FC2ブログ

26-20.自動車の歴史:アメリカ編55~フォードとGMの時代~

ブログ『クルマの歴史物語』の「26章 繁栄の終焉」は、本日の“フォードとGMの時代”をもって最終回となります。
同時に、本日は「4部 花開く自動車文化」にとっても最終回となります。

本日は読者の皆さんに大変うれしいニュースがございます。
昨日ブログでお知らせしたカウンターの数字ですが、昨夜8時ころチェックしてみたら99,965でした。この分なら明日の朝方には100,000という数字が見られるものと、その夜はいつものように寝てしまいました。
そして今朝、いつもより少し早く起きて数字をチェックしてみたら、何とカウンターは100,040という数字を示していました。
100,000へ数字が移った瞬間は写真にとれなかったものの、累計読者総数が10万人の大台に乗ったことは実に喜ばしいことです。
これからもブログ『クルマの歴史物語』は前進しますので、読者の皆さんの応援を宜しくお願いします・

振り返ってみますと、2012年6月12日にスタートを切ったブログ『クルマの歴史物語』の掲載は、「1部 自動車の誕生」から始まりましたので、間もなく4年を経過しようとしています。
「1部 自動車の誕生」の掲載が始まってから半年後の2012年11月26日に、「2部 自動車産業の興隆」がスタートしました。
2部の終了後に1部および2部に関する資料編が長期間掲載されたこともあって、「3部 大量生産の始まり」が始まったのは、2部終了してから1年半後の2014年5月29日のことでした。
そして、「4部 花開く自動車文化」の掲載が開始されたのは、昨2015年8月7日のことでした。
4部では、「20章 世界大戦後のヨーロッパ」、「21章 ヨーロッパ車の個性化」、「22章 GM社の再スタート」、「23章 クライスラー社の発進」、「24章 ヨーロッパ車の個性化」、「25章 レースでの競い合い」というように続いて、最終章である「26章 繁栄の終焉」が始まったのは4月1日でした。

読者の皆さんにおかれましては長い間、ブログ『クルマの歴史物語』をご愛読いただき、本当にありがとうございます。
おかげさまで、このようなコンテンツ切り替え時のタイミングでカウンターの数字が10万人の大台に突入したのは、大きな意味があるものと思います。

さて、ブログ『クルマの歴史物語』はいったいいつまで続くのか?と質問が来そうなので、最新の状況をご案内しましょう。
明日の4月29日から5月8日までは、ゴールデンウィークにつき、本ブログの掲載はお休みとさせていただきます。
5月9日の月曜日から、今までと同じスタイルの週5日掲載を再開いたします。
再開後のコンテンツは、「4部 花開く自動車文化」の資料編となり、これが6月10日(金)に終了します。
図らずもこの日をもって、掲載開始からちょうど4年間が経過したことになります。
そして、掲載5年目を迎える6月13日(月)から、皆さん待望の「5部 日本車の夜明け」が始まります。
このようにブログ『クルマの歴史物語』は、まだまだ続きますので、引き続きましてご愛読を宜しくお願い致します。


26.繁栄の終焉


 アメリカ自動車業界はフォードとGMの2大メーカーの時代を迎えた 


既に、生産数データを使って、1927年度がいかに大きな変化が発生したかを読者の皆さんにお伝えしているが、その後の様子をここで記すことにしよう。

アメリカ合衆国の1927年の乗用車生産台数は〈フォード/T型〉が6月以降生産ゼロとなった影響を受け、1926年の369.2万台から293.7万台へと大きく落ち込んだ。

1928年になるとA型の生産が開始され、年間で150.7万台の新車をつくったこともあって、合衆国全体の総生産台数は455.5万台と史上初めて400万台に乗せることができた。
この年の大幅増加に貢献したのはフォード社ばかりでない。
好調が続くGM社のシボレーは132.9万台を生産し、つかの間のトップブランドから2位ブランドに戻ったものの前年に続いて年産100万台超えを確保し、念願のメジャーブランドの地位を確立したのである。


