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13-27.ハーレーダビットソンの歴史~傑作オートバイの誕生②~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、ハーレーダビットソンの歴史の2回目であると同時に、13章の最終回でもあります。
昨日のブログで、アメリカで最高のオートバイをつくろうとしてウィリアム・ハーレーという青年技術者と、長男:ウィリアム、次男:ウォルター、三男:アーサーというダビッドソン家の3人兄弟が共同で立ち上げたブランドが“ハーレーダビットソン”であることをお知らせしました。
ハーレー家とダビットソン家のジョイントビジネスですので、“ダビットソンハーレー”というブランドになってもおかしくなかった状況の中で、独特のリズム感を持つ“ハーレーダビットソン”を採用したのは、今となっては大正解だったに違いありません。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【ハーレーダビットソンの歴史】に関するリンク先※※
●13-27.ハーレーダビットソンの歴史1~傑作オートバイの誕生①~

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#37:フレデリック・テイラー〉、〈#38:アルベール・ド・ディオン(壮年期)〉、〈#39:アルベール・ド・ディオン(老年期)〉の2名3タイプをお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#37:フレデリック・テイラー〉






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〈#38:アルベール・ド・ディオン(壮年期)〉






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〈#39:アルベール・ド・ディオン(老年期)〉












13.フォード車の大量生産


 オートバイの傑作ハーレーダビッドソンが誕生した 


これからは早かった。小さなガソリンエンジンを装備したベルトドライブ方式のエンジン付き自転車の1号車ができあがり、ただちにテスト走行することになった。
ところが試作車はパワーが弱く、登り坂にくると脚力で補わないと登れないことが分かった。
これではとても人前に出せないと判断した4人は、さらなる技術改良にとりかかるのであった。

この頃になると、エンジン付き自転車という概念はなくなって、エンジンと車体が一体となった乗り物がだんだん姿を現してきた。
そこで、これ以降本書では、この新しい構造物の名前を“オートバイ”という表記で統一することにする。

エンジンの改良は進んだ。
それに伴ってボディの補強がなされて、新しい乗り物はようやくにして完成することになった。
さっそく試乗してみたところ、どんな急坂でも足の補助なしにどんどん登る力があった。
またスピードを出しても、車体の揺れは少なく、初めての製品にしては極めて完成度が高かった。

周りの人々に、できたばかりのオートバイに乗ってもらったところ評判がよく、これならオートバイ製造業はビジネスになるに違いないと、ウィリアムは、これに賭けてみる気になった。
ウォルターも異存なく、アーサーは兄たちのやる気にむしろ引きずられるようになっていた。

1903年は3台のオートバイが組み立てられたが、3台とも完成前に買い手が決まるという幸先のいいスタートとなった。
翌年には生産台数は8台に増え、さらにその翌年には2倍になるのである。

順調なスタートを切ったオートバイビジネスであるが、今まで蓄積した技術が限界にきていることを実感したウィリアム・ハーレーは、さらなる高い技術知識を吸収すべくウィスコンシン大学に入学し、機械工学を学ぶことにした。

1907年は、アメリカ中を不況風が吹き荒れたが、幸いハーレーとダビッドソン兄弟には、その風もよけてくれたので、ハーレーダビッドソン社を設立した。

この時、4人の間には微妙な問題が発生した。
それは、ハーレーとダビッドソンの2つの名前のどちらを先にするかという点である。
創業者4人のうち3人がダビッドソン姓であるので、“ダビッドソンハーレー”というネーミングになるのが普通だと思うのであるが、結果として、ハーレーが先になり“ハーレーダビッドソン”という独特のリズムをもつネーミングになったのである。



よちよち歩きを始めたハーレーダビッドソン社であるが、新しい顧客として警察が登場することによって、どんなクルマやオートバイにスピードで負けない大型オートバイの開発要請を受けることになった。

ウィスコンシン大学で機械工学技術の全てを貪欲に学んできたウィリアム・ハーレーは新型車開発のリーダーとなり、ハイパワーでトルクがある画期的なエンジン開発に渾身の力を振り絞った。

