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102話.躍進が続くアメリカ合衆国〔前編〕

《 主な登場人物 》
■セオドア・ルーズヴェルト:1858年生まれ。合衆国第二十六代大統領(在位1901~08)。
■ウィリアム・ヘイワッド:1869年生まれ。世界産業労働者同盟(IWW)の創設者。
■ウィリアム・タフト:1857年生まれ。アメリカ合衆国第二十七代大統領。


 建国85年後のアメリカ合衆国で、南北戦争という国内を二分する内戦が発生した 


イギリスのプリムス港を出発したメイフラワー号は、1620年11月に現在のマサチューセッツ州ケープコッド沖にたどりつき、出港地にちなんでプリムスと命名された地に植民することになった。

アメリカにやって来たのはイギリス人ばかりではない。
フランス人、オランダ人、ドイツ人などヨーロッパ諸国から新天地を求めてたくさんの人々がやってきた。

ここでの主導権争いをリードしたのはイギリス人であったが、庇護者であるはずのイギリス本国政府は、入植イギリス人たちに厳しい税の圧力をかけてきた。
これを受け入れることができないとしてイギリス本国政府との対決姿勢が鮮明になり、新しい国家をつくるための独立戦争が1775年4月から始まった。
この戦争は足掛け7年も続くことになるが、戦争途中の1776年7月に、フィラデルフィアの地でアメリカ合衆国としての独立宣言が初代大統領になるジョージ・ワシントンによって発せられた。


建国から50年が経過する1830年頃になると、アメリカ国内はエリアによって状況が大きく異なってきた。
北部エリアでは産業革命が進行して産業資本家と労働者という階層分離がはっきりしてきた。
一方南部エリアでは綿花の栽培が年々飛躍的に拡大して、労働力として黒人奴隷の数が増大していた。


1860年11月に共和党のアブラハム・リンカーンが第十六代大統領に当選すると、南部6州がアメリカ合衆国から脱退し、独立することを宣言し、奴隷制を継続する憲法を採択した。

翌年3月初めに合衆国大統領に就任したリンカーンは、直ちに南部反乱軍の鎮圧命令を発した。
こうして火蓋を切った南北戦争は、4年間という長期間にわたるすさまじい内戦となった。

最初は劣勢の北軍であったが、経済基盤が強固な上に産業革命の進展に伴って新型銃が大量に工場生産されることによって徐々に南軍を押し戻し、1863年7月のゲッティスバーグの戦いでの北軍の勝利で南北戦争は決着することになった。



 急成長を続けた鉄道会社で役人との癒着や腐敗が相次ぎ、国民の不信を招いた 


18世紀に入り繊維産業の工業化で幕開けしたイギリスの産業革命は、独立したばかりで建国の機運に燃えるアメリカ合衆国にも強い影響を与えて、鉄道産業は急成長を続けることになった。

アメリカで最初の人を乗せる鉄道はボルティモアとオハイオ間に開設されたが、レールはあったものの蒸気機関車ではなく馬が車輌を引っ張るレール馬車での営業開始であった。
次に、ボルティモア&オハイオ鉄道会社は蒸気機関車による本格的な鉄道運行を進めて、鉄道時代が幕を開けることになった。

1840年時点でのアメリカ合衆国における鉄道の総延長は4,500キロに達し、
その後10年間でさらに1万キロが増設され、アメリカ北部を中心に鉄道ネットワークはどんどん広がった。
このように発展を続けるアメリカ合衆国の鉄道であるが、鉄道会社は政府からの交付金と公有地の払い下げという利権を得ることだけを考え、鉄道が本来の目的とする「人と物の移動に貢献する」という大義をすっかり忘れてしまった。


1870年代に入るとアメリカ産業界は、あらゆる分野で急速に発展した。

繊維、船舶、鉄道ばかりでなく、鉱山、製鉄などの分野で民間企業が続々と誕生し、急速な需要拡大の風をフォローとしながら厳しい競争と淘汰を乗り越え大企業が育っていた。
こうして巨大企業が中心となる資本主義体制づくりは、アメリカがヨーロッパの先進国であるイギリスやフランスに先行することになった。

産業界はアメリカ産業の保護育成を強く要請して、合衆国政府はこれらを受けて輸入関税率の引き上げを繰り返した。
このような民間企業と政府の関係は多くの癒着を生み、産業規模の膨張に伴って、政界は腐敗し汚職が日常的になってきた。

(金曜日の〔101話:後編〕に続く)


101話.20世紀初頭のヨーロッパ〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ヴィクトリア女王:1819年生まれ。イギリスを繁栄に導いた女王。(在位1837~1901)
■エドワード七世:1841年生まれ。ヴィクトリア女王の長男でイギリス国王。
■ナポレオン三世:1803年生まれ。ナポレオン一世の甥でフランス国王。
■ウィルヘルム二世:1859年生まれ。ドイツ帝国の第三代皇帝。(在位1888~1918)


