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25-24.ベントレーの歴史5~ル・マン24時間での3連勝

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツはベントレーの歴史の5回目で、有名なベントレー・ボーイズと称されたアマチュア・ドライバーの活躍のお話です。

一方のサブコンテンツは、レクサス・ストーリーの続きとなります。
1989年、トヨタはアメリカ合衆国を主要マーケットとしてレクサス・プロジェクトを新たに立ち上げました。
レクサス・チャネルで販売開始されたのは、最上級車の“LS”(日本名:セルシオ)と、排気量3,000ccでスタイルがすばらしい“ES(Executive Sedan)”(日本名:ウィンダム)の2車種でした。
この内、LSはトヨタの目論見通り市場から引く手あまたの人気となり、レクサス・ブランドの礎を築くきっかけとなりました。
レクサスはプレミアムカーの中では比較的リーズナブルな価格設定したことも人気向上の要因となりました。
一説によると、この価格ではLSは赤字になってしまうが、とにかくレクサス・ブランドの定着が最優先課題なので、トヨタ本社としては先行投資としての価格設定を決断したものと思われます。
このLexus Sedanのピカピカの新車が姿を現すと、卓越した静粛性や搭載されるV型8気筒エンジンの完成度の高さなどによって、メルセデス・ベンツやBMWなどの高級車メーカーは大きな衝撃をうけることになりました。

同時期にニッサンのインフィニティ・プロジェクトがスタートを切りましたので、レクサスLSは市場導入されたばかりのインフィニティQ45と比較される機会が多く出現しました。
トヨタではLS製品化に当って、構想と開発に8年の歳月を要したそうです。
それに対して、LS開発が始まった3年後にその情報を得たニッサンが急遽Q45の開発に着手したとの説があるそうです。
開発期間の差がそのまま両車の完成度の差に繋がり、また完成度の差が販売成績に表れたと言われています。
こうして、レクサス・プロジェクトは好評をもってアメリカ人に迎えられ、LSは発売初年度だけで11,600台、ESの4,700台と合わせると、レクサス全体で16,300台という驚異の売り上げを達成したのです。


25.レースでの競い合い


 ベントレーはフランスのル・マン24時間レースで前人未到の3連勝を飾った 


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〈ベントレー・ボーイズのサー・ヘンリー・バーキン〉

2連勝によって勢いづくベントレーチームは、1929年開催の第7回ル・マン24時間レースに、3連勝を狙って前年の参戦車からエンジン排気量を大幅にアップした〈ベントレー/6.6リッター・スピードシックス〉という更なる高性能車を送り込んだ。

このクルマのハンドルを握ることになったのは、大金持ちのウルフ・バルナトーとサー・ヘンリー・バーキンのコンビだった。
新車のパワーは圧倒的で、バルナトー+バーキン組は楽々3連勝をもぎ取った。

この年は3台の〈ベントレー/4.5リッター〉が優勝車に続いてゴールして、ベントレーチームは1~4位を独占するという完勝であった。


1930年、出走車はわずか17台とル・マン24時間レース史上最少であったが、目下3連勝中で4連勝を虎視眈々として狙っているベントレーに対して、排気量7.1リッターの〈メルセデス・ベンツ/SS〉のルドルフ・カラッチオラがドイツからやってきた。

これを迎え撃つことになったのは、スピードシックスが3台とスーパーチャージャー付きのブロアー・ベントレー2台であった。


戦前の予想通り、メルセデス・ベンツは快調にとばしたが、レース開始後9時間30分を経た午前2時30分に、ピットインした直後、ダイナモが壊れてしまい、再スタートができなくなってしまった。

こうして優勝はまたもやベントレーのものとなり、2位もベントレーが続いて、ベントレーチームは堂々4連勝を飾ったのであった。


以下は、1923年に第一回大会が始まって以降、1930年の第8回大会までのル・マン24時間レースの優勝者・優勝ドライバーの一覧表であるが、こうしてみると、1927年以降のベントレー4連勝は燦然と輝いている。

