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129話.モーガン社とモーリス社の創業〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ヘンリー・モーガン:1881年生まれ。モーガン社を設立したイギリス人技術者。
■ウィリアム・リチャード・モーリス:1877年生まれ。モーリス社のイギリス人創業者。
■マックルズフィールズ卿:1870年頃の生まれ。W.R.モーリスを支援するイギリス貴族。
■ハンス・ランドスタット:1880年頃の生まれ。W.R.モーリスに協力するイギリス人技術者。



 W.R.モーリスは念願であった小型車の〈モーリス/オックスフォード〉を完成させた 


ここに至りモーリスは、長年夢にいだいてきた「質のすぐれた小型車を生産して庶民でも手の届く価格で販売する」という夢を実現すべく、自動車メーカーを設立するのである。
モーリスの考えは、業界で優秀さが認められている部品製造業者からエンジン、ギヤボックス、シャシーなどを安く仕入れて、これらの部品を使って大量生産するという考えであった。
そこで、部品調達プランを立案してみたら、当初予想よりもっと多額の資金が必要なことが分かってきたので、スポンサーとしてマックルズフィールド卿という、貴族で大金持ちの自動車愛好家を見つけ出した。


Macclesfield第三巻129話
〈モールス青年を支援するマックルズフィールズ卿〉


卿はモーリスの事業拡張計画に2万5千ポンドという大金を出資してくれることになったが、会社の経営に関しては何も口出ししないと約束してくれた。

こうして1912年8月に、ウィリアム・リチャード・モーリスの頭文字をとったW.R.M.モーター社(以下、W.R.M.社)という自動車メーカーが設立され、会長はマックルズフィールド卿で社長がモーリスという経営体制がスタートを切った。

モーリス社長はかねてから構想をもっていた小型車の設計に取り掛かり、これを完了させた後、各部品をどの会社から仕入れるかの購入契約商談を進めることになった。


こうしてW.R.M.社としての処女作であり、ゆかりの都市の名前を付けた〈モーリス/オックスフォード〉という2座の小型車が徐々に姿を現してきた。

モーリス社長は、この試作車を携えてロンドンヘ行き、当地で自動車販売会社を経営するゴードン・スチュアート社長に会見を申し入れ、新型小型車の一手販売に関する話し合いを進めて、最終的にここで400台の売買契約を取り付けることに成功した。

これで自動車の生産ロット数は確定したので、400台分の部品を一括発注することで、更なるコストダウン交渉力を持つようにしたが、このやり方はモーリスが編み出したものである。
通常であれば、新車開発をすることは新しい自動車部品を開発することを意味しているが、モーリス社長の考えは違っていた。
部品仕様は特注品ではなく、既存の標準品を使用することでコストを抑えることを基本方針とし、専門メーカーから安く調達したのである。

こういうやり方で、〈モーリス/オックスフォード〉という超小型車ができあがってきた。

morris3上129話
←“モーリス”のブランドマーク





 小型で軽快に走る〈モーリス/オックスフォード〉は人々から好評をもって迎えられた 


〈モーリス/オックスフォード〉は、1913年2月にマンチェスターで開催されたモーターショーで華々しくデビューした。
しかしそれは外見だけで、実はこの時点で本物のエンジンが間にあわずボンネットの中には木製のダミーが付けられていたので、実際には走れなかった。

エンジンはその後間に合ったが、ロンドンへスチュアート社長がクルマを引き取りに来た3月になっても、機械的な欠陥が見つかって、この修理に手間取っていた。
スチュアート社長はがっかりしてロンドンに帰った後、モーリスは技術陣に対応策の実施を急がせた、ようやくにして〈モーリス/オックスフォード〉は完成するのである。

市販を開始した〈モーリス/オックスフォード〉は、市場から好評をもって迎えられた。
排気量1リッターの直列4気筒エンジンで、最高時速88キロに達する軽量小型車には、スピードが出ると軽い車重が災いして、サスペンションがききすぎ道路の上をぴょんぴょん飛び跳ねるという欠点があった。
また、2人用シートであるはずなのに、狭すぎて腕同士がぴったりくっついてしまい、運転者が体の大きい人の場合、1人しか乗れなかった。

このように〈モーリス/オックスフォード〉には欠点が多くあったが、売り出し価格が175ポンドというように安い上に信頼性が高かった。

〈モーリス/オックスフォード〉の販売数は、販売を開始して以降、毎月100台をコンスタントに稼げるようになり好調を持続したが、世界大戦の勃発により部品の供給がストップしてしまい、生産中止を余儀なくされるのである。


