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74話.ロールス・ロイスの誕生〔後編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・ロイス:1863年生まれ。貧しい家に生まれ苦労を重ねたイギリス人。
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。自動車に興味を抱くイギリス人大金持ちの息子。
■クロード・ジョンソン:1877年生まれ。チャールズ・ロールスの友人で事業協力者。


大金持ちの息子チャールズ・ロールスは、ロンドンでフランス車プジョーを乗り回した


ロールス・ロイス物語のもうひとりの主人公であるチャールズ・ロールスは、フレデリック・ロイスとはまったく異なる人生を歩んでいた。

ロールスの誕生は1877年8月、ロイスが1863月3月生まれであるので、14年と5ヶ月ロイスより遅く生まれたことになる。
出生地はロンドンで、ロールス家はもともと貴族の家系で裕福な生活をしていた。

最高レベルの教育を受けて育ったロールスはケンブリッジ大学で工学理論を学ぶなど、当時のロイスが聞いたら“めまい”がするような環境の中で、なに不自由なく成長していた。

19歳の時、最新のフランス製自動車のプジョーを親から買ってもらったことで人生が大きく変わった。
自動車の可能性に魅せられて、将来、自動車こそが陸上交通の主役になるのではないかという確信をもつようになった。

そこで、自動車の魅力をもっと多くのイギリス人に知ってもらおうと、着目したのが自動車レースだった。
赤旗法施行中のイギリスには、自動車レースがどんなものであるか、それがどれほど男を興奮させるかを知っている者はひとりもいなかったからである。


1899年22歳のロールスは、愛車プジョーと共にドーヴァー海峡を渡りパリを訪れた。
そして、人気沸騰中のパリ~ボローニャ間自動車レースにエントリーしたが、このレースの結果は最下位という無残なものであった。


1903年、大学を卒業したロールスは自動車ビジネスを生涯の仕事にすることを決意して、親友のクロード・ジョンソンと共同してC.S.ロールス社という自動車の輸入販売会社を設立した。
26歳の青年が親の資金で、自分の趣味である自動車を生涯のビジネスにしようというのは、“お坊ちゃん商売”の最たるものであったが、ロールスにはそれなりの勝算があった。


Rolls,Charles②第二巻074話
〈大金持ちの後継者チャールズ・ロールス〉






イギリスにおいて、自動車を買える層は極めて限られていた。
そしてこれを買う目的は単に実用ではなく、自動車を持つことによって得られる何か、例えば優越感、スピード感を誇示したいという欲望である。
自動車を買えるだけの財力がある人はほんの一握りであるが、ロールスの周りはそんな人ばかりが暮らしていて、顧客開拓は最も得意とするところであった。
もうひとつ、ロールスは自動車を見る眼には自信があった。
イギリス中どこを探しても自分ほどのドライバーはいない、ということはレースで実証済みである。


このC.S.ロールス社が最初に輸入を開始したのは既に有名になっているパナール&ルヴァソールと新興のモールというフランス車であった。
ヨーロッパの自動車産業の動向を熟知しているロールスは、ベルギーで誕生したばかりの自動車メーカーのミネルヴァにも可能性を見込んで、イギリス国内での独占販売権を取得したのである。



F.ロイスの自動車に乗ったC.ロールスは、機械としての信頼性の高さに驚いた


1904年のある日、チャールズ・ロールスはいつものようにACGBIのテストドライブ会に参加した。
このテストドライブ会にはイギリス製の最新カーが参加するようになっていたが、今まで乗ったどのイギリス車も、自分が取り扱っているパナール&ルヴァソールやモール、さらにはミネルヴァに勝る性能を持つクルマに出会ったことはなかったので、この日もそれほど期待をしていなかった。
会場で当日のテスト車であるロイス車を見ても、外見上特段の印象もなかったし、性能スペックにも心をときめかす数字はなかった。

走行テストが始まってしばらく走らせたところ、このクルマは何かが違うことに気がついた。
それは今までのクルマにない“エレガント”という表現にふさわしい走行ぶりであって、その原因はエンジンとタイヤの組み合わせにあるとロールスは見抜いた。

しかし、よく考えてみればこのロイス車のエンジンは2気筒というシンプル構造であるので、既に普及していた4気筒に比べてそれほどスムースにエンジンが回転するわけがないのだが、その2気筒エンジンが「なぜかくもエレガントなのか」、「いったいどんな人がこのクルマをつくったのか」をロールスはどうしても知りたくなって、自分を抑えつけることができなくなった。

走行テストを終えると、ACGBIのスタッフにロイス社に関する情報を聞いて回って、このクルマはマンチェスターに住んでいるフレデリック・ロイスという名の技術者がつくったということを知ったのである。


