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24-22.ボルボの歴史4~トラックの成功~

本日、読者の皆さんに嬉しいご報告がございます。
本ブログの右サイドのカウンターの数字をご覧ください。
95,000を超える数字が示されていて、累計読者総数は目標としてきた100,000まで残り5,000を切りました。
まだまだ『クルマの歴史物語』は4部が続いていますので、何が何でも10万の大台突破を願っていますので、皆さんの応援を宜しくお願いする次第です。
さて、本日のブログ『クルマの歴史物語』は、4回連続の“ボルボの歴史”の本章での最終回となります。
同時に、本日をもって「24章 ヨーロッパ車の個性化」は終了することになり、明日から「25章 レースでの競い合い」が始まります。

本日は、サブタイトルにもあるように、ボルボの自動車づくりで最初に成功を収めたトラックに関するお話です。
寒冷地のスウェーデンにおいて物を運ぶ役割を担うトラックに期待される性能の第一は、頑丈であることにつきます。
その点、世界で一番頑丈で長持ちするボルボ製トラックは、スウェーデン国内ばかりでなくヨーロッパ各地で評価が定まり、大きな輸出産業に育ってゆきました。
今日ヨーロッパ最大最強のトラックメーカーはダイムラー社と並んでボルボ社となっています。
乗用車のボルボに関しては、前号までに記したように経営権がアメリカのフォード社に、さらには中国の投資企業に移ってしまいました。
その一方で、トラックメーカーとしてのボルボ社は現在でもスウェーデンを代表するメーカーとしてゆるぎない地位を維持し続けています。
現在のボルボ社は、ボルボ・トラック、ルノー・トラック(フランス)、マック・トラック(アメリカ合衆国&カナダ)、UDトラック(日本)というグローバル・メーカーに育っています。
さらに、建設機械なども擁する巨大企業グループであり、トラックから軍用ジェットエンジンまでを網羅するコングロマリットとして注目を集めているのです。


24.ヨーロッパ車の個性化


 スウェーデンの国情に合ったボルボはトラックの成功で着実な第一歩を踏み出した 


ラーソンとガブリエルソンが共同で作成したSKF社の自動車ビジネスに関するフィージビリティ・スタディは、ガブリエルソンを通じて経営陣に披瀝されることになった。
そのうちに新規ビジネスに強い関心を示す社長から自動車ビジネスへの参入問題に関して、役員会で正式に議決手続きすることが知らされた。

役員会が始まり、ガブリエルソンによって説明がなされた後に、活発な意見が交された。
この日の結論として、試作車をつくって完成度を見てから、本格的に自動車工場を立ち上げるかどうかを改めて決議することになった。

自動車ビジネスへの参入を一気に決議して欲しかったガブリエルソンにとっては不満の残る結論であったが、ラーソンは自分がリーダーとなる試作車チームの設置を決めてもらったことで、やる気満々となった。

1924年の夏が終わるとラーソンと若いエシジニアたちの手によって、グスタフ・ラーソンの頭文字である“GL”とネーミングされた試作車の開発が始まった。

最初の試作車3台が完成したのが、役員会での議決から1年半が経過した後のことであった。

SKF社の役員たちによって試乗が繰り返された結果、役員諸氏は自動車ビジネスの成功を確信するようになった。
そして、休眠中の子全社“ボルボ”をブランドとする自動車ビジネスを、35歳のアッサル・ガブリエルソンが総支配人、38歳のグスタフ・ラーソンがチーフ・エンジニアという布陣で、本格的に立ち上げることが正式に議決されたのである。


スウェーデンの春は遅い。
1927年4月に入って2週間ほど経った日の朝、夜を徹しての作業の末、排気量1.9リッターの水冷直列4気筒エンジン搭載の5人乗りオープン車で“OV4”とネーミングされた1号車が完成した。

その1号車を試乗しようとして、エンジンをかけて恐る恐るアクセルをふかすと、車は後ろ向きに動き出してしまった。
この原因を調べてみたら、ディファレンシャルギアの取り付けが間違っていて、後退3段・前進1段になっていた。
これを見ていたラーソンは「馬のお尻をフロントにつけてしまったね」と冗談を言っただけで、すぐに手直しをして、今度は間違いなく前進を始めたのである。


