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21-20.自動車の歴史:イギリス編43~セブンの人気急上昇~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は「4部 花開く自動車文化」の「21章 ヨーロッパ車の個性化」の最終回となります。
明日から、「22章 GM社の再スタート」が始まりますので、この機会に「21章 ヨーロッパ車の個性化」を振り返ってみることにしましょう。
9月17日に始まった21章は、“レースの歴史:ヨーロッパ編”からスタートし、これが3話続きました。
その後は、“BMWの歴史”が3話、“オペルの歴史”が3話続いて掲載されました。
21章でのハイライトは6回連続の“シトロエンの歴史”シリーズであり、サハラ砂漠横断に続くアフリカ大陸横断冒険ツアーのストーリーには驚かされた方が多いと思いますが、本当にあった話です。

「21章 ヨーロッパ車の個性化」では、第一次世界大戦後のイタリアから始まって、ドイツ(BMWとオペル)、フランス(シトロエンとアミルカー)とストーリーを展開してきましたので、最後はもう一つの自動車先進国であるイギリス(MGとオースチン)のお話でした。
明日からは、舞台をアメリカ合衆国に移して、「22章 GM社の再スタート」が始まりますので、お楽しみに。

さて、ホテルでのエスプラナーデ・オリエンテーションは最後のテーマである支援体制に移ります。
エスプラナーデ・トラックを縦走できるのは、6月下旬から9月初旬に限られます。
この間、4日に1回、ヘリコプターが運行されますので、1年間でツアーは18回しか催行されません。
各ツアーに参加できる人数枠は最大12名ですので、1年間で216名しか、“天空のゲストハウス縦走トレッキング”を楽しむことができないのです。

縦走初日、私たちをサンライズ・ロッジまで運ぶヘリコプターは、メドウ・ロッジ、ビスタ・ロッジに立ち寄り、小分けした荷物を降ろします。
そして、縦走トレッキングを終えた5日目に、私たちを下山に導くヘリコプターは、各ロッジにおいてきた荷物を集荷してくれます。
この親切な仕組みのおかげで、縦走時の荷物は少なくできるのです。

ガイドのTさんによるエスプラナーデ・オリエンテーションを終えた私たちを待っていたのは、自宅から持ってきた全ての荷物を、当地に保管する旅行鞄、当日リュックで担ぐ荷物、メドウ・ロッジに運んでもらう荷物、ビスタ・ロッジに運んでもらう荷物に4区分に仕分けする作業でした。


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〈エスプラナーデのヘリコプターによる荷物搬送〉






21.ヨーロッパ車の多様化


 息子世代のエッジ・オースチンのかじ取りで、若者のハートをキャッチした 


1927年の3月、セブンの販売が絶好調で、一気にイギリス最大級の自動車メーカーに浮上することになったオースチン社の社長室を、息子のエッジが訪れた。

「お父さん、おはよう」

「エッジか、久しぶりだなあ」

「ここのところ、毎日セブンの生産に追われていて、たいへんなんだ」

「そうか、それで今はどれくらい生産できるようになったかな」

「昨年から、生産要請が急伸するようになり、今月もハイピッチの生産が続き、現在は日産145台体制が続いているよ。
実は、今日はちょっとお父さんに聞いてほしい話があって、ここに来たんだ」

「いったい、どんな話かな」

「うちがつくっているセブンの改造車が、最近田舎の自動車レースに出場していることを知っているかい」

「へー、それは知らなかったな。うちのセブンは実用車なので、レースには向かないじゃないかな」

「それが、けっこう強くて、この前なんか大きなクルマを蹴散らして優勝してしまったんだ」

「すごいじゃないか」

「それと、うちのセブンをベースにして、オリジナルデザインのボディをつくっている会社も出現しているんだよ」

「その話は、前に聞いたように思うな」

「オートバイ用のサイドカーをつくっているスワロー・サイドカー社を経営しているウィリアム・ライオンズという人が手がけているんだよ」

「それが、どうしたんだ」

「昨日、ロンドンでうちのディーラーをやっているバーティ・ヘンリーさんが僕の所に来て、セブン500台分のシャシーとエンジンを供給してくれないかという要請を受けたので、いったい何に使うかを聞いてみたら、これをスワロー・サイドカー会社に供給したいと言うのだ」

