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15-25.アルファ・ロメオの歴史2~ニコラ・ロメオの登場~

本日は、ブログ『クルマの歴史物語』の「15章 多彩なヨーロッパ車」の最終回となります。
『クルマの歴史物語』は3部に入ってから、「13章 フォード車の大量生産」、「14章 アメリカ車産業の波動」、そして「15章 多彩なヨーロッパ車」というように続いてきました。
明日より、ブログ『クルマの歴史物語』は「16章 華麗なる自動車レース」に突入いたします。
そして、本日のコンテンツは“アルファ・ロメオの歴史”の2回目の掲載となります。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【アルファ・ロメオの歴史】に関するリンク先※※
●15-24.アルファ・ロメオの歴史1~アルファ社の創業~

9月19日~22日に開催された『The World of MASA展』のレポートが今週月曜日から始まりました。
そして、銀座での個展開催を夢見たものの2年前の春先から体調不良に陥り、柏市にある国立がん研究センター東病院で肺がんの検査を受けることになったところで昨日の話は終了しています。
がんセンターでは精密な検査が続きました。
そして、通院2週間後に、幸いなことに「私の体にがんが発生している可能性は限りなくゼロに近い」と診断が下りましたが、「ただし、体内に大量の“水”の蓄積が見られるので、心臓病の可能性が高い」ということで、松戸市にある新東京病院への紹介状をいただきました。
心臓に関しては日本有数と評判の高い新東京病院で診察を受けたところ、私の体調不良の真の原因は、「4つある心臓弁の内、僧房弁に異常があって血液の逆流が恒常的に発生している心臓弁膜症であり、このまま放置したら、5年後生存率は50%である」と告げられたのです。



15.多彩なヨーロッパ車


 アルファ社を買収したニコラ・ロメオは“アルファ・ロメオ”に転換した 


携帯用エアコンプレッサーに関するイタリア軍の要請に応えようと、ニコラ・ロメオ社では増産に次ぐ増産に取り組んで、労働者はたちまち1千人を超え、翌年には2,500人という規模になっていた。

この仕事でたっぷり資金を溜め込んだ39歳のロメオは、〈アルファ/24HP〉というクルマをつくっていたアルファ社に注目し、ミラノ財界メンバーからこの会社を買い取ることにし、自分の名前を加えてアルファ・ロメオ社という名前の自動車メーカーが新たに誕生することになった。

ニコラ・ロメオ社長は競争に勝つためにはどうしたらよいかをよく知っていた。ロメオの考えは、差別化戦略の徹底であり、この思想をアルファ・ロメオ社の基本方針に設定した。

差別化とは、現代マーケティング用語であって、「他とは違うこと」を意味している。
世界大戦の前に企業経営者がこのような思想を持つことはほとんどなかったが、ロメオ社長は体験的に差別化の重要性を強く認識していた。

「先行している自動車メーカーと同じようなクルマをつくったのでは、新しい自動車メーカーとしての存在意義がない。われわれは新参者だ。フィアットやイソッタ・フラスキーニとは違うクルマをつくることが、われわれの使命である。どんな時にもこのことを忘れるな」と、自分の思想を繰り返し幹部に徹底させる努力を続けていた。
この結果、アルファ・ロメオ社は新規技術や、新しい車両デザインの採用に意欲的に取り組んで、クルマの魅力アップに努めるようになってきた。

世界大戦が始まる年である1914年に発表された“シルーロ”というプロトモデルを見た人は、目がテンになった。
シルーロは魚雷を意味するイタリア語であり、魚雷が水中をまっすぐに進むために水の抵抗を減らす流線型をしていることから、イメージしてデザインされたのである。

それまでの車両デザインは、馬車を原点として発展したものであるが、馬車とはまったく異なる発想でデザインされたのは、このクルマが初めてといわれている。
これをデザインしたのはリコッティ伯爵というクルマ好きの貴族で、カロッツェリア(車体製造メーカー)のカスターニャ社に特別に発注してつくらせたもので、ボディはアルミ・パネルで覆われていた。

このクルマのべ一スになったのは〈アルファ・ロメオ40/60〉のセダンであり、排気量6.1リッターの直列4気筒OHVエンジンを載せている。
オリジナル車の最高時速は125キロであったが、空気力学ボディをまとい軽量化が図られたシルーロは、これを10キロ以上上回ったという。

