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36-23.イギリス車の再編成⑧~GM傘下のヴォクゾール車~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は23回記事更新を続けてきた『36章 イギリス車の再編成』の最終回となります。
本ブログの読者ならご存知の通り、アメリカの自動車雑誌『モーター・ジャーナル』は、創刊15周年を迎えた1936年に特別企画としてヨーロッパ自動車産業最新情報レポートの連載を企画しました。
この企画を提案したアメリカ人の自動車ジャーナリストのピーター・ウィリアム氏は、写真を得意とする妻スーザンを連れ立ってイギリス、フランス、イタリア、ドイツへ取材旅行に行きました。
『36章 イギリス車の再編成』は最初の訪問国イギリスでの取材で得られた情報をレポートしたものでした。
明日からは、フランスに渡り取材をしたレポートとなる『37章 シトロエンの生と死』が掲載されますので、引き続きましてのご愛読をよろしくお願いいたします。


36.イギリス車の再編成


 GM社の傘下に入ったヴォクゾール社は、商用車市場の開拓に活路を求めた 


                 『モーター・ジャーナル1937年4月上旬号』掲載
              《 ピーター・ウィリアムス記述:イギリス自動車産業レポート 》
                    その5.イギリス車の再編成⑧

自動車メーカーにとって経営を維持することが難しい時代になってきた。
この時代を生き抜くためには、自分たちがつくりたいクルマを市場に送り出しているだけではダメで、顧客の期待に応えることができる機能、品質、価格を実現することは最低要件となっていて、これができないメーカーはたちまち市場から葬られるのは、自然の成り行きである。

通常は倒産や廃業によって淘汰が進むが、ブランド力、技術力、生産力がある会社はM&Aの対象になることがある。
多くは自国内の大手企業の傘下に入ることになるが、ごくまれに外国企業に吸収され、その子会社として生き残ることもある。

世界大恐慌時代にあって、国際的なM&Aに手を出すことができる自動車メーカーは、世界に3社しか存在していない。
それは、わが祖国のGM社、フォード社、クライスラー社という“ビッグ3”と呼ばれる3社であり、各社とも最重要戦略エリアであるヨーロッパを虎視眈々と狙っている。



1903年からガソリンエンジン車をつくるようになったヴォクゾール社は、ローレンス・ポメロイ技師長が1911年に開発した“モデルC型”で自動車ビジネスの基盤を形成したが、その後はぱっとすることなく、厳しい経営状態が続くことになった。

世界大戦後の1925年12月、アメリカのGM社は、時代の変化に対応できなくて経営危機に陥ったヴォクゾール社を買収し、イギリスの拠点をここに定めた。

こうして、GM社の傘の下で事業活動を続けることになったものの、いっこうに業績は上向くことはないまま世界大恐慌時代を迎えることになった。
イギリス人の首脳陣がモタモタしていると、そこに「製品ラインを整理統合して、大衆乗用車と商用車重視への転換を図るように」というデトロイトの本社からの指示を受け取った。

1931年より本格的に商用車分野へ進出し、アメリカのシヴォレー・トラックをベースにし、イギリスの道路事情に合わせた“ベドフォード”ブランドの、1.5トン、2トン、3トンのトラックや小型バスなどが次々と市場に送り出された。
これらの商用車は評判が良く、発売1年後には1万台以上を売り上げるという成功をおさめた。
最近では商用車を含めると年産5万台規模に膨れ上がり、ヴォクゾール社はGM社のイギリス拠点として、量産メーカーへの脱皮に成功することができた。



それでは、イギリスの自動車産業最新動向レポートの最後として、イギリスには数えきれないカーブランドがある中で、特に有力なのが25ブランドである。

この25ブランドの内、すでに消滅したのがアロール・ジョンストン、ダラック、ネイピア、ウーズレー・シドレーの4ブランドであるが、ネイピア社は航空機エンジンの有力メーカーとして生き残っている。

現在活動中の21ブランドを〔A.高級車〕、〔B.スポーツカー〕、〔C.中型・大衆車〕というカテゴリー区分に仕分けしてみよう。

〔A.高級車〕カテゴリーでは、ランチェスター、デイムラー、ロールス・ロイス、ベントレーの4ブランドが競い合っている。

〔B.スポーツカー〕のカテゴリーに属するのは、アストン・マーチンとMGの2ブランドである。

残りの14ブランド(ライレー、ウーズレー、サンビーム、タルボット、ヴォクゾール、スタンダード、シンガー、ローバー、オースチン、ヒルマン、AC、モーガン、モーリス、ハンバー、)が〔C.中型・大衆車〕カテゴリーに入っている。