    回数  年次   優勝車および優勝ドライバー
  ◎第1回 1923年:シェナール・ウォルカー
       優勝ドライバー:レガシェ+レオナルド
  ◎第2回1924年:ベントレー
       優勝ドライバー:フランク・クレマン+ジョン・ダフ
  ◎第3回1925年:ロレーヌ・ディートリヒ/15スポーツ
       優勝ドライバー:ブロック+ロシニョール
  ◎第4回1926年:ロレーヌ・ディートリヒ/15スポーツ
       優勝ドライバー:ブロック+ロシニョール
  ◎第5回1927年:ベントレー/3リッター
       優勝ドライバー:ベンジャミン・フィールド+サミー・デイビス
  ◎第6回1928年:ベントレー/4.5リッター
       優勝ドライバー:ウルフ・バルナトー+ルービン
  ◎第7回1929年:ベントレー/6.6リッター/スピードシックス
       優勝ドライバー:ウルフ・バルナトー+ヘンリー・バーキン
  ◎第8回1930年:ベントレー/6.6リッター/スピードシックス
       優勝ドライバー:ウルフ・バルナトー+G.キッドソン

(※25-24話【第868回】は、ここまで)


25-23.ベントレーの歴史4~ベントレー・ボーイズの活躍~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツはベントレーの歴史の4回目で、有名なベントレー・ボーイズと称されたアマチュア・ドライバーが活躍するというお話です。

ここからはサブコンテンツの本筋である、アメリカ合衆国でのレクサス戦略のお話です。
1980年代が始まった頃のアメリカでは、重厚で威厳を放つ高級車こそがアメリカンドリームの象徴であって、GM社のキャデラックと、フォード社のリンカーンという伝統的ブランドが市場を闊歩していました。
こうしたアメリカ製高級車は、たとえ燃費が悪く故障しやすくとも、名門ブランドの名の下に許容されていることを、トヨタは事前の現地調査でしっかりつかんでいました。
一方、ドイツから輸入したメルセデス・ベンツやBMWは高性能車の位置づけとなっています。
速度無制限のアウトバーンを疾走するためには高性能は欠かせませんが、制限速度が設けられているアメリカのフリーウェイではさほどの高性能は必要ありません。
そこでトヨタでは、伝統や威厳を前提とした旧来の高級車観から脱して、機能的かつ高品質なプレミアムカーの在り方を模索してきました。
その結果、ドイツ車を凌駕する静粛性と内外装の組み立て精度の高さに加えて、日本車ならではの信頼性や経済性を両立させたLuxury Sedanのデザインと性能仕様が形作られてきたのです。

その一方で、ディーラー政策に関しては、ホンダが1985年からアメリカ国内で進めてきたアキュラ・プロジェクトから多くのことを学びました。
そして、新開発の高級乗用車の販売チャネルは従来のトヨタ車ディーラーから切り離し、高級車専門のチャネル・ネットワークの構築に取り組みを始めたのです。
その上で、チャネルの名前と高級車のブランドを共通させ、新たに“Lexus”というブランド・コンセプトを形成していきました。
ちなみにLexusには特別の意味はありませんが、何となく高質感を感じさせるサウンド(響き)があるところが決め手になって採用されたようです。


25.レースでの競い合い


 ベントレー・ボーイズの一員ヘンリー・バーキンは水玉模様のスカーフを愛用した 


ベントレー・ボーイズのエースドライバーである貴族のサー・へンリー・バーキンは、いつも白い水玉模様のついたブルーのスカーフをひらめかせるダンディであった。

サー・バーキンのドライビングテクニックが真価を発揮したのは、1928年のル・マン24時間レースが最初だった。

ここでジャン・シャザンヌとコンビを組むことになったサー・バーキンは、スタートからトップをキープしていて、時速160キロというハイスピードで20周目を走行中に、突然後輪がパンクした。
この時、タイヤのキャンバスがブレーキに食い込んでしまい、クルマは動かなくなってしまった。

