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16-29.自動車の歴史:イギリス編37~ダラックの再建~

本日はブログ『クルマの歴史物語』の3部「16章 華麗なる自動車レース」の最終日となります。
明日からこのブログは、3部「17章 世界大戦の始まり」に移ります。

さて、9月29日から始まった〖The World of MASA展〗レポートは、油彩【仏像を愛でる】コーナー、【ブログ・クルマの歴史物語】コーナー、【ムービーDVD】コーナー、さらには国連WFP協会チャリティーコーナーというように続いてきました。
このレポートの最後を飾るのは【蜷田晴彦著:書籍】コーナーであり、小説「レッド&グリーン」のご案内をいたした後に、「クルマの歴史物語 第一巻」のご案内を本日まで続けています。

「クルマの歴史物語 第一巻」とブログ『クルマの歴史物語』の違いについて、“話”の構成とタイトルの付け方に違いがある点の説明は既に完了しています。
そこで本日は、具体的にどのように違うかをご案内しようと思います。
下に❖印で記してあるのは、「クルマの歴史物語 第一巻」の《 Ⅰ章 産業革命の広がり 》における“話”のタイトルです。
その下の●印で記しているのが、ブログ『クルマの歴史物語』のタイトルであり、こうして対比させてみると、この両者には大きな違いがある点は理解いただけると思います。
せっかくの機会ですので、ブログのタイトルにはリンクを張っておきました。

❖1話 馬と馬車
  ●0-01馬と馬車の時代1~車輪を開発したシュメール人~
  ●0-02馬と馬車の時代2~スポーク車輪の開発~
❖2話 馬車と道路の発展
  ●0-03.馬と馬車の時代3~カエサルが敷いた道路網~
  ●0-04.馬と馬車の時代4~馬車産業の形成~
  ●0-05.馬と馬車の時代5~特許制度と近代工業~
❖3話 産業革命の始まり
  ●0-06.産業革命の進展1~イギリスの欧州最強国化~
  ●0-07.産業革命の進展2~織機から始まった産業革命~
  ●0-08.産業革命の進展3~アダム・スミスの国富論~
❖4話 蒸気機関の発明と普及
  ●0-09.産業革命の進展4~人馬永遠の夢~
  ●0-10.産業革命の進展5~新動力開発への挑戦~
  ●0-11.産業革命の進展6~ワットの蒸気機関完成~
  ●0-12.産業革命の進展7~ワットが生み出した新技術~
❖5話 蒸気機関で動く兵器の登場
  ●0-13.産業革命の進展8~キュニョーの自走式乗り物~
  ●0-14.産業革命の進展9~工作機械の発展~
  ●0-15.産業革命の進展10~馬力の定義~
❖6話 トレヴィシックの蒸気自動車
  ●0-16.蒸気機関車と鉄道の誕生1~蒸気自動車への挑戦~
  ●0-17.蒸気機関車と鉄道の誕生2~マードックの蒸気自動車~
  ●0-18.蒸気機関車と鉄道の誕生3~トレヴィシックの蒸気機関車~
❖7話 スティーブンソンと鉄道システム
  ●0-19.蒸気機関車と鉄道の誕生4~スティーブンソンの挑戦~



個展5


〈〖The World of MASA展〗の様子⑤油彩【仏像を愛でる】コーナーその2〉







16.華麗なる自動車レース


 ローヴァー社を再建したクレッグはダラック社を買収した 


アレクサンドル・ダラックは兵器からスタートして、ミシンに仕事を変えた。
その後、乗り物に興味を持つようになって、最初は自転車ビジネスを始めた。
その次には、オートバイに関心を移し、さらには自動車へと、時代の変化に合わせて、自分のビジネスを変えていったが、厳しい生き残り競争が続くフランス自動車業界において、なかなか自分のアイデンティティが確立できなくて苦労を重ねていた。


1912年、ダラック社は起死回生をねらって低価格の〈ダラック14/16HP〉を発表した。
しかし、またもやダラック社長の移り気が事態の悪化を招いた。
この車はロータリーバルブという新機構のエンジンを採用したのだが、このエンジンはパワー不足のうえに故障が多く、ユーザーの評判は急落することになった。

