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34-32.1932年度・年次レポート③~第20回インディ500~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、通算1,141回目の掲載で、『6部 戦争と自動車』の最初の章である「34章 大恐慌下のアメリカ車」の最終回となります。
振り返ってみますと、新年度にタイミングを合わせて4月3日にスタートを切った6部の34章は、3回連続の“クルマの歴史物語4部までの要約”から始まりました。
次いで、“6部のまえがき”が2回続きで掲載されました。
ここからが6部の本文となり、“大恐慌の時代”が3回連続で、“ビッグ3の形成”が12回連続で掲載されました。
その後、モーター・ジャーナル誌のチャールズ・フリードマン編集長が登場し、“1930年度・年次レポート”、“1931年度・年次レポート”、というように年次レポートを掲載し、本日は“1932年度・年次レポート”の3回目で、これをもって「34章 大恐慌下のアメリカ車」は終了となります。
明日からは「35章 大恐慌からの回復」が始まりますので、ご期待ください。


34.大恐慌下のアメリカ車


 前年の大事故でリタイアしたアーノルドは翌1932年インディ500でも事故を繰り返した 


          『モーター・ジャーナル1933年1月下旬号』掲載
         《 1932年度合衆国自動車産業年次レポート その3 》
                 チャールズ・フリードマン著

例年の通り、『モーター・ジャーナル』の年次レポートの最後を飾るのは、インディアナポリス500マイル自動車レース(以下、インディ500と略)のレポートである。

読者の皆さんもご存知の通り、10年前の1922年開催の第10回大会でデューセンバーク・ミラーを操ったジミー・マーフィーが優勝してから、インディ500の優勝車はデューセンバークとミラーだけである。

具体的には、1923年度はミラー(優勝ドライバー:ジミー・マーフィー)、1924年度はデューセンバーク(L.L.コラム+ジョー・ボイヤー)であった。
そして、1925年はデューセンバーク(ピーター・デ・パオロ)、1926年はミラー(フランク・ロックハート)、1927年はデューセンバーク(ジョージ・サウダース)、1928年はミラー(ルイス・メイヤー)というように1925年から優勝車がデューセンバーグとミラーが年毎に入れ替わった。

その後は、1929年度開催の第17回インディ500はミラー(レー・キーチ)、1930年度第18回はサマーズ・ミラー(ビリー・アーノルド)、前年の第19回大会ではスティーヴンス・ミラーのハンドルを握ったルー・シュナイダーが優勝するというように、1928年から4年連続でミラー車が優勝していて、インディ500はミラーの1強時代が続いている。


1932年の第20回インディ500の予選では、前年の大事故での負傷が癒えたばかりのビリー・アーノルドは、修復した前年のマシンで2位に食い込み、回復ぶりを観客にアピールし拍手喝さいを受けた。

決勝レースのスタートが切られると、すぐに首位に立ったアーノルドは、40周目には2位に1分以上の差をつけて独走態勢に入った。

このまま行けば前年のリベンジが果たせると観客のだれもが思っていたら、魔の60周目、前年に事故を起こした同じ最終コーナーで、アーノルドが操縦するマシンは周回遅れ車に進路を塞がれてしまった。
これを無理して抜こうとしてコースが膨らみ又も壁に激突したのだ。
勢い余ったマシンはコースを飛び出して炎上し、前年と同じライディング・メカニックとビリー・アーノルドは再び重傷を負ったのである。

アーノルドが抜けた決勝レースは、首位の座が目まぐるしく入れ替わったが、レース後半追い上げてきたのが、前年2位となった38歳のフレッド・フレイムであった。
フレイムのマシンは、ハリー・ミラーが新設計した排気量3,000ccの直列8気筒エンジンを、カーリー・ウェッテロス製シャシーに搭載した前輪駆動車であった。