これにはジャッキが積んでなかったので、サー・バーキンはナイフとヤスリを器用に使いながら1時間半もかかってブレーキにつまったキャンバスを取り除き、リムだけの後輪でピットを目指して猛スピードで走りだした。しかし、ピットの手前でリムはバラバラに壊れてしまい、クルマは溝の中にはまり込んで動けなくなった。

これで挫けるようなサー・バーキンではない。
ピットまで自分の足で走って行き助けを求めた。
相棒のシャザンヌがスタッフと一緒にジャッキをもって、クルマの所まで走り寄った。
クルマを溝から引き起こし、リムを取り付けタイヤを履かせた。

こうして、ベントレーはようやくコースに戻ることができ、運転席に座ったサー・バーキンはエンジンスターターをひねった。
幸いエンジンは無傷だったのでクルマは動き出し、ただちに先行する各車を追いかけたが、大差を縮めるのは無理だった。

このル・マン24時間レースは、バルナト-&ルービン組が運転する〈ベントレー/4.5リッター〉が、前年の屑鉄ベントレーに続いて2連勝を飾った。
バーキン&シャザンヌ組は、タイヤとリムの破損に伴う大きなロスタイムがあったにもかかわらず、5位入賞を果した。

自動車技術に強いサー・バーキンはチューンアップの仕事に携わるようになり、〈ベントレー/4.5リッター〉にスーパーチャージャーを取り付けてパワーアップを図ったが、このクルマは“ブロアー・ベントレー”と呼ばれ、その後のレースで大活躍することになるのである。

(※25-23話【第867回】は、ここまで)



25-22.ベントレーの歴史3~屑鉄ベントレーの優勝~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツはベントレーの歴史の3回目で、屑鉄ベントレーの優勝とタイトルが付いています。
果たしてどんなお話になるのでしょうか。

昭和57年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併して、トヨタ自動車株式会社となり、新社長に就任したのが創業者豊田喜一郎の長男である豊田章一郞でした。
合併後の新会社でトヨタならでは企業風土を醸成するというミッションの他に、章一郎社長にはもう一点頭が痛い、しかし避けて通れない重要な経営課題がありました。
1980年代に発生した日米貿易摩擦により、日本からアメリカ合衆国への自動車輸出がこれ以上増加すれば、政治問題化して、日本からの輸入規制を実施する可能性が強くなってきたのです。
これを避ける唯一の方法は、アメリカ国内での現地生産化しかありません。
現地生産化に関しては、ホンダとニッサンが先行していましたが、三河という伝統文化に企業体質が染まっているトヨタは、新しいことを挑戦するに際して何事にも慎重なスタンスで取り組むという風土が息づいていたので、難しい仕事となりました。

トヨタは単独進出を避け、アメリカ合衆国の自動車メーカーからパートナーを選ぶ道を選択し、最終的にはGM社と組んでジョイントビジネスをすることになりました。
トヨタはGM社が持つアメリカでの製造ノウハウを吸収しながら、一方GM社にとってはトヨタが採用している「かんばん方式」という生産方式を学ぶことを目指すことになったのです。
そして、1983年2月に両社の合弁会社を設立することが決まり、翌年ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチュアリング会社(NUMMIと略)を設立しました。
NUMMIは、1982年にGM社が閉鎖したカリフォルニア州フリーモントの工場を譲り受け、生産設備を整えて1984年12月より本格的にトヨタ車の生産が開始されました。
その後NUMMI では、トヨタ車以外にも、シボレー車、ポンティアック車などの生産を数多く手がけるようになったのです。

