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30-31.民間企業の誕生⑧~巨大化する鈴木商店~

本日は月曜日であり、今週もブログ『クルマの歴史物語』は金曜日まで週5日掲載を継続いたします。
本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、「民間企業の誕生」シリーズの8回目であり、本日をもって「30章 明治から大正へ」は終了することになります。
そして、火曜日から「31章 梁瀬長太郎とゴーハム」が始まりますので、『5部 日本車の夜明け』はまだまだ続きます。
さて、本日のサブコンテンツの方は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の122回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その122】※※※※※※※※※※

●『ワークス ドライバー』●

〖本書の概要〗
・BANDIERA A SCACCHI:原題(イタリア語)。
・ピエロ・タルッフィ(Piero Taruffi)著、髙島鎮雄(たかしま・しずお)+太田恒子(おおた・つねこ)訳。
・1969(平成44)年9月に、二玄社より定価850円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:読み物。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★☆☆☆☆、
      レースファン★★★★★、オールドカーファン★★☆☆☆)。
・入手容易度:B

〖本書の案内〗
訳者の高島鎭雄氏は自動車の歴史に詳しいエキスパートです。
その彼が本書の”序”において本書を紹介していますので、それをそのまま転載することにします。
「ピエロ・タルッフィはヴィンティッジ期の1923年に初のレースを経験し、1957年の最後のミッレミリアにおける輝かしい勝利を最後に引退するまで、実に37年の長きにわたってレーシングカーのステアリングを握り続けた。だが彼は1度もワールド・チャンピオンにはなっていない。もし彼がグラソプリ・レースだけに専念していたら、それは容易であったかもしれない。しかしすべてのモータースポーツに限りない興味を抱く彼は、活躍の倶をモーターサイクルからツーリングカー、スポーツカー、グランプリカーまでの広範囲に求め、その場をサーキット・レースから長距離のロードレース、ヒルクライム、レギュラリティー・トライアルにまで広げている。」
 (中略)
「本書は、そのタルッフィが長いキャリアを振り返って刻明に書きつづったものである。しかし彼自身序文に述べているとおり、これは一ドライバーの単なる自叙伝ではない。彼は自分の経験をつづることによって若いドライバーたちに生きたドライビング・テクニックを伝授し、さらにもっと本質的にモーター・レーシングの何であるか、レーシングドライバーのいかにあるべきかを示唆しようとしているのである。」
 
〖本書の目次(ぺージ構成し〗
 第 1章 わが父(P.7~P.12)
 第 2章 二輪時代(P.13~P.25)
 第 3章 友情(P.26~P.35)
 第 4章 スクデーリア・フェラーリに加わる(P.36~P.52)
 第 5章 マセラーティ・ロンディーネイ、ブガッティ(P.53~P.76)
 第 6章 ジレーラ、南ア遠征(P.77~P.88)
 第 7章 第2次大戦後:チシタリア、アルファ・ロメオ(P.89~P.113)
 第 8章 フェラーリへの復帰(P.114~P.133)
 第 9章 ランチア(P.134~P.151)
 第10章 幸運と不運と(P.152~P.166)
 第11章 メルセデスF-1(P.167~P.181)
 第12章 1956年:マセラーティ(P.182~P.199)
 第13章 1957年:大いなる決断(P.200~P.214)
 第14章 記録(P.215~P.231)
 第15章 新しい任務(P.232~P.246)


122ワークス・ドライバー
〈『ワークス ドライバー』の表紙〉








30.明治から大正へ


 番頭金子直吉をリーダーとする鈴木商店は世界大戦後の好況期に急成長を遂げた 


30金子直吉
〈鈴木商店の大番頭:金子直吉〉

世界大戦中、重工業の急速な発展によって、協商国側への軍需品輸出が急増した日本は、ロシアとの戦争勝利時を超える、空前の好景気を謳歌することになった。

大戦景気によって巨万の富を手に入れた成金たちとともに、三井・三菱・住友・安田の4大財閥、これに続く大倉・浅野などの新興企業グループはますますその力を伸ばしていったが、この時期に目覚しい伸張を続けたのは鈴木商店だった。