「そんな話なら、断ったらどうだ」

「お父さんなら、そう言うと思ったよ。
僕が、お父さんと話したいというのはその点なんだ。今年の1月に、ライオンズさんが発表した2座ロードスターの“スワロー・セブン”を見たけど、すばらしいデザインのクルマに仕上がっているのだよ」

「だから、どうなんだ」

「今は、確かにうちのセブンは売れまくっている。
年配者ばかりでなく若者たちもセブンを支持してくれているので、しばらくはこの調子で行くと僕も思っているが、移り気な彼らがいつまで今のセブンに興味を持ち続けてくれるかどうか不安があるのは正直なところだよ。
そこで、若者がどんなクルマに興味を持っているかをしっかり把握する必要があると思うんだ。
僕の意見を言えば、500台くらいのスワロー・セブンなら、難なく完売できるじゃないかな」

「エッジ、わしは自動車ビジネスを20年以上続けてきた。
この間、開発したクルマを数知れず。
どんなクルマも売り出す前は、必ず売れるに違いないと思ったものだが、実際、期待通りに売れたのは10車種のうち1車種もなかったよ。
だから500台のクルマが売れるとエッジが思っても、それは単なる願望に過ぎないんだ」

「だから、この話には乗るべきだと僕は思っているんだ。
だって、うちには何のリスクもないじゃないか。
スワロー・セブンが売れるようになれば、うちが次に取り組まなくてはならないセブンのモデルチェンジ車づくりの参考になるからね」

「そんなことをして、うちのセブンの売れ行きに悪い影響が出ないか」

「お父さん、僕は逆だと思うんだ。
セブンのエンジンをチューンアップしたり、新デザインのボディに改造するということは、セブンのエンジンとシャシーがいかに優れているかの証明に他ならないと僕は思うよ。
だから、うちの部品をスワロー社に提供したいんだ」

「わしにはエッジの言わんとすることが、よくわからんところもあるが、エッジがそうしたいというなら、それでいいだろう。
わしも60歳になってしまった。
いつまでも年寄りが会社をリードしていては、会社がだめになってしまうかも知れんからな」

「お父さん。最近、僕はクルマづくりがおもしろくてしょうがないんだ。
イギリスは、ドイツとフランスに遅れてガソリンエンジン車産業をスタートすることになったが、ようやく追いついてきた。
これからは国際市場を巡る競争で勝てるクルマをどうつくるかという、本当の国際競争時代を迎えている。
蒸気機関と鉄道技術で先行した誉れあるイギリスにとって、自動車分野でも世界のリード役を担う時期がようやくやってきたんだ。
イギリスメーカー各社が新しいクルマづくりに挑戦して、魅力あるクルマが次々と発表される。
これらのクルマがどんどんヨーロッパ大陸に輸出される。そんな時代がすぐそこにやっていると僕は夢見ているんだ」

「よかろう。夢を見るのは若者の特権だ。
わしの考えることは、ついつい守勢に回りがちだ。
これからのオースチン社の経営はエッジに委ねるので、しっかりやってくれよ」

「お父さん。僕を信頼してくれてありがとう。
お父さんの期待に応えるよう、がんばるからね」と、父を見つめるエッジ・オースチンの眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。

こうして、エッジ・オースチンとバーティ・ヘンリーの間で500台分のシャシーとエンジンに関する売買契約書が結ばれることになった。

実は、ウィリアム・ライオンズから提案のあったスワロー・オースチン車を、バーティ・ヘンリーが500台売り切る自信を持っていたのは、4人乗りサルーンの開発が条件になっていたからである。
ヘンリー社長から要請を受けたライオンズは、オリジナルセブンの欠点である室内の狭さを解決して、大人2人が乗れる後席を備える魅力的なサルーンの開発に取り組むことになった。

売買契約の半年後の1927年秋に、〈スワロー・セブン/サルーン〉が登場することになったら、たちまち人気商品となって、イギリス各地から500台を超える注文が殺到したのである。

(※21-20話【第760回】は、ここまで)


21-19.自動車の歴史:イギリス編42~イギリスでの大衆化~

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<ヘリパットから飛び立つヘリコプター(向こうに見える山がエスプラナーデ)>