NUMMIで海外生産のノウハウを学んだトヨタ自動車は、1985(昭和60)年2月、現地生産から販売に至るまでの可能性や将来性を仔細に検討することを目的として、海外事業室に北米生産検討チームを設置しました。
準備室では、各州から届いた資料をもとに、部品調達、物流、電力、労働力、治安、州の優遇措置などを分析・評価して選考資料をつくりあげました。
こうして1985年12月、トヨタはアメリカ国内での工場建設地をケンタッキー州スコット郡ジョージタウン近郊に、カナダについてはオンタリオ州ケンブリッジ市に決定したのです。


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〈ベントレーのブランドマーク〉





25.レースでの競い合い


 ベントレーのテスト車は、フランスで見たことのないクルマとスピードを競いあった 


3リッター車の成功を受けて、ベントレー社の次なるモデルとして〈ベントレー/4.5リッター〉の開発が始まり、試作車ができあがった。

イギリスでは目立つということで、フランスでのテスト走行を予定通り完了して、この年のACF・GPを観戦した後、試作車に乗ってイギリスへの帰途についたウォルターらの一行は、偶然な機会から、見たことのないクルマと併走することになった。
最初はお互いに意識することはなかったが、1台がスピードを上げるともう1台が追走し、両車のスピードがだんだん上がってきた。
そのうちに、2台は本気になってスピードを競うようになってきた。
この段階になって、ウォルターはこのクルマがロールス・ロイス社のカモフラージュ車ではないかと推測した。

フランスの国道はよく整備されていたから、スピード競争はさらに激しさを増したが、競争相手の同乗者の帽子が飛び出したため、そのクルマが急停止して終わることになった。


帰国後、フランスの路上レースの相手が排気量7.7リッターの〈ロールス・ロイス/ファンタム〉という新車であることが判明したので、このクルマに負けるわけにはいかないと思ったウォルターは、4.5リッターの排気量を6.5リッターに拡大することにした。

こうして誕生したのが、〈ベントレー/6.5リッター〉であり、1926年から販売が開始された。
これは〈ベントレー/3リッター〉の6気筒版というべきクルマで、排気量が大きくなった分だけ力強くなっていて140HPという高出力を発揮した。


ウォルター・ベントレーは1926年に、〈ベントレー/4.5リッター〉というクルマを製作した。
これは〈ベントレー/6.5リッター〉の6つあるピストンを4つにした排気量4.5リッターの4気筒車である。


ウォルターは4.5リッター車をベントレーチームの中心に置くつもりで、1927年のル・マン24時問レースに参戦した。
ところが、スタート直後のコーナーで多重衝突が発生して、本命視されていたベントレーは、この事故に巻き込まれて数多くのライバル車同様に走れなくなってしまった。

医師のベンジャミン・フィールドとジャーナリスのサミー・デイビスがコンビを組んだ旧型の〈ベントレー/3リッター〉は、予選通過タイムが遅かったので後方スタートとなり、事故に遭遇したもののなんとか走れる状態にあったことが、ベントレー社にとって幸いであった。
この3リッター車は、すぐにピットに入ってバッテリーを針金でゆわえつけるなどの応急措置をしてレースに復帰し、首位を走るフランス車のアリエを執拗に追い上げた。
ゴール直前まで激戦が続いて、ついに奇跡ともいうべき大逆転での優勝を勝ち取ったのである。

ジョンブル魂による勝利として、このレースはイギリス人の心を深く捉えて、“屑鉄ベントレーの優勝”と、イギリスの新聞で華々しく報道されるのであった。

ル・マン24時間レースでのアクシデントがあって躓いたものの、その後ベントレー社の主力レーシングマシンとして、〈ベントレー/4.5リッター〉は大いに活躍するのである。

(※25-22話【第866回】は、ここまで)