オープンモデルの〈ボルボ/OV4〉と屋根付きの〈ボルボ/PV4〉が正式に発表されると、アメリカ車のような柔らかい曲線デザインからほど遠く、ルックスが悪かったので、良い評判が得られなかった。

翌年になると、ボンネットを延長しスタイルの改善に努めたものの、売れ行きは鈍く、期待どおりの生産台数に達しなかった。

スウェーデン最初の自動車事業は早くも行き詰まるかに見えたが、乗用車と並行して開発を進めてきたトラックの販売が好調で、工場はだんだん忙しくなってきた。

1929年4月に、6気筒エンジンを搭載する5人乗りモデルの1番目を意味する〈ボルボ/PV651〉という排気量3リッターの新型車は、国内販売で好評を得るようになったので、フィンランド、ノルウェー、デンマークという北ヨーロッパ諸国への輸出が開始されるのであった。

(※24-22話【第844回】は、ここまで)


24-21.ボルボの歴史3~ボルボ車の試作~

本日のブログ『クルマの歴史物語』、ボルボの歴史シリーズの3回目です。

一方のサブコンテンツとして、フォード社の日本市場撤退の話が続いています。
昨年アメリカ合衆国フォード本社のCEOに就いたマーク・フィールズ氏は決断の人です。
マツダ時代に日本市場の特異性を学んだこともあって、今まで通りのアメリカ流では日本市場での成功は不可能と判断したことでしょう、
実際、フォードの2014年度の世界販売台数約630万台のうち、アジア太平洋地域では約140万台を売っています。
この内、実に約110万台を中国で販売しているという現実の中で、1年間で僅か5千台しか販売できない日本市場に固執する理由が見いだせなかったことでしょう。

現実に5,000台を50の営業拠点で販売すると、1営業拠点当たり年間100台となります。
1台あたりの平均販売価格が300万円とすると、1営業拠点当たりの売り上げは3億円しかありません。
ディーラーの荒利益率を20%とすると営業総利益は6,000万円となり、この金額で1年間の店舗運営費用、人件費(セールス、整備、経理総務など)等の経費を賄うことができるとは私にはとても思えません。
しかも、コンパクト車のフィエスタとエコスポーツ、中型車のフォーカスとクーガ、大型車のエクスプローラーとマスタングという車種構成ではお客を呼べませんし、マスタング以外に収益性が確保できるクルマが見当たらないのです。
こうしてみると、フォード社が日本撤退を決めたことは、経営資源の集中化という鉄則に従った妥当な結論だと私には思えるのです。


24.ヨーロッパ車の個性化


 スウェーデンを代表するブランドのボルボはベアリングメーカーのSKFから誕生した 


スウェーデンを代表するベアリング・メーカーのSKF社営業部長のアッサル・ガブリエルソンと、製造工場でマネージャーを務めるグスタフ・ラーソンの2人が、列車内で話し合った1カ月後、ガブリエルソンの所にラーソンから分厚い封筒が届けられた。

さっそくこれを開けて、中に入っている書類を取り出すと、そこには、年間4千台の自動車を生産するに必要と考えられる生産工場の概要、工作機械の種類と必要台数、簡単なオリジナル車の設計図、自動車を構成するメイン部品の概要とその調達先の一覧表など、自動車を開発し製造するのに必要と考えられる諸項目が列挙されていた。


これを見て驚いたガブリエルソンは、すぐにラーソンの所に走って行き感謝を述べた後、ここに書かれている内容をベースとして、SKF社で自動車ビジネスを立ち上げるためのフィージビリティ・スタディづくりに入ることを提案し、快諾を得ることになった。

2人がつくるプランでは、新しい自動車製造工場を建設することが前提となっていて、工場用地の要件設定と購入費用、工場建物の概要とその建設費用、それから工場で使用する工作機械の概要とその購入費用、電気容量やボイラーなどの付帯設備設置費用などの詳細な内容がだんだんできてきた。

次は、年間4千台の車を製造する工場を動かすために必要とされる労働者の組織、教育訓練、そして労賃に関する詳細プラン、自動車を構成するメイン部品の製造にかかわる材料費と予想される製造原価、外部調達部品の想定購入価格など、製造原価を構成する諸要素の詳細プランが作成された。
最後に経理や総務などの間接経費の概算予算が加えられて、自動車1台当りのコストを計算することができた。


