16話.蒸気自動車ビジネスの始まり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ゴールズワージー・ガーニー卿:1793年生まれ。蒸気自動車を製作したイギリス人。
■アメデ・ボレー:1844年生まれ。フランス人で、蒸気自動車を開発する鐘づくりの職人。


 アメデ・ボレーはオベイサントに続いて、画期的な構造を持つラ・マンセルを開発した 


パリでのデモンストレーションで華々しいデビューを飾ったオベイサントを街の人々はおもしろがって見物するだけで、これを買ってビジネスにしようと思う人はついぞ現れなかった。

よくよく考えてみれば、バス事業を始めるとなると準備が大変である。
定期運行のために何台ものバスを購入して、運転者を訓練し、お客様に乗ってもらえるように準備活動をしなくてはならないが、こんなことを考える事業家はフランスにいなかった。

オベイサントの失敗があってもボレーはくじけることなく、次の蒸気自動車の設計に取りかかり、“ラ・マンセル”という乗り物を完成させるのである。
これは、2気筒の蒸気機関を前部におき、チェーンで後車軸を駆動するという、史上初のフロントエンジン・リヤドライブ(以下、FRと略)という構造が採用された。

ボレーはこの新型車を1878年に開催されたパリ万国博覧会に出品したところ、人々の反響が凄まじかったので、これならいけるに違いないと生産準備を進めたが、実際に注文がきたのは3台だけだった。

ボレーは1880年に“ラ・ヌベール”という名前の新型蒸気自動車をつくっている。
さらにその翌年に、ひとりで釜たきと運転の両方ができ、時速60キロのスピードが出せる6人乗りの蒸気自動車を完成させたが、これまたボレーが期待したような数多くの注文が入ることはなかった。

この時代、蒸気自動車のボイラーを焚く燃料は石炭であったので、蒸気機関を動かせる状態にするには、30分位前からボイラーで水を熱して蒸気圧をアップさせる必要があり、この欠点のため蒸気自動車の人気はなかなか上向きにならなかった。

ボレーが売れない蒸気自動車づくりに嫌気がさし始めてきた時に、ベルリンに本拠を置く銀行家が登場し、バス仕様のラ・マンセルに関心を示した。
この銀行家はプロイセンとオーストリアを中心にヨーロッパ諸国にまたがる国際バス路線網をつくりあげるという壮大な夢をもっていた。


16話ボレーのマンセル (2)
〈ボレーのラ・マンセル〉





この話を聞いたボレーは渡りに船と飛びつき、ラ・マンセルの独占使用権を銀行家に売り渡し、この資金を元手に新設した工場から蒸気バスを送り出すことになった。

ところが、銀行家の計画はあまりにも野心的すぎ、1883年に行き詰まって破産してしまうのである。
この結果、既に送り出した22台のラ・マンセルの代金も受け取ることができなくなってしまった。
こうして蒸気自動車の開発にエネルギーを投入し続けたボレーは、自分の全財産をつぎこんだのに一向に見返りのない仕事を放棄して、余生は鐘づくりに戻ってしまうのである。




 ヨーロッパ各地で蓄電池と電気モーターを組み合わせた乗り物への挑戦が始まった 


1830年代にグリエモ・マルコーニによって実用的な電信機が発明された。
鉄道ネットワークの発展に伴い世界中で電信ネットワークが形成されることになったが、これらは全て鉄道会社の業務で使うためのものであった。

電信は電気を使う初めての製品であったが、たいして電気を消費するわけではないので、電源としてはバッテリーでも十分であった。


バッテリーの歴史は、1800年にイタリア人のアレサンドロ・ボルタが、異なる金属を1つの液の中間に置くと電気が発生することを発見したことから始まり、次いで現代の乾電池の源をなすルクランシェ電池が出現した。
これらの電池は一次電池と呼ばれて、放電してしまうと使用できない性質があった。

次に、電流を逆に通じて充電すれば繰り返し使用できる二次電池と呼ばれる新式電池が1859年にフランス人のガストン・プランテによって発明された。

やがて電気の用途として電灯照明や工業用モーターが普及するようになってきたが、これらを使用するとなると大量の電力を必要とし、バッテリーだけでは無理なので大型の発電装置が欠かせなくなった。