これで乗用車ビジネスをやる気がなくなったダラックは、「ヨーロッパ中の都市をダラック製のバスであふれさせよう」と考え、バスの製造を開始した。
しかしダラック社が売りさばくことのできたバスは、ロンドンの20台を最高に、全世界でも500台ほどにすぎなかった。


このように兵器からスタートしたダラックの移り気は、最後はバスでとどめを刺して、残ったのは大きな負債だけとなり、ついに会社は倒産に追い込まれることになった。

このような状況の中で、オーウェン・クレッグというイギリス人がA.ダラック社と深くかかわりを持つようになる。

クレッグは、自動車メーカーであるローヴァー社の技師長として、ジョン・スターレイ社長が指導する経営革新の立役者になって工場の生産性を飛躍的に向上させた人物として、イギリスの自動車業界でよく知られていた人物である。

ローヴァー社で自動車メーカーの経営のコツを身に付けたクレッグは、自動車メーカーのオーナーになることを夢見ていた。
まっさらから会社を立ち上げるには巨額の資金がいるが、行き詰まった会社を安く買い叩いて、ここをベースに自分が理想とする会社に育て上げる方が効率いいに違いないと考え、このような会社がないかと探していたのだ。

この時代、ヨーロッパの自動車産業は大変革期にあり、19世紀末に地盤を形成したメーカー各社を追撃する新興自動車メーカーが後を絶たず、競争は激しさを増すばかりであった。
こんな中に一世を風靡したA.ダラック社の経営が行き詰まったという情報をキャッチしたクレッグは、この話に飛びついた。
そして、有利な条件でこの会社を自分のものにして、再建に取り組むことになったのである。

クレッグは新生ダラック社の社長になってすぐに、新車開発に取り掛かり〈ダラック/クレッグ〉という名前の1号車をつくりあげた。

この車は排気量3リッターと2リッターのどちらかのエンジンが選択できるようになっており、スタイルも良ければ信頼性も高く、たちまちのうちにヒット商品になったのである。
(※16-29話【第541回】は、ここまで)


16-28.自動車の歴史:イギリス編36~ローヴァーの急進~

今日のブログ『クルマの歴史物語』のテーマは、イギリス車の“ローヴァー”です。
(『クルマの歴史物語』ではローヴァーと表記していますが、現代日本では“ローバー”と表記されることが多々あります。)
ブログ『クルマの歴史物語』の熱心な読者なら、ジョン・スターレイとウィリアム・サットンによって創業された自転車メーカーのローヴァー社が自動車産業に進出し、イギリスを代表する自動車メーカーに育ってきたことをご存じの方が多いと思います。

振り返ってみますと、いったんイギリスを代表する自動車メーカーに育ったローヴァー社でしたが、第二次世界大戦後は混迷を深めて、1968年にはイギリスナンバーワンのトラックメーカーのレイランド社の傘下に入りました。
しかし、この再建は軌道に乗ることなく、1979年には日本のホンダの傘下に入り経営立て直しに挑みましたが、うまく行くことなく、その後国営企業になったり民営化されたりし迷走を続けました。
その過程で子会社のランドローヴァー社をフォード社に売却しましたが、そのフォード社自身が経営不振に陥ったこともあり、所有株をインドのタタ・モータース社に売却してしまったのです。
一方、親会社であるローヴァー社の方は、誰も再建の担い手がなくなり、タダ同然で中国企業が引き受けた結果、今やローヴァーは中国人が操るブランドとなってしまったのです。

