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19-21.第一次世界大戦6~戦争の終結~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、「19章 悲劇の世界大戦」の最終日であると共に、「3部 大量生産の始まり」の最後のお話です。

振り返ってみますと、3部は昨年5月29日の“1部&2部サマリー編”からスタートしました。
そして、「13章 フォード社の大量生産」、「14章 アメリカ車産業の波動」、「15章 多彩なヨーロッパ車」、「16章 華麗なる自動車レース」、「17章 世界大戦の始まり」、「18章 元気なアメリカ車」、「19章 悲劇の世界大戦」というように続いてきました。
19章の終了に伴って3部が終了しますが、明日から4部が始まるわけではありません。
明日からのブログ『クルマの歴史物語』は3部の資料編となります。
資料編の構成は、「A.目次一覧」、「B.年表」、「C.人名事典」、「D.ブランド事典」、「E.参考図書案内」という5区分になっています。
この資料編がいつまで続くのかはまったく不明ですが、これらの掲載終了をもって「4部 花開く自動車文化」の開始が予定されています。
ブログ『クルマの歴史物語』は、著者の健康と頭脳が維持できる限り続きますので、変わらぬご愛読を切にお願い申し上げます。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【第一次世界大戦】に関するリンク先※※
●19-01.第一次世界大戦1~戦争の長期化~
●19-09.第一次世界大戦2~第二十八代ウィルソン大統領~
●19-12.第一次世界大戦3~ウィルソン大統領の決断~
●19-17.第一次世界大戦4~ドイツの後退~
●19-20.第一次世界大戦5~ロシアでの社会主義革命~


19.悲劇の世界大戦


 ドイツが降伏することによって史上初となった世界大戦は終結した 


1918年になると、原因不明の感染症がスペインの地で流行し始めた。
患者の症状は風邪に似ているので、重大な病気であると考える医者は少なかったが、そのうちに患者が次々と命を落とすようになってきた。
しかも死亡者数は万単位になってきて、深刻な事態が到来したのである。

この一方で、感染エリアはフランスやイギリスというヨーロッパ地域ばかりでなく、衛生状態が悪いアフリカ各地に広がったので、死亡者数はたちまち100万人単位になってきた。

この原因不明の感染症は、発祥の地にちなんで“スペイン風邪”と名付けられたが、この病気の正体が分からないまま猛威を振るうことになり、かつてヨーロッパ中に死者の山をつくったペストの再来ではないかと人々は恐怖のどん底に落ち込むことになった。

スペイン風邪の患者は日に日に増加して、世界各地の死亡者数も1千万人規模となってきた。
時あたかも世界大戦の末期に当り、神様からの天罰が下ったという噂が世界各地で広がり、戦争の惨劇と重なってヨーロッパは暗黒大陸の様相を呈してきた。

この頃、ドイツ国内は食料が枯渇し、キール軍港に引っ込んでいた海軍の兵員が不満をぶつけるために騒ぎ出した。
またロシア革命の影響で、社会主義者の動きが地下で活発化してきた。
また戦況はドイツにとって厳しくなるばかりで、各地の戦場では後退局面が多くなってきた。

こうした戦況と反戦気分が強くなってきた国内情勢の中で、戦争続行は不可能と判断した皇帝ウィルヘルム二世は1918年11月10日にオランダに亡命してしまった。
指導者を欠くことになったドイツは、11月11日に白旗を掲げることになり、〔イギリス+フランス+アメリカ+イタリア+日本〕連合国軍が、〔ドイツ+オーストリアハンガリー〕同盟国軍に勝利することで、1914年夏から4年が経過した世界大戦は決着することになった。



歴史上初めての近代戦争となったこの戦争は、毒ガス、戦車、軍用機などの新型兵器が開発され、実際の戦闘に投入されたことで、全世界で約700万人の兵隊と民間人の命が奪われるという悲劇となった。

このような多数の犠牲者の命と引き換えに、長い間ヨーロッパの地を支配していたドイツのホーエンツォレルン家、オーストリアのハプスブルク家、ロシアのロマノフ家という王侯貴族の巨大支配層は崩壊した。
王侯貴族の巨大支配層がなくなったことで、中部ヨーロッパ諸国にそれぞれの国民や民族が積極的に国政に参与する民主主義が広がる決定的契機となったのである。
(※19-21話【第615回】は、ここまで)


