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35-22.1936年度・年次レポート⑦~第24回インディ500~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、『6部 戦争と自動車』の「35章 大恐慌からの回復」の22回目の掲載で、本章の最終回となります。
すでに何度も記していることですが、本ブログは2012年6月12日から掲載が始まりましたので、既に5年間が経過し、6年目に入るという長期掲載が続いています。
この機会をお借りして、私(蜷田晴彦)がどのような想いで、『クルマの歴史物語』を書こうと思ったかというお話をお伝えしています。

その動機として、昭和40年代、50年代にわたって形成されたわが国の自動車文化が、平成の時代に入る頃から急速に勢いが衰えてしまったという認識を私が強く持つようになった点を既にお知らせしました。
昭和40年代から50年代にかけて、わが国に“自動車文化”を高揚した時期の自動車文化の推進役を担った五十嵐平達氏、折口 透氏、小林彰太郎氏、高島鎮雄氏、高斎 正氏、徳大寺有恒氏等らが高齢に達し、彼ら先達に代わる新世代のリーダーが育ってないまま、自動車文化の高揚感が年毎に低下しているという背景がありました。
そこで今から20数年ほど前から、私は自動車文化の一つの柱である“自動車発展史”を書き留めておこうと考えたのです。
ところが書き始めて分かったことですが、カール・ベンツが世界初の自動車なるものをつくり上げたのは1886年のことで、今から130年以上も前のことです。
この時代から始まる自動車の発展ストーリーを歴史的な事実として記すとなると、何が正しいのかを一つ一つ検証しなければなりません。
そうなるといわゆる研究者の仕事になりますので、とても素人の手に負えないことに気が付いたのです。
そこで、私(蜷田晴彦)が記すのは、事実を積み重ねる“いわゆるドキュメンタリー”ではなく、自分の想像で足らざるところを補うことができる“小説”形式を採ることにしたのです。


35.大恐慌からの回復


 リッケンバッカーが力を入れた安全対策が奏功し1936年度インディ500は無事故だった 


                『モーター・ジャーナル1937年1月下旬号』掲載
            《 1936年度合衆国自動車産業年次レポート その7》
                     チャールズ・フリードマン著

今から20年以上前になる1916年にサンタモニカで開催されたバンダービルト・カップ自動車レースではフランスから参戦したプジョーを運転したダリオ・レスタが優勝した。

この大会でバンダービルト・カップは終了したかに思われたていたが、昨1936年にルーズヴェルト・レースウェイで国際レースとして復活することになった。

このレースではわざわざイタリアから、アルファ・ロメオと看板ドライバーであるタッツィオ・ヌボラーリがやって来た。ヌボラーリにとっては初めてのコースであり、練習時間もほとんどなかったが優勝カップを難なくさらってしまったことでアメリカ人観客を大いに驚かせた。

2位にはやはりフランスから来たジャン・ピエール・ウィミーユが操縦するブガッティが入ったことで、合衆国は未だ本場ヨーロッパの水準に到達していないことを改めて考えさせられたレースであった。


さて、本題としている1936年度インディアナポリス500マイル自動車レース(以下、インディ500と略)の方に話を移そう。
2年続けて燃費の規制が強められたにもかかわらず、優勝タイムが更新され続けた。
しかも、3年続けて多くの事故死者を出してしまった。

1936年度のインディ500の開催に当たって、インディアナポリス・スピードウェイ社のエドワード・リッケンバッカー社長は広範囲にわたる安全対策を実施するように指示を出した。
まずコースについては、コーナーの荒れた部分はアスファルトで補修されたし外側のウォールの取り付け角度の見直しが行なわれた。

また、レース会場の修理と清掃ばかりでなくドライバーに対する事故防止対策も実施された。
これまでに発生した事故の多くに初出場者が関わっていたことから、初出場者に対してテスト走行を主とした資格審査が実施された。
また、燃料の総使用量も前年の161リッターから142リッター以下へと12%も減少することになった。

1936年度インディ500の予選では、アダムズ製シャシーにミラー製エンジンを組み合わせたマシンを操縦したレックス・メイズが2年連続でポールポジションを奪った。
決勝でもメイズはスタート直後から首位に立ったが、やがてスロットルが不調となって徐々に後退を強いられた。
メイズに代って首位に立ったのは、過去3年間で二度にわたって2位となり、何としても優勝したいと願っていたウィルバー・ショウが操縦するオッフィー車であった。
ところがショウのマシンはエンジンフードの取り付けが壊れてしまい、その修理で17分間のロスタイムが発生したため、大きく後退することになった。