ダビッドソン3兄弟が見守るうちに、排気量580㏄4HPの新型エンジンが完成し、このエンジンにふさわしいボディを新設計して、最高時速70キロが出るモデルが完成した。
さっそく試走に入ったところ、この新型オートバイは今までとは比較にならないぐらいエンジンの回転がスムースの上、騒音がどんな競合メーカーのオートバイより低いので、“サイレント・グレー・フェロー”(灰色の静かな奴)というニックネームで、呼ばれるようになってきた。

この頃から、アメリカではオートバイのスピードレースが盛んになってきた。
自転車にエンジンをつけることから始まったオートバイは、だんだんスピードが出るようになってきたので、速さを競い合うのは自然の成り行きとであった。

ハーレーダビッドソンが参加したレースの歴史は1908年に始まる。
アメリカ・オートバイ連盟が主催する耐久レースにウォルターが参戦した。

このレースでは、580キロという長距離を走って、運転技術や判断力、マシンの耐久性や信頼性をテストするというものであり、50台を超えるオートバイが参戦したが、初出場のウォルター・ダビッドソンは、1,000点満点というパーフエクト・スコアを出して優勝してしまうのである。

ウォルターの活躍は、ここだけではなかった。
1週問後に開かれた経済性を競うレースで1リッター当り80キロという燃費記録を出したのである。
スピード、信頼性、耐久性、それに燃費というオートバイに期待される性能の全てにハーレーダビッドソンが答を出して、一気に名声が確立したのである。

これ以降も、数多くのレースで優勝を重ねることになるが、ハーレーダビッドソン社は、レース用特別仕様車は生産しないという考えを貫いた。
もともと高性能であるので、普通の製品で充分他社のレース専用車に引けを取ることなく戦えると考えたからである。
(※13-27話【第458回】は、ここまで)


13-26.ハーレーダビットソンの歴史~傑作オートバイの誕生~

ブログ『クルマの歴史物語』を愛読いただいている方なら、アメリカ合衆国を代表するオートバイの名門“ハーレーダビットソン”をご存じない人はいないと思います。
今日と明日のブログ『クルマの歴史物語』では、このハーレーダビットソンの誕生物語を掲載します。

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#34:フレデリック・デューセンバーグ〉、〈#35:ピエール・デュポン〉、〈#36:ウィリアム・デュラント〉の3名をお届けします。このうち、ウィリアム・デュラントはアメリカナンバーワンの自動車メーカーとして君臨してきたGM社の創業者として知られた人物です。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#34:フレデリック・デューセンバーグ〉






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〈#35:ピエール・デュポン〉






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〈#36:ウィリアム・デュラント〉












13.フォード車の大量生産


 ハーレーとダビッドソンはエンジンで動く自転車をつくり始めた 


これから、アメリカを代表する、また現存する唯一のオートバイであるハーレーダビッドソンの物語を始めよう。

時は1903年、製図工で21才のウィリアム・ハーレーと、機械マニアで20才のアーサー・ダビッドソンという2人の青年は、いつも一緒に遊んでいた。
そのうちに2人は、エンジンで動く乗り物に興味を持つようになり、いっそのこと自分たちだけで、エンジン付き自転車を製作することを思い立った。

ハーレーは全体の構造を考えて得意の製図を引いた。
アーサーは、この設計図に基づいて製作を担当することになった。
ハーレーとアーサーは、夜遅くまで秘密の地下作業場にこもって、新しい乗り物の製作に夢中になった。
といっても、2人にはエンジン製作に関する基礎知識が充分でなかったので、そのうちに行き詰まり困り果ててしまった。
そんな時に、アーサーはすぐ上の兄のウォルターのことを思い出した。


ダビッドソン家には3人の息子がいる。長男はウィリアム、次男はカンサス州で鉄道の機械工をしているウォルターで、三男がアーサーである。

アーサーはすぐ上の兄のウォルターに支援を依頼する手紙を送った。
これを読んだウォルターは、故郷にやってきたが、そこにあるのは設計図面と放置してある鉄の固まりだった。
機械工のウォルターは設計図を入念にチェックし、つくりかけのエンジン部品の問題点を探っていった。
そして、「設計図は問題ないが、この図面どおりにやれていないのは技術力の不足である」と判断して、現状を打破するアイデアを思いついた。