1929年10月のブラック・サーズデー以降、景気は日に日に落ち込み、年が明けた1930年に入ってもいっこうに上向くことなく、さらに悪化が続いた。
このままでは大幅赤字が避けられないと覚悟した企業各社は、人件費削減に本気になって取り組み始めて、アメリカ中で失業者があふれるようになってきた。

こういう時代になると、乗用車の需要は急減するのは極めて自然で、1930年の総生産台数は史上最高を記録した前年の445.5万台から154.5万台も減少する291万台に大幅減少したのである。

不景気になれば高級車・中級車に大きな影響が表れるもので、質実剛健をコンセプトとするフォード車の減少幅は36.6万台と比較的傷が浅く、急追してきたシボレーに大差をつけるのであった。



ローリング・トウェンテイーズの時代が終わる頃、アメリカ合衆国の自動車産業はフォードと、シボレーブランドを擁するGM社の2強時代に入ったが、3位以下の混戦ぶりはいっこうに変わることはなかった。

1924年に第4位ブランドに浮上したことがあるダッジは、創業者兄弟が死亡したこともあって、業界内での存在感が希薄になり、その事業はクライスラー社に吸収され再建を期すことになった。

1910年代に2位ブランドに入ったことがあるスチュードベーカーは、1920年代中頃には5位を前後する中堅ブランドに留まっていたが、シボレー、ビュイック、ポンテアックを擁するGMの包囲網は着実に狭まっていた。

1920年代、ウォルター・クライスラーの活躍によって、スチュードベーカー同様5位ブランド前後をキープしていたウィリス・オーヴァーランドは、オーナーがビリー・デュラントに移って以降、その位置を維持するすることが難しくなっていた。

1920年頃第7位ブランドであったハドソン(+エセックス)は、年ごとに生産台数を増やして業界内のステータスを挙げてきて、1929年に第3位ブランドに躍り出たが、翌30年の不況期に突入すると、影響をもろに受けて第5位ブランドに陥落してしまった。


1920年代のアメリカはまさにローリング・トウェンテイーズであった。
フォードT型を生み出したアメリカ合衆国は、世界で初めてのモータリゼーションを実現した国になり、人々の毎日の生活に自動車は欠かせなくってきた。
そのアメリカで、世界大戦後の好景気から一転し、先が見えない暗黒の日々が続くことになった。いったい、世界大恐慌はいつ出口に到達し、明るい太陽を見ることができるようになるのか、だれも自信を持って答えることができなかった。
(※26-20話【第888回】は、ここまで)




26-19.自動車の歴史:アメリカ編54~デュラントの没落~

いつもブログ『クルマの歴史物語』を愛読いただいている皆さん、カウンターの数字をご覧下さい。
昨日の昼過ぎに99,900を超える数字を示すようになりました。
この調子なら、本日夜か、遅くとも明日の午前中に数字は10万の大台に乗ることが期待されますので、皆さんの応援を宜しくお願い致します。

さて、皆さんに愛読いただているブログ『クルマの歴史物語』の「26章 繁栄の終焉」は、本日と明日の掲載をもって終了いたします。
また、サブコンテンツであるトヨタ自動車ストーリーの方は、本日をもって完結いたします。