 宿敵フランスをやっつけたプロイセンが中心になって、ドイツ帝国が誕生した 


フランスを長い間支配していたブルボン王朝は、1789年のフランス革命によって消滅して、共和制憲法が制定され新政府が発足すると、新体制に不満をぶつける人々が各地で暴動を引き起こした。
これらは軍隊によって激しく弾圧されたが、この仕事で頭角をあらわしトップに上り詰めたのがナポレオン・ボナパルトであった。

ナポレオンは自分の政治基盤が弱いことを熟知していたので、外国と戦争をすることで、国民の関心を国外へそらすことにした。
ナポレオンはいったんヨーロッパ全土を制圧したが、アンチ・ナポレオンのヨーロッパ連合軍が編成され、1815年6月のワーテルローの戦いで敗れ失脚した。

ナポレオン・ボナパルトなき後、フランスは王制復古したが、1848年の2月革命によって共和制に戻ることになった。
これも長続きすることなく、1852年にナポレオン・ボナパルトの甥に当るナポレオン三世が国王に就くことになった。


今度はドイツの歴史である。

プロイセンやバイエルンなどのいくつかの国家に分かれていたドイツにおいて、プロイセンは際立った強国であり、ウィルヘルム一世が国王に就いてオットー・ビスマルクを首相に任命した時から、プロイセン中心のドイツ統一構想が練られることになった。

ドイツ統一への最大の障害は、オーストリアとフランスの妨害工作であるので、両国を上回る軍事力増強を図って、1866年6月にオーストリアとの間で戦争を始め、たった7週間で相手をやっつけた。

この勝利によって強大な統一ドイツが出現することを恐れたフランス国王ナポレオン三世は、プロイセンへの警戒心を強めるようになった。

そんな時に、スペインで王位継承問題が発生した。
この問題はこじれて、ヨーロッパ中を巻き込む大政争になり、プロイセン国民とフランス国民の感情は激しく対立した。
このような国民感情対立を仕組んだのは、ビスマルクの策動に違いないとナポレオン三世は猛反発し、1870年7月に、フランスが先に宣戦布告することによって〔プロイセンVSフランス〕戦争が始まった。

戦争開始と同時にプロイセン軍はフランスに侵攻して、ナポレオン三世を捕えてパリ包囲網を引いた。
ここが勝負時と判断したビスマルクは、バイエルンなど南ドイツの4国に強烈にアプローチした結果、ドイツ統一が実現することになった。

1871年1月1日に、パリ包囲中のプロイセン国王ウィルヘルム一世は、威信を全世界にアピールする目的でパリ郊外のヴェルサイユ宮殿で戴冠式を行い、統一ドイツ帝国の初代皇帝に就いたことを華々しく宣言した。


それから10数年の時が流れ、ドイツでは1888年にウィルヘルム一世が逝去し、息子のフリードリッヒ三世が新しい皇帝に就いた。
しかし、この皇帝はすぐに退き、その息子のウィルヘルム二世が皇位に就くと、ビスマルク首相が引退するなど大きな変化が続いて、ドイツ国内ばかりでなく、国際関係に大きな影響を与えることになった。

ドイツでは重工業を中心とする独占資本家が力を持つようになり、石炭はもちろん、鉄鋼でもその生産量はイギリスの2倍に達して軍備拡張を支えた。
皇帝ウィルヘルム二世は膨張政策を打ち出すと同時にオーストリアと手を結んで、バルカン半島から、さらにトルコへと触手を伸ばすのであった。


一方、1870年7月に始まった〔プロイセンVSフランス〕戦争で、あっけなく負けてしまったフランスでは、ナポレオン三世が権力の座から引きずり下ろされ、国王のいない共和制国家に戻ることになった。
これ以降、フランスでは王様が登場することはなく、今日まで共和国体制が続いている。

共和国として新たな船出をしたものの、いろんな思想が渦巻く中で、権力を巡る抗争は激しくなるばかりで、政治的な安定が訪れることがないフランスは、国家統一して以降の驀進するドイツの脅威にさらされることになった。



  弱体化したハプスブルグ家が支配するオーストリアで、民族独立運動が発生した 


ハプスブルグ家が支配するオーストリアは、プロイセンに負けたといっても依然として大国として存在していた。

オーストリアは典型的な多民族国家であり、対プロイセン戦争での敗北を知った諸民族は、この機に独立を勝ち取ろうとして各地で蜂起した。
中でもハンガリーの独立運動は大規模で、これを抑えることができなくなったオーストリア政府は、妥協の産物としてハンガリーの民族自立を認めたが、国家としての独立は認めず、オーストリアハンガリー帝国(以下、オーストリアハンガリー)という奇妙な国家が1867年に出現した。

オーストリアハンガリー政府は、陰でスラブ系民族の後押しをして何かと干渉したがるロシアを抑え込むために宿敵ドイツと手を結ぶことにして、1876年に〔ドイツ+オーストリアハンガリー〕同盟を結んだ。

