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23-36.クライスラーの歴史12~プリマス車の誕生~

今日のブログ『クルマの歴史物語』は、「23章 クライスラー社の発進」の最終話です。
『クルマの歴史物語』の構成は、「1部 自動車の誕生」、「2部 自動車産業の興隆」、「3部 大量生産の始まり」、「4部 花開く自動車文化」というように進行して来ました。
4部に入ってからは、「20章 世界大戦後のヨーロッパ」、「21章 ヨーロッパ車の多様化」、「22章 GM社の再スタート」というように続いて、「23章 クライスラー社の発進」となっています。
昨日まで35のストーリーが週5回ペースで、本ブログに掲載されてきましたが、本日の“プリマスの誕生”をもって、23章は終了いたします。


23.クライスラー社の発進


 GM社に倣ったクライスラー社は、プリマスとデソートという新ブランド車を導入した 


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〈プリマスのブランドマーク〉

1929年はウォルター・クライスラーにとって大変革の年となった。
ダッジブランドの買収に加えて、新たに4気笥エンジン車ラインを担当する“プリマス”ブランドを付けた新車の市場導入に踏み切ったのである。

プリマスとは農民に人気がある撚りひものことである。
農民は低価格車にとっては重要な顧客層であるため、ウォルター・クライスラーは、新ブランドとしてこの名前を選択した。

ところが、同じスペルのプリマスは、清教徒たちが、アメリカ大陸を目指してメイフラワー号でブリテン島を出港した港町の名前であり、北アメリカ大陸の東海岸に到着した土地の名前に、自分たちの志を忘れないようにとつけた地名でもある。


クライスラー社の宣伝部は、プリマスの地名に着目して宣伝を大々的に打つことにし、「アメリカで最初のヨーロッパ系住民である清教徒たちが持つ忍耐力、神に対する正直な心と進取の精神、何ごとも最後までなし遂げようとする堅い決意、古い因習からの解放」をシンボル化するブランドがプリマスであることを人々に訴えて、ディーラーの店員はショールームの新車を見に集まった人々を清教徒の衣装をまとって出迎えた。

宣伝だけでなく、4輪油圧ブレーキ、アルミニューム合金製ピストンなど、プリマスにはライバルに対していくつか技術的な訴求点があった上に、価格が650~750ドルとそれほど高くなかったので、出だしから人気は高かった。

ダッジの買収とプリマスブランド車の開発によって、クライスラー社は、下から順に、大衆車のプリマス、中間価格帯のダッジ、ハイクラスのクライスラーというように3つの価格帯別ブランド戦略をとることにしたが、これはGM社のやり方から学んだものである。


フォードがT型で独占している大衆車市場に、アルフレッド・スローンという新しいリーダーによって躍進を始めたGM社がシボレーブランドで積極攻勢をかけ始めた。
その直後に、クライスラー社がプリマスブランドで大衆車市場に新規参入したのだから、人気雑誌『タイム』やビジネス雑誌各社が大衆車戦争の話題を取り上げることになった。

こうしてクライスラー社のプリマスは有名になり、クルマの売れゆきは好調を続け日産1千台ベースに達し、年間販売台数が初年次6万6千台というように将来に期待を抱かせた。

ウォルターの拡大戦略は、ダッジ兄弟社の買収、プリマスブランドの開発だけに留まらなかった。
今度はプリマスとダッジの中間クラスを担うブランドとして、6気筒エンジンを搭載する“デソート”というブランドを開発した。

これに伴って、べーシックのプリマス、ローコスト・スペシャルテイのデソート、中間価格帯で豊富なバリエーションをもつダッジ、そしてアッパーミドル&プレミアム・ラインのクライスラーという充実したラインナップが形成されたのである。

クライスラー社の売上は上昇し続け、1926年にはアメリカ自動車業界で、5位のポジションを獲得し、翌年には販売台数20万台を記録し、4位にのしあがるのであった。

(※23-36話【第822】は、ここまで)



23-35.クライスラーの歴史11~ダッジ社の買収~

今日は月曜日ですので、金曜日まで5日連続で『クルマの歴史物語』の記事を更新いたします。
それにしても、毎日このブログを開いていただいている読者の方々には何とお礼を申して良いのか、頭が下がります。
こうした皆さんがいらっしゃるから、著者としてもやりがいを感じておりまして、当面するカウンターの10万突破だけは何としてもやりたいと願っています。

