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10-29.自動車の歴史:イギリス編28~ハンバー~

ゲートボールとグラウンドゴルフの話の続きとなります。
老人クラブの育成が高齢者対策の重要な柱であると気づいた厚生省、ならびに全国の市町村では、高齢者の健康づくりのための“運動”の普及定着に取り組み、老齢化した人でも無理なく楽しめるスポーツとしてゲートボールに着目しました。
こうして全国の行政指導員がルールとプレー方法の講習に奔走した結果、各地の老人クラブでゲートボールに対する関心が急速に高まりました。
それまでの活動は集会と旅行が主たるもので、スポーツと縁遠い老人クラブがこぞってゲートボールを取り上げた結果、まさに燎原の火のごとき広がりをみせ、一大ブームが巻き起こりました。

私はゲートボールをやったことがありません。
「私のサードライフ」の原稿作成に当って、改めてゲートボールを調べてみたら、そのルールとプレー方式が複雑なことに驚きました。
これに対して、グラウンドゴルフの方は実に簡単ですので、ゲートボール衰退の主因はルールの複雑さにあるのかと思いましたが、実はもっと深い所に原因があったのです。

ゲートボールはチームを編成することから始まります。そしてチーム同士の対抗戦の形でプレーに入ります。この結果、勝者と敗者が決まります。
このチーム戦であることが、ゲートボールの人気アップに繋がったと思います。つまり近所の高齢者が集まってゲートボールに興じれば、ゲームに勝ったのか負けたのかに関心が集まります。
この昂揚感こそ、ゲートボールの醍醐味であり、スポーツに接したことがない人々を魅了してやまなかったに違いありません。
この興奮は同時に、人間関係に大きな影響を与えることになります。
ゲームに勝つためには、強いチームを編成しなければなりません。そうなれば、男性で低年齢者(60歳代)が優位に立ちますので、女性と高齢者はどうして一歩引く傾向になります。
さらに、敗者になった場合には、その原因となった(ミスをした)人物に対する批判が集まって、どうしても参加者同士の人間関係がギスギスしてしまいます。
ということは、地域の高齢者の楽しみになるべきゲートボールが、チーム戦という特質をもっているために勝敗にこだわるようになり、それが故に、コミュニティの人間関係が悪化することになって、本来の狙いとはまったく逆の現象が生じたのではないかと私は推察しています。

今日は読者の皆さんに、大切なお知らせがあります。
皆さんに愛読いただいているブログ『クルマの歴史物語』の「第10章:ヨーロッパの新興勢力」は、本日をもって終了いたします。
第11章は、舞台をヨーロッパからアメリカ合衆国に移して、「アメリカ車産業の興隆」というタイトルのお話になります。
それともう一点、大変申し訳ないことですが、明日から夏休みをいただき、ブログ『クルマの歴史物語』はしばらくの期間お休みさせていただくことになりました。
実は、7月13日(土)から23日(火)の期間、家内共々、北イタリアのアオスタ峡谷へハイキング旅行に行くことになっております。
北イタリア旅行は、一昨年7月にドロミテ7日間縦走トレッキングツアーの思い出があり、目を見張る景観の中をトレッキングしてきました。
今回は、病後ということもあって、ドロミテツアーほどハードな行程ではありませんので、ゆったりとした気分でモンブラン(イタリア名:モンテ・ビアンコ)やマッターホルン(イタリア名:チェルビーノ)の景色を楽しもうと思っております。
そんなことで、ブログ『クルマの歴史物語』の「第11章:アメリカ車産業の興隆」は、7月24日(水)以降の開始となる点をご了承ください。



10.ヨーロッパの新興勢力


最初のTTレースで優勝したのはハンバーだった


イギリスの自動車クラブACGBIがクラブ名を変えたのは、1907年のことである。
自動車に深い理解を示していたエドワード七世は、このクラブに王室という権威を付与した“ロイヤル・オートモビール・クラブ”という名前を付けることを許可した。
このクラブは略称の“RAC”として人々に親しまれるようになり、イギリスにおける自動車の普及に多大な貢献をすることになる。