25-21.ベントレーの歴史2~3リッター車の成功~

今日のブログ『クルマの歴史物語』は8回連続で掲載した“ブガッティの歴史”から、4回連続の“ベントレーの歴史”に移ります。
ベントレーといえばイギリスを代表する高級車ブランドとして光り輝いていた時代がありました。
ところが、1929年の世界大恐慌の影響を受け経営の独立が維持できず、1931年にロールス・ロイスのグループに吸収されました。
その後は独自モデルとしての新車開発をされることがなく、ロールス・ロイスと同じクルマをバッチだけ変えて販売していた時期が長く続きました。
やがてロールス・ロイスの自動車部門はイギリスの重工業企業であるヴィッカーズ傘下に入りました。
そのヴィッカーズがロールス・ロイスとベントレーの両ブランドを1998年に売りに出したところ、いろいろな経過を経てロールス・ロイスはドイツのBMW社が、ベントレーは同じくドイツのVW(フォルクスワーゲン)社が所有することになって、現在は世界の高級車市場でこの2つのブランドはライバルとなっているのです。

さて、サブコンテンツの方は世界ナンバーワンの自動車メーカーであるトヨタ自動車の話が続いています。1980年代(昭和55年から昭和64年)のトヨタ自動車は、難しい時代を迎えていました。
その第一は、それまで製造会社であったトヨタ自動車工業と、販売部門を統括するトヨタ自動車販売が昭和57年に合併して、トヨタ自動車株式会社となったことです。
この新会社の指揮を執ることになったのは創業者豊田喜一郎の長男である豊田章一郞でした。
新社長に与えられた任務は、それぞれの会社が持っていた企業風土とか社風に風穴を開け、新生トヨタならでは経営体制を構築することにありました。
そして、新会社を軌道に乗せるために国内市場向けには積極策を打ちだし、次々と新型車を開発し市場導入したのです。
この当時、わが国の経済は高度成長期を驀進しており、後にバブル期といわれるようになりますが、繁栄を謳歌していました。
中でもクルマへの需要は旺盛で、年ごとにクルマは大きくなり、価格の高い車が売れる時代を迎えたのです。


25.レースでの競い合い


 技術者ウォルター・ベントレーは軍用機エンジン設計家から自動車設計家に転身した 


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〈ベントレー社を創業したウォルター・ベントレー〉

1902年にネイピアがゴードンベネット杯レースに優勝したことを除いて、イギリス車が国際レースで活躍することはほとんどなかったが、1924年に開催された第2回ル・マン24時間レースで優勝を飾ったベントレーは、イギリス自動車業界でのニューヒーローとなった。

このような偉業を演出した主人公はウォルター・ベントレーであり、『クルマの歴史物語 3部』の「世界大戦の膠着」で、立ち遅れたイギリスの軍用機用エンジンの開発で活躍した人物として紹介されている。


世界大戦が終わると、ウォルター・ベントレーは軍用機用エンジンの設計の仕事を離れて、ベントレー・モータース会社(以下ベントレー社)を立ち上げた。

会社の設立後間もなく試作車が完成したが、このクルマはACF・GPに優勝した〈メルセデス/GP〉に似ていて、オリジナリティという点では、決して褒められるものではなかった。

この試作車に改良を重ねて、1919年秋に開催されたオリンピア・モーターショーに〈ベントレー/3リッター〉とネーミングした新車を出品したところ、たいへんな評判を獲得した。

排気量3リッターの水冷直列4気筒のOHCエンジンを搭載した〈ベントレー/3リッター〉は、ツインプラグ方式という新技術によって最高出力70HPを絞り出すことができる高性能車で、市販車として生産が開始された。


ウォルターは、レースで勝利することが宣伝効果として絶大であることをよく知っていたので、積極的にレースに参戦することにした。
最初に出場したマン島でのTT(ツーリスト・トロフィーの略)レースで、ベントレーチームは個人優勝こそ逸したものの2、4、5位を占め、チーム優勝に輝いて周りをびっくりさせ、自らもハンドルを握って4位に入ったウォルターは鼻高々であった。


