FC2ブログ

33-22.豊田佐吉物語⑳~プラット社との交渉~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、「33章 昭和の始まり」の最終回となります。
33章を振り返ってみると、”米国車の日本進出”が6回、”国産車発展小史”が4回、”大正モダン時代”が3回、続いて”波乱の昭和時代”、”技術者ゴーハムの日本生活”、さらに”民間企業の誕生”が4回、最後に豊田佐吉物語””が3回掲載されました。
本日をもって、『5部 日本車の夜明け』の掲載を完了します。
ブログ『クルマの歴史物語』は、『1部 自動車誕生』、『2部 自動車産業の興隆』、『3部 大量生産の始まり』、『4部 花開く自動車文化』、そして『5部 日本車の夜明け』というように続いてきました。
各部の情報量は、ハードカバー本に換算すると500頁前後になります。
ということは、既に厚めの本5冊分のボリュームが情報提供されたことになります。
これからの予定は、4月3日(月曜)から『6部 戦争と自動車』がスタートをいたします。
6部の章立てとしては、「34章 大恐慌下のアメリカ車」、「35章 大恐慌からの回復」、「36章 イギリス車の再編成」、「37章 シトロエンの生と死」、「38章 イタリア車のがんばり」、「39章 ドイツ車の復興」、「40章 戦時体制への道」、「41章 戦争に向かう日本」をいう構想です。
6部の原稿はまだ完成していませんが、最初の「34章 大恐慌化のアメリカ車」は脱稿していますので、とりあえずスタートを切るのは問題ありません。
読者の皆さんにご満足いただけます様、引き続き尽力してまいりますので、ご愛読の方をよろしくお願い申し上げます。


33.昭和時代の始まり


 世界一を誇るプラット社は自動織機の実態調査のために技術陣を日本に派遣した  


豊田G型自動織機の誕生は、世界中の織機メーカーにとって一大ニュースとなった。
中でもイギリスに本拠を置き、世界ナンバーワンの織機メーカーを自負しているプラット社は、自社の重要市場であるインドにこの織機が輸出されたことを知ると、たいそう驚いた。

そこで、プラット社として自動織機に関する技術導入の可否を判断したいという目的で、豊田自動織機製作所に対して技術調査団を正式訪問させたいと要請してきた。
全ての技術は特許で守られているので、佐吉は世界最高の織機メーカー技術陣の来訪を名誉あるできごととして受け入れることにした。

20数名で構成される技術陣は、工場に設置された320台の織機が全て自動的に仕事を進めている事実を知ってがく然とした。
それだけでなく、何時間経っても、決して止まることのない完成度の高さに脱帽することになった。

調査団が、自動化の技術ポイント、特許が及ぶ範囲、トラブルの発生頻度とその原因など、考えられる全ての点に関して詳細な実態把握に努めた結果、この会社が開発した技術のすごさを正確なデータとともに報告書に記載した。

プラット社調査団がイギリスに帰国して、幹部たちに調査内容を報告したら、あれだけ自信満々だった経営陣は、豊田G型対策の必要性を痛感した。
種々の議論が重ねられた結論として、自動織機に関する特許権の譲渡要請を豊田自動織機製作所に実施することになった。


こうして、両社間で技術譲渡交渉が開始された。
プラット社は特許権の使用条件として、1台ごとのロイヤリティ方式を希望し、豊田側は特許権の一括買い取りを条件とした。

この背景として、豊田G型の圧倒的高性能を認識したプラット社には、「この機械を世界中で売られたら、自社製織機では勝負にならないので、特許権を取得することで、何とかこれを防ぎたい」という思惑があった。

これに対して、豊田自動織機製作所サイドには、「今まで輸出実績があるアメリカ、中国、インド以外には特別な販路を所持していないので、この3国以外の商売はプラット社でやってほしい」という思惑があったが、もう一方で、「これまで多額の開発資金を投入してきたので、この機会にキャッシュを得ることで一気に回収を図りたい」という現実的側面もあった。