ウォルターは、弟のアーサーとその親友のハーレーに向かって、「ハーレー君が書いた設計図は実にすばらしい。この設計図どおりのエンジンと車体構造をつくりたいと思ったら、自分より腕が確かな機械工である長兄ウィリアムを巻き込まないと、2人の夢をかなえることはできないよ」と強く諭したのである。

ウォルターの意見に素直に納得したアーサーは、長兄ウィリアムの説得を兄に依頼したら、ウォルターはウィリアムへの協力要請に向かった。
そして数日後、長兄を連れて故郷に帰ってきたのである。

こうして、機械づくりに経験豊かな長兄のウィリアムが加わって、ダビッドソン家3人兄弟とウィリアム・ハーレーの4人チームが結成され、エンジン付き自転車の完成を目指す協力体制ができあがったのである。
(※13-26話【第457回】は、ここまで)


13-25.レースの歴史:アメリカ編9~速度新記録の樹立~

おはようございます。
本日のブログ『クルマの歴史物語』は、「レースの歴史:アメリカ編」の9回目となります。
既に掲載済みの8回分に関心をお持ちの方は、下にリンク先一覧場所を掲示しておきましたので、ぜひご覧ください。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【レースの歴史:アメリカ編】に関するリンク先※※
■レースの歴史目次一覧《アメリカ編》の項で検索

さて、昨日のブログで触れましたが、2年前の7月2日、私は心臓切開手術を受けました。
それから2年、こうして元気を取り戻し、毎日ブログの更新に取り組んでいる幸せを強く実感しております。
この2年間を振り返ってみると、やはり術後のリハビリへの取り組みが大変重要であったとつくづく思います。
特に、心臓のことですから、間違ったやり方をしてしまうと取り返しがつきませんし、その一方で、体を大切にするあまり、運動負担をかけないでいると脆弱な心臓のまま生きてゆかなければなりません。
この点が、リハビリの大きな留意点でした。
私の場合は、ウォーキングに筋力トレーニングを組み合わせ、ステップbyステップで1歩1歩前進するプログラムを継続しました。
そして、リハビリ開始1年後くらいには手術前の状態に戻ることができたといったんは思ったものの、実際は1年半後の本年1月まで完全復帰はかかりました。

ところで、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#31:フェルディナント・ツェッペリン〉、〈#32:ルドルフ・ディーゼル〉、〈#33:ラルフ・デ・パルマ〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係がない点を重ねて強調しておきます。



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〈#31:フェルディナント・ツェッペリン〉






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〈#32:ルドルフ・ディーゼル〉






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〈#33:ラルフ・デ・パルマ〉












13.フォード車の大量生産


 バーニー・オールドフィールドは速度新記録を樹立した 


アメリカの自動車レースの歴史は、ヨーロッパでの自動車レースの発展形態とは違って、競馬場でのダートコースでの競い合いといういびつな形から始まった。
ここでのヒーローは、バーニー・オールドフィールドが最初であった。

ヘンリー・フォードが設計した999号で華々しいデビューを飾ったバーニーは、その後ウィントンの弾丸号、続いてピアレスのグリーンドラゴン号に乗り、自動車レースの人気を沸騰させる立役者になり、ブロードウェイミュージカルのスターとして舞台に登場するまでになった。

1908年頃になると、バーニーは自動車によるスピード新記録樹立に関心を持つようになった。
ここでバーニーが着目したのは排気量21リッターエンジンを積み流線型をしたドイツ製の〈ベンツ/ブリツェン〉であった。

バーニーは、スタンレー蒸気車が1906年に樹立した時速205キロというスピード記録を打倒するつもりになった。
考えたらすぐに行動するのがバーニー流であり、あちこちに手を回して〈ベンツ/ブリツェン〉を入手して、スピード記録への挑戦を開始し、時速212キロという世界新記録を1910年3月に樹立したのである。


