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12-29.レースの歴史:大陸間編29~最後に当たって~

今日は読者の皆さんに大切なお知らせがあります。
本日をもって、ブログ『クルマの歴史物語』の「12章 過酷な超々長距離レース」は最終回を迎えます。
9月2日の第254回から始まって、本日まで29回連続の掲載となりました。
実際このレースが開催されたのは1908年のことですから、今から115年前のできごとです。
1886年にカール・ベンツによって開発された自動車ですが、それから22年後にはニューヨーク⇒サンフランシスコ⇒(太平洋)⇒日本⇒(日本海)⇒ロシア・ウラジオストック⇒(シベリア平原)⇒(ユーラシア大陸)⇒パリという超々長距離レースが実施できるほど、技術発展は急ピッチで進んでいたのでした。
皆さんの読後感はいかがでしたでしょうか。
コメント欄に、ご遠慮なくご意見を書いていただけましたら幸いです
今日まで、私のつたない文章を読み続けていただいた熱心な読者の皆さんには、心よりの感謝を申し上げます。

さて、ブログ『クルマの歴史物語』では、「12章 過酷な超々長距離レース」をもって『第2部』は終了することになります。
昨年の11月26日に始まった『第2部』は、「6章 アメリカ合衆国の建国」、「7章 ヨーロッパ車の新世紀」、「8章 アメリカ車の勃興」、「9章 自動車レースの始まり」、「10章 ヨーロッパの新興勢力」、「11章 アメリカ車産業の興隆」、「12章 過酷な超々長距離レース」というように続き、その字数はハードカバー本1冊(約500ページ)というボリュームになりました。
約10ヶ月間にわたる長期掲載でしたが、本日で大きな区切りを迎えることになりました。

明日から『第3部』が始まることを期待している読者の皆さんには大変申し訳ないお知らせがございます。
と申しますのは、ブログ『クルマの歴史物語 第3部』掲載の前にやらなければならない重要なことが残っているのです。
それは、『1部1章』が始まる前の、いわば0章ともいえる「自動車前史」の掲載です。
なぜ、このタイミングで「0章 自動車前史」掲載することになったのかと申すと、私がブログ『クルマの歴史物語』をスタートする時点で、あえてこの部分をカットして、「1章 内燃機関の発展」から掲載を始めたという経緯があったのです。
「おそらく、自動車ファンの皆さんは『自動車前史』にはあまり興味を示さないであろう」と私が勝手に判断をしたため、この部分が残っていました。

1908年のニューヨーク⇒パリ間の超々長距離自動車レースは、クルマの発展史上、極めて大きなエポックメイキングな出来事だったと思われます.
『2部』を読み終わった時点で、「自動車がどのような経緯で誕生するようになったか」という、長期的視点に立脚して「1部0章 自動車前史」を、明日からお読みいただけたら幸いです。


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〈「12章 過酷な超々長距離レース」の種本のご紹介〉
(※これは単なる画像であって、スライドショーor動画ではありません。)








12過酷な超々長距離レース


『栄光の自動車レース』でピーター・ヘルクがこのレースを描き著作した


『クルマの歴史物語 第2部 自動車の産業の興隆』の「12章 過酷な超々長距離レース」は、ニューヨークを出発してサンフランシスコを経由し、超々長距離を走りぬいてとうとうパリにゴールインして大詰めを迎えている。
ここに至る6つの自動車チームが経験した苦闘の物語は、29話構成というロングストーリーとなったが、ようやく終了することができた。

そこで、読者の皆さんに種明かしをしておきたいと思うが、この話の出所は『栄光の自動車レース』という本の9章「ニューヨーク~パリ:1908年」である。

この『栄光の自動車レース』という定価13,000円の豪華本は、1978年5月に朝日新聞社から発行された。
筆者は、2002年秋に神田にある乗り物専門の古書店で資料を探していた時に偶然めぐり会い、現在は私の宝物になっている。