最終話はトヨタ自動車のディーラー政策のお話です。
今日、日本国内にクルマを販売している各々自動車メーカーは、自社のクルマを確実にお客様にお届けできるよう、ディーラー戦略を組み立てて、それを実施しています。
自動車メーカーが、各地域に根を張っているエリアの実力者(投資家)と手を組んで、全国ネットワークを構築するというやり方は、1920年代にGM社が最初に手がけた手法であり、既に『クルマの歴史物語』でも本件を取り上げています。
第二次世界大戦後の経済復興期に国産車が売れ始めた時期に、トヨタ自動車が採ったのは、このGM方式に倣ったものですが、実は根本のところでGM社とは異なっていました。
GM社が採用したのはブランド別ディーラー・ネットワークの考えであり、広大なアメリカ合衆国内に、シボレー、キャデラック、ビュイック等のブランド別ディーラーを配置していきました。
トヨタ自動車の場合は、ブランド別というよりも、車種別と言った方がいいディーラー構成になっています。
いちばん最初にできあがったのがクラウンを販売する【トヨタ店】でした。
ついで、コロナ(マークⅡ)を売るために分離新設したのが【トヨペット店】でした。
さらに、パブリカやカローラという大衆車を販売するためにできたのが【カローラ店】であり、カローラの派生車種であるスプリンターと売るために新設したのが【オート店】でした。
その上に、FFファミリーカーとして登場したビスタを売るために新設したのが【ビスタ店】であり、トヨタ5系列のディーラー・ネットワークが完成したのです。
2004年に、トヨタ自動車は【ビスタ店】と【オート店】を合体して【ネッツ店】がスタートしたことで、現在4系列のディーラー・ネットワークからトヨタ車は販売されています。
トヨタ以外の他メーカーは全店舗全車種扱いに移行していく中で、依然としてトヨタ自動車は以下に示すようにディーラーごとに取り扱い車種が異なる政策を維持しています。

■トヨタ店:センチュリー、クラウン、アリオン、ポルテ、ランドクルーザーなど
■トヨペット店:マークX、プレミオ、ハリアー、ラッシュ、ポルテ、アルファードなど
■トヨタカローラ店:カローラ、ノア、カムリ、スペイド、パッソなど
■ネッツ店:ヴィッツ、オーリス、ウィッシュ、スペイド、ヴォクシー、ヴェルファイアなど

一見するとトヨタ・ディーラーは車種別の取り扱いになっているようですが、ハイブリッド車導入以降は、プリウス、SAI、アクア、86、シエンタが全店扱いになっています。
又、車名が異なっていてもアリオン&プレミオ、アルファード&ヴェルファイア、ポルテ&スペイド、ノア&ヴォクシー&エスクァイアは同じクルマと言ってもよく、実質的には併売車が増えているのです。


26.繁栄の終焉


 GM社を創業し、ここを追われたビリー・デュラントがつくった会社は行き詰まった 


GM社を追われたビリー・デュラントによって創業されたデュラントモーター社の大衆車部門を担うスターは、低価格の6気筒車が加わったことによってヒット商品となった。

大衆車スターの成功で勢いづくデュラントモーター社のミドルクラスのラインを担当するのが、「177話 クライスラーを巡る三つ巴」に出てくるフリントである。

ウィリス社でコンサルタントとして契約して仕事をしていたカール・ブリア、オーウェン・スケルトン、フレッド・ゼダーという三銃士が設計した6気筒車は、ビリー・デュラントがウィリス社を入手したことに伴って、フリントというブランドで登場することになった。

フリントは4輪油圧ブレーキを備えている6気筒エンジン車であるにも拘わらず1,200ドルから2千ドルというリーズナブルな価格帯が設定されていたので、毎年5千台がコンスタントに売れるクルマとして市民権を獲得していた。
このフリントと超高級車であるロコモビルとの間を埋め、GM社のキャデラック、フォード社のリンカーンに対抗できる “プリンストン” という新ブランドを創出する構想を持ったデュラントは、新型車の開発にまい進した。


ビリー・デュラントが再起を賭けたデュラントモーター社は、スター、フリント、プリンストン、ロコモデルというフルラインを形成して、フォード社とGM社を追撃するナンバー3の自動車メーカーに育っているように見えたが、実際には構想は霧散してしまい、プリンストンは一度も市場に姿を見せることはなく、1920年代の終り頃になると財政的にも破綻しつつあり、これが噂になって広まっていった。

1億ドルに近い個人資産を投入してきたビリー・デュラント社長は、何とか倒産だけは避けたいとの思いで、数々の対策を講じたが、経営不振の噂を消すことができなくて、クルマの販売は急減することになった。

そこに、世界大恐慌が襲ったものだからひとたまりもなく倒産に追い込まれ、営々として蓄積した全てのものを失ったビリー・デュラントは、ひとり寂しくデトロイトを去るのであった。