ブログ『クルマの歴史物語』の「21章 ヨーロッパ車の多様化」では、第一次世界大戦後のイタリア、ドイツ、フランスでの自動車産業界の動きを記載してきました。
本章の最後を飾るのは、もう一つの自動車先進国であるイギリスの自動車産業の動きであり、既にMGを、そしてオースチンを取り上げました。
本日は、オースチンの2回目であり“イギリスでの大衆化”とタイトルされています。
大衆化は、もちろん自動車の大衆化の意味ですが、英語では“モーターリゼーション”と表現します。
地球上では、T型フォードの大ヒットでアメリカ合衆国がモーターリゼーションの先鞭をつけました。
ヨーロッパ大陸では第一次世界大戦後、経済が好調なフランスにおいて、シトロエン5CVがヒットすることで大衆化が一気に進展したのです。

一方、サブコンテンツのエッセイ「天空のゲストハウス縦走~カナダ・エスプラナーデ~」は、オリエンテーションの説明途中で中断しておりましたが、本日再開します。
ガイドのTさんによるエスプラナーデ・オリエンテーションは、エスプラナーデの位置、気候の説明が終わって、私たち参加者の最大関心事である縦走コース解説と支援体制に移りました。

メンバー11名にTさんを加えた私たちのグループに、ツアーコンダクターとしてKさん(40歳代のカナダ人女性)と、料理を作っていただくシェフのCさん(20歳代の中国系カナダ人)が合流し、合計14人となる一行は下山するまで行動を共にします。

明日(みょうにち)、私たちはキャンモアを出発してゴールデン郊外のヘリパット(ヘリコプターの発着場)から、ヘリコプターでサンライズ・ロッジまで登り、ここに2泊します。
次いで、サンライズ・ロッジからメドウ・ロッジまで歩き、ここで1泊します。
その翌日はビスタ・ロッジまで歩いてここで1泊するという4泊5日の縦走コースが私たちのターゲットであり、5日目にビスタ・ロッジからヘリコプターで下山します。
この間、エスプラナーデ・エリアには、私たち一行以外誰も存在していません。つまり、私たちは、この広大なエリアを占有することになるのです。


21.ヨーロッパ車の多様化


 ヨーロッパ大陸ではフランスに続いてイギリスでモーターリゼーションが始まった 


アメリカ車ハドソンを手本として開発したオースチン大型車は全くの失敗作であった。
いったんは万事休すと覚悟したサー・オースチンであるが、もう一度だけ勝負してみようと思い立ち、排気量1.7リッターの“モデル12”を急いで製作した。
そうしたら、ボア径と気筒数によって税額が決定される馬力税法が議会を通過したこともあり、小型車人気が急速に高まってきた。

これを追い風として、オースチンの新型小型車は起死回生のヒット商品となり、会社は危機を脱して一息つくことができた。
これで、自分のクルマづくりの方向が小型車にあることが確認できて小型車市場の開拓を真剣に考えるようになるのであった。
この頃、イギリスではサイドカー付きオートバイの人気が高まっていたし、モーガンの前2輪・後1輪の3輪自動車がよく売れていた。
単に移動するだけだったら、サイドカーや3輪自動車は安くて便利だが、危ない上に、雨でも降ったら大変である。

「これからの時代、普通のイギリス人にとって必要とされるのはサイドカー付きオートバイ並みの寸法で、4つの車輪で動く本物の自動車に違いない」とサー・オースチンは考えて、新しい小型車の開発に取り組みを開始するのであった。


自宅にこもって想を練り、スケッチを何枚も描いた。
基本構造ができ上がった段階で、いよいよ製図が必要になった。
この頃、自動車生産工場の現場責任者は、戦死した長男に代わる次男のエッジ・オースチンとなっていた。
工場からエッジを呼び寄せ、この仕事を担当させることにしたところ、新しいコンセプトをもつ小型車の設計図がだんだんできあがってきた。
正式名称を〈オースチン/セブン〉といい、後に“仲よし”の意味を持つ“チャーミー”というニックネームが付けられる小型車は、父子の共同作業で誕生した。

このクルマは排気量700ccの水冷4気筒エンジンを載せ、3速トランスミッションを経由して後輪に伝達されるFR構造が採用された。
264センチの長さと117センチの幅を持ち、道路占有面積3.1平方メートルという超小型車の重量は360キロしかなかった。
前部座席は2名分が何とか確保されているが、後部座席は大人が座ることは無理で子ども専用であった。
この小型車には、最新の電気式の警笛と、これまた電気式ヘッドライトが付いていた。
そして、ホロが付いていたので雨が降っても大丈夫だった。さらに驚くべきことに雨天用のワイパーまで付けられていたが、この時代は大型車でもワイパーはないのが普通だった。