この本の原本は『Great Auto Races』といい、絵と文章はアメリカ人のピーター・へルクという人物が書いている。
自動車ファン、特にクラシックカーのファンなら、この人の名前を知らなくても、ヘルクが書いた素晴らしいタッチの初期自動車レースのイラストレーションならどこかで見たに違いない。
バーニー・オールドフィールドを始めとした20世紀初頭に活躍した自動車レーサーの生き生きとした運転ぶりと当時の風俗が見事に描かれているし、この本で語られる20世紀初頭のヨーロッパとアメリカ合衆国の自動車レーサー群像の話は、今となっては貴重な資料となっている。

『クルマの歴史物語 第2部』は、これでお終いとなる。
『クルマの歴史物語 第3部』は“自動車の大量生産”とタイトルされている。
第3部では、アメリカ合衆国でヘンリー・フォードによって開発されたベルトコンベア方式の大量生産によって〈フォード/T型〉が続々と誕生し、自動車が大衆化する話を中心に置いて、1909年から第1次世界大戦が終了するまでの期間の“クルマの歴史物語”が語られることになっているが、しばらく時間をいただくことになる点を了承していただきたい。(※12-29話【第282回】は、ここまで)


12-28.レースの歴史:大陸間編28~パリを目指して②~

1908年2月12日、厳冬のニューヨークに集まった6台のクルマによって、自動車レースがスタートを切りました。
この6台が目指すのはアメリカ大陸を横断して到達する西海岸の中心都市サンフランシスコであり、さらには日本、ロシアを経由し、ゴールとなるフランスの首都パリでした。
その6台とは、フランス車の〈ド・ディオン・ブートン〉〈シゼール・ノーダン〉〈モトプロク〉、アメリカ車の〈トーマス・フライヤー〉、ドイツ車の〈プロトス〉、イタリア車の〈ツースト〉でした。
このうち、フランス車の〈シゼール・ノーダン〉と〈モトプロク〉、および〈ド・ディオン・ブートン〉が脱落したことで、残るのは、アメリカ代表の〈トーマス・フライヤー〉、ドイツ代表の〈プロトス〉、イタリア代表の〈ツースト〉の3台だけとなりました。
その年の夏がやってきて、ロシアから東欧諸国を走破し最初にドイツに到着したのはプロトスチームであり、トーマスチームが激しく後を追いますが、ゴールであるパリがすぐそこに迫ってきました。

さて、「私のサードライフ」では“ムービーづくり”シリーズが9月18日の第266回から始まり、昨日の第280回まで続きました。
ここでは、アマチュアのムービーづくりでの必要条件として、第一はストーリー(脚本)で、第二は映像、第三は音楽とナレーション、第四はタイトルとエンディングというように話が進んできました。
そして、五番目となる必要条件は、ソフトの組み合わせだと思います。

ムービーづくりに必要とされるソフトに関してお話を進める前に、読者の皆さんにお断りをするのは、このブログに記されている全ては、経験に基づいた事実であって、私は決してムービーづくりの入門書をつくっているわけではないという点です。

アマチュアが、趣味としてムービーづくりに取り組むためのソフトの組み合わせはいくつも存在しています。
その中で、私が記したやり方がベストであると推薦しているわけではありません。
ここでは、私が経験したことを記しているだけであって、これ以外にいろいろなやり方があります。
この世界のプロの視点に立てば、もっと優れたムービーづくりのシステム(ソフトの組み合わせ)があると思いますが、このブログでは、私は自分で経験し身に付けた方法しかお話しできませんので、その点はくれぐれも誤解のなきようにお願いします。