ニコラ・ロメオ率いるアルファ・ロメオ社は、豊富な資金の元に積極策を次々と打ち出した。1918年には鉄道敷設会社を3つも買収して、さらなる事業の拡大に努め、ボローニャ~フィレンツェ間鉄道を開通するために、アペニン山脈にトンネルを掘るなどの大工事も請け負った。
こうして、アルファ・ロメオ社は大企業に育っていくのである。
(※15-25話【第512回】は、ここまで)


15-24.アルファ・ロメオの歴史1~アルファ社の創業~

ブログ『クルマの歴史物語』は、今日から“アルファ・ロメオ”ストーリーが始まります。
昨日登場したランチアはイタリアの最大自動車メーカーであるフィアット社にあっては高級車を構成するブランドですが、アルファ・ロメオは同社にあってスポーツカーのイメージを担う有力ブランドとなっています。
このアルファ・ロメオブランドがどのような経緯でブランド形成してきたかが、これからブログ『クルマの歴史物語』で語られます。

さて、2012年の年が明けると、私は自分の体がいつになく不調な状態が続いて、最初は花粉症かと疑いました。
そこで、抗アレルギー剤を処方してもらい、投薬を続けていましたが一向に改善がみられません。
そんなある早朝時、心臓が踊るような状態が15分間くらい続いたので、近くの千葉・かしわ田中病院で診察を受けました。
担当医の先生は、私の異常事態発生の真の原因を追究しようと最新の検査装置を駆使して、診断に努めていただきました。
このため何度も検査を重ねた結果、通院2週間後に下った診断が、「肺がんの可能性が考えられる。国立がん研究センターに紹介状を書くので、そちらで診てもらうように」という内容でした。
肺がんは数多くのがんの中でも、致死率の高い手ごわいがんであるという知識を所持していた私にとっては、恐ろしい診断となりました。
その一方で、紹介状の宛先ががんに関してはわが国最高水準と評価されている国立がん研究センター東病院であり、病棟はわが家から車で15分ほどの距離であるだけに安心するという複雑な心境に陥ったのです。



15.多彩なヨーロッパ車


 ミラノ財界人が当地を拠点とするアルファ社を生み出した 


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〈アルファ社のブランドマーク〉

イタリアの自動車メーカーとして、『クルマの歴史物語 1部』でトリノに本拠を置くフィアット社が登場した。
『2部』では、これに続いてイソッタ・フラスキーニとイターラが登場しているが、『3部』に入って、ヴィンチェンツォ・ランチアが創業するランチア社が登場した。

これから、読者がお待ちかねのアルファ・ロメオの話をすることになるが、アルファ・ロメオ社の母体となるのはミラノのアルファ社であるので、この会社の誕生の話から始めることにする。

1900年代の始め、イタリア北部に位置するロンバルディア平野にフランスの自動車メーカーのA.ダラック社が、ミラノ市から北西に伸びる街道沿いにイタリア・ダラック社を設立し、小型軽量のダラック車の生産を開始した。
ひと時は人気車になったものの、その後は、思ったようにクルマが売れなくて経営は行き詰まることになった。


工業都市トリノに拠点を置くフィアット社に対抗できる自動車メーカーをつくろうと考えていたミラノ財界の大立者たちは、この会社を買い取り、ロンバルディア自動車製造会社(Societa Anonima Lombarda Fabbrica Automobili)に会社名を変え、頭文字を採ってアルファ(ALFA)社と略して呼ばれる会社が新たなスタートを切ることになった。

アルファ社は、プリネッティ&ステュッキ社からジュゼッペ・メロージを引き抜いて技師長に就けて、1905年からイタリア人向けのクルマづくりをスタートさせた。


ここに、1876年にイタリア南部の拠点都市であるナポリ郊外で生まれたニコラ・ロメオという人物が登場する。
ロメオはナポリ工科大学で土木工学を、その後ベルギーの大学で電気工学を学ぶという勉強家であった。
ロメオは26歳になると、今まで学んだ技術を実業の世界で活かすことを考えて、自分の名前を冠したニコラ・ロメオ社を設立した。ロメオは設計技師としての能力を持ち合わせていたばかりでなく、経営センスにも富んでいた。
ロメオの時流を見る眼は確かであり、この会社で最初に開発したのは携帯ができる小型エアコンプレッサーであった。
このアイデアと高い実用性によって、イタリア軍で採用されることになり大量発注が舞い込んで、新会社は幸先の良いスタートを切ることができた。
(※15-24話【第511回】は、ここまで)