モーリス社が1913年に〈モーリス/オックスフォード〉を売り出すことによって開拓した小型車市場を活性化し、大衆でも買うことができるように徹底した合理化が図られ、大量販売を狙ったセブンは、オースチン社の浮沈を賭けた製品となった。
このクルマは燃費がよく、庶民が維持することが負担にならない経済車で、225ポンドというように価格を安くつけたこともあって、売れ行きは上々であった。


上流階級の専有物と思われていた自動車の世界に〈オースチン/セブン〉が出現したことによって、イギリスでモーターリゼーションが始まった。
ここで“モーターリゼーション”という用語を使っているが、この言葉は日本語では「自動車の大衆化」と訳される。
大衆といわれる庶民が自動車を買えるようになり、自動車が生活に欠かせない移動手段として定着するようになることがモーターリゼーションである。

世界で初めてモーターリゼーションが始まったのはアメリカ合衆国で、この火付け役を担ったのがベルトコンベア生産方式で大量生産された〈フォード/T型〉であり、1910年代に入ってからのことであった。

ヨーロッパで最初のモーターリゼーションが始まった国はフランスで、世界大戦後に爆発的な自動車の大衆化が進むことになったが、この火付け役を担ったのは、排気量670ccの〈プジョー/クォドリレット〉と、新興のシトロエン社が生み出した排気量900㏄の〈シトロエン/5CV〉だった。
これらに対抗してルノー社は排気量950㏄の〈ルノー/6CV〉を製作するというように、フランスでは自動車メーカー各社が大衆車ビジネスに力を入れていた。

フランスに続いてイギリスでも、モーターリゼーションが始まった。
サー・オースチン設計による排気量700ccの〈オースチン/セブン〉は、大衆車としての要素を備えていて、爆発的なヒット作となった。

こうして、ヨーロッパにおける自動車の大衆化は大きく前進することになったが、これらのクルマは単に大型車を縮小したのではなく、新しい理念に基づく小型車像を確立したクルマばかりであった。

(※21-19話【第759回】は、ここまで)


21-18.自動車の歴史:イギリス編41~オースチンの悲劇と栄光~

ブログ『クルマの歴史物語』の9月4日号にて、わが国のトラックメーカー大手の日野自動車が、フランスの“ルノー”の組み立て事業を開始したのが昭和28(1953)年であると記しました。
時を同じくして、日野自動車のライバルメーカーであるトラック大手のいすゞ自動車は、フランスのルーツ・グループと提携し、“ヒルマン”ブランド車の国産化ビジネスをスタートさせました。
これら大手トラックメーカー2社は、その前年に日産自動車がイギリスのBMC(British Motor Company)社と契約を結び、“オースチン”ブランド車の国産化プロジェクトを発表したことに衝撃を受けたに違いありません。
海外の自動車メーカーと提携して乗用車づくりノウハウを身に付け、将来大きな市場形成が期待される小型乗用車ビジネス分野への参入を意図して海外メーカーとの提携に走ったのでしょう。

昭和27(1952)年、日産自動車はイギリスの大手自動車メーカーBMC社と契約を結んだことを発表しました。
その内容は、 “オースチン”ブランドのサマーセット2千台の部品を輸入して、日産自動車が組み立てるという“ノックダウン生産方式”によって、日産ブランドなく、オースチン・ブランドで販売するというものでした。
その後、昭和29(1954)年にモノコックボディをまとう1,500ccエンジン搭載のオースチン・ケンブリッジが開発されると、日産自動車のオースチンはケンブリッジに切り得られ、ノックダウン生産が継続されました。
日産自動車では輸入部品を順次日本製部品に置き換え、昭和31(1956)年からは全ての部品が日本製となり、オースチン・ケンブリッジの“完全国産化”は成し遂げられたのです。
この時代の日本では、純国産車づくりにこだわるトヨタ自動車とプリンス自動車が独歩路線を歩んでおり、当時まだ限られた乗用車市場の中で、激烈な販売競争が展開されていたのです。