さて、ブログ『クルマの歴史物語』の「23章 クライスラー社の発進」は、昨年12月2日に“フォードの歴史”の35回目となる記事が掲載されました。
その後、“フォードの歴史”が8回、次いで“GMの歴史”が2回掲載されました。
23章の11番目のストーリーとなるのが“レースの歴史:アメリカ編”であり、第一次世界大戦終了直後の1919年開催のインディ500レースのお話でした。
以降、毎年開催のインディ500ストーリーが6回連続で掲載されました。
その後が、本章の主題であるクライスラー社の創業に至るお話で8回掲載されました。
こうして進行してきた「23章 クライスラー社の発進」は、リンドバーグの大西洋横断飛行を含め、1920年代のアメリカ自動車産業のトピックスを掲載してきました。
本日23章としては35回目となる“クライスラーの歴史”の11回目であるダッジ社の買収ストーリーを掲載いたします。


23.クライスラー社の発進


 創業者兄弟を相次いで失うことになったダッジ兄弟社はクライスラー社の傘下に入った 


デトロイトで機械の腕なら誰にも負けないと自負していたジョンとホレイスのダッジ兄弟は、フォード社などの自動車メーカーにエンジンやトランスミッションなどのメインパーツを提供する業者として成功を収めていた。
ところが、最大の納入先であるフォード社が、自社生産に切り替えたため、部品メーカーから自動車メーカーへの変身に取り組むことになった。


兄弟が開発した車は、“ディペンダブル・ダッジ(信頼のダッジ)”と呼ばれるようになるなど、機械としての高い信頼性で人気を集めて、ダッジ車の売上げ台数は、一時はフォードに次ぐ2位を狙えるところまで育っていた。


この頃、ダッジ兄弟社はフォード社との間で、株式問題のトラブルによる訴訟問題が発生した。
この問題はなかなか解決しなかったが、最終的にダッジ兄弟が持っている株式分として、フォード社は2,500万ドルを支払うことになった。

裸一貫からアメリカ有数の自動車メーカーに育て上げたジョンとホレイスのダッジ兄弟であるが、肺炎のためジョンが亡くなると、その後を追うように数カ月のうちにホレイスもこの世を去ることになった。

創業者であり、経営トップであり、同時にチーフエンジニアでもあったダッジ兄弟を失ったダッジ兄弟社は、経営維持が難しくなり、銀行団が管理する会社になってしまったのである。

アメリカ自動車業界の成長株として、熱い視線を集めているウォルター・クライスラーに、銀行団がダッジ兄弟社買収の案件をもちかけたところ、総額5,600万ドルでクライスラー社が買収する交渉がまとまったが、この買収劇を世間は、「かえるが蛇をのんだ」と評したのである。

こうしてダッジ兄弟社は、1928年夏にクライスラー社のダッジ事業部に編入され、ミドルクラス乗用車と商業車を担うラインを担当することになった。

(※23-35話【第821回】は、ここまで)


23-34.自動車の歴史:アメリカ編48~人気のパッカード~

本日のブログ『クルマの歴史物語』の主役を担うのは、禁酒法時代のアメリカ合衆国シカゴで、勇名を馳せたギャングのアル・カポネです。
なぜ、そんな男が『クルマの歴史物語』の主役となったかは、本日のストーリーを読んでいただければお分かり頂けると思います。


23.クライスラー社の発進


 ヘンリー・ジョイが指導した〈パッカード/ツイン6〉が高級車市場を切り開いた 


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〈シカゴ暗黒街の帝王アル・カポネ〉

ジェームス・パッカードによって創業されたパッカード社は、資本家のヘンリー・ジョイが乗り込んで以降、V12エンジン搭載の〈パッカード/ツイン6〉を送り出す高級車メーカーに変身した。

ウッドロー・ウイルソンとウォーレン・ハーディングという2人の大統領はこれを公用車として愛用していた。
中でもハーディングは、大統領就任式のパレード用に新時代の到来を象徴するクルマとして〈パッカード/ツイン6〉を選択したのである。


1920年からアメリカ合衆国全土で実施された禁酒法は、稀代の悪法として歴史にその名をとどめている。
法制定の趣旨から行けば、酒を飲む人は少なくなるはずであったが、実際はその逆で法の網をくぐり、外国から密輸されたり、アメリカ国内の暗黒地帯で、アルコールに着色料で色をつけただけという密造酒が製造され、酒は大きな闇産業になってきた。

この法律の制定によっていちばん喜んだのはギャングたちで、法の網をくぐって密造酒を大量に販売して巨利を得るようになった。
とりわけアメリカ大陸の中央部に位置し、禁酒法のないカナダとも近い大都市シカゴでは、縄張りを拡大するために多数のギャング団が覇を競うようになったのである。

