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32-23.国産車発展小史⑮~豊川順彌の行き詰まり~

今日は3月としては最初の日ですが、皮肉なことに、「32章 関東大震災の悪夢」としては本日が最終話となります。
明日から、『クルマの歴史物語』の『5部 日本車の夜明け』としては最終章となる「33章 昭和の始まり」がスタートすることになりますので、引き続いてのご愛読をよろしくお願いいたします。
そして、昨日のブログでは、雑誌『ドライバー』の臨時増刊号『日本のクルマ100年』をご案内しましたが、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の157回目として、雑誌『モーターファン』の臨時増刊号『国産車100年の軌跡』をご案内いたします。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その157】※※※※※※※※※※

●『雑誌モーターファン臨時増刊号『国産車100年の軌跡』●

〖本書の概要〗
・モーターファン編集部:編集
・1978(昭和53)年10月に、三栄書房より定価1,300円で発売。
・BOOKカテゴリー:雑誌の臨時増刊号。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★★★☆、経営・マーケティング★★★★☆、
      レースファン★☆☆☆☆、オールドカーファン★★★★★。
・入手容易度:B
 
〖本書の案内〗
わが国の自動車発展史を特集している雑誌の内、私が所持している3冊を昨日のブログでご紹介しました。それは、雑誌『ドライバー』創刊10周年記念出版の1974(昭和49)年12月発行『日本のクルマ100年』と、雑誌『モーターファン』400号&三栄書房創立30周年記念の1978(昭和53)年10月発行『国産車100年の軌跡』、並びに雑誌『ドライバー』を発行する八重洲出版創立25周年記念出版の1982(昭和57)年8月発行『日本のクルマ100年 PartⅡ』という3冊です。
これら3冊のうち最初に発行された『ドライバー』臨時増刊号から4年後に、今度は雑誌『モーターファン』が臨時増刊号を発行したということは、この時代がわが国のモータリゼーションの進展期であって、多くの日本人がクルマに対して強い関心と憧れを所持してことの反映だと思います。
さて、『モーターファン』臨時増刊号のハイライトは、高岸 清氏と大久保敦彦氏が分担した160頁にわたる〔ヒストリー〕であることは間違いありませんが、4年前の『ドライバー』臨時増刊号とかなりの部分が重なります。そこで、この機会に筆者からご案内したいのは、折口 透氏が取り上げ記載した“時代を画したクルマたち”という23にわたる技術開発ストーリーです。
これらの内、太平洋戦争前に開発・実践された8ストーリーの見出しを以下に掲げます。
 ●国産車第1号乗用車:“タクリー号” の産声
 ●量産態勢を導入:“ゴルハム/リラー号”の新技術
 ●国際市場の洗礼:“オートモ号”の苦悩
 ●大衆車構想:“ダットサン”を大量生産
 ●小型乗用車の傑作:“オオタOD号”のデビュー
 ●前輪駆動車:ユニークな“ローランド”/“筑波”
 ●4輪起動偵察車:戦野を駆ける“くろがね4起”
 ●代用燃料の開発:戦時中の電気自動車/代燃車

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・〔カラー企画〕 想いでのカタログ・コレクション、(P.1~)
 ・〔ルポ〕 日本の自動車発祥の地を訪ねて、(P.41~)
 ・〔ヒストリー〕 
   第1編 国産車のあけぼの・・・高岸 清:著、(P.51~)
   第2編 不景気と天災にさいなまれつつ・・・高岸 清:著、(P.77~)
   第3編 立ち上がる自動車生産・・・大久保敦彦:著、(P.155~)
   第4編 世界第2の自動車生産国へ・・・大久保敦彦:著、(P.177~P.)
 ・〔メカニズムヒストリー〕 時代を画したクルマたち・・・折口 透:著、(P.211~)
 ・〔特別資料〕 安全・無公害へのあゆみ、(P. 259~)
 ・〔グラフ特集〕 戦後国産乗用車変遷史、(P.281~)


