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14-29.フォードの歴史22~マスコミの寵児フォード社長~

ブログ『クルマの歴史物語』に掲載してある事項は、いかにも本当にあったことを記録として記したものだと感じる方が多いと思いますが、その実体は蜷田晴彦が書いた“小説”ですので、すべてフィクションです。
そうは申しても、まったくのでたらめかというとそうでもなく、歴史的な事実として現在まで語り継がれているできごとをベースに、『クルマの歴史物語』は構成されています。
このフォード社の日給5ドルアップは有名なできごとであって、フォード社の歴史ストーリーには欠かせないお話であり、これをどのように読者に伝えるかは書き手の筆力にかかっており、役員会での討議を舞台に設定したのは蜷田晴彦オリジナルです。
それにしてもヘンリー・フォードはPR(Pubric Reration)の価値をよく知っていますね。
この時代に、マスコミで取り上げられることが自社およびフォード車の宣伝になるという発想を抱いたヘンリー・フォードという人物は、本当に立派であったと思います。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【フォードの歴史】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《アメリカ編②フォード》の項で検索
■自動車人名事典《ハ行のフ》:「フォード、ヘンリー」の項で検索
■自動車ブランド事典《ハ行のフ》:「フォード」の項で検索
〔3部での掲載分〕
●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~
●13-23.フォードの歴史17~流れ作業方式の研究~
●13-24.フォードの歴史18~ベルトコンベアの採用~
●14-26.フォードの歴史19~フォード社の苦悩~
●14-27.フォードの歴史20~フォード社長のアイデア~
●14-28.フォードの歴史21~優れたPRセンス~


さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#94:チャールズ・ロールス〉、〈#95:トーマス・エドワード・ロレンス〉、〈#96:ウラジミール・レーニン〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#94:チャールズ・ロールス〉






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〈#95:トーマス・エドワード・ロレンス〉






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〈#96:ウラジミール・レーニン〉












14.アメリカ車の波動


 日給5ドルの賃上げ発表はマスコミで大反響を呼んだ 


1914年1月5日、フォード社のヘンリー・フォード社長は記者団を集めて、最低賃金を1日5ドルにするという発表をした。

この発表は、産業界に大きな衝撃を与えた。
そしてその衝撃の大きさが毎日マスコミをにぎわし、新聞にフォード社の記事が出ない日がないほどのフィーバーぶりだった。
全てのマスコミはフォード社に好意的な記事を書いたのであるから、その読みを見事に事前に察知したヘンリー・フォードは、パブリック・リレーションズ(Public Relations、PR)の重要性を最初に知ったアメリカ人ビジネスマンかもしれない。

その後、フォード社の定着率は飛躍的に高まった。
それに伴って、あれだけかかっていた雇用や教育訓練費用が激減した。
そして、ハイランドパーク工場の生産性も予想以上に高まることになって、人件費が多くなったにもかかわらず、T型1台あたりの製造コストは低下することになった。

そして、IWWに関心を持っていた労働者も、「自分はプロレタリアートではない」と思い始めたのである。
その結果、IWWを支持する労働者は激減して、ハイランドパーク工場に狙いを定めていたIWWの幹部もデトロイトを去っていったのである。



賃上げ以降、工場の生産は順調に拡大した。
それ以前のやり方では1台のT型を生産するのに、最初の工程からスタートして12時間30分かかったものが、部品の流れ作業化によって大幅に短縮された。
そして、全ラインの流れ作業化が完了した1914年には、1台のT型を生産するのに必要な時間はわずか1時間33分になったのである。


このようなハイランドパーク工場におけるT型の流れ作業生産は、製造原価という側面でも革新的なコストダウンに結びついて、販売価格の大幅値下げが続いた。
1910年当時、T型の基本タイプの販売価格は700ドル台であったが、年毎に生産効率は高まることによって販売価格は段階的に下げられ、1916年には、〈フォード/T型〉の販売価格はなんと360ドルまで下げられた。

値下げに伴って販売台数は飛躍的に増加することになり、生産量も年毎にウナギ登りの上昇となり、1916年には年間で73万台を超えるというように加速したのである。


このようにフォード社が創造した、流れ作業化→コストダウン→販売価格ダウン→販売量アップ→生産量アップ→コストダウンという好循環が、年毎に形成されていった。
(※14-29話【第487回】は、ここまで)


