していた。
獣道(けものみち)といわれるものがそれであるが、人類の誕生とその成長に伴って道の重要性は増してくる。
しかし単なる道ではなく、人間の営みとして欠かせない“道路”にするまでには多くの時間を必要とした。

道路という概念が国づくりに大変重要な意味を持つ、と考えた最初の人類はローマ人であった。
紀元前3世紀前に完成したアッピア街道以降、着々と首都ローマを中心とした道路網を形成して、車と道路を組み合わせた陸上交通の基本フレームがほぼ完成をみたと思われるが、その範囲はローマの支配が及ぶイタリア半島の中部以南地域に限られていた。
ローマの領地を、北イタリアに、さらに現代のフランス、スペイン、ドイツなどのヨーロッパ各地に広めたのは、英語名のジュリアス・シーザーとして有名なユリウス・カエサルである。


Caesar1上002話
〈ローマの英雄ユリウス・カエサル〉








当時ヨーロッパにはガリア人やゲルマン人など、その土地の先住民が住んでいて、各々の伝統的な生活を営んでいた。
このうちガリア人というのは、現代のフランス、ベルギー、スイスを中心に住んでいた人類でローマ人が命名した民族である。
一方、民族大移動以前の古代ゲルマン人は、現在のドイツ、オーストリア地域に住んでいた。
これらの先住民に勝利してローマの支配下においたカエサルが最初に取り組んだ仕事は、ローマに通じる道を敷設することであった。
こうして、「すべての道はローマに通ず」といわれる道路ネットワークが、今から2千年ほど前にヨーロッパの地で誕生したのである。


このように、道路はローマ時代に発展を遂げたわけであるが、今から振り返ってみれば道路の充実度に関してはローマ時代がピークであった。
カエサルを代表とするローマの為政者たちがあれだけ努力してローマにつながる街道を設置したにもかかわらず、ローマ帝国の崩壊に伴ってローマ街道は道路としての維持ができなくなり、舗装に使われていた敷石は建築資材として剥がし取られてしまった。

こうして中世ヨーロッパの地から道路はなくなり、再び道の時代に戻ることになった。
道路がなくなってしまったので、ヨーロッパ諸都市を結ぶ街道を走っていた2輪や4輪の馬車が姿を見せることは少なくなったが、古代から農民に利用されていた牛車はしぶとく生き続け、農産物や木材を運ぶのに重要な役割を担っていた。
穀物を飼料とする馬と違って、牧草ですむ牛は維持費用がかからないうえに力があるので、農地を耕作したり生産物を運んだりするには貴重な動力であり続けた。



 内陸交通手段として欠かせない馬車は、技術改良が進んで最大の交通産業となった 


ヨーロッパでの馬を使った交通の仕組みとその利用技術の進歩は、ローマ時代から退歩したが、11世紀後半になると交通手段として乗用馬車が復活することになる。
大地主が土地を所有し農家に小作させる荘園制度を基礎とした農業の発展によって、農産物生産量が増加し、農産物ビジネスがヨーロッパ各地で発生し、商人たちによって遠隔地との商取引が盛んになってきた。
この頃の幹線道路は大都市間を結ぶ小石を敷き詰めただけの状態であり、ローマ時代よりも程度が低いが、それでもだんだんと整備されていった。

ヨーロッパにおける乗用馬車の普及は車体構造に新たな改良をもたらした。
そのひとつが、前輪車軸を左右に自由に動かせるようにできる枢軸(すうじく)機構の採用である。
これによって、スピードがでていても車の方向転換を容易にすることができた。
この構造そのものは、紀元前5世紀頃、ヨーロッパ中部で生活をしていた古代ケルト人が開発したものといわれているが、近代的な馬車の構造に採用されたのは15世紀以降のことであった。

車輪そのものもだんだんと改良され、16世紀に入ると徐々に鉄製車輪が普及し始めた。
また、車の振動を緩和するための、鋼鉄のリーフスプリング(重ね板バネ)が導入されたのは17世紀になってからのことである。
板状の鋼鉄を何枚か重ねたスプリングを、車軸との間に取り付けることによって、道路からのショックをうまく吸収することができるようになり、リーフスプリングは乗用馬車に欠かせない重要な部品となっていった。

運転が楽で、乗り心地の良い乗り物への改良は、馬車の利用をさらに広めた。
貴族や大商人が移動するための乗用馬車や荷物馬車に加えて、営業用馬車が出現したのは16世紀の終わり頃のことであったが、17世紀に入ると馬車はさらに普及することになった。
馬車はそれ自体たいへんに高価で、それと同時に御者を雇って馬を飼育するので維持費も高額で、よほどの金持ちしか持てなかった。
この時代のヨーロッパ諸国の階層社会は完全に2層に分化していたが、その2層とは馬車を持てる層と、そうでない層と言い換えることができる。
この持てる層と持たざる層の人口比率は時代と地域によって異なるが、極端な比率で階層が分離していたのが、この時代の特質であった。

