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20-24.自動車の歴史:イタリア編7~イソッタ・フラスキーニ~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、アメリカで高級車として人気が高まっているイタリア製のイソッタ・フラスキーニのお話です。
本日で、「20章 世界大戦後のヨーロッパ」はお終いになり、明日から「21章 多様化するヨーロッパ車」が始まります。
一方、エスプラナーデ・レポートは7回目の掲載となります。

2011年7月に、私たち夫婦は北イタリアの山岳地帯を一週間連続で走破する過酷な「ドロミテ7日間縦走トレッキング」を走破しました。
ところが、このツアーから帰国して半年後、私の体調が急におかしくなったのです。
正月過ぎからなんとなく変調を感じ、近くの町医者で見てもらったら花粉症という診断で、お薬を処方していただきましたが、一向に良くなりません。
そのうちにわが家の2階へ上る階段で息切れを感じるようになり、これは重大な事態がわが身に起きているに違いないと判断し、地元のT病院の診察を受けることになりました。
私を担当した医師は、最新の機器を使って診断を試みましたが、なかなか答えが出ません。
何回も行った各種検査の結果を総合して、担当医師から「肺がんの疑いがある。国立がん研究センターに紹介状を書くので、そこで診てもらうように」と、思わぬ言葉を聞くことになりました。
幸いにして国立がん研究センター東病院は、わが家から車を使えば10分位で行ける距離にありますが、がんの中でも致死率が高いといわれる“肺がん”の可能性を指摘された私の動揺は収まりません。
ここでも何度も何度も検査を受け、最新のPET・CTスキャン撮影結果を総合して、私の体のどこにも“がん”は存在していないとの診断が下りたのは、4月下旬のことでした。


20.世界大戦後のヨーロッパ


 イタリア生まれのイソッタ・フラスキーニは、アメリカで高級車として人気を呼んだ 


isotta-fraskne.jpg
〈ブランドマーク〉

1898年に弁護士のチェザーレ・イソッタとエンジニアのヴィンチェンツオ・フラスキーニが共同して輸入車のディーラービジネスから始めた自動車メーカーのイソッタ・フラスキーニ社は、技師長として新進気鋭のジュステーノ・カッタネオが入って以降、“豪華なスピード車”というコンセプトでクルマづくりに励んで、特にアメリカへの輸出を意識したビジネスを展開していた。

世界大戦が終わって、これから会社が歩む道についてイソッタ会長、フラスキーニ社長、カッタネオ技師長の3人は話し合うことになり、弁護士の仕事が忙しい会長が、珍しく会社にやってきた。

この話し合いで最初に口を切ったのは、この会社の最高経営責任者であるフラスキーニ社長であった。

「イソッタ会長、今日はお忙しいところ、時間を割いていただき本当にありがとうございました」

「ここのところ、忙しくてな。
世の中には、トラブルの種は尽きないが、戦後になると一段と増えたような気がするよ。
ところで、君から話があるということなので、ここにやってきたのだが」

今日のイソッタ会長は上機嫌であった。

「今日は、これからの当社がどのような方針で、会社を経営しようとしているかについて、私たちが考えた構想を聞いていただこうと思っているんですよ。
それで、技師長をやっているカッタネオ君にも同席してもらうことにしたのです」と、フラスキーニ社長はカッタネオ技師長に話をつないだ。

「イソッタ会長さん、お久しぶりです。今日は僕と社長がここのところ話し合ってきた内容を説明させていただきますので、よろしくお願いします」という挨拶を述べた。

「カッタネオ君、わしはイタリアでも自動車がビッグビジネスになるに違いないというフラスキーニ社長の意見に賛同して、この会社に投資する決断をしたのは、今でも間違っていなかったと思っている。
実際、わしの名前を付けたクルマが、町を走っているのを見るのは嬉しいものだ。
ところで、戦争が終わってからは、弁護士の仕事が忙しく、自動車の方はフラスキーニ社長に任せっぱなしになっているが、実際はどうなんだね」