交渉が開始されると商社出身の豊田利三郎の出番となった。
一方のプラット社の方も国際交渉のベテランが担当したので、両社の主張はぶつかるばかりでいっこうにまとまる気配はなかった。
中でも、プラット社はインドでの商権獲得に固執して、交渉決裂かという時期もあったが、1929(昭和4)年末になって、ようやく妥結をみて契約書調印の運びとなった。

その内容は、豊田自動織機製作所はプラット社に対し、日本、中国、アメリカ合衆国を除く全ての国における豊田G式自動織機を独占的に製作・販売することができる権利を与え、その対価として10万ポンドを受け取るというものであった。


長い時間をかけた交渉を経て、多額の一時金を支払うことで特許使用権を取得したプラット社であるが、実際には豊田G式自動織機をわずかしかつくらなかった。

性能のよい自動織機をイギリス以外の国が使うようになると、イギリスの紡織産業は立ち行かな<なると考え、産業保護のため、あえて大金を支払って特許権を獲得したのであった。

こうして佐吉がライフワークとしてきた自動織機に関する諸問題は解決を見ることになったが、長年にわたって肉体を酷使したつけによって佐吉の身体はぼろぼろになっていた。
1930(昭和5)年10月30日、脳溢血の発作に突然襲われ、63年という短い人生を閉じることになったのである。

(※33-23話【第1,109回】は、ここまで)


33-21.豊田佐吉物語⑲~利三郎の戦力化~

本日のブログ『クルマの歴史物語』において、『5部 日本車の夜明け』のスタート時から掲載してきた“参考図書ご案内”は、本日をもって最終回を迎えることになりました。
そこで、最終回で取り上げる本をどれにするかを数か月前から考えてきて、選んだ本が『世界の自動車大図鑑』という大型豪華本です。
この本のオリジナルは、ロンドンに本社があり図鑑や絵本が得意な大手出版社Dorling Kindersley社が発行した『The Car Book』という本です。
この豪華本を編集したのはGiles Chapmanという、クラッシックカーのエキスパートで、専門誌の編集長を歴任したベテラン編集者です。
世界最古のベンツ車から始まって、360頁に渡ってこの本に掲載されているクルマの数は数えきれませんし、そのほとんどがイラストでなく写真というから、すごい本としか言いようがありません。
この本のわが国での版権を取得したのが「World Car Guideシリーズ」を発行したネコ・パブリッシング社です。
クルマ関連図書を得意とする発行元が翻訳して、今から15年前の2002(平成14)年に日本語版を発行したのです。
私はオリジナル英語本を所持していませんが、恐らくこの日本語版はオリジナル本の良さを完璧に再現しているに違いないと思います。
6千円近い価格が設定されていますが、その価値は十分あり、むしろ安いと感じてしまう素晴らしい書籍ですので、読者の皆さんに購入を推薦する次第です。

最後になりますが、私(蜷田晴彦)が今回の“参考図書ご案内”で取り上げた177冊の中からベスト3を選ぶとしたら、以下の3冊となりました。
  ・【その25】二玄社『アメリカ車の100年(1893~1993)』 編:ニック・ジョルガノ
    (原題:The American Automobile A Centenary 1893-1993 、By Nick Georgano)
  ・【その73】朝日新聞社発行『栄光の自動車レース』 絵と文:ピーター・ヘルク
    (原題:Great Auto Races By Peter Helck)
  ・【その177】ネコ・パブリッシング発行『世界の自動車大図鑑』 編: Giles Chapman
    (原題:The Car Book Edited by Giles Chapman)

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その177】※※※※※※※※※※

●『世界の自動車大図鑑』●

〖本書の概要〗
・Giles Chapman:編集。
・2002(平成14)年5月に、ネコ・パブリッシング社より定価5,714円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:グラフィック豪華本。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★★★☆☆、
      レースファン★☆☆☆☆、オールドカーファン★★★★★。
・入手容易度:A
 
〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・草創期/1920年までの自動車、(P.10~)
 ・1920年代、(P.38~)
 ・1930年代、(P.74~)
 ・1940年代、(P.106~)
 ・1950年代、(P.136~)
 ・1960年代、(P.178~)
 ・1970年代、(P.210~)
 ・1980年代、(P.242~)
 ・1990年代、(P.280~)
 ・2000年以降、(P.310~)



177世界の自動車大図鑑
〈「世界の自動車大図鑑」の表紙〉











33.昭和時代の始まり


 1926(大正15)年に世界の織機メーカーにとって夢といわれた自動織機が完成した  


大正時代の後半になると、日本の労働環境に大きな変化が訪れていた。
人件費は上昇を続けて、かつての低賃金国から脱しつつあった。
労働者保護の観点から女子工員の深夜労働を規制する動きも始まって、国内製造製品の国際コスト競争力にかげりが見えてきた。

このような変化を受けて、賃金が安く労働力が豊富な朝鮮半島や中国本土に工場を建て、現地生産した方がコスト上有利であるという見方が日本の繊維業界で増えてきた。
この動きに対して、中華民国政府は日本の権益拡張を排除する目的で輸入綿糸に高率関税を課した。
その一方で、日本の商品をボイコットする大衆運動があちこちで発生するようになってきたので、日本企業が中国に進出するには多くの困難が想定された。

こうした中で、豊田紡織の経営が軌道に乗ったことを確認した佐吉は、1921(大正10)年末に、上海に現地法人の豊田紡織廠の設立を決断した。
中国市場での繊維産業が巨大な拡大余地をもっていると信じて疑わない佐吉は、この難しい事業を成功させるためには現地に溶け込むことが大切であると考えて、一家をあげて上海に移住した。
中国事業を軌道に乗せるために、佐吉は先頭に立って汗と知恵を出し奮闘する毎日が始まり、中国でのビジネスは一歩一歩前進するのである。


上海進出後も、佐吉は自動織機を完成させるために度々日本に帰国し、部下を指導すると同時に、喜一郎の仕事ぶりをチェックした。
この頃、喜一郎は30歳代に入り、新型織機開発の指揮を執るようになっていて、単に技術だけでなく、全人格的に技術陣のリーダー役を立派にこなしていた。

佐吉が上海に工場を建設して3年ほど経つと、自動織機の基本となる部分はできあがってきた。
ところが、自動織機という機械は、本来の性能を発揮するには100台単位で同時稼動することに意味があり、機械同士の連携をいかにスムースに図るかが実用上の大きなポイントになっていた。

1924(大正13)春のこと、上海から戻った佐吉が試作機の動きを調べるために、実用化試験を目的として新設したばかりの工場に立ち入った。
ほとんど人がいない広大な工場スペースで、リズミカルな音を立てて200台の大型機械が連なりながら動いているのは実に壮観であり、その動きを見続けているうちに、佐吉の目がうるんできた。

最初の木製人力織機が完成したのは1889(明治23)年秋のことで、あの時は23歳と若かった。
あれから34年が経過して齢57歳となった今、200台の自動織機が自分の息子のバックアップによって完成に向かいつつあるという事実の重みを強く実感した瞬間に、涙が止めどなくあふれてきたのである。

ここまではよかったが、佐吉が感動に浸っている間に自動織機は止まってしまい、係員が1台の機械に向かって駆け寄って行くのが見えた。
佐吉が考える自動織機は、決して停止しない完璧な性能が要求されていたが、構造上の欠落や機械の精度上の問題など、まだまだ解決すべき問題が山積していたのも事実であった。