私のムービーづくりの基幹となるOSはウィンドウズXP、そしてムービー編集ソフトはWindows PhotoStory3(ウィンドウズ・フォトストーリー3)という組み合わせでした。
過去形で記したのは、現在使っているOSはウィンドウズ・セブン、そしてムービー編集ソフトはWindows Live Movie Maker(ウィンドウズ・ライブ・ムービーメーカー)にすっかり変わっているからです。
この変更は実に大きなやり方の違いがありますが、ここで詳細に記述を進める必要はないと思います。
要は、これらのソフトの組み合わせは日進月歩であり、最新のやり方に興味を示すことが大切だと思います。
その一方で、いったん覚えたやり方を新方式に転換するのは本当に難しいことですので、自分のスタイルを保持することもまた大切である点を強調しておきたいと思います。

本日をもって、「私のサードライフ」の“ムービーづくり”シリーズは終了します。
私のサラリーマンの現役最後年頃、パワーポイントというプレゼンテーション・ソフトの登場にいたく刺激を受け、画像による説明がいかに有効かを強く実感しました。
しかし、私の現役時代には画像をオートマチックに動かし、ナレーションや音楽を挿入することによる、さらなる効果的なプレゼンスタイルと接することはありませんでした。
“ムービーづくり”シリーズの最初の頃に記したように、私がムービー編集ソフトを知ったのは5年前のことです。
パワーポイントは、その内容に強い関心を持っている人々には有効です。
しかし、旅行記を魅力的にするためには、直接利害関係のない人たち(例えば、子供たち)にとっては、動きと音楽(orナレーション)が欠かせないことを知って、ムービーづくりにはまったのは、私のサードライフにとって、実にラッキーでした。
この趣味は大してお金がかかりませんが、時間はたっぷりかかります。
毎日が日曜日状態で、自由になる時間がふんだんにある私が、このようなすばらしい趣味を身に付けることができたのは、実に幸せなことに違いありません。


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〈最新作のタイトル〉
(※これは単なる画像であって、スライドショーor動画ではありません。)
昨年5月、私の体に異常が生じ、心臓弁膜症であると診断が下りました。
そして、7月2日に8時間に及ぶ心臓切開手術を受け、術後3日間の集中治療室、1ヶ月間の入院生活を余儀なくされました。
退院後、自分の将来にわたるQuality of Lifeを確保するために、私は真剣にリハビリに取り組み始めました。
そして、毎日継続するリハビリの目標として、お世話になった家内共々の海外旅行を掲げました。
術後1年目に当たる本年7月、イタリア最北部「アオスタ峡谷を歩く」ハイキングツアーに参加し、その記録をムービーにしたのです。



12過酷な超々長距離レース


 列車に乗ったプロトスにペナルティが課せられてトーマスが優勝した


この後、祖国ドイツに別れを告げ、プロトスは隣国のベルギーに入った。
ベルギーは小さな国でありすぐにここを横切り、いよいよ最後の国であるフランス国境を通過すると、最終目的地のパリまではあと320キロ足らずとなった。

フランス国内にはトップを走るプロトスを歓迎する雰囲気はまるでなく、人々は猛スピードで駆け抜けるドイツ車を静かに見守るだけだった。
結果としてこのフランス民衆の態度が勝利に直結することになり、プロトスチームは脇目もふらず最終区間を飛ばしに飛ばし、最後のゴールであるパリ到着がいよいよ迫って来た。


プロトスに続いて、トーマスチームもベルリンを出発した。
前途にはまだ1,120キロの道が横たわっていた。
ハノーバーで1泊して、翌朝走行を開始しようとしたら、クラッチがいうことをきかなくなり、エンジンは威勢よく回転するのだが、エンジンパワーが車輸へと伝わらないという深刻な事態に遭遇した。

この修理は手間取った。
夕方になってようやく動くようにはなったが、今度はヘッドライトが点かなくなっていた。
時間を大きくロスしたのを取り返そうと考えて、卜―マスチームは闇の中へ飛び出したところ、断続的な雨が降り出し、無灯の車は深夜降り続く雨の中をゆっくりと前進した。