19-20.第一次世界大戦5~ロシアでの社会主義革命~

今日からカレンダーは3月に入ります。
ブログ『クルマの歴史物語』の“3部 大量生産の始まり”が始まったのが昨年の5月29日のことでしたので、早いもので9ヶ月が経過しました。
2月3日にスタートを切った「19章 悲劇の世界大戦」は、本日でちょうど1ヶ月が過ぎたことになりますが、明日の掲載が最終回になり、同時に3部そのものが終了いたします。
こうして振り返れば簡単そうですが、週5日のペースでブログ記事を更新し続けることは実に大変です。
それでも何とかやり遂げているのは、「熱心な読者の期待を裏切ることができない」という私の想いの強さがあるからです。
「昨日の続きがどうなっているか」という期待をもってブログ『クルマの歴史物語』を開いていただいたら、「今日も昨日の続きが掲載されている」という安心感を提供したい。
そんな考えで今日も原稿を書いています。

さて、本日のコンテンツは“社会主義革命”です。
第一次世界大戦の最末期に、ロシアの地でウラジミール・レーニンの指導力で成し遂げた社会主義革命は、それ以降数十年の長きにわたって世界の政治経済体制のあり方に大きな影響力を与えました。
しかし、社会主義国の盟主として君臨し続けたソビエト社会主義連邦共和国は完全に崩壊し、ロシア、ウクライナ、その他の民族国に戻ってしまいました。
一方で、世界最大の人口を擁する中華人民共和国では未だ“共産党”による一党独裁が続いているという現実が存在しています。
申すまでもないことですが、共産党は社会主義体制構築を綱領の中核においています。
それにもかかわらず中華人民共和国では資本主義の競争原理が取り入れられ、数えきれない民間企業がビジネス上の覇権を競い合っています。
こうしてみると、「いったい社会主義とは何だったのだ」、「なぜあれだけ時代をリードした思想が霧散してしまったのか」と、考えざるを得なくなりますね。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【第一次世界大戦】に関するリンク先※※
●19-01.第一次世界大戦1~戦争の長期化~
●19-09.第一次世界大戦2~第二十八代ウィルソン大統領~
●19-12.第一次世界大戦3~ウィルソン大統領の決断~
●19-17.第一次世界大戦4~ドイツの後退~


19.悲劇の世界大戦


 ロシアでレーニンをリーダーとする社会主義革命の炎が燃えさかってきた 


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社会主義国ソビエト建国の父レーニン=Vladimir Lenin〉(1870~1924)

ロシアを取り巻く環境が極めて不安定な体制の中で、世界大戦が始まり、ロシアはイギリス、フランスと一緒の連合国側として参戦することになった。
ところが開戦当初のタンネンブルグの戦いでドイツ軍に大敗を喫して、翌年4月にロシア軍は東部戦線から退却する事態となり、これをきっかけとして政治的危機を引き起こすことになった。
しかし、幸いなことに西部戦線が膠着しており、ロシア国内にドイツの追っ手が入ることはなく、外なる戦いは一息つくことができたが、内なる戦いがニコライ二世を待っていた。

まだ春がこない厳寒の1917年3月、食糧要求、反戦、帝政打倒を唱えた工場ストライキがペテルブルグで発生して、たちまちのうちにモスクワにまで及んだ労働者の決起は、民衆の怒りを爆発させる騒ぎとなった。

この騒乱時に、労働者と兵士を代表する“ソビエト”という組織ができ、全世界に対して、無賠償、無併合による講和提案を行った。
この緊急事態を乗り切るためには、自分が退位するしか解決方法がないとニコライ二世は決意して、弟に帝位継承を頼んだが拒否され、500年間続いたロマノフ王朝はあっけなく崩壊することになったが、未だ国家としてのロシアが崩壊したわけでなく、臨時政府が発足した。

このような状況の中で、スイスに政治亡命していたウラジミール・レーニンは貨物列車に乗って秘密裡に帰ってきた。
春まだ浅い4月、ロシア入りしたレーニンは、すぐに第1回目のソビエト大会開催の準備に入った。1917年6月に開催された大会でソビエトの代表に就くことになった。