129話モーリス・オックスフォード
←大ヒットした小型車〈モーリス/オックスフォード〉





WRM社のウィリアム・リチャード・モーリス社長は、〈モーリス/オックスフォード〉を売り出した時点で、このような小さな2座車には限界がくるかもしれないと考えていて、近い将来にもう少し大きくて信頼性が高い4座車の時代がくるに違いないと予想していた。

この種の自動車はアメリカ車が先行していて、〈モーリス/オックスフォード〉の4座バージョンの製造コストを試算してみたところ、イギリス車のコストはアメリカ車よりはるかに高いと推定された。
そこで、モーリス社長は、アメリカの自動車メーカーが自動車を安くつくる秘密を探るために、1913年末にエンジンメーカーに勤めるハンス・ランドスタット技師と共に視察旅行に行くことにした。

1カ月問にわたるアメリカ視察は、大きな成果をもたらした。
アメリカの部品メーカーから部品を買えば、大西洋を運ぶ船賃を加えたとしても、国内の業者から買うよりずっと安くつくことが分かってきた。
例えば、4座車用として予定している排気量1.5リッターのエンジンの価格は、国産だと50ポンドを下回ることはなかったが、アメリカのコンチネンタル社デトロイト工場の出荷価格は25ポンドというように大きく違っていた。


Landstaff,Hans第三巻129話
〈モーリス社長をバックアップするハンス・ランドスタッフ〉




1914年8月、モーリス社長は、再びランドスタット技師を伴って、アメリカにわたり、コンチネンタル社との間でエンジン3千基を購入する契約をして帰国したが、この直後にバルカン半島で発射された銃弾が、ヨーロッパの地を揺るがす大きな戦争に拡大するとは、誰も考えていなかった。

戦争が始まっても、ランドスタット技師はそのままアメリカにとどまり、昼はコンチネンタル社で働きながらアメリカ流の大量生産方式を学び、夜は新型となるモーリス車の設計に励んだ。
さらに時間を工面してフォード社を始めとした自動車メーカー各社を訪問して、自動車関連知識の吸収に努めたのである。

モーリス社長に遅れて帰国したランドスタット技師は、それまで勤めていた会社を辞めてWRM社に入り、自分が設計した新型モーリスの製作にとりかかるのである。
こうして工場所在地から名前をとった〈モーリス/カウリー〉の試作車が完成したのは1915年4月のことであった。

〈モーリス/カウリー〉の生産は世界大戦が勃発して1年後の1915年10月に始まり、1カ月問で50台のペースで生産されるようになってきたが、輪入車および自動車部品には33%の関税が課せられるようになったことで、大幅なコストアップを余儀なくされ、本来価格競争力を持つはずであった〈モーリス/カウリー〉は、国産車よりも高くなって価格競争力を失い、売れなくなるのである。

それに、アメリカからくる予定の3千基のコンチネンタル社製エンジンの半数が、ドイツ軍のUボートによって大西洋の藻屑と消えてしまったことが業績悪化に追い討ちをかけることになった。

(〔129話〕はここまでで、〔130話〕は来週の火曜日に掲載。)


129話.モーガン社とモーリス社の創業〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ヘンリー・モーガン:1881年生まれ。モーガン社を設立したイギリス人技術者。
■ウィリアム・リチャード・モーリス:1877年生まれ。モーリス社のイギリス人創業者。
■マックルズフィールズ卿:1870年頃の生まれ。W.R.モーリスを支援するイギリス貴族。
■ハンス・ランドスタット:1880年頃の生まれ。W.R.モーリスに協力するイギリス人技術者。



 聖職者の息子のH.モーガンは3輪自動車にこだわり続け、この完成度を高めた 


「128話」からイギリス自動車産業の話が続いている。
最初はアストン・マーティンの誕生ストーリーであり、続いてイギリスフォード社とメインディーラーを訪問したヘンリー・フォードの話であった。

次に案内するイギリス車のブランドは“モーガン”である。
代々聖職者という家系の中で生まれたヘンリー・モーガンは、乗り物とか機械が大好きな少年として育ち、とても聖職者には向いていなかった。