レースが半分経過した時点で首位に立っていたのは、過去2勝しているルイス・メイヤーが操縦するスティーヴンス・ミラーだった。
メイヤーは練習中に燃費を良くするために配合比を薄くし過ぎたことでエンジンを3基壊してしまい、予選は28位でかろうじて通過することができた。
その上、決勝前日にはマシンのピストンが壊れてしまい、徹夜でエンジンをオーバーホールして何とかレースに間に合わせたという、さんざんな状況だった。
しかし、本戦レースではメイヤーのマシンはしごく快調であった。
その後燃料補給で首位の座を明け渡しても、復帰後すぐに首位に返り咲くと、あとは差を広げてチェッカーフラッグまで4時間35分05秒で走り切り、ドライバーのメイヤー自身はインディ500史上初の3勝目を挙げたのである。

2位にはウェッタロス・ミラーを操縦したテッド・ホーンが、3位にはウェッタロス・オッフィーのドク・マッケンジーが入賞した。

惜しかったのはウィルバー・ショウで、長いピットストップから復帰した後は、快調な走りを続けて7位でゴールインしたが、あの些細なトラブルさえなければ、メイヤーに4分の大差をつけて優勝できたはずであった。

優勝タイムが5年連続更新されたことは、スピード抑制策がまったく機能していなかったということに他ならなかった。
その一方で、死亡事故の連続記録がようやくストップし、大きな事故が起きなかったことは、コースに関する安全対策が有効だったことを示していた。
                                 【1936年度・年次レポート:今回で終了】


(※35-22話【第1,163回】は、ここまで)


35-21.1936年度・年次レポート⑥~ゴードン・ビューリグ~

いつもブログ『クルマの歴史物語』を愛読いただき、本当にありがとうございます。
このブログは現在、『6部 戦争と自動車』の「35章 大恐慌からの回復」の21回目を掲載しています。
「35章 大恐慌からの回復」は明日をもって終了し、明後日から「36章 イギリス車の再編成」が始まります。
さて、6月12日の本ブログ開設5周年を機に、どのような考えでこのような長編ドキュメントを書くに至ったかをお伝えしています。

今から20年以上前にさかのぼりますが、わが国では“自動車文化”を論じる書籍の出版が激減しているという事実に私はぶち当たったのです。
この原因として、わが国のモータリゼーションが一巡して、移動手段であるクルマに文化的な価値を見出す人が減少している点を挙げることができると思います。

実際昭和40年代から50年代にかけて、多くの日本人(特に男性)にとって自動車は特別な存在で、あこがれの対象でした。
そして、一旦自家用車を使うようになったら、4年ごとにランクアップした新車に乗り換えるのが普通になり、「いつかは白いクラウンに乗りたい」という夢を抱いていました。
そんな時代では、二玄社が発行する『カー・グラフィック(Car Graphic)』誌が飛ぶように売れ、きれいなカラー写真頁をめくっては一時の夢に酔いしれていたのです。


35.大恐慌からの回復


 革新的コンセプトでデザインされた〈コード/810〉が発表されると大評判を獲得した 


                『モーター・ジャーナル1937年1月下旬号』掲載
            《 1936年度合衆国自動車産業年次レポート その6》
                     チャールズ・フリードマン著

そんな状況の中、1935年に発表された話題車ナンバーワンと言えば〈コード/モデル810〉かも知れない。
革新的なスタイリングという点では〈クライスラー/エアフロー〉に匹敵するクルマであり、この年に発表されたアメリカ車の中でも一目見てすぐそれと識別できるクルマと評価が高かった。


Buehrig,Gordon
〈コード社チーフデザイナーのゴードン・ビューリグ〉







コード社にあって若くしてチーフデザイナーに抜擢されたゴードン・ビューリグ氏は、コード社長との取り決めに従いオーバーン車とデューセンバーグ車という両ブランドの仕事をこなしていた。
1934年、従来車より価格が安いベイビー・デューセンバーグ車をつくろうと心に決めたコード社長は、ビューリグ氏に新車を設計するように指示をした。
ビューリグ氏が描き上げた設計図には、人々が今まで目にしたどんなクルマとも根本的に異なるスタイル車が描かれていた。
なにしろボンネットは棺桶の形をしていて、ヘッドライトはフェンダーの中へと姿を消していたのだ。
全体はファストバックのセダン・ボデーの後輪駆動車として設計され、オーバーンのシャシーを使って試作車づくりが始まった。