21.ヨーロッパ車の多様化


 世界大戦中の戦争協力で国家に貢献したH.オースチンにナイトの称号が与えられた 


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〈ハーバート・オースチン〉

イギリスでのMGブランド誕生の続きは、オースチン社の話である。

20世紀の始めの頃、いったん渡ったオーストラリアからイギリスヘ戻ったハーバート・オースチンは、面倒を見てくれたフレデリック・ウーズレーの誘いを受けてウーズレー社に入社し、ここで企業家としての実力を磨き、総支配人にのし上がった。
ところが経営路線を巡ってウーズレー社長と意見が合わなくなり、ウーズレー社を離れた後に、幾多の変遷を経てオースチン社を設立した。


新発足したオースチン社の1号車は4気筒エンジンの20HP車であり、次は30HP車へ、さらには50HP車というように、だんだん大型化していったが、いずれも成功することはなかった。

この頃になると、オースチン社長は今までのやり方を反省し、小型車路線に転じることにし、排気量1.1リッターの単気筒エンジン車を開発した。
このクルマが発表されると、“ベビー”と呼ばれてロンドンっ子たちの話題になり、少しずつ人気が高まって年間で1千台を生産するまでに育ってきたので、さらに拡大の一歩を踏み出そうと考えていた時に、世界大戦が勃発した。

オースチン社は、工場の生産設備の全てを祖国イギリスのために提供し、弾丸や武器の製造に集中し、戦争に全面協力をした。
戦時中、愛国的なイギリス人はこぞって自分のクルマを国家に提供した。
これらは戦場で患者輸送や伝令に用いられ、このことがイギリス人の間に自動車の実用性を広く認識させる契機となった。


イギリスはドイツに勝利して、戦後の復興に向かうことになったが、この中心に自動車産業が位置付けられた。
オースチン社長にとって、この戦争は長男の戦死という悲惨な結果をもたらした。
その一方で、戦争中の軍需産業への貢献によりナイトの称号を授けられ、人々から“サー”という敬称で呼ばれることになるのである。
サー・オースチンは、長男を失った悲しみを忘れるように、政治家として生きることを考えて、選挙に立候補して国会議員に選出され、アメリカ製の大型車ハドソンを愛用するようになった。



政治の世界で活躍を始めたサー・オースチンは、決して自動車ビジネスを忘れたわけではなかった。
オースチン社は戦前モデルを継続生産していたが、これらのクルマでは売上の伸びは期待できないので、新しい時代にふさわしい新型車の開発に取り組むことになった。
この時、新車開発の参考にしたのはハドソンであり、これを愛用しているサー・オースチンは、戦後のイギリスでは大型車が売れるに違いないと信じ切っていた。
こうしてオースチン製の大型乗用車が誕生したが、すぐに失敗作であることに気がついた。

多額の新車開発費用をつぎ込んだにも拘わらず、注文はさっぱりで、たちまちオースチン社の経営は立ち行かなくなってきた。
戦争中の貢献でナイトとして祭り上げられ、有頂天になって政治に足を突っ込んだツケが、サー・オースチンに回ってきたのである。

(※21-18話【第758回】は、ここまで)


21-17.自動車の歴史:イギリス編40~MGの登場~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、イギリスの“MG”です。
MGというブランドはMorris Garageの略であり、本文を読んでいただければその意味するところがよく理解できると思います。

多くのクルマ好きの日本人(60歳以上者に限られますが・・・)にとって、MGには郷愁を伴う特別の思い出が浮かんできます。
日本が戦後の混乱時代から抜け出して経済の復興が進みつつあった1960年代後半から1970年代にかけて、昭和で言うと昭和40年頃から10年間ほど、日本の若者がアイビールックなど欧米のファッションに夢中になった時代がありました。
その時代は、わが国の自動車産業は勃興期から成長期に舵を切った時代であり、トヨタのカローラ、日産のサニーなどが人々の関心を引き、だんだんクルマが売れるようになってきたのです。
その背景として好調な経済を反映して急速に所得が向上し、わが国にもモーターリゼーション、すなわちクルマの大衆化が押し寄せようとしていました。

そんな時代にあって、スポーツカーを持つことは夢のまた夢の時代でしたが、ひときわ光り輝いていたのがイギリス製“MG”ブランドのライトウェイト・スポーツカーでした。
その1号モデルとなったのは1955年に売り出したMGAという1,600ccエンジン搭載のオープンカーでした。
このMGAは北米を中心に人気を博し、イギリス車としてはまれに見るヒット車になり、8年間で10万台が生産されたそうです。
このヒットで勢いづいたMGは、MGAの欠点を改良し、よりパワフルな1,800ccエンジンを搭載したMGBを開発し、1962年から売り出したのです。
2座席オープン使用が標準で、雨対策として布製の幌が付いていました。
個性あるデザインですが“かっこいい”魅力的な小型スポーツカーは、全世界から大きな支持を受けて、何と52万台を販売するという大ヒット商品に育つことになったのです。