佐吉が、完全オートマチックの織機が完成したと宣言したのは、それから2年後の1926(大正15)年の春のことだった。
自動織機の完成を機に、豊田自動織機製作所という会社が創業され、 “豊田G型”と名付けられた世界初となる自動織機の生産販売事業が始まることになった。
この織機は、最初の1年間で6,000台を受注するという大ヒット商品となり、その販売先は日本国内ばかりでなく、中国、インド、アメリカなどに広がった。


トヨ豊田佐吉2
〈豊田佐吉〉

(※33-22話【第1,108回】は、ここまで)


33-20.豊田佐吉物語⑱~再起に奮闘する佐吉~

ブログ『クルマの歴史物語』では、昨日まで4回連続で、今や世界一のタイヤメーカーに成長したブリヂストンタイヤ社の創業期のお話を掲載してきました。
そして今日から3回連続で豊田佐吉物語をお届けします。
この豊田佐吉物語は既に17回にわたって掲載してきましたが、金曜日をもって終了しますし、このストーリーの終了をもって、『5部 日本車の夜明け』は3月31日をもって完了することになります。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の176回目となり、こちらも明日の177回をもって終了いたします。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その176】※※※※※※※※※※

●『トヨタ博物館 モダーンな時代のクルマとくらし』●

〖本書の概要〗
・:著編集。
・1997(平成9)年10月に、トヨタ博物館より発行。
・BOOKカテゴリー:トヨタ博物館の公式ガイドブック。
・読者区分別推薦度:エンジニア☆☆☆☆☆、経営・マーケティング★★☆☆☆、
      レースファン☆☆☆☆☆、オールドカーファン★★★☆☆。
・入手容易度:B
 
〖本書の案内〗
本書の冒頭で、以下の案内文が掲載されていますので、転載します。
「トヨタ博物館では、平成9年10月7日から12月7日まで、第16回特別展「モダーンな時代のクルマとくらし1920-1930年代」を館内2階特別展示室で開催しております。
この特別展は、1920年代から30年代にかけての、機械が日常生活のなかに入り込んできた「マシン・エイジ」と呼ばれる時代に焦点をあて、その時代の流行や近代化していった生活を当時の自動車やポスター、家電製品などからご紹介するものです。」

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・プロローグ、(P.3~)
 ・Ⅰ.1920~1930年代 西ヨーロッパでは、(P.4~)
 ・Ⅱ.1930年代のアメリカでは、(P.24~)
 ・Ⅲ.その頃日本では、(P.32~)


176トヨタ博物館:モダーンな時代のクルマとくらし
〈「トヨタ博物館 モダーンな時代のクルマとくらし」の表紙〉












33.昭和時代の始まり


 アメリカとヨーロッパの視察旅行から帰国した豊田佐吉は再び織機の開発を始めた 


新型織機の開発に精魂を傾けてきた豊田佐吉(とよだ・さきち)は、常務として参画した豊田式織機株式会社が倒産してしまい、それまで営々として蓄積した全てを失った。

傷心の佐吉は、会社でアシスタントをやってくれていた西川秋次(にしかわ・あきつぐ)という若手技術者を帯同して、アメリカ合衆国の産業視察に旅立った。


西海岸のシアトルから始まった4カ月間にわたるアメリカ視察旅行を終えた2人はニューヨークで別れ、西川は佐吉の命を受けてアメリカに残り、与えられたテーマに関する調査を続けることになった。
一方、佐吉の方はヨーロッパ6カ国の産業実態視察のために大西洋を渡り、これを無事に終えると、その翌年の正月に日本に帰国した。


このアメリカとヨーロッパの視察旅行をとおして、自分が開発した織機の実力を改めて確認できた佐吉は、再起を期して豊田商店という紡織工場を新設した。
他人の資金に頼っていては思いどおりの仕事ができないことは、今までの経験で身にしみてわかっていたので、自己資本に徹し、小さな工場から再出発を図ることにしたのである。


新体制がスタートするにあたって、今度の工場に賭ける自分の気持ちを従業員にわかってもらえるよう、家族全員で工場に移り住むことにした。
佐吉は朝早くから研究室に入って図面を引き、出勤時間になって工場が動き出すと機械と油まみれで格闘し、従業員が帰った後の夜は再び研究室にこもるという生活が続くことになった。