現代ではローヴァーと言えば、今日世界最高級SUVとして名声を勝ち取っている“レンジローヴァー”にその名を留めていますが、このブランドで事業活動を展開しているランドローヴァー社を実質所有しているのはタタ・モータースです。
タタグループ入りしたランドローヴァー社は、その中核ブランドであるレンジローヴァーを経営の柱において、最近ではレンジローヴァー・イヴォークをヒットさせるなど魅力的なクルマづくりに邁進をしています。
その昔インドはイギリスの植民地でしたが、今やそのインドに牛耳られるようになってしまったローヴァー社は、凋落する一方のイギリス自動車産業を象徴しています。
今日のブログは、今から100年以上前のローヴァー社のお話です。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:イギリス編】に関するリンク先を※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編①》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編②ロールス・ロイス》の項で検索
〔3部での掲載分〕
●16-10.自動車の歴史:イギリス編29~タルボット&ヴォクゾール~
●16-15.アストン・マーティンの歴史1~誕生ストーリー①~
●16-16.アストン・マーティンの歴史2~誕生ストーリー②~
●16-19.自動車の歴史:イギリス編30~3輪自動車のモーガン~
●16-20.自動車の歴史:イギリス編31~モーリス少年の成長~
●16-21.自動車の歴史:イギリス編32~小型車のモーリス①~
●16-22.自動車の歴史:イギリス編33~小型車のモーリス②~
●16-26.自動車の歴史:イギリス編34~ランチェスターの終焉~
●16-27.自動車の歴史:イギリス編35~ライレーの発明~

さて、『クルマの歴史物語』は、タイトルにあるように“クルマの歴史物語”を語るもので、“自動車の歴史”の細かい事実に重点を置いて、それを正確に記述することを主眼としたものではありません。
歴史は過去に起きた何らかのできごとの積み重ねですが、多くの証言者が記録を留めていた事項以外は、そのできごとが本当はどうであったかは、当事者の証言や記述を信用するかどうかにかかっています。
その場合、事実を曲げて語られていることも多く、結局のところは状況判断に基づいて「真実はこうではなかったか」と推測し、歴史は語られているのです。
『クルマの歴史物語』の場合も、真実がどうであったかを追究する姿勢はあるものの、一定以上から先は私の推測によって物語を進行させています。
したがって、ここに書かれている内容について、意見を異にする人もいると思いますが、論争の種をまいているわけではありません。
私は自動車マーケティング史研究家ではありますが、何が史実であるかの細部にこだわって検証しようとする専門家ではありません。
さまざまな分野の史実と思われることを尊重しながら、歴史の流れを浮かび上がらせようとする試みなので、『クルマの歴史物語』に記されていることはあくまで“物語”として読んでいただきたいと思います。



個展4




〈〖The World of MASA展〗の様子④油彩【仏像を愛でる】コーナーその1〉





16.華麗なる自動車レース


 生産車種を絞り込んだローヴァー社は経営改善が捗った 


『クルマの歴史物語』では、ここのところイギリス車の話が続いているが、次はローヴァー社である。

ジョン・スターレイというアイデア溢れる優秀な経営者によってリードされるローヴァー社は自動車業界で着実に実績を重ねて、大きな存在を示すようになってきた。

ローヴァー社が飛躍するきっかけとなったのは、オーウェン・クレッグという工場マネジメントのエキスパートの入社であった。
この時代、スターレイ社長は収益力の悪化という問題に悩んでいたが、この原因は工場での製造コストが他社に比べて高いことにあることは分かっていたので、これを解決する具体策を探していた。

クレッグが優れた自動車設計家であり、同時に生産管理の達人であり、大量生産のノウハウを所持していることを知ったスターレイ社長は、クレッグを技師長に任命し、会社が抱えている経営課題に対する解決案をつくるように命じたのである。

社長からじきじきに構造改革という大きな宿題をもらったクレッグは、改革案づくりに没頭した。
クレッグは収益力悪化の分析を進め、工場での生産コストが上昇している状況を定量的に把握した。
そして、毎年生産車種が増えて、工場での生産効率が著しく悪くなっていることがコストアップ要因の最大であると指摘した。
すなわち、多品種少量生産で収益力が悪化しているという図式がはっきりしてきたのである。

根本的な問題点は把握できたので、クレッグは解決策の具体案をつくる仕事に移った。
最初にやらなくてはならないのは生産車種の絞り込みである。
売れ筋車種だけを生産して、少量しか売れない車種は生産を止めることにする。
ついで、少ない車種での量産体制を確立する。
ここでは、標準化を進め、例外作業を少なくする工夫が必要になる。