この時代、トルコが支配するバルカン半島にはセビリア人、クロアチア人、スロバキア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ブルガリア人などのスラブ系民族のほかに、ラテン系民族であるルーマニア人、アルバニア人が住んでおり、これらの民族は、イスラム教国であるトルコからの独立を主張していた。

こうしてバルカン半島には、オーストリアハンガリー、ロシアという隣接した国家に加えて、イギリス、フランス、ドイツも食指を伸ばし始めて、ヨーロッパの火薬庫の様相を呈してきたのである。



 統一イタリアが誕生したことによって、ヨーロッパ諸国の覇権争いはいっそう激化した 


イタリアの近代史は、ドイツやフランスと同じようにナポレオン・ボナパルトから始まる。

それ以前、イタリアはフランス、スペイン、オーストリアの3国によって分割支配されていた。
そこへナポレオンが大軍を率いて侵攻し、19世紀の初めの頃にはイタリア半島のほぼ全域を占領したが、ヨーロッパ連合軍にナポレオンが負け、ウィーン会議での列強諸国協議の結論として、イタリア北部の多くの土地はオーストリア領となってしまった。

このような状況下、イタリア人の間に外国占領軍を排除して統一イタリア国家を建設しようという思想が徐々に、そして力強く芽生えてきた。

イタリア統一運動のリーダーは、ジュゼッペ・ガリバルディである。
1848年の革命の嵐が、やや遅れてローマに押し寄せ、市民や農民が自分たちの国家を樹立しようと立ち上がった時に、ガリバルディは弱体な兵力を率いて民衆のために戦った。

イタリア統一国家成立のもうひとりのヒーローは、カミロ・カヴールである。
カヴールの思想は、イタリア統一はヴィットリオ・エマニュエルを盟主とするイタリア王国の建設によって始めて可能になるというものであった。

ガリバルディとカヴールの戦いは紆余曲折があったものの、ヴィットリオ・エマニュエルを君主にいただき、ローマを首都とする統一国家イタリアの建国を1870年7月に宣言したのである。


20世紀に入った当時のヨーロッパ列強諸国は帝国主義というどす黒い悪魔が力を振るい始めて、どの国でも悪魔の思想が支配的になってきた。

最初に自国の占領地を増やしたのはイギリスであり、インドや北アメリカ大陸ばかりでなく、オーストラリア太平洋地区、アフリカ大陸、東南アジア諸国など世界中に触手を伸ばした。

スペインは、南米大陸に自国領を拡大し、さらにアフリカを狙っていた。

ポルトガルは、ブラジルの地を手に入れた。

オランダは、東南アジアの拠点づくりに励んでいた。

フランスは、カナダとアフリカと東南アジアに手を広げていた。

イタリアは、統一したばかりで国内問題が山積していたにもかかわらず、エチオピアに関心を示していた。

ところがドイツだけは、国内統一という悲願が優先したので、ウィルヘルム二世の時代になると、植民地獲得に向かって積極的に手を打ち始めたのだ。

(〔101話〕はここまでで、〔102話〕は来週の火曜日に掲載。)


101話.20世紀初頭のヨーロッパ〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ヴィクトリア女王:1819年生まれ。イギリスを繁栄に導いた女王。(在位1837~1901)
■エドワード七世:1841年生まれ。ヴィクトリア女王の長男でイギリス国王。
■ナポレオン三世:1803年生まれ。ナポレオン一世の甥でフランス国王。
■ウィルヘルム二世:1859年生まれ。ドイツ帝国の第三代皇帝。(在位1888~1918)


 エドワード七世の時代に入ったイギリスは、世界各地で自国の権益拡大を図った 


『クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり』は、読者がこの物語の背景となっているヨーロッパの歴史を俯瞰できるように、「101話 20世紀初頭のヨーロッパ」から始めることにする。

『第一巻』の「はじめに」に記述してあるように、 “人類史上最高傑作の機械”といわれる自動車は、機械工学、歴史学、社会学、環境学、政治学、経済学、経営学、マーケティング学、などあらゆる分野を相互に関連を持たせながら理解するようにしないと、その本質が理解できない。
特に時代の流れがどうなっているかという歴史的視点が欠かせないので、『第三巻』が始まる1908年頃がどのような時代であったかが「101話」の内容となっている。


最初はイギリスである。
18世紀の後半、イギリス社会は手工業から資本主義工業の時代に変化し、地主支配から産業資本家支配の社会へと歩みを進めたが、これに火をつけ一挙に加速させたのが産業革命であった。

紡績産業の近代化から始まり、ジェームス・ワットによる蒸気機関実用化、工作機械産業の興隆、ジョージ・スチーブンソンによる鉄道システム開発、イザンバード・ブルーネルの大型蒸気船の建造などによって、イギリスは世界で最初の近代工業国になり、他国に大きな差をつけた。