名前を変えた時点で、RACの会員数はすでに1万人を超えていて、各種モータースポーツイベントを主催する一方で、自動車を運転する会員の安全を守る措置がとられた。
そのひとつが、イギリス各地にある長い下り坂の終点部の道路脇に緊急非難所を設置することであった。

今日の若いドライバーには、これがどんな意味を持つのか理解し難いかもしれないが、長い下り坂をエンジンブレーキを使わずに、フットブレーキで走行し続けるとブレーキパッドが摩擦熱で作動しなくなり、クルマの制御ができなくなるという事故が昔は多発した。
このような場合、下り坂のいちばん下の部分に砂地の緊急避難スペースがあれば、制御不能車を救済することができるのである。

RACはこのような安全対策の他に、電話相談所を設けるなどして自動車に対する質問を受け付けたり、赤旗法制定以来根強い自動車に対する偏見を払拭することに大きな役割を果たすことになった。


1907年のレースシーズンがやってきて、主催者となるRACは、正式のTTレースに関しては6周に延長し、他にツーリスト大型車クラスのレースを加えて、同時に2つのレースを開催することにした。

激しい雨天をついて強行された2つのレースは、厳しすぎる燃費制限のために、完走できたのは各レース共それぞれ2台だけというさびしい結果に終わり、TTレースの方は排気量3.5リッターの〈ローヴァー/20〉が、ツーリスト大型車クラスの方は〈ハンバー/ビーストン〉が優勝した。


ここで、ビーストンを生み出した、ハンバー社を紹介しておこう。
ハンバー社を創業したのは、1868年にイギリスのコベントリーで自転車製造業を始めたトーマス・ハンバーという人物である。

イギリスでは19世紀末になると、自転車製造業者が乱立して安売りが横行するようになっていた。
ハンバーは先行きを考えて、今まで蓄積してきた自転車技術をベースとしてオートバイを開発した。
そして、オートバイ事業で自分たちのビジネスを拡大しようと挑戦を始めたが、すぐに自動車の人気が高まってきた。

この頃、イギリスではウーズレーブランドの小型車に着目する人が増えてきた。
これをみていたハンバーはフランスに渡ってレオン・ボレーと交渉を持ち、製造ライセンスを取得することに成功した。

こうして、1898年からレオン・ボレー設計によるガソリンエンジン搭載の小型3輪自動車をソシアブルの名で売り出した。
その後、これの4輪版であるクオドリシクルへと発展させた。

これで自動車技術の基本をマスターしたハンバー社は、次に本格的な4輪自動車の自社開発に挑戦して、出力5HPを発揮する水冷単気筒エンジンを搭載した、2人乗りの4輪車ハンバレッドの製作を開始した。

翌1901年には、フランス人の設計家ルイ・コータレンが入社して、彼が指揮を執って開発されたのが本格的な大型車となるビーストンであり、これが1907年に開催されたTTレースで優勝したのである。


イギリスでは、厳しすぎる燃料規制によって、TTレースを完走したのがたったの2台だけという結果を生んだ反省から、新しい年に入るとレース規定の改訂をするものと誰もが思っていたところ、RACが1908年のTTレースのために発表した新しい4インチ規定は人々を驚かせた。

1908年は燃費制限がなくなった代わりに、最低重量726キロ、エンジンは4気筒まで、ピストンのボア直径は102ミリ(4インチ)までという規定が設けられたが、このボア規定は多くのツーリングカーの現実とはかけ離れたものだった。

4インチ規定に対してザ・タイムス紙を中心に激しい反対の声があがった。
そこで批判をかわすために、RACはコースを60.7キロに短縮し、さらに道路に点在している穴を埋め、ドライバーの視角のじゃまになっていた廃屋をとりのぞき、コーナーごとに表示板を設けるなどして、事故防止のための数々の処置をとって、非難から逃れようとした。

1908年に開催されたTTレースの5周目までは、排気量5リッターのダラックのひとり舞台であったが、最後のラップでキャブレターが燃えあがって脱落し、ネイピアが大逆転で優勝をもぎ取った。(※10-29話【第229回】は、ここまで)