Siemens,Werner1上016話
〈世界初の発電機をつくったウェルナー・シーメンス〉





世界で最初の本格的発電機は1866年にドイツ人ウェルナー・シーメンスによって開発され、電気の時代への道が開かれた。
さらに、アメリカ人のトーマス・エジソンによって発明された白熱電球によって人々の生活が一変したことは、よく知られている。

電灯照明の初期の頃は、劇場、商店、レストランなどの設備や金持ちの自宅にのみ、蒸気機関を使った発電装置が置かれていた。
しかし、この仕組みでは、全ての家庭に電灯をつけるにはお金がかかり過ぎるので、大きな発電所を設置して、ここから多数の需要家まで電線を引く中央発電方式へと変わることになった。


こうした時代の移り変わりの中で、陸上を走る乗り物の動力に電気が使えないかという試みがあちこちで始まった。
乗り物は移動するから電源から電線を引っ張るわけにはいかない。
そうなると、自動車に載せる発電装置が必要となる。

この時代の発電装置は蒸気機関を使うものが大半であったので、蒸気機関発電装置を乗り物に載せることになるが、蒸気機関そのもので直接車両を動かす方が効率よいことは自明の理であり、このやり方の電気自動車は成立しないことがはっきりした。


そこで、鉛バッテリーのエネルギーで電気モーターを回して車輪を動かすという構造を持つ電気自動車の開発研究がヨーロッパ各地で始まった。
蓄電池と電気モーターを組み合わせた乗り物をつくることは理論的には問題ないことはわかったが、現実的な乗り物となると、いろいろな形態が想定された。

いちばん小型の乗り物としては電気自転車が考えられたが、この頃の蓄電池は大きくて、自転車ではとても蓄電池の重量を支えきれなかった。
次に考えられたのは電気オートバイであるが、これも電気自転車と大同小異で、やはり無理であった。
そうなると、3輪以上の車輪を持つ自動車の形態しか電気エネルギーで走る乗り物は考えられないことになり、ヨーロッパ各地で電気自動車の開発に挑戦する人が現れたが、1880年代中頃の時点では実用的な電気自動車が出現することはなかったという。

(「16話」はここまで。「17話〔前編〕」は7月24日(火)に掲載。)


16話.蒸気自動車ビジネスの始まり〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ゴールズワージー・ガーニー卿:1793年生まれ。蒸気自動車を製作したイギリス人。
■アメデ・ボレー:1844年生まれ。フランス人で、蒸気自動車を開発する鐘づくりの職人。


 産業革命のリーダーであるイギリス人は蒸気機関車に続いて蒸気自動車を開発した 


イギリスでは産業革命の結果、資材や原料、そしてできあがった製品の輸送の必要が高まって、タールを用いた簡易舗装の道路網が徐々に敷設されるようになってきた。
道路が整備されてくると、馬車による運送効率は格段に向上することになったが、同時に蒸気自動車がイギリスの道路を走り出したのである。


Gurney,Goldsworty1上016話
〈ゴールズワージー・ガーニー卿〉





イギリス人で元軍医のゴールズワージー・ガーニー卿は、蒸気で動く“スチームコーチ”と呼ばれる小型バスを開発して歴史に名をとどめている。
貴族の出身でありながら軍医になったというガーニー卿の経歴も不思議であるが、軍医を辞めてから蒸気機関を研究して、その蒸気機関を動力とする乗り物の開発に取り組むというのも不思議である。

ガーニー卿は、苦労を重ね、ようやくのことで道路の上を走ることができる乗り物を完成させた。
この車両は、当初考えたものより大型になってしまったので、個人用途でなく営業運転しようと試みた。
それは、1829年のことであった。
この年は、イギリスで石炭を運ぶ鉄道が誕生した年からわずか4年後で、人を運ぶ鉄道は開業されていない時代であった。
このような鉄道そのものが技術的に完成されていない時代に、蒸気機関を動力とする自動車をつくるには大きな困難が伴うことは容易に想像できる。