秋も深まった11月の初旬頃からロシア各地で内乱状態になり、労働者の武装蜂起によって臨時政府が倒壊して、労働者や兵士の組織であるソビエト社会主義政府が政権を握ることになった。
ソビエト政権は、直ちに「平和の布告」を発し、すべての交戦国の政府に即時休戦と公正で民主的な平和条約の締結を呼びかけ、戦線を離れることになったのである。
(※19-20話【第614回】は、ここまで)


19-19.ロールス・ロイスの歴史10~アラビアのロレンス~

ブログ『クルマの歴史物語』の3章の最終章である「19章 悲劇の世界大戦」はいよいよ大詰めを迎えています。
3月3日(火)が19章の最終話となりますので、残すところ本日を入れて3話だけとなりましたが、3章の終了は「3部 大量生産の始まり」の終結を意味しています。
19章の19回目を迎える本日は、「ロールス・ロイスの歴史」の8回目であり、“アラビアのロレンス”とサブタイトルが付いています。
第一次世界大戦時のアラビア戦線で、イギリス人考古学者のトーマス・エドワード・ロレンスなる人物と名車ロールス・ロイスを結びつけるエピソードが本日のコンテンツとなります。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【自動車の歴史:ロールス・ロイスの歴史編】に関するリンク先※※
〔1部&2部での掲載分〕
■国別ブランド別目次一覧《イギリス編②ロールス・ロイス》の項で検索
■自動車人名事典《ラ行のロ》:「ロレンス、トーマス・エドワード」の項で検索
〔3部での掲載分〕
●17-05.ロールス・ロイスの歴史8~カーマスコットの誕生~
●17-06.ロールス・ロイスの歴史9~航空機用エンジンの開発~


19.悲劇の世界大戦


 考古学者の.ロレンスはロールス・ロイス車の価値を知っていた 


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〈映画で有名なアラビアのロレンス=Thomas Edward Lawrence〉(1888~1935)

『クルマの歴史物語 第三巻 大量生産の始まり』は、いよいよ「150話 世界大戦の終結」を迎えた。

『クルマの歴史物語』は自動車の発展の物語であるが、ほぼ同時期にエジソンが発明した映画も、大衆の娯楽として発展を続けていた。

映画に関しては、AFIというアメリカの映画団体が、20世紀のアメリカ映画ベスト100を選んだということを既に記したので覚えている人も多いと思う。

20世紀のアメリカ映画ベスト100では、ベスト1「市民ケーン」、ベスト2「カサブランカ」、ベスト3「ゴッドファーザー」、ベスト4「風と共に去りぬ」が選ばれているが、5位にデイビッド・リーンが監督した「アラビアのロレンス」が入っている。
この映画の舞台となったのは、世界大戦期のアラビア地域であり、主人公はトーマス・エドワード・ロレンスという実在のイギリス人であった。

ロレンスはオックスフォード大学で考古学を専攻し、卒業後はアラビア各地で遺跡の発掘に従事していた。
1914年の大戦勃発に伴って、イギリス軍の臨時少尉としてエジプトに駐在するよう命令を受けた。
そして、開戦2年目に、トルコの圧政から独立を目指して立ち上がったアラブ人の運動を支援するように政府から要請を受けた。
この時代のトルコは、イギリスに敵対するドイツの盟友国であるので、イギリスとしては、アラブの地からトルコを放逐するつもりであった。

そこで、アラビア語が堪能であり、アラブ人の生活習慣を熟知しているロレンスの力が、どうしても必要となったのである。
ロレンスはアラブ人と協力体制をとりながら、1千キロの砂漠を6週間で走破し前線を移動した。
トルコ軍との戦闘では巧みな作戦によって、アラブ人部隊を勝利に導き、ロレンスは次第にアラブ人の英雄となっていった。
こうしたことは、イギリス国内で報道され、やがてロレンスの存在はイギリス人の間では有名になっていった。

ロレンスは、アラブの地に取材にきた新聞記者から、「今いちばん欲しいものは」と問われた時に、躊躇なく「ロールス・ロイスのシルヴァーゴースト!」と、答えたという。
毎日砂漠でアラビア人と行動するロレンスにとって、輸送手段として信頼できる自動車があれば、どれだけ助かるか分らないという実感の中での回答であった。
実際、アラブに駐在中のイギリス軍の指揮官車は、〈ロールス・ロイス/シルヴァーゴースト〉ばかりであった。