商工業の発達に伴って生まれた市民階級のための公共交通機関として最初に出現したのが、17世紀の後半にパリで開業し、運賃均一という仕組みの乗合馬車だった。
2頭立て8人乗りの馬車がパリ市街の5路線を一定の時間間隔で走り始めた。
しかし、この近代的な公共交通機関は、わずかな期間で廃止されてしまったが、この原因は客が少なかったからである。
なぜこんな便利なものが評判にならなかったかと現代人は思うかもしれないが、この当時の仕事場は自宅か、歩いて行ける範囲に限られていた。
また生活に必要な物品の買い物も自宅のすぐそばで済ませていたのである。

(〔2話〕は金曜日に続く)


1話.馬と馬車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ジャレド・ダイアモンド:1937年生まれ。アメリカ人でUCLA医学部の教授。
■ベン・ハー:生年不詳。エルサレムのユダヤ人王子。
■メッサラ:生年不詳。ローマ軍の将軍でベン・ハーの幼なじみ。
■ウィリアム・ワイラー:1902年生まれ。アメリカ人で映画監督。


 シュメール人の円盤車輪に続いてエジプトのファラオはスポーク車輪の開発を命じた 


このようにして家畜に牽引させる乗り物が誕生したが、車輪技術に関して革命的な改良となったのは、スポーク車輪の開発であった。
それまでは木材を3枚組み合わせて円形車輪をつくっていたが、これだと直径を大きくするには限界があるし、一方強度的にも問題が多かった。
そこで開発されたのが、大地と接する木製タイヤの部分と、これを支えるスポーク(車輪の支え棒)、そして車軸の3つの構造に分けて車輪をつくるという考えであって、この新技術を開発したのはエジプト人といわれている。

001話スポーク車輪
〈スポーク車輪〉







紀元前1700年頃、ユーラシアの草原から馬に引かせた戦車でエジプトに侵入してきた謎の民族ヒクソス族から、エジプト人は馬と車両について学んだ。
兵士の操る馬が牽引する2輪戦闘車両には、兵器として大きな破壊力があるということに、最初に気がついたのはエジプトのファラオ(国王)のようだ。
ファラオは戦闘に勝利するために2輪馬車の改良を技術者たちに命じた。
そして、今までより軽くて強く耐久性があるスポーク車輪が開発され、これによって2輪馬車の機動性に革命的な変革をもたらした。
紀元前1550年頃、隣国との戦役で、先頭を切って突撃する戦闘馬車隊のパワーによってエジプトは勝利を収めることができた。
軽快なスポーク車輪で走る戦闘馬車は、戦闘のやり方と軍隊組織の編成を変えたばかりでなく、国家の社会・経済構造にも大きな影響を及ぼし、エジプトでは車両製造業、車輪製造業、工具製造業および馬の飼育業などの新しい職業が生まれることになったのである。



 古代ローマの時代に、カドリガと呼ばれる横に並んだ4頭だての戦闘馬車が活躍した 


機動性のあるスポーク車輪付き馬車は、戦闘には欠かせない。
とりわけ有名なのは、ローマ人から“カドリガ”と呼ばれた横に並んだ4頭の馬に引かれた2輪の屋根なし馬車である。
カドリガによるレースは大衆娯楽の王様になったし、国外での戦闘で勝利に貢献した凱旋将軍は、大勢の供を引き連れてカドリガに乗って華々しくロ-マ市内で勝利パレードをしたものである。


ここで話は変わるが、アメリカ合衆国にアメリカ映画協会(以下、AFIと略)という団体がある。
AFIは1970年に、アメリカ映画文化の歴史的遺産の保護や若き映画人の教育などを目的に設立され、20世紀最後の年である西暦2000年に、“アメリカ映画ベスト100”という企画で、100本のアメリカ映画を選定した。
このベスト100の中で72位に入っているのが、ウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・へストン主演の「ベン・ハー」である。
この映画は公開されるや、たちまち世界的なヒット作品になったので、映画館でご覧になっている人は多いと思うし、テレビで何回も放映されたので若い世代でも見た人はいると思う。
この映画は、イエス・キリストが誕生した頃のローマを舞台にして、ローマの属領になっているエルサレムの若きユダヤ人王子ベン・ハーが、人質として子供の時にローマに預けられていた家で一緒に教育を受けた将軍メッサラとの葛藤を主題としている。

この映画の中に、大競技場におけるカドリガレースでベン・ハーとメッサラが勝負をかける名場面がある。
この映画を見る機会があったら、レースシーンの圧倒的迫力に驚かれることであろう。
このシーンだけでも、この映画を見る価値があると思うのは筆者だけであろうか。

映画「ベン・ハー」では、当時のカドリガがどのようなスタイルをしていて、どれほどの性能を持っていたかがよく表現されている。
伝え聞くところによれば、監督のウィリアム・ワイラーは時代考証を念入りに行い、文献や遺跡から出土したカドリガを参考にして、当時と同じ物を製作することにこだわったそうだ。
そしてレースの撮影には、半年間のリハーサル期間を設け、カドリガレースでは、直線での最高スピードが時速40~50キロは出たという。
ハイスピードと酷使に耐えられるだけの強度構造を生み出す技術が、今から2千年も前に地球上に存在していたのは、本当に驚きだ。

(〔1話〕はここまで)


Wyler, William1上001話
〈名作映画「ベンハー」の監督:ウィリアム・ワイラー〉