ドイツからベルギーに入る頃になって、再びクラッチの調子が悪くなり、その他にも故障寸前の部品がたくさんあって、モタモタ走るだけでトップのプロトスチームとの差は広がるばかりであった。



トーマスチームは、最後の国となるフランスにようやくたどり着いた。
ドイツ車を無視したこの国の人は、アメリカ車を大歓迎した。
プロトスがロッキー山脈で、列車に乗せてもらって移動したという事実は広く知れ渡っていたので、フランス人はアメリカ車の健闘を称えた。

パリに至る町々での歓迎行事で時間を取られることになったが、プロトスに追いつくことは不可能と悟ったリーダーのジョージ・シュスターは、フランス人の好意に甘えることにした。

この頃、トーマスチームの一員としてトーマスチームの様子をくまなく記事にして本社に送信していたル・マタン紙のフェリックス・ヌーヴィル記者は、書くことがいっぱいあった。
これらの記事は毎日発行するル・マタン紙を通じて全フランスに配布されていたので、途中の町での歓迎式典はますます盛大になっていた。


7月25日、プロトスは先頭を切ってパリにゴールインした。
それから5日後に、トーマス・フライヤーが到着し、長い闘いの日々は終わることになった。


アメリカ人とフランス人で構成されるレース開催委員会は、トーマス・フライヤーとプロトスのペナルティをどのように課すかで意見を戦わせた。

そこで問題となったのは、アメリカにおいて最難関のロッキー山脈越えで汽車に乗ったことである。
その他にも様々な理由をつけて、15日のペナルティがプロトスに加えられることになった。

その結果、トーマス・フライヤーの優勝という判断を下したが、これは主催者のル・マタン新聞社とニューヨーク・タイムス紙の意向が強く反映したものである。

この決定からかなり後に、ほとんど忘れられかけたツーストが9月17日パリに入ってきた。(※12-28話【第281回】は、ここまで)


12-27.レースの歴史:大陸間編27~パリを目指して①~

ブログ『クルマの歴史物語』の第12章「過酷な超々長距離レース」もいよいよ大詰めを迎え、今日と明日の副題は“パリを目指して”となります。

一方、“ムービーづくり”シリーズは、今日と明日の2回でお終いで、昨日のタイトルに続いて、今日はエンディングに入ります。
一昔前の日本映画では、映画の始まりにタイトルの他に出演者や監督などスタッフの名前が出てきました。
ところが最近の邦画は、洋画のやり方にならって、ENDマークが出てから(最近はENDマークがない場合が多いようですが・・・)、出演者、スタッフ名が出てくる作品が多くなっています。

映画の最後で、列挙してある名前が上に流れるスタイルを“エンディングロール”といいますが、これができるようになると、自作ムービーのレベルアップが実感できます。
最新のムービー編集ソフトには、簡単にエンディングロールができるようになっているものがあるそうです。
私は、パワーポイントに監督などスタッフの名前、使わせていただいた音楽の作曲者、作詩者、歌手名、および感謝のメッセージなどでエンディングロールを構成します。

このエンディングロールでは、バックに流れる音楽の選定が大切です。
実際ロードショー館でも、最近は映画が終わってすぐ立ち上がる人が少なくなっていて、テーマ音楽に聞きながら、最後の余韻を楽しむ人が多くなっているようです。

エンディングロールをMP3でつくることは、かなり難易度が高いといえましょう。
私の場合は、パワーポイントを使い、9~10ポイントほどの小さな字で原稿を作成します。
これを少しずつずらせながら何枚もの原稿を作成し、画面の移動の際にピタリと合わせる調整作業が必要となります。
往々にして、微妙なずれが発生することが多く、この調整に神経を使いますが、苦労を重ねて、うまく連動してくれると、すばらしいエンディングロールとなりますよ。