フォード社はT型を新型のA型に切り替えることにしたが、このやり方がまずかった。

フォード社のルージュ工場のベルトコンベア方式の流れ作業ラインは、T型だけを生産することを前提にして無駄なく配置してあるので、全ての部品を一新したA型に製造ラインを転換する仕事は、コンピュータ・オペレーションが日常化している今日であっても極めて難しい仕事である。

この難事を、自ら指揮を執ると乗り出したヘンリー・フォード会長の存在は、エドセル・フォード社長を中心とした経営陣、および現場責任者にとっては迷惑であるばかりか、邪魔そのものに他ならなかった。
最初の頃は杞憂にすぎなかったが、ヘンリー会長の指示が細かい点におよび、さらには朝令暮改が日常的になると工場内は混乱の極致に陥った。

こうして、ヘンリー会長をA型への切り替え業務から離すことができなかったつけは、想像を絶する犠牲を伴ってフォード社と、A型を待ち望んでいるお客様を直撃した。

(※26-19話【第887回】は、ここまで)


26-18.自動車の歴史:アメリカ編53~ウォール街での株式大暴落~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツのタイトルは、“ウォール街での株式大暴落”となっています。
今から遡ること87年前の1929年10月24日、アメリカ合衆国ニューヨーク金融ビジネスの中心にあるウォール街の株式市場は、何の前触れもなく、あらゆる株価が突然暴落するという異常事態に見舞われました。
そしてこれをきっかけにして、世界の金融が破たんして“世界大恐慌”の時代を迎えることになりました。
本ブログの「26章 繁栄の終焉」というタイトルは、第一次世界大戦後にヨーロッパの復興をもたらした好況感が、この日を境に一気に悪夢の時代を迎えることになったことを表していたのです。

さて、本年3月8日から、サブコンテンツとして、世界ナンバーワンの自動車メーカーであるトヨタ自動車の現状分析、ならびにレクサス・ブランド戦略に関する著者の考察を記してきました。
このシリーズは、既に掲載を始めてから50日余が経過しております。
本日はトヨタ自動車にあって、“レクサスの成功”と対に位置付けられている“サイオンの失敗”のお話です。

サイオンのブランドストーリーを知っている日本人はほとんどいません。
トヨタ自動車にあって、サイオン(SCION)はアメリカ合衆国の若者向けのブランドとして、2003年に開始されました。
レクサス戦略が動き出したのが1989年のことですので、それから14年後に、トヨタ自動車は世界最大市場であるアメリカ合衆国で、TOTOTAとレクサスに続いて第三のブランドとなるサイオン・プロジェクトをスタートさせたのです。
この新ブランドは、いわゆる「ジェネレーションY」と呼ばれる20代前半の若い世代をターゲットに設定しました。
この当時、アメリカにおけるTOTOTAブランドの主要顧客は概して年齢層が高く、若年層の取り込みがトヨタ自動車にとって課題となっていました。
そこで、商品開発思想や広告展開まで新しい手法を用いることで、従来の“退屈なトヨタ車”のイメージを覆すことを狙ったのがサイオン・ブランドでした。
サイオン・ブランドの車種は日本ではbBとか、イスト、あるいはカローラ・ルミオンと呼ばれていた車であり、後にスバルと共同開発した86がFR-Sの名前で売り出されました。
最初の頃は順調に販売台数を増やしていたサイオン車でしたが、2006年の17万台をピークとして、年々減少が続き、昨2015年は約5.6万台と販売台数を落としてきました。
もともとレクサス車に比して単価が安い車ばかりであり、利益貢献の全くないサイオン車ビジネスに決着をつける時期を迎え、2016年2月、トヨタ自動車はサイオンを廃止することを発表したのです。
こうして振り返ってみると、レクサスで成功したものの、新しいブランドを創造し、新ブランドをビジネスとして定着することは実に難しいことである点を、トヨタ自動車の経営者は改めて実感したことでしょう。