バーニーはアメリカ人庶民の間でスターとなったが、スターは人気を保つのが実に難しい。
人々の注目を集める行動によって新聞に登場しなくなると、飽きっぽい大衆は新しいスターに関心を移してしまう。
このことを知っているバーニーは、どうしたら人気をあおり立てることができるかをいつも考えていた。


バーニーがスピード記録に挑戦したのは、単に自分の存在をアピールするためではなかった。
ブリツェンが出すスピードを多くの観客に楽しんでもらえるよう見世物として興行することにあり、あちこちのレース場でスピード走行して、金を稼ぎまくった。
ところが、この興行もだんだんと観客の入りが悪くなり、新規性のある企画が必要になっていた。

この頃、自動車と並んで、飛行機は大衆の関心を惹いていたが、中でも曲乗りという命がけのスリルが人気を呼んでいた。

ある興行主が、飛行機と自動車のスピード競争をやったら、きっと人気が出るに違いないと思いついた。
この興行主は自動車の主演者はバーニーしかいないと確信して、この話を持ってきた。
人気下降中で、何か話題になるテーマはないかと模索していたバーニーは、すぐにこの企画に飛び乗った。
バーニーとコンビを組むことになったのは、ナイアガラ瀑布を飛び回ったことで有名になり、目下売り出し中のリンカーン・ビーチーという名前の青年飛行士であった。

〔世界の名ドライバーVS空の挑戦者〕というイベントの実施計画が、華々しく発表されると、新聞各紙はこぞって取り上げ、人々の関心の的となった。
いよいよ対決の日がやってきた。特別にこしらえたイベント会場にたくさんの観客が入場料を払って集ってきた。
招待された新聞記者たちは、いちばん良い席で取材をすることになった。

飛行機が最初に飛び立ち、上空を1周して戻ってくるタイミングを捉えてバーニーが愛車の〈フィアット/サイクロン〉を駆って加速することになっていた。
そして観客席の目の前がゴールになっているので、どちらが先にゴールインをするかを競う企画であるが、全ての判断はバーニーが握っていて、1回目は飛行機が勝利するようにバーニーは走った。

翌日、新聞各紙で「バーニー、飛行機に敗れる!」と大活字が踊ることになり、「バーニー、リベンジを誓う」というサブタイトルで、2回目の競い合いの前人気をあおるのである。

2回目は、バーニーが運転する〈フィアット/サイクロン〉がタッチの差で勝利し、翌日の新聞で「バーニー、飛行機に勝利!」というように報道され、人々の関心を集めるように全てが仕組まれていたが、そんなことに気がついていない観客は手に汗を握って、このイベントを楽しんだのである。
(※13-25話【第456回】は、ここまで)


13-24.フォードの歴史18~ベルトコンベアの採用~

本日より、ブログ『クルマの歴史物語』は3度目の7月を迎えることになります。
と申しても、最初の年である2012年の7月1日は、私は千葉県松戸市にある新東京病院に入院しており、翌日に予定されている心臓切開手術を控え、不安な一日を過ごしていました。
翌2日、心臓外科部長の山口先生の執刀によって、心臓内の僧房弁の修復手術が行われました。
それから2年が経過して、私の心臓は24時間正確な鼓動を繰り返すことができるようになりました。
手術前の問診時に、山口先生から「蟹江さんの現在の状況は、5年間生存率で50%を割り込んでいます」と告げられた事実からすると、私は現在、夢のような日々を過ごしているのです。

おかげさまで、ブログ『クルマの歴史物語』の更新回数は本日455回を迎えました。
すでに、累計読者総数は5万人を突破し、次の目標となる10万人に向かって日々前進を続けております。
3部のハイライトは、何と言ってもヘンリー・フォードによって開発されたベルトコンベアによる大量生産方式であり、現在その白眉とも言うべき箇所に到達しておりますので、引き続きましてご愛読を宜しくお願い致します。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【フォードの歴史】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《アメリカ編②フォード》の項で検索
■自動車人名事典《ハ行のフ》:「フォード、ヘンリー」の項で検索
■自動車ブランド事典《ハ行のフ》:「フォード」の項で検索
〔3部での掲載分〕
●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~
●13-23.フォードの歴史17~流れ作業方式の研究~