アーノルドが事故でリタイアした時点では10位だったフレイムは、徐々に順位を上げ、158周目についに首位に立ったのだ。
結局フレイムは2位に44秒差をつけ4時間48分03秒てゴールインして、1925年のピーター・デ・パオロのタイムを7年ぶりに更新するという新記録で初優勝を飾ったのだ。
なお、このレースで2位に入ったのは1919年のインディ500の優勝者ハウディ・ウィルコックスの息子のハウディ・ウィルコックス二世であり、3位はクリフ・バージェルであった。
                                   【1932年度・年次レポート:今回で終了】


Frame,Fred
〈1932年度インディ500で優勝したフレッド・フレイム〉








(※34-32話【第1,141回】は、ここまで)


34-31.1932年度・年次レポート②~人気のフォードV8~

本日は月曜日であり、いつものように今週も金曜日まで5日連続で新しい記事を追加いたします。
本日のコンテンツは、『モーター・ジャーナル1933年1月下旬号』に掲載されたチャールズ・フリードマン編集長が記した1932年度合衆国自動車産業年次レポートの2回目となります。
この年次レポートは明日の3回目をもって終了し、同時に「34章 大恐慌下のアメリカ車」も終了いたします。


34.大恐慌下のアメリカ車


 窮地に陥ったフォード社は新車B型と共に安価なV8エンジン搭載車を売り出した 


          『モーター・ジャーナル1933年1月下旬号』掲載
         《 1932年度合衆国自動車産業年次レポート その2 》
                 チャールズ・フリードマン著

大恐慌下のアメリカ自動車産業は厳しい状況が続いていたが、1927年に登場し5年が経過した〈フォード/A型〉に代わって、フォード社は〈フォード/B型〉を登場させることになったが、このB型のボデーに何とV型8気筒エンジンを搭載したのである。

ヘンリー・フォード会長がV8エンジン車を計画したのはずっと前のことであった。
設計主任に対して、「シボレーが6気筒になるのなら、われわれは4気筒から直接8気筒に進もう」と告げ、V8車開発が始まったのが1929年であった。


ヘンリー会長には妙な性癖があった。それは、いったんこうと思い込んだら、その考えがなかなか変わらないという特質だ。

V8信奉はその一例であるが、油圧ブレーキと縦置きスプリングを敬遠するというヘンリー会長の発想の多くは、他と違うクルマにしたいとの信念から生まれた産物に違いない。

こうしたヘンリー会長の固い信念から生まれたのが排気量3,600ccで65HPエンジンを搭載する新型車の〈フォード/V8〉であり、昨年3月に発表された。
このエンジン出力は合衆国では売れ筋となる低中価格帯16台中最も優れた数値であり、新車発売後しばらく経ったら〈フォード/V8〉は圧倒的に性能が優れているとの評判を確立することができた。
中でもロードスター型は若い愛好家の間で人気を博した。


〈フォード/A型〉の発展型である4気筒エンジン搭載の〈フォード/B型〉と、〈フォード/V8〉は並行生産された。
外観は全く同一であるが、V8は2つの前照灯を結ぶ横棒にV8のエンブレムが付き、B型のハブキャップにはフォードの文字が、V8にはV8の文字が入る点が異なっていた。

用意されるボデー形式も全く同じで、価格は全タイプを通じてV8の方が80ドルだけ高かった。
80ドル余計に払ってもV8の方が良い買い物だというのが大方の考えであったので、〈フォード/V8〉は大恐慌下という厳しい環境下にしてはよく売れた。



リンカーンの大規模なモデルチェンジは1931年に行われ、シャシーは延長されてホイールペースは368センチとなった。
そして昨年には、さらに進んだ技術的な改良が加えられた。
この年、フォード車としてV型8気筒エンジンを導入した関係もあって、上位ブランドであるリンカーンは負けじと排気量7,300ccのV型12気筒エンジン搭載の〈リンカーン/モデルKB〉を発表した。


昨年は、〈リンカーン/KB〉だけでなく、排気量7,300ccの〈パッカード/ツインシックス〉、さらに排気量6,500ccと7,000cc〈ピアスアロー/V12〉というようにV型12気筒エンジン車が続々と発表された年となった。