26.繁栄の終焉


 世界大恐慌は“ブラック・サーズデー”のニューヨークのウォール街から始まった 


1929年10月24日の木曜日午前10時、ニューヨークのウォ一ル街にある株式市場では、いつものように立ち会いが始まった。

前日の締め切り直前にダウ平均株価が415ドルから384ドルに大幅下落したのを受けて、朝から大量の買いが入り、株価は急上昇し始めたが、10時半頃になると、どういうわけかGM社の株式に大量の売りが出た。

これに引き寄せられるように、主要銘柄に売りが殺到することになったが、あまりの売りの多さで株取引の現況を示す速報ボードでの表示が遅れてしまった。
この間、取引額は平静さを保っていたが、正確な取引の実態がボードで表示できるようになった11時過ぎ、そこに示された相場の大幅下落ぶりに反応して、狼狽売りが殺到し始めた。


この日はイギリスの前財務大臣であるウィンストン・チャーチルが株式取引所を正式訪問していて、歓迎セレモニーの後にチャーチルが参観席から立会場を見下ろしていたら、立会場では波瀾の取引が続き、やがて全ての株式が大暴落という修羅場になってきた。

正午が過ぎると、ウォール街のキーマンたちに緊急召集がかかり、対策を協議することになった。
そして市場を沈静化させるために、緊急記者会見を開いて、新聞記者たちを通して投資家たちに落ち着くように呼びかけたが、効果はまったくなかった。

午後に入るとさらなる売りが殺到し、一方超安値となったので絶好のチャンスとみた大量の買いも入り、平均株価は前日の下落幅を下回る12ドルのマイナスでこの日は終わったが、取引高は記録的であった。

ウォール街でのブラック・サーズデーを起点とする株式暴落は、直ちに陸続きのカナダへ伝わった。
さらに大西洋を渡って、ヨーロッパ大陸のイギリス、フランス、オランダ、ドイツへ、さらに東洋の島国日本へと伝わり、各国の株価暴落を誘発した。

株価の暴落は、経済活動に悪影響を与えて、主要諸国の経済は1920年代の好景気から一転して大不況に突入することになった。
特に、1930年6月に成立したアメリカの自国産業保護政策を強調する新関税法に触発されて、各国は保護主義関税法や輸入制限措置令を発動させるなどの波乱が続いて、各国間の貿易は縮小の方向に転じ、世界経済はどんどん悪化した。

こうしたニューヨークのウォール街での株価暴落をきっかけに始まった世界同時不況は、“世界大恐慌”と呼ばれるようになり、長い間人々を苦しめることになったのである。

(※26-18話【第886回】は、ここまで)


26-17.自動車の歴史:アメリカ編52~GMのフォード追撃~

本日のブログ『クルマの歴史物語』かより、舞台はヨーロッパからアメリカ合衆国に移ります。
そして、今週は木曜日まで自動車の歴史:アメリカ編が続きます。

さて、先週の木曜日にトヨタ自動車が展開するレクサス・ブランド戦略の成果を、地球上のエリア別に見ました。
今日は、わが国での2015年1年間のレクサス車の販売実績を車種別にチェックしてみましょう。
セダン合計では2万368台、クーペが4,930台であるのに対して、目下伸び盛りのSUVは2万2,839台というように、セダンを凌駕する販売台数を稼ぎました。

レクサス・ブランドのセダンは上からLS、GS、IS、HS、CTというように5車種あります。
フラグシップとなるLSには460、460L、600H、600HLの4タイプあり、価格ゾーンは854万円~1,595万円と幅広いのが特徴で、年間販売台数合計は3,892台であり、前年対比は88.6%という数字でした。
ちなみにトヨタのクラウン・マジェスタの同期間販売台数は3,300台であり、センチュリーは僅か149台でしたので、2006年にモデルチェンジして以来10年が経過している中では健闘していると言えましょう。