創業者の鈴木岩次郎(すずき・いわじろう)が1894(明治27)年に逝去後、指揮を執る金子直吉(かねこ・なおきち)の商才によって扱い品目の拡大を図る一方で、神戸製鋼所をせん兵として重工業分野への進出を図るなどの拡大策が当り、鈴木商店の躍進が続いた。
明治時代の末期には、続々と会社をつくり、三井や三菱と同じような企業グループを形成していった。

シーメンス事件直後の1914(大正3)夏に世界大戦が勃発すると、直吉はこの戦争が長期戦になり、国際商品相場は高騰するに違いないと読んで、相場を張ったらことごとく成功して、またたく間に鈴木商店は財閥化した。

その扱い高は三菱合資営業部をはるかに超え、1917(大正6)年になると、シーメンス事件によって大きく傷ついた三井物産をしのぐまでになった。
この頃の直吉は、「三井、三菱を圧倒するか。さもなければ、彼らと並んで天下を三分するか」と社員に叱咤激励するほどの意気軒昂ぶりだった。

満足することを知らない直吉は、その後も播磨(はりま)造船所、日本セルロイド人造絹糸(現在のテイジン)、日本製粉などの企業を系列化し、また日本商業や帝国汽船を設立するなど、鈴木商店の傘下企業数は60社を超えるようになっていた。


世界大戦中の異常な好景気は、一方では物価高を招き、民衆の生活は苦しくなるばかりだった。

1918(大正7)年7月、日本軍のシベリア出兵をあてこんだ米商人が買い占めに走ったとの噂が広がり、この影響で米価が急上昇したことに怒った民衆が米商人を焼き討ちするという騒ぎが各地で起こった。

この標的にされたのが、あくどい商売でのし上がったと悪評さくさくの鈴木商店で、神戸本店や全国の支店が民衆から襲撃を受けることになったが、このくらいのことで直吉の野望は衰えることはなかった。

(※30-31話【第1,041回】は、ここまで)


30-30.世界大戦に参戦する日本②~ベルサイユ体制~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、「世界大戦に参戦する日本」シリーズの2回目であり、“ベルサイユ体制化の日本”というサブタイトルが付いています。
そして、本日のサブコンテンツは『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の121回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その121】※※※※※※※※※※

●『ファンジオ自伝』●

〖本書の概要〗
・原題:My Twenty Years of Racing
・J.M.ファンジオ(Juan Manuel Fangio)+ジャンベルトーネ(Marcello Giambertone)著、高齋 正 訳
・1974(昭和49)年10月に、二玄社より定価1,800円で初版を発行
・BOOKカテゴリー:読み物
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★★☆☆☆、
      レースファン★★★★★、オールドカーファン★☆☆☆☆
・入手容易度:B

〖本書の案内〗
表題のファンジオは、1950年代に大活躍した天才型のレーシングドライバーのことです。
本書の案内は、裏表紙に載っている文章をそのまま以下に転載することにいたします。
「戦後のモータースポーツ界に輝かしい黄金時代を築いた1950年代に、5度にわたりワールド・チャンピオンの座に就くという不滅の偉業を成した名ドライバー:ファン・マヌエル・ファンジオ。その彼が,少年のころに目覚めたエンジンに対する情熱に始まり、栄光のなかで引退を決意するまでの自己の半生を、マネジャーであるシャンベルトーネの言葉を時に交えつつ、モータースポーツ・ファンに語りかける。彼の人柄を表わすような謙虚な言葉や表現のなかにも、レースに対する並み並みならぬ愛着と倦むことなき情熱が,ここかしこにあふれ出ている。同時に、彼がファンにぜひ分かってもらいたいと望む、レース生活の裏にある苦悩や葛藤も、淡々と伝えられる。」