それから1ヶ月後の1904年5月、ロールスはマンチェスターを訪れ、ロイスに会見を求めた。
ホテルで行われた最初の会見で話を切り出したのは27歳の青年の方であった。
ロールスは今までの自動車に関わる自分の体験を話しながら、いかにイギリス車が世界水準から遅れているか、これをそのまま放置すれば国益は大きく脅かされるという持論を述べた。
そして、ロイスのクルマに乗った感想とその可能性などを話しながら、自分の夢はイギリス車を世界最高水準の評価を得るまでに育てることであり、そのために自分の自動車ビジネスを役立てたいと熱心に話し続けた。

これを静かに聞いていたのが、14歳年長のロイスである。
ロイスはロールスの自動車に対する見識の高さに驚いた。
ロイスと仲間がここ数年、白紙の状況からフランス車を改良しながら、自動車というものがどんなものであるかを手探りで模索してきた自分たちの知識が、まったく狭いものであったことをはっきり知らされたのである。
この日はここまでで、初めての2人の会談は終わることになった。


後日マンチェスターを再び訪問したロールスは、ロイスに対して、自動車メーカーを共同してつくって、ここで生産する全ての自動車の独占販売権を、C.S.ロールス社に与えていただけないかと要請した。
ロイスとしては、今まで苦労して蓄積したダイナモとクレーンの仕事でロイス社のビジネスは安定する見通しを持っていたので、自動車産業に本格的に進出するのにためらう気持ちがあった。
その反面で、ゼロから出発して技術一筋で生きてきたが、ここでもう一花咲かせるのも人生かなと思い始めたのであったが、ロイスは2回目の会談でも明快な返答はしなかった。



独占販売権交渉はその後半年間継続して、ついに1904年12月に両者は契約書に調印することになった。
この契約では、今後製作する全てのロイス社のクルマには“ロールス・ロイス”という名前が与えられることが取り決められた。
これこそ、現代まで営々と続く、栄光のロールス・ロイス誕生の瞬間であった。


rolls-royce2上074話←“ロールス・ロイス” 創業期のブランドマーク



(〔74話〕はここまでで、〔75話〕は来週の火曜日に掲載。)


74話.ロールス・ロイスの誕生〔前編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・ロイス:1863年生まれ。貧しい家に生まれ苦労を重ねたイギリス人。
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。自動車に興味を抱くイギリス人大金持ちの息子。
■クロード・ジョンソン:1877年生まれ。チャールズ・ロールスの友人で事業協力者。


イギリスの田舎生まれのフレデリック・ロイスは、貧乏のどん底でたくましく育った


“世界の最高級車”という栄誉に輝くロールス・ロイス社の創業者のひとりであるフレデリック・ロイスは、1863年にイギリス中東部の片田舎で貧しい粉引きの子供として生まれた。
ロイスが4歳の時、父親は仕事に失敗して一家はロンドンに移り住むことになったが、その父親は病に倒れてしまった。

ロイスは、子供ながら新聞配達を始めとしてあらゆる労働に身をおいて家計を助けなければならなかったので、満足な教育を受けることができなかった。
その父親も、長患いの果てにロンドンの粗末な家で亡くなった。

15歳になったロイスは、親戚の中で経済的な余裕がある叔母の援助を受けて、鉄道会社の機関車工場に見習として就職した。

この時代のイギリスは産業革命の真っただ中にあって、工業技術は日進月歩で発達する時代であり、鉄道は最も光り輝いていた産業であった。
ところが、このような大工場であっても、機械を操作する工員の教育訓練に関して、現代的な仕組みのようなものは何もなく、伝統的な徒弟制度のもとで、新人は親方の下で働きながら体で技術を習得するというのが唯一の道であった。


ロイスが就職した鉄道会社は、イギリスでは最も進んだ蒸気機関車を製造する会社であって、後に機械技術に生涯をささげることになるロイスにとっては、運命の出会いともいうべき職場となった。

徒弟制度では、見習の少年が親方からもらえる金額は、とても給料といえるようなものでなく、小遣い銭程度であったので、これで生活することはほとんど不可能だった。
そこで、叔母の資金援助を得ながら、ロイスは少しずつ技術を習得するのであるが、持ち前の器用さでたちまちのうちに一人前の技術者に育っていった。


そんな環境の中で、ロイスは蒸気機関や新しい機械のメカニズム理論に対する関心を持つようになった。
しかし、ロイスがいくら考えても蒸気機関のメカニズムの全貌を解明することはできなかった。
自分の学力がいかにも不足していることを自覚して、再度基礎から勉強しようということで夜間の工業専門学校の聴講生になり、電気、物理、化学、機械などの勉強に励んだ。

ロイスが最も関心を持ったのは、電気に関する知識だった。
電気は、人々の毎日の生活に少しずつ普及しつつあるものの、その用途は限定的であって、誰もその無限の可能性に気がついてない時期だった。

ロイスはもって生まれた器用さと現場で鍛えられた技術スキル、自らの関心事であるメカニズム理論の学習、さらに完璧にやり遂げないと納得できない性格によって、技術者として力をつけるのである。