同じ蒸気機関を動力とする自動車と汽車では、構造上自動車の方がはるかに難易度は高い。
なぜなら、レールの上を進む汽車は舵取り装置を必要としないが、自動車にはこれが必要となる。
また、鉄道は平坦なレールの上を進むが、自動車はでこぼこの道路の上を走らなくてはならない。

ガーニー卿は、自分が開発したスチームコーチで、ロンドンから海岸の温泉町バースまで往復300キロ以上の長距離走行を試みた。
しかし往路では、蒸気バスに仕事を奪われるという危機感を募らせた馬車業者の投石にあい、帰路では故障して馬車に引かれるなど散々な目にあって、世界初の長距離バスの運行計画は失敗に終わった。


016話ガーニー卿バス (2)
〈ガーニー卿のスチームコーチ〉





ガーニー卿の試みは、時期尚早ということでうまくいかなかったが、スチームコーチの可能性に挑戦する者が次々と現れた。

1831年には冒険心のある事業家が、ガーニー卿が製作した20人乗りスチームコーチ3台により都市間の定期運行を開始した。
この時は新しい乗り物に興味を持った乗客がわんさか押し寄せてきて、幸先の良いスタートを切ることができた。
同じ年、別の事業家は10台のスチームコーチを発注して、ロンドン市中と近郊を結ぶ路線に定期運行したところ、ここにも乗客が集まったという。

1840年代には、蒸気バスの平均時速は25キロから30キロというスピードで走ることができるようになった。
ところが人気が出てきたにもかかわらず、1850年代に入ると蒸気バスは急速に姿を消していった。
その理由は、同じ蒸気機関を用いて、より輸送効率の高い鉄道が発達したためであるが、もうひとつ別の理由があった。

蒸気バスは、ロンドン市の周りの巡回コースでサービスを始めたが、これらが撒き散らす害毒は尋常ではなかった。
まず、煙と騒音がすごい。そして、その重みで道が荒れるようになった。
またボイラーの破裂事故が相次いだ。
馬車との衝突など交通事故も後を絶たないため、とうとう堪忍袋の緒が切れた街の人々の訴えを聞いて、イギリス政府は実に奇妙な法律を制定した。

1865年に発令された法律の名前は、正式には運送法(Locomotive Act)というが、むしろ“赤旗法”の方が有名となる。

この法律が定めたことは、以下のようであった。
「あらゆる自動車(Locomotive)は、公道では毎時4マイル(6.4キロ)、市町村地域では毎時2マイル(3.2キロ)以上では走ってはならず、またその車を動かすには最低3人を必要として、内1人は車の前方60ヤード(54メートル)以上前を、常に赤旗を掲げて歩かなくてはならない」

この法律によって、イギリスの自動車産業は他のヨーロッパ諸国に比べて少なくとも10年は遅れることになるのである。




 フランスで蒸気自動車を実用化に先行したのは鐘づくり職人アメデ・ボレーだった 


蒸気自動車へ挑戦したのは、なにもイギリス人だけではない。
イギリスでガーニー卿が蒸気自動車づくりに奮闘していたのと同じ時代に、フランス人のオネスフォール・ペクールは、後輪の駆動軸に差動装置としてデファレンシャル・ギヤのついた蒸気自動車を完成させている。

差動装置について説明をしておくと、車には4つの車輪があり、曲がるときは車輪がひとつの回転中心をもって円運動しなくてはならない。
そうなると、内側のタイヤより外側のタイヤが多く回転する必要がある。
これをコントロールするのがデファレンシャル・ギヤであり、この新機構をペクールが発明したのは1827年という馬車全盛の時代であった。

ペクール以降しばらくの間、フランスでは蒸気自動車の技術発展は停滞することになるが、19世紀の後半になると、蒸気自動車の可能性を信じていたアメデ・ボレーという男が登場し、本格的な蒸気自動車づくりを開始した。