これらに共通する点は、ホイールベースは360センチ~373センチというようにボデーは長く、車重は2.5トン以上と重かった。
いずれのクルマも、標準ボデーとセミオーダーによる複数の注文ボデーが用意されていた。

12気筒車の価格に関しては似たりよったりで、廉価版として小型の〈ピアスアロー/V12〉が3,450ドルであり、標準的な大きさの〈パッカード/ツインシックス〉は3,895ドルから品揃えしてあった。
リンカーンはこれより高価で4,300ドル以下のモデルはなかった。

上級車の値段はコーチビルダーによって決まることになるが、セミオーダーボデーをまとった場合には標準ボデー車のほぼ倍に相当する8,000ドル近くという高価なクルマとなった。


景気の良い時代だったらこれら3車ともメーカーの期待通りに売れたかも知れなかったが、昨年も大恐慌発生以降の景気下降が続いていて、〈リンカーン/KB〉は1,620人の、〈パッカード/ツインシックス〉は550人のユーザーに渡ったが、〈ピアスアロー/V12〉にいたっては500人に満たない顧客しか見つけることができなかった。
                                   【1932年度・年次レポート:次回に続く】



(※34-31話【第1,140回】は、ここまで)


34-30.1932年度・年次レポート①~1932年の生産統計~

ブログ『クルマの歴史物語』の『6部 戦争と自動車』の最初の章である「34章 大恐慌下のアメリカ車」では、最初に”大恐慌の時代”が3回連続で掲載されました。
そして、“ビッグ3の形成”が12回連続で掲載されました。
その後は、『モーター・ジャーナル』誌のチャールズ・フリードマン編集が記した“1930年度・年次レポート”が第22回~24回に、“1931年度・年次レポート”が第26回~28回に掲載されました。
今日からは、「34章 大恐慌下のアメリカ車」では最後となる“1932年度・年次レポート”を3回連続でお届けして、本章は終了いたします。


34.大恐慌下のアメリカ車


 大恐慌時代の需要減と人気急落によって〈フォード/A型〉の生産台数は激減した 


          『モーター・ジャーナル1933年1月下旬号』掲載
         《 1932年度合衆国自動車産業年次レポート その1 》
                 チャールズ・フリードマン著

大恐慌の深刻さが更に深まったのが1932年で、合衆国での乗用車生産台数はピーク時の4分の1を割る110万台になることが必至の状況である。
この数字は、世界大戦終結以降では最悪の数字となっている。


1932年度のブランド別生産台数を見ても、プリムス車を除いてどのブランドも1931年から激減状態となっている。

昨1932年のトップブランドは2年連続のシボレー車であったが生産台数は31万3千台しかなくて、前年から半減している。
2位のフォード車の状況はさらに悪く昨年1年間で21万台しか生産していなくて、一昨年からみたら三分の一になってしまった。
この年、3位にランクアップしたのがクライスラー社にあって大衆車分野を担うプリムス車であり18万6千台を生産した。
以下、4位はエセックス車を含めたハドソン社の5万7千台、5位がGM社のビュイック車で5万6千台、6位がGM社のポンテアック車という順であった。


昨年のフォード社の生産落ち込みは深刻であった。
1908年に発売が開始された〈フォード/T型〉の年間生産台数が10万台を超えたのは発売5年目となる1913年のことであった。
この年から弾みがついて2年後の1915年に50万台を超え、その6年後となる1921年には年間生産台数が100万台を突破した。
その後T型からA型への切り替え時にもたつきもあったが1929年には年間150万台の〈フォード/A型〉が生産されたのである。
そのフォード車であるが、昨年1年間の生産台数は僅か21万台に過ぎず、何と20年前となる1914年当時の規模に戻ってしまったのだ。



さて、わが国の自動車産業の混乱は深まるばかりであって、売り上げが急減したためにニューモデルの開発に使えるような金はどこにもなくなってしまった。
それでもメーカーとしては、何とか工場を操業させなくてはならないから大変だ。