最初は100台しか織機を揃えることができなかった工場であるが、注文が少しずつ増えてきたので、織機の設置数はしだいに増加し200台になってきた。

この仕事を通して三井物産の名古屋支店長と親しくなった佐吉は、支店長の弟で伊藤忠合名会社のマニラ支店支配人を務めている31歳の児玉利三郎(こだま・りさぶろう)を紹介してもらった。
付き合ってみて実に気持ちがいい男であることがわかった。
この男ならと、長女との養子縁組みを考えた佐吉は、支店長に頼んでみたら、とんとん拍子に結婚話がまとまった。


祝言を終えると、豊田の姓を名乗ることになった利三郎は、佐吉の仕事を支援することに全力を傾けるのである。

世界大戦が勃発すると日本は好景気を謳歌するようになった。
豊田商店の紡織工場も活況を呈し、織機は1,000台規模にまで拡大した。

1918(大正7)年なると、利三郎の意見を入れて個人会社から豊田紡織株式会社という法人組織に改組することにした佐吉は、社長は自分で、常務が利三郎という経営体制をひいたのである。


メインスイッチを押せば、糸の供給から始まって、途中で人の手をわずらわせることなく、最後に布地ができあがるまでやり遂げるという自動化は、織機メーカーにとっては夢の技術といわれていた。

佐吉がリードする技術陣は、世界で一番乗りを目指して全自動化の新型織機の開発にまい進することになったが、この時点で自動織機の製品化に向かって努力を傾けていたのは地球上で豊田紡織だけだった。

この仕事は難易度が高く、自分たちが持っている知見だけでは突破できないと判断した技術チームは新知識の注入を切望することになった。
そんな時に、東京帝国大学工学部で最新理論を学んで卒業したばかりの佐吉の長男喜一郎(きいちろう)が入社し、自動織機開発陣に加わることになったのである。

(※33-21話【第1,107回】は、ここまで)


33-19.民間企業の誕生⑮~ブリヂストンその6~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツは、4回連続のブリヂストンタイヤ社のお話の3回目となります。
そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の175回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その175】※※※※※※※※※※

●『メルセデスの魂』●

〖本書の概要〗
・御堀直嗣:著。
・2005(平成17)年3月に、河出書房新社より定価1,500円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:読み物。
・読者区分別推薦度:エンジニア★★☆☆☆、経営・マーケティング★★★☆☆、
      レースファン★☆☆☆☆、オールドカーファン★★★☆☆。
・入手容易度:A
 
〖本書の案内〗
1955(昭和30)年生まれの著者:御堀直嗣(みほり・なおつぐ)氏は、玉川大学工学部機械工学科を卒業後、FL500、FJ1600といった各種自動車競技に参加した経験を持っています。1984(昭和59)年からフリーランスのライターとなり、現在はウェブサイトや雑誌などに、主に自動車関連の記事を寄稿しています。
本書はメルセデス・ベンツをテーマとした読み物であり、二玄社の活動が停滞しているため、自動車関連書籍の出版が減少している現状があります。
そんな状況の中で、この種の読み物が大手出版社である河出書房新社より刊行されることは、わが国の自動車文化の向上への貢献となっています。

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・第1章 世界を動かした二人 カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラー、(P.11~)
 ・第2章 自動車がシュツットガルトで生まれた理由、(P55.~)
 ・第3章 メルセデス・ベンツに与えられた“四つのコアバリュー”とは、(P.87~)
 ・第4章 メルセデス・ベンツがBMWに与えた影響、(P.147~)
 ・第5章 メルセデス・ベンツが受け継ぐ技術、紡ぐ未来、(P.199~)