この子の成長を見ていた父親は、自分の仕事を継がせることが必ずしも本人にとって幸せでないことを悟って、ロンドンにある技術学校で専門教育を受けることを息子に勧めた。

ここを卒業したモーガン青年は、グレートウェスタン鉄道に入って、技術の実務を学んだ後に、ウースター州でダラック車とウーズレー車のディーラービジネスに取り組んだ。
そしてウーズレー車を用いてハイヤー事業を始めたところ、多くのお客さんに利用してもらえるようになってきた。


これらのビジネスで成功したモーガンは、新しいクルマをつくることに意欲を持つようになり、最初から4輪車に取り組むのは難しいのでオートバイの試作に没頭した。

1908年になると、フランスから輸入した空冷方式のプジョー製V型2気筒エンジンを使ったオートバイが完成したが、これに満足することなく、次は同じエンジンを使う小型3輪車づくりをしたいと思うようになった。

モーガンは24歳になっていた。
聖職者の父は、息子が始めた新事業に大きな可能性を見い出し、今までコツコツと貯めてきたお金を拠出してくれたので、これを元手にして、前2輪・後1輪の軽量小型の3輪自動車の開発に取り組んだ。

この3輪車では、エンジンが最前部に剥き出しのまま設置された。
エンジンの動力は、チェーンを切りかえる方式の2速変速機を経由して後輪を駆動する方式が採用された。
この2速変速機には後退ギアはなく、向きを逆に変えたい時は、車の後部を持ち上げて一回転させるというように、1人乗りの3輪自動車は軽量が持ち味となっていた。

モーガンは、1910年にロンドンで開かれたオリンピア・モーターショーにできあがったばかりの3輪車を出展したところ、観客から好評をもって受け入れられたので、いよいよ本格的な生産に移すことを決意した。
翌年になると、剥き出しのエンジンをボンネットカバーで覆い2座に改良された3輪車が、この頃としてはいちばん安い65ポンドという価格で販売が開始された。


morgan3上129話
←“モーガン”のブランドマーク



1912年、ブルックランズサーキットにおいて、1時問でどれだけの距離を走れるかを競う競技に、モーガン3輪車は参戦することになった。
1回目のレースにおいて1時間で88.5キロを走り2位に入るという健闘を示して、2回目の挑戦ではなんと96.6キロを走って初優勝を飾ることになるのである。

モーガン製3輪車のスピードと高い実用性を見い出したハリー・マーティンという男が、エンジン専門メーカーであるJAP社製エンジンに積み替えた“モーガン-JAP”というクルマをつくって、各地のローカルレースに出場して、度重なる優勝を飾るようになり、モーガンの人気はしだいに高まってきた。

前2輪・後1輪の3輪自動車の将来性に自信を持つようになり、改良を重ねて完成度を高める努力を継続したヘンリー・モーガンは、3輪構造にこだわり続けて、世界大戦が始まる頃には、モーガン社は年間で1千台をつくる会社に育っていた。



 自転車事業で才覚を発揮したW.R.モーリスは、自動車ビジネスで生きることにした 


次に案内するイギリス車のブランドは、後に“牛の鼻”というニックネームが付いたフロントデザインで有名になるモーリスである。

この会社の創業者であるウィリアム・リチャード・モーリスはアメリカ合衆国で乗合馬車の御者をしたりインディアン部族と一緒に生活した経験をもつ変わり者の父の子として、1877年にイギリスのウースター州で生まれた。
ウィリアム少年が小学校に通う年齢になると、モーリス一家はオックスフォード近郊のカウリーという所で生活するようになった。

15歳で学校を卒業したモーリス少年は、オックスフォード市街にある大手の自転車販売店で働くようになった。
モーリス少年は頭の回転が速い上に、人の気持ちを掴むことに優れていた。
また機械工学に強い関心を持ち、物事を理論的に考えることができて、自転車にかかわる仕事をマスターして、少し天狗になっていた。

働き出して9カ月後になると、自分の給料を上げてほしいと店主に要請するという生意気な行動に走ったが、言下に断られて店主との関係が冷え切ってしまった。
こうして居づらくなったモーリス少年は店を辞め、自宅の納屋で自転車修理業を始めることにしたが、壊れた自転車を修理することに飽きてしまい、自分でオリジナル自転車をつくって、これを売り出すことを考えた。

「モーリス少年がつくる自転車は、できがよく軽快に走る」という口コミの評判が街中に伝わって、お客さんからの注文が来るようになってきた。
自転車製造業者として実力を蓄えたモーリス少年は、自分の自転車をもっと有名にしようと考えて、自作の自転車に乗っていくつものレースに出走するようになり、優勝を重ねてエリアチャンピオンになるのである。