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〈エンディングロールの一例〉
(※これは単なる画像であって、スライドショーor動画ではありません。)
MP3でエンディングロールをつくろうとすると、パワーポイントをトリミングして縦長画面を作成します。
そして、名前の記載位置を上に移動するための原稿を何枚もつくります。
MP3のアニメーションで下から上に垂直移動させ、前の画面と一致させるのですが、これが結構難しい作業となります。






12過酷な超々長距離レース


 ドイツの首都ベルリンにトップで入ったプロトスは熱狂的な歓迎をうけた


トーマスチームは公式行事へ参加しなかったので、プロトスとの時間差を詰めることになり、プロトスは2日間だけのリードで、地元のドイツに入ることになった。

ドイツ生まれのプロトス車は、どんな田舎町でも心のこもった歓迎を受けることになったが、いよいよ首都ベルリンへの入城を果たす段になると、人々の歓迎はさらに凄まじかった。
市内のメインストリートを音楽隊が先導するパレードが準備され、紙ふぶきが舞う中を行進することになったが、栄光のプロトスに触ってみたいという人々がクルマの前に飛び出してきて、危険きわまりなかった。

この中でひときわ目立った行動していたのは、退役陸軍将校のケッペン中尉の父親で、この典型的なドイツ軍人は自分の息子の偉業が嬉しくてたまらなかったので、周りの人々に誇らしげにふれ回っていた。

やがて広場で待ち受けていた皇帝陛下の前にパレードは到着して、皇帝から恭しく勲章を戴くことになり、興奮は最高潮に高まった。
この夜は、ドイツ自動車クラブからの公式歓迎会への招待を受けることになった。
ケッペンはいったん断ろうと思ったが、せっかくの好意であるので、この晩餐会が終わり次第ベルリンを出発することにした。

クルマの方は、プロトス社のエンジニアを総動員して、悪い部品は全て新品に交換するように指示をしていたので、晩餐会への参列も決して時間が無駄になったわけではなかった。


この頃、トーマスチームはようやくドイツ国境に着いたところだった。
ドイツ国内の道路は整備されていたので24時間運転を続けてベルリンに到着することになった。

ベルリンではプロトス大歓迎の余韻が残っていて、アメリカ車の到着を待ち受けていた人々がいた。
トーマス・フライヤーが来たことは、ぼろぼろになったアメリカ合衆国の国旗で知れ渡り、ベルリンっ子たちはニューヨークからここまでたどり着いたアメリカ車とアメリカ人への賞賛を惜しまなかった。

この頃、ドイツの人々にとって、アメリカ合衆国は移民を受け入れてくれる友好国であり、心温まる歓迎ぶりはアメリカ人ジョージ・シュスターやノルウェー人ハンス・ハンセンを喜ばせるのに充分であった。



首都ベルリンを出発したプロトスは、最後の目的地であるパリに向かってまっしぐらに進んでいた。

ベルリンで完璧な修理をした直後であるし、ドイツ国内にはプロトスの販売店が点在していて、緊急事態が発生しても大丈夫なのでエンジン全開で走行した。
ロシアの時と違って、新車と変わらぬ性能を取り返したプロトスのスピードは凄まじく、再びトーマスチームに差をつけ始めたのである。

トップをひた走るプロトスチームはハノーバーに到着し、ここで最後の休息を取り、翌朝、太陽の光が燦々と降り注ぐ中を出発した。

この辺りの道路状態は素晴らしかったが、その分自動車がたくさん走っていて、自分たちの走行スピードとこれらの自動車のスピードがまったく異なるので、一般車は邪魔者でしかなかった。
その後大都会のケルンに到着して、ライン川の橋を渡った。(※12-27話【第280回】は、ここまで)



12-26.レースの記録:大陸間編26~ロシアを走破⑨~

今日から、また新しい週が始まります。
週5日ペースで更新を続けているブログ『クルマの歴史物語』は、今週大きな展開を迎えることになります。

まず、2部の最終章となる「過酷な超々長距離レース」は本日26回目掲載で、“ロシアを走破”の9回目となります。
この章の残すところは本日を含めて4回だけとなりますが、2部そのものも、その時点で終了することになります。