シカゴのイタリア系ギャング団を仕切っているジョニー・トリオに呼ばれ、アル・カポネがニューヨークから、この街にきたのは23歳の時だった。
トリオの用心棒として、冷徹に行動するカポネは、次々にライバルたちを蹴落として、やがてシカゴ暗黒街では誰知らぬ者もいないほどの存在感を発揮するようになってきた。

トリオ一家の最大のライバルはアイルランド系ギャング団のオバニオン一家であり、カポネはこの全滅をたくらんだ。

1929年の聖ヴァレンタインデイの日の朝、オバニオン一家の7人は、トラックいっぱいの密造酒が運び込まれるのを監視していたところに、制服の警官が現れた。
ギャングたちは、いつもと同じように警官との馴れ合い劇が繰り広げられると考えていた。
警官たちに少しドル札を握らせれば直ぐに終わるとタカを食って、指示に従って両手を挙げて壁に向かって並んだ。

そこに静かにダークスーツに身を包んだ男が現れ、いきなり機関銃を乱射しオバニオン一家全員を射殺して、待たせてあったパッカードに乗って逃げ去った。
これが後に“聖ヴァレンタインデイの虐殺”と名付けられる、カポネによるオバニオン一家皆殺しの現場であり、カポネはシカゴの暗黒街を制圧したのである。

この聖ヴァレンタインデイの虐殺のようすは、1959年にビリー・ワイルダーが監督して、マリリン・モンローが主演した映画「お熱いのがお好き」で再現されているので記憶がある読者もいることと思うが、この映画は、AFI(American Film Institute)が選んだ「20世紀のアメリカ映画ベスト100」では、14位にランキングされている。

この虐殺の後、カポネはシカゴ中で営業している1万軒のもぐり酒場を支配した。
配下のギャングは700人を越え、警察内部にも自分たちのネットワークを築き上げたので、当局は暗黒街の帝王に手出しできなかった。
のちに“マフィア”と呼ばれる大がかりなイタリア系犯罪組織は、アル・カポネから始まったといってもいい。

ギャング団は勢力拡大と生き残りを巡って、抗争を繰り返していたため、いつも武装したリムジンに乗っていた。
ギャングたちにとってのクルマ選びは命がかかっているだけに真剣である。
そのギャングたちがいちばん愛用したのは〈パッカード/ツイン6〉だった。

なにしろ逃げ足が速く、他のクルマでは追い着くのが無理だった。
それと、どんな時でもエンジンは一発でかかり、故障することはなかったから、絶対の信頼性があった。
ギャングを追いかける警察や保安官もまた〈パッカード/ツイン6〉が多かったという。

(※23-34話【第820回】は、ここまで)


23-33.飛行機の歴史15~英雄リンドバーグの栄光~

今日のブログ『クルマの歴史物語』は、リンドバーグによる大西洋横断飛行の成功ストーリーの4回目であり、最終回となります。


23.クライスラー社の発進


 世界初の大西洋無着陸飛行に成功したリンドバーグは、アメリカ人の英雄になった 


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〈ヒーローとなったチャールズ・リンドバーグ〉

5月21日、フランス時間の午後10時24分、セントルイス号はパリ郊外のル・ブールジェ飛行場に着陸した。ニューヨークを飛び立って大西洋横断無着陸単独飛行を、33時問32分で成し遂げた歴史的な瞬間であった。

ホッと胸をなでおろし安全ベルトを外したリンドバーグは、数え切れない群衆が安全柵を乗り越えて、滑走路に降りたったばかりの自分の飛行機に向かって駆け寄って来るのを見て驚いた。
いったい何ごとが起きたのかと訝りながら飛行機から降りたったら、フランス人群衆に取り囲まれて、もみくちゃにされることになった。


「空港管制官は、どこにいますか」と英語で声をかけたリンドバーグに、まともに答えようとするフランス人はひとりもいなかった。
人々は興奮しまくって、リンドバーグの身体に触りながら叫んでいるが、リンドバーグには何が起こっているのかまったく分からなかった。

そのうち、後ろの方で歓声が上がったので振り返ってみると、セントルイス号を取り囲んだ人々が機体から部品を引きはがし始めているではないか。

この段階になって、この群集はアメリカから飛んできた飛行機とパイロットを一目見ようと集まってきたに違いないと気が付いたが、後の祭である。
リンドバーグが、「止めろ」と叫んでも、その声は興奮した群集にまったく届かず、今度は「警官を呼んでくれ」、「だれか英語を話す人はいないか」と大声を上げたが効果がなく、興奮と混乱にかき消されてしまった。