157モーターファン
〈「雑誌モーターファン臨時増刊号『国産車100年の軌跡」の表紙〉










32.関東大震災の悪夢


 豊川順彌が設立した白楊社は父から受け継いだ遺産を食いつくして廃業となった  


話はすっかり本田宗一郎の少年時代に移ってしまったが、豊川順彌社長が開発したオートモ号の日本初という本筋に戻すことにしよう。

1926(大正15)年春、オートモ号は大阪~東京間662キロにわたる“日本初”となるエンジン・ノンストップ耐久レースに参加した。

この耐久レースの結果は、第1位がフランス製ルノー、2位がアメリカ製シボレーで、オートモ号は国産車としてはトップとなる4位に入り、称賛をあびることになった。


オートモ号が記録に残した日本初はまだまだある。国産乗用車としての知名度アップのために、豊川社長は女優の水谷八重子(みずたに・やえこ)を広告タレントに起用したが、これでオートモ号は “日本初”の宣伝をする自動車となったのである。


こうして、いろいろ話題を提供したオートモ号であるが、非力という指摘を受けていたので、水冷式4気筒1,800ccエンジンへの改良によって最高速度が80キロへアップするなどのてこ入れ策が打ち出されたものの、輸入車との実力差はいかんともしがたく、生産台数は累計で500台近くに達した頃から売り上げがだんだん尻つぼみになってきた。


この頃になると白楊社の財政は、のっぴきならない状況に陥っていた。

このことは豊川社長が会社設立時点から危惧していたことであるが、大量生産に移れないので、オートモ号1台当りの製造原価は2,500円の水準から少しも下がっていなかった。

このような現実があるにもかかわらず、売価は外国車との競争上1,500円が上限であり、1台について少なくとも1,000円の損失が発生するという経営構造の改善はまったく進まなかった。
ついに、会社は危機的な状況に陥り、これ以上会社を続けると、父の豊川良平が遺してくれた全ての財産を食い潰すばかりでなく、多大の借金が発生して関係者に迷惑をかけることになりかねないので、オートモ号の製造停止を豊川順彌社長が決意したのは、1927(昭和2)年のことだった。

(※32-23話【第1,087回】は、ここまで)


32-22.本田宗一郎の歩み②~大震災に遭遇~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、今やグローバルブランドとなった“ホンダ”の創業者である本田宗一郎の歩みの2回目です。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の156回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その156】※※※※※※※※※※

●雑誌ドライバー臨時増刊号『日本のクルマ100年』●

〖本書の概要〗
・雑誌ドライバー創刊10周年記念出版:編集スタッフ。
・1974(昭和49)年12月に、八重洲出版社より定価1,000円で発行。
・BOOKカテゴリー:カー雑誌『トライバー』の臨時増刊号。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★★☆☆、経営・マーケティング★★★★☆、
      レースファン★☆☆☆☆☆、オールドカーファン★★★★☆。
・入手容易度:C
 
〖本書の案内〗
筆者(蜷田晴彦)は、自動車関連書籍のコレクターですが、雑誌を収集したり保管することはありません。
そもそも雑誌は発行する時点で最新情報を提供することを前提に編集しているので、歴史関連情報には向いていない印刷物です。
それに雑誌は永久保存を全く考慮していませんので、保管状況によりますが30年くらい経過すると、ほつれが出たりして状態が悪くなりがちです。
それにも拘らず筆者は3冊だけ、貴重な雑誌を所持しています。
それは、雑誌『ドライバー』創刊10周年記念出版の1974(昭和49)年12月発行『日本のクルマ100年』と、雑誌『モーターファン』400号&三栄書房創立30周年記念の1978(昭和53)年10月発行『国産車100年の軌跡』、並びに雑誌『ドライバー』を発行する八重洲出版創立25周年記念出版の1982(昭和57)年8月発行『日本のクルマ100年 PartⅡ』という3冊です。