そして、9月18日の第266回から始まった「私のサードライフ」のテーマの“ムービーづくり”に関して、先週末まで13回連続で掲載を続けてきましたが、本日と明日をもってお終いになります。

さて、ムービーづくりの第四の必要条件は、タイトルとエンディングです。
特にタイトルは重要であり、どのような題名にするかという点は知恵の絞りどころです。
私が、ムービーを制作開始して以降の主たる作品のタイトルは以下となります。
※は長編作品(映写時間30分以上)です。

 ●2009年 ※『ミルフォードトラックとマウントクック11日間の旅』
《副題:雅彦と和子:ニュージーランド旅行》
 ●2009年 『絆の人 蟹江昭二』
 ●2009年 『大樹パパと里香ママ』
 ●2009年 ※『三愛の50年、そして』(前津中学3年I組卒業50周年記念ムービー)
 ●2009年 『かにえあきのりの世界』
 ●2009年 『古都周遊シリーズ:京都の山を巡る』
 ●2010年 『古都周遊シリーズ:京都の世界遺産』
 ●2010年 『屋久島』
 ●2010年 『夢のディズニーランド』
 ●2010年 ※『七人姉妹』《副題:蜷川あいが愛しんだ珠玉》
 ●2010年 『アンパンマンに出会う旅』
 ●2011年 ※『Linking つながる』(登戸学寮50周年記念ムービー)
 ●2011年 ※『ドロミテ7日間縦走』
 ●2012年 ※『きずな』
 ●2012年 『沖縄・阿嘉島』《副題:民宿West Coastでの癒しの時間》
 ●2013年 『アオスタ峡谷を歩く』


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〈初めてのワイド画面となったムービーのタイトル〉
(※これは単なる画像であって、スライドショーor動画ではありません。)
Windows PhotoStory3の画面は横4:縦3という比率です。
この画面比率(これをアスペクト比といいます)をハイビジョンテレビで見ると、左右に大きなデッドスペースが発生します。
そのため、ハイビジョンのアスペクト比である横16:縦9を標準とするWindows Live Movie Makerに切り替えた最初の作品のタイトルがこれでした。



12過酷な超々長距離レース


首都ペテルスブルグに入城したプロトスの歓迎晩餐会が開催された


1908年2月12日、厳寒のアメリカ合衆国ニューヨーク市を、異様に目を輝かせた男たちを乗せたクルマがパリを目指して超々長距離自動車レースに出発した。
参加車6台のうち、最初に脱落したのはシゼール・ノーダンで、次にモトプロクが動かなくなり、サンフランシスコまで走ったのはトーマス・フライヤー、プロトス、ツースト、ド・ディオン・ブートンの4台であった。

その後、ロシアの太平洋サイドの玄関口であるウラジオストックでド・ディオン・ブートンはレースを中断することになり、ツースト、プロトス、トーマス・フライヤーの3台が、5月18~19日にウラジオストックからパリに向かって出発することになった。

ここでトップに立ったのはイタリア車のツーストであったが、スパイ容疑でロシア憲兵に捕まり2週間拘留された結果、トーマス・フライヤーとプロトスの2台が先頭を競い合うようになった。
どちらのクルマもロシアの田舎で重要部品を壊して動かなくなるなど難行苦行の日々が続いたが、シベリアの大地を離れてロシア中央部に入る頃には、ドイツ車のプロトスがアメリカ車のトーマス・フライヤーをリードしていた。


先頭を切って走るプロトスチームは7月16日にモスクワに到着した。
モスクワが首都になったのは1917年のロシア革命以降のことであって、この頃のモスクワは人口だけ多い田舎都市で、次の目的地であるペテルスブルグだけがロシアの首都として輝いていた。