Bollee,Amedee1上016話
〈蒸気自動車の実用化に挑戦したアメデ・ボレー〉






アメデ・ボレーは、1844年にフランスの中心部パリから西南西方面に200キロほど離れた“ル・マン”という町で、代々鐘を鋳造している家で生まれた。

教会の鐘づくりをしているボレーが乗り物に関心を持つきっかけとなったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会の会場であった。
ここでボレーは、イギリスから来た蒸気機関で動くバスを見て驚いた。
というのは、伝統的な鐘づくりに物足りない何かを感じていたボレーは、新しい時代にふさわしい物はないかといつも考えていて、フランス中にレールが敷設され走り始めた蒸気機関車と同じような、道路を走る乗り物を模索していたからである。

イギリス人に先を越されたことで刺激を受けたボレーは、さっそく蒸気機関で動く乗り物の製作を思いたった。
鐘鋳造工場の一隅に作業所をつくり昼夜をおかぬ努力が続けられ、2年という短期間で、スチール製大型ボディを持つ12人乗りの蒸気自動車を完成させた。

この乗り物の操舵方式は、当時の蒸気自動車のほとんどが前輪車軸の真ん中に旋回支軸を置き、棒ハンドルで操作する方式をとっていたのに対して、垂直の円形ハンドルを採用してチェーンを介して車輪の向きを変えるようになっていた。
後部に蒸気の力で動く2つのシリンダーを置き、これらによって後輪が駆動されるようになっていて、向きを変えるにはどちらか一方に蒸気を送るのを止め、止まった車輪を支点にしてその方向へ回るというものであった。

“オベイサント”と名付けた自動車のテスト走行の結果は期待以上で、これならたくさん売れるに違いないと自信を持ったボレーが走行許可を当局に申請したところ、「実施3日前に旅行計画書を通過地区の係官に提出すること」という条件付きで運転が許可された。

1875年、ボレーはぴかぴかに磨きあげたオベイサントをル・マンからパリまで運転して人々の喝采を受けたという。

(「16話」は金曜日に続く)


016話ボレーのオベイサント
〈アメデ・ボレーの蒸気自動車オベイサント〉






15話.オペル社の創業〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アダム・オペル:1837年生まれ。ミシン事業で成功したドイツ人事業家。
■ゲオルグ・オペル:1838年生まれ。兄アダムの事業パートナーの弟。
■ゾフィ・オペル:1840年生まれ。アダムの妻で5人の男の子の母親。
■カール・オペル:1873年生まれ。アダム&ゾフィ夫妻の長男で、5人兄弟のリーダー。


 ミシンで成功したアダム・オペルは、需要アップが期待される自転車づくりを決意した 


Opel,Sophie1上015話
〈夫を支え5人の男児を育てたゾフィ・オペル〉





オペル夫妻はいつも仲がよかった。
妻のゾフィは、ドイツ女性の典型的なしとやかさを持ちつつ、家庭をしっかり守るタイプで、夫に家のことを心配させることはなかった。
そして、上からカール、ウィルヘルム、ハインリッヒ、フリッツ、ルートヴィッヒ、という5人の男の子に恵まれた。

アダムはこの会社の将来のことを思うと、ミシンだけでは経営は安定しないと考えて、新しいビジネスを模索していた。
そのために1年に1回、妻のゾフィと花の都パリに行くことを楽しみにしていた。
アダムはパリで、前輪の大きなオーディナリー型自転車を目にして、今までの自転車と形が変っているのに驚いた。
そして、人々が自転車をいかにも得意そうにして乗っているということに強い印象を持ち、「ひょっとしたら、この新型の自転車は、プロイセンでも売れるようになるのではないか!」と閃いたのである。

自転車はイギリスとフランスでは大きな産業に育ちつつあった。
アダムは、さっそく自転車の部品を取り寄せて、自分の会社で組み立ててみたところ、操作性もスピードも充分な性能を持っていることがわかった。
そこでアダムは、オペル社の自転車として工夫を加えるべく改良に取り組んだ。こうしてオペル社として最初の自転車が完成し、市販されたのはアダムが50歳の時、1886年の春のことであった。


opel1上015話1900
←創業期“オペル”のブランドマーク








 アダム・オペルは自転車の販売促進活動に、5人の息子の競争チームを活用した 


アダム・オペルはミシンに続く大型事業として自転車を取り上げ、これを大量生産して売上を伸ばそうと考えたが、最初の頃は思惑どおりにことが運ばなかった。
苦労してつくった自転車はちっとも売れず、どうしたら売れるようになるかを日夜考えていたアダムは、その解決策を求めるために自転車先進国であるイギリスを訪問することにした。