GSは、250が175台、300Hが2,382台、350が435台、新開発のGS-Fが189台でしたので、4タイプ合計で3,184台でした。

ISは9月登場200Tが782台、250が751台というように不振であるのに対して、中核となる300Hは4,157台を売りましたが、350は僅か260台というようにタイプによって売れ行きにばらつきがあり、4タイプ合計で年間5,950台の売り上げでした。

ハイブリッド専用のHSは2,050台しか売れませんでした。
ほとんど中身が同じで価格ゾーンが330万円~433万円のトヨタSAIが8,254台をさばいたのに対して、価格ゾーンは424万円~570万円というように約100万円高いレクサスHSには本当に存在理由があるのか疑問が残ります。
恐らくイージーな製品開発のツケがこうした形で表れているのでしょう。

366万円~460万円と、セダンでは一番安い価格ゾーンのハイブリッド専用レクサスCTの年間販売台数は5,395台で、前年対比は62.8%と落ち込みました。
2011年に市場導入されたCTは抜本的な補強策、すなわちレクサス・ブランドのボトムを担う魅力的な小型セダン(またはハッチバック)へのリボーンがない限り、本年の漸減は避けられないでしょう。
以上記したように、セダン系のレクサスは総じて不調と申せましょう。

2014年10月に登場したクーペRCの2015年販売台数はは200Tが223台に対して、300Hが2,554台、350が864台を販売しました。
注目のスポーツカーRC-Fは1,289台と健闘し、RC4タイプ合計で4,930台を日本国内で販売した点は、大いに称賛されることでしょう。


最後に22,839台というセダンを上回る販売台数を稼いだSUVに移ります。
レクサス・ブランドのSUVフラグシップで1,100万円のプライスタグが付いているLX570の2015年販売台数は793台でした。

昨年10月にモデルチェンジしたRXに関して、新旧両モデルを合計して200Tが642台、270が339台、350が108台しか売れませんでしたが、最も高価(602万円~742万円)な450Hが2,441台も売れ、4タイプ合計では3,530台を売り上げたことは立派でした。

2015年のレクサスを語るには2014年8月に新規導入されたNXの大成功が欠かせません。
200T及び300Hの2タイプ合わせて18,516台という驚異の売り上げを達成したことで、わが国でのレクサスの歴史に輝かしい一ページを記したことになるでしょう。
こうして、昨年度のレクサス車の販売データを振り返ってみると、時代はセダンからSUVへと大きく変化していることがよく分かりました。


26.繁栄の終焉


 1920年代の繁栄によってアメリカ自動車業界は発展をし続け自動車大国になった 


「花開く自動車文化」とタイトルされた『クルマの歴史物語 4部』も、いよいよ最終話まで残り4話となってきた。

『4部』の記述対象期間は世界大戦が終結した1919年から始まって、世界大恐慌のきっかけとなった暗黒の木曜日、すなわちブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)までの11年間である。
この11年間で、世界の自動車産業は大変革を遂げたが、そのリーダーはヨーロッパではなくアメリカ合衆国であった。


アメリカで販売された自動車のブランド数が最も多かったのは1910年頃と想定され、300に近いブランドが競い合っていた。
1920年代に入ると、技術の進歩に追い付いていくために巨大な設備投資を必要とする時代になったので、自動車メーカーは年毎に減少し、20年代末が近づくと国内で製造するカーブランドは50以下に減ってしまった。
この頃、市場から消え去ったブランドの中にはアパーソン、ウィントン、ヘインズといった有名ブランドもあった。

これらのブランド数の減少に伴って、一時はアメリカ本土の全州でつくられたこともあった自動車生産拠点の集中化が進んで、1920年代末には9州だけで生産されるまで減ってしまった。

このようにアメリカ自動車産業はブランド数と生産拠点数において大幅減少をしたが、その一方で販売台数の増加は著しく、20年代末には年間販売台数で400万台を突破し、450万台に迫るまで拡大を続けた。

これに伴って、アメリカ合衆国を走り回る自動車総数は世界大戦終了時点で800万台水準にあったものが、20年代の10年間で2,300万台という驚くべき台数まで膨れ上がり、1.3世帯当り1台というように普及したのである。