プロトスチームのリーダーであるケッペン中尉は、アメリカ走行中に軍隊調でやりすぎてチームはばらばらであったが、これを反省した以降は結束が生まれ、祖国ドイツへの一番乗りを目指して士気は高まっていた。

ドイツ入りが現実感を帯びることになるこの辺りは、幹線道路としてきっちり路面が整備されているので夜を徹して運転を続けることができて、モスクワ入りの翌々日には首都ペテルスプルグに到着した。

「トップで首都ペテルスブルグ入りしたチームに賞金千ルーブルを与える」とロシア皇帝は発表していたので、プロトスチームがこれを受け取ることになった。
そうなると、正装して宮殿を訪れ皇帝陛下から恭しく受け取る儀式に参列しなくてはならない。
ここで時間をロスすることに心理的な抵抗があったが、賞金はどうしても欲しかったので参列することにした。

儀式の最中、ケッペンは後を追っかけてくるトーマスチームが気になって仕方なかったが、謁見時に皇帝主催の晩餐会に招待いただくことになった。
さらに時間をロスせざるを得ない状況に追い込まれたが、賞金千ルーブルを受け取った手前、ここへの出席を断るわけにいなかくて、さらに貴重な時間を浪費することになるのである。


トーマスチームが首都ペテルスブルグに到着したのは、プロトスチームに4日遅れの7月22日であった。
ここにはトーマス社のロシア地区代理店があることがわかっていたので、すぐにそこに行った。
そして、オムスクに送ってもらったトランスミッションの協力に感謝を表明したが、実際は鉄道会社の手違いでカザン駅に放置されていた事実も報告せざるを得なかった。

この代理店は自動車を点検できる設備が整っていたので、最後の総点検を実施し悪い所は大急ぎで修理に取り掛かり、傷んだタイヤはミシュランの新品に取リ換えた。

この作業中にトーマスチームにも、晩餐会の招待がもたらされたが、プロトスを追い越すことに執念に燃やしているシュスターは、行事への出席をていねいに断って、修理完了次第パリに向かうことにしたのである。(※12-26話【第279回】は、ここまで)


12-25.レースの歴史:大陸間編25~ロシアを走破⑧~

今日のブログ『クルマの歴史物語』は、2部の最終章となる「超々長距離レース」の25回目掲載で、“ロシアを走破”の8回目です。

さて、“ムービーづくり”のお話ですが、第四の必要条件はタイトルとエンディングです。
この相互に関係する二要素をどう設計するかは、アマチュアのムービーづくりでは大きな注目ポイントとなります。
タイトルづくりのコツは、いかにして本物の映画に似せる演出を凝らすかです。

どんな映画でも、最初に出てくるシーンは映画会社のカンパニー・シンボルです。
最も有名なのは20世紀フォックス社のライオンが吠える映像であり、コロンビア映画の自由の女神風女性像も有名です。
わが国では、岩礁に波が叩きつける東映のカンパニー・シンボルを思い浮かべる人が多いと思います。
そこで、私もムービー制作会社であるMASA Productionという会社を設立して、オリジナル・シンボルを創造することにしました。

と申しても、私は本物の会社をつくったわけではありません。
MASA Productionは実際の法人ではなく、私がムービーを制作する“場”にすぎませんが、この象徴としてシンボルマークをつくることによって、映画のイメージを醸成することを考えました。
そして、MASA Productionのカンパニー・シンボルを、私が制作する全ての作品で、冒頭10秒間にわたって映写することにしたのです。
これを見た方は、これから映画が始まることを意識していただけると同時に、期待を抱いていただける効果を生みだすのです。


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〈私の映画会社のロゴマーク〉
(※これは単なる画像であって、スライドショーor動画ではありません。)
この画像は私が制作する全てのムービーの最初の画面となります。
無音で黒からフェードインして、10秒経過したらフェードアウトすることで、これから始まるムービーに対する興味を喚起します。