「アメリカ向けのビジネスは順調なのですが、はっきり申して、イタリアは戦後の不況の真最中で国内ビジネスは非常に苦しいのが現状です」

「ということは、うちの会社はアメリカに軸足を置くか、国内販売を補強するか、という路線問題に決着をつけなきゃいけないということか」

「会長、結論を急がないでください。
それでは、本題に入らせていただきますがよろしいでしょうか。
カッタネオ君、説明したまえ」


フラスキーニ社長から、イソッタ会長への説明を促されたカッタネオは緊張の面持ちで話し始めた。

「僕とフラスキーニ社長は、戦後のイソッタ・フラスキーニ社がどの方向を歩むべきかの路線問題に関して、この3カ月間議論を続けてきました。
最初の頃は、右に行ったり左に行ったり、いろいろありました。
しかし、2週間ほど前から、考え方がぶれなくなり、ある種の仮説が形成され、それが今では確信に変わっています。
それでは、われわれの結論から話を始めたいと思います。
これからのイソッタ・フラスキーニは、イタリア国内マーケットに大きな期待をしないで、アメリカ合衆国の高級車セグメントに集中すべきであるというのがわれわれの結論です」


その説明は自信たっぷりとしたものであった。
これを聞いていたイソッタ会長は、自分の意見そのものであり、3カ月間も議論してきたことが信じられなかった。

「それじゃ、さっきわしが指摘したとおりじゃないか。
わしは前からアメリカ市場で勝負すべきだという考えをもっているので、君の提案には何の異論もないが…」

「ありがとうございます。そこで、これからの…」と、話を続けようとしたカッタネオをイソッタ会長はさえぎった。

「そんな簡単なことを確認するために、わざわざわしを呼んだのか!」

その表情は、だんだんと怒りに変わってきた。
状況が悪化していると感じたフラスキーニ社長は、2人の会話の中に入った。

「会長が非常に高い見識をお持ちであることは分かっておりましたが、今日はもう一歩突っ込んで、どんなクルマをつくったらいいのかについてご了解をいただきたいと思いまして…」

フラスキーニが話を続けようと思ったら、イソッタ会長が話をさえぎった。

「どんなクルマがいいかって。
その答えは簡単だよ。
アメリカ人の金持ちが欲しがるクルマをつくればいいのじゃ」

「ですからそれがどんなクルマかという話を聞いていただきたいのです」

今日中に新車開発の決裁をもらわないと、明日からの仕事の段取りが変わってしまると必死のカッタネオ必死に食いついた。

「馬鹿者! それがどんなクルマかを考えるのは、君たちの仕事で、私は弁護士の仕事で忙しいのじゃ」

「自分たちが考えた新車の設計図ができていますので、只今から説明をいたします」

カッタネオを一瞥したイソッタ会長は、「わしはもう帰らなくてはいかん」と帰り支度を始めたのである。



3人の話し合いから1年ぐらい経ったら、世界大戦後のイソッタ・フラスキーニ社の主力モデルとなる“ティポ8”という豪華車がデビューした。
このクルマの排気量6リッターエンジンは、プロダクションカーとして世界初の直列8気筒構造で、最高出力は90HPを発揮した。

ティポ8は、同じ年のバリサロンでデビューした排気量6.2リッターの直列8気筒OHCエンジンを搭載した〈イスパノ・スイザ/モデル32〉に比べると、新技術という視点では見劣りがしたが、頑丈で耐久性に富んでいるという強みがあった。
ホイールベースが〈ロールス・ロイス/シルバーゴースト〉と同じ366センチのロングボディで、見栄えを気にする上流階級の人々には魅力的な存在であった。
数あるイタリアン・カロッツェリアたちはティポ8の巨大なシャシーに、豪華で美しいボディを架装して華やかさを競いあった。