このような自動車の普及にいちばん貢献したのが〈フォード/T型〉であったが、フォード社は新型のA型にモデルチェンジする際に、数カ月間生産停止をしたつけによって、売上の大幅ダウンを余儀なくされた。

この時期にアルフレッド・スローン体制になって成長路線を突っ走るGM社は記録的な売上増を重ね、いったんはアメリカ自動車業界トップのポジションを奪ったが、A型の生産体制が整ったフォード社に再びナンバーワンの地位を奪い返された。

頑固な65歳の男が全ての権限を掌中にしているフォード社は、業界トップの地位を維持するのがだんだん難しくなっていた。
その一方で、スローン社長の指導力によって、それぞれの専門家に経営機能の権限を委譲する近代的マネジメント体制が整ってきたGM社は、フォード社追撃ののろしを上げ、とうとうアメリカナンバーワンの自動車メーカーのポジションをキャッチすることが目の前に迫ってきたのである。

(※26-17話【第885回】は、ここまで)


26-16.レースの歴史:ヨーロッパ編39~ヘンリー・シーグレイヴ~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツの主役は、スピード狂として有名になったイギリス人ヘンリー・シーグレイヴのお話です。
もう一方のサブコンテンツは、2015年度のわが国での自動車販売台数をご案内いたします。

2015年の世界中でのレクサス車の販売データを昨日掲載しましたが、次に私が愛読するカー雑誌「ベストカー2016年2月26日号」に掲載されている日本車の2015年度メーカー別・車種別販売台数データを提供します。
わが国での、昨年1年間(1~12月)の新車販売台数は軽自動車を含めて504万6,510台で前年比90.7%という悪い数字でした。
このうち、軽自動車の販売台数は前年対比で89.7%に当る115万1,404台であり、軽自動車税の増税の反動をまともに受けた極端に不振の1年でした。
これに伴って、軽自動車の構成比は前年の39.1%から2015年は35.9%へと大きく低下してしまいましたが、軽自動車が引き続き大きな存在感のある分野であることは変わりません。

2015年度メーカー別販売台数を見ると、1位:トヨタ自動車は前年対比96.4%の149万7,298台でしたが、大差をつけてトップを独走しています。
2位:ホンダはトヨタの半分に満たない72万6,928台でしたが、フィットの度重なるリコールやタカタ製エアバック問題などが噴出した結果、前年対比は85.6%というように不振のまま1年間を終えました。
以下は、3位:スズキ、4位:ダイハツ、5位:日産という順ですが、この4社とも前年対比で90%を割り込んでいます。
6位のマツダだけは、ディーゼルエンジン搭載乗用車をヒットさせ、乗用車メーカーの中では唯一前年対比で+9.4%という立派な数字を達成しました。
以下、7位:スバルが前年対比95.7%と100%に届かず、8位:三菱に至っては前年比81.6%という惨状でした。

トヨタ自動車の149万7,298台のうち、4万8,137台がレクサス車ですので、レクサス車の台数構成比は3.2%という数字になります。
ところが、1台あたりの平均単価はトヨタ・ブランド車の2倍以上はしているので、売上金額で見ると7~8%、あるいはそれ以上の構成比になっていると推定されます。


26.繁栄の終焉


 速度記録を次々と塗り替えたヘンリー・シーグレイヴはイギリスで国民的英雄となった 


Segrave.png
〈イギリス人の英雄ヘンリー・シーグレイヴ〉

ズボロフスキー伯爵の次にスピード記録に挑戦するのはヘンリー・シーグレイヴという向こう見ずな若者であった。

シーグレイヴは、1923年のフランスGPにサンビームチームの一員として参戦して、イギリス車にとって,またイギリス人ドライバーにとって初めてGPレースを制したことで国民的英雄となった。
ケネルム・ギネスの220.7キロというスピード記録は、230.5キロを出したルネ・トーマのドラージュに破られ、1925年になると、350HPにパワーアップしたサンビーム車を操縦するマルコム・キャンベルによって記録は242.8キロに塗り替えられた。