この時代のイギリス人リーダーは、1837年に18歳で国王に即位したヴィクトリア女王であった。即位早々に勃発した清国(中国のこと)とのアヘン戦争など、困難な外交問題が次々と若い女王を襲った。
また国内でも政治が混乱して、何度も窮地に陥ったが、常に女王はイギリスの国益を拡大する行動をとり、立派に国政を治めて、広く国民の尊敬を集めたのである。

1851年にロンドン万国博覧会を成功させるなど、ヴィクトリア女王の時代は科学技術の発展期となった。

ヴィクトリア女王の治世は64年間に及び、20世紀の幕開けとなる1901年1月に女王は81歳で亡くなったが、強国イギリスは20世紀に受け継がれることになった。

ヴィクトリア女王の時代は一方では、帝国主義思想に基づいた覇権主義的行動の時代でもあり、北アメリカ大陸、インドや中国、さらにはアラブ諸国、アフリカ諸国において自国権益拠点づくりに励み、世界で最大の大英帝国グループを形成して、領土拡張ではフランスやドイツに先行したのである。



 〔イギリス+フランス+ロシア〕により、三国協商というドイツ包囲網ができてきた 


ヴィクトリア女王の死によって後継者となったのは、ヴィクトリア女王の長男のエドワード七世である。
幼時から厳格な教育を受けて育ったエドワードは、女王が権力を振るっていた時代は皇太子としてきちっとした役割を期待されなかったため、社交界での活動にエネルギーを費やし、とりわけフランスとの関係改善に心を配っていた。

1901年に、59歳で王位についた後も国際親善への熱意は衰えることなく、ヨーロッパの各地を歴訪して、“ヨーロッパの伯父上”と呼ばれたが、1910年に病没して、次男のジョージ五世が王位を継承することになった。



GeorgeⅤ第三巻101話
〈イギリス国王ジョージ五世〉








イギリス国内では、自由党と保守党が交互に政権を担当する二大政党制が継続されていたが、20世紀に入る頃になると選挙権が認められた労働者の組織化が徐々に進み、1906年に労働党が誕生することによって、自由党、保守党、労働党の三党鼎立の時代に入ってきた。

外交面では、帝国主義時代を迎えて覇権主義の思想が強く働く中で、ドイツとの対抗意識が強くなり、イギリス外交の伝統である“栄光ある孤立”から大転換を図ることになった。

最初にアジアで強国になりつつある日本との関係づくりのために、〔イギリス+日本〕同盟が結ばれた。
続いて、長年の宿敵であるフランスと手を結び〔イギリス+フランス〕協商が結ばれた。

イギリスとフランス両国は植民地問題で激しく対立していたが、深い交流がある財界人を中心にして政治的な接近が強く要請され、両国の関係は好転に向かうことになり、1904年2月の〔日本VSロシア〕戦争勃発を機に、お互いの外国での既得権を認め合うという条約が成立することになった。

この約束によって、長年にわたる両国の対立は解決に歩みを進めて、それまでに結ばれていた〔ロシア+フランス〕同盟と、1907年に結ばれることになる〔イギリス+ロシア〕協商と共に、ドイツ包囲体制としての三国協商陣営が形成されたのである。

(金曜日の〔101話:後編〕に続く)


第三巻 大量生産の始まり 序章

序章 自動車産業の興隆              


『クルマの歴史300話』の原点を探っていくと、イギリスで蒸気機関を発明して産業革命の担い手となったジェームス・ワットにぶち当たる。
ワット自身は効率の良い動力をつくることに熱情を燃やしたが、これを使った乗り物の開発に興味を示すことはなかった。

ワット以降、蒸気機関を使って乗り物を開発しようと挑戦を始めた男たちがたくさん出現することになったが、リチャード・トレヴィシックはそのひとりである。
トレヴィシックは試行錯誤の上、道の上を走る蒸気自動車を開発したが、道路事情が悪くうまく走れなかった。
そこで、イギリス各地の鉱山でトロッコ用として使われていたスチールレールに着目し、レール上を走る蒸気機関車の製作に熱中した。

トレヴィシックの挑戦を受け継いだのがイギリス人ジョージ・スティーブンソンであり、鉄道を構成する諸要素を組み合わせて鉄道システムをつくりあげ、1825年にストックトン~ダーリントン間21キロの鉄道を完成させた。
この鉄道は、人を乗せることを目的にしたものではなかったが、最初の鉄道となった。
次いで、旅客鉄道として初のマンチェスター~リバプール鉄道が1830年に完成して以降、人々の鉄道に対する期待は一気に爆発し、凄まじい勢いで鉄道網が広まるのである。


19世紀の後半が近づいてくると、レールの上を走る鉄道とは別に、道路を走ることができる乗り物づくりに取り組む技術者が多くなってきた。
最初は蒸気自動車の完成度を高めることに関心が集まり、イギリスとフランスで実用化研究が進んで、大型の蒸気自動車ばかりでなく、実用的な小型車の開発も進んだ。
この時代の蒸気自動車製作者の代表がボレー親子、並びにアルベール・ド・ディオン伯爵とジョルジュ・ブートンのコンビである。