その後、鉄道会社を辞めて、いくつかの仕事を変わった後、小さな電気関連会社の技術責任者にならないかという誘いがあったので、就職することにした。
この会社で、電気技術の実務に初めて携わることになったが、何ごとも徹底するロイスのことで、仕事もだんだんと軌道に乗ってきたが、せっかく入社した会社はすぐに倒産してしまった。
どこまでも運のないロイスの人生である。



21歳に成長したF.ロイスは、技術を磨いて電気部品を製造する会社を立ち上げた


Royce,Frederic①第二巻074話
〈ロールス・ロイスの生みの親フレデリック・ロイス〉





この倒産を契機として、ロイスはこれからの人生をどのように生きたらいいのかを真剣に考え始めた。

そこで得た結論は自立だった。
どんな小さくてもいい、人に使われるのでなく、自分で全てに責任を持つ人生に挑戦しようと決意を固めたのである。
小さい時から苦労を重ねながら一歩一歩積み上げて、人に負けない知識と技術を身につけたという自信が、自立という結論を導き出したのであろう。

ロイスが自立した時は、まだ21歳という若さであった。
今まで必死で貯めた資金を元手に、あるパートナーと一緒にロイス社という電気部品製造をビジネスとする新会社を、イギリス中部の工業都市マンチェスターで設立した。
パートナーの出資金はロイスより多かったので社長に就き、ロイスの役割は技師長となった。

新会社は電気に関する仕事ならばどんなことも引き受けたが、メインビジネスはランプホルダーやフィラメントといった電気部品を製造業者に卸す仕事であった。

新会社はスタートこそもたついたものの、その後は順調に業績を向上させたが、この会社で手がけた仕事は誰でもやれることばかりで、ロイス社ならではというわけではなかった。
これでは大きな成長が望めないので、顧客のニーズに合う新商品開発をロイスは真剣に模索した。
そのうちに、お客さまの中から、「どの会社のダイナモ(直流発電機)も、火花が散ることが多くて危険で扱い難いので、スパークする危険性がなくて確実に作動するダイナモはできないか」という相談を受けた。

この話がきっかけとなり、夢中になってダイナモの構造を解明し、問題点の把握に努めて、整流子とブラシのデザインを全面的に見直したダイナモの開発に成功した。
ロイスが開発したスパークレス・ダイナモは顧客から高い評価を得ることができて、ロイス社の看板商品となってきた。

1894年には、もうひとつの新商品である電動クレーンの開発に取り組んだ。
これ以前のクレーンは蒸気機関を動力としていたが、電気モーターを使うことによって扱いやすい電動クレーンの開発に成功し、これがロイス社の第2の商品に育っていった。



品質第一主義にこだわるF.ロイスがつくった1号モデルの完成度は極めて高かった


1901年にフランスで、ドコーヴィルという名前を付けた、排気量3リッターの4気筒エンジン車が誕生した。
このクルマをつくった会社は、翌年になると、空冷2気筒エンジンとクラッチとギヤボックスをひとまとめに据え付けるという独創的技術のクルマの販売を開始した。


074話ドコーヴィル1902
←ロイスが購入した“ドコーヴィル”




1903年のある日、ロイスは知人が使っていたドコーヴィルを安く分けてもらった。
実際あちこちを走り回ってみたところ、ロイスの価値観からすると商品としては不完全な所ばかりが目に付いた。
スピーディに走らない上に乗り心地は悪いし、振動と騒音はがまんができないほどであった。
これを改良しようとあちこちいじっているうちに、いっそのことまったく新しくつくってしまおうとロイスは考え始めた。


新しいクルマをつくるとしたら、最初に結論を出さねばならないのは動力を何にするかという点で、蒸気がベストか、はたまた電気がよいのか、さらにはドコーヴィル同様ガソリンエンジンなのかという難問だった。

このうち、既に人気下降中の蒸気自動車は除外した。
ロイス自身は電気の知識があったので、電気自動車の可能性に賭けてみようとも思ったが、そこは冷静に、電気自動車とガソリンエンジン車のメリットとデメリットを比較してみた。

ロイスが考えた電気自動車のメリットは、モーターで車輪を動かすので変速機が不要で構造が簡単という点と、加速がスムースで振動が少なく乗り心地がいいという点であった。
これに対してデメリットとしては、充電時間がかかる点と、バッテリーの性能が充分でないため航続距離が短い点をあげた。

このように考えると電気自動車の問題点はバッテリーに集約されることになるが、ロイスの知識では、いくら努力してもバッテリーを改善することは至難だった。
そこで、ロイスは電気自動車をあきらめてガソリンエンジン車の開発に取り組むことにした。


こうして、新しいクルマの開発にエネルギーを投入することになったが、ロイスは常々「商品はそのプライスを忘れられた後も、クオリティは永遠に残る」ということを部下に言い続けているほど品質にはうるさかった。