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〈商才溢れるウィリアム・リチャード・モーリス少年〉








1897年、20歳に成人したモーリス青年は、オックスフォード市内でオリジナル自転車の販売店を開店した。
顧客の注文は増え続けて仕事は順調に発展して、20世紀の幕開けとなる1901年に入ると、オートバイに進出することを考えた。
技術開発に熱心なモーリス青年は、他社のオートバイの構造を研究して、長所と短所を整理し、技術オリジナリティを模索した結果、いくつかの特許を取得でき、本格的にオートバイ製造事業に乗り出す準備が整ってきた。

この仕事は大きな資本を必要とするので、資金を提供してくれる新しいパートナーを探して、共同でオックスフォード社というオートバイメーカーを設立することになったが、自分の自転車ビジネスはこれとは別に温存しておいた。

1903年11月、オックスフォード社はロンドンで開かれたオリンピア・モーターショーに、自社開発のオートバイと3輪自動車を出品したところ、たいへんな評判を呼ぶことになり、華々しいスタートを切ることができた。

オックスフォード社は、3輪車を発展させた4輪自動車を開発して売り出したところ人気が高まり、モーリス青年は工場で生産活動に邁進することになった。

新しい会社がスタートして2年がたった頃、会社の決算書を見ていたモーリス青年は、それまで順調な経営が続いているものと思っていたところ、前月から急に赤字決算に陥っているのでびっくりした。
赤字の原因がどこにあるかを徹底的に調べた結果、共同出資者のひとりで販売部門の責任者となった男が無茶な値引き販売を続けていて、この事実を隠していたのが発覚して、それがゆえに決算が悪化したことが判明したのである。

あれだけたくさん売れたのは、クルマの魅力にあったのでなく大幅値引きの結果であることを理解したモーリス青年は、自動車製造を続けることに自信が持てなくなってきた。
そこに、当然のことながら会社の資金繰りが悪化して、とうとうオックスフォード社は倒産することになった。


若くして経営者になったモーリス青年に初めての試練が訪れた。
幸いにして、自転車ビジネスのほうは順調だったので、自転車店の営業権とオートバイ関連特許権を売り払い現金を取得した。

この資金を元手にしたモーリス青年は、オックスフォード市内に拠点を設けて自動車ディーラーを立ち上げた。
ここで取り扱うことになったのは、アロール・ジョンストン、ハンバー、シンガー、スタンダード、ウーズレーなどイギリスでの人気車ばかりであった。

自動車ディーラーと同時に、タクシーやハイヤービジネスを開始した。これらの事業はことごとく成功して、“オックスフォード・モーターパレス”と呼ばれるほどの立派なビルディングが建てられ、モーリス社長は鼻高々であった。

(金曜日の〔129話:後編〕に続く)


128話.アストン・マーティンの誕生〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ライオネル・マーティン:1890年生まれ。チューンアップ技術を磨くイギリス人技術者。
■ジョージ・シンガー:1847年生まれ。シンガー社の創業者でイギリス人事業家。
■ヘンリー・フォード:1863年頃の生まれ。イギリス進出を考えるフォード社社長。
■ピーター・ビケンズ:1865年頃の生まれ。T型を売るイギリスフォード社社長。
■ジェームス・サットン:1855年頃の生まれ。ロンドンでのフォード車ディーラー店主。



 T型フォードで大成功したフォード社は、海外進出の第一歩をイギリスで踏み出した 


20世紀初頭のイギリスの自動車産業の話が続いているが、今度はアメリカ生まれのイギリス車の話である。

〈フォード/T型〉の大量生産で自信を持ったヘンリー・フォードは、このクルマならば世界中を制覇できると考えて、同じ英語圏であるイギリスへの輸出を考えた。

この狙いは見事に当り、イギリス国内での販売台数がだんだん増えてくると、部品を輸出して現地で組み立てる方が安くできることが分かったのでノックダウン方式に切り換えることにした。

1911年3月にイギリスでの受け皿会社として、現地法人のイギリスフォード社がマンチェスターで設立され、組み立て工場の建設に入った。
初年度である1912年には3千台という台数を組み立て生産し、イギリスのあちこちでT型は走り始めるようになってきた。

マンチェスター製のT型は、左側通行というイギリスの慣習に従って右ハンドルに改められることによって人気はさらに高まって、1913年には7千台を売り、イギリス国内において30%近いシェアを占めるトップメーカーにのし上がることになったのである。