一方、工場ではレイオフが蔓延していた。
フォード社の従業員総数は昨年にいたって5万6千人へと1929年当時からほぼ半減することになった。

従業員の仕事を守りたいヘンリー・フォード会長は、ミシガン州グリーンフィールド村にある歴史的な施設での仕事を増やしたり、空港に付随したホテルとして合衆国としては最初となるディアボーン・インをオープンさせるなど、非自動車部門を含めて全ての従業員が仕事にありつけるように最大限の配慮に力を尽くしてきた。

業界最大手のフォード社をもってしても、このような対策を続けることが難しくなり、とうとう工場従業員の日給に手を付けざるを得なくなり1931年終わりには日給は6ドルに減り、さらに昨年末には僅か4ドルヘと大きく低下してしまった。
                                   【1932年度・年次レポート:次回に続く】




(※34-30話【第1,139回】は、ここまで)


34-29.フリードマン編集長の決断

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、「34章 大恐慌下のアメリカ車」の29回目の掲載となります。
ここで改めて本文の使用フォントを確認したいと思います。
ブログ『クルマの歴史物語』の前文の後に出てくる本文は、著者である蜷田晴彦が記していて、使用しているフォントは”明朝体”です。
ところが著者以外の記述者、例えば今回のようにチャールズ・フリードマン編集長が記した文章を、日本語に翻訳したケースは“ゴシック体”で表示しています。
従がって、昨日までの3日間は、フリードマン記述の年次レポートでしたのでゴシック体が、本日は蜷田晴彦が記述した部分ですので、明朝体が採用されています。


34.大恐慌下のアメリカ車


 『モーター・ジャーナル』誌は月2回発行から月刊誌に変更することで生き残りを考えた 


1930年代、広大なアメリカ合衆国で、情報メディアの中核を担っているのが新聞であった。
新聞は毎日発生しているニュースを印刷物として届けるという役目ゆえ、中央政府の動向と一緒にローカル・トピックスが地域別の新聞社によって編集され、ここで印刷して毎朝各家庭に配達されている。

一方雑誌に関しては、業種別ないしは趣味別、あるいは目的別に編集されているので地方色はなく、全国統一誌として発行されている。
雑誌を発行する出版社の大半はニューヨークに所在していて、ここで製本された雑誌は書籍卸売業者を通じて地方に配達され、全国の書店に並ぶことになる。

このような大手出版社の一つにハンフリー・パブリッシング社(以下、ハンフリー社と略)があった。
この会社は、一般図書ばかりでなく雑誌を得意としており18誌を発行しているが、この一つが『モーター・ジャーナル』誌なのだ。

『モーター・ジャーナル』誌の発行部数は自動車雑誌の中では5番目にランクされているが、比較的硬派の記事内容となっている。
したがって、メーカーやディーラーなど自動車関連従業員の定期購読者が多いので、毎月の発行部数は安定していた。
その結果、ハンフリー社が発行している18誌の中では、収益率ナンバーワンを誇っているだけでなく、自動車産業そのものがこの10年来驚異的な成長を続けているので、『モーター・ジャーナル』誌の将来は明るい希望に満ち溢れていた。


ここまでは大恐慌以前の話で、チャールズ・フリードマンが編集長に就いた1930年3月以降は、発行冊数は前年比でマイナス続きである。

月2回発行の『モーター・ジャーナル』誌の1929年(1~12)の年間総発行冊数であった105万6千冊が、1930年には89万7千冊に、1931年には69万9千冊に減少し、昨年はとうとう50万部を割り込む事態を迎えることになった。


10月24日の月曜日、この日はちょうどブラック・サーズデーから3年が経過した日であった。
雑誌局長から午後4時に集まるようにと呼び出しを受けていたフリードマン編集長がミーティングルームに入ると、神妙な顔をした18名の編集長が集まっていた。
そこに登場したのが厳しい表情をした雑誌局長であり、挨拶もそこそこに、宣言するかのごとく口を開いた。