ベントレー社のレース活動では、チームの若き紳士たちを表す“ベントレー・ボーイズ"の存在が欠かせない。
ダイヤモンド鉱山を所有しているウルフ・バルナトー、著名なジャーナリストのサミー・デイビス、医者であり細菌学者のベンジャミン・フィールド、貴族のサー・ヘンリー・バーキンというのが主たるメンバーであり、こうしたジェントルメン・ドライバーズに支えられたウォルターは国民的ヒーローになっていた。

(※254-21話【第865回】は、ここまで)


25-20.ブガッティの歴史20~1927年クリスマスの会話⑧~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、パリの高級レストランでのエットーレ・ブガッティとエルンスト・フリードリヒの会話シリーズの最終話となります。

トヨタ自動車が1989年(平成元年)10月に、量販車として最高級セダンとなるトヨタ・セルシオの販売を開始しました。
(トヨタには最高級セダンとしてトヨタ・センチュリーがありますが、このクルマは手づくりですので量販車とは言えません。)
このクルマの取り扱いはクラウン専売店であるトヨタ店系列と、マークⅡ専売店であるトヨペット店系列という2チャネルに絞り込まれました。
そしてセルシオは、楕円形の中にTOYOTAのTを組みこんだデザインの新しいトヨタブランドCIマークを最初に装着したモデルでもありました。
(CIとは、Corporate Identityを略した経営用語で、企業やブランドのイメージ形成を統合してマネジメントする手法で、一般的にはブランドマークをさします。)

全長4,995mm、全幅1,820mm、全高1,400mmという大きなボディをまとったセルシオのエクステリア・デザインは気品があり、それまでの国産車とは一線を画す立派なたたずまいをしている一方で、メルセデス・ベンツやBMWなどヨーロッパ製高級車のどれにも似ていないオリジナリティを主張していました。
同時に、ヨーロッパ車に対して国産車が苦手としていたインテリアデザインに関しても、洗練されたセンスで精緻に取り纏められ、高級車に欠かせない快適性を上手に演出していたのです。
セルシオのために開発された排気量4,000ccのV型8気筒エンジンは静粛性と力強さを合わせ持ち、大きなボディを軽々と動かします。
セルシオは、装備の違い(→価格の違い)でA・B・Cの3仕様が設定され、標準モデルのA仕様をオーナードライバー向けとし、B・Cをショーファードリブン(運転手つき)向けとしました。
発売開始時の販売価格はA仕様が455万円、B仕様が530万円、C仕様が550万円であり、いちばん高価なのがC仕様Fパッケージで620万円というプライスタグが付いていました。

乗り心地を規定するサスペンションは、前後ダブルウィッシュボーン式が採用され、B仕様には路面状況によりダンパーの減衰力が通常走行時の「ハード」の設定から瞬時に「ソフト」に切り替わる世界初となる電子制御サスペンションが装備されていました。
いちばん高価なC仕様には、乗り心地がさらにスムーズになる電子制御エアサスペンションを装備していました。
セルシオが発表されたタイミングは、バブル期の最末期であり、まだその余韻が残っていた時代だったので、反響はすさまじく、実際に注文が多かったのはオーナードライバー向けのA仕様ではなく、いちばん高価なC仕様だったのです。


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〈トヨタのCIマーク〉







25.レースでの競い合い


 イタリアで公道を1,000キロ走る“ミレミニア”自動車レースが始まり人々は熱狂した 


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〈名ドライバーのロベール・ブノア〉

パリのレストランでパリのレストランでのエットーレ・ブガッティ社長とエルンスト・フリードリヒの夕食の話題は尽きないが、既に2時間が経過した。


「ル・パトロン。今年の3月からル・パトロンの母国であるイタリアで、ミレミニアが開催されましたね」

「ブレシアという場所は知っていると思うが、そこからロ一マまで行って、今度は折り返してブレシアに戻る距離がちょうど千マイルだから、この名前が付いたのだ」

「初めは、ブレシアに住む若者の間で始められたものだそうですね」

「特別なコースをつくったわけでなく、普通の車道を使うので、自転車や自家用車、時には牛車と共に走らざるを得ないし、その上に、猛スピードで走るクルマを一目見ようと道路に身を乗り出してくる観客に注意しなければならないので、ドライバーにとってはやり難いレースだったと思うよ」