作業の標準化ができれば、1台ごとのばらつきが少なくなるから品質が向上するというというように、論理的に問題解決を図って、現実的な構造改革プランを、1カ月足らずでつくりあげたのである。


この案を役員会で説明したところ、ジョン・スターレイ社長の決断によって即時実行が命ぜられた。
これからは早かった。クレッグ技師長は社員を集めて新方針を説明し、その執行責任を明らかにして一気に実行に移したところ、1年のうちに難題の全てを解決したのである。

1911年の秋になると、クレッグ自らが設計した排気量2.3リッター4気筒の〈ローヴァー/トゥエルブⅡ〉がデビューしたら、市場から大好評をもって迎えられ、このクルマの大量生産が可能となった。
大量生産はコストダウンにつながり、コストダウンはプライスダウンにつながった。
プライスダウンは販売台数アップに結びつき、このクルマは売れまくった。

1913年に入るとローヴァー社の生産モデルは〈ローヴァー/トゥエルブⅡ〉だけとなり、経営の効率化は一層促進されて、ローヴァー社に巨額の利潤をもたらした。
このように、生産管理技術をバックとした優れた経営者であることを証明したオーウェン・クレッグであるが、なぜか1914年をもってローヴァー社を去ってしまうのである。
(※16-28話【第540回】は、ここまで)


16-27.自動車の歴史:イギリス編35~ライレーの発明~

新しい週が始まり、例によって本日から金曜日まで、ブログ『クルマの歴史物語』は週5回更新を予定しています。
3部としては4つ目の章となる「16章 華麗なる自動車レース」はここまでに、ブガッティの歴史を7回、アストン・マーティンの歴史を2回、フォードの歴史を2回、フィアットの歴史を1回掲載しました。
そして、レースの歴史:ヨーロッパ編を6回、自動車の歴史:ベルギー編と自動車の歴史:フランス編をそれぞれ1回掲載しました。
さらに、自動車の歴史:イギリス編を6回掲載し、本日はその7回目となる“ライレーの発明”をお届けいたします。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:イギリス編】に関するリンク先を※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編①》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編②ロールス・ロイス》の項で検索
〔3部での掲載分〕
●16-10.自動車の歴史:イギリス編29~タルボット&ヴォクゾール~
●16-15.アストン・マーティンの歴史1~誕生ストーリー①~
●16-16.アストン・マーティンの歴史2~誕生ストーリー②~
●16-19.自動車の歴史:イギリス編30~3輪自動車のモーガン~
●16-20.自動車の歴史:イギリス編31~モーリス少年の成長~
●16-21.自動車の歴史:イギリス編32~小型車のモーリス①~
●16-22.自動車の歴史:イギリス編33~小型車のモーリス②~
●16-26.自動車の歴史:イギリス編34~ランチェスターの終焉~

さて、私が自動車の歴史を本格的に研究するきっかけとなったのは、社会人対象のマーケティング講座を実施している早稲田大学大学院から、講義を依頼された時に始まりました。
このような講義では、多くの聴講者が興味を持つテーマ設定が必要になります。
当時の私が最も得意としていたのは生活消費財の世界でしたが、これだけでは大多数の関心を満たすことができませんので、地球上で最大規模の商品といわれる“自動車”を講義テーマにしようと思いつきました。
そこで自動車のマーケティング史に関する本を探してみたのですが、ぴったりとした本になかなか出会うことができませんでした。
それならば、この10年来興味を持ち続けてきた自動車マーケティングに関する話を、自分なりに取りまとめようと書き始めたところ、だんだん増えていって、とうとう1冊の本になってしまったのです。
当時の私は生活消費財ビジネスを本職としていたので、いわば趣味の世界での研究でした。
そして、ビジネスを離れ自由に時間を持てるようになったことをひとつの機会として、本格的に著作に専念するようになり、ようやくのことで『クルマの歴史物語 第一巻 自動車の誕生』が完成したのです。