15-23.ランチアの歴史2~自動車づくりを選択~

本日の『クルマの歴史物語』のコンテンツはイタリアの名車「ランチア」の2回目です。
独特の響きを持つランチアはイタリア人エンジニアのヴィンチェンツオ・ランチアによって創業され、数々の名車を生み出してきました。
今日ではイタリアを代表する自動車メーカーのフィアット社にグループ入りし、フィアット・ブランドが大衆車ゾーンを受け持っているのに対して、ランチアは比較的高価格ゾーンのクルマを送り出しています。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【ランチアの歴史】に関するリンク先※※
●15-22.ランチアの歴史1~ヴィンチェンツオ・ランチアの成長~

昨日の続きとなりますが、中学時代の同窓生が銀座で個展を開催したことに刺激を受けて、自分も銀座で個展をやってみたいという願望が渦巻き始めたものの、一体どの場所で、どのような作品を展示したらいいのかがまったく見当がつきません。
そんな悩みを抱えていた3年前の春のこと、何気なく読んでいたみずほ銀行から送られてきた広報誌の中に、〈銀座サロン〉内見会のご案内記事が目につきました。
そこで早速内見会を申し込んだところ、予約がとれたので家内と一緒に銀座まで出かけました。
現地に行った所、場所は銀座四丁目から数寄屋橋方面に歩いて2~3分で、晴海通り沿いのビルの11階という願ってもない適地で、展示スペースもあまり広くなく、落ち着いた雰囲気のすばらしい場所であることが分かりました。
この内見会に参加したことで、このギャラリーがすっかり気に入り、どのような作品を展示したらいいのかの考察を重ねるようになったら、思わぬ事態発生に遭遇することになったのです。


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〈みずほ銀行の広報誌で見つけた内見会の案内 ※最新版〉










15.多彩なヨーロッパ車


 人生を模索していたランチアは自動車づくりの道を選んだ 


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〈ランチア社を創業したヴィンチェンツォ・ランチアVincenzo Lantia〉(1881~1937)

何不足ない裕福な家庭に生まれ、技術者として最高の教育を受け、ビジネスを成功させるだけの実力を備えていたヴィンチェンツォであるが、将来を考えるとレースドライバーとして生きて行くことに満足できない何かを求め始めていた。
一生レースドライバーで過ごすのか、父親の事業を受け継いで缶詰スープ会社の社長になるのか、それとも自動車設計家として新車開発に挑戦するのかに悩んだ末に、大好きな自動車設計に自分の一生を賭けてみようと思い始めていた。


この考えを両親に話したところ、案のじょう大反対を食らった。
両親は缶詰スープ会社の後を継いでほしかった。こ
こで両親に妥協すると一生缶詰と格闘することになる。自動車の振りまくオイルの臭いに魅せられてしまったヴィンチェンツォにとっては、缶詰スープ会社は耐えがたい選択肢だった。
自動車会社の設立資金は両親の援助を当てにしていたから、必死で説得を繰り返し、ようやく両親の了解を得た。

25歳になるとヴィンチェンツォはフィアット社の専属ドライバーの仕事はそのままに、新型車の設計に取り組んで、自動車を製造販売するビジネスを開始することとなった。
新たに設立したランチア社の資本金は5万リラで、そのほとんどが両親のお金であった。



こうしてスタートしたランチア社であるが、ヴィンチェンツォは時々レースに出場する時以外は、新車の設計に集中した。
そして、ランチア社としての1号モデルを生産する計画も順調に進んでいたが、無情なことにこのクルマが完成する直前、工場で火事が発生して、全てを焼失するという不幸に出会うことになった。
いったんは気落ちしたヴィンチェンツォであるが、今度は両親に励まされて、新しい工場をつくって新型車の生産に向かうのである。