これを知ったシーグレイヴは、翌年春に排気量4リッターのV12エンジン搭載の〈サンビーム/タイガー〉で245.1キロを出して、キャンベルの記録を破った。
ところが、その6週間後にイギリス人のバリー・トーマスという男が272.4キロという大記録を出したことで、シーグレイヴの闘争心は燃えさかった。
この2人にキャンベルが加わって、イギリス人ドライバー同士が三つ巴になって速度記録への挑戦が続くことになった。

ヘンリー・シーグレイヴは他人に破られることのない記録を出すためには、圧倒的なハイパワーが必要であると考えた。
そこでスポンサーを見つけて、500HPを発揮する航空機用エンジンを2基積む全長6メートルという巨大なサンビーム車を製作する費用を出してもらい、クルマができあがるとアメリカのフロリダ州デイトナビーチまで遠征した。

1927年に英雄シーグレイヴが操縦する1,000 HP車は、それまでの記録から50キロ以上も早い時速327.9キロ(203.7マイル)という信じられないスピードを実現すると同時に、“史上初めて時速200マイルを突破したクルマとそのドライバー”という栄誉に輝き、国民的英雄としての人気はますます高まった。


1928年になると、英雄ヘンリー・シーグレイヴが持っている陸上速度記録は、ライバルであるマルコム・キャンベルによって破られ、その翌年にはインディ500で優勝したアメリカ人ドライバーのレイ・キーチがさらに記録をアップした。

これで頭にきた英雄シーグレイヴは、陸上速度記録を奪還するために、“ゴールデン・アロー号”というネイピアエンジン搭載の超ハイパワー車を製作すると同時に、水上速度記録にも関心を示して、同じネイピアエンジンを使うスピード記録挑戦用のモーターボート“ミス・イングランド号”の製作に入ったのである。


1929年春、英雄シーグレイヴはフロリダ州のデイトナビーチにおいて、従来の記録を37キロも上回る時速372.4キロの陸上速度記録を樹立することに成功し、キャンベルとキーチを過去の人物に追いやった。

そして、10日後にはマイアミで開催されるアメリカで人気最高のボートレースに出力1,000HPのミス・イングランド号で出場することになったが、このボートレースでは、2,000HPという超高出力の“ミス・アメリカV号”が優勝間違いなしと予想されていた。
ところが、レースが始まるとミス・イングランド号がミス・アメリカV号を破って優勝してしまうのであった。

アメリカ人のショックをよそに、この知らせがイギリス国民にもたらされると国中あげての騒ぎになり、英雄シーグレイヴはイギリス人の誇りとして祭り上げられることになった。
この状況の中で、国王ジョージ五世はナイトの称号を与えると発表したものだから、英雄シーグレイヴが帰国する時には熱狂的な歓迎を受けることになった。


“サー”と呼ばれるようになったシーグレイヴは、陸上速度記録を破る人物はもう出現しないと自信を持っていたので、水上速度記録を伸ばすことに集中することにした。
次の目標は、アメリカ人が保持する時速149.5キロの記録を破ることであり、そのためにロールス・ロイス製航空機用エンジンを積む“ミス・イングランドⅡ号”の製作に入った。

1930年6月、イングランド北西部にあるウィンダミア湖は春がやってきたばかりであった。
路面が静かで直線で17キロの長さがあるこの湖がサー・シーグレイヴの水上記録挑戦の舞台に選ばれた。

最初のスピード航行で、従来の記録を更新する時速159.1キロを達成したことを知ったサー・シーグレイヴは、これで満足することなく、更なる高速航行に挑戦することになった。
スピードを徐々に上げて、時速190キロを突破したと思った瞬間、ボートは水面下にあった障害物に激しくぶつかり、バランスを崩して舞い上がった直後に水中に突っこんだ。
船内にいたエンジニアは即死し、数多くのスピード記録を塗り替えた男はすぐに救助されたものの事故発生から2時間半後に病院で、その短い人生を終えたのである。
(※26-16話【第884回】は、ここまで)