14-28.フォードの歴史21~優れたPRセンス~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、月曜日から連続掲載している“フォードの歴史”の21回目となります。
「工場労働者の日給2ドル34セントを倍以上の5ドルに一挙に上げよう」という突飛なアイデアを思いついたヘンリー・フォード社長に対して、役員諸氏から反論が噴出しました。
これに対するフォード社長の確信は揺るぐことがなく、全員を納得させる説明が続きます。

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〔1部&2部での掲載分〕
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●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~
●13-23.フォードの歴史17~流れ作業方式の研究~
●13-24.フォードの歴史18~ベルトコンベアの採用~
●14-26.フォードの歴史19~フォード社の苦悩~
●14-27.フォードの歴史20~フォード社長のアイデア~

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#91:フェルディナント・レセップス〉、〈#92:フレデリック・ロイス〉、〈#93:ニコラ・ロメオ〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。



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〈#91:フェルディナント・レセップス〉






スライド53



〈#92:フレデリック・ロイス〉






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〈#93:ニコラ・ロメオ〉












14.アメリカ車の波動


 フォード社長の賃上げ理由の3つ目はPRの概念そのものだった 


そこで、ヘンリー・フォード社長は、「ここからが重要じゃ」と強調して、さらなる賃上げ理由の説明を続けた。
「工場従業員諸君はT型を欲しがっているが、今の給料ではなかなか買えないという現実がある。T型が買い易くなるためには自分で稼いだ給料の中で支払いができる範囲の価格でなければならない。T型を売り出した時の価格は850ドルであり、日給2ドル34セントで単純計算すると1年間の総収入でもT型は買えないことになり、一家に1台というように普及していない。現在、T型の価格は400ドル台まで下がっているので、ここで賃金を上げれば3カ月分くらいの給料と同じ金額でT型が買えるようになるのじゃ」と、駄目押しするように言ったら、それまで静かに聞いていたジェームス・コウゼンス常務が猛然と反発をしてきた。

「フォード社長。今日の提案はたいへん大切なことなので、冷静に考えてください。思いつきでは会社の経営はやれませんよ」と刺激的に話し始めると、フォード社長がカッとし、「わしは、思いつきで提案したんじゃないぞ!」と話をさえぎった。

一瞬の緊迫の後、「言い過ぎたら申し訳ありません。先を続けたいと思いますが、よろしいでしょうか」と断ったコウゼンス常務は、クールに話を始めた。
「前年度の工場従業員の賃金総額は450万ドルで、T型の製造原価に対する構成比は16%です。単純に2倍賃上げすれば構成比はその倍に上がります。生産台数が大幅に増えますので単純には言えませんが、労賃アップ分がそのまま利益減少につながり、T型の利益率18%が2%にまで低下してしまいます。それでも、よろしいでしょうか」と念を押した。

「コウゼンス君。お前さんはいつも数字で物事を判断するが、そのやり方はいい時もあるが、判断を誤ることが多いということも知っておいた方がいいぞ」と反発してきたフォード社長に、コウゼンス常務は日頃から思っている言葉が口に出てしまった。

「お言葉ですが、経営は数字で判断すべきで、直感では話になりません」

「コウゼンス君、冷静になりたまえ」と、既に落ち着きを取り戻していたフォード社長が今度はコウゼンス常務をたしなめた。
「さっきから言っているように、これだけ大幅の賃上げは、いろいろなメリットを生み出すことは間違いない。現在当社が工場従業員の採用に使っている費用は年間総額で100万ドルを超えている。教育訓練費用は80万ドルだ。これを大幅にセーブできることを忘れてはならない。それと、賃上げに伴う工場従業員の購買増大効果が考えられる。それもあるが、もうひとつ重要なメリットがあるのじゃ。いいか、諸君よく聞きなさい。このような衝撃的な賃金アップは、必ずマスコミで取り上げられ、多くの論調はフォード社に賛辞を振りまくことになろう。そうなれば、T型の宣伝になると同時にフォード社に対する好感度が増すことになるに違いない。これらに関わる効果を宣伝費として計算してみたら、労働者の賃上げ分を十分吸収して余りあるのじゃ」と、自信満々に説明の最後を締めくくった。