世界大戦後の不安定な経済事情のため、大手メーカーのフィアット社と新興メーカーのランチア社が、プロトタイプの段階でV12エンジンの開発を断念したことが、イソッタ・フラスキーニ社には幸いして、イタリア製豪華車の代表として、ティポ8は独占的な地位を占めることができたのである。


この後、イソッタ・フラスキーニ社の経営構造は大きく変化することになった。
今まで会社の中心に位置して指揮を執っていたヴィンチェンツオ・フラスキーニ社長が急病で亡くなって、フラスキニーニとのコンビ解消に追い込まれたチェザーレ・イソッタ会長は、株式の売却を決意して、この会社との関係を絶つことになった。
こうしてイソッタ・フラスキーニ社は新しい経営者の手に委ねられるようになったが、技師長のカッタネオは会社にとどまり、職務を続行するのである。

(※20-24話【第740回】は、ここまで)


20-23.ランチアの歴史3~モノコックボディをまとったラムダ~

本日のブログ『クルマの歴史物語』はイタリアの名車“ランチアの歴史”の3回目の掲載であり「モノコックボディをまとったラムダ」とサブタイトルが付いています。
一方の、エスプラナーデ・レポートの方は、6回目の掲載となります。

ドロミテの山岳地帯を7日間連続して走破するという縦走コースの設計はフェロー社のオリジナルであり、日毎に代わる山々の景観と、シーズンを迎え咲き誇る高原植物の花々が魅力というのがうたい文句です。
このトレッキング・ツアーは、ホテルを出発し、その夜は山小屋で一泊し、翌日ホテルまで歩くというのが基本で、このパターンを3回繰り返しながら前に進みます。(最終日は日帰りとなります。)
このやり方は実によくできており、ホテルを出発する際には一泊二日分だけの荷物を担ぐだけですのでリュックは重くなりません。
ホテルに残した大きなトランクは、別便で次のホテルまで運んでくれるので、たいへん助かります。

現地集合した同行12人のトレッキング仲間は、いずれも登山経験が豊富な方ばかりであり、私がいちばんの弱者のように思われ、本当についてゆけるかと心配が頭をもたげてきました。
いよいよ縦走が始まりましたが、初日から連続した上りが続き、想定以上のハードさに戸惑いながらも必死に仲間について行き、大きく遅れることなく山小屋にたどり着くことができました。
2日目以降もかなりの高低差が連続して続き、脚力が充分でない私にとって厳しい時間が流れました。
それでも最終日まで何とかやり遂げることができたのは、次々に変化する美しい景観の魅力と、ツアーリーダーであるTさんの優れた指導力に他なりません。
ここでポイントとなるのは、一人も脱落者を出さないというTさんの巧みなリーダーシップがありました。
決して無理をせず、最弱者をすぐ後ろに付け、ゆっくりではあるが着実なステップを積み重ねるという的確な歩行スピードのおかげで私は脱落することなく、最終目的地まで歩くことができたのです。


20.世界大戦後のヨーロッパ


 ランチア社は、世界で最初となるモノコックボディをまとった新車ラムダをヒットさせた 


現在販売されているイタリア車のブランドはいっぱいある。
小型車中心のフィアット、スポーティカーのアルファ・ロメオ、ラグジャリーカーのマセラティ、そしてスーパーカーのフェラーリやランボルギーニなど、多彩なイタリア車が世界の道を走っている。

この他にもうひとつ、エレガントで個性的な高性能車として名を馳せているランチアも、イタリア車としては侮りがたい存在である。
現在はフィアット社の傘下にあるランチアであるが、独創性に支えられたクルマづくりで世界中に知られていて、創立者のヴィンチェンツォ・ランチアが直接指揮をとった黄金期のランチア社が送り出すクルマは、個性を重視した傑作車が多かった。