10-28.レースの歴史:ヨーロッパ編19~ブルックランズ完成~

今から20年くらい前のことでしょうか。日本中でゲートボールが大流行した時代があり、「老人スポーツと言えばゲートボール」という常識が確立していました。
ところが、今日ゲートボールを愛好する人はあまりいません。
どうして、ゲートボールはこのように衰退してしまったのでしょうか。
この問題を考える前に、なぜゲートボールの人気が急速に上昇し、日本中の老人クラブで取り上げられるようになったかを考えてみましょう。

既に記してあることですが、老人クラブは太平洋戦争による戦後の荒廃から立ち上がり始めた1954年(昭和29年)に、地域に密着した小集団活動としてスタートを切りました。
最初の頃の老人クラブの活動は、自治会の集会室に集まってお茶とおしゃべり楽しむくらいで、年に1~2回の旅行が何よりの楽しみとなっていました。
戦後も30年ほど経過し平成の時代を迎えると、高齢者人口の増加に伴って老人クラブへの加入者は増え続けましたが、この当時の老人クラブの魅力の一つとしてゲートボールが加わりました。

もともと明治・大正生まれの方、それに加えて太平洋戦争終戦時までの昭和生まれの人々にはスポーツを楽しむ習慣が身に付いている人は少数です。
日本人が、“余暇”の概念を取り入れるようになったのは昭和30年後半以降のことで、この推進者となったのは“団塊の世代”の子供を養育する両親でした。
平成天皇が美智子妃と知り合ったのが軽井沢のテニス場であった逸話をご存じの方が多いと思いますが、昭和30年代にテニスを楽しむことができる人は特別な人でした。
ゴルフも同様で、会員制の倶楽部運営が徹底していて、とても普通の人がスポーツを楽しむ環境は整ってなかったのです。



10.ヨーロッパの新興勢力


世界で最初となるサーキット場がブルックランズで完成した


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〈公式計測員のエビル・ホワイト=Evil White〉

自動車レース場のメッカとして、世界中にその名をとどろかせることになるブルックランズは、世界最初のコンクリート舗装のバンク付きサーキットとして、ロック・キングというイギリス人の金持ちにより、ロンドン郊外西方に建設されることになった。

ブルックランズのコース幅は30メートルで、カーブにはバンクがつけられた。コース外周は1周4,450メートルで、“フィニッシングストレート”と呼ばれる900メートルの長さの直線と、半径300メートルのバンクが2つあった。

ブルックランズサーキットの建設工事は1906年の秋に始まり、1年後の1907年6月にオープンすることになった。
この時、オープン記念走行を〈ネイピア/66HP〉で行ったのは、1902年のゴードンベネット杯で〈ネイピア/40HP〉に乗って優勝をはたしたセルイン・エッジであるが、この優勝以降は、ネイピア社の陰の実力者としての役割を果していた。

エッジはここで〈ネイピア/66HP〉を操って、時速100マイル(160.9キロ)を超えるスピードで走ってみせた。
引き続きエッジは、24時間単独走行に挑戦し、2,544キロを平均時速106.1キロで走破するという、すばらしい記録を打ち立て、ブルックランズの完成を祝ったのである。


ブルックランズでの最初のレースは、1907年7月6日に開催された。
午前中にパリ~マドリッド間レースで事故死したマルセル・ルノーを記念するレースが開催され、〈ネイピア/40HP〉が優勝した。

そして、午後にはイギリス自動車業界の大立者であるモンタギュー伯爵が提供する優勝杯レースが実施され、ダイムラー社の最新技術を盛り込んだレース専用車の〈メルセデス/グランプリ〉が優勝を飾った。

しかし、第1回のレースは成功とはいい難かった。
サーキットがあまりにも大きすぎて自動車が小さく見え、スピード感がまったくなかったからである。
また、出走車にナンバーが付いていなかったため、どのクルマがトップを走っているか見分けることができなかった。
それに加えて、本格的なレース専用車から、車体の一部を取り去りレース用に軽くしたツーリングカーまで 種々雑多のクルマが参戦したので、白熱したレース展開にはならなかったことが決定的であった。