宣伝効果に触れたヘンリー・フォード社長の、今まで聞いたことのない豊かな発想に、居合わせた役員全員が驚かされた。

最初に、フォード社長から賃金を5ドルにしたいという話を聞いた時は、ありえないことだと思った営業担当のピーター・ジェスパー役員は、内心ではコウゼンス常務の反対でこの提案はつぶれるに違いないと考えていた。
ところが、フォード社長の説明を聞いているうちに、だんだんと社長に賛成する気分になってきて、最後の宣伝効果になるという話を聞いた時から、積極的な賛成に立場はすっかり変わり、役員会で最初の賛成意思表示者になったのである。

「私はフォード社長の意見に賛成です。すぐに日給を5ドルに上げましょう」

これを聞いた生産担当のソレンセンも、賛成表明をしたことによって大勢は決し、コウゼンス常務の口元に注目が詰まった。

「フォード社長、よく分かりました。思い切ってやりましょう。相当な混乱や反応があると思いますが、私も利益率が落ちないように、いろいろ考えてみたいと思います」

「コウゼンス君、よく分かってくれた。お前さんがいるおかげで、わしはこの会社の経営がやれていると思っているのじゃ。これからもしっかり頼むよ」

こうして、何事もなかったように役員会は終了して、和やかな雰囲気の中で昼食を一緒にとって解散となったのである。
(※14-28話【第486回】は、ここまで)


14-27.フォードの歴史20~フォード社長のアイデア~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は“フォードの歴史”の通算20回目となる掲載です。
ヘンリー・フォード社長はアイデアマンであり、普通の人が思いつかないことを発想し、そして実践します。
今回は、「工場労働者の日給2ドル34セントを倍以上の5ドルに一挙に上げよう」という突飛なアイデアを思いつきました。
そして、これを議案として役員会で審議しようというヘンリー・フォード社長は、いったい何を考えて、このような提案をしたのでしょうか。

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●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~
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●14-26.フォードの歴史19~フォード社の苦悩~

さて、《The World of MASA展》での“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#88:ルイ・ルノー〉、〈#89:エチエンヌ・ルノワール〉、〈#90:エミール・ルヴァソール〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。




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〈#89:エチエンヌ・ルノワール〉

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〈#90:エミール・ルヴァソール〉













14.アメリカ車の波動


 難問解決に向かってフォード社長は賃金倍増を主張した 


ヘンリー・フォード社長のアイデアが披瀝された時、そこにいる全員は耳を疑った。
工場従業員の賃金を、今までの水準から倍増するといえば誰でも信じられないのは当然であって、社長の頭が狂ったのかと思った役員もいた。

「社長、気は確かですか。5ドルというのは現在の2倍以上ですよ。なぜそんな高給にしなくてはいけないのですか」と、最初に詰問調で口を切ったのは経理をあずかるコウゼンス常務である。

「諸君、当社はT型を売るようになってから順調に成長して、今やアメリカ最大の自動車メーカーになってきたことは誠に喜ばしいことじゃ。しかし、うちの会社に問題がないわけではない。営業の方は比較的少ないが、工場での生産に関しては問題だらけじゃ。特に従業員の定着率が悪くて、この対策費が膨張しているという事実は何とかせにゃいかん」と、話し始めると、それをさえぎるようにソレンセンが反発をした。

「フォード社長、確かに離職率が高いという事実はありますが、当社がベルトコンベアによる流れ作業を採用する時に、私からこの件が問題点になりますよと指摘しているように、ある意味では仕方ないことじゃないですか」

「ソレンセン君、今日はお前さんを責めるために本件を持ち出したわけじゃないのじゃ。当社はベルトコンベア方式を採用して生産性を飛躍的に向上させた。そして、販売価格を下げT型はますます売れるという構造を築きあげてきた。工場は忙しくなり、生産設備を拡張し従業員をたくさん採用したが、次から次へと辞めているので、補充者を採用し訓練する費用が膨張を続けていて、年毎にこれらの費用が原価に占める比率はアップしているというのが現実なのじゃ。そうだな、ソレンセン君」

「そのとおりです」

「工場従業員が辞める原因を探っていくと、給料ではないことは明らかじゃ。当社の最低賃金の2ドル34セントは、他の会社と同じ水準で、ここら辺では相場である。辞める原因は給料にあるのではなく、ベルトコンベア方式の単純作業にあるのじゃ。これによって体調を壊したり、あるいは単調さに飽きて、もう少しましな人間的な仕事をやりたいといって、当社から去っていった人間は数え切れないのじゃ」