「ブラック・サーズデー以降、アメリカ経済は大恐慌時代を迎え、本日3年が経過した。
一向に景気の回復が見えない現状を踏まえ、ハンフリー社が発行している全ての雑誌に共通する合理化対策をこの度実施することになった。
その第一は、編集長を含め編集要員・事務要員の三分の一を、来年1月から1年間にわたってレイオフを実施する。
第二は、残った従業員給料の25%を一律カットする。
この二つの基本方針は全誌共通で一切の例外を認めない。
この大方針に基づいて雑誌の大きさ、ページ数、発行頻度等に関しては各雑誌の特質に合わせて実施することは可とする。以上」


チャールズ・フリードマン編集長は、頭を抱えている。
あの日以来、レイオフ対象者をだれにするのか、三分の二になった人数でどのように編集するのか、悩みは深かったが、雑誌の質を落とすことだけは絶対に避けなければならない。
そこで、年が変わる1月号から月2回の発行ペースを取りやめて、毎月1回発行の月刊誌に変更することを決断した。

この結果、毎年1月下旬号に掲載していた合衆国自動車産業年次レポートの1932年度版は、『モーター・ジャーナル』誌の1933年2月号に掲載された。
明日掲載の『クルマの歴史物語』は、チャールズ・フリードマン編集長による1932年度次レポートの日本語翻訳版である。


(※34-29話【第1,138回】は、ここまで)


24-28.1931年度・年次レポート③~第19回インディ500~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、『モーター・ジャーナル1932年1月下旬号』に掲載されたチャールズ・フリードマン編集長が記した1931年度合衆国自動車産業年次レポートの3回目となります。


34.大恐慌下のアメリカ車


 ルー・シュナイダーの優勝によってミラーエンジン車はインディ500で4連勝を飾った 


          『モーター・ジャーナル1932年1月下旬号』掲載
         《 1931年度合衆国自動車産業年次レポート その3 》
                 チャールズ・フリードマン著

毎年『モーター・ジャーナル』誌の年次レポートでは、インディアナポリス500マイル自動車レース(以下、インディ500と略)の結果を報告することにしている。

最初に1929年度には95,150ドルであった賞金総額の話から始めると、大恐慌の影響が深刻化してきた1931年の第19回インディ500の賞金総額は81,800ドルに減額された。

このような状況であっても、インディ500の人気は衰えることなく、例年にも増して客席は超満員という状況の中で1931年度インディ500の決勝レースは始まった。
前評判が高かった前年の優勝者ビリー・アーノルドは7周目に首位に立ち、前年同様、2位との差をどんどん広げていった。
アーノルドはその後も快調にとばして、インディ500では初となる2連覇の可能性がだんだんと濃くなってきた。

ところが163周目の最終コーナーに差し掛かった時、後輪の車軸が突然折れるという事故が発生した。
アーノルドのマシンは壁に激突し、そこへ後続車が突っ込んできたのでコース外に飛び出し、地面に叩きつけられて炎に包まれた。
ビリー・アーノルドと同乗のメカニックは重傷を負ったが、命が助かったことが奇跡と言えるような大事故だった。

この間隙をついて首位に躍り出たのは、地元インディアナポリスで白バイ警官をしていたルー・シュナイダーというベテランドライバーが操縦する直列8気筒ミラーエンジン搭載のスティーヴンス・ミラーだった。

結局シュナイダーはリードを守り抜き、5時間10分27秒という走行時間でチェッカーフラッグを受け取ることになった。
こうして、ミラーエンジン搭載車がインディ500で4連勝をなし遂げたのだ。
なお、この大会でデューセンバーグを操って2位に入ったのはフレッド・フレイムであり、3位はミラーのラルフ・ヘプバーンであった。
                                 【1931年度・年次レポート:今回で終了】


Schneider,L
〈1931年度インディ500で優勝したルー・シュナイダー〉








(※34-28話【第1,137回】は、ここまで)