アラブ人側の友人として戦闘指導に当ったロレンスであるが、自分の行動は、アラブをトルコから開放すると母国が約束したからであって、ロレンスはこの約束を一度も疑うことはなかった。
ところが、イギリスはフランスとの間で中東地区を分割して両国で統治するという秘密協定を極秘裏に結んでいて、ロレンスはイギリスの二枚舌外交に翻弄されることになる。

さらにイギリスはユダヤ人に対して、パレスチナにユダヤ人国家の建設を認めるという約束をしていたのである。
イギリス政府のこうした二枚舌どころか三枚舌外交によって、アラブ人を取り巻く状況は大きく変化し、ロレンスは本国の裏切りに苦しめられることになるのである。


『クルマの歴史物語』では、自動車に関する数多くの文献を読者に紹介しているが、これから案内をするのは間宮達男氏が書いた『世界の名車物語』(中央公論社発刊)という本である。

この本の著者は朝日新聞社の雑誌編集に長く携わってきた方であり、「カー・アンド・ドライバー」に1年間にわたって連載された内容を、再編集して中央公論新書シリーズとして発刊した。
この本に登場するのは、ベルタ・ベンツ、ミシュラン兄弟、フェルディナント・ポルシェ、ハーバート・オースチン、デユーセンバーグ兄弟、ヘンリー・フォード、ルイ・ルノーなど、本書の読者にとってもすっかりおなじみの主役たちである。
著者の名文もあって読みやすく、自動車の歴史に登場する主人公を生々しく語っている。

この本の5章に「アラビアのロレンスが砂漠を走ったシルヴァー・ゴースト」という話が載っていて、映画『アラビアのロレンス』のラストシーンを見事な文章で語っているので、以下で皆さんに紹介しよう。

『70ミリのテクニカル超大作映画『アラビアのロレンス』を見た人は、いつまでも、あの素晴らしいラストシーンを忘れないだろう。砂漠を舞台に大がかりなスペクタクルをくりひろげた3時間映画の結末は、どこまでもつづく熱砂の道を映し出し、その中をロレンス大佐を乗せたクルマが疾走していくシーンだった。
第1次世界大戦(1914~1918)のさなか、イギリスの情報将校としてアラブの砂漠で戦ったT.E.ロレンスは、宿願のアラブ統一の夢を遂げることができないまま、祖国イギリスヘの帰還命令を受ける。
ロレンスは運転手付きのクルマに乗る。ロールス・ロイスのシルヴァー・ゴースト号だ。勲功によってロレンスは大佐に昇進していたのだ。カメラは、座席からフロント越しに、ボンネットの上にさん然と金色に輝くカー・マスコットを大写しにする。
このマスコットこそ、スピリット・オブ・エクスタシーと呼ばれる、ロールス・ロイス車のシンボルだからである。つまり、地位の象徴であるロールス・ロイスに乗って、大佐になったロレンスが故国へ帰っていくという意味なのだ。
東洋風にいえば、錦をかざって故郷に帰るシーンなのだが、ロレンスは、しかし、アラブ統一を果たせない傷心を胸に抱いている。その心中やいかに。心憎いばかりのラストだ。ロレンスにはピーター・オトゥールが扮した。』
(※19-19話【第613回】は、ここまで)


19-18.BMWの歴史1~航空機用エンジンメーカーの誕生~

BMWファンの皆さん、お待たせいたしました。
本日のブログ『クルマの歴史物語』は、“BMWの歴史”の初回となります。
今日世界の自動車産業を俯瞰して見回すと、“BMW”は高性能カーを中心に置く戦略で、独特の存在感を放っています。
今やミニとロールス・ロイスというイギリスの名門を自グループ化したBMW社は、ワールドワイドなビジネスを展開しており、わが国のトヨタ自動車とは提携関係を結んでいます。
多くの自動車ファンの心を掴む巧みなクルマづくりをすすめるBMWの伝統は、航空機用エンジンづくりから最初の一歩を踏み出しました。
今日のブログ『クルマの歴史物語』は、そのBMW社の創業物語となりますので、お楽しみください。