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#28:ジョン・ダッジ〉、〈#29:アーサー・ダビットソン〉、〈#30:ジョン・ダンロップ〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#28:ジョン・ダッジ〉






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〈#29:アーサー・ダビットソン〉






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〈#30:ジョン・ダンロップ〉












13.フォード車の大量生産


 ベルトコンベア方式の流れ作業はコストダウンを加速させた 


マグネットーの製造ラインで実験を重ねてつくりあげたベルトコンベアによる流れ作業の仕組みは、エンジン製造ラインでも応用された。

エンジンはマグネットーに比べれば工程ははるかに多く、流れ作業化にはいくつかの難問もあったが、フォード社のスタッフはひとつひとつの問題点を解決した。

このように、部品をベルトコンベア・ラインの流れ作業の仕組みに全面変更するという挑戦はクリアできたが、最後の難問は自動車全体の流れ作業化である。
この当時の自動車の生産は、最初にシャシーという自動車の基本的な骨組みがつくられて、そこにエンジンやトランスミッションなどの主要部品を載せる。
さらに、ステアリング装置を付けたり、マグネットーをつけたりする。

この段階で自動車の基本構造は形成される。
その次に、シートや計器盤などの付属品をつけて、外板を架装する。そして、最後にタイヤをつけて完成するというステップを取る。

この仕事を流れ作業でやるとなると、シャシーが流れる製造ラインの本流に対して、エンジンの組み立て、マグネットーの組み立て、トランスミッションの組み立て、ステアリング装置の組み立て、計器盤の組み立てなどいくつかの支流が組み合わさることになる。
普通、1台の自動車を製造するのに、最低でも5千くらいの部品が必要とされる。
これらの全部を流れ作業でコントロールしようというのは、コンピュータのなかった時代のことゆえ、誰が考えても無謀としかいいようがない難しい仕事であった。
しかし、チャールズ・ソレンセンを始めとするフォード社の技術者たちは見事にT型のベルトコンベアによる流れ作業化をやりきったのである。



それ以前のやり方では1台のT型を生産するのに、最初の工程からスタートして12時間30分かかったものが、部品の流れ作業化によって1台当り5時間50分に短縮された。

このようなハイランドパーク工場におけるT型の流れ作業生産は、製造原価という側面でも革新的なコストダウンを実現することになった。

そこでヘンリー・フォード社長は、販売価格を大幅に引き下げる方針を打ち出した。

1910年当時〈フォード/T型〉基本タイプの販売価格は700ドル台に下がっていた。
年毎に生産効率が高まることによって販売価格は段階的に下げられた。

値下げに伴って販売台数は飛躍的に増加することになり、生産量も年毎にウナギ登りの上昇となった。
1910年は年間3万5千台に近い〈フォード/T型〉が供給されたのである。

このようにフォード社が創造した、流れ作業化→コストダウン→販売価格ダウン→販売量アップ→生産量アップ→コストダウンという好循環が、年毎に形成されたのである。
(※13-24話【第455回】は、ここまで)


13-23.フォードの歴史~流れ作業方式の研究~

『クルマの歴史物語』として記述量が多いのは、ヨーロッパではベンツ&ダイムラー(メルセデス)がいちばんですが、アメリカ合衆国ではフォードが圧倒的ナンバーワンとなっています。

ご存じの方が多いと思いますが、ドイツのモノづくりは同じ職業者によって組織化された手工業ギルド制度の伝統が維持されています。
ギルドでは、職人は徒弟として親分の支配下にあって働くというのが普通であり、この当時のベンツ車もダイムラー車も、一人の親分が1台の車を完成させるまでの全ての仕事を取り仕切っていました。
一方、新興のアメリカ合衆国にはギルドのような伝統的な制度がありません。
したがって、昔のやり方を継承するという呪縛がありませんので、自由な発想でモノづくりができるという強みがありました。
ということで、大量生産方式は、決してヨーロッパでは生まれることはなく、熟練技術者が少ないアメリカ合衆国特有のやり方として定着していったのです。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【フォードの歴史】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《アメリカ編②フォード》の項で検索
■自動車人名事典《ハ行のフ》:「フォード、ヘンリー」の項で検索
■自動車ブランド事典《ハ行のフ》:「フォード」の項で検索
〔3部での掲載分〕
●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は『クルマの歴史物語1部&2部』で何度も登場した:ゴットリープ・ダイムラーの肖像イラスト〈#25壮年期〉と〈#26老年期〉の2枚と、その息子である〈#27:パウル・ダイムラー〉の3枚をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#25:ゴットリープ・ダイムラー(壮年期)〉