そしてイギリス各地の自転車工場見学の折に、偶然見た“自転車レース”に集まったイギリス人の熱狂ぶりに驚いて、この光景から自転車を売るためのヒントを瞬間的につかんだのである。
「プロイセンの人々にも自転車レースに興味を持ってもらおう。そしてオペル社も自転車チームを編成して、優勝すれば、オペルの自転車の優秀性が証明されて、うちの自転車は人気が出るに違いない」と考えた。
このようなアイデアが、頭の固い職人育ちのアダム・オペルから生まれたということは驚異である。
イギリスで連戦連勝を飾ったハーベイ・デュクロの6人兄弟の活躍ぶりを目のあたりにして、「そうだ、うちには5人の男の子がいる。この子たちにひと働きしてもらおう」と考えたのかも知れないが、本当はどうだったのだろう。

イギリスから帰国後、アダムは5人の息子を集めた。
「君たち5人は今日から自転車競技の選手になるよう訓練を始めるぞ!」
子供たちはいちように驚いた。
反抗期の息子もあり、性格や考えの違いもあって、全員がその気になったわけではなかった。
そこで、アダムは会社の現状と今後の改善プランを、この機会に息子たち全員に話すことにした。

「お父さんの会社の経営は、現在大変苦しい状況にある。というのは、自転車に進出するに際して、工作機械などの設備を整えるために資金を使ったにもかかわらず、せっかくつくった自転車はまったく売れてない。この現状を打破するために、どうしたらいいのかを必死で考えた結論が、君たち5人による“オペルチーム”をつくって、自転車レースに出場することだ。この競技で5人のうち誰かが優勝すれば、オペルの自転車の優秀性が証明されて、うちの自転車はきっと売れるようになるに違いない」

この話を聞いた5人は、会社の危機を救うために少しでも自分たちが役立つことができればという気になって、翌日の朝から競い合うようにして自転車レースの訓練を開始したのである。

プロイセンで行われた自転車レースでは強力なライバルもいなかったので、オペルチームは連戦連勝を重ねて、瞬く間にオペルの自転車は有名になっていった。
そして、オペルブランドの自転車は年毎に売れるようになり、1890年代になると自転車の売上はミシンを上回るほどになって、オペル社の大黒柱に育ったのである。

このように順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のオペル社であったが、1895年9月、オランダを旅行中に感染した伝染病が原因で、アダム・オペルはこの世を去ることになった。58歳という若さの創業者の死であった。


Opel,Adam1上015話
〈ミシンから自転車へ事業を拡大したアダム・オペル〉





(「15話」はここまでであり、『一のⅡ章 交通産業の始まり』も本日で終了しました。7月17日(火)より、『一のⅢ章 内燃機関の発展』がスタートいたします。)


15話.オペル社の創業〔前編〕

《 主な登場人物 》
■アダム・オペル:1837年生まれ。ミシン事業で成功したドイツ人事業家。
■ゲオルグ・オペル:1838年生まれ。兄アダムの事業パートナーの弟。
■ゾフィ・オペル:1840年生まれ。アダムの妻で5人の男の子の母親。
■カール・オペル:1873年生まれ。アダム&ゾフィ夫妻の長男で、5人兄弟のリーダー。


 フランスで技術を学んだドイツ人アダム・オペルは、ミシンの大量生産を成功させた 


アルマン・プジョーに続き、『クルマの歴史300話 第一巻』において2人目の主役を演じるのは、アダム・オペルである。
1837年にプロイセンのフランクフルト近郊リュッセルハイムの町で、錠前職人の長男としてアダムは生まれた。
そしてアダムが生まれた翌年に弟のゲオルグが生まれた。