この本を、いったいどんな人に読んでもらいたいと思って書いたかというと、自動車関連ビジネスに就職が決まって、これから一生、自動車を自分の仕事にしようと考えている若者を読者イメージとしました。
自動車関連の仕事といっても、その範囲はたいへん広く、メーカーもあれば、ディーラーもあるし、レンタカー会社もあります。
自動車修理会社や部品をつくる会社を含めれば、たくさんの自動車関連会社があるのです。
これらの業界に身をおいて、やがてチームのリーダーになりたいという夢を持っている若者ならば、ひととおり自動車のことを勉強しようと思うのは当然ですが、そうなるとたくさんの本を読まなくてはなりません。
ところが、どんな本が自分に合っているかを教えてくれる人が少ないのが現実でしょう。
そこで、読み進めれば知らず知らずのうちに自動車に関する知識が体系的に身につくようになるというのが、『クルマの歴史物語』なのです。


個展3



〈〖The World of MASA展〗の様子③受付カウンターで芳名帳に記載〉
    





16.華麗なる自動車レース


 パーシー・ライレーは着脱可能なワイヤホイールを発明した 


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〈ライレーのブランドマーク〉

ここのところ、1910年前後に活躍したヨーロッパ車を取り上げたが、この時代は、ドイツ、フランス、イタリアに遅れていたイギリスで、自動車メーカーが続々と誕生した時代であり、“ライレー”もそのひとつである。


イギリス自動車産業のメッカとなるコベントリーは、19世紀が始まる頃は織物産業の中心地であり、この地で織機製造を家業として繁栄を続けてきたライレー家があった。

1870年代に入ると、幼少時に就学を義務づける義務教育法が制定され、低賃金の年少労働者の確保ができなくなってしまったイギリス織物産業は、年少者の教育を義務としていないドイツやオーストリアとの価格競争に敗れるようになり、19世紀も後半になるとコベントリーの織物産業は衰退を始めた。

機をみるに敏なライレー家の当主ウィリアム・ライレーは、いちはやく織物業に見切りをつけ、1890年に小さな自転車会社を買収して、自転車分野への進出を図ることにした。
この決断はライレー社に大きなものをもたらして、自転車ビジネスは拡大を続け、やがてライレー社の本業になってきたので、1896年に会社名をライレーサイクル社と改め、決意も新たに本格的な自転車の量産に入ることになった。

この頃、コベントリーの街を自動車が走るようになってきた。
これを見たライレー家の4人の息子たちは、たちまち自動車の魅力にとりつかれてしまった。
中でも、末っ子のパーシーは機械に強い関心を持ち、最初はオートバイのメカニズムに、次いで4輪車づくりに熱中することになった。

そして1898年に、空冷方式の単気筒エンジンを載せ、ベルトドライブで駆動する小型4輪試作車を完成させるのである。
この試作車は、テスト走行を繰り返したが、エンジンの動きがスムースでなく、すぐに故障するという問題点があったので、実生産化は無理と判断した。
次の開発車として、フランスから輸入するド・ディオン・ブートン製2.5HPエンジンを積んで、自転車を横に2台ならべてつなげたスタイルをした“クアドリサイクル”と呼ばれる4輪車を開発して、1899年に生産が開始された。

ライレー社は、その後 “トライシクル”と呼ばれる前2輪・後1輪という3輪車、さらにオートバイを製作するようになったが、これらの製品群のうち主力を占めるようになったのはトライシクルであった。

ライレー家のいちばん若い息子のパーシー・ライレーは大の発明好きで、1904年になると、全てのモデルにパーシーの設計になる新機構を備えた単気筒エンジンが採用され、この形式のエンジンを生産するために、ライレーエンジン社が設立された。


パーシーを中心とするライレー兄弟の努力によって、1906年に〈ライレー/9HP〉というクルマが完成して販売に移された。
これは排気量1リッターの9HPエンジンを座席の下に横置きし、3速ギヤボックスを経由して、後輪をチェーンドライブする2座の小型車であった。