ベイビー・デューセンバーグの試作モックアップが完成する前にビューリグ氏はオーバーン車の仕事に移ることになり、V12スピードスターの設計を担当することになった。
1年後デューセンバーグ車のプロジェクトに戻ってみると自分が設計したクルマは前輪駆動車に変わっていて、ブランドはデューセンバーグではなくコードが採用されることを知って驚いた。

ビューリグ氏はオリジナルの6ライト車のデザインに代えて、車高の低い4ライトのセダンを再設計したが、これ以外は1934年に設計したオリジナルのベイビー・デューセンバーグと同じだった。
また、このクルマには、排気量4,700ccで125HPを発揮するV型8気筒のライカミング製エンジンが搭載されることになった。

〈コード/モデル810〉と命名された新型車が、1935年11月開催のニューヨーク・モーターショーで発表された。
ショーで公開された新型車の外観は来場者からたいへんな好評を博し、専門家の投票によりこのショーの最も美しいクルマに選ばれた。
なお、この投票結果の次点は〈パッカード/モデル120〉であり、〈リンカーン/ゼファー〉は6位、〈クライスラー/エアフロー〉は9位という結果であった。

ところが、〈コード/モデル810〉を実際売り出してみると、市場の反応は意外に冷たかった。
その要因の一つは価格設定にあり、4ドアセダンの1,995ドルから始まり2ドア・フェートンの2,195ドルという価格は、ビュイック車やクライスラー車よりずっと高価で、〈キャデラック/V8〉の最廉価版より300ドルも高かった点を忘れてはならない。

セダンで152センチという車高はフルサイズのアメリカ車の中では最も低く、その低いボデーラインと目を見張る外観ゆえ“モデル810”は、個性を求める人々のためのクルマであったから、量販を狙うのは最初から無理があったと言えよう。


〈コード/モデル810〉の原点は、商品として登場する頃には家族共々イギリスに転居してしまったエレット・コード社長の豊かな発想にあった。

このクルマとまったく同じ時期に、やはりコード社長の発想から生まれたクルマが〈オーバーン/モデル851スピードスター〉である。
コード社長がイギリス転居後に、コード社の経営を担当したのがデューセンバーク車の総支配人を務めていたハロルド・エームス氏であり、オーバーン車の責任者を兼ねことになった。
そして、このエームス氏の時代に入ってから、モデル851が登場することになったのである。

〈オーバーン/851スピードスター〉もまた、〈コード/モデル810〉のオリジナル設計者であるゴードン・ビューリグ氏がデザインをした。
長大なボンネットの脇にはスーパーチャージャーのための4本の排気パイプが取り付けられていたのが特徴であり、涙滴型のフェンダースカートと小型の前面風防ガラスを備え,幌式の布製屋根はメタルパネルの下に収納するようになっていた。
トランクにはドアがない構造なので車体後部のデザインはすっきりしていたが、荷物の出し入れにはいちいち座席を取り外さなくてはならないという欠点があった。

〈オーバーン/851スピードスター〉と、翌年開発された改良版である852が顧客に届けられる時には、走行テストで最高時速が100マイル以上を出したことを示す飾り板がダッシュボードの上に付けられていた。
しかし、851と852の売れ行きは,いっこうにはかばかしくなかった。


1936年に入ると、もはや打つ手はなくなり、エレット・コード社長が1926年から10年間にわたって築き上げてきたコード帝国は最後のあがきを続け、臨終期を迎えていた。

それを知ってか知らずか、エレット・コ-ド社長自身もイギリスから帰国して新鮮なアイデアをてんこ盛りした新型車を発表したが、この期に至って経営改善にはなんの効果も生じなかった。
全部で2,300台ほどつくられた〈コード/810〉とその改良モデルである〈コード/812〉の生産は本年には全て打ち切られることになるであろう。

コード社のもう一方の柱であったデューセンバーク車は昨年11月のニューヨ一ク・モーターショーが最後の舞台と思われ、これから新型車を見ることはないと思われる。
                                  【1936年度・年次レポート:次回に続く】


(※35-21話【第1,162回】は、ここまで)


35-20.1936年度・年次レポート⑤~コード社の変遷~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は7回連続の「1936年度・年次レポート」シリーズの5回目で“コード社の変遷”とサブタイトルがついています。
さて、著者(蜷田晴彦)が長編ドキュメントの『クルマの歴史物語』を構想して、関連図書の収集を始めている内に、ある重要な点に気が付きました。
それは、自動車関連図書、中でも「自動車の歴史」に関する図書の発行が平成の時代になると激減してきたという事実です。
この原因として考えられるのは、それまでわが国の自動車関連図書の発行元として大きな存在を誇っていた二玄社の状況変化があるかもしれません。
二玄社と言えば、わが国の自動車文化における一つの時代を画した月刊誌『Car Graphic』の編集に長くかかわった小林彰太郎氏の存在が欠かせません。