1908年1月のトリノ・モーターショーに、サイドバルブ機構をもつ排気量2.5リッター4気筒24HPのエンジンを、4速トランスミッションを介して駆動する新車が出展された。
この車には“アルファ”というギリシャ語のアルファベットの車名が付けられたが、ギリシャ文字をネーミングとするのが、これ以降のランチア社のやり方になった。
ランチア車のメカニズムには世界初というものが多く、〈ランチア/ディアルファ〉には、それまで搭載されたことがほとんどない6気筒エンジンが搭載され、40HPという強力なエンジンによって、最高速度は110キロを超えたという。
1913年になると、〈ランチア/シータ〉が登場した。
それまでのランチアは、木製のホイールが用いられていたが、この車では、スチールホイールとワイヤーホイールの選択ができるようになり、ランチア社としての初めての大型ヒット商品となったのである。
(※15-23話【第510回】は、ここまで)


15-22.ランチアの歴史1~ヴィンチェンツオ・ランチアの成長~

ブログ『クルマの歴史物語』の記事更新は1週間お休みをして、本日の月曜日から週5回更新を再開いたします。
本日のコンテンツは、イタリアの名車ランチアの歴史の初回となります。

さて、この9月17日~22日の期間、『The World of MASA』という大げさな名前を冠した個展が東京銀座で開催されました。
おかげさまで、多くの来場者をお迎えすることができ、来場者総数は個展会場が始まって以来最高となる353名(芳名帳記載者総数)を数えることができました。
そこで、ブログ『クルマの歴史物語』のスペースを活用させていただき、ここしばらく『The World of MASA展』を振り返ってみたいと思います。

今から4年半前の2009年11~12月に、千葉県柏市の私が住んでいる柏ビレジという集合住宅地に『はなみずき』というコミュニティルームがあって、ここで『仏像を愛でる展』という油絵展を開催したことがありました。
それからしばらく経ったら、中学校の同級生から、「銀座で個展を開催する」という案内ハガキが舞い込みました。
さっそくその個展会場である銀座のギャラリーに行き、彼女の作品を眺めているうちに、ふつふつと「いつかは自分も銀座で個展をやりたい」という意欲がわいてきたのでした。


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〈2009年11月開催の『仏像を愛でる展』〉













15.多彩なヨーロッパ車


 社長の息子であるヴィンチェンツォ・ランチアは自動車に夢中になった 


イタリアを代表する量販車のカーブランドとしては、フィアット、ランチア、アルファ・ロメオの3つが特に有名である。
イタリア自動車史の中で、最初に自動車メーカーとして登場したのは、1899年創業のフィアット社である。
次いで、ランチア社が1906年に創業され、アルファ・ロメオ社の原型は1910年に誕生した。
これらの会社は、20世紀の後半にフィアットグループとして統合されることになるが、その前まではお互いにライバルメーカーとして競いあっていた。
すでに、フィアット社の誕生と成長の話は完了しているので、これからランチア社を創業したヴィンチェンツォ・ランチアの話となる。


缶詰スープを製造する会社の社長の息子として生まれたヴィンチェンツォ・ランチアは、多くの金持ちのお坊ちゃんと同じように、欲しいものはなんでも与えられて、のびのびと育った。

ヴィンチェンツォが単なるお坊ちゃんでなかったのは、勉強にも興味を持って学ぶ姿勢をとり続けた点にある。数学、物理、機械工学、電気など技術に関する知識吸収欲が強く、入学することが最難関のトリノ工科大学でも優秀な成績であった。

イタリアではヨーロッパの先進国に遅れてやってきた産業革命が進展しつつあり、新しい時代を反映して自転車の人気がアップした。
次いでオートバイが登場し、イタリア人の間に機械で動く乗り物に対する興味は高まり、やがて人気は自動車に移ってきた。
こんな環境の中で育ったヴィンチェンツォは異常ともいえるほど自動車に対して興味を持っていた。