新車開発方針として、「新規性を追求するのでなく、信頼性にこだわる」ことを掲げたが、この点こそ、ロイスが一生かかって貫き通すことになる品質第一主義の思想であった。


ロイスが開発に取り組みを始めた新型自動車では、この時代としては定石となっていたFRレイアウトを採用することにした。
次いで、排気量1.8リッターの水冷直列2気筒エンジンの開発に取りかかった。
この新型車には安定した性能を引き出す霧吹き式キャブレターや、冷却効率が高いハニカム式ラジエターが採用された。
トランスミッションは前進3段後進1段であったが、これらは既に自動車技術として実績を積み重ねたものばかりであった。

ロイスにとって最初のクルマは1904年4月に完成したが、この時ロイスは40歳という働き盛りであった。


074話ロールス・ロイス1号車“10HP”1904
←“ロールス・ロイス”の1号車




ロイスはこれで満足することなく、1号モデルの欠点を改良して2号モデルを開発して自分のビジネスパートナーに提供した。
さらに2号車の問題点を徹底的につぶして完成度を高めた3号モデルを、ロイス社の大株主のヘンリー・エドモンドに提供した。
エドモンドはパーソンズ・スキッドタイヤ社という会社の経営に当っていたので、ロイスは新型車にこの会社の空気入りゴムタイヤを装着して、自動車の評価機関として最高の権威といわれたACGBI(イギリス・アイルランド自動車クラブ)が主催する走行テストに持ち込んだ。

このテストの目的は、ようやく工業製品として完成しつつある自動車にとって、タイヤや自動車部品がどのようにマッチングするかをテストすることにあったが、エドモンドの会社のタイヤを装着したロイス車の優秀性は、テストドライバーを感心させるには充分すぎた。

(金曜日の〔74話:後編〕に続く)


73話.パリ~マドリッド間レースの悲劇〔後編〕

《 主な登場人物 》
■マルセル・ルノー:1872年生まれ。パリ~マドリッド間レースに参戦するルイの兄。
■ルイ・ルノー:1877年生まれ。パリ~マドリッド用のレース専用車を開発した弟。
■アルベール・ド・ディオン伯爵:1856年生まれ。ガソリンエンジン車へ転身する貴族。
■カミーユ・ジェナッツィ:1868年生まれ。“赤い悪魔”と呼ばれるベルギー人ドライバー。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。高性能車に邁進するダイムラー社技師長。


自動車メーカーのド・ディオン・ブートン社は、ガソリンエンジンメーカーに変身した


de-dion-borton2上073話
←“ド・ディオン・ブートン”のブランドマーク



蒸気機関エンジニアのトレパルドゥとおもちゃ職人のジョルジュ・ブートンの技術によって、蒸気自動車ビジネスを始めたド・ディオン伯爵は、問題の多い蒸気自動車に見切りをつけてガソリンエンジン車に転向した。

最初につくったガソリンエンジン車は、自転車を改造したような小型3輪の〈ド・ディオン・ブートン/トリシクル〉であったが、このクルマの完成度は高く、19世紀末のフランスでヒット商品となった。
次いで、ド・ディオン・ブートン社として初めての4輪ガソリンエンジン車を1899年に売り出した。

次の新型車を考えていたド・ディオン伯爵は、自分が関係するACF(フランス自動車クラブ)が、ヴォワチュレットクラスだけのレースを開催することを知る立場にあったので、排気量400㏄で出力3.75HPの単気筒エンジンをリヤに搭載する、“Dモデル”を製作した。

このクルマは、運転席が車体の後方におかれ、運転者は前部座席に座る乗客と向かい合って座るというビザビスタイルであった。
したがって、走行中の会話を弾ませるには向いていたが、前に座っている人の隙間から前を見なくてはならないというように、安全運転という視点から見ると大きな問題を抱えていた。

このような珍奇なレイアウトにもかかわらず、Dモデルはすばらしい売上を示すようになり、舞い込んでくる注文に応えるためド・ディオン伯爵は工場を拡張したが、この機会に、エンジン単体をヨーロッパ各地の自動車メーカーに供給する仕事に取り組むことにした。


073話ド・ディオン・ブートンD
←〈ド・ディオン・ブートン/Dモデル〉




ド・ディオン・ブートン製エンジンの優秀性と相まって、エンジン需要は伯爵が考えていたよりはるかに多かった。
フランスはもとより、ドイツ、イギリス、イタリアなどのヨーロッパ諸国で雨後の筍のごとく誕生していたガソリンエンジン車メーカーからの発注が相次いで、生産が追いつかなかった。

1904年頃になるとド・ディオン・ブートン製のガソリンエンジンの生産量は年間で4万台という規模に達した。
このエンジンを生産するために工場で働く労働者数は千人を超えて、一方クルマの生産量も年産2千台規模となってきたのである。