このクルマで特筆されるのは、世界で初めて着脱可能なホイールが標準装備されたことである。

この時代の自動車愛好家を悩ませていたのは、タイヤのパンクである。
タイヤホイールはシャシーに固定されていたので、パンク修理は路傍にクルマを止めてジャッキアップして、路面に接するゴムと一緒にチューブをホイールから取り外して、穴があいた部分を修復した後にホイールに取り付けて空気を入れジャッキダウンするという作業が必要であった。

この難仕事をいっきょに解決したのが、パ一シー・ライレー設計による簡単に脱着できるセンターロック式ホイールであった。
ライレー社が特許を取った方式だと、シャシーからホイール全体を取り外し、代わりに新しいホイールをはめ込むというように、タイヤ交換作業は簡単になった。

ライレー社の新方式の便利さは、たちまち知られるようになり、他の自動車メーカーもライレー社にパテント料を支払って取り外し式ホイールを採用するようになった。
1912年までにその数は全世界で200社近くにのぼり、ホイールビジネスはライレーサイクル社の重要な収益源になってきた。

1911年になると、ライレー社は自転車の生産を取り止め、社名もライレーサイクル社からライレーコベントリー社に改められた。
会社の運営面では、自動車よりもホイールの方がずっと利益が大きかったので、家長のウィリアム・ライレーは、クルマの生産を中止することを考えたところ、弟たちが大反対して、結局ライレー自動車製造社という新会社を設立して、生産を引き継ぐことにしたのである。
(※16-27話【第539回】は、ここまで)


16-26.自動車の歴史:イギリス編34~ランチェスターの終焉~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツは、フランス編からイギリス編に戻り、ランチェスター車のストーリーになります。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:イギリス編】に関するリンク先を※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編①》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編②ロールス・ロイス》の項で検索
〔3部での掲載分〕
●16-10.自動車の歴史:イギリス編29~タルボット&ヴォクゾール~
●16-15.アストン・マーティンの歴史1~誕生ストーリー①~
●16-16.アストン・マーティンの歴史2~誕生ストーリー②~
●16-19.自動車の歴史:イギリス編30~3輪自動車のモーガン~
●16-20.自動車の歴史:イギリス編31~モーリス少年の成長~
●16-21.自動車の歴史:イギリス編32~小型車のモーリス①~
●16-22.自動車の歴史:イギリス編33~小型車のモーリス②~

ブログ『クルマの歴史物語』を愛読していただいている方には興味深い話が続いています。
書籍「クルマの歴史物語 第一巻」と、ブログ『クルマの歴史物語』の中身そのものは変わることはありませんが、表面的な部分では異なる点が多々あります。
これは、書籍とインターネット掲示板というメディア特性の違いに基づいていて、“話”の構成の他に、各話の“タイトル”の付け方が大きく異なります。
調べ物が必要になった時に、書籍の場合はぺらぺらと頁をめくりながら探すことができますが、インターネットの場合は簡単に全頁を見ることができませんので、キーワードを使って検索することになります。
これを事前にセッティングしているのがリンクの案内であり、これを張っておくと探し物や、もっと詳細な情報を必要としている場合はたいそう便利です。

そこで、ブログ『クルマの歴史物語』では“タイトル”に工夫をこらし、コンテンツ区分を明示するようにしてあります。
例えば、国別の自動車発展史の分類は、〔自動車の歴史:ドイツ編〕、〔自動車の歴史:フランス編〕、〔自動車の歴史:アメリカ編〕などというようにタイトルを付けます。
国別だけでなく、ビッグブランド(企業別を含む)の場合は〔メルセデスベンツの歴史〕、〔ルノーの歴史〕、〔フォードの歴史〕、〔GMの歴史〕などというようにタイトルで区分しています。
さらには、〔レースの歴史:ヨーロッパ編〕、〔レースの歴史:アメリカ編〕という区分が加わり、タイトルを見ただけでコンテンツの概要がわかるように工夫がしてあるのです。
これに対して、書籍「クルマの歴史物語 第一巻」のタイトルは、「41話 ルノー兄弟社の創業」、「45話 パウル・ダイムラーの苦悩」というように、各話にふさわしいタイトルが付いているだけで、特別の工夫はありません。