この中でいりばん古い『日本のクルマ100年』を今回取り上げましょう。
この雑誌の構成は、カラー、グラフ、よみもの、技術記事、資料という5部構成です。
最初のカラー部門では、〔国産車のあけぼの〕と題した太平洋戦争以前の日本車のカラーイラストが目を奪います。
次いでグラフ部門では、〔日本のクルマ 戦前・戦後史〕と題して、戦前・戦後の日本車が大量の白黒写真で網羅されています。
さらに、よみもの部門は、高岸 清氏が記した30ページにわたって細かい字でびっちり埋め尽くされたドキュメント・ヒストリー『国産車のわだち』の内容が素晴らしい出来となっています。
今となっては、この雑誌を入手することは極めて難しいと思います。
しかし、ここに書かれているかなりの部分は、『クルマの歴史物語』の「5部 日本車の夜明け」という形になって、読者の皆さんにお届けすることになりましょう。


156ドライバー2
〈「雑誌ドライバー臨時増刊号『日本のクルマ100年』」の表紙〉











32.関東大震災の悪夢


 田舎から上京した宗一郎は東京湯島のアート商会で自動車修理を学んだ    


本田宗一郎の尋常小学校卒業が近づいた頃、父は、都会で人気爆発中の自転車を販売する店を一発発起して開業することにした。

こんな田舎でも自転車を買い求める人が結構あって繁盛するようになり、貧しかった本田家も余裕が生まれるようになってきた。

尋常小学校を卒業したら、父の仕事を手伝うつもりになっていた宗一郎に、父は高等小学校に進学することを勧めた。
まだまだ遊びたい一心の宗一郎に異論があるわけでなく、高等小学校に通うようになった。
その頃、父が購読している『輪業の世界』という雑誌を見るのが楽しみになり、毎月新刊が届けられると隅から隅まで、そこに書かれていることの全てを読みつくした。


やがて高等小学校の卒業時期が近づいてくると、父は自転車の仕事を手伝ってもらいたいと思うようになり、母も同意したが、宗一郎には別の考えが宿っていた。

このきっかけとなったのは、『輪業の世界』に載っている自動車修理会社の求人広告である。
東京の湯島という所にあるアート商会という何やらモダンな響きを持つ会社で働けたらどんなにすばらしいだろう夢想するようになった宗一郎は、父や母の願いを聞く耳を持たなかった。
アート商会の住み込み職人に就職が決まった15歳の宗一郎は、身の回りのものを持って上京し、新しい職場に到着したら、職人が真っ白なつなぎを金モールで縁取りするというしゃれた作業着を身に着けていたのでびっくりした。
こうして、あこがれの世界で生きるようになった宗一郎は、オイルにまみれガソリンエンジンの臭気に囲まれ、充実した日々を過ごす中で着実に自動車技術を身に付けていった。


1923(大正12)年9月1日のお昼少し前のことだった。突然、大きな揺れに襲われた宗一郎は、一瞬何が起きたかわからなかった。
それが地震であると気が付くと、いちばん高価だと聞かされていた電話機に飛びつき、壁からそれを外そうと考えた。
そんな宗一郎に向かって、親方がどなった。

「そんなものはどうでもいい。早く自動車を外に出せ!」

17歳になっていたが未だ半人前としか認められていない宗一郎は、まだ正式には運転を許されていなかった。しかし、クルマの構造はわかっていたし、人知れず動かす練習をしていたので、作業所に置いてあるクルマを外に出すことは難しいことではなかった。

余震が続く中、あちこちから火の手が上がってきた。
親方は外に出せと言ったがどこに行けと聞いていない。
逃げ惑う人々の大八車やリヤカーでごったがえしている道路に宗一郎がハンドルを握るクルマが飛び込んでいったが、安全な所はどこかを探しながら運転するのに気が気でなかった。


3日3晩に渡って東京中を燃えつくした大震災によって、アート商会の全ての施設は焼けてしまったが、親方の号令の下で、すぐに営業を再開することになった。
地震発生時点で15人ほどいた修理工のほとんどが郷里に戻り、残ったのは宗一郎を含め3人だけとなった。