戦争中は他の自動車メーカーと同じく、軍用トラックの生産に追われたランチア社であるが、終戦に伴い過剰な設備と人員問題を解決するために、新しい仕事への転換を余儀なくされた。
この解決方法として、ランチアは大型の豪華車づくりに励むことにした。

世界大戦が終わってすぐに開発したランチア車は、排気量7.8リッターのV12エンジンを搭載する豪華車であった。
大戦後で混乱していたイタリア経済は立ち直る気配を見せず、この豪華車は市場から受け入れられることはないと判断して、完成直前で開発を止めてしまった。
その後、ランチア車は“カッパー”に代表されるミドルサイズの高級車を次々と市場に送り出し、着々と自動車メーカーとしての基盤を形成していった。


1922年秋に、ヴィンチェンツォ・ランチアの名を自動車技術史上不動のものとする〈ランチア/ラムダ〉が発表された。
このクルマには、排気量2.1リッターの革新的なV型4気筒OHCエンジンが搭載され、最高出力は50HPを発揮した。
それと同時に、自動車技術史上最初となるモノコックボディが採用された。

それまでのクルマが4つの車輪の上に、エンジン、サスペンション、ステアリング、制動装置などメインパーツ一式を組み込んだシャシーがあって、その上に外観の見栄えを良くするために木製または金属製ボディで覆うというやり方であったのに対して、モノコックという方式は根本的に異なるボディ形式である。
内抜き孔の空いたプレス鋼板を、強度が確保できるように箱型に積み重ねて組み立ててあり、そのボディに直接エンジンやサスペンションを取り付けるのである。


この時代より20年ほど前のイギリスのランチェスターにも似たような試みはあったものの、本格的なモノコックボディは〈ランチア/ラムダ〉が初めてであった。
ラムダのボディはツーリング・タイプの4人乗りセダンではあるが、モノコック構造のメリットを生かし、全長が437センチに対してホイールベースは310センチと長く、その一方で重量は1.1トンと大きなボディの割に軽くなっているので、最高速度は120キロを出すことができた。

〈ランチア/ラムダ〉は、イタリアではツーリングカーとして多くのファンに愛用されたが、その他のヨーロッパ諸国では優れた操縦性が買われて、アマチュアのスポーツカーとしてレースに参戦する人がたくさん出現した。
かなり価格は高かったが、発売してから8年の間で1万3千台の台数が世界中で愛用されたのである。



さて、日本には数多くの自動車博物館が存在している。自動車マニアのお金持ちが生涯かけて大好きなクルマを集めたコレクションを、自動車愛好家のために公開したのが、現在博物館になっているケースが多い。

そのような博物館のひとつが、石川県の小松空港のすぐ近くの二ツ梨町にある『日本自動車博物館』であり、わが国で最大規模となる約500台の自動車を陳列している。

この博物館をつくったのは、富山県小矢部(おやべ)市に本拠を置く前田彰三という実業家であった。
自動車が大好きで、第2次世界大戦後の日本で走り回った国産中古車を収集しているうちに、コレクションの対象が世界中に広がり、自分だけで楽しむのはもったいないと、1978年に博物館にして公開するようになったそうだ。


筆者がここを訪れた時に、正面玄関近くで出迎えてくれたのが、銀色に輝く〈ランチア/ラムダ〉だった。
初めて見た名車の美しさにハッと息をのんだことは、昨日のように覚えている。
あれだけ乗り物として完成度が高いクルマが、20世紀末から数えて4分の3世紀前に地球上に存在していたことが、信じられない思いを抱かせた。
読者の皆さんに、ぜひ日本自動車博物館を訪れ、伝説上の〈ランチア/ラムダ〉を目の当たりにすることをお奨めしたい。

(※20-23話【第739回】は、ここまで)