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〈#26:ゴットリープ・ダイムラー(老年期)〉






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〈#27:パウル・ダイムラー〉











13.フォード車の大量生産


 ハイランドパーク工場で流れ作業方式の大量生産が始まった 


1910年、フォード社はT型の生産拠点を、デトロイト市内のピケットアベニュー工場から郊外に新設されたハイランドパーク工場に移した。
この工場は前より10倍以上の敷地面積をもった大工場で、操業当初の頃は日産300台のT型が生産されることになった。


巨大新工場を稼動させたヘンリー・フォード社長の最大の関心事は、いかにしてT型1台当たりの生産コストを安くするかにあった。
そこで、最初に目をつけたのが部品である。
この時代の自動車メーカーは、部品メーカーからエンジン、ステアリング装置、トランスミッションなどのいろんな自動車部品を調達して、これらを自社設計のシャシーに組み込むという考えが主流であった。

そこで、フォード社長は自動車部品製造をメインビジネスにする子会社を設立して、子会社と外部の部品メーカーとの間で品質とコストを競わせた。
さらに、自動車のボディ製造に欠かせない板金プレス部門強化のため、板金プレス専門企業を買収し、この会社のノウハウを詰め込んだプレス機械を新設のハイランドパーク工場に設置した。

これらの対策によって主要部品のコストダウン対策は大きな前進を見た。



部品問題が解決すると、フォード社技術陣の次なる関心事は、工場内の組み立てラインでいかに生産性をあげるかになってきた。
1913年4月、自動車の主要部品であるマグネットー(磁石発電機をビルトインしたフライホール)で“流れ作業”の実験がスタートを切った。

それまでは、マグネットーを1人の作業員が最初から最後まで一貫して組み立てるというやり方であった。
このやり方だと、完成品を1個つくるのに4時間を必要としていたので、1人の作業員の1日当りの生産量は2個であった。
そこで、5人の作業員がこの仕事にかかわったとすると、工場としては1日当り10個(=2個×5)できたことになる。


今までのやり方に対して、新しい考え方はマグネットーをつくる工程を5つに分割して、製造ラインに5人の作業員を配備して最初から最終工程までスムースに移動できるようレールを敷設する。
最初の工程の作業を終えた人は2番目の作業員にレール上で仕掛品を手押しで流し、2番目の人は作業が終わったら3番目へ、4番目へと、順番に5番目の作業員まで、仕掛品を流すことによってマグネットーは完成するという仕組みとなる。
この5人1組のやり方だと、1日に20個の生産ができるようになった。
そうなると、1人当りに直すと1日に4個できたことになり、生産性はそれ以前のやり方から2倍もアップすることが分かってきた。


しかし、このやり方に問題がなかったわけではない。
仕事をするために同じ姿勢をとりつづけなければならないため、作業員から腰が痛くなるという苦情が多発したので、レールの位置を腰に負担がかかることなく作業ができ易い高さに調整して、問題は解決された。

次の問題点は、作業をするひとりひとりのスピードの違いである。
ある者は手際よく作業をするが、別の者にとっては単調な作業はやる気が起きないといって、だらけた仕事をするというように、作業スピードに大きな個人差がでてしまう。
この問題を解決する手段のひとつは、出来高賃金制である。
しかし出来高賃金制は、人間がいかにもお金のために働くようで、フォード社長としてはやりたくなかった。


そこで生み出された仕組みは、ラインを一定スピードで移動するベルトコンベアの採用であった。
一定のスピードで製造ラインが動けば、作業の遅い人はこのスピードに合わせるよう努力をするし、早すぎる人にとっても作業のペースダウンを忠告するという効果もあった。
(※13-23話【第454回】は、ここまで)