仕事を再開したものの、部品が極端に不足して、満足に修理ができる状況ではなかったが、エンジンを何とか動くように工夫を重ねる宗一郎に対する顧客の評価は高まるばかりとなった。

(※32-22話【第1,086回】は、ここまで)


32-21.本田宗一郎の歩み①~アート・スミスの曲芸飛行~

本日のブログ『クルマの歴史物語』から、“本田宗一郎の歩み”シリーズが始まります。
言うまでもないことですが、本田宗一郎はあの“ホンダ”の創設者です。
本田宗一郎は1906(明治39)年生まれです。
わが国の自動車メーカーの創業者の誕生年を見ますと、日産自動車の鮎川義介が1880(明治13)年生まれです。
トヨタ自動車をつくった豊田喜一郎は鮎川より14歳年少で1894(明治27)年生まれであり、ホンダを創業した本田宗一郎は1906(明治39)年に生まれたので、豊田喜一郎より12歳年少となります。
本田宗一郎が現在生きているとしたら、年齢は110歳という計算となりますので、年月の流れは実に速いと申せましょう。
今日のブログのコンテンツは、その本田宗一郎が少年の時のお話です。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の155回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その155】※※※※※※※※※※

●『轍(わだち)の文化史』●副題:人力車から自動車への道

〖本書の概要〗
・斎藤俊彦:著。
・1992(平成4)年11月に、ダイヤモンド社より定価1,500円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:読み物であり、一種の教養書。
・読者区分別推薦度:エンジニア★☆☆☆☆、経営・マーケティング★★★★☆、
      レースファン☆☆☆☆☆、オールドカーファン★★☆☆☆。
・入手容易度:B
 
〖本書の案内〗
『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その143】で佐々木 烈氏が著作した『日本自動車史Ⅱ』を取り上げました。
この本の“あとがき”で佐々木氏は以下に転載する文章を残しています。
「本書を出版するまでには、いろいろな方からご指導ご協力をいただきました。
特に、今から15年ほど前、恩師斎藤俊彦氏の推薦で、自動車史研究会(会名がなく私は「6人の会」と呼んでいた)に参加させていただいた。持ち寄った資料の検討、調査の方法など、諸先輩からいろいろ教えられた。そのメンバーの大須賀和美、高岸 清、小磯勝直の諸氏が次々に他界されてしまった。今は亡き御三方に謹んで生前のご厚誼、ご鞭捷に感謝を捧げます。
また、上条正順、石田祐二郎、高橋 昇の諸氏には時に折りに貴重な資料や写真の提供を受け、一部本書に掲載させていただいた。
推薦文を書いてくださった栗山定幸氏は、平成6年に私が日刊自動車新聞社から『明治の輸入車』を出版した当時、同社の取締役編集長で、大変お世話になった方である。今回また有難い推薦の言葉をいただき、身に余る光栄と厚く御礼申し上げます。最後になりましたが、昨年の「日本自動車史」に続いて、本書を刊行するにあたり協力くださった三樹書房小林謙一社長に感謝いたします。」

佐々木氏の文章で理解いただいたように、6人がメンバーとなっている自動車史研究会メンバーを指導いただいたのが1929(昭和4)年生まれの斎藤俊彦氏です。
齊藤氏は有名な交通史研究家であると同時に文学博士でもあり、本『轍の文化史』は先生の業績を物語る貴重な1冊となっています。

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・第1章 車文化との出会い、(P.5~)
 ・第2章 車交通時代の開幕、(P.29~)
 ・第3章 拡がる行動圏、(P.61~)
 ・第4章 発展する交通機関と交通網、(P.79~)
 ・第5章 車夫・馭者の社会と暮らし、(P.108~)
 ・第6章 生産と輸出、(P.150~)
 ・第7章 人力車・牛馬車が切り開いた道、(P.182~)
 ・第8章 自動車元年とその周辺、(P.196~)
 ・第9章 クルマ時代へのかけ橋、(P.225~)