ダイムラー社のW.マイバッハが設計した〈メルセデス/35HP〉は時代の寵児になった


ダイムラー社にあって高出力エンジン車の開発を急ぐウィルヘルム・マイバッハ技師長の所を二度にわたって訪れたエミール・イェルネックの提案によって、ダイムラーブランドではないメルセデスブランドの35HPモデルが誕生したことは、既に語られている。

その後、エミール・イェリネックはできたての新車〈メルセデス/35HP〉を駆って、フランス各地のレースに参加するようになった。
この時代の自動車技術水準にあってこのクルマの性能は抜き出たものであって、参加したレースで連戦連勝を重ねる“メルセデス”の名声は高まるばかりとなった。

1901年のニース自動車週間中のメルセデスの活躍は、ヨーロッパ諸国のモータースポーツ界に強いインパクトを与えた。
ACF事務総長のポール・メヤンは、1901年の年末に当り、雑誌のインタビューに答えて、この年を振り返り「メルセデスの時代に入った」とコメントしているが、この言葉はそのまま新しい時代の到来を告げることとなった。


さて、エミール・イェリネックからの特注モデルの提案は、その後もダイムラー社内で議論が続いたが、メルセデスというブランドが高性能車としてのイメージを蓄積しているのを目の当りにした経営幹部は、この路線が正しいことに確信を持つようになった。

こうなると、新しい議論が沸き起こった。
それは、この機会にダイムラー社でつくる全てのクルマのブランド名をメルセデスに変更しようという考えであり、それほど、イェリネックが販売したメルセデスの高性能ぶりは際立っていたのだ。

役員会で審議の結果、イェリネックの了解を得たうえで、ダイムラー社は自社でつくる全てのクルマにメルセデスを正式車名とすることが決定された。
役員陣の要請を受けてマイバッハはニースのエミール・イェリネックに手紙をだし、会社の意向を伝えたら、ほどなくして無償でメルセデスブランドを供与するとの返事を受け取った。

1902年には商標登録する手続きは完了した。
このようにブランド名は変更したが、会社名のダイムラー社というのは、変更することはなかった。

〈メルセデス/35HP〉の成功は、ダイムラー社には大きな成果をもたらした。
19世紀末の時点で、販売台数ではダイムラー社はベンツ社の10分の1程度に過ぎなかったものが、20世紀に入った直後のメルセデスの成功によって、ベンツ社を販売台数で追い越し、自動車メーカーとしてトップの位置を逆転したのである。



〈メルセデス/35HP〉に続いて〈メルセデス/ジンプレックス〉シリーズが誕生した


1903年、ダイムラー社はウィルヘルム・マイバッハの設計になるジンプレックスという新シリーズの高性能車を発表した。
“ジンプレックス”というのはドイツ語であって、英語のシンプルを意味する。

排気量9.3リッターの〈メルセデス/ジンプレックス60HP〉、12リッターの〈メルセデス/ジンプレックス90HP〉というモンスターエンジンを搭載した2種類の高性能車の登場は、1901年に登場した〈メルセデス/35HP〉に続いてヨーロッパ中の自動車人を驚かせた。


073話メルセデス90HP
←高性能車〈メルセデス/ジンプレックス90HP〉




1903年のゴードンベネット杯の開催権は、前年のイギリス車ネイピアの優勝によって、イギリス・アイルランド自動車クラブ(ACGBIと略)の手に移ることになった。

イギリスの法律では道路上でのレースは禁じられていたので、ACGBIは開催地をアイルランドの首都ダブリン郊外に選定し、このレースを成功させるために大キャンペーンをうった。
その結果、アイルランド国会議員の熱心な支援を得ることができ、また住民から多額の寄付が寄せられた。

また懸案であった安全性確保に関して、コースのポイントとなる場所には数多くの警官が警備につくことになった。
また、レース出場車の停車区域を設置したり、長めの7分間隔のスタートをとるなど、クルマ同士の接触を防ぐ種々の措置が採られた。
こうして準備を整えた第4回ゴードンベネット杯には、開催国のイギリスに加えて、フランス、アメリカ、ドイツの各国から3台編成の代表チームが派遣され、出走することになった。


ドイツ代表はメルセデスであり、このクルマのドライバーとして、スピード競争でシャスルー・ロバ伯爵と死闘を繰り返して、とうとう史上最初となる時速100キロの大台を突破した、“赤い悪魔”ことベルギー人のカミーユ・ジェナッツィが契約された。

そんな時に、メルセデスの工場が火事となり、このレースのためにつくった90HPを発揮するニューモデルが焼けてしまうというアクシデントによって、ジェナッツィが乗るのは、いったん顧客に販売した60HPモデルを買い戻したクルマとなった。