〖本書の目次(ぺージ構成し〗
  1.バルカルセから来た少年(P.13~P.22)
  2.アルゼンチンのロード・レース(P.23~P.32)
  3.チャンピオンたちに挑戦(P.33~P.46)
  4.南アメリカのグランプリ(P.47~P.54)
  5.ヨーロッパでの勝利(P.55~P.70)
  6.エース誕生(P.71~P.74)
  7.フランスへ進撃(P.75~P.80)
  8.ヴィロレーシと戦った2レース(P.81~P.88)
  9.アルファ・ロメオでのレース(P.89~P.98)
 10.時速100マイルの猛火(P.99~P.104)
 11.ファンジオの人柄(P.105~P.110)
 12.初めての世界チャンピオン:1951年(P.111~P.120)
 13.モンツァの惨事(P.121~P.160)
 14.ホーソーン、間一髪の勝利(P.161~P.170)
 15.2度目の世界チャンピオン:1954(P.171~P.180)
 16.3度目の世界チャンピオン:1954(P.181~P.190)
 17.4度目の世界チャンピオン:1954(P.191~P.198)
 18.5度目の世界チャンピオン:1954(P.199~P.206)
 19.キューバでの誘拐事件(P.207~P.210)
 20.引退の決意(P.211~P.216)


121ファンジオ自伝
〈『ファンジオ自伝』の表紙〉









30.明治から大正へ


 世界大戦に協商国側で参戦した日本は5大国としてベルサイユ会議に出席した  


この大戦争が始まるまで世界を支配していた戦争観は、「戦争は外交の一手段であり、政治の延長でもある。戦うのは軍人であって国民全てではない」というものなので、戦争で安易に問題解決に走る傾向があった。

負ければ賠償金を払い領土を失うことになりかねないが、国民が道徳的責任を問われることは一度たりともなかった。

ところが、ヨーロッパ大陸で始まった今度の戦争は、大方の予想を覆して長期戦になってきた。
参戦国は、戦車・飛行機・潜水艦という近代兵器を開発して戦場に投入し、ドイツにいたっては史上初めて毒ガスを使用するなど、各国とも持てる力の全てを出し切る総力戦になり、ヨーロッパ大陸は歴史的な惨状を呈することになった。


1917(大正6)年4月、アメリカ商船がドイツ潜水艦から無差別攻撃を受けたことをきっかけとして、ウッドロー・ウィルソン大統領は参戦を決意したが、これ以降協商国側の優位がはっきりしてきた。


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〈ウィルソン大統領〉

この頃、ロシアの地ではレーニンを指導者とする社会主義革命によって、広大な大地を支配し続けてきた帝政ロシアは打倒され、ソビエト社会主義連邦という新国家が建国され、戦線を離脱した。


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〈レーニン〉

4年と3カ月間という長きに渡る地球史上初の近代戦争は、1818(大正7)年10月に、ドイツが白旗を掲げることにより終結した。


世界大戦中、中華民国は青島からの日本軍撤退を求めてきた。
これに対し日本は、「ドイツがもっていた山東省の権益を日本が引き継ぐこと、満州南部エリアの租借期限を延長すること、南満州鉄道の経営権を期間延長すること」など21カ条にわたる要求を突きつけ、武力でこれを受け入れさせたら、イギリスとアメリカが抗議してきて、両国と日本との関係がギスギスするようになった。


ヨーロッパ全土を破壊した悲惨な戦争が終わると、パリで講和会議が開かれ、アメリカ合衆国・フランス・イギリスの3国を中心に戦後処理問題の議論が始まることになると、日本はイタリアを加えた5大国のひとつとして会議への参加を許された。


会議では、アメリカのウィルソン大統領から、世界平和と国際協調を目的とする“国際連盟”の設立が提唱され、種々の議論を経て、最終的にベルサイユ条約が結ばれることになった。

この条約によって、ドイツは植民地の全てと領土の一部を失うと同時に莫大な賠償金を押し付けられた。
1920(大正9)年に国際連盟は発足したが、提案国であるアメリカが議会の反対にあって参加しなかったので、最初から困難に直面した。



世界大戦が終わると、日本の景気は一気に上向いて、数多くの成金が出現することになった。
こうした金持たちは輸入車を欲しがるようになり、需要は急上昇することになった。