20-22.フィアットの歴史9~戦略の混迷~

8月7日にスタートを切ったブログ『クルマの歴史物語』の「4部 花開く自動車文化」の最初の章である「20章 世界大戦後のヨーロッパ」は本日を含めて残り3回となりました。
本日のメインコンテンツはフィアット、明日はランチア、明後日はイソッタ・フラスキーニのお話となります。
一方、9月に入ってから、サブコンテンツとしてエスプラナーデ・レポートを掲載していますが、その記載内容は一向にカナダにたどり着きません。

先回は、2008年12月に体験したニュージーランドのミルフォードトラック縦走トレッキングのお話でした。
それから2年間という年月が経過しました。
ミルフォードドラックを体験して、海外トレッキングの魅力にはまった私が次に選んだのは、北イタリアのドロミテ7日間縦走トレッキング・ツアーでした。
このツアーを主催するのはアルパイン社ではなく、フェロー・トラベルという旅行代理店です。
この会社はもともと海外スキー・ツアーを得意とする会社ですが、最近ではスキーができない夏の期間は海外(特に、ヨーロッパアルプス)トレッキング・ツアーに力を入れています。
案内パンフレットを詳細に見ると、ドロミテ7日間縦走トレッキングは、ミルフォードトラックより、かなりハードであることが分かりました。
そこで、脚力アップのためのトレーニングを開始し、これなら間違いなく走破できると自信を持った時点で夫婦そろってエントリーしたのです。

ドロミテ(ドロミーティとも呼ばれる)は北イタリアとオーストリアにまたがる山岳地帯です。
この地域一帯は石灰岩の一種であるドロマイトという鉱物でできているため、地球生成の長い年月を経ることによって、切り立った峰々が連続し、変化に富むと同時に厳しい表情を見せている自然環境が特徴となっています。
ドロミテ山群の最高峰はマルモラーダ山で標高は3,344mとさほど高くありませんが、奇岩が連続した景観の異様さは当地特有で、2009年にユネスコによって世界自然遺産の指定を受けています。


20.世界大戦後のヨーロッパ


 フィアット社は世界大戦前までのモンスター路線から一転して小型車に着目した 


イタリア北部の産業都市トリノで、イタリアで最初の自動車メーカーとしてフィアット社が設立されると、ジョヴァンニ・アニエッリという若さと野心をあわせ持つ経営者がリーダーになった。

創業3年後に、排気量10.6リッターという巨大なエンジンを載せたレース専用車を、イタリア半島の先端に位置するシチリア島で開催されるタルガフローリオに送り出すまでに成長したフィアット社のエンジンは、どんどん大きくなっていった。
そして排気量16.3リッターのオーバーヘッドバルブ(以下OHV)エンジンを搭載する〈フィアット/110HPゴードンベネット・コルサ〉を発表して、世界中の自動車愛好家の度肝を抜くのであった。

世界大戦に連合国軍の一員として戦うことになったイタリアで、フィアット社は国家的プロジェクトとして、粗鋼からの一貫生産体制を築くなどの拡張が続き、数多くの軍用車輌や航空機用エンジン、航空機そのものを国家に提供し戦争協力を惜しまなかった。
これら軍需品の生産を通じて大量生産と品質の向上を同時に満たす方法を身に付けることができたフィアット社は、戦争が終結する頃には大いなる発展を遂げていたのである。



フィアット社は終戦直後に、生産を中止したゼーロに代わる小型車の開発に取り組んで、排気量1.5リッターのティポ501を完成させた。
このクルマは、フィアット社として初めての4ドアサルーンで、最高速度は70キロを超えことができるというように性能が優れていた。

ジョヴァンニ・アニエッリ社長はティポ501を戦後の中心車種にするつもりであったが、中型車や大型車を軽視することはなく、フルラインの総合自動車メーカーとしての地位を築くことを方針とした。

次に、排気量6.8リッターというV12エンジンを搭載する高級車〈フィアット/スーパー〉を開発したが、期待していたアメリカで評判を得ることができなかった。
クルマのできとして考えたら、スーパーは決してライバルのイソッタ・フラスキーニに劣っていたわけではない。
それにもかかわらず、アメリカ人の間で人気が高まらなかったのはなぜかをアニエッリ社長は考え、原因はブランドイメージにあると答を出した。