前年の優勝杯保持者で、アイルランド人やイギリス人の応援を一身に受けることになったネイピア車のハンドルを握るセルイン・エッジは、割れるような大喚声を浴びてスタートを切ったが、1周目の終わり頃には、トップを走るジェナッツィ運転のメルセデスから大きな差をつけられた。
また、アメリカ勢としてウィントンが参戦していたが、スタート時点からキャブレターの調子が悪くて勝負にならなかった。

ジェナッツィが荒々しいハンドルさばきでトップを突っ走り、2周目の150キロを過ぎた辺りから2位に大きな差をつけた。
前年優勝者としての面子をかけたエッジは、タイヤの破損にもめげず3位に食らいついていた。
ジェナッツィは、今にも事故をおこしそうな運転でトップを守り続け、後を追うフランス勢の3台を1周1周引き離していった。

5周目になるとチームメイト車が後部車軸を破損してリタイアして、ドイツ勢で残るのはジェナッツィだけとなったので、慎重な運転に切り替えるかと思われたが、さらにペースを早めていった。
無傷のフランスチーム3台が狙う目標はジェナッツィのメルセデスに絞られたが、大きく開いた差は最後まで詰めることはできなかった。

ジェナッツィは2位に12分という大差をつけてゴールインして、巨大なゴードンベネット杯をドイツに持ち帰ることになった。
一方、前年度の優勝者セルイン・エッジ運転のネイピアは最下位に終わり、応援してくれた同胞の期待を裏切る結果となった。


その後ダイムラー社カンスタット工場は、火災から一刻も早く立ち上がることができるよう必死の工場再建作業が続けられた。
1年後に、新工場は完成し、ジンプレックスシリーズの製造は再開されることになり、続々と市場に提供されるようになったのである。

1904年にジンプレックス90HPは、最高時速156キロという世界新記録を達成した。
さらに、1904年10月にアメリカで開催されたヴァンダービルト杯では公道上で平均149キロという走行速度記録を樹立して、〈メスセデス/ジンプレックス90HP〉は世界最高速の自動車と認められたのである。

(〔73話〕はここまでで、〔74話〕は来週の火曜日に掲載。)


73話.パリ~マドリッド間レースの悲劇〔前編〕

《 主な登場人物 》
■マルセル・ルノー:1872年生まれ。パリ~マドリッド間レースに参戦するルイの兄。
■ルイ・ルノー:1877年生まれ。パリ~マドリッド用のレース専用車を開発した弟。
■アルベール・ド・ディオン伯爵:1856年生まれ。ガソリンエンジン車へ転身する貴族。
■カミーユ・ジェナッツィ:1868年生まれ。“赤い悪魔”と呼ばれるベルギー人ドライバー。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。高性能車に邁進するダイムラー社技師長。


パリ~マドリッド間レースで、マルセルの事故死という悲劇がルノー兄弟社を襲った


1903年5月24日のこと、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿から1分おきに次々と砂塵を上げてクルマが出発していった。
その日は朝から太陽が燦々と輝いてたいへん暑く、乾ききっていた路面のほこりはひどいものだった。
行く先は1,000キロ先のスペインの首都マドリッドであり、いよいよ自動車レースの始まりとなった。

エントリーしたクルマは全部で275台、この中には新たに開発した6.3リッターエンジンを搭載する〈ルノー/30CV〉や〈メルセデス/40HP〉も入っていたが、今日では誰も知らないような小さなメーカーまで、たくさんのクルマが参加してスピードを競うことになった。

この時代のヨーロッパでは、自動車レースは娯楽の少ない庶民の楽しみになっていた。
手軽に見ることができてスリル満点の自動車レースの熱狂ぶりは、現代では想像できないくらいで、一説によればこのレースには300万人が沿道に集まったという。
夜のうちに自転車に乗った無数の人びとがコース周辺に集り、沿道に待ちかまえていた。
昼近くになると、ぎっしりと並んだ人垣ができ、レース車が走る道の中央は2メートルも開いていないほどだったという。

コースになっている道を取り巻く人々を、警官が警護することになっていた。
ところが、民衆の熱気に圧倒され、人数的に少ない警官では何ともやりようがなく、人々は疾走してくるクルマを見ようと前に前にと乗り出すのであるから危険極まりない事態となった。
しかも、この時代の道は郊外になるとほとんど舗装してなかったので、疾走する自動車から巻き上がる砂嵐で、後続車の視界はなくなってしまうから、事故が起きないのが不思議な状況となった。

このレースに参加したクルマは、既に高速走行できる性能を持っていた。
メルセデスは最初の区間である28キロを17分で走行したというから、平均時速はほとんど100キロ近くに達していた。
最高速が出るといわれたルノーに至っては、直線の瞬間最高時速では140キロを超えていたという。