実際、昭和40年代から50年代にかけて、わが国に“自動車文化”が高揚した時期がありました。
その推進役を担ったのが、1924年生まれの五十嵐平達氏、1925年生まれの折口 透氏、1929年生まれの小林彰太郎氏、1938年生まれの高島鎮雄氏、同じく1938年生まれの高斎 正氏、1939年生まれの徳大寺有恒氏等でした。
彼らは、わが国に初めて“自動車文化”というコンセプトを生み出し、それを普及しようとして活躍し、その軌跡が数多くのすばらしい図書となったのでした。


35.大恐慌からの回復


 追い詰められたコード社は8-98車への絞り込みを断行したことで息を吹き返した 


                『モーター・ジャーナル1937年1月下旬号』掲載
            《 1936年度合衆国自動車産業年次レポート その5》
                     チャールズ・フリードマン著

スーパーセールスマンとして勇名を馳せていたエレット・コード社長が率いるコード社では、量販車種であるオーバーン車の売り上げが急激に落ち込んでいて、1930年の年間販売台数は、オーバーン車、コード車、デューセンバーク車を合わせて1万4千台に過ぎなかった。

追い詰められたコード社長は、販売中の全てのモデルの生産を打ち切り、まったく新しい8気筒エンジン搭載車〈オーバーン/モデル8-98〉1種類だけをつくり、これを短期間に集中して販売するという方針を打ち出した。
モデル8-98のボデーデザインは大胆ではあったが、決してやりすぎではなかった。
その上、エンジンとシャシーのできも良く商品力が高いので人気が出て、コード社長が打った手は絶妙な一手となった。
工場では再び活気が蘇り、オーバーン車の年間販売台数は2万8千台と、コード社創業以来最高の数字を達成したのである。

ところが、成功に酔いしれていたコード社長の次なる発想に大きな落とし穴が待っていた。“モデル8-98”の成功で気持ちが高ぶっていたコード社長は、V型12気筒エンジンを搭載する〈オーバーン/V12スピードスター〉を開発し、競争相手と比較して安価な価格設定をして高級車市場に進出しようと企てたのだ。

そもそも、わが国の高級車市場では、GM社のキャデラック、フォード社のリンカーンという両巨頭に加えて、パッカード、ピアスアロー、マーモンといったブランドが V型12気筒あるいはV型16気筒という巨大エンジンを搭載して、ハイパワーと豪華さを競い合っている。
そこに、コストを引き下げるために8気筒エンジンと同一規格を採用した排気量6,400ccのV型12気筒エンジンを搭載する〈オーバーン/V12スピードスター〉が1千ドルを切った超安値をひっさげて切り込んでいったのだ。
“V12スピードスター”は多くのスピード記録を樹立し、1932年と1933年と2年連続してストックカー・チャンピオンとなった。
しかしこの高性能も価格を低く抑えるための努力も目の肥えたユーザーたちの目を引くことはできなかった。
〈オーバーン/モデル8-98〉と〈オーバーン/V12スピードスター〉は共に売り上げ台数は低下する一方であり、1932年にはオーバーン車の売り上げ台数が僅か6千台にまで減少してしまった。
この結果、コード社は100万ドル近い赤字を計上し、1933年になると経営状況はさらに悪化したのだ。


1934年に入るとエレット・コード社長は突然イギリスに転居してしまった。
この背景として、合衆国のあちこちで富豪の子どもたちの誘拐が頻発したという事情もあるにはあったが、自らの名前を冠した会社の経営不振もその大きな動機の一つであったことは間違いなかろう。
                                  【1936年度・年次レポート:次回に続く】


(※35-20話【第1,161回】は、ここまで)


35-19.1936年度・年次レポート④~リンカーン/ゼファー~

今日は月曜日です。
今週も金曜日の6月23日まで、5日連続でブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツ更新を予定しています。
そして、本日4回目を迎えた「1936年度・年次レポート」は木曜日に終了し、同時に「35章 大恐慌からの回復」も終了をいたします。
さて、6月12日の掲載5周年を機に、ブログ『クルマの歴史物語』がどのような経緯で構想され、準備を重ねて原稿を記してきたかを読者の皆さんにお伝えしています。