この頃、イギリスやフランスでは自動車部品を製造するパーツメーカーが急増しており、新興自動車メーカーはパーツメーカー各社から簡単にパーツを入手することができるようになっていた。
これらパーツを自社工場で組み合わせてクルマをつくることはそれほど難しいことではなくなっていたが、既成パーツに頼りきって自動車ビジネスを出発させたのでは成功するのがおぼつかなく、多くの新興メーカーは短命に終わるのが普通であった。

こうした先進諸国のメーカー動向把握に努めていたラーソンとガブリエルソンは、自動車を構成するメインパーツであるシャシー、エンジン、トランスミッションなどは自社開発にこだわる方針を採ることにして、具体的で定量的な内容をもつフィージビリティ・スタディが完成した。

(※24-21話【第843回】は、ここまで)


24-20.ボルボの歴史2~ラーソンとガブリエルソン~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、スウェーデン生まれの名ブランド“ボルボ”の誕生ストーリーの2回目となります。

一方、サブコンテンツの日本の輸入車事情に関しては、フォードの日本市場撤退の話が続いています。
マツダでの手腕が認められて、2002年にフォード社に復帰したマーク・フィールズ氏は、同社の高級車部門でアストン・マーティン、ジャガー、ランドローバー、ボルボの4ブランドを統括しているプレミアム・オートモーティブ・グループ(PAG)の最高責任者に就任しました。
冷静に高級車ビジネスの将来性を分析したフィールズ氏は、このまま放置しておくとPAGが足を引っ張り、フォード社本体の屋台骨が揺らぎかねないという危惧を抱きました。
そこで、赤字が膨らんでいた4社の再建に奔走する一方で、最終的にフォード社からPAGを切り離すべしという提言を行ったのです。
この提言が受け入れられ、2007年にはアストン・マーティンがクウェートの投資家グループに、2008年にジャガーとランドローバーがインドのタタ・モーターズへ売却されました。
さらに2010年には、ボルボを中華人民共和国の浙江吉利控股集団へ売却したのです。


24.ヨーロッパ車の個性化


 営業部長のガブリエルソンは技術者のラーソンに自動車をつくろうと説得した  


SKF社の営業部長としてベアリング・ビジネスの売上アップに力を発揮するアッサル・ガブリエルソンは、スウェーデン産業のあり方、特に自動車産業の必要性を考えるようになっていた。


1924年のある日、スウェーデンの首都であるストックホルム駅のプラットホームで、会社に行くために列車が来るのを待っているグスタフ・ラーソンにガブリエルソンが近寄って挨拶を交し、2人は列車のシートに座って話し始めた。

「ラーソンさんが、この時間の列車に乗ることは知っていましたので、声をかけさせていただきました。今日は少しお話をしたいと思っているのですよ」

「当社のスーパーエリートであるガブリエルソン部長から話というのは、いったいどんなことですか」

「ラーソンさんもご存じのように、ヨーロッパでの最寒冷地であるわが国は農業国になれませんので、必然的に工業国にならざるを得ませんが、残念ながら工業化では大きな遅れを生じているのが現実です。中でも、自動車産業に関しては、ほとんどのヨーロッパ諸国が自国内に生産工場を持っているのに対して、スウェーデンには未だひとつもありません。自動車は工業の中心に位置付けられる基幹産業ですが、これがないということは、スウェーデンは工業国になれないということに繋がりかねません」

「自分もガブリエルソン部長の意見に同感です。イギリスで自動車を勉強していた時に感じたことですが、自動車産業で培われた技術は、全産業に通じるものです。そういう意味では、スウェーデンの現状は憂慮すべき事態ですね」

「私の意見に理解をいただいて、たいへん嬉しく思います。ラーソンさんは、イギリスから帰国後も自動車工学の勉強を続けられているとお聞きしましたが……」

「技術は日進月歩です。新しい技術を常に学び続けるという気持ちがないと技術者は務まりませんから、最新の自動車技術情報は把握するように努めているのです」

「それは心強いですね。実は、自動車ビジネスを当社は手掛けるべきだという意見を私は持っていまして、現在構想を練っている最中なのです」

「SKFが自動車をつくるのですか!」

「私はスウェーデンの道を走る自動車が輸入車ばかりで、国産車は1台として走っていないという現状を、何とか打破する道はないかと模索しているうちに、この考えを抱くようになりました」