ブルックランズでのレースが大きく変わったのは、“エビー”というニックネームで仲間から親しまれていた公式計測員のエビル・ホワイトがレース委員会を説得して、レース専用車の規格やハンディキャップを定め、出場車にナンバーの数字を大きく付けるようになってからである。

こうしてハンディキャップを設けた自動車レースが始まったが、最初に実施されたレースで悲劇が発生した。
ベルギー製ミネルヴァを運転していたビンセント・ハーマンは、トップでゴールインした。
ここまではよかったが、最高スピードでゴールを駆け抜けたハーマンにバンクが迫ってきた。
ハーマンは急ブレーキをかけて停止しようとしたがスピードを制御することができないままバンクヘつっこんで、さらにバンクを飛び越し、橋の欄干に激突して事故死をとげてしまったのである。

ブルックランズでフィニッシングストレートを設けたのは、明らかに誤りだった。ゴール地点を手前に移す措置がとられたが、その後、クルマのスピードが上がるにつれ、それでも安全とはいえなくなったため、結局フィニッシングストレートは使用されなくなり、レースは外周サーキットからスタートし、そこでゴールすることになった。(※10-28話【第228回】は、ここまで)



10-27.レースの歴史:ヨーロッパ編18~第2回TTレース~

新樹会会員として毎朝体操に参加するようになると、おのずと知人も増え、そのうちにグラウンドゴルフ・サークルへの入部を勧誘されました。
私はゴルフが好きで、かれこれ四半世紀くらいプレーを続けていますが、いつまでたっても上手になれないアベレージゴルファーです。
そんな私にグラウンドゴルフのお誘いが来たのですが、当初は“年寄り向けの遊び”と決めつけていたので、あまりやる気がありませんでした。
そのうちに、グラウンドゴルフとはどんなスポーツかを教えてもらう機会がありました。
この体験を通して、ゴルフのパターを野原でやるようなものだと理解した私は、「これをやればパターの練習になるに違いない」と思い、新樹会グラウンドゴルフ・サークルに入部することにしました。

グラウンドゴルフ(Ground Golf)は1982年(昭和57年)に鳥取県の小村で生まれた日本オリジナルのスポーツです。
高度な技術を必要とせず、しかもルールは簡単ですので、どこでも、だれでも手軽に楽しむことができるという特徴があります。
グラウンドゴルフを楽しむためには専用のクラブと、自分用のボール1個が必要となります。
クラブは5千円位から1万円を超える高級品までいろいろありますが、1本あれば足りるので、本物のゴルフのように支度にお金がかかることはありません。

グラウンドゴルフのコースは、通常15メートルくらいのショートコース2つ、25メートルと30メーター前後のミドルコース各2つ、50メートルくらいのロングコース2つの組み合わせによる8ホールマッチとなりますが、距離はプレーする地形やグラウンドの状況によって、長くても短くても自由自在です。
各ホールとも3回で直径20センチくらいのホールポストという円形の枠内に入れることが基準(パー)となりますので、全ホールをパーで終了すると、このゲームの合計打数(スコア)は24(=3×8)となります。
各ホールを2打で入れたらバーディ、4打になってしまったらボギーというように、普通のゴルフと似ている点も多々あります。
又、1回でホールポストに入ればホールインワンとなります。その場合、スコアから3打をマイナスできるという特典が設けられていますので、ホールインワンはグラウンドゴルフの楽しみの一つとなっています。


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〈新樹会のグラウンドゴルフ・サークル活動〉











10.ヨーロッパの新興勢力


マン島で開催されたTTレースでロールスは前年の雪辱を果した


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〈ユニックのブランドマーク〉

1905年のゴードンベネット杯は、6回目にして最後の開催となった。

この年のゴードンベネット杯では、排気量が11.2リッターにアップした新エンジン付きのリシャール・ブラシエ車を運転したレオン・テリーが前年に続いて2連勝を飾り、会社の勢いは上がる一方となった。
1905年12月のパリサロンでは、テリーが優勝したクルマを誇らしげに展示していたが、実のところ、ゴードンベネット杯の2カ月前に、リシャールはブラシエとけんか別れをしていて、この会社を去っていた。