こんな時に、ヘンリー・フォード社長が、イギリスを訪問し市場視察をすることになった。
そこで、イギリスフォード社のピーター・ビケンズ社長は、ロンドンを拠点とするいちばん大きなディーラーであるサットンブラザース社の、日頃から懇意にしているジェームス・サットン社長を表敬訪問する段取りをつけた。


Bickens,Peter第三巻128話
〈フォード社長を前に緊張するピーター・ビケンズ〉

新大陸から遠来の客であり、自分の仕事の製品を供給してくれている大親分のヘンリー・フォードを出迎えるサットン社長は緊張して挨拶を交わすことになった。
「初めまして、自分がこの会社の社長をやっております、サットンでございます」

「初めまして。わしがヘンリー・フォードだ」
ヘンリーは最低限の挨拶をしただけであった。

「日頃はフォード車をたくさん売らせていただいておりまして、心より感謝申上げます」

「こちらこそ」
ヘンリーと返事はしたものの、横柄な態度はまったく変わらなかった。

サットンとしては、もう少し感謝の言葉があってもしかるべきかなと思ったが、本社からわざわざやってきたフォード社長のご機嫌が悪くなってはと心配したサットンが気を使って、お世辞で会話を繋ぐことにした。
「フォード社長もたいへんお元気なようですが、お幾つになられましたか」

「63歳じゃ」
ヘンリーの答えは簡単なもので、話が続きにくくなっていたが、サットンは話を繋ぐことに必死であった。

「そうですか。時々は外国へお出かけになるのですか」

「めったにない」
ヘンリーはぶっきらぼうの受け答えしかしないので、イギリスフォード社のビケンズ社長を始めとしたお付きの人びとはひやひやのしっぱなしであった。

あまりの無反応にどんな言葉をかけたら良いのか戸惑っているサットンに、ヘンリーの方から声がかかった。
「うちのT型の売れ行きはどうじゃな」

話を繋ぐチャンスがやってきた渡りに舟と、喜んで答えた。
「おかげさまでたいへんよく売れていまして、今年は過去最高の台数を記録すると思います」

「過去最高とはどのくらいかな」
ヘンリーから、続け様に質問があった。

「恐らく、当社では年間では4,500台にはなると思います」
サットン社長が答えたら、間に入って、イギリスフォード社のビケンズ社長が、いかにも自慢そうに口を挟んだ。
「イギリス全土では8千台を突破できそうです」

これに鋭くヘンリーが反応した。
「たった8千台か。ビケンズ君。今年アメリカでT型が何台売れるか知っているかね」

ビケンズの方に飛んできた質問の矢であったが、アメリカの事情に疎いビケンズは、あてずっぽで答えるしかなかった。
「10万台くらいでしょうか」

これを聞いたヘンリーの反応で、事態はあらぬ方向に歩み始めた。
「社長である君が、そんな無知では困る。今年は70万台を超えると予想されているのだ」

「え、そんなに売れるのですか!」

驚いたビケンズ社長に、ヘンリー・フォードは説教を始めたのである。
「だいたい社長である君が、このように無知だからイギリスでの販売台数がなかなか1万台に到達しないんだ。今や、うちのT型にかなうクルマはアメリカではどこにもいない。それだけT型はいいクルマなのに、イギリス全土でたった1万台というのは少なすぎないか」

人前で恥をかかされたビケンズ社長は抗弁しようと思ったが、自分たちの最大の顧客であるサットン社長の前であるので、ここは忍耐することにした。



 H.フォード社長はアメリカでやったこととまったく同じことをイギリスでやろうとした 


イギリスフォード社のピーター・ビケンズ社長は、ジェームス・サットン社長の所に、自分たちの大親分であるアメリカ本社のヘンリー・フォード会長を案内した。
フォード会長は上機嫌で、ビケンズ社長にもっとT型を売るようにハッパをかけるのであった。
そして、サットン社長に向きを変えて話しかけた。


Satton,James第三巻128話
〈フォード社長に意見を述べるジェームス・サットン〉








「ところで、サットン社長。この機会に、言いたいことがあったら、遠慮なく言ってくれないか」

「私たちは、いいクルマを提供していただけましたら、商売は難しくありません。この2年間は、T型のおかげで順調にやれてきました」

サットンは感謝の言葉を述べると、ヘンリーはますます上機嫌になった。
「それを聞いて安心した」

フォード会長から、遠慮なく言ってくれという言葉を思い出したサットンは、日頃から考えていることを口に出した。
「しかし、これからは難しい時代を迎えることになると思います。と申すのは、イギリスの景気が下降局面に向かっていまして、今から不況対策を考えなくてはと思っているのです」