19.悲劇の世界大戦


 南ドイツのバイエルン地方で航空機用エンジンメーカーを設立された 


bmw.jpg




『クルマの歴史物語』の149話は、“BMW社の創業”とタイトルされているので、これから読者の関心が高いBMW社の創業物語を始めることにするが、ここにはオートバイも自動車も出てこない。
BMW社がオートバイを製作するようになるのは世界大戦が終了してからで、BMWブランドとしての最初の自動車が登場するのは、さらに後になってからのことである。

現代のBMW車を特徴付けると、エンジンの優秀性をあげる人が多いが、この原点は創業時にあり、BMW社は航空機用エンジンと深い係わり合いを持つ会社としてスタートした。

1913年10月のこと、南ドイツのバイエルン地方の拠点都市であるミュンヘン郊外に、航空機関連企業で役員を務めていたカール・ラップというビジネスマンが、ラップエンジン社という、航空機や船舶用ガソリンエンジンをつくることを目的とした会社を設立した。
ラップが会社を設立するに当ってミュンヘン郊外に場所を選んだのは、2年半ほど前に設立されたグスタフ・オットー飛行機製造会社(以下オットー飛行機社)という名前の航空機の機体を製造する会社があったからである。
ちなみに、この会社の創業者であるグスタフ・オットーは、4ストロークサイクル・エンジンの父として知られるニコラス・オットーの息子である。

設立間もないラップエンジン社は水冷4気筒の航空機用エンジンをオットー飛行機社に納入し始めたところ、1914年にドイツがイギリス、フランスとの間で戦争を始めたことによって、誕生したばかりの両社は、急速に生産規模を拡大していった。
さらにラップエンジン社には、航空機エンジンの最大手であるオーストロダイムラー社から、下請け生産という仕事が舞い込んできたが、オーストロダイムラー社で、この仕事を担当したのはフランツ・ポップという技術者であり、高度な技術力がある会社をドイツ中探し回り、ラップエンジン社を選んだのだった。

この頃、ラップエンジン社にマックス・フリッツという、ダイムラー社で航空機用エンジンの開発業務をやっていた若きエンジニアが入社してきた。
フリッツの夢は、高々度航空機エンジンの設計であり、その夢を実現するために可能性を秘めたラップエンジン社に入ってきたのだ。
フリッツのたぐい希な才能とひたむきな情熱は、ラップエンジン社においてすぐに上層部に認められるところとなり、夢の実現へ向けて高々度航空機エンジンの設計を進めることが許された。


フランツ・ポップは頻繁にラップエンジン社に出入りしているうちに、この会社の技術水準の高さに脱帽すると同時に、若き研究者マックス・フリッツの才能と、開発中の新エンジンに着目することになり、だんだんと会社そのものを手に入れたくなってきた。

種々の工作の結果、ポップとその仲間は、ラップ・エンジン社の経営権を取得して、創業者のラップは会社を去ることになった。

新たに社長に就任したポップは、社名をバイエルンエンジン製作会社 (Bayerische Motoren Werke、以下BMW社)に改名し、バイエルン地方の青い空に回転するプロペラを図案化したBMW社のシンボルマークを制作した。


新生BMW社が誕生から4カ月後の1917年11月に、フリッツが全エネルギーを投入して開発してきた“BMWタイプⅢa”と呼ばれる高々度航空機エンジンが完成を見た。

OHC方式を採用した水冷方式の直列6気筒で排気量19リッターの新型エンジンは、185HPの最高出力を出すことができるなど、極めて高い性能を持っていた。
水冷列型エンジンは前面面積が少ないから細長くつくれ、飛行機ボディの空気抵抗が少なくなるというメリットがあった。
さらに、信頼性においては星型エンジンより優れていた。

ドイツで、航空機用エンジンを提供したのは、ダイムラー社、ベンツ社、アルグス社、オペル社という会社群であり、新たにBMW社が加わったこともあって、ドイツ製水冷列型6気筒エンジンは時間の経過と共に着実にパワーアップを続けて、世界大戦末期には200HPを引き出すまでに達した。

フリッツの夢の結晶であるBMWタイプⅢaエンジンは、フォッカーDVⅡに搭載されることになったが、いかんせん大戦の末期で、ドイツは敗色濃厚という状況にあり、このエンジンの生産は結局7機分のみで終わるのである。