蒸気自動車が発展する一方で、蒸気機関に代わる小型動力源の発明に取り組む技術者も増えてきた。

現代の自動車用動力の中心をなす4ストロークサイクルの内燃機関を考案し、これを商品化したのはドイツ人のニコラス・オットーが最初であった。
研究熱心なオットーは若くして内燃機関に関心を持ち、フランス人のボー・ド・ロシャが発表した4ストロークサイクル理論に刺激を受け、実用化研究を進めることになった。

ここで、ニコラス・オットーより2歳若いゴットリープ・ダイムラーという技術者がオットーの会社に入って協力することになり、1876年にオットーエンジンと名付けられた4ストローク・エンジンが完成した。
オットーと意見が合わず衝突することが多くなったゴットリープ・ダイムラーはこの会社を去り、自分の作業所を設けて独自にガソリンエンジンの開発に着手した。
ここでダイムラーの助手となったのが、孤児のウィリヘルム・マイバッハであり、2人の協力体制の中で、1885年に世界で最初となるガソリンエンジンで動くオートバイが完成し、その後、4輪のガソリンエンジン自動車に取り組みを始めた。


後に自動車のパイオニアとしてゴットリープ・ダイムラーと並び称される人物となるドイツ人カール・ベンツも、内燃機関の研究に励んでいた。
ニコラス・オットーが4ストロークエンジンのパテントを取ったことを知り、特許に触れない2ストロークエンジンの研究に打ち込んで、1879年には実用機をつくることに成功した。
1884年にオットーの特許が切れると、4ストロークエンジンの研究に没頭して、これを完成させた。
カール・ベンツが偉いのは、このエンジンを乗り物の動力用に考えた点で、ガソリンエンジンで動く3輪自動車の開発に熱中して、1886年春に1号車を完成させたが、この3輪自動車こそ“世界最初のガソリンエンジン車”という栄誉を担うことになった。



20世紀がスタートする直前のヨーロッパでは、蒸気自動車とガソリンエンジン車だけでなく、電気自動車も黎明期を迎えていて、三つ巴の生き残り競争が始まることになった。

この競争をリードしたのは、現代人から考えると意外なことに電気自動車であった。
蓄電池のエネルギーを使って電気モーターで車輪を回す電気自動車は、静かで快適なドライブを楽しむことができ、道路舗装が行き届いている大都市の人々に愛用されるようになったが、蓄電池の容量が少なく長距離走行はできないという問題点を抱えていた。

ドイツで始まったガソリンエンジン車産業であるが、可能性を信じて改良に努め完成度を高めたのは、蒸気自動車から転向したド・ディオン伯爵とジョルジュ・ブートンのコンビ、ルネ・パナールとエミール・ルバッソールのコンビ、アルマン・プジョーというフランス人たちであり、ドイツとフランスが世界の自動車産業のリーダーになってきた。


産業革命の旗手として世界一の工業国をつくりあげたイギリスは、蒸気自動車で先行したが、あまりの騒音のひどさに耐えかねて、1865年に公布された赤旗法の制約によって、ガソリンエンジン車の開発では大きく遅れた。
イギリスでは、19世紀末になって独自技術を開発したランチェスター兄弟、ドイツ技術を導入したデイムラー社などによって、ガソリンエンジン車ビジネスがスタートを切ることができた。

イギリス、フランス、ドイツの3国に産業革命で遅れをとったイタリアは、19世紀後半に入ってから工業化を急ぐことになり、1899年には工業都市トリノの実業家たちが資金を出し合ってガソリンエンジン車ビジネスを起こすためにフィアット社を設立して、先行するドイツとフランスの追撃を始めた。


1776年に独立し新興国家として元気いっぱいのアメリカ合衆国においても、自動車産業が勃興してきたが、ここでも蒸気自動車、電気自動車、ガソリンエンジン車の間で厳しい競争が繰り広げられた。
この中でガソリンエンジン車を開発して注目を集めたのはデュリエ兄弟であり、アメリカにおけるガソリンエンジン車第1号としての栄誉を獲得した。

その後、ガソリンエンジン車ではオールズモビル社が、蒸気自動車ではスタンレー社が成功を収めることになったが、アメリカの自動車産業人として特筆すべきはヘンリー・フォードである。
根っからの自動車人であるフォードは、試行錯誤を重ねながら自動車業界における自己の確立に努め、自動車メーカーを創業した。

フォードブランドに続いて、高級車で有名となるキャデラックや、ゼネラルモーターズ(GM)社の中核ブランドとしてビュイックが誕生するなど、アメリカ合衆国では新興自動車メーカーの設立が相次ぐことになった。