高級車に欠かせないのは、それを所有する喜びであり、クルマが自分の存在を高めることになるという認識が重要であって、アメリカではロールス・ロイスやイスパノ・スイザ、あるいはイソッタ・フラスキーニがその役を担っていた。
このように考えて、高級車はフィアットの本領ではないことを悟ったアニエッリ社長は、スーパーに代わって、排気量4.8リッター直列6気筒エンジン車で大型ボディを持ちながら値段は特別高くないティポ519を開発するのであった。

(※20-22話【第738回】は、ここまで)


20-21.自動車の歴史:フランス編36~ヴォワザンの台頭~

今日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、フランス車としては新登場となるヴォワザンの登場ストーリーです。
本日は本文が大変長いので、サブコンテンツの掲載はありません。


20.世界大戦後のヨーロッパ


 住宅事業を諦めたヴォワザン社は、次に自動車をビジネスにすることを考えた 


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〈ガブリエル・ヴォワザン〉

世界で最初に空を飛んだ人間は、アメリカ人のライト兄弟であり、それは1903年12月のことだった。
ライト兄弟に2年9カ月遅れて、ヨーロッパで最初に空を飛んだのは、ブラジル生まれのサントスデュモンであった。
この後、ヨーロッパでの飛行機の普及には目覚しいものがあり、世界大戦が始まる頃には、航空機に関する技術ではアメリカを遥かに超える水準に到達していたが、ヨーロッパの航空機産業の発展に大きく貢献したのが、ヴォワザン社である。


兄ガブリエルと弟シャルルのヴォワザン兄弟は仲のよい兄弟だった。
2人は、ライト兄弟が初飛行をしたというニュースを聞いてから、取り付かれたように飛行機の研究に打ち込んだ。
まずグライダー、次いでエンジンつきのグライダーで実験を重ね、1907年3月に初飛行に成功した。
さらに翌年1月に、ヨーロッパで初めて1キロ無着陸飛行という偉業をなしとげた。
ヴォワザン兄弟は、飛行機づくりをビジネスにしたヨーロッパで最初の人物といわれている。
兄弟はヴォワザン飛行機会社を設立し、自分たちが製作した飛行機を、アンリ・ファルマンなどの飛行家に販売した。
仕事は苦労の連続だったが、兄弟は力を合わせて問題を解決し、これから発展期を迎えると考えていた時に、弟のシャルルが思いがけない事故で死んでしまった。


世界大戦の勃発とともに、ヴォワザン飛行機会社は急成長をとげ、生産総数は1万機を超えるまでになったが、戦争の終結と共に航空機の需要が急減するという事態を迎えた。
会社を維持するためには、新しい商品分野に進出しなくてはならない。
ガブリエルは新分野がどこであって、どんな商品をつくったらいいのかの模索を始めた。
戦争が終わったばかりで、戦時中に破壊された家が多く住宅需要が急増し始めていたので、住宅ビジネスに着目した。
この時代の家づくりは、石工や大工などの職人の仕事であり、職人を大量に採用することは不可能なので、専門家を必要としないプレハブ住宅事業を興すことを考えたが、職を奪われることを恐れた建築業者や職人の猛反発にあい、計画は頓挫することになった。



そんな時にガブリエル・ヴォワザンの所に、親友であるアンドレ・シトロエンから話があると連絡が入り、モンマルトルのいつものテラスで会うことになった。
どんなことかと興味津々のガブリエルに、アンドレが話しかけた。