こんなスピードで次から次にクルマが疾走して、少しでも前に行こうとして競争するので事故は頻発した。
参加したクルマの中には、犬にぶつかったはずみでステアリングが効かなくなり、時速120キロで立木に激突したクルマや、路上に子どもが飛び出し、これを救おうとして兵士が突進してきたので、あわててハンドルを切ったが間に合わず、子どもと兵士をはね飛ばした後、群集の中に突っ込んでしまい、子どもと兵士と同乗していたメカニックの3人が死亡するという最悪の事態を招いたクルマもあった。

イギリスから参戦したウーズレー車は踏切番が上げるのを忘れた遮断機に衝突して炎上し、メカニックが焼死するという悲劇のレースとなった。
優勝候補ナンバーワンのダラック車と、そのライバルのボートをさかさまにしたような流線形のスタイルをした〈モール/ドーフィヌ〉は走行中に接触して、共に優勝を諦める羽目に陥った。


073話ルノー・レーサー
←レースで疾走するルノー車




マルセル・ルノーが運転するルノーは、今まで経験したことがない数多くの群集に囲まれて思うようにスピードが出せなくてイライラしながら、がまんの運転を続けていた。
ようやく郊外になり、スピードが出せるようになって、ぐいっとアクセルを踏み込んだ。
最高スピードになったかなと思った瞬間、クルマの安定を制御できなくなって、スピンを始め、すぐに横転することになってマルセルは下敷きになり致命傷を負うという悲劇が起きた。

マルセルの事故は、直ぐにルイに知らされた。
ルイが現場に駆け付けた時には、マルセルの体を押しつけていた車体は取り除かれ、事故現場に置かれたまま血まみれで呻いていて、救急隊はまだ到着していなかった。

ルイは、「兄貴、兄貴」と何度も声を掛けたが、マルセルからは何の反応もなかった。
まだ息はある、救急隊が到着するまでがんばれと兄を励ますものの、次第に息遣いは弱くなり、大きく息を吸ったと思った瞬間、それ以降呼吸は続かなかった。
「兄貴、兄貴」と泣き叫ぶルイの声は辺りを圧したが、やがてその声も聞こえなくなった。

これらの数多くの事故が発生したにもかかわらず、フランス政府はレースの中断を決断しなかったので、最初の中継地のボルドーまで参戦車は突き進んだ。

最初にボルドーに到着したのは、〈モール/ドーフィヌ〉であった。
168番目にスタートしたのに、先行車が撒き散らすほこりをものともせず次々と追い抜き、放置された事故車を横目に見ながらボルドーまでを5時問15分で走破したのだった。
観客とドライバーを合計して20名以上が死亡するという異常状況の下、フランス政府は事態を重視し中止命令を発し、この時点でパリ~マドリッド間レースは取り止めとなったのである。



自動車レースへの参戦を止めたルイ・ルノーは、トラックや商業車づくりに邁進した


マルセルの事故死の数日後、しめやかにマルセル・ルノーの葬儀が執り行われた。
ルノー家にとっては、初めての葬儀であり、父も母も若すぎる息子の死を受け入れることができなく、ただただ悲しみに沈んでいた。

この数年、弟のルイと共に自動車レースにのめり込み、ルノー車の名声が高まり、レースドライバーであるマルセル・ルノーの力量は高い評価をいただいていたが、レースの危険を不安視していた家族にとって、余りに大きな代償となった。
葬儀の間中、両親と兄弟から、ルイは冷たい視線を浴び続けた。
兄を失った悲しみと、この原因をつくってしまったという悔恨がルイを襲い、暫くの間は立ち上がることができなかった。


ルイ・ルノーは最愛の兄マルセルの死に結びついたパリ~マドリッド間レースの後は、決してハンドルを握ろうとはしなかったが、新型自動車の設計には熱中した。
これ以降、ルイが開発するのはスピードを競うレース専用車ではなく、実用性の高いクルマばかりとなった。
その一方で、「レースで勝てるクルマはルノーだ」とその名声は高まるばかりであり、ルノー車でレースに参戦する若者が後を絶たなかった。


ルノー兄弟社では、エンジンは全て自社製になり、2気筒の8HP、これのチューンアップ版である2気筒10 HP、新しい4気筒の20 HP、パリ~ウィーン間レースで活躍したパワフルな4気筒35 HPエンジンというようにバラエティ豊かになってきた。
これらのうち、いちばん小型の2気筒8HPエンジンを搭載する“8CVモデル”は軽量で取り扱いやすいと、たちまちのうちに人気車となり、1905年にパリ辻馬車会社は、ルノー社に1,500台のタクシー用車両を発注したという。


073話ルノー8cv
←タクシー用として人気を集めたルノー8CVモデル






〈ルノー/8CV〉のタクシーは、距離に応じて料金が計算されるタクシーメーターが採用され、パリのタクシーの代名詞になるほどの人気ものになった。
このクルマは外国にも輸出されて、ロンドンやニューヨークでもタクシーとして採用されたそうだ。

タクシーで成功したルノー社は、バスやトラックという商業車の開発にも意欲的に取り組んだ。
最初に生産されたのは、数多くの人々を乗せることができるバスであり、トラックも生産されるようになった。