「まったく、そのとおりです」

「そこでじゃ、今日のわしの提案は工場従業員の最低賃金を引き上げるのじゃ。日給を今の倍の5ドルにすれば定着率が高まることは間違いないし、定着率が高まれば雇用や教育訓練にかかわる費用が激減するに違いない」

「日給を上げるというのは、当社が抱えている問題の解決策であるという点については、私には異論ありません」と、さっきから機嫌が悪くなっていたソレンセンが、柔和な表情に戻って発言を続けた。

「10%賃上げすれば充分で、倍以上にする必要はありませんよ」と自身満々でいい切ったら、コウゼンス常務からも、「自分もそう思います」と賛意が寄せられた。

この日の役員会は、いつになく緊張した意見交換が進んだ。
他の役員から賃上げ反対意見や、あるいは小幅賃上げ案が出ることを事前に予想してヘンリー・フォード社長は、みなの理解が得られるように慎重な言い回しで主張を続けた。

「諸君から賃上げ率が高すぎるという意見が出ることは分かっていた。話の先を続けるが、大幅賃上げにはもうひとつ大きな理由があるのじゃ。諸君も知っているように、IWWは当社を標的にして積極的なシンパ活動をしているが、うちの方針は一貫して変わることがない。当社で労働組合が結成されても、わしの目の黒いうちは絶対に認めることはないから、諸君もこの考えでやってもらいたい。そこでじゃ、当社で働く工場従業員たちに、IWWへの関心を持たせないための工夫が必要になるのじゃが、この解決策が大幅賃上げなのじゃ。これをすれば、労働組合に関心を持つ工場従業員はいなくなるに違いない。どうじゃ、諸君。わしの提案は諸問題を解決する素晴らしい提案だと思わないかね」

ここまでフォード社長の主張を聞いた役員諸氏は賃上げすることはある程度納得したが、それでも2ドル35セントを3ドルにすれば解決する問題であって、5ドルにする説明になっていないと役員から反論が相次いだ。
(※14-27話【第485回】は、ここまで)


14-26.フォードの歴史19~フォード社の苦悩~

先週1週間お休みをいただいたブログ『クルマの歴史物語』でしたが、本日より週5日更新のペースで再開をいたします。
今日以降のコンテンツとして“フォードの歴史”シリーズが続きますが、本日は19回目の掲載となります。
例によって、今まで掲載したお話にはリンクを張っておきましたので、ご活用ください。

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●13-18.フォードの歴史12~実用小型車への転換~
●13-19.フォードの歴史13~コウゼンスの味方化~
●13-20.フォードの歴史14~歴史に残る名車T型の開発~
●13-21.フォードの歴史15~セルデン特許との戦い~
●13-22.フォードの歴史16~テイラーの科学的管理法~
●13-23.フォードの歴史17~流れ作業方式の研究~
●13-24.フォードの歴史18~ベルトコンベアの採用~

さて、私の個展である《The World of MASA展》は、いよいよ9月17日より東京・銀座で開催されます。
ここでは、〔A.油彩“仏像を愛でる”コーナー〕、〔B.ブログ『クルマの歴史物語』肖像イラストコーナー〕、〔C.ムービーDVDコーナー〕、〔D.蜷田晴彦著:書籍コーナー〕の4つのパートに分かれた展示となっています。
つきましては、個展《The World of MASA展》の入場を希望され、私のEメールアドレスに直接連絡を入れていただいた方に限って、〖The World of MASA展〗の案内状を郵送させていただきます。
締め切りは今月末とさせていただきます。
蜷田晴彦(本名:蟹江雅彦)のメールアドレスは、kanie-masahiko@jcom.home.ne.jpとなります。

例によって、B.ブログ“クルマの歴史物語”肖像イラストのアート作品に登場する108名の人物のうち、本日は〈#85:エイブラハム・リンカーン〉、〈#86:チャールズ・リンドバーグ〉、〈#87:セオドア・ルーズヴェルト〉の3名をお届けします。
なお、この肖像イラストは本日掲載の『クルマの歴史物語』の本文とは全く関係はありません。