「それは、すばらしい!」

「そこでお願いがあるのですが、当社内で自動車に関して、深い知識をお持ちの技術者はラーソンさんしかいませんので、私と一緒に自動車ビジネス開発プランづくりに取り組んでいただきたいのですが」

「本当ですか。自分がお役に立つことなら、喜んでお手伝いさせていただきます」

「ありがとうございます。これからいろいろ相談させていただきますので、よろしくお願いします」と、感謝の言葉と同時に差し出されたガブリエルソンの右手を、ラーソンは強く握り返すのであった。

(※24-20話【第842回】は、ここまで)


24-19.ボルボの歴史1~ベアリングのSKF社~

今日は月曜日です。
今週のブログ『クルマの歴史物語』は、「24章 ヨーロッパ車の個性化」の最後となる“ボルボの歴史”を4話掲載して、金曜日から「25章 レースでの競い合い」に移ります。

さて、ここの所データを使ってわが国の輸入車事情に関するお話が続いていて、つい先ごろ発表されたフォードの日本撤退という話題を読者の皆さんにお届けしています。
実は、今回の日本市場撤退を決断したのは、昨年フォード社のCEO(最高経営責任者)に就いたばかりのマーク・フィールズ氏なのです。
そうです、今から15年前のマツダの第11代社長だったあのマーク・フィールズ氏なのです。

1989年にハーバード大学でMBA(経営学修士)を取得したフィールズ氏は、フォード社に入社しました。
その実力で出世の階段を急ピッチで駆け上がり、1999年に38歳の若さで、当時フォードと提携関係にあったマツダの社長に就任したのでした。
マツダでは、短期間に2,200人を超える間接人員の削減や工場閉鎖など大リストラを断行する一方で、役員数の大幅削減や若手の登用などの人事システムを刷新し、見事に経営危機を乗り切りました。
そして、当時迷走していたマツダのブランドイメージを再構築するため、現在も使われているキャッチフレーズ「Zoom-Zoom(ズーム・ズーム)」を定めるなど、優れたマーケティング路線を敷いたのです。

一方、繁栄を極めていた1980年代後半のこと、アメリカのフォード社は高級車市場を取り込みたいと考え、1989年に経営不振に陥っていたイギリスのジャガーを傘下に収めました。
そしてランドローバーを、次いでアストン・マーティンを、さらにはスウェーデンのボルボも買収したのです。
これらのヨーロッパの高級車ブランドは「PAG(プレミア・オートモーティブ・グループ)」の名のもとにまとめられることとなりました。


24.ヨーロッパ車の個性化


 工業化を急ぐスウェーデンで自動車産業興隆の必要性を主張する人物が現れた 


『クルマの歴史物語』では、既にドイツ、フランス、イタリア、イギリス、オーストリア、ベルギー、スペイン、チェコというヨーロッパ諸国での自動車産業勃興の話が語られている。

これから北ヨーロッパに位置するスウェーデンでの最初の自動車ブランドである“ボルボ”が登場することになるが、ボルボ誕生ストーリーにはアッサル・ガブリエルソンとグスタフ・ラーソンという2人のスウェーデン人が欠かせない。


1891年生れのアッサル・ガブリエルソンは大学で経済学を学んだ後、大手ベアリング・メーカーのSKF社に入社した。
最初に就いた仕事は営業業務であったが、新規顧客開拓に努めて売上を伸ばすガブリエルソンの活躍ぶりは全社でも注目の的となり、すぐにセールスマネージャーに引き上げられた。
そして、部下の能力を引き出すリーダーシップの実力が認められると、30歳を前にしてパリにあるSKF製品の販売会社の社長に抜擢されることになった。

若さとビジネスセンスを併せ持つガブリエルソンは、初めての外国勤務であるパリ滞在中に数々のことを学んだ。
特にベアリングビジネスに関して、SKF製品の品質が優れているという自信を持つと同時に、スウェーデンの賃金が国際水準に比して低いことによって、競合するアメリカ製品よりも安く販売することができることに気が付いた。
「スウェーデン製ベアリングは世界に通用する」という確信を得て帰国したガブリエルソンは、若くしてSKF本社の営業部長として、実力を発揮するようになってきた。


一方、ボルボのもうひとりの創業者であるグスタフ・ラーソンは、ガブリエルソンより4年早く生まれ、大学で技術教育を受けた後に、イギリスのコベントリーにある自動車メーカーで自動車工学を学んだ。
イギリスでの自動車の普及ぶりを目の当りにしたラーソンは、自分がスウェーデンに帰ったら、ここで学んだことを生かしてオリジナルの自動車をつくりたいと夢見るようになっていた。