パリに到着した瞬間から、チャールズ・リンドバーグは一介の郵便飛行士から国際的な名士に生まれ変ることになった。

フランスでは歓迎式典が何回も行われた。

イギリスでは国王ジョ一ジ五世から招待を受けバッキンガム宮殿を訪問した。

アメリカ海軍がリンドバーグと愛機セントルイス号を祖国アメリカ合衆国へ帰還させるために特別にヨーロッパまで派遣された。


合衆国に帰国したリンドバーグは、アメリカ人の英雄として祭り上げられた。

ニューヨークの五番街での凱旋パレードは凄まじかった。
高層ビルの窓という窓は、リンドバーグを一目見ようという人々で溢れかえり、ばらまかれた紙ふぶきはニューヨークの街を真っ白に変えてしまった。

首都ワシントンではクーリッジ大統領が出迎え、歓迎式典の模様を伝えるラジオには3千万を超える人々が耳を傾けた。
リンドバーグの勇姿を見たいという人々の要請を受け75都市で熟狂的な歓迎パレードが行われ、アメリカ中がリンドバーグ人気に沸き立ったという。

(※23-33話【第819回】は、ここまで)


23-32.飛行機の歴史14~シトロエンのネオンサイン~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、月曜日から始まったリンドバーグによる大西洋横断飛行ストーリーの3回目となります。
本日は、サブタイトルに“シトロエンのネオンサイン”と記されているので、リンドバーグ・ストーリーと『クルマの歴史物語』の関係の謎が、ネタばれしてしまいました。

さて、クルマと飛行機の技術には共通項がたくさんあります。
その代表がエンジンであり、第二次世界大戦頃までは、航空機用エンジンといえばガソリンエンジンが普通でした。
従って、航空機をつくる会社が自動車をつくるケース、その逆で自動車メーカーが航空機をつくるケースも多々ありました。
前者の代表がイタリアのフィアット社で、日本でフィアットといえば小型車のイメージが強いのですが、この会社の実態は重工業メーカーであり、航空機も作っています。
後者に関する新しいニュースとして、日本のホンダが小型ビジネスジェット機を開発して話題になったばかりです。
この辺を詳しく調べた岡部いさく氏は、二玄社から『クルマが先か? ヒコーキが先か?』という本を出版しましたので、興味がある方はお読みください。


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〈「クルマが先か?ヒコーキが先か?」の表紙〉













23.クライスラー社の発進


 パリまで飛んできたリンドバーグが最初に見たのは、CITROËNの文字だった 


再び太陽が沈んで夜の闇が訪れてきた。
燃料計を見るとガソリンは200リッター以上残っていることが分り、これから先は300キロほどだから100リッターもあれば充分だと胸をなでおろした。

そろそろ陸地に入ったはずだと目を凝らしていたら、ぽつりと人家の明かりが見えてきた。
ついにヨーロッパ大陸までやってきたのだ。
時計を見ると、午後の9時を過ぎたばかりだから32時間飛行したことになる。

この頃になると雲ひとつない好天に恵まれて、上空から集落の明かりがよく見え、大西洋上で幻覚と戦ったのが嘘のように気力が充実してきた。


やがて、明かりのかたまりが前方に見えてくると、いよいよ目的地であるパリに近づいていることに確信を持った。
パリの街はセントルイスに比べるべきもなく巨大だった。
縦横に設けられた道路には街灯がこうこうとついていて、所々に自動車が走っているのが上空からよく見えた。

中心地が近づいてきたら、明かりが空中に向かって縦に伸びている不思議な景色を捉えた。
それがいったい何かが最初は分からなかったが、エッフェル塔に取り付けられたたくさんの電球で輝く巨大なアルファベットであることに気が付いた。


いちばん上の文字はCで次がI、その下がTであることが分ってきた。
さらに近づくと、4つ目がR、その下がOとE、いちばん下がNである。
文字を続けるとCITROENと読めたが、リンドバーグにはその意味が分からなかった。

地図で確認すると、エッフェル塔からパリ郊外のル・ブールジェ飛行場まではそれほど遠くない。
残りの燃料は100リッター以上あるので大丈夫だ。

最後の難関は着陸であるが、ニューヨークを飛び立ってパリに向かったという情報は、ル・ブールジェ飛行場に伝わることになっていたので、着陸がしやすいように準備をしてくれているに違いない。

そろそろ飛行場が近いと思っていたリンドバーグは、前方にサーチライトが何本も交叉しながら、空中を照らしているのに気が付いた。
さらに近づくと、飛行場の滑走路がライトによって明るく照らされていた。

今日は特別なイベントがある日かも知れない。
こんな中で降り立つのは、気が引けるが、ここで着陸しないと燃料がなくなってしまうので、勇気を出して高度を下げ、こうこうと明かりが灯る滑走路にむかって着陸態勢に入った。

(※23-32話【第818回】は、ここまで)