ジョルジュ・リシャールは、パリから離れたプトーでリシャール社という名前の自動車メーカーを再度設立して、“ユニック”というブランドを付けたクルマの生産を始めた。
一方、アンリ・ブラシエの方はリシャールがいなくなったので、直ぐに車名と会社名をリシャール・ブラシエから“ブラシエ”に変更して事業活動を再開したので、ユニックとブラシエは宿敵になるのだった。


さて、1905年にマン島で開催された第1回TTレースが好評であったことから、主催者のACGBIは、1906年に2回目となるTTレースの開催を決定した。
今回はコースが64.8キロに短縮され、規定もホイールベースは244センチ以下、燃費制限として1リッター当り8.85キロ走行以上と変更された。

前年は調子が悪く棄権したロールス・ロイスのチャールズ・ロールスにとっては、第2回TTレースは名誉挽回のチャンスとなった。
第1回TTレースの覇者は出場しなかったので、フランスの新興自動車メーカーのベルリエ車がロールス・ロイスに次ぐ優勝候補と呼ばれていた。

チャールズ・ロールスが運転するロールス・ロイスはスタート直後にトップに立ち、そのまま一度もトップを譲ることなく、圧勝して前年度の雪辱をはたすことができた。

このレースでのロールスの平均時速64.2キロは、前年度の55.2キロを9キロも上回る立派なもので、2位に大差をつけたのである。(※10-27話【第227回】は、ここまで)



号外

皆さんおはようございます。
新しい週が始まり、いつものようにブログ『クルマの歴史物語』を更新しようと思って、パソコンを開けてみたら、私のうっかりミスで、先週末の土曜日に、本来なら月曜日に予定されていた原稿に、更新してしまったことを知ってびっくりしてしまいました。
皆さんもご存じの通り、月曜日から金曜日までの週5日更新を続けており、これからもその予定で、ブログ『クルマの歴史物語』は進行する計画ですので、本日の更新はお休みさせていただきます。

ブログ『クルマの歴史物語』は現在「第10章:ヨーロッパの新興勢力」が進行しておりますが、この章は今週木曜日をもって終了いたします。
そこで、猛暑に入ったこの時期に、海外(北イタリア)旅行に出かける予定がありますので、しばらくお休みをいただきたいと思います。
自分の勝手を申して申し訳ありませんが、よろしくご理解いただきたいと思います。




10-26.レースの歴史:ヨーロッパ編17~TTレースの始まり~

ブログ『クルマの歴史物語』では、「第10章 ヨーロッパの新興勢力」のスタートとともに始まった『私のサードライフ』はいろいろ回り道をして、なかなか前に進んでいません。
本日までに、林住期に入ってからウォーキングの習慣化に成功し、朝の健康体操を組み合わせて早朝2時間の運動が日課になったことまで記しました。
このような「健康の確保」を優先課題とする毎日に、新たに加わった運動が“グラウンドゴルフ”です。

前日にご案内したように、柏ビレジには『新樹(しんじゅ)会』という名の老人クラブがあります。
このクラブの運営でユニークな点は、全員参加を前提とした行事イベント(誕生会や日帰り旅行など)の他に、同好者が集まり自主的に運営するサークルが8つもあることです。
具体的には、「朝の健康体操」、「コーラス」、「手芸」、「カラオケ」、「俳句」、「百人一首」、「太極拳」、「グラウンドゴルフ」というサークルが活発な活動をしています。

家内に勧められて参加するようになった“朝の健康体操”は、実は新樹会のサークル活動だったのです。
私が体操を始めた最初の頃は、正式の新樹会メンバーではなく、いわばもぐりで会員の皆さんと一緒に体操を続けていましたが、いつまでも掟破りは許されるはずもなく、正式に『新樹会』メンバーに加えていただきました。
この当時の正直な感想を申せば、「できることなら老人クラブのメンバーになることなく、体操だけやらせていただきたい」という自分勝手な思惑がありました。
63歳になったばかりの私としては、老人クラブの会員になることに強い心理的抵抗感があったのです。