175メルセデスの魂
〈「メルセデスの魂」の表紙〉










33.昭和時代の始まり


 君島教授の意見を聞いてタイヤ事業を始めること決断した正二郎は準備に入った  



キミ君島武男
〈君島武男〉

これで行き詰まってしまった正二郎は、ゴム研究の第一人者と評判が高い九州帝国大学教授君島武男(きみしま・たけお)博士の研究室に相談に行くことにした。

「先生に初めてお目にかかりますのでご挨拶を申し上げます。私は、久留米で地下足袋やズック靴を製造している日本足袋という会社の専務をやっております石橋正二郎と申します」

「久留米の日本足袋といえば、九州を代表する企業として有名ですので、時々新聞で記事を拝見しておりますよ」

「当社もおかげさまで、震災直前に開発した地下足袋がヒットして一息ついたと思ったら、今度はズック靴が大好評で、ここのところは順調な経営が続いており、昨年は100万円近い利益をあげることができました」

「厳しい不況が続いている九州では、トップクラスの利益でしょうね」

「そこで先生、今日はご相談があるのですが。私は地下足袋とズック靴ビジネスで利益が出ているうちに、タイヤビジネスを手がけようと考えているのですが、世界のゴム加工産業に詳しい君島先生のご意見を伺いに参ったのです」

「そうですか。自分はゴム化学を学ぶためにアメリカ合衆国オハイオ州のアクロン大学に長く留学して、勉強を続けてきました」

「やはり、ゴムタイヤをつくるということは難しいことですか」

「正直申しますと、たいへん難しい仕事です」

「それでは、日本企業がタイヤビジネスを手がけることは無理ですか」

「必ずしも不可能ではありません。最近になってアメリカではゴム加工の基礎技術が確立して、効率的なタイヤ製造工場の立上げを支援するエンジニアリング会社が出現しておりますので、以前ほどタイヤ事業への参入障壁は高くありません」

「先生は、そのようなアメリカの業者をご存知でしょうか」

「アメリカにはたくさんの知人がいますし、ゴム加工産業に詳しい人を何人か知っていますので、彼らに聞いてみれば、石橋さんが必要とする情報は集ると思いますよ」

「それはありがたいことです。先生、何とかお願いできますでしょうか」

「ところで、石橋さんにお聞きしたいのですが、どうしてもタイヤビジネスをやりたいのですね」

「日本足袋の将来を考えるとやらざるを得ません。それと生意気に聞こえるかもしれませんが、日本国のために、今タイヤ産業を立ち上げないと、この国のタイヤは外国企業に牛耳られてしまいます。自動車を見てください。日本で売られているのはフォードとシボレーばかりです。いつまでもこんな状況は続くわけがありませんし、あってはならないことです。必ず国産自動車が巻き返す時がやってきます。その日のために、今から国産タイヤ産業を興さなければならないと私は思っているのです」

「石橋さんのお気持ちはよくわかりました。たいへん厳しいことを申し上げるようですが、新しい事業を立ち上げるのに多額な投資が必要となりますが、その点はいかがでしょうか」

「幸いにして、地下足袋とズック靴の需要は停滞することはなく、はき物ビジネスでの収益力にはかげりがありませんので、だいじょうぶです」

「日本で、タイヤ産業を始めるとなると、数百万円の初期投資が必要となりますが、そのぐらいのお金は大丈夫でしょうね」

「君島先生。私は事業家です。投資なくして、将来の発展はありえないことは熟知しています。日本足袋が今後履物メーカーとして高収益を維持するのか、それとも将来の発展に向かって先行投資に踏み切るのかの分岐点はすでに越えております。ここで先生の後押しをいただければ、もはや戻ることはありません。ぜひ、ご支援をいただきたいのですが」と、正二郎は深々と頭を下げるのであった。