ヨーロッパに戻ると、20世紀に入る頃には、蒸気自動車、電気自動車、ガソリンエンジン車の三つ巴の競争は、ガソリンエンジン車の勝利で決着がついてきた。

ガソリンエンジン車で先行するドイツでは、自転車メーカーからガソリンエンジン車への進出を果したオペル社が小型車で自分たちの存在基盤を形成しようと努めていた。
またダイムラー社は、ブランド名をメルセデスに変更するという思い切った対策を打ち出し高性能車としてのブランドを確立しつつあった。

フランスではルイ・ルノーという青年技術者が生み出す自動車に注目が集まるようになっていた。

20世紀に入ると、ガソリンエンジン技術で先行するドイツとフランスをイギリスが激しく追い上げてきた。
世界最高級車の栄光に輝くことになるロールス・ロイスが誕生し、ローヴァーやオースチンが続いて、産業革命の盟主としての地位を維持すべく必死の努力が継続されたのである。


自動車が誕生してから1908年までに誕生した主たる自動車ブランドの一覧表を作成してみた。
ここに登場している21のカーブランドは、それまでに市場に登場した数多くのブランドのほんの一部に過ぎないが、主要21ブランドのうち現代も販売が続けられているブランドは13だけである。

現在、地球上で自動車産業の中で大きなウェイトを占めている日本車、韓国車、中国車は、ここまでではひとつも登場していない。

また、この3国以外で、現在数多くの自動車を販売しているブランドの中では、ドイツのBMW、アウディ、フォルクスワーゲン、ポルシェ。
フランスのシトロエン。
イタリアのアルファ・ロメオ、ランチア、フェラーリ。
アメリカのシボレー、ダッジ、リンカーン、クライスラーなどもここまでには登場していない。
これらのブランドに関しては、本書及び『第四巻』以降に、大きなスペースを割いて記述することになっている。

《 1908年までに誕生した主要な自動車ブランド 》

 (*Sは蒸気自動車、Gはガソリンエンジン車を表す。)
 ❖フランス:ボレー 1873~、S→G
 ❖フランス:ド・ディオン・ブートン 1883~、S→G
 ❖ド イ ツ:ベンツ 1885~、G
 ❖ド イ ツ:ダイムラー 1889~、G
 ❖フランス:パナール&ルヴァソール  1889~、G
 ❖フランス:プジョー 1889~、S→G
 ❖アメリカ:デュリエ 1893~、G
 ❖イギリス:ランチェスター 1895~、G
 ❖イギリス:デイムラー 1896~、G
 ❖アメリカ:オールズモビル 1896~、G
 ❖アメリカ:スタンレー 1897~、S
 ❖ド イ ツ:オペル 1898~、G
 ❖フランス:ルノー 1898~、G
 ❖イタリア:フィアット 1899~、G
 ❖ド イ ツ:メルセデス 1901~、G
 ❖アメリカ:フォード 1901~、G
 ❖アメリカ:キャデラック 1902~、G
 ❖アメリカ:ビュイック 1903~、G
 ❖イギリス:ロールス・ロイス 1904~、G
 ❖イギリス:ローヴァー 1904~、G
 ❖イギリス:オースチン 1905~、G

(「クルマの歴史300話」 第三巻 序章は、ここまで)



クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり

ブログ「クルマの歴史300」は2018年4月にスタートを切り、1週1話の構成となっていて、毎週火曜日に〔前編〕を金曜日に〔後編〕を掲載しています。
第一巻となる「自動車の誕生」の1話から50話までは、2019年3月末に掲載が終了し、同年4月より第二巻となる「自動車産業の興隆」が51話から始まり、本年3月20日に100話の掲載が終了しました。
ブログ「クルマの歴史300」はこれで完結したのではなく、ブログタイトルが示すように“300話”で完結すべく準備を整えています。
ブログ更新は従前どおり、毎週火曜日に新しいストーリーが始まり、金曜日に終了するスタイルを継続しますので、引き続きましてのご愛読をよろしくお願いいたします。


「第三巻 大量生産の始まり」の案内   


『クルマの歴史300話 第一巻 自動車の誕生』と『クルマの歴史300話 第二巻 自動車産業の興隆』を読んだ方々から、「おもしろい」「勉強になった」という声が寄せられ、多くの人々に受け入れられていることを知って、これまで苦労を重ねて著作を進めてきた筆者は満足に包まれている。

いろいろな反響と同時に、熱心な読者からたくさんの質問が寄せられているが、かなりの部分は共通するので、この紙面を借りて回答することにしよう。


「これだけの大作の著作をするのに、どのくらいの時間がかかっているか」という質問が実に多かった。

『第一巻』の“はじめに”で、この点に触れているが、筆者が本格的に『クルマの歴史300話』の著作に取り組みを開始したのは、ある大学が社会人を対象としたマーケティング講座の講師依頼を受けた2000年の正月過ぎからであるから、本日までに既に20年という長い歳月が流れている。
実は、それに先立つ4~5年前からひまを見つけては自動車の発展史を書き綴っていたので、『第三巻』ができ上がるまでには、相当の時間がかかっている。