アダムは成長するにつれ、自分の知らない新しい世界の話に興味を持つようになった。
特に、ロンドンやパリという大都会では新しい技術が発表されて、どんどん街が変わっているようすが、噂話として小さな田舎町にも知らされていた。
田舎から飛び出してパリに行って新しい技術を勉強したいと思うようになったアダムは、都会の魅力にどうしても抗することができなくて、自分の夢を親に語ったが、予想どおり大反対されてしまった。
それでも挫けず2年がかりで説得した結果、ようやく許可が下りて、見識を深め技術を磨くヨーロッパ各地への旅に出かけることになった。

この時代のプロイセンは、大きな政治的な動きがなく平和な時代であった。
一方、フランスもナポレオン三世の治世で、ひと時の平和と経済的発展を謳歌していて、プロイセンとフランスは自由に往き来できる時代だった。

1858年、アダム21歳の時、旅の最終目的地であるパリに到着した。
最初は生活のためにパン職人になったが、この仕事ではアダムの機械技術に対する関心を満足させることはできないので、翌年フランスでは最大のミシンメーカーに就職することにした。
ミシンは産業革命が生み出した機械の中で、人々の生活に密着しているという点で最も象徴的な存在であったが、その対象は服をつくることを職業とする専門家用であり、一般家庭に普及するというほど大衆的な製品ではなかった。

アダムはこのミシン工場に弟のゲオルグを呼び寄せ、兄弟で会社が持っているミシン技術を勉強して、必要とされるスキルを身に付けた。
2人はここで働いているうちに、自分たちが生まれ育ったプロイセンではミシンは近代産業に育っていないので、田舎に帰ってミシンを製造する会社を興そうという夢を持つようになり、ミシンのメカニズムを徹底的に研究し、新しいミシンの開発に没頭したのである。




 オペル製のミシンは、プロイセンVSオーストリア戦争のおかげで飛ぶように売れた 


1862年、25歳になったアダムはリュッセルハイムに戻ることになった。
毎日ミシンのことばかり考えているアダムに対して、父親は繰り返し錠前屋の後継ぎになるように説得を重ねたが、アダムは頑として、自分はミシン会社をつくると主張し続けた。

そして、その年の秋も深まったある日、とうとうアダムの新型ミシンは完成したのである。
この記念碑ともいうべき第1号のミシンは,リュッセルハイムの仕立屋に納入された。
この仕立屋はアダムのミシンを使ってみて、使い心地のよさ、そして何よりも正確に縫製する機械としての信頼感の高さに驚いたという。

自分がつくったミシンの評判が思いのほか高かったので、アダムはミシンづくりを生涯のビジネスにすることを決断して、“アダム・オペル”の看板を掲げたミシン会社がオープンした。
弟のゲオルグはアダムが帰国してからもパリで勉強を続けていたが、アダムのミシン会社がオープンして1年後にはリュッセルハイムへ帰ってきて兄の店を手伝うようになった。
この新しいミシンビジネスは、当初はなかなか軌道に乗らなかった。ところが、オープン4年目に入った頃から状況が大きく変ってきた。

プロイセン政府は、かねてから準備してきたオーストリアとの開戦を決行しようとしていたが、この戦争準備に関しては、ヘルムート・モルトケ参謀総長の指導力がいかんなく発揮された。

まず兵士を増員して訓練しなくてはならない。
すると軍服がたくさん必要になるので業者に発注する。
業者は大急ぎで大量の軍服を縫製しなければならない。
そうなるとミシンが必要になる、というプロセスの中で、ミシンは飛ぶように売れ、リュッセルハイムという田舎町のミシン生産工場は大忙しとなったのである。

アダムは生産を増強すべく、大規模な工場建設に取り組んで需要を満たすようにした。
同時に、将来に見通しを持てるようになった31歳のアダムは結婚を考えるようになり、資産家の娘ゾフィと結婚した。

裕福な家庭に育ったゾフィはアダムとの結婚に際して相当額の持参金を携えてきたが、これらはアダムの事業拡大のための資金として使われることになった。
機械加工メーカーとして不可欠の動力源として、定置用蒸気機関を買い、最新の工作機械や工具をそろえたが、これらがアダムオペル社(以下、オペル社)の経営基盤を形成したのである。