しかし時代は移り、MGBの一番の市場である北米では、1970年代に入ると日本製のDATSAN 240Z(日産フェアレディ)などの価格が安くしかも高性能なスポーツタイプ車の評判が上がってきました。
これらの影響を受けて、あれほど高かったMGBの人気にも陰りが見えるようになり、とうとう1980年になると生産を中止してしまうのです。
皆さんもご存じのマツダ・ロードスターは1989年に導入され、再びライトウェイト・スポーツカーの世界を切り開きました。
マツダに続いて世界中のメーカー各社から新車が送り出された結果、その後イギリス製ライトウェイト・スポーツカーが復活することはありませんでした。

本日は、エッセイ「天空のゲストハウス~カナダ・エスプラナーデ~」の掲載はお休みです。


21.ヨーロッパ車の多様化


 C.キンバー支配人はモーリス・ガレージの頭文字をつけたMG車を生み出した 


〈MGのブランドマーク〉

『クルマの歴史物語 4部 花開く自動車文化』では、ここまでヨーロッパ諸国のうち、ドイツ、フランス、イタリアの自動車業界のようすを語ってきたが、次はもうひとつの自動車先進国であるイギリスでMGという新しいブランドが誕生する話となる。

イギリスオリジナルの自動車ブランドとして現代まで生き残っているのは、高級車ではロースル・ロイス、ベントレー、ジャガー、大衆車としてはヴォクゾール、ローヴァーがある。
この他には個性的な小型車のミニ、根強い人気があるスポーツカーのACなどいろいろあるが、MGはスポーティカーの代表ブランドとして、イギリス人ファンを掴んで離さない。

このMGは、モーリス・ガレージ(Morris Garage)のイニシャルからネーミングされたが、このブランドを生み出したのはセシル・キンバーという人物である。


ロンドン郊外で生れたキンバーは、印刷機械の製造業を経営していた父の仕事が落ち目になり、学校を卒業すると家業を手伝うことになった。
キンバーは小さい時から乗り物が大好きで、中古のオートバイを買ったのがきっかけになり、その魅力にとりつかれ、大好きなオートバイを乗り回しているうちに事故で大腿部を複雑骨折し、手術によって完治したものの右足が5センチも短くなってしまった。
事故の後遺症でオートバイに乗れなくなったキンバーは、今度は自動車レースを観戦するようになり、レースの興奮に取り付かれてしまった。

障害者の認定を受けたキンバーは、世界大戦に駆り出されることはなく、自動車部品メーカーで営業の仕事をするようになり、最大顧客である自動車メーカーのモーリス自動車会社(以下モーリス社)のウィリアム・リチャード・モーリス社長と知り合った。

ここで20数年間、時間軸を遡ることになるが、ウィリアム・リチャード・モーリスは、20歳になった時に、自宅で自転車の修理業を始めたことがビジネス生活の出発点となった。
モーリスは正規の技術教育を受けたことがないが、体験を通して技術スキルを身に付け、金銭感覚に優れたビジネスマンとして成長を続けた。

1912年に、マックルズフィールド卿という貴族に2万5千ポンドという大金を出してもらって、自分の名前を冠したW.R.M.自動車会社という自動車メーカーをオックスフォードに設立して以降、部品の供給業者を巧みに利用し、質のよい部品を安く仕入れることに奔走した。
そして、部品業者の生産方法にまで口を出し、コストダウンと品質の向上、そして納期の適正化に対する助言をした。
こうして誕生したのが〈モーリス/オックスフォード〉という排気量1リッターの2座小型車であった。

世界大戦後になると、会社名をモーリス社に変更して、業務拡張を図るべく取引業者のキーマンと幅広く付き合うようになり、有能な人材を見出すことに熱心なモーリス社長は、腕利きセールスマンのセシル・キンバーという青年が気に入り、自分の会社に来ないかと誘いをかけた。