供給する立場にある輸入車ディーラー業界は、ハドソンの日本自動車がトップで、ビュイックの他にシボレーとキャデラックを加えた梁瀬商会が激しく追いあげ、パッカードの三和自動車と高田商会が力をつけてきた。
外資系のフォード車ディーラーとしてセールフレーザー社も活躍しており、さらにエムパイヤ自動車や安全自動車も輸入車ディーラービジネスに参入してきた。

国産車づくりや、乗合自動車運行会社への投資など回り道が多かった梁瀬商会は、本業のディーラービジネスに戻った。
ビュイックを改造して、日本でのワゴン1号車となる乗用半分貨物半分の自動車を製作するなど、新興他社に負けないよう積極的な営業活動を展開するのであった。

(※30-30話【第1,040回】は、ここまで)


30-29.世界大戦に参戦する日本①~シーメンス事件の混乱~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、「梁瀬長太郎の外車人生」から「世界大戦に参戦する日本」シリーズへと移り、その1回目となる本日は日本政界を揺るがしたシーメンス事件のお話です。
そして、本日のサブコンテンツは『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の120回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その120】※※※※※※※※※※

●『自動車の歴史』●

〖本書の概要〗
・エドワード・スローム&ジェイムス・クレンショウ:共著。
・東京工業大学助教授 山崎俊雄:訳。
・1964(昭和39)年1月に、ベースボール・マガジン社より定価800円で初版を発行。
・BOOKガテゴリー:読み物。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★★☆☆☆、
      レースファン★☆☆☆☆、オールドカーファン★★☆☆☆。
・入手容易度:C

〖本書の案内〗
本書は発行が1964(昭和39)年と古いので、たいへんな貴重本であり、恐らく本書を所持している人は何人もいないと想定されます。
本書の特徴を知るには、訳者である山崎氏が記した巻頭の『訳者まえがき』が手っ取り早いので、その一部を以下に転載しましょう。
「本書の重点は、自動車の誕生期にあたる1890年代から1910年代におかれる。豊富でどれも愉快な写真は大部分、原書の刊行者であり、アメリカでも由緒あるボピュラー・メカニックス社所蔵の貴重な記録である。原書の題名は「オート・アルバム」、いわば自動車の紙上博物館である。博物館は過去の遺物の陳列場のみではない。未来へのアイデアを育てる揺りかごであることを知っていただきたい。」

〖本書の目次(ぺージ構成し〗
第1章 馬なしの車、(P.7~P.22)
第2章 最初の自動車、(P.23~P.62)
第3章 蒸気自動車物語、(P.63~P.86)
第4章 陳列棚の車、(P.87~P.94)
第5章 スピードのヒーローたち、(P.95~P.136)
第6章 技術者の銀行家、(P.137~P.197)
第7章 横町からハイウェイへ、(P198.~P.232)
第8章 未来の自動車、(P.233~P.246)


120自動車の歴史
〈「自動車の歴史」の表紙〉







30.明治から大正へ


 時代が大正に移り、政治が混乱する中で海軍汚職のシーメンス事件が発生した  


1912年の明治天皇ご逝去にともなって元号が大正に変わることによって、45年間にわたる明治時代は、その役目を終えることになった。

日本独自の世界が維持されてきた徳川時代最末期から一転して、西洋式文化や技術が続々と導入された明治時代は、国家として発展の一途をたどった45年間であった。
ところが、大正時代に入ると、日本国は必ずしも直線的な発展を歩み続けるのではなく、あちこちで混迷が発生するようになってきた。


政治の世界では、藩閥の代表選手のような桂 太郎の後を、海軍大将の山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)が継ぐことになった。
山本新内閣が発足して、安定政権をつくろうと考えていた矢先の1914(大正3)年1月の国会会期中に、「ドイツの巨大企業シーメンス社が日本海軍へ賄賂(わいろ)を渡した」という外電が飛び込んで、新聞報道でこの事実は暴露された。