「レースとしては、人気者ガストン・プリリペリ運転のアルフと、40歳というベテラン・ドライバーのフェルディナント・ミノイア運転のO.M.という2車による激しいトップ争いが続いて、実におもしろかったそうですね」

「ロ一マに最初に到着したのはプリリペリだったが、イタリアには古くから『ロ一マで勝っている奴は、ブレシアでは勝てない』という言い伝えがあるのだ。これを知っているミノイアは、ブレシアが近づくにつれてプリリペリ運転のアルフに迫り、ついに追い抜いて、そのままゴールインしたのだ。言い伝えは、このレースでも実証されたということで、イタリア人の間では大いに話題になったのだよ」

「来年も実施されるといいですね。ところで、ル・パトロン。今年に入ってからのドラージュの活躍ぶりを、どう思われますか」

「グランプリレース史上、これほど強いクルマは今までなかったのじゃないかな。ACFグランプリばかりでなく、スペイン・グランプリ,イタリア・グランプリを総なめしたからね。それにハンドルを握るロベール・ブノアの運転テクニックは、まさに天才的だ。史上最強のGPカーに天才ドライバーを組み合わせる限り、しばらくはドラージュの天下が続くことになりそうだな」



「ル・パトロン。そんなことになれば、うちはどうなるのですか」

「フリードリヒ。会社の経営は人生と同じで、いい時もあれば悪い時もあるものだ。この流れをしっかり見きわめるのが社長の役割で、悪い時にあがいてもどうしようもないものだ。それと、いい時に有頂天にならないことも大切なのだ。ドラージュも今年はよかったが、天狗になってしまうと、来年どうなるか分からないからね」

「それと、あまりにドラージュが強すぎるので、他チームがレースに参戦しなくなる恐れもありますね」

「そうなのだ。勝てる見込みのないレースには、誰も参戦したがらないからな。このように考えると、ドラージュとブノアという最強コンビの誕生は、レース界にとっては、必ずしも喜ばしいことではないかも知れない。それはそれとして、君と初めて出会ったのは、いつだったかな」

「ル・パトロンがドイツからやってきた時でしたから、もうかれこれ15年になりますね」

「もう、そんなになるかな。今までは、何とかやってこれたが、競争の厳しい社会だけに手が抜けないので、来年もしっかり頼むよ」

「ル・パトロン、ありがとうございます。今までと変わらず、もう一頑張りしてみますので、よろしくお願いします」

レストランでの2人の会話は途切れることなく、食後酒のブランデーを楽しんだ後、定宿となっているコンコルド広場のホテル・クリヨンに戻ることになった。


ブガッティ社が送り出すクルマは、他のどの会社にもない個性が貫かれ、その高性能ぶりで、独特のブランドイメージを築き上げていたが、これはエットーレ・ブガッティが信条とした完璧主義によってもたらされたものである。

しかし完璧主義は独断をもたらすことが多く、ブガッティがつくったクルマには欠点も多かった。

ブガッティ車は走行中の騒音は大きかったし、気温がマイナスになるとエンジンは始動しづらくなった。
このことをよく知っているブガッティ社は、寒くなると暖房付きの車庫にクルマを入れることを勧めたというが、ブガッティを買うユーザーは、こんなことは気にならなかったようだ。

ブガッティ車の欠点の最大はブレーキにあり、ケーブル作動の機械式だったため、クルマを停止しようと思うとブレーキペダルを力いっぱい踏まなければならなかった。
この点を突かれたブガッティは、「私は、クルマを走らせるためにつくっている。別に止めるためじゃない」と、あまりにも有名となるセリフを吐いたという。

(※25-20話【第864回】は、ここまで)