「それで…」
ヘンリーがサットンの真意を測りかねていた。

「この機会に、お願いがあるのですが。よろしいでしょうか」

「さっきも申したように、遠慮なく言ってくれたまえ」

「これから不況が来ると、購買力が低下します。そこで、もう少し小さくて安いクルマをつくっていただけると、フォード車はもっと売れるようになると思いますが…」

「サットン社長、小さくて安いクルマをつくって欲しいという要望ですな」

「そのとおりです」
返事をしたサットン社長を見るヘンリーの目がだんだん厳しくなった。
「それなら、断る」
ヘンリーは大声で言い切った。

これには、当のサットン社長ばかりでなく、ビケンズ社長も飛び上がらんばかりに驚いた。

「君は、ものごとが分かっていない。小さくて安いクルマというのは、一見して成立しそうだが、必ずしもそうではない」
さっきと同じような説教調でヘンリー・フォードは話し始めるのである。
「商品の原価を構成する要素では、材料費がいちばん大きなウェイトを占めるのは事実である。その点でいえば、確かに小さいクルマは安くできる要素を持っている。ところが実際のコストでは、生産台数の多少による効率の方が大きく影響して、台数が少ないクルマは高くつき、その逆で大量生産できるクルマは固定費を吸収して安くできるのじゃ。したがって、少しくらい小型にしても、生産台数が増えない限り、大量生産車より安くならないのじゃ。どうだ、分かったかね」

「恐れ入ります」

「わしが言いたいのは、このままT型の販売台数が増え続けば、小さいクルマより原価は安いので、それだけ価格競争力はあるということじゃ。したがって、フォード社はT型より小さいクルマをつくる考えをもってないということを知っておいてほしい」

「分かりました」

お客様に頭を下げさせて涼しい顔をしているヘンリー・フォード社長の得意満面の横顔を見ているビケンズ社長の額から、大粒の汗が滴り落ちていた。

(〔128話〕はここまでで、〔129話〕は来週の火曜日に掲載。)


128話.アストン・マーティンの誕生〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ライオネル・マーティン:1890年生まれ。チューンアップ技術を磨くイギリス人技術者。
■ジョージ・シンガー:1847年生まれ。シンガー社の創業者でイギリス人事業家。
■ヘンリー・フォード:1863年頃の生まれ。イギリス進出を考えるフォード社社長。
■ピーター・ビケンズ:1865年頃の生まれ。T型を売るイギリスフォード社社長。
■ジェームス・サットン:1855年頃の生まれ。ロンドンでのフォード車ディーラー店主。



 ヒルクライムレース場のアストン・クリントンでライオネル・マーティンが優勝を重ねた 


産業革命を起し、近代工業を創設したイギリスが、自動車産業の発展ではドイツとフランスの後塵を拝すことになった事実は、取り返すことができなく、イギリスは自動車ビジネスの国際競争に敗れることになった。

そのイギリスにあって、今日も名車として高名を維持し続けているブランドとして、ジャガーならびにアストン・マーティンをあげることができよう。
これから、その“アストン・マーティン”の創業物語を語るとしよう。

20世紀の初めの頃、イギリス人のライオネル・マーティンは、信頼できる友人と一緒になって、自動車修理工場を経営していた。
マーティンは自動車レースが大好きで、各地で開催されるようになってきた自動車レースで勝利できるよう、自分たちの技術を総動員してエンジンをパワーアップしたクルマで参戦したが、優勝はなかなかできなかった。

ロンドン北西のアストン・クリントンという所で行われるヒルクライムレースに参戦するために、イスパノ・スイザのシャシーにチューンアップしたエンジンを載せた改造車ができあがってきた。
このクルマの完成度は極めて高かったので自信を持ったマーティンは、今度こそ優勝を狙うと周りの人々に宣言した。

アストン・クリントンでのレースは、最後までどのクルマが勝利するのか分からない熾烈な競い合いであったが、トップでゴールインしたのはマーティンだった。
これで自分のエンジン技術にすっかり自信を持つようになったマーティンは、本気になって改造車ビジネスに乗り出すことにし、チューンアップしたクルマに“アストン・マーティン”という名前を付けることにした。