これで動いたのは尾崎行雄(おざき・ゆきお)や犬養 毅(いぬかい・つよし)らに率いられる野党で、シーメンス汚職事件を糾弾する国民大会が日比谷公会堂で開催されたら興奮した群集が国会議事堂を包囲するなど、山本内閣打倒の運動が全国で燃え盛った。


30犬飼 毅
〈犬養 毅〉

シーメンス事件の調査が進むうちに、新造艦金剛(こんごう)の入札にも不正があることが判明した。
イギリスのビッカース社代理店である三井物産とアームストロング社代理店である高田商会の間で激しい売り込み競争があり、三井物産がビッカース社から受取る手数料の1/3を海軍当局者に渡した結果、ビッカース社に入札指名が決まったことが発覚したのだ。

この事件で、山本条太郎(やまもと・じょうたろう)ら5名の三井物産幹部が逮捕されたことで、三井家のトップである三井八郎右衛門(みつい・はちろうえもん)社長は道義的責任をとって辞任することになったが、三井物産の社会的信用は大きく失墜したのである。


日本の政治や社会が混乱する中で国際情勢は急変していた。ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアという列強間の対立が深まって、一触即発しかねない緊張した状態が続いていた。

これら5カ国間で壮絶な駆け引きが行われた結果、〔イギリス+フランス+ロシア〕間で“三国協商”が成立すると同時に、〔ドイツ+オーストリア・ハンガリー〕間で“同盟”が結成され、2つの陣営の対立図式がはっきりしてきた。


1914(大正3)年6月末、ヨーロッパ大陸の南西に位置するバルカン半島の代表都市であるサラエボでセルビアの一青年が、来訪中のオーストリア皇太子に向けて銃弾を発射した。
これをきっかけにして、列強各国が相次いで宣戦布告し、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争が始まったが、多くの関与者はこれまでのように戦争は短期間で終わると信じていた。

イギリスとの同盟条約に基づき三国協商入りすることを決めた日本は宣戦布告を発し、ドイツの植民地である山東半島の根元にある青島(チンタオ)を攻撃した。

(※30-29話【第1,039回】は、ここまで)


30-28.梁瀬長太郎の外車人生~国産車に挑む梁瀬商会~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、「梁瀬長太郎の外車人生」シリーズの4回目として最後となる「国産車に挑む梁瀬商会」です。
この内容は、GM社のビュイックを取り扱うディーラーをスタートさせた梁瀬長太郎が、何を思ったのか国産車をつくり始めたという信じられないお話です。
そして、本日のサブコンテンツは『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の119回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その119】※※※※※※※※※※

●『AMERICAN CAR AD COLLECTION 1940-1965』●
(副題:雑誌広告に見るアメリカ車のスタイリング)
  
〖本書の概要〗
・成江 淳(なりえ・じゅん)著
・1997(平成9)年1月に、グリーンアロー出版社より定価3,200円で初版を発行
・BOOKカテゴリー:グラフィック読み物
・読者区分別推薦度:エンジニア★☆☆☆☆、経営・マーケティング★★★★★、
      レースファン★☆☆☆☆、オールドカーファン★★★★☆
・入手容易度:A

〖本書の案内〗
この美しい本書は実にユニークであり、かつ関心のある方にとっては永久保存版となることでしょう。
本書には太平洋戦争が始まる前年の1940(昭和15)年から始まり、大戦後の繁栄を謳歌している1965(昭和40)年の期間に販売された魅力的なアメリカ車のポスターコレクションを製本化しています。本書の著者は成江 淳(なりえ・じゅん)という方で、裏表紙では以下のように紹介しています。
「長年にわたる自動車テスター生活を通じて、本書に登場するほとんどのクルマに接している。世界一流の外国自動車メーカーのマーケッティング(SP、PR、AD)を身をもって体験し研究を重ねた。内外一流の広告代理店と付き合い、広く自動車のマーケッティング知識を講師として説き、数多くのコピーライターを育てる一方、経営を含めた広い角度から自動車の評論を展開する。〈主な著書〉としては、「我らのスポーツカー」「人間の車ベンツ」「グレートカーズ・グレートコレクション」等がある。」