こうして、キンバーはウィリアム・リチャード・モーリスの会社に入社することになったが、そこはモーリスが所有しているモーリス・ガレージ社という小さなディーラーだった。
ここで、モーリス車のディーラービジネスと自動車修理業をやることになったキンバーは、間もなく実力を認められて支配人に任命され、モーリス社長の期待どおりの有能ぶりを発揮した。

キンバーは、この会社で働いているうちに、若い時から興味を持っていた自動車レースへの関心がよみがえり、モーリス車をチューンアップしたクルマでローカルレースに参戦するようになり、めきめき頭角を現した。
オーナーのモーリス社長は、レースに無駄金を使うキンバーを最初は苦々しく思っていたが、やがて優勝を重ねるようになり、その結果、モーリス・ガレージ社の販売台数がウナギのぼりになると、文句をいうわけには行かず、好きなようにさせることにした。

1923年になると、〈モーリス/カウリー〉のシャシーに手を加えたオープンボディ車がキンバーの手によって誕生したので、このクルマの車名はモーリスではなく、自分のオリジナルであることを誇示するように“The M.G.”と付けて売り出すことにしたのである。

キンバーは、モーリス社長がレースを好ましく思っていないことを知っていたが、会社の業績を上げて、大好きな自動車改造とレース活動を続けさせてくれればそれでよかった。

(※21-17話【第757回】は、ここまで)


21-16.自動車の歴史:フランス編37~アミルカーの登場~

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〈“天空のゲストハウス”の一つビスタ・ロッジ〉





本日のブログ『クルマの歴史物語』は6回連続のシトロエン・シリーズが終了し、フランス車の新ブランドである“アミルカー”のお話です。
一方の、「天空のゲストハウス縦走~カナダ・エスプラナーデ~」の方は、カルガリーに到着したその日の午後、宿泊ホテルの会議室で始まったガイドのTさんによるオリエンテーションの内容をご案内しています。
最初にエスプラナーデの位置関係の説明があって、次はエスプラナーデの歴史に移りました。

今から35年ほど前まで、当地には手つかずの自然が残されていました。
この価値を最初に見つけ出したカナダ人アリソン・ダイキン氏は、ヘリコプターを使うレッキングコースをつくることを思い立ちました。
そして何度も現地調査を重ね、カナディアン・ロッキー山群のすばらしい景観、太古の時代そのままの美しい高山植物の花々、営々と命を繋いできた希少動物たちなど、エスプラナーデの魅力を多くの人に知ってもらいたいと考えるようになりました。
そしてダイキン氏は、当地に来ていただける友人たちが宿泊できる施設として“ゲストハウス”の建築を決意して、1986年にサンライズ・ロッジとメドウ・ロッジを、翌年にビスタ・ロッジを建てました。
正に、“天空のゲストハウス”の出現です。
それから20年たち、オーナーはジョン・ベル氏に代わりましたが、エスプラナーデ・トラックの、「太古の自然に一切手を加えない」という基本方針は不変であり、行き先案内版すら設置しないというように、自然保護は徹底されているのです。

次にオリエンテーションのテーマは、私たちにとって重大関心事であるエスプラナーデの気候に関する説明に移ります。
標高785mに位置するゴールデンのデータによると、7月の平均温度は17度ですが、標高2,000mを越えるエスプラナーデはゴールデンより5度以上低いのは当然として、真夏のこの時期であっても朝晩は0度近くまで冷え込む日があるとのこと。
ここで、注意が必要なのはエスプラナーデの緯度であり、日本列島のはるか北方のカムチャッカ半島の先端と同じ緯度53度に位置しているのです。
この点は私の認識が充分でなく、半ズボンなど夏服中心の準備をしてきたので、再度低温対策の必要性を考えさせられました。


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〈エスプラナーデの位置(緯度53度)〉





21.ヨーロッパ車の多様化


 ヨセフ・ラミーとエミル・アカーによって、小型車を得意とするアミルカー社が誕生した 


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〈アミルカーのブランドマーク〉

20世紀の始めの頃、フランスでサイクルカーというカテゴリーの自動車が流行したことがあった。
サイクルカーは、自転車に小型エンジンを載せたちゃちなクルマで、3輪もあったが多くは自転車を横に並べたような4輪車で、価格が安いというのが最大のセールスポイントとなっていた。