「ガブリエル。久しぶりだね。元気に過ごしていたかい」

「戦争が終わって平和な時代に戻ったことは、フランス国民にとってはいいことだと思うが、われわれには厳しい時代になってきたね」

「まったくそうだ。アンドレの所では、砲弾の仕事がなくなり、どんな仕事をやっているのかい」

「とりあえず歯車の仕事で食いつないでいるが、それだけではダメなので、新しい仕事を探しているところなんだ」

「うちも同じで、飛行機の仕事はなくなってしまったので、住宅ビジネスをやりかけたところ、あちこちから強硬な反対の狼煙(のろし)が上がったので、白紙に戻ってしまったところなんだ。
君の方は、新しい仕事の目途がたってきたのかい」

「実は、自動車をつくろうと考えているのだ」。

「自動車というのは、随分畑違いの仕事なんだね」

「君に言ってなかったが、実はモールは私の会社なのだよ」

「へぇー、それは知らなかったよ」

「モールの経験を生かして、自動車ビジネスをやるつもりになって開発に着手したのが、排気量4リッターのスリーブバルブ・エンジン車で、既に設計は完了して試作車もできているのだ」

「それはすごいね。僕にも見せてくれないか」

「君も知っているように、私はベルトコンベア方式の流れ作業の砲弾製造で成功した。
最新のアイデアは、小型の大衆車を流れ作業で製造し、これを売り出すことなので、高級車の参入プランは宙に浮いてしまったのだ。
そこで、君に話があるというのは、私が開発した高級車のノウハウ一式を君に譲り渡そうと思っているのだ。
もちろん無料というわけにはいかないが、友達なので安くしとくよ。
興味はあるかい」

「アメリカ人のチャールズ・ナイトが発明したスリーブバルブ・エンジンで動く高級車ねえ。
構造が複雑だが、エンジン音が静粛になるというのが特徴と聞いているが、実際はどうなのだ」

「試作車の段階でも、エンジン音は相当静かになることは間違いない。
心配だと思うので、とにかく実物を見ることが先決だな。
善は急げだ。今からどうだい。場所はセーヌ河畔の砲弾工場だ」ということで、アンドレはガブリエルを案内することになったのである。

ガブリエルは、試作車を見るとすぐに気に入って、これを欲しくなり、譲渡価格もガブリエルが考えた相場より安かったので、すぐに話がまとまった。



アンドレ・シトロエンが開発に関わったクルマをベースにした、ヴォワザン社としての1号車となる〈ヴォワザン/C1〉は大戦直後に再開されたバリサロンでのデビューすることになったが、車名のCは、急逝した弟のシャルルのイニシャルである。
このクルマはアルミニューム製のピストンを採用した直列4気筒エンジンによって最高時速120キロに到達できるという高性能である上に、スリーブバルブの効果があってきわめて静かだった。

モデルC1はデビューするや、美男俳優として時代の頂点に君臨しているルドルフ・ヴァレンチノや、“褐色の女王”と呼ばれたアメリカからきた黒人ジョゼフィン・ベーカーなど社交界の名士たちに受け入れられ、たちまち人気車として踊り出たのである。

翌年のパリサロンでは、ヨーロッパでは初となるV型12気筒(以下、V12)エンジンを搭載した豪華車〈ヴォワザン/C2〉が展示されたが、このクルマはメカニズムに凝りすぎ、コストが高くなることが分かって、実際には市販されることはなかった。

1921年、モデルC1はパワーアップして“モデルC3”にモデルチェンジした。
ストラスブールで開催された翌年のACF・GPのツーリングカーレースに、特製ボディを架装したC3が4台出走して、優勝したばかりでなく3位までを独占して、その高性能ぶりを天下に知らしめることになったのである。

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〈ヴァワザンのブランドマーク〉

(※20-21話【第737回】は、ここまで)