BMWタイプⅢaエンジンを開発した後、フリッツはスーパーチャージャーを装着する高性能エンジンの開発に取り組むことになった。
タイプⅢaをベースにした新エンジンは“BMWタイプⅣ”と名付けられ、パワーは350HPにまで達したが、完成時点で戦争は終り、実際に機体に載せられることはなかった。
(※19-18話【第612回】は、ここまで)


19-17.第一次世界大戦4~ドイツの後退~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツは、第一次世界大戦の4回目であり、“ドイツの後退”とサブタイトルされています。
1914年6月バルカン半島のサラエボの地で、オーストリアハンガリー帝国皇太子に向けて大学生が発した弾丸から火がつき燃えさかった長期に亘る戦争は、第二次世界大戦以降、第一次世界大戦と呼ばれるようになりました。
昨年6月には第一次世界大戦の開戦から100周年の記念日を迎えることになりましたが、戦場から遠く離れた日本人には、この戦争を充分理解している人は少ないようです。

短期で終わると多くの識者が予測した戦いは、やがて完全な膠着状態に陥り、いたずらに人命と時間を費消し続けてきました。
そこへ、1917年4月にアメリカ合衆国がイギリス・フランスサイドに組し、ドイツに対して宣戦布告をして以降、流れが大きく変わりドイツサイドは次第に追い込まれてゆくのです。

※※ブログ『クルマの歴史物語』既掲載分中の【第一次世界大戦】に関するリンク先※※
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19.悲劇の世界大戦


  三国協商連合国軍はドイツ内陸部へ爆撃を加えるようになった 


1918年4月にイギリス政府は、陸軍航空隊と海軍航空隊を合体させ、陸軍および海軍に続く第3の軍隊として、世界で初めてとなる“空軍”を新設した。

臨戦体制の中で空軍を設置する目的のひとつに、敵国ドイツへの空爆実施計画があり、イギリス空軍の中に、陸上爆撃部隊が編成されたのは空軍発足の2カ月後のことであった。

同じ軍用機でも、空中での敵機をターゲットとする戦闘する戦闘機と地上を破壊する爆撃機では、期待する性能がまったく異なる。
戦闘機は飛行スピードと空中での旋回性が勝利への条件となるので、小型軽量機の方向を歩む。これに対して爆撃機は、大量の砲弾を積み込むのでどうしても大型機になり、スピードより長距離航続性能が求められる。


塹壕戦が続いて膠着してしまった陸上戦闘に対して、勝敗がはっきりする空中戦闘は、戦争全体の優劣に直結することになるので、軍用機開発競争は国家戦略として最大関心事になっていた。
実際、軍用機は著しい発展を遂げたが、最初の頃の開発機は戦闘機ばかりであった。
ところが戦争が長期化すると、爆弾を積んで長距離を飛行して陸上に投下する大型爆撃機への関心が高まり、開発競争が始まった。
1918年になると、連合国軍はデ・ハヴィランドの設計したDH9爆撃機とブレゲーBr.14爆撃機を所持するようになった。
これらに加えて、夜間爆撃専用機として、爆弾を900キロ積むことができる爆撃機が開発された。

1918年の夏から秋にかけて、これら連合国軍の爆撃機がドイツの奥深くまで飛行し、爆弾を投下することになった。
空爆の効果はいろいろ考えられる。
いちばんは、戦争遂行上欠かせない飛行場、通信設備、基幹道路、橋梁などの施設破壊がある。
このためには正確に爆弾を投下する技術が必要になるが、実際には目標に爆弾が当ることは少なく、仮に1発当ったとしても、それだけで破壊できるわけではないので、効果は限定的であった。

だからといって、爆撃は効果がないかというとそうではない。
敵機が来襲して爆撃を受けるという恐怖は、それまで進攻することしか知らないドイツ人に大きなショックを与えて、フランクフルトやマンハイムという大都市の住民は、空襲の怖さを実感することになった。

このことで、国外での戦闘に全ての兵隊を回していたドイツ軍は、国民を守るための国内防衛力を強化せざるを得なくなり、勢力の分散を余儀なくされたドイツ軍は、連合国軍の攻勢にさらされるようになってきた。
(※19-17話【第611回】は、ここまで)