(金曜日の〔73話:後編〕に続く)


72話.ウィーンまでの激闘〔後編〕

《 主な登場人物 》
■フェルナン・ルノー:1870年頃の生まれ。フランス人ルノー家の次男。弟ルイの支援者。
■マルセル・ルノー:1872年生まれ。ルノー家の三男。ルイと仲良しで優秀なドライバー。
■ルイ・ルノー:1877年生まれ。ルノー家の四男。自動車を製作したメカマニア。


スタート直後のフランス国内舗装路はパナール&ルヴァソールが上位を独占した


鴨肉はマルセルの大好物である。
パリには二人が気に入っているレストランはいくつもあるが、ここは特別だ。
今まで何度、ここに来たことだろう。
何回食べても味が変わらないのは、何か特別の秘密があるに違いない。
二人とも、お皿はすっかり空になっていて、デザートが待ち遠しくなってきた。

「パリ~ウィーン間レースの第1ステージは、パリを出発してからフランス国内を走るのだが、舗装区間が多くて大型車が有利となり、区間終了時点ではパナール&ルヴァソールが6位までの上位を独占した。この時点で、メルセデスが7位、ルイは8位だったが、俺は10位にも入っていなかった」

「2日目は中立国のスイスであるが、レースに関して政府当局の許可がどうしても下りず、全てのクルマは通過するだけで終わったね」

「3日目のオーストリアに入ってから、山岳コースとなった。今までまともにクルマが通ったことのないような曲がりくねった山岳路が続くので、重いパナール&ルヴァソールやモールは山道にてこずり、少しずつ脱落していったね。そして、アルベール峠を登る時点で、とうとう僕がトップに踊り出ることになったが、第3ステージのゴール直前で他車にぶつけられ、その衝撃でステアリングが傷んでしまい、全く残念なことに、これ以上走れなくなってしまったのだ」

「ルイがこのままトップでゴールインすることを期待していただけに、残った俺が何とか頑張らなきゃと気を引き締めたよ」

「第3ステージの終了場所であるザルツブルグに到着した時点では、パナール&ルヴァソールが1位、ダラックが2位、メルセデスが3位という順番になっていて、兄貴は7位まで順位を上げてきたが、その時点では残念ながら大差をつけられていたよね」



ゴール直前で、マルセル・ルノーが運転するルノー車がトップのパナールを追抜いた


マルセルは大好きな赤ワインで本日の締めにするつもりであった。

「いよいよ最後の第4ステージが、スタートを切った。俺は優勝への最後のチャンスであるこの日に勝負をかけていた。第4ステージの最初は山道だから、軽量のルノーにとっては有利だ」

「兄貴はスタート早々からアクセルを踏み込み、巧みなミッション操作で加速減速を繰り返し、1台さらに1台と追い抜き、ついに3位まで順位を繰り上げたんだね」

「実際はそれからが大変で、2位に浮上していたメルセデスはパワーがあるので直線では早く、なかなか追いつけなかったが、コーナーに入る時の一瞬のすきを見てインサイドに飛びみ、これを抜き去ったのだ」

「兄貴。いよいよ最後に、パナール&ルヴァソールとの一騎打ちになったんだよね」

「さすがに大排気量で70HPというパワーを引き出すこのクルマは早く、なかなかその姿を捉えることができなかったが、最終ゴールまで100キロあまりの所で、先行車が巻き上げる砂塵を見ることができた。俺は、床も抜けんばかりにアクセルを踏み込んで追走したら、徐々に接近していったが、直線になると離され、コーナーで追い着くという繰り返しとなったのだ」

「そんなに熾烈だったの」

「トップを行くパナール&ルヴァソールの方も必死だ。せっかくここまでリードしたものを、ルノーのごときに抜かれてたまるかと俺の進路を妨害して、危険極まりないスピード競争が10数キロの期間にわたって繰り返された。2人のドライバーによる根競べで勝利したのは、俺の方だった。ゴール直前のコーナーでついにパナール&ルヴァソールを抜き去ったのだ」

「そのまま、ルノーがゴールインして、優勝カップを勝ち取ったんだね。兄貴の走行時間26時間10分の平均走行スピードは62.5キロとなるが、山道が多いこのレースの平均走行スピードとしては記録破りだったよね」

「トップを走る俺のクルマが最終地点に到着したのは、到着予定時間の2時間も前のことで、ゴール地点では出迎える準備がほとんどできていなかったからね。レース関係者もまさかこんな早く到着するなんて考えていなかったろうな」

マルセルは幾分酔っていたが、いつもの酒量で収まったので、このまま部屋に帰って明日レースのためにゆっくり休んでもらいことが今は大切だと、ルイはクールに考えていた。

(〔72話〕はここまでで、〔73話〕は来週の火曜日に掲載。)