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〈#85:エイブラハム・リンカーン〉






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〈#86:チャールズ・リンドバーグ〉






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〈#87:セオドア・ルーズヴェルト〉












14.アメリカ車の波動


 フォード社長は定着率悪化とIWW攻勢という内憂外患と戦った 


ベルトコンベア流れ作業化による大量生産システムの完成は、フォード社の発展に大きく貢献したが、一方では流れ作業をやってみると多くの問題点も浮上してきた。
それは、従業員の定着率の悪化である。
単調な作業は人間の労働意欲の減退を招く。
実際、ハイランドパーク工場の離職率は異常に高くなってきた。同じ賃金であるならば、もう少し人間性のある仕事をしたいという欲求によって、単純労働はしたくないと考え他に移る労働者が相次いだ。
この結果、フォード社の生産部門の責任者であるチャールズ・ソレンセンは、数多くの従業員を雇うための対策を進め、工場を動かすに必要な従業員を確保するために必死となっていた。

新規採用に関わる経費も膨大となったばかりでなく、これらの人々を適正な配置に就けて教育訓練をすることもたいへんなエネルギーを必要とした。
さらに、苦労して集めた従業員をいかに定着させるかは、フォード社にとって重大な経営課題として浮上していたのである。


このような会社側の事情の他にも、深刻な事態がフォード社に迫っていた。
1905年に結成されたIWW(世界労働者連盟)は、社会主義体制の実現を標榜する急進的な労働団体であって、各地での活動をとおして少しずつ農村や都市社会に浸透していた。
IWWは攻略標的として、自動車メーカー最大手となっていたフォード社のハイランドパーク工場を選定し、シンパ獲得に向かって活発な組合活動を始めたところ、労働者サイドにもIWWに同調する人がだんだんと増えてきて、その勢力を無視することができなくなっていた。


1914年になると、フォード社にとっての労務問題は、内なる定着率の悪化と、外なるIWWの高まりという内憂外患の状況が深刻化してきた。

このような厳しい状況を突破する道はないかと日々思索を重ねていたヘンリー・フォード社長であったが、ある日突然に“最低賃金の引き上げ”という妙案がひらめいた。

この頃、労働者の最低賃金は日給2ドル34セントで長い間据え置かれていた。
フォード社も他のデトロイトの会社同様、この最低賃金で労働者を雇用していたが、「フォード社の労働者の最低賃金を一気に5ドルに引き上げよう」というのが、フォード社長のアイデアであった。


この日も月曜日の定例役員会がいつものように始まった。
役員会といっても実際は、社長のヘンリー・フォードと、財務担当CFOのジェームス・コウゼンス常務、そして生産担当のチャールズ・ソレンセン役員、営業担当のピーター・ジェスパー役員の4人だけである。
毎週月曜朝10時から集まって、重要問題の検討をすることになっているが、実態は雑談で終り、お昼を一緒にとって解散ということが多い。
この日は、朝からヘンリーは自分のアイデアを皆に話ができるということで興奮していた。


「諸君、おはよう。全員元気で何よりだ。さっそく本日の役員会を始めるとしよう」

「社長、本日の議題はいったい何ですか」とソレンセンが質問した。
今日ではありえないことであるが、この当時のフォード社役員会では、事前に議題が知らされることはなかった。

「そうじゃな。今日は当社工場従業員の最低賃金に関して、わしから提案があるのじゃが…」

「当社の最低賃金は3年前から2ドル34セントに決まっていますが」と、ソレンセンがいぶかりながら発言すると、「そうなんだ。その件であるが、わしはこれを5ドルに引き上げようと思っているのじゃ」
(※14-26話【第484回】は、ここまで)


14-25.自動車の歴史:アメリカ編34~ブリスコの暗躍~

今週もいよいよ週末を迎えようとしています。
月曜日にご案内したように、ブログ『クルマの歴史物語』は来週1週間にわたってお休みをいただくことになりました。
再開は8月18日の月曜日となり、テーマは“フォードの歴史”の19回目となります。
それでは、皆さんにとって良い夏休みになりますよう、そして来来週の月曜日にブログ『クルマの歴史物語』でお会いできることを楽しみに致しております。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:アメリカ編】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《アメリカ編①》の項で検索
■自動車人名事典《ハ行のフ》:「ブリスコ、ベンジャミン」の項で検索
〔3部での掲載分〕
●14-22.自動車の歴史:アメリカ編31~サイクルカー~
●14-23.自動車の歴史:アメリカ編32~オーヴァーランド①~
●14-24.自動車の歴史:アメリカ編33~オーヴァーランド②~