155轍の文化史
〈「轍の文化史」の表紙〉








32.関東大震災の悪夢


 本田宗一郎少年は、アート・スミスの曲芸飛行機ショーを見たくて自転車を走らせた 


日本初の自動車レースの無差別クラスで優勝したカーチス号の運転助手をしていたのは、静岡県の片田舎(現在の天竜市)で生まれ東京にやってきた本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)という少年だった。

宗一郎の父は、農民たちが使うクワやスキが曲がったり欠けたりしたのを修繕する腕のいい鍛冶屋だった。
宗一郎は、赤く焼けただれた鉄の固まりが、さまざまな道具に変わっていくようすを見るのが大好きで、時には父から鉄を曲げたり伸ばしたりするやり方を教わった。

機械が大好きな宗一郎は、この辺りにある唯一の大型機械である精米機のエンジン音や燃料である石油の匂いに惹かれて、学校の帰りに精米屋の窓から中を覗くのがいつもの習慣となっていた。

長ずるにしたがって宗一郎の機械好きは深まるばかりであり、次に乗り物に興味が移った。
隣の集落に自動車がやってきたと聞けば見物に出かけ、排気ガスの匂いをかぎながら飽きずに自動車を眺め、時にはボンネットを開けてもらいエンジンに触ることが大の楽しみになっていた。


宗一郎がまだ尋常小学校の時であった。
アメリカからやってきたアート・スミスというパイロットによる曲芸飛行ショーが浜松歩兵連隊で開催されると、近所の青年が話題にしていたのを宗一郎は聞き逃さなかった。

その日がやってきた。
これを見たくてたまらない宗一郎は学校をさぼって、自宅から20キロ離れた連隊場まで自転車を走らせた。
入口に行ってみると、会場は囲いがしてあって、入場料を払った人しか中に入れないようになっていた。

これでは曲芸飛行ショーを見ることができないと、いったんは諦めた宗一郎であるが、周りを見ましたら天を覆うような大きな木がそこにあった。
木登りなら得意中の得意である。
すぐに上ってみたら会場内のようすが手にとるように見えるのであった。


いよいよショーの開始を告げるアナウンスがあったと思ったら、向こうから飛行機がやってきて会場めがけて急降下してきた。
危ない! 地面にぶつかる! と思って肝を冷やしたら、ごう音と共に機首を立て直して急上昇するのである。
そして水平飛行になると、今度は背面飛行に移り、さらに錐もみをしながら急降下する。


今まで飛んでいるところを見たことがない飛行機が、パイロットのアート・スミスの意のままに飛び回るのを手に汗を握って眺める宗一郎は興奮しまくり、時間が経つのを忘れてしまった。
宗一郎にとって一生の思い出となる曲芸飛行ショーは幕を閉じ、家路を急ぐことになった。
太陽は西に傾き、夕焼けの中を力いっぱいペダルをこぎ続けたが、わが家にたどり着いた時には日没から既に1時間も経っていた。

母は息子がいつになく帰りが遅いので、遊び仲間の家を回ってみたが、心当たりのどこにもいないことがわかった。
事故でもあったのかと心配して仕事中の夫に事情を告げ、夫婦で息子を探し始めたところに、こちらに向かって前照燈を点けた自転車がやってきた。

宗一郎が帰ってきたのである。

(※32-21話【第1,085回】は、ここまで)


32-20.国産車発展小史⑭~オートモ号の栄光~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のサブタイトルは、“オートモ号の栄光”です。
昨日のブログで書いたことですが、わが国の自動車発展史において、“豊川順彌”という名前が欠かせませんが、それと同じで“オートモ号”という車名も欠かせません。
そういう意味では、本日掲載のコンテンツは日本自動車発展史において、ハイライトというべきところですので、ぜひお読みいただきたいと思います。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の154回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その154】※※※※※※※※※※

●『20世紀の国産車』 副題:高嶺の花がマイカーになるまで●

〖本書の概要〗
・鈴木一義:著&編集。
・2000(平成12)年5月に、三樹書房より定価2,000円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:グラフィックを多用した読み物。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★★☆☆、経営・マーケティング★★★★☆、
      レースファン☆☆☆☆☆、オールドカーファン★★★★☆。
・入手容易度:A
 