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←創業期“アストン・マーティン”のブランドマーク





このブランド名は、アストン・クリントンというレース場の名前と、ライオネル・マーティンという人名を結びつけたもので、「あの有名なアストン・クリントンのヒルクライムで優勝したマーティン車である」ことを、アピールしようとしたのである。


Martin,Lionel第三巻128話
〈アストン・マーティンを生んだライオネル・マーティン〉









 L.マーティンは〈シンガー/テン〉を改造した“アストン・マーティン”をつくって成功した 


例年ロンドンで開催されることが恒例になってきたオリンピア・モーターショーは1912年も盛大に実施されることになった。

この展示会場にライオネル・マーティンがいた。
マーティンは自分が愛用している〈ロールス・ロイス/シルヴァーゴースト〉のセカンドカーとなるような高性能の小型車を探していた。
お目当ての自動車はないかと各メーカーのブースを歩き回っているうちに、シンガー社という自動車メーカーからモーターショーに合わせて発表されたばかりの新車に目が釘づけになった。

シンガー社は『クルマの歴史300話』では初登場となるので、この会社のことをここで紹介しておこう。


生みの親であるジョージ・シンガーは根っからの技術者で、船舶用エンジンメーカーを振り出しにして技術を磨き、次にミシンメーカーでの経験を積んだ後、1875年に独立して自転車メーカーとしてのシンガー社を設立した。
シンガーは、自分の所でつくる自転車に次々と改良を加えて、より安全で性能が良い乗り物に仕立てあげたので、シンガー製自転車の人気はたいへん高かった。
シンガー自身も、この頃にはちょっとした名士になっていて、さまざまな公職に就くことが多くなり、コベントリー市長を2年間務めている。

自転車で地盤を形成したシンガー社長は、今度はエンジン付きの乗り物への進出を考えるようになり、1901年からオートバイと3輪自動車の製作が始まった。
シンガー製の3輪自動車は、前1輪と後2輪の2人乗り構造で、乗客用の後席は後ろ向きと前向きの2種類が選べることができたが、走行安定性に欠けるクルマで人気が出ることはなかった。
これを反省したシンガー社長は、翌年になると前2輪後1輪の3輪車を開発したが、これもできは良くなかった。

自転車では成功したが、自動車ではなかなかうまく行かないことを自覚したシンガー社長は、1905年になると “リー・フランシス”という自動車ブランドにかかわる全てのビジネスを買収して、自動車事業を強化する対策を打った。


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←“リー・フランシス”のブランドマーク






この後に完成し、オリンピア・モーターショーで発表した新型小型車が排気量1リッターの〈シンガー/テン〉であった。

ライオネル・マーティンはモーターショーの会場でこのクルマを見た瞬間に、自分の求めていたものに出会うことができた感激を味わうことになり、この新車を買うことを即断して、購入契約を結ぶことになった。

それから2カ月後、マーティンが待ちに待ったまっさらの新車〈シンガー/テン〉がやってきた。
このクルマの最高速度は65キロと決して速くなかったが、自分たちの技術なら、100キロをオーバーすることは難しくないことを確信していた。
エンジンのチューンアップ作業に没頭し、試走を繰り返したところ、目標とした時速100キロを軽くオーバーして、ついに時速115キロも出るスポーツカーに変身をとげたのである。

これなら、どこのレースに出ても優勝できるに違いないと自信を持ったマーティンは、各地のレースに参戦して、好成績をおさめるようになった。

(金曜日の〔128話:後編〕に続く)


127話.英雄ボアロの活躍〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ジョルジュ・ボアロ:1884年生まれ。フランス・ナンバーワンのレースドライバー。
■ルイ・コータレン:1879年生まれ。サンビーム社で指揮を執るフランス人技術者。
■パウル・ダイムラー:1859年生まれ。GPカーの開発に心血を注ぐダイムラー社技師長。



 G.ボワロによるフランスGPの3連勝は、〈メルセデス/グランプリ〉によって阻止された 


しばらくドイツ車の話が出てこなかったが、ここでメルセデスが登場する。

ウィルヘルム・マイバッハの後任として技師長に就くことになったパウル・ダイムラーは、父や先輩のマイバッハに負けまいと、プレッシャーを感じながらも必死に新車開発に熱中した。