14.アメリカ車の波動


 ブリスコはマックスウェルを軸にしたグループづくりを考えた 


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〈部品メーカーから脱皮を考えたベンジャミン・ブリスコ=Benjamin Briscoe〉(1869~1945)

ジョン・ウィリスの話に続いて、ジョナサン・マックスウェルの話をするとしよう。
マックスウェルにとって、オールズモビル社での仕事が、自動車とのかかわりの最初であった。
ここで自動車技術をマスターしたマックスウェルは、チャールズ・キングと一緒に自動車メーカーを興すことになった。

『クルマの歴史物語 2部』を読んで、キングの名前を覚えている読者は多いと思う。
『科学アメリカ』で紹介されたベンツ車の構造図に触発された数多くの若者のひとりとして、「デトロイトでは16歳のチャールズ・キング少年が、ガソリンエンジン車づくりに挑戦を始めた」と説明されている人物である。
共同経営をスタートさせたマックスウェルとキングの2人であるが、頑固な技術者同士であるので、“うま”が合わず、すぐにこのジョイントビジネスは解消することになった。

キングと別れたマックスウェルは、ベンジャミン・ブリスコと知り合った。
自動車部品メーカーとして地盤を形成しつつあったブリスコは、オールズモビル社を始め、数多くの自動車メーカーにラジエターを納品していて、自動車業界内での存在をもっとしっかりしたものしようと画策していた。
マックスウェルの才能に目をつけたブリスコは、共同事業化の話を持ちかけて、1904年にマックスウェル・ブリスコ社が設立された。


新会社は、ジョナサン・マックスウェルが設計した新型車の生産に入ることになり、2年後には2,200台に販売台数は増加して、マックスウェルはアメリカで5位の自動車メーカーになってきた。
その後も順調な拡大が続き、1909年には1万台近くを販売して3位に浮上することになり、さらに翌年には2万台に達することになった。

この成功で自信をつけたブリスコはマックスウェル・ブリスコ社をベースとして、ユナイテッドステイツ自動車会社という企業グループを形成しようと目論んだが、このアイデアは、スタートしたばかりのGM社から学んだものである。

ブリスコは、自動車メーカーの自社陣営化に努めた結果、ユナイテッドステイツ自動車会社は、7つのブランドと18の工場をもつ混成集団として発足したが、新グループはやたら大きいばかりで、経営効率が上がることはなく、スタートして3年も経たないうちに完全に崩壊することになった。


その後、ジョナサン・マックスウェルはベンジャミン・ブリスコと別れ、自分で会社を設立して4気筒の新型車の開発に力を入れ、苦労の末にできあがった実用車を750ドルで売り出したところ、世界大戦の好景気で購買力が増した大衆の評判を獲得するのである。

こうした経過を振り返ってみれば、ベンジャミン・ブリスコは、GM社をまねて、巨大な自動車グループ構想の夢を見たが、こんな夢を見ることなくマックスウェルと一緒になって地道なクルマづくりに努めていれば、フォード社に肉薄する自動車メーカーとして成功したかもしれなかったのだ。



『クルマの歴史物語 1部』の自転車のところで登場したアルバート・ポープ大佐について覚えている読者は多いと思う。

ポープ大佐は、自転車ビジネスでの大成功で得た資金を電気自動車ビジネスへの投資に振り向け、コロンビア電気自動車会社を入手し、電気自動車業界のリーダー企業になるべく着々と地盤を形成していた。

一方、貪欲なポープ大佐は、電気自動車だけでは将来不安が残ると考えて、ガソリンエンジン車の新ブランドとしてポープ・ハートフォード、ポープ・ロビンソン、ポープ・トレド、ポープ・トリビューンの4つを立ち上げ、電気自動車とガソリンエンジン車をジョイントした新しい自動車メーカーづくりに奔走していたが、病魔に襲われ1909年に急逝した。
もともと大佐ひとりで仕事の全てを取り仕切っていた会社であるので、急速に会社がおかしくなって、1914年に全ての事業は閉鎖されることになった。
(※14-25話【第483回】は、ここまで)