〔プロイセン VS オーストリア〕戦争はプロイセンの勝利で終わり、続いて〔プロイセンVSフランス〕戦争という大戦争が始まった。
軍服需要は引き続き旺盛で、ミシンはいくらつくっても飛ぶように売れて、オペル社は瞬く間にプロイセンの代表的なミシンメーカーに育ったのである。

パリを占拠することによって〔プロイセンVSフランス〕戦争は終結することになり、ヴェルサイユ宮殿で統一ドイツ帝国初代皇帝が戴冠式を行ったのは1871年の1月のことであった。
この戦争終結に伴って軍服需要は激減して、ミシンの注文もストップするという事態が訪れた。
この時アダム・オペルは35歳という働き盛りであった。

(「15話」は金曜日に続く)


14話.プジョーの自転車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エミール・プジョー:1823年頃の生まれ。プジョー家を受け継ぐフランス人事業家。
■ジュール・プジョー:1825年頃の生まれ。兄エミールの死後、その後を継いだ弟。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー家の栄光を夢見るエミールの息子。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。安定経営を志向するジュールの息子。


 経営幹部が揃う朝食会席上で、アルマンが提案した自転車事業化プランは紛糾した 


Peugeot,Julle1上014話
〈兄の急死により社長に就いたジュール・プジョー〉





ジュール・プジョー新社長は就任してから、息子のウジーン・プジョー以外、自分に対して仕事上の報告や相談に来る役員が少なく、企業統治(現代の経営用語でガバナンスという)がうまくできていないと自覚することが多かった。
そこで、毎週月曜日の朝に、役員が集まって朝食を一緒にすることを義務付けた。
この朝食会に参加するのは、社長と、プジョー兄弟社の仕事を実質的に取り仕切っているアルマン・プジョー専務、そして最近影響力が強くなってきたウジーン・プジョー常務の他に、財務責任者、工場支配人、営業支配人、監査役の弁護士という7人であった。

この日は、朝食前にいつものように財務責任者、工場支配人、営業支配人という順番で会社の現状に関する報告がなされて、いよいよ食事という段になって、突然アルマン専務が口を開いた。
「皆さん、食事の前に私から提案がありますので、聞いていただけませんか」

これにすぐに反応したのはジュール社長である。
「アルマン君、薮から棒に。話とはいったいどんなことかね」

「社長、僕から新しいビジネス提案をさせていただいてよろしいでしょうか」

「会社の発展につながる話なら結構です。話を進めてください」

「2年ほど前に、僕がイギリスで見聞した自転車の話をしたことを覚えていらっしゃる方が多いと思います。イギリスでオーディナリー型という前輪が大きな自転車が出現したという出張報告でした。あの時、当社も自転車ビジネスに取り組むべきだと申しましたが、どなたにも真剣に取り上げていただけませんでした」

アルマンの説明が途中であるにもかかわらず、ウジーン常務が口をはさんだ。
「あの時取り上げなかったのは、正しい判断だったと思いますよ」


Peugeot,Ujine1上014話
〈権力志向が強くなったウジーン・プジョー〉






アルマンは、ウジーンの発言を無視して話を続けた。
「今日はその話の続きです。皆さんも、前輪が大きな自転車がパリの街で走るようになっていることはご存じだと思いますが、つい先頃、この町で新型自転車に乗っている人を見かけてびっくりしました。その人に、どこでつくった自転車かを聞いてみたところ、イギリス製でした。輸入品ですので、たいへん高かったそうです」

先ほどまで落ち着いて朝食会の進行状況の把握に努めていたジュール社長は、アルマン専務の説明が長くなっているのが気になり始めていたので注意をすることにした。
「アルマン君。話は長くなるかね。食事をしながら君の話を聞くというのはどうだろうか」

社長の提案に対して、アルマンはやんわり拒絶した。
「社長。申し訳ありませんが、最初にお断りしたように、本日の話は僕からのビジネス提案であり、経営上重要な検討事項だと思いますので、もう少し辛抱していただけませんでしょうか」