パウルが取り組んだ新型車の心臓部となるのは、新しい規制に合致した排気量4.5リッターの直列4気筒エンジンで、OHC機構を備えた4バルブ方式で各ピストンにマグネット点火方式のプラグが2つ付いているという凝った構造をしていた。
最高出力が115HPというハイパワーを発揮するレース専用車は〈メルセデス/グランプリ〉とネーミングされ、1914年度第6回ACF・GPをデビュー戦として登場することになった。
1914年のACF・GPでは、エンジンの排気量をスーパーチャージャーなしで4.5リッターとし、また最大重量は1.1トンに規制されていた。
フランス車にとっては最大にして最高のレースでの、3年連続フランス車の優勝を狙って予選から多数のクルマが参戦を表明したが、中でもプジョーとドラージュは特別で、必勝を期して準備に邁進してきた。
ドライバーとして3年連続優勝がかかったジョルジュ・ボアロのプジョーは、排気量4.5リッターDOHCエンジン搭載のレース専用車であり、4輪ブレーキという最新機構が付いていた。

プジョーとドラージュは、ドイツから来たメルセデスと熾烈なトップ争いを演じたが、フランス車は次々と脱落して、最後に残ったプジョーもレース終盤にマシントラブルによってリタイアする羽目に陥り、フランス人をがっかりさせるであった。


127話メルセデス・グランプリ
←レース専用車の〈メルセデス/グランプリ〉





このレースで優勝を飾ったのはメルセデスチームであり、エースドライバーのクリスティアン・ラウテンシュラッガーが、752キロのコースを平均時速105.7キロで走破して、ACF・GPとして2度目の優勝を果たすことになった。
このレースの2位はルイ・ワグネルのメルセデスであり、メルセデスは3位まで独占したのである。


第6回ACF・GPの数週問後にル・マンでおこなわれたGPレースで、フランスの栄光を担ったドラージュチームは勝利に向かって4台のレース専用車を送り込んだ。
ここでも激しい競いあいがあったが、ドラージュチームのエースドライバーであるポール・バブロが優勝をもぎ取り、ACF・GPでのリベンジに成功するのであった。

これで勢いを得たドラージュ社は、アメリカ合衆国の自動車レースとして最大イベントであるインディ500に参戦することを決断して、最新のレース専用車を送り込んだところ、ルイ・ドラージュ社長の期待を一身に受けたルネ・トーマがすばらしい走行をして、優勝カップをフランスに持ち帰るという驚くべき成果を勝ち取った。

さて、ACF・GPで念願の優勝を果したダイムラー社の新任技師長パウル・ダイムラーは、己の技術力に自信をもつようになった。
それと同時に、ダイムラー社における自分のポジションが確固になったという実感を持ったのである。


Daimler,Paul③第三巻127話
〈ダイムラー社の技師長パウル・ダイムラー〉

パウルは次にスーパーチャージャー付きの排気量7リッターというエンジンを開発して、レース専用車に搭載することにしたが、このエンジンはフェルディナント・ポルシェが後になって設計する〈メルセデス・ベンツ/SS〉の原型となる優れた設計がなされていた。



 戦争が避けられなくなったヨーロッパでは全てのレースの開催は取り止めとなった 


1913年のタルガフローリオは、シチリア島を代表する都市であるアグリジェンタを起点とするコースで開催され、1907年の勝者のフェリーチェ・ナツァーロが、今度は自作車“ナツァーロ"に乗って2度目の優勝をとげた。
翌1914年もアグリジェンタをスタート地点として開催され、この年の勝者はS.C.A.T.車に乗ったエルネスト・チェイラノで、平均速度62.6キロであった。


4回のレースが開催された後、イギリスのマン島でのツーリスト杯(以下TTと略)レースはしばらく中断され、1914年に、規定がエンジン排気量3.3リッター以内と変更されて再開されることになった。

レースは1日8周を2日間行うことになり、優勝車には優勝トロフィーの他に、デイリーテレグラフ新聞社から1千ポンドの賞金が与えられることになり、前宣伝がきいて大勢の観客が集まってきた。

このTTレースに、サンビーム社はルイ・コータレン設計した1気筒当り4バルブ構造をした排気量3.3リッターのDOHCエンジン搭載車を送り込んだ。

第5回TTレースでは、ドライバーのケネルム・ギネスが平均時速90.8キロで走り切り、95.4キロの最速ラップスピードもマークして、サンビーム社に優勝をもたらした。

このレースが終わって数週間後、ヨーロッパ中を巻き込む世界大戦が勃発、ヨーロッパの地でのGPレースは中止されることになるのである。


127話サンビーム レーサー
←1914年製サンビームのレース専用車





(〔126話〕はここまでで、〔127話〕は来週の火曜日に掲載。)