それは20年ほど前から始まりました。
最初の構想は、私の“ライフワーク”と言えるような「自動車の歴史」をテーマとする長編ドキュメントへの挑戦であり、第一ステップとして参考図書の収集から取り組み始めました。
都内の自動車関連古書店をこまめに回り、「自動車の歴史」に関係する図書を収集している内にある重要な点に気が付きました。
それは、自動車関連の専門図書が数多く発行されたのは昭和40年代、50年代に集中しているという事実です。
この時期は、わが国のモータリゼーションが一気に広がった期間であり、この熱が冷えてしまった平成の時代に入ると自動車関連図書の発行は激減してしまったという事実でした。
私の同年配の読者にとって、“二玄社”という社名には特異な響きがあったことと思いますが、その二玄社から自動車関連書籍の発行が激減したことも大いに関係していると思います。


35.大恐慌からの回復


 大恐慌からの脱出という好機到来にエドセル社長はリンカーン/ゼファーを生み出した 


                『モーター・ジャーナル1937年1月下旬号』掲載
            《 1936年度合衆国自動車産業年次レポート その4》
                     チャールズ・フリードマン著

ルーズヴェルト大統領が指導するニューディール政策の下で、景気は着実に回復に向かい、ハイクラス乗用車市場におけるビュイック車の躍進や人気上昇中の〈パッカード/モデル120〉に対するフォード社の解答は、リンカーン車の増販対策であった。

そのクルマが、1934年に国民的話題になった流線型列車“バーリントン・ゼファー”にあやかって命名された〈リンカーン/ゼファー〉であり、ブリッグス社というボデーメーカーに所属するジョン・ジャーダという男がデザインした流線型ボデーをまとっていた。

ジャーダ氏は東欧チェコのタトラ方式に倣って、リアエンジン車向けにこのボデーをデザインした。この設計図に着目したのが、ブリックス社に出入りしていたエドセル・フォード社長である。
エドセル社長の構想は急速に具体化され、実物大のモックアップができるとヘンリー会長を説得して,1933年度フォード展示会に出品した。
このクルマの斬新なスタイルはいたく評判が良かったが、リアエンジンは不評だったので製品化計画は直ちに変更され、フロントエンジン・リアドライブの試作車がつくられた。
ところがエドセル社長はこの試作車に満足せず、新しく任命したスタイリング室のボブ・グレゴリー部長にボデースタイルの修正を命じたのである。


Gregory,Bob
〈フォード社スタイリング部長のボブ・グレゴリー〉








その後ヘンリー会長の了承も得られたので,1935年には〈リンカーン/ゼファー〉と呼ばれるハイクラスカーとして発売が開始された。
排気量4,400ccで110HPを発生するV型12気筒エンジンを搭載するゼファーは、実体としてはリンカーン車というよりフォード車に近い存在として誕生した。
〈リンカーン/ゼファー〉の価格は〈キャデラック/ラサール〉と直接ぶつかり合うように決められ、〈パッカード/モデル120〉より200ドル位高く価格設定され、2ドアセダンは1,275ドルであった。
12気筒エンジンの威光は言うに及ばず、競合車種より室内空間が広く、最高時速は145キロに達し、燃料消費量もリッター当り8キロと決して悪くなかった。
〈リンカーン/ゼファー〉を発表後、各ディーラーでの受注は好調に推移して、初年度として異例となる1万5千台が顧客のもとに届けられた。
これは大型リンカーン車の10倍に当たり、リンカーン車がかつて達成した記録をはるかに凌駕する数字となった。
                                       【1936年度・年次レポート:次回に続く】


(※35-19話【第1,160回】は、ここまで)


35-18.1936年度・年次レポート③~ビュイックの活性化~

今日のブログ『クルマの歴史物語』は7回連続の1936年度・年次レポートの3回目となります。
さて、昨日のブログで私の入力方式が“ローマ字・ブラインドタッチ”に転換してから、入力スピードが飛躍的に高まり、それが故に長編ドキュメント作成への動機づけになったことに触れました。
そこで、ポイントになるのが“テーマ”となりますが、若い時から自動車が好きで自動車雑誌を欠かさず購入していたことから、「自動車の歴史」に関する長編ドキュメントをテーマにすることは直ぐに決まりました。