〖本書の目次(ぺージ構成)〗
・まえがき(P.4)
・1940年代(P.5~P.28)
・1950~1955年(P.29~P.46)
・1956~1959年(P.47~P.72)
・1960~1965年(P.73~P.88)
・広告のコピー訳と解説(P.89~P.158)
・アメリカ車広告の「年代別特徴」(P.159~P.165)
・自動車広告100周年記念(P.165~P.166)


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〈『AMERICAN CAR AD COLLECTION 1940-1965』の表紙〉











30.明治から大正へ


 梁瀬長太郎は輸入車に限界を感じ自動車を国産化したいという夢を実行に移した 


この頃、自動車ビジネスの将来に明るい見通しを持つようになった梁瀬商会の長太郎社長は、自動車の国産化を考えるようになっていた。

完成車として輸入するビジネスと違って、国産自動車をつくるとなると難易度が高い。
こんな難しい仕事が果してやり切れるのか不安がないわけではなかったが、一度夢を見てしまうと、実現に向かってわき目をふらず直進する長太郎の性格は子供の時から変わらなかった。


技師長の堀 久(ほり・ひさし)に設計を命じた“ヤナセ号”の開発が始まった。

堀は、自分の知識を総動員して、新型国産車づくりにまい進することになった。
メインパーツは外注する方針を採り、エンジンは池貝(いけがい)鉄工所に、電装部品は沢藤(さわふじ)電気製作所に発注した。
この他に、変速装置、ステアリング装置、制動装置など自動車を構成する部品の発注先を厳選し、警笛ラッパは豆腐屋のラッパづくりで業界ナンバーワンといわれている業者に要請した。

こうして、1916(大正5)年にヤナセ号の試作車が完成することになった。
試走を繰り返した後、できの良さに満足した長太郎社長は、国産車の生産販売を梁瀬商会のメインビジネスにするつもりで同じ自動車を5台製作した。


5台のクルマは開発資金を加えると1台当たりのコストが6,500円となった。

この値段ではとても売れないので、採算割れを覚悟して3,000円の売価に設定したが、輸入車と比較してかなり割高のこの値段では、買いたいという人が現れず、国産自動車プロジェクトは梁瀬商会に大きな傷跡を残すことになった。

自動車メーカーは、大量生産しなければコストが高くつくので、ビジネスとして成り立たないことを真に学んだ長太郎社長は、これ以降、決して自動車をつくるとは言わなくなくなった。


国産自動車づくりで大きな損失を発生させた梁瀬長太郎社長は、初心に戻って本業である輸入車代理店の仕事に打ち込むかに見えたが、今度は、乗合自動車運行事業を手掛けるようになった。

伊豆の伊東に本拠地を置く東海自動車という乗合自動車運行会社を設立したのが最初で、熱病にうなされるように日本各地に運行会社を新設した。

ある時、長太郎は乗合自動車の運転手と車掌が少しずつ売上をくすねていることを知ることになった.
他の会社でもやっていないかどうか調べてみたら、全部の運行会社でこういうピンはね行為が横行しているという実態を把握することになった。

潔癖症の長太郎はこれを許すことができなかった。
各社で不正行為禁止に向かって厳しい指導が始まったが、いっこうに改善が見られなかった。
これで、乗合自動車ビジネスに嫌気をさして長太郎は、せっかく設立した運行会社であるが、全て売却してしまったのである。

(※30-28話【第1,038回】は、ここまで)


30-27.梁瀬長太郎の外車人生③~梁瀬商会の船出~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のメインコンテンツは、「梁瀬長太郎の外車人生」シリーズの3回目として、赤字続きの輸入車ビジネスを押しつけられた梁瀬長太郎が、GM社のビュイックを取り扱うディーラーをスタートさせるというお話です。
そして、本日のサブコンテンツは『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の118回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その118】※※※※※※※※※※

●『The Land Speed Record 1898~1919』●英語版

〖本書の概要〗
・R.M.Clarke:編
・Brooklands Booksより発行
・BOOKカテゴリー:専門書
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★☆☆☆☆、
      レースファン★★★☆☆、オールドカーファン★★☆☆☆
・入手容易度:A