〖本書の案内〗
1957(昭和32)年生まれの筆者は1987(昭和62)年から国立科学博物館理工学研究部に転職し、以降わが国の江戸時代から現代にかけての科学・技術の状況を実証的な見地で調査、研究をしている第一人者です。
本書のオリジナルは、毎日新聞日曜版で1998(平成10)年4月から9月27日までに連載した「ニッポン車100年」であり、それに加筆して三樹書房がハードカバー本に仕立て上げました。
オリジナルが新聞の日曜版として編集されていますので、本書では以下に記載した28章の構成になっています。
三樹書房の編集スタッフの尽力によって、本来なら1日掲載限りの新聞記事を取りまとめて、こうしたグラフィックブックに編集した点は高く評価できます。
僅か2,000円でこのような素晴らしいハードカバー保存版書籍が入手できますので、読者の皆さんに購入をお勧めします。

〖本書の目次(ページ構成)〗
  1.自動車、初めて日本を走る、(P.26~)
  2.サシフランシスコ在留民、自動車を献上、(P.28~)
  3.天皇のお車購人を検討、(P30.~)
  4.初代御料車、デームラーが到着、(P.33~)
  5.江戸からくりに差動ギアの原理、(P.36~)
  6.最初の主役は蒸気自動車、(P.38~)
  7.古くて新しい電気自動車、(P.40~)
  8.博覧会の会場で人々にアピール、(P.43~)
  9.国産蒸気バス製作の試み、(P.45~)
 10.上野公園で自動車競走ことはじめ、(P.48~)
 11.自動車販売の草分け、モーター商会と双輪商会、(P.51~)
 12.街中の注目をあびた配送車、(P.55~)
 13.吉田式国産自動車、外車に呑まれる、(P.58~)
 14.梁瀬長太郎、輸入販売で成功、(P.60~)
 15.おもちや、絵本の世界の自動車、(P.62~)
 16.博物館に残る19世紀のエンジン、(P.65~)
 17.個人製作から企業レベルヘ、(P.68~)
 18.国産化推進の苦労と軍用自動車、(P.70~)
 19.人力車からタクシーヘ、(P.73~)
 20.関東大震災とフォード、GMの進出、(P.76~)
 21.先駆者・豊川順彌と白楊社、(P.79~)
 22.初の本格的生産車、オートモ号、(P.82~)
 23.日産の源流 快進社とダット号、(P.85~)
 24.三輪車、小型四輪車の誕生、(P.88~)
 25.戦後につながる企業 トヨタ、日産、いすヾ、(P.91~)
 26.自動車学校と運転免許証、(P.94~)
 27.戦争の終結 飛行機から自動車へ、(P.96~)
 28.日本の小型車 無免許小型自動車から軽自動車へ、(P.99~)


154 20世紀の国産車
〈「20世紀の国産車」の表紙〉











32.関東大震災の悪夢


 豊川順彌がつくったオートモ号は日本で最初という栄誉を数多く獲得した名車だった 


豊川順彌社長が持てる力の全てを発揮して開発し、白楊社として最初の自動車となるアレフ号は、話題ばかりが先行して期待どおりに売上が伸びることはなかった。

これでは事業として成立しないので、このクルマの生産継続を諦めた豊川社長がアレフ号に代わる新車開発に取り組みを始めた直後に、関東大震災が発生した。

工場設備が大きな被害を受けたので、新車開発どころではなくなったが、その後、復興に向かって社員が総力を結集した結果、工場は元通りになってきた。


豊川社長が新車開発を再開したら、震災の翌年に“オートモ号”というクルマが誕生した。
この車名は、豊川家の遠い先祖が大伴(おおとも)という高貴な名前を名乗っていたということで、カタカナ表記したものであったが、英語のオートモビルの意昧も含まれてのネーミングであった。
翌年春には東京駅から近い宮城前広場で新車発表会が開催され、試乗希望者のために1周コースが用意されたら、順番を待つ人々の長い列ができたという。