そこで、参考図書の収集から始めました。
休日には、東京を代表する書店の“自動車コーナー”を巡って参考図書を探しましたが、意外にも“クルマの歴史”関連図書はあまり置いていませんでした。
そんな時に、ひょんなことから自動車関連図書専門の古書店の存在を知りました。
当時(今から20年ほど前のこと)、古書で有名な神田はもちろん都内あちこちに数軒の自動車関連図書専門(ないしは得意とする)古書店が存在していました。
これらのお店を巡回して、参考資料の収集に尽力していくうちに、なんとなく長編ドキュメント全体構想が形成されてきたのです。


35.大恐慌からの回復


 ビュイック事業部の新支配人に就いたハーロー・カーチスの奮闘で蘇ることになった 


                『モーター・ジャーナル1937年1月下旬号』掲載
            《 1936年度合衆国自動車産業年次レポート その3》
                     チャールズ・フリードマン著

GM社のセグメント別市場戦略における“ビュイック車”の役割は、アッパーミドル層にポジショニングされている。
1925年から1930年にかけては数多くのブランドから6気筒車が発売されるようになったが、高級感を演出するために、初めて出力100HPを超える排気量5.700ccの直列8気筒エンジンのビュイックが登場したのは1931年のことであった。

GM社の首脳陣は長引く不況で売れ行きが落ちていたビュイック事業部が新型の8気筒モデルで再びかつてのような売り上げを取り戻すことを期待した。
しかし、1933年にはビュイック車は,わずか年間4万台を販売するだけの弱小ブランドに落ちぶれて、ブランドそのものの生き残りが難しくなっていた。

この時アルフレッド・スローン社長が着目したのは、当時GM社にプラグを納入していたACプラグ社という会社のハーロー・カーチス社長であり、40歳になったばかりの若手ビジネスマンであった。
スローン社長は初めてカーチス氏に会った時に、彼がそれまで歩んできた道を聞く機会があった。
カーチス氏は、ミシガン州フリントの高校を卒業後入社したのがACプラグ社であり、最初に就いた仕事が簿記係であったそうだ。
そこで会社の動きをお金の動きとして把握するという習慣が身に付いて、責任ある立場への階段を一段ずつ重ねて36歳という若さでACプラグ社の社長になったのだ。

スローン社長は、この人物の実力を高く評価しGM社への入社を誘った。
ところが、「AC社の経営を軌道に乗せることができなければ、人材豊富なGM社で務まらない」という理由で辞退を繰り返し、ようやく首を縦に振ったのが1933年末のことであった。


Curtice,Harlow
〈ビィイック事業部の支配人就いたハーロー・カーチス〉








GM社入社後ハーロー・カーチスに与えられた仕事はビュイック事業部の支配人であり、大恐慌以降販売台数が急減し、アメリカ自動車業界でのブランドの存在感が急落していたビュイック車の立て直しがミッションとなった。

このカーチスが最初に行った仕事は、GM社全体のスタイリングを統括しているハリー・アール本部長とじっくり話し込みをすることであった。
GM社においてハリー・アール氏が就いた最初の仕事は、キャデラック事業部のチーフデザイナーであり、それまでやぼったかったキャデラックを洗練された高級車に変貌させたことで一躍脚光を浴びることになった。
その後、キャデラック初の量販車に押し上げたラサールの大成功でカーデザイナーとしてのハリー・アール氏の評価がGM社内外で確立した。

自動車におけるデザインの重要性に最初に気づいた人物はGM社のアルフレッド・スローン社長であり、全社のカーデザインを統括するスタイリング本部を創設して、ハリー・アール氏を初代のスタイリング本部長に任命した。

このような状況の中で、ハーロー・カーチス支配人はアール本部長の意見を聞いたところ、それまでのビュイック事業部は保守的な世界からなかなか抜け出せない状況が続いていることを知った。
そこで、新支配人はビュイック車のデザインの方向性をハリー・アール本部長に指導をしてもらいたいと改めて表明したのである。
デザインだけでなくメカニズムにも新鮮さを求めたカーチス支配人は、アルミニウム・ピストンと油圧ブレーキを採用するなど前向きであった。
その上に、車種を番号で呼ぶ代わりにスペシャル、センチュリー、ロードマスター、リミテッド、スーパー、ビジネスクーペというような名称で呼ぶことにした。

こうしてビュイック車の1936年モデルがデビューしたところ、好評をもって迎えられたのである。1936年の生産データを見ると、この年ビュイック車は16万8千台を生産し前年の5万3千台の3倍以上という驚異の躍進ぶりを示したのである。
                                       【1936年度・年次レポート:次回に続く】


(※35-18話【第1,159回】は、ここまで)