個展1

〈〖The World of MASA展〗の様子①〉
ビル11階フロアーで、右扉の奥が個展会場




個展2

〈〖The World of MASA展〗の様子②〉
会場入り口の案内看板







16.華麗なる自動車レース


 独自技術にこだわったランチェスター社は倒産した 


Lanchaster.png

〈イギリス車のオリジナリティを大切にしたフレデリック・ランチェスター=Frederick Lanchester〉(1868~1946)

『クルマの歴史物語 1部』の中に、イギリスでいちばん古い自動車メーカーとして創業されたランチェスターの話があった。

フレデリックを長兄とするランチェスター3兄弟によって創業されたランチェスター社は、技術志向の強いフレデリックのリーダーシップによって、イギリスオリジナルの自動車メーカーのパイオニアとして、産業界で大きな存在を示すようになっていた。

ランチェスター社の最初の生産モデルは、試作2号車をベースにし、試作3号車のために開発したプリセット式ギヤボックスをつけた〈ランチェスター/10HP〉となった。
このクルマは、部品を職人がひとつひとつ合わせるという職人技による生産ではなく、部品の標準化を進め、互換性をもたせるやり方を採用したが、これはアメリカ合衆国でヘンリー・リーランドが採用したキャデラックの方式より先行するものであった。

空冷方式で排気量4リッターの水平対抗2気筒エンジンを搭載した〈ランチェスター/10HP〉の最高時速は56キロと速く、しかも走行時の騒音が静かな優れたクルマであった。

1904年には、当時のエンジン形式としてごく一般的な水冷直列4気筒エンジンつきの〈ランチェスター/20HP〉を登場させて、順調に売上げを増やしていったランチェスター社であるが、高い品質にこだわりすぎたためコストがかさんで運転資金の不足を招き、1908年になってあっけなく倒産してしまうのである。

これに伴って、創業以来会社をリードしてきたフレデリック・ランチェスターはランチェスター社を追い出され、デイムラー社に移り、ここで技師長に就いて再起を図ることになった。

管財人が指名され、新しい経営体制で再スタートを切ってしばらくしたら、倒産以前から開発に取り組んできた豪華ボディの〈ランチェスター/28HP〉が完成した。
さっそく売り出したところ、顧客からの反応がよく、奇跡的に業績を回復させることができた。

この後に開発した直列6気筒エンジン搭載の〈ランチェスター/38HP〉も優れたクルマで人気車に育っていった。
(※16-26話【第538回】は、ここまで)


16-25.自動車の歴史:フランス編34~パナールの復活~

本日のブログ『クルマの歴史物語』久方ぶりに自動車の歴史:フランス編となります。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:フランス編】に関するリンク先※※
〔1&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《フランス編①》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《フランス編②プジョー》の項で検索
■国別ブランド別目次一覧《フランス編③ルノー》の項で検索
〔3部での掲載分〕
●15-19.プジョーの歴史10~プジョーの大同団結①~
●15-20.プジョーの歴史11~プジョーの大同団結②~
●15-21.自動車の歴史:フランス編33~V8エンジン完成~

さて、今回製本したオリジナルの「クルマの歴史物語 第一巻」と、ブログ『クルマの歴史物語』の最大の違いは“話”の構成にあります。
「クルマの歴史物語 第一巻」は1話~50話で構成されています。
そして、この本の続刊となる「クルマの歴史物語 第二巻」では51話~100話が、「クルマの歴史物語 第三巻」では101話~150話が、さらには「クルマの歴史物語 第四巻」では151話~200話を語るという構想になっています。
ちなみに下に掲載した写真の最前列に並んでいる「クルマの歴史物語」は、左から「第一巻」「第二巻」「第三巻」「第四巻」というように並んでいるのが見えると思います。
実はこれらのうち「第一巻」だけが本物で、「第二巻」「第三巻」「第四巻」の中身はダミーであり、〖The World of MASA展〗でご覧いただくために表紙だけを今回作成したのです。