10.ヨーロッパの新興勢力


 イギリス初のツーリスト杯(TT)レースが開催された


ガソリンエンジン車の歴史は、ドイツから始まり、フランスがそれに続き、イタリアとイギリスがその後を追ったが、自動車レースの興奮を最初に体験したのはフランス人であった。
そのフランス人の後を追うように、イギリス人も自動車レースにのめり込むようになる。

20世紀の幕が開けた頃、イギリス政府は公道での自動車レースを禁止していて、イギリス人のレース愛好家はレースの場所を探すのに苦労したが、幸いにしてブリテン島以外のマン島や北アイルランドでは、レース実施のために公道を閉鎖することが法律で認められていた。

ACGBI(イギリス・アイルランド自動車クラブ)は、市販車だけが出場できる競技として、“ツーリスト・トロフィ”(略称TT)レースを、1周84キロの周回路を4周する全長336キロのマン島コースで開催することを発表した。

1905年の第1回TTレースでは、1リッターで8キロ以上走ることという燃費、590~726キロという車両重量、229センチ以下というホイールベース、運転手と助手のメカニックを含めて全部で300キロ以下という積載ウェイト、4座席のツーリングタイプ、同じクルマがレース後1カ月間は希望者に一定価格で販売されること、というようなたくさんの規制が全ての出走車に設定されていた。

第1回TTレースでスタートラインに並んだのは、イギリス車28台プラス外国車14台の合計42台であり、レース前に優勝候補ナンバーワンと呼び声が高かったのは、28歳のチャールズ・ロールスが運転するロールス・ロイスであった。

ロールスは、エンジニアのフレデリック・ロイスがつくったクルマに無限の可能性を信じ、共同でロールス・ロイスという自動車ブランドをつくることを提案して、前年末に契約書に調印したばかりであった。
発足したばかりのロールス・ロイスにとって、自分たちの存在を世間にアピールするいいチャンスが巡ってきたと考えて、TTレースに2台エントリーした。

号砲一発、歴史的な第1回TTレースがスタートを切ることになったが、どういうわけかロールスがハンドルを握るロールス・ロイス車は、思いどおり動いてくれなくてレースから脱落してしまった。

このレースでは、排気量3.8リッターの2気筒エンジン搭載のアロール・ジョンストン車と、もう1台のロールス・ロイス車との間で激しいトップ争いが続いた。
接戦の末、このレースを制したのは平均時速55.2キロを記録したアロール・ジョンストンであり、ロールス・ロイスに2分9秒の差をつけて優勝を飾ったのである。


第1回TTレースで優勝したアロール・ジョンストンは、スコットランド人の蒸気機関エンジニアであるジョージ・ジョンストンがつくったクルマである。

ジョンストンは、自動車に蒸気機関を載せようとして研究を進めていたが、どうしてもうまくいかないので、これを諦めてガソリンを燃料とする内燃機関の研究に没頭し、とうとう4気筒のガソリンエンジンを完成させた。

この技術に着目したウィリアム・アロールという事業家は、ジョンストンに新しい自動車メーカーをつくらないかと話を持ちかけ、共同で“アロール・ジョンストン”という名前をつけたガソリンエンジン車の製造販売ビジネスを1895年からスコットランドで開始した。

20世紀に入りイギリスではガソリンエンジン車産業があちこちで勃興して、メーカー間の競争が激しくなってきた。
生き残りのためには、有名にならなくてはいけない。自動車メーカーが有名になるには、レースで優勝することがいちばん手っ取り早いと考えたアロールは、マン島で第1回TTレースが開催されることを知り、さっそくエントリーしたところ、優勝することができた。

この優勝で勢いを得たアロール・ジョンストンは、地元のスコットランドばかりでなく、積極的にイングランド市場の開拓に努めたのである。(※10-26話【第226回】は、ここまで)