この頃、ジョヴァンニ・チェイラノという男が、ランチア家が所有する広大な敷地の一角に場所を借りて、J.B.チェイラノ商会という会社を興し仕事をやっていた。
ヴィンチェンツォは、チェイラノの人柄とその仕事ぶりにすっかり魅せられてしまった。
トリノ工科大学で勉学を続ける一方で、J.B.チェイラノ商会で簿記の手伝いをしていたら、そのうちに工場に入り浸って、他の工員と一緒になってオートバイや自動車を分解したり修理したりするようになっていた。
ヴィンチェンツォは、この間にクルマの運転をマスターして高度なドライビングテクニックを身に付け、時々自動車レースにも出るようになっていた。



表面的には順調に見えたJ.B.チェイラノ商会であるが、その実体は資金的に行き詰まっていた。
J.B.チェイラノ商会の実質的なオーナーであるエマヌエーレ・ブリケザリオ伯爵は、1899年に創業されたばかりのフィアット社に、この会社を引き取らせることにした。
この結果、社員はフィアット社に移籍することになった。

こうして20歳を前にしたヴィンチェンツォは、フィアット社でテストドライバーとして新型車を乗り回して、改良点を指摘する仕事をやるようになった。
やがて、ヴィンチェンツォの指摘することが余りにも的確であるので、設計段階から意見を聞かれるようになり、自動車設計部門においても欠かせない存在になってきた。
この間、大学で機械工学の基礎をしっかり学んだヴィンチェンツォは、自動車工学の応用技術力で他の技術者に格段の差をつけ、大学を卒業したら自動車の設計の仕事をやろうかと考えるようになっていた。
フィアット社は自動車メーカーとして軌道に乗りつつある時期で、レースで優勝して名声を得るのが早道とレース専用の大排気量車の開発に努めていた。

この時代のフィアット社のトップドライバーはフェリーチェ・ナツァーロであって、そのドライビングテクニックでフィアットは何度も優勝を飾ることができた。
ところが、タルガフローリオを創設したヴィンチェンツォ・フローリオが自分のチームにナツァーロを引き抜いたため、ヴィンチェンツォがフィアット社のトップドライバーに引き上げられて、各地のレースを転戦することになった。
(※15-22話【第509回】は、ここまで)


15-21.自動車の歴史:フランス編33~V8エンジン完成~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツは「自動車の歴史:フランス編」の33回目となります。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:フランス編】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《フランス編①》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《フランス編②プジョー》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《フランス編③ルノー》の項で検索

《The World of MASA展》の方は、本日3日目を迎えます。
オープン以来、たくさんの方々にご来場いただいていますが、昨日は何と、今から55年前に卒業した名古屋市立前津中学3年I組(三愛と略)同窓生の仲間10名が会場に現れました。
実は、三愛の仲間は数年前から一泊旅行を楽しんでおり、本年度は《The World of MASA展》の開催日程に合わせて東京・横浜見学をプランしてくれていたのです。
このような機会はめったにないことだけに、本当にうれしく思いました。
さて、本ブログでは来場いただけない方にも、《The World of MASA展》を楽しんでいただくべく、画面上展覧会を掲載しておりまして、既に、〔油彩“仏像を愛でる”コーナー〕、〔ブログ『クルマの歴史物語』肖像イラストコーナー〕、〔ムービーDVDコーナー〕に関するご案内は済んでいますので、本日は〔蜷田晴彦著:書籍コーナー〕案内ボードで展示内容をご説明しましょう。