これを聞いて、しばし目をつむって考え込んでいた君島博士は、おもむろに口を開いた。

「石橋さん。よくわかりました。私もお手伝いすることを約束しましょう。日本は今たいへん難しい時代を迎えています。西洋の文化や技術を導入してここまできましたが、これが本物として定着することによって一流国家に上り詰めるのか、単なる物まね二流国家に堕ちるのか、まさに歴史的な分岐点ですね。日本にも石橋さんのような高邁な理想と、巧みな経営技術をお持ちの事業家がいらっしゃることは心強い限りです。これからアメリカの知人に連絡を取って、情報を収集しますのでしばらく時間をいただきたいと思います」

「たいへんお手をわずらわすことになりますが、ご支援ご協力を切にお願い申し上げます」と、再び深々と頭を下げる正二郎であった。


その翌日、九州帝国大学の君島博士の話を聞いて元気づいた正二郎は、この前は強く反対した為次郎社長をいかにして賛成に転じさせるかに知恵を絞ったが妙案があるわけでもないので、説得するつもりで社長室に訪れた。

日本足袋の実質的な経営主導権が既に正二郎に渡っていることを自覚している為次郎は、正二郎の話を静かに聞くばかりで前回のような強硬な反対意見を述べることはなかった。

社長室を下がり、覚悟を定めた正二郎はヒルシュベルゲルと森 鐵之助を自室に呼んだ。
そして、九州帝国大学の君島博士との会談内容を伝え、博士から近いうちに教えていただくことになるエンジニアリング会社と連絡を取り合うように指示をした上で、クルマ用タイヤを1日300本製造するのに必要となる機械類一式をアメリカに発注し、この機械が日本に到着するまでにタイヤの製造にかかわる技術をマスターするようにと命じるのであった。

1929(昭和4)年10月、アメリカ合衆国ニューヨークのウォール街の株式大暴落に端を発した世界大恐慌の影響がはるか極東の地まで波及し、タイヤビジネスへの進出の準備に入った日本足袋の前途に暗雲が垂れ込めることになってきた。

(※33-20話【第1,106回】は、ここまで)


33-18.民間企業の誕生⑭~ブリヂストンその5~

本日は月曜日です。
例によって今週も金曜日まで週5日ペースでブログ『クルマの歴史物語』をお届けします。
今週の金曜日は、「33章 昭和の始まり」の最終話となりますが、同時に『5部 日本車の夜明け』の最終回となります。
それと、5部が始まって以降、“参考図書のご案内”を継続してまいりましたが、こちらも今週で終了いたします。
来週の月曜日である4月3日から、ブログ『クルマの歴史物語』は最終章である『6部 戦争と自動車』が始まりますので、こちらもご期待いただきたいと思います。

そして、本日は『クルマの歴史物語』参考図書ご案内の174回目となります。

※※※※※※※※※※『クルマの歴史物語』参考図書ご案内【その174】※※※※※※※※※※

●『カー・デザインの潮流』●

〖本書の概要〗
・森江健二:著。
・1992(平成)年7月に、中央公論社より定価680円で初版を発行。
・BOOKカテゴリー:中公新書シリーズの1冊。
・読者区分別推薦度:エンジニア☆☆☆☆☆、経営・マーケティング★★★☆☆、
      レースファン☆☆☆☆☆、オールドカーファン★★☆☆☆。
・入手容易度:A
 
〖本書の案内〗
著者の森江健二氏は1961(昭和36)年に慶應義塾大学法学部を卒業した時に、デザイナーを志しました。
そして武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科に入学して工業デザインを基礎から学んで、卒業後は日産自動車のデザイン部でカー・デザイン業務に携わりました。
本書を執筆した当時は、工業デザインを教える武蔵野美術大学の教授の地位にありました。
本書に関しては、表紙裏に以下の案内文がありましたので、転載いたします。
「19世紀後半の自動車の発明により、人間はかつてない生活の激変を経験することになった。しかし、ヨーロッパ、アメリカ、日本という現代の自動車先進地域は、それぞれ、気候風土、社会生活の様態が全く異なっていたため、自動車の製造思想も利用意識も際立った差異を見せることとなった。本書は、長年自動車設計の現場に携わった著者が、ともすれば「外観」と同義と思われてきたデザインを通して、自動車社会が目ざすものを探る。」