オートモ号は数多くの“日本初”という栄誉を獲得した、大正時代の国産車を代表する名車である。

いくつかあるオートモ号の“日本初”の最初は、国産車輸出第1号である。
中国の上海で自動車販売店に勤めているセールスマンが東京出張にきた折に、街中で話題になっている白楊社のショールームに立ち寄った。
そこには、でき立てほやほやのオートモ号が陳列してあり、この新車に見とれていたら豊川順彌社長が声をかけてきた。

説明を聞いているうちに、これなら中国でも人気が出るに違いないと考えたセールスマンは、上海の本社に打電をし、サンプル車として1台購入する許可を受け取った。
こうして、国産車輸出1号車という栄誉を担うことになるオートモ号は、この年の年末に上海で陸揚げされた。

このセールスマンは、翌日から到着したばかりの日本製新型乗用車を上海市内で売り込みをかけたが、アメリカ人やヨーロッパ人は見向きもしなかったので、日本人だけを相手にすることにし日系企業を回ることになった。

オートモ号の“日本初”の2つ目は、本格的な自動車レースに参戦した国産量販車第1号という栄誉である。

1925(大正14)年12月、東京洲崎の埋立地で自動車レースが開かれることになった。
アメリカ車のハドソン、ビュイックの他に、イギリス車のデイムラー、イタリア車のフィアット、フランス車のルノーなど数多くのヨーロッパ車がレースに出場したが、オートモ号は唯一の国産車としての参戦であった。

この日の最大イベントである無差別クラスレースの決勝では、アート商会という自動車修理業者がレース用に改造し大パワーを発揮するカーチス号が優勝したが、オートモ号は2着に入り、日本人観衆を大いにわかせた。

(※32-20話【第1,084回】は、ここまで)


32-19.国産車発展小史⑬~豊川順彌のアレス号~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のサブタイトルは、“豊川順彌のアレス号”です。
この豊川順彌という人は、わが国の自動車産業の発展史を語る上では欠かせない人物ですので、この機会に覚えていただきたいと思います。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の153回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その153】※※※※※※※※※※

●『日本のオートバイの歴史(改訂版)』●

〖本書の概要〗
・富塚 清:著
・2001(平成13)年3月に、三樹書房より定価1,800円で改定版を発行。
・BOOKカテゴリー:読み物であるが、きわめて専門性が高い。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★★★☆、経営・マーケティング★★★☆☆、
      レースファン☆☆☆☆☆、オールドカーファン☆☆☆☆☆。
・入手容易度:A
 
〖本書の案内〗
1893(明治26)年生まれの本書の著書:富塚 清氏は、1917(大正6)年に東京帝国大学工学部機械科を卒業後、同大学航空研究所の所員となり、研究所が所有の各種オートバイに乗ることになりました。
当時の仕事は、航空用発動機の研究が主務でしたが、富塚氏はオートバイに強い興味を持つようになりました。
富塚氏はここでエンジン研究に埋没し、2サイクルの掃気作用に関する研究成果は高く評価され、この仕事が富塚氏の一生の仕事となりました。
本書は、富塚氏が86歳の時に刊行された原書を、1996(平成8)年に三樹書房が再編集したものを、さらに2001(平成13)年に改訂版として再発行したものであり、わが国のオートバイの歴史に関する最高の権威書と申せましょう。