12過酷な超々長距離レース


 行方不明のトランスミッションをシュスターが見つけた


ウラル峠を越えたペルムという所に着いたトーマスチームに、トランスミッションを探しに行ったシュスターから電報が届いていた。

「ハンス・ハンセン様 汽車を使って主要駅に保管してある荷物を調べたところ、カザン駅にて木箱に梱包された272キロという重さのトーマス社の代理店から発送された荷物があることが判明。この荷物を私がシベリア鉄道で運べる所まで運ぶことにする。シュスターより」

カザン駅は、ペテルスブルグからの鉄道とシベリア鉄道との分岐駅である。
本来ならこの駅で、オムスク行きの貨物列車に積み換えることになっていたのだが、駅員が積み忘れてそのまま放置されていたのだった。

この電報を受け取ったハンセンは、シュスターがカザン駅からトランスミッションを持っていく所はどこか、そしてどこで部品交換作業をするかを考えた。
新しいトランスミッションと瀕死のトーマス・フライヤーが出会うのに少なくとも1週間はかかることが想定されたので、結論として、トーマスチームは前進することにして、カザン駅にいるはずのシュスター宛てに電報を打った。

「ジョージ・シュスター様 行方不明のトランスミッションを探し出してくれてありがとう。われわれは一刻の時間も無駄にできないので、明日ペルムを出発して、当面の目標地であるベルリンに向かうことにする。途中でトランスミッションの交換作業をするので、そこまで汽車で運んで欲しい。ハンス・ハンセンより」


ペルムではシュスターからの電報と一緒に、アメリカからのエドウィン・トーマス社長からの電報が届けられていた。
「ジョージ・シュスター様 トランスミッションに関してペテルスブルグの代理店に問い合わせたところ、間違いなく発送しているので、必ずオムスクに到着するから安心するように。部品交換すれば優勝は間違いないから、最後まで頑張って欲しい。今のペースで行くと、パリに到着するのはいつの予定になるか連絡を待つ。また運転のプロのモンティ・ロバーツを、最終区問のドライバーとして送リ込んでやろうか。返事を待っている。エドウィン・トーマスより」

これを見たハンセンは、この電報をカザン駅のシュスターに転送した。

シュスターはこれを見て、すぐにアメリカのトーマス社長宛てに電報を打った。

「エドウィン・トーマス社長様 トランスミッションはカザン駅にあることが本日確認されたので安心されたし。運転の交代に関しては、現在のスタッフで十分なので必要なし。パリ到着は7月26日を予定している。トーマスチームのシュスターより」


当面連絡すべきことは全て完了したので、ハンセンはペルムを出発してパリを目指すことをトーマスチームに伝えた。
出発直後から激しい雨が降ってきて、なかなか降り止まなかった。
ジャッツイという所まで来たら、ロシア人の鍛冶屋で応急修理をした歯車が駄目になり、トーマス・フライヤーは動かなくなってしまった。

一方、車軸が折れて動けなかったプロトスの方は、トーマスチームより1週間部品到着が早く、すぐに修理作業を行い、動ける状態に戻ったので、再びパリを目指して出発してスピード走行を開始した。

ジャッツイでトランスミッションの到着を待っているトーマスチームを横目で見て、猛スピードで走り抜けていった。

シュスターは汽車と馬車を乗り継いで、350キロの旅をして、カザンから貴重な荷物を持ち帰った。
そのトランスミッションが据え付けられ、トーマス・フライヤーは再び動き出した。

7月19日、疲れ果てたトーマスチームは、ニジニー・ノブゴロドに着いた。
ヌーヴィルが迎えに出て、チームメンバーは13日ぶりに風呂に入リ、着替えをし、まともな食事をとった。
トーマス・フライヤーの方はエンジンマウントが緩み、クラッチもおかしくなり、タイヤは傷だらけだったが、モスクワまでの360キロは、なんとしてももたせなければならなかった。(※12-25話【第278回】は、ここまで)