これからも『クルマの歴史300話』は続くので、筆者のライフワークとなることは間違いないが、いつまで続くかはまったく見当がついていない。


次に多いのは、「これだけ豊富な内容を記すために、いったいどのくらいの文献を参考にしたのか。その中で、最も参考になったのはどんな書籍であったか」という質問である。

筆者が参考にした内外の文献は数え切れない。
これらをよく見ると、時代背景と自動車を取り巻く環境が変化しているので、『第一巻』『第二巻』『第三巻』の各々で参考にした文献はまったく異なっている。
したがって、いちばん参考になったという書籍があるわけではなく、数多くの文献を参考にさせていただいた。


イラストに関する質問も読者から数多く寄せられている。
その中で、「登場する人物像の原画はどんなもので、それをどのようにして描いたのか」という質問が多かった。

筆者は、『クルマの歴史300話』を著作するのに、写真またはイラストというビジュアル表現は欠かせないと考えていたが、やり方に関しては試行錯誤が繰り返された。
最初は写真を使うつもりであったが、版権の問題がある上に、全体の統一感を得ることが難しいと判断して取りやめた。

その次に、イラストで登場人物の肖像を描くことにした。
プロのイラストレーターにお願いすることを考えないわけではなかったが、いっそのこと自分で描こうと思い立って、筆者がオリジナルマテリアルをベースに登場人物のイラストを描き始めた。
これらの作業時間は膨大な時間を必要としたが、途中で投げ出すわけにはゆかないので、辛抱強く描くことを続けて完成を見たのである。



さて、これから『クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり』の案内をすることになるが、その前に『第一巻』と『第二巻』の内容を振り返ってみよう。


『クルマの歴史物語 第一巻 自動車の誕生』の舞台はヨーロッパ大陸で、記述の対象となる期間は、ジェームス・ワットの蒸気機関発明によって、イギリスで産業革命が始まり、フランスとドイツに広がってゆく19世紀末までの期間であった。
第一巻では産業革命がもたらしたものとして蒸気船、蒸気機関車、鉄道システムの普及ぶりが語られている。
本書のテーマである自動車に関して、ニコラス・オットーが開発した4ストロークサイクルの内燃機関を基点として、1886年に世界で最初となるガソリンエンジンを搭載したゴットリープ・ダイムラーのオートバイ、1886年春に完成したカール・ベンツの3輪車など、ドイツで始まった自動車技術がヨーロッパ各国へと広がっていくようすを記述した。


『クルマの歴史300話 第二巻 自動車産業の興隆』では、アメリカ合衆国が新たに舞台に加わり、主たる記述対象期間は1901年から1908年までの8年間であった。

『第二巻』では、基本構造が確立した自動車技術は性能アップを続け、〈メルセデス/ジンプレックス〉や〈ロールス・ロイス/シルバーゴースト〉といった完成度の高いクルマが姿を現すようすなど、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアというヨーロッパ勢に、アメリカ合衆国を加えた5カ国を中心として、自動車産業が興隆する話が記述されている。


これから始まる『クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり』の舞台は、『第二巻』に引き続いてヨーロッパ大陸とアメリカ合衆国であり、記述対象期間は主として1909年から1918年までの10年間であるが、このうち1914年から1918年までの5年間は、ヨーロッパ大陸で勃発した世界大戦という悲惨な戦争が繰り広げられた期間である。

『第三巻』は、《三のⅠ章 フォード車の大量生産》、《三のⅡ章 アメリカ自動車産業の波動》、《三のⅢ章 多彩なヨーロッパ車》、《三のⅣ章 華麗なる自動車レース》、《三のⅤ章 世界大戦の始まり》、《三のⅥ章 元気なアメリカ車》、《三のⅦ章 悲劇の世界大戦》という7章構成であり、全体では50のストーリーが語られているので、『第一巻』からの通算では101話から150話になる。


それでは、簡単に各章の内容を紹介しよう。

《三のⅠ章 フォード車の大量生産》は、本書のハイライトともいうべき、ヘンリー・フォードによって開発されたベルトコンベアによる大量生産の仕組みづくりに関する話が中心である。
それまで、徒弟制度による職人の仕事であったモノづくりを、熟練労働者でなくてもできるように、フォード社によってベルトコンベア方式が開発され、大量生産と低コスト化が実現された。
これによってアメリカ人なら少し無理すれば買えるような価格を〈フォード/T型〉が実現して、自動車の需要は急拡大した。
需要増によって更なる大量生産が可能となり、これがコストダウンに直結し、再び売価を安くできるという好循環が形成され、アメリカ合衆国においてモータリゼーションが一気に開花するという内容がⅠ章である。