母国に戻ったラーソンはSKF社に入社して製造工場で働くようになったが、仕事の傍ら自動車工学の勉強を続けるラーソンの存在は会社内で有名になってきた。

(※24-19話【第841回】は、ここまで)


24-18.自動車の歴史:イギリス編47~STDグループの誕生~

本日の『クルマの歴史物語』は、自動車の歴史:イギリス編の47回目となり、“STDグループの誕生”とサブタイトルが付いています。
このSTDというのはサンビーム(SUNBEAM)、タルボット(TALBOT)、ダラック(DARRACQ)という3つのブランドの頭文字なのです。

さて、サブコンテンツの方はフォードの日本撤退の話題が続いています。
振り返ってみると、フォード社の日本進出は大正14年と古く、横浜でT型フォードの部品をアメリカから輸入してノックダウン生産した歴史があります。
また昭和50年代に入って以降、マツダにフォード資本が投入され、昭和56年にはマツダがフォード車販売のオートラマチャンネルを展開するなど、フォード社と日本市場の間には強い関わりが続きました。
今から15年前の平成11年12月、このマツダに乗り込んできたのがフォード社のエリート社員であるマーク・フィールズ氏であり、第11代社長に就き、マーケティングに強いフィールズ社長が敷いた経営路線が今日のマツダ繁栄の基礎となっているという見方もあるそうです。
その後は、マツダからフォード資本の引き上げが続いて、完全に資本関係が解消できたのはつい先ごろの2015年9月のことでした。


24.ヨーロッパ車の個性化


 サンビーム/タルボット/ダラック連合がスタートし、ヴォクゾール社はGM入りした 


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〈ヴォクゾールのブランドマーク〉

1920年代に入って以降のイギリス車の動向に関して、モーリス社、ウーズレー社、イギリス・フォード社というように話が続いているが、次はヴォクゾール社の番である。

世界大戦が終わって1920年代が進むと、ヴォクゾール社の売上は低下の一途をたどるようになり、やがて経営危機に陥った。

ここで登場するのは、ひそかにイギリス自動車産業の市場調査を進めていたアメリカのGM社であった。
自社工場建設プランと並行して、M&Aの物件を探していたところに、ヴォクゾール社を買わないかという話がもたらされ、これに飛びついたGM社は、1925年12月、250万ドル余をはたいてこの会社を傘下に収めることになった。


始めのうち、GM社はヴォクゾール社に対して、あれこれ指示を出すことはなかった。
これに甘えたヴォクゾール社の経営陣は6気筒スリーブバルブ・エンジンの高級ツーリングカーを売り続けていたが、いっこうに業績の改善が見られなかった。
しばらく辛抱していたGM社であるが、ついに“ヴォクゾール”ブランド車の行く道として、高級車ではなく大衆車への転換を図るように強い指示が打ち出されたのである。



ヴォクゾール社の次は、タルボット社の動向である。タルボット社の創設者であるタルボット伯爵は、後継者と考えていた一人息子を大戦中の西部戦線で失ったことで強い衝撃を受けて、会社経営を継続する意欲を失ってしまった。
そんな時に、フランスの自動車メーカーであるA.ダラック社からタルボット社に合併の申し入れがあった。
タルボット伯爵はA.ダラック社の要請を受け入れることにし、合併契約書が調印された。


こうして〔タルボット+ダラック〕連合が発足したが、レースで注目を集めるようになったサンビーム社が、新たに合体することになり、ここにSTD(サンビーム/タルボット/ダラック)連合が形成されたのである。

STDグループは、サンビーム社によって主導権が握られ、実力者であるルイ・コータレンが牛耳ることとなったが、新グループがスタートしても業績の改善は捗ることはなかった。

ところが、〈タルボット14/45HP〉という新車が誕生したところ、完成度が高いということで市場の評判が上がって、STDグループの救世主となり、以後10年問も生産が続けられるロングセラー商品になるのであった。

このクルマは、後部ナンパープレートの両側に照明入りの箱をもうけ、ステアリングホイールにつけたスイッチを操作することによって、矢印で車の曲がる方向を示すというウィンカー装置を付けた史上最初のクルマとなった。
(※24-18話【第840回】は、ここまで)