このような状況下、世界で最初に完成度の高いサイクルカーをデビューさせたのは、フランスのル・ゼーブル社である。
この会社は、世界大戦後に、排気量1リッターの直列4気筒エンジン付きの新型サイクルカーを発表したが、原価が高くなっているにもかかわらず、会社が期待する台数の販売ができなくて経営状態はしだいに悪化していた。

そうした時、自動車産業に進出しようと考えていたアンドレ・シトロエンがこのサイクルカーに目を付けた。
シトロエン社長は、遊休施設となってしまった砲弾工場を活用して、自動車をつくる計画を持っていた。
最初は、スリーブバルブ・エンジンを載せる高級車を考えていたが、高級車の競争は激しく、このクルマで勝つ自信が持てなかったので、小型車に進出した方が有利だと判断し、ル・ゼーブル社に着目した。
そして、この会社のジュール・サロモンという主任設計技師を引き抜いて、シトロエン車の開発を担当させることにしたのである。


一方、ル・ゼーブル社の大株主にヨセフ・ラミー(Joseph Lamy)とエミル・アカー(Emile Akar)という仲よしがいた。
2人は自分たちが投資しているル・ゼーブル社の経営に関して意見交換することが多く、経営者のやり方に不満を感じていた。

そこで、会社の内情を分析して、自分たちなりの仮説を立ててみた。

仮説の第一は、「ル・ゼーブル社が得意とする、車重350キロ以下の小型車には税金がかからないという税制上のメリットがあるので、フランスでは小型車の前途は洋々たるものがある」というものである。

仮説の第二は、「フランスには、安全性に問題が多いサイクルカーをつくる会社がいっぱいあるが、それらに比べたら、ここでつくられるル・ゼーブル車は、ジュール・サロモン技師のおかげで、業界の中では技術的にいちばん優れている」というものである。

第三は、これが仮説の中でも最も重要な点であるが、「第一点、第二点から判断して、ル・ゼーブル車はもっとたくさん売れてしかるべきであるが、それにもかかわらず売れないというのは、売り方が悪いに違いない」と結論付けた。

そこで、株主としての意見書を作成して、会社宛てに投函したが、これに対する正式な回答書を受け取ることがなかったので、2人は協議して資本を引き上げることにした。


これからのフランスでは、総重量350キロ以下の無税のクルマはもっと人気が出るに違いないと信じている2人は、新しい自動車メーカーを設立することにした。
新会社の名前をどうするかで話し合った。最初のアイデアは2人の名前を組み合わせるLAMY-AKARであった。
これでは呼びにくいので、最初のLを中間に移動してAMYLAKARとなったが、これでも読み難さは変わらないのと、KARはクルマを現すCARに変えることにして、最終的にAMILCAR(アミルカー)という車名を付ける会社が、フランスに誕生したのである。



最初にこの会社から生み出された小さなボディのクルマは、最低の税金ですむようにするために、車重が350キロ以下に抑えられていた。
乗車定員は2名であるが、横並びシートではなく前後に座るというスタイルの細長いクルマとなった。

1922年に、西部フランス自動車クラブは、排気量1.1リッター以下の市販車による400キロレースをル・マンで主催した。
このレースでワンツーフィニッシュを飾ったのはDOHCエンジンを載せた“サルムソン”というクルマであったが、アミルカーが3位と4位に入賞したことで、フランス人自動車愛好家の評価を獲得して、たいへんな宣伝効果があった。

アミルカーの初期モデルは、税金の安さを狙ったクルマばかりであったが、もう少しエンジンパワーがあり乗り心地が良ければ、小型車の税金を払ってもよいというユーザーからの声が多くなり、より大型のエンジンを積んで装備が充実した排気量900㏄車、3人目の乗客スペースを持つ1,000㏄車が誕生した。

これらの成果を集約して1924年に誕生したのが、1.1リッターンジンを搭載し、いかにもスポーツカーらしくハンドリングにすぐれたクルマで、アミルカーの中で最も有名になる “モデルC/GS”であった。
このクルマにはスーパーチャージャーつきの40HPタイプも用意され、そのうちの1台は1927年のモンテカルロ・ラリーで優勝を飾った。

フランス人に人気が高いアミルカーは、通算で1万5千台近く生産されたほか、イタリア、ドイツ、オーストリアでもライセンス生産されることになり、順調な経営が続いていたかに見えたが内情は火の車で、あっけなく倒産してしまった。

(※21-16話【第956回】は、ここまで)