《三のⅡ章 アメリカ自動車産業の波動》は、1909年から1913年頃までのアメリカ自動車産業の動向について書かれている。
その中でもビリー・デュラントによって創業されたばかりのゼネラルモーターズ(GM)社が、大きな混乱の中でのたうち回るようすがⅡ章の中心テーマである。
それともうひとつ、インディアナポリス500マイルレースなど、アメリカ合衆国での自動車レースの始まりのようすがⅡ章で記されている。


《三のⅢ章 多彩なヨーロッパ車》から舞台はヨーロッパの地に移り、1909年以降のヨーロッパ車の活躍ぶりが記述されている。
この章では、スイス生まれでスペインの地においてイスパノ・スイザ社を創業したエンジニアのマルク・ビルキヒトが開発したDOHCエンジンの高性能ぶりと、イタリアでのランチア社とアルファ・ロメオ社の創業の話が記されている。


続く《三のⅣ章 華麗なる自動車レース》の舞台は、Ⅲ章に引き続いてヨーロッパである。
フランスで最高の人気レースとなったACFグランプリに加えて、1910年頃になると、イタリアのシチリア島でのタルガフローリオ、イギリスでのツーリストトロフィー(TT)レースなど、ヨーロッパ各地で開催される自動車レースの人気はだんだん高まってきた。
これらのレースで活躍するイスパノ・スイザ、プジョー、メルセデス、フィアットらに、新鋭ブガッティやアストン・マーティンが登場するなど、百花繚乱のようすを呈してきたヨーロッパ車の話が、この章で語られる。


Ⅰ章からⅣ章は平和の時代の話であるが、《三のⅤ章 世界大戦の始まり》から、一気に戦時体制へと時代が大きく転換する。
『第三巻』のテーマは、タイトルで示されているとおり、フォード社によって開発された大量生産の仕組みであるが、もうひとつ、1914年に勃発した世界大戦と自動車技術という大きなテーマが存在している。

1914年夏に、〔イギリス+フランス+ロシア〕協商国と〔ドイツ+オーストリアハンガリー〕同盟国との対決という図式の世界大戦が始まった。
戦争は国民の命と国家の存続がかかっているだけに、参戦国は持てる全ての力を勝利に向かって結集する。
1886年にガソリンエンジン車の1号車がドイツで誕生してから20年が経過した自動車のエンジン技術は、航空機用エンジンの分野で急速に発展することになった。
Ⅴ章では、協商国と同盟国が対決する背景となった国際情勢、開戦に至るプロセス、世界大戦の主役に浮上してきた航空機技術の発展ぶりなど、世界大戦の悲惨さと、それと裏腹の関係にある技術の進展ぶりが話の中心である。
この章の最後は、ヨーロッパの地での戦争に対する、ヘンリー・フォードの反戦活動について記されている。


世界大戦が始まると、アメリカ合衆国のウッドロー・ウィルソン大統領は中立路線を保つことにしたので戦争に巻き込まれることなく、両陣営に武器弾薬を供給する役割を果たすことによって、アメリカは一気に世界最大の経済大国に浮上することになった。

1914年の世界大戦勃発から1917年の参戦までの期間のアメリカ自動車産業のようすを綴ったのが、《三のⅥ章 元気なアメリカ車》の内容である。
この章では、部品メーカーのダッジ社がオリジナル車をつくって自動車メーカーへの変身を図ったり、GM社を追放されたビリー・デュラントがシボレーブランドを引っさげて復活を果したり、キャデラックがV8エンジンで大成功したり、新興メーカーのパッカードがV12エンジンで高級車としてのブランドを確立するなど、多彩なアメリカ車が活躍するようすが語られている。


『クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり』の最後の章は、《三のⅦ章 悲劇の世界大戦》である。
1914年に始まった世界大戦では、産業革命以降の工業の発展に伴って武器の能力が向上し、大量殺戮兵器が次々と戦場に投入されることになった。
中でも、長期塹壕戦での決着をつけるべくドイツ軍が使用した毒ガス兵器は人間の尊厳を奪うものとして、長く歴史にとどめられるべき最悪の殺戮兵器となった。

海上では巨大戦艦同士が大砲を打ち合い、大空では戦闘機が空中戦を繰り広げ、陸上では馬車に代わって軍用車や戦車が登場するなど、それまで主力としてきた馬を中心とする機動部隊は消え去り、近代兵器同士の凄まじい戦いは、数百万人の兵隊や市民の命を奪い、地球上の貴重な資源を消耗するだけの人類史上で最悪の戦争になったのである。

『第三巻』の最終章であるⅦ章は、アメリカが参戦して以降の世界大戦の戦況を近代兵器の登場、特に軍用機の発展を中心に記述した。
そしてロシアで社会主義革命が発生し、1918年には原因不明のスペイン風邪という伝染病が流行して、ヨーロッパは暗黒大陸の様相になる中で、4年間にわたる戦争が終結を迎えることで『クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり』も終わることになる。

蜷田晴彦

「クルマの歴史300話 第三巻 大量生産の始まり」のイントロダクションは、ここまでです。今週の金曜日は第三巻の“序章”を掲載します。