アルマンの発言を聞いて、社長は自分の提案が軽視されたと感じた。
「わかったよ、アルマン君。諸君、しばらく我慢して話を聞いてください」

アルマンは社長発言にカチンときたが、ここは冷静にと思い直して話を続けた。
「イギリスに続いて、わが国でも自転車は間違いなく大きな産業に育ちます。幸いなことに、フランスで自転車を手掛けている会社は小さな会社ばかりです。今、うちが自転車ビジネスを始めれば、会社を大きくするチャンスが巡ってきます」

こう熱弁を振るうアルマンを、社長は苦々しい思いで聞いていた。
「アルマン君。その話は2年前に聞いたよ」

「社長、2年前と今ではまったく状況が違います。あの時は、わが国にオーディナリー型自転車は1台もありませんでした。しかし、さっき話したように、最近ではこの町でも使っている人がいるんですよ」

そこに再びウジーンが口をはさんだ。
「社長がおっしゃるように、当社は自転車をやらないことに決めたことを忘れてはならないと思います」

ウジーンのアルマン攻撃はここ数カ月間、辛らつであった。
ここで押されたら、自転車事業は前に進まないし、経営の主導権をもぎ取られかねないのでアルマンも負けるわけには行かなかった。
「2年前と状況が大きく変わっていると言っているのだ。経営は時代の変化に合わせて柔軟に意思決定すべきだから、もう一度真剣に自転車ビジネスへの参入を考えるべきで、2年前に決まったから審議しないというのは、おかしいんじゃないか」

だんだんいきり立ってきたアルマンを制したのは社長である。
「アルマン君、いいかげんにしたまえ。今日は朝食会であって、こうして口角泡を飛ばすことを目的としている訳ではないんだ。せっかく用意してある朝食がまずくなってしまうじゃないか」

「社長! これは経営上の重要問題ですよ!」
アルマンは必死で食い下がった。

「しつこいな、君は。それでは今日の打合せはこれで終わります。食事を始めましょう」
ジュール社長は給仕長に合図を送った。

「もはやこれまで」と、アルマンはフォークを取って苦い味の朝食を始めるのであった。




 アルマンの才覚でプジョー兄弟社はフランスでの自転車産業のパイオニアとなった 


この朝食会に懲りたアルマンはそれからしばらくの間、経営会議のメンバーに自転車のことを蒸し返すことはなかった。

しかし現実は、アルマンが想定したよりはるかに早く、フランスでもオーディナリー型自転車は普及していた。
フランスの自転車メーカーがつくったものもなくはなかったが、祖国の国土を走り回っている自転車の大半はイギリス製であった。

1880年頃には、フランス人の間で自転車の人気が沸騰してきた。
この頃になって、ジュール社長はようやくアルマンの意見を受け入れ自転車ビジネスに新規参入する方針を掲げ、プジョー兄弟社は自転車の生産販売事業を開始することになった。
アルマンの最初の説得から数えて実に12年後のことであった。

プジョー兄弟社が最初に開発した自転車は、前輪が大きなオーディナリー型であったが、その後、ローヴァー型に切り替えられた。
ワイヤーホイール構造が採用され、ペダルをこいでチェーンで後輪を走らせる新型の自転車は、その乗り心地のよさで人々から熱狂的に支持され大ヒット商品になり、プジョー兄弟社はフランスを代表する大企業に育っていった。

フランス国内でプジョー製自転車が走り回るようになると、自転車製造業の追随者があちこちで現れ、競争が激しくなってきた。
この結果、価格は年々安くなったが、このことが新たな需要を生み出し、自転車はフランス人の毎日の生活に欠かせない存在になってゆくのである。

さらに、この自転車人気に火をつけたのは、自転車レースであった。
最初の自転車レースはイギリスで開催され、娯楽の少ない民衆が大好きなイベントに育ってゆくが、この人気がヨーロッパ大陸のフランスに飛び火したのである。

フランスの大手新聞社ル・プティ・ジュルナル社は、パリから真西方向に向かって出発し、ブルターニュ半島の先端の都市ブレストに行って、パリに帰ってくる1,200キロの自転車レースを主催した。
このレースに群がった人の数は主催者の予想をはるかに越えるもので、その熱狂ぶりに自転車レースの時代が始まったことを実感することになった。
(「14話」はここまで。「15話〔前編〕」は7月10日(火)に掲載。)