富塚氏の業績は高く評価され、2005(平成17)年には五十嵐平達氏、櫻井眞一郎氏(スカイライン開発者)と共に、“日本自動車殿堂”入りをしています。
日本自動車殿堂のホームページでは、富塚氏を“内燃機関と二サイクルエンジン研究の祖”と称え、その業績を以下のように称えています。
「1838年イギリス人パーネットによってエンジンの基本形ができ、その後1876年ドイツ人のオットの4サイクルガソリン機関、1892年ドイツ人ルドルフ・ディーゼルの4サイクルディーゼル機関、1881年イギリス人クラークのユニフロー形2サイクル機関および1891年イギリス人デーのクロス形2サイクル機関などが次々発明された。
以来、代表的な4サイクル機関および2サイクル機関は長足な進歩をとげ現在に至った。
ところで、1908年イギリス人ワトソン博士による排気ガス分析法は性能の良否として不可欠な充填効率(現在では一般に給気効率と呼ぶ)を量的に判定可能にし、また1923年富塚 清博士による模型実験を主体にした掃気特性、いわゆる掃気作用による充填効率の大小の判定は、実物機関における充填効率の予測を可能にした。(中略)
歴史を振り返るとワトソン氏および富塚氏以前の考案者はエンジンの形式を種々変更して製作するやりかた、いわゆる純粋な“もの作り”であった。 したがって、両氏はエンジンに関わる工学上欠くことのできない学術的な価値を踏まえた先駆者といえよう。
加えて、とくに富塚氏は“2サイクル機関の研究・開発の祖”と言っても過言でないと考えられる。」

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・第 1章 オートバイ技術の内容、(P.7~)
 ・第 2章 後進・日本のオートバイ産業、(P.19~)
 ・第 3章 ガソリンエンジンの誕生、(P.23~)
 ・第 4章 黎明期の日本のオートバイ界、(P.31~)
 ・第 5章 敗戦とその後に来たもの、(P.67~)
 ・第 6章 日本のスクーター工業の盛衰、(P.83~)
 ・第 7章 オートバイ大流行の先駆、(P.99~)
 ・第 8章 本格的オートバイ時代到来、(P117.~)
 ・第 9章 戦後派の大進出と制覇、(P.139~)
 ・第10章 優勝劣敗強まる、(P.169~)
 ・第11章 日本のオートバイの世界制覇、(P.193~)
 ・第12章 オートバイの技術面概観、(P.203~)


153日本のオートバイの歴史
〈「日本のオートバイの歴史(改訂版)」の表紙〉









32.関東大震災の悪夢


 豊川順彌がリードする白楊社が開発したアレス号には空冷と水冷の2方式があった 


三菱財閥の大幹部である豊川良平(とよかわ・りょうへい)の長男豊川順彌(とよかわ・じゅんや)は、アメリカ留学中に自動車の存在価値に目覚めた。
そして帰国後、三菱本社に対して自動車メーカーを立ち上げることを提案したが、自動車ビジネスは三菱神戸造船所でやることを決めていた本社幹部から相手にしてもらえなかった。


31豊川順彌
〈アメリカに留学した豊川順彌〉

やむなく三菱財閥との連携をあきらめ、白楊(はくよう)社という意味ありげな名を付けた自動車メーカーを立上げクルマづくりに情熱を傾けることになった。
豊川社長は頑固な性格であり、何でも自分でやらないと気がすまないところがあった。

部品を交換した後や、性能アップへの改良がなされた後の試運転には、必ず自分でハンドルを握って走行テストに出かけるのが豊川社長の通例であった。
巣鴨にある工場を出ると板橋街道から川越街道に入り、田無から所沢方面を回るという走行コースで試運転を繰り返し、問題があると思えば、納得行くまで原因追及の手を緩めることはなく、さらなる改良に努めたのである。


こうして白楊社は、1921(大正10)年になると、空冷780㏄と水冷1,600㏄という2つの異なるエンジンを載せる試作車2台を完成させた。
これらには、ラテン語で「羽」とか「はやい」という意味を持つ“アレス号”という名前が付けられ、東京上野で開かれた平和博覧会の交通館に展示したところ、人々の話題を呼ぶことになった。


この頃の豊川社長の最大関心事はエンジンの冷却方式であり、空冷と水冷のどちらが優れているかの判断に迷っていた。
2種のエンジンを載せたアレス号の走行テストを繰り返したが、東京を出発して大阪までエンジン・ノンストップによる40時間耐久テストを実施した結果、空冷エンジンの方が日本の国情に合っているという結論を得たのである。

(※32-19話【第1,083回】は、ここまで)