■ The World of MASA ■【蜷田晴彦著:書籍】コーナーご案内

『私は平成13年から6年間、早稲田大学大学院商学研究科社会人大学院の非常勤講師を務め、マーケティング実践講座を担当していました。
最初の頃の講義テーマは、自分の得意とする消費財マーケティング分野でしたが、その後、地球上における最大規模商品である自動車のマーケティングを取り上げたいと考え、ブランドが形成してゆく過程を学ぶために、本格的に自動車史の勉強に取り組みました。
この結果、自動車が誕生してゆく過程を、事実として記述するのではなく、ヒストリカル・ノベルとしてとりまとめたら面白いに違いないと考え、“蜷田晴彦”というペンネームで『クルマの歴史物語』の執筆に取り掛かりました。
それからの7~8年間ほどの期間、夢中になって書き続け、やがてハードカバー単行本4冊分の原稿ができあがり、今回の個展ではその最初の1冊分を製本した書籍『クルマの歴史物語 第一巻』を展示させていただきました。
もう一つの書籍は“明治維新150周年 オムニバス小説”と銘打った蜷田晴彦:著『レッド&グリーン』という小説であり、4人の主役が登場します。
最初の主役はアメリカ人のグレゴリー・スタインで、1868年(日本の明治維新が始まった年)に食品加工業を創業したところからストーリーが始まります。
二人目の主役は、わが国で最初となるトマト加工ビジネスを始めた蜷田弥助です。
三人目は、岩倉修蔵という人物で、舞台は朝鮮半島の釜山(プサン)となります。
そして四人目の主役として登場するのが蜷田弥助創業の会社で働く緑川卓郎なる人物ですが、幾多の足跡を残した緑川の死をもってオムニバス小説『レッド&グリーン』は終わります。
この4人は生きた時代が異なっている上に、舞台がアメリカ合衆国、朝鮮半島、そして日本というようにバラバラですが、4人に接点がなかったわけではなく、それを読み解くのが本小説の醍醐味とも申せましょう。』

《The World of MASA展》は、明日の土曜日、明後日の日曜日と続き、来週月曜日が最終日となります。
したがって何かと多忙な日々の連続という事情がありますし、個展レポートの原稿づくりの時間も必要となりますので、勝手を申して恐縮ですが、来週1週間はブログ更新をお休みさせていただきます。


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〈蜷田晴彦著:『クルマの歴史物語 第一巻』〉





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〈蜷田晴彦著:小説『レッド&グリーン』〉















15.多彩なヨーロッパ車


 ド・ディオン・ブートン社は画期的なV8エンジンを完成させた 


19世紀末にガソリンエンジンを積んだ小型軽量3輪の〈ド・ディオン・ブートン/トリシクル〉を成功させたド・ディオン・ブートン社は、20世紀に入り4輪ガソリンエンジン車を次々と登場させた。
しかし、いずれも特徴がなく性能的にもありきたりなクルマばかりでフランス自動車業界での地位は徐々に低下していた。

起死回生を図るべくド・ディオン伯爵は、1907年におこなわれた北京~パリ間超長距離レ一スと、1908年のニューヨーク~パリ間超々長距離レースにも出走したが、どちらも結果はさんざんであった。

今から振り返ってみると、自動車製造業者としてのド・ディオン・ブートン社のピークは1908年頃であったと思われる。


クルマそのものの魅力は落ちてきたが、ガソリンエンジン供給メーカーとしてのド・ディオン・ブートン社は、エンジン開発力があるだけに引き続き勢いがあった。

もともと、ド・ディオン・ブートン社はおもちゃの蒸気機関をつくっていたジョルジュ・ブートンの技術力をベースに置いた会社である。
ブートンのエンジン技術の上に、アルベール・ド・ディオン伯爵のアイデアがうまく組み合わされて、時代にマッチしたクルマづくりで成功してきたが、競争が激しくなるとエンジンだけでなく、自動車を形づくる全ての技術力が必要となったが、ド・ディオン・ブートン車にはこれが欠けていた。

しかし、ブートンのエンジン技術は健在であったのでエンジンメーカーとしてのド・ディオン・ブートン社は発展を続け、20世紀にふさわしい新型エンジンの開発にもてるエネルギーを投入することになった。
それはシリンダーが8つあり、しかも4つずつをV型に配列するという精密なエンジンで、1910年に登場することになったが、このV型8気筒エンジン形式は、後に“V8”と簡略して呼ばれるようになる。

多くの自動車用のエンジンは、単気筒から2気筒へ、2気筒から4気筒へと進みつつあった時期である。
そんな時に8気筒のエンジンが登場したのであるから、世界中の自動車メーカーの耳目を集めることになった。
しかもシリンダーを垂直に並べる直列8気筒でなかった点に、このエンジンのすごさがうかがえる。

最初に生産されたV8エンジンの排気量は6.1リッターであったが、次は7リッターへと大型化され、最大のものは14.7リッターであった。
V8エンジンの需要はヨーロッパには少ないので、アメリカ合衆国に輸出され、多くの自動車メーカーによって採用されることになるのである。
(※15-21話【第508回】は、ここまで)