〖本書の目次(ページ構成)〗
 ・第1章 昭和から平成への流れに漂うデザイン、(P.3)
 ・第2章 デザインの源流を探って、(P37.~)
 ・第3章 時代を映すデザイン、(P.64~)
 ・第4章 アメリカのマーケットとデザイン、(P.85~)
 ・第5章 ヨーロッパのマーケットとデザイン、(P.119~)
 ・第6章 日本のマーケットとデザイン、(P.162~)
 ・第7章 デザインの地域特性とは何か、(P.186~)
 ・第8章 カー・デザインの行方、(P212.~)



174カー・デザインの潮流
〈「カー・デザインの潮流」の表紙〉











33.昭和時代の始まり


 日本最大級のゴム加工業になった石橋正二郎はタイヤ事業への新規進出を考えた 


1928(昭和3)年になると、地下足袋とズック靴の大ヒットによって量産体制を確立した日本足袋は、ゴム加工の大手企業に育っていて、石橋正二郎専務は、日本足袋を将来どのような会社に育成すべきという点を考える日々が多くなってきた。

世界的に見て識者の間では、ゴム加工産業の中心商品がタイヤであることは常識となっていたが、正二郎は今まではき物ビジネスに集中して会社を経営してきたので、自分たちが日本最大級のゴム加工業者であるという認識を持つことは少なかった。

そこで、タイヤ産業に強い関心を示すようになり、世界の自動車ビジネスに関して集中的な情報収集に努めることになった。
アメリカ合衆国では、フォードT型の大ヒットによって、1年間の自動車生産台数は500万台に迫っていて、2,000万台を超えるクルマが広大な大地を走り回り、タイヤの生産量は年間50万トンを超えていた。

同じ時期に、日本の自動車保有台数は8万台に達しようとしていたが、これらの大部分は日本の工場で組み立てられるフォードとシボレーであり、この2車を合わせると、おおよそ乗用車市場の60%を、トラック市場の90%を占めていた。
これらを供給する日本フォード社と日本GM社は、アメリカ製タイヤを使用していた。


日本を走り回っている8万台の自動車が必要とする補修用タイヤに関しては、日本法人であるダンロップ護謨(ごむ)が供給するものもあるが、アメリカ製グッドイヤー、グッドリッチ、イギリス製ダンロップ、フランス製ミシュランというように輸入品ばかりであり、舶来品崇拝の風潮が強い中で、国産タイヤに対する期待の声はまったく聞かれなかった。


正二郎は、日本ではこのまま自動車需要が拡大を続けるのか、そうなるとどれぐらいのタイヤが国内で必要となるのか、それらの需要を満たす供給は輸入品ばかりでいいのかなど、自動車産業とタイヤの関わり方をいつも考えるようになった。

そして、「日本もアメリカのように国産車が売れるようになる時代がやってくるに違いない。そうなると、誰がタイヤを供給するかが重大問題であり、自分がやらなければ、この仕事はどこかに持ってかれてしまう」という想いに取り付かれてしまい、タイヤ事業への進出をひそかに決意するのであった。

事業計画をとりまとめた正二郎は、誰よりも先に兄である石橋為次郎社長に相談しなくてはと考えて社長室を訪問した。弟から新規事業としてのタイヤ進出案を聞いた兄は、今まで一度も聞いたことがないほど強い口調で反対意見を述べて弟を驚かせた。

これはまずいことになったと思った正二郎は、ヒルシュベルゲルと森 鐵之助にも意見を聞いてみたら、「タイヤは技術的な難易度が高いので新規参入に賛成できない」という答えを2人から聞くことになった。


イシ石橋正二郎
〈石橋正二郎〉

(※33-19話【第1,105回】は、ここまで)