一方、ブログ『クルマの歴史物語』の“話”の単位は、オリジナルに対して、二分の一から三分の一と短くなっています。
この理由は、新聞小説と週刊誌小説の違いと同じと考えてください。
週5回掲載を前提とするブログ『クルマの歴史物語』では、1日分の掲載量は新聞小説と同じくらいの文字数に修正する必要があるからです。
そこで、週刊誌小説と同じボリュームがあるオリジナルの“話”を二つ、ないしは三つに分断して、ブログ『クルマの歴史物語』は掲載しているのです。


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〈9月16日、飾りつけ完了直後の会場⑦〉


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〈第一巻から第四巻まで並んだ「クルマの歴史物語」〉



16.華麗なる自動車レース


 ルネ・パナールの息子たちがスリーブバルブ車で復活した 


『クルマの歴史物語』の1部と2部で活躍したフランスのパナール&ルヴァソールの話は、3部では一度も登場していないので、廃業したに違いないと思っている読者もいると思うが、実はそうではなかった。
確かに20世紀に入りしばらくすると、パナール&ルヴァソール社の絶頂期は過ぎ去り、クルマの売れ行きは急降下することになった。
一方、自動車レースの主役は、ハイパワーエンジン車のメルセデス、大排気量のモンスター路線を突っ走るフィアットらに移り、またリシャール・ブラジエという新しいライバルが登場していた。

1908年にルネ・パナールがこの世を去った。
これで、1897年に事故によって他界したエミール・ルヴァソールともども創業者はいなくなってしまったが、パナール家のポールとイポリットという名の兄弟は、会社名からルヴァソールの名前を取り、パナール社として事業を引き継ぐことになった。

ここまでくると失うものは何もないと割り切った兄弟2人は、競争に打ち勝つことができる新しい技術を次々と導入するようになった。
新技術の代表がスリーブバルブ・エンジンである。
アメリカ人のチャールズ・ナイトが発明し、ヨーロッパではイギリスのデイムラー社とベルギーのミネルヴァ社で採用されており、構造上回転音が静かで、高級車に向いたエンジンとして評価が確立しつつあった。

パナール社は1911年にフランスでは初となる、スリーブエンジンを積んだ大型乗用車を開発して、高級車メーカーへの転身を図ることになったのである。



コニャック地方に生れ、フランス最大級の自動車メーカーであるプジョー自動車会社に人社したルイ・ドラージュは、同僚のオーガスチン・ルグロと一緒になって独立してドラージュ社という自動車メーカーを創業し、この会社の発展に向かって密接に協力しあっていた。

ドラージュ社のクルマが世間の注目を集めるようになったきっかけは、1908年のヴォワチュレットGPでの優勝で、初優勝による宣伝効果により、ドラージュ車は売れるようになり財政的にも安定するようになってきた。
そこで、1910年には増産を図るために新工場を建設して、年産1千台規模の中堅メーカーに育っていた。


勢いづいたルイ・ドラージュ社長は、レースにますます力を入れるようになり、ACF・GPで優勝することを目標におき、技術水準の向上に務めていた。

1913年になると、排気量6.2リッターの4気筒エンジンを搭載するレース専用車が完成することによって、ACF・GPへの参戦を果したが、タイヤトラブルにみまわれて、ジョルジュ・ボアロが運転するプジョーに優勝をさらわれてしまった。

その数週間後にル・マンで開催されるレースで、プジョーへのリベンジを誓って、今度は直列6気筒のOHCエンジンを載せた新型車とドライバーとして新進気鋭のポール・バブロを投入して一気に勝負にでたところ、ドラージュは念願の優勝をもぎ取ることになった。

これで自信を持ったルイ・ドラージュ社長は、アメリカでいちばん人気のインディ500への遠征を考え、準備を進め2台のレース専用車を船積みした。
全社をあげた大イベントの陣頭指揮を執るルイ・ドラージュ社長は、初めてのアメリカでのレース参戦で戸惑うことが多かったが、走行性能が勝るドラージュのレース専用車はアメリカ車を圧倒するスピードで走りきり、優勝して人々を驚かすのである。
(※16-25話【第537回】は、ここまで)