〖本書の案内〗
本書はA4サイズ130頁の英語版です。
またスピード記録の対象期間が1898年から1919年に限定されていますので、特別興味をもつ方以外にはお勧めできません。


118Land Speed Record
〈「The Land Speed Record 1898~1919」の表紙〉









30.明治から大正へ


 三井物産を退社して輸入車販売業をやることになった梁瀬は警視庁に挨拶に行った 


三井物産に入社したばかりの梁瀬長太郎は1915(大正4)年に正式に退社手続きを行い、三井物産から自動車とガソリンの一手販売権を譲り受けると同時に、日比谷にある土地を借用して、梁瀬商会を設立することになった。

日本の自動車保有台数が全国合わせても千台を超えたばかりの時代である。
自動車を売るのはたいへんだし、クルマが少ないのでガソリン需要も多くなかったから、梁瀬商会の船出は厳しかった。


自分の意思とは関係なく自動車ビジネスに入ることになった長太郎は、梁瀬商会のスタートと社長就任の挨拶のために、交通の取締りの総元締めである警視庁交通課の石井光次郎(いしい・みつじろう)課長を訪ねることになった。

「私はこの度、三井物産から独立して輸入車の販売業をやることになりました梁瀬と申します。本日は、たいへん貴重な時間を私のために割いていただきましてありがとうございました。石井課長様にはお世話になることが多いと思いますが、ご指導をよろしくお願いします」

「こちらこそ。近年わが国では自動車が増加して事故が多発しておりますので、安全運転の指導をしっかりお願いしますよ」

「私は、自動車が日本人の生活に役立つ存在になって始めて、売上が増えるものと思っていますので、安全性の向上には格別力を入れたいと思っています」

「たいへん結構です。ところで梁瀬さん。お宅では1年に何台くらい販売するつもりですか」

「輸入車にとって厳しい環境が続いていますが、何とかして1年間で3台は販売したいですね」と長太郎が返答したら、「はっきり申して、3台売るのは至難だろうな」と意見が返ってきた。

自動車の実態を把握している石井交通課長から、自動車事業の将来性に厳しい見方を示されると、独立して自動車ビジネスをやる羽目になった長太郎は身の不運を改めて実感すると同時に、「1年間で3台以上は絶対に売って、石井課長の鼻をあかしてやるぞ」と、闘争心に火を点けるのであった。


独立にあたって、日本における自動車登録台数の推移を長太郎は調査していた。
このデータによれば、1906(明治39)年にわずか11台であった登録台数は、翌年は8台増加して19台になった。
1908(明治41)年に入るとこの年だけで100台以上輸入車が急増して121台になり初めて3桁を記録し、この翌年には235台というように登録台数はさらに増加した。

年号が大正に代わった最初の年である1912年は倍増ペースが続いたが、それでも日本中合わせてたった512台だった。翌1913(大正2)年に892台になり、ようやく1,000台を超える自動車が走行する時代に入ってきたばかりであった。
これだけしかない輸入車市場のパイを奪い合っているディーラーの中では、アメリカ製ハドソンを扱う大倉グループの日本自動車が一歩リードし、陸軍を押さえていた。
これに対して海軍は、三井物産扱いのビュイックが主力であり、この商権は梁瀬商会が引き継いだ。

梁瀬商会が三井物産から借用した土地は日比谷の一等地ではあるが270坪しかなく手狭なので、呉服橋に1,000坪の土地を借り、ここに日本での第1号となる修理工場を新設したら、故障車で満杯になってきた。

一方、同じように修理工場が手狭になっていた赤坂溜池の日本自動車は、解決策として、新宿郊外の中央線中野駅前の土地8,000坪を借りて、日本自動車と梁瀬商会が半分ずつ使用する呉越同舟(ごえつどうしゅう)プランを提案し、約束が成立したらすぐに修理工場建設に着手した。

(※30-27話【第1,037回】は、ここまで)