20-20.自動車の歴史:スペイン編5~イスパノ・スイザH6~

ブログ『クルマの歴史物語』では、4部に入って最初の章である「20章 世界大戦後のヨーロッパ」にて、敗戦国ドイツの自動車産業、そして戦勝国フランスの自動車産業のストーリーが続いています。
次は、“スペインとスイス”という二つの国名をブランドに冠した高性能車を生み出してきたイスパノ・スイザのお話です。
一方、サブコンテンツであるエスプラナーデ・ストーリーは本日5回目を迎えます。

ご存じの方も多いと思いますが、ニュージーランドのミルフォードトラックは“世界で最も美しい散歩道”と称される有名なトレッキングコースです。
ここは、ニュージーランド南島のいちばん最南端に位置しているミルフォード・サウンド(湾)に至る4泊5日の縦走コースです。
この道を“ミルフォードトラック”といいますが、このコースを通ることによってツアー参加者はニュージーランド特有の手つかずの自然に触れることができるのです。
このトレッキングコースに参加できる人は、1日当りバス1台分の45名に限定されています。
したがって、ベストシーズンである11月~2月(南半球のニュージーランドでは夏の期間)には、ニュージーランド人はもちろん、世界中からエントリーが殺到して、予約をとることが実に難しいという現実があるのです。
何年も前から、ミルフォードトラック・ツアーを催行し実績を積み重ねてきたアルパイン社ですので、事前に日本人枠を確保できているようですが、それでも1回当りのツアー参加者枠は最大でも12~13名と、極めて少人数のチーム編成になってしまいます。

さて、今回サブコンテンツとして、カナダのエスプラナーデ・レポートをお伝えすることが私の本意ですので、ミルフォードトラック縦走ツアーの解説はここまでとします。
いずれにしても、世界中から集まったインターナショナル・メンバーと一緒に歩いたミルフォードトラックでの経験は、「素晴らしい!」の一言ではとても表せないほど、楽しい楽しい5日間でした。


20.世界大戦後のヨーロッパ


 マルク・ビルヒキトがスペインで開発した〈イスパノ・スイザ/H6〉の名声が確立した 


スペインとスイスという2つの国を意味する奇妙な名前のイスパノ・スイザ社は、創業者のマルク・ビルキヒトによってスペインで誕生し、フランスで成長した。
世界大戦中は航空機用エンジンの生産に全力をあげ、〔フランス+イギリス〕連合軍の勝利に大きく貢献した。

世界大戦後として最初のモデルとなる〈イスパノ・スイザ/H6〉は、終戦直後のパリサロンで発表されたが、このクルマには戦争で磨かれた航空機用エンジン技術が惜しみなく投入されていた。
最高出力135HPを発揮する排気量6.5リッターの軽合金製ブロック一体鋳造の直列6気筒OHCエンジンが搭載された上に、自動車技術史上初のサーボ付きの4輪ブレーキが採用されていた。
サーボというのは機械装置を操作する時に、その操作に連動する別の動力によって制御力が強められる機構をいい、ブレーキの場合、わずかなペダル踏力で大きな制動力を得られることができる優れた技術であった。
この新しいブレーキ技術には、ロールス・ロイス社も脱帽して、イスパノ・スイザ社から特許を取得して、同じ装置を装着することにしたほどである。

H6は高性能でありながら取り扱いが容易なので、休日に開催されるローカルレースでアマチュアドライバーが優勝することが度々あった。
フランスの有名な食前酒メーカーのデュボネ社オーナーのアンドレ・デュボネは、ブローニュの森でのレースでH6を運転して優勝を繰り返したので、“ブローニュ・イスパノ”というニックネームが付くほどの人気ぶりとなった。

このクルマはアメリカ合衆国でも評価が高かった。
アメリカを代表するスポーツカーである〈スタッツ/ブラックホーク〉と耐久レースを行ない、H6が圧勝したことが、アメリカ人に強い印象を与えたのであろう。
イスパノ・スイザ社は、H6に続いて“モデル46CV”や“モデル68”という傑作車を送り出し、高級車メーカーのポジションを固めていった。

(※20-20話【第736回】は、ここまで)