〔C.中型・大衆車〕カテゴリー間でのブランド競争にあって、既にGMグループ入りしたヴォクゾール以外では、ルーツGのサンビーム、タルボット、ヒルマンの3ブランドとモーリス、並びにオースチンは今後も安泰であろうと私は推察している。
その一方で、残りの9ブランドがこの先も生き残るためには厳しい日々が続くことは間違いなかろう。
                  【イギリス自動車産業レポート その5.イギリス車の再編成:今回で終了】


(※36-23話【第1,186回】は、ここまで)


36-22.イギリス車の再編成⑦~AC、シンガー、モーガン~

本日は月曜日です。
今週もブログ『クルマの歴史物語』は金曜日まで5回連続で更新をする予定です。
さて、『6部 戦争と自動車』の3つ目の章である『36章 イギリス車の再編成』は本日22回目の記事更新となり、1929年から1945の期間中の“AC、シンガー、モーガン”という3つのブランドに関するレポートとなります。
そして、明日の“GM傘下のヴォクゾール車”をもって、『36章』は終了し、水曜日から『37章 シトロエンの生と死』に移ります。


36.イギリス車の再編成


 大恐慌時代に淘汰される自動車メーカーが多い中でシンガーとモーガンは生き残った 


                 『モーター・ジャーナル1937年4月上旬号』掲載
              《 ピーター・ウィリアムス記述:イギリス自動車産業レポート 》
                    その5.イギリス車の再編成⑦

《イギリスの自動車産業レポート》は、ここまででランチェスター、デイムラー、ロールス・ロイス、ベントレー、オースチン、ウーズレー、イギリス・フォード、モーリス、MG、アストン・マーチン、ローバー、スタンダードに関して記してきた。
そしてルーツGのヒルマン、ハンバー、サンビーム、ダラック、タルボットを加えると17のブランドおよび自動車メーカーに関する最新情報を読者諸氏にお伝えしたことになる。

イギリスにはまだまだたくさんのブランドが存在しているので、レポートの「その5.イギリス車の差し編成」の続きは、ACの話から始めよう。


AC社を創業したジョン・ウェラー氏とジョン・ポートワイン氏は1922年になるとそろって引退し、自動車メーカーのネイピア社を立ち上げて成功を収めイギリス自動車業界の有名人になったセルイン・エッジ氏がAC社の社長に就任することになった。

エッジ社長は直ぐに、社名をACカーズ社に変更した。
そして排気量1,500ccの4気筒車と排気量2,000ccの6気車でレースに打って出た。
4気筒車はブルツクランズコースで時速160キロを超える記録を何度か出して注目集めた。
そして、1923年に開催された200マイルレースではタイヤトラブルに見舞われたが、修復に関わるタイムのロスを乗り越えて完走し3位に入った。

6気筒車の方も1925年にはフランスのモンレリー・サーキットで24時間平均時速133キロという世界記録を出し、1926年度モンテカルロ・ラリーではイギリスに初優勝をもたらすなどAC車の活躍は注目を集めたが、その後がいけなかった。

1927年に入ると4気筒車の売り上げが急落するようになり、そこに世界大恐慌が追い打ちをかけることになって、セルイン・エッジ社長は責任をとって引退することになった。


1930年になると、技術者のウィリアムスとチャールズというハーロック兄弟がACカーズ社の株式を取得し、経営再建に当たることになった。
そして4気筒車と6気筒車の大改造に取り組み、外観を新しくした新車“エース”と名付けて売り出したところ市場から好評を持って受け入れられた。
そして1933年のRACラリーで〈AC/エース〉は見事に優勝を果たしたのである。


こうしてACカーズ社は2座のオープン型とクローズド型のスポーツカーを中心にして、2ドアクーペとコンバーチブル、さらに4ドアサルーンまで商品ラインアップを形成していった。
その結果、1930年代のミドルクラスのスポーツカーの中で、AC車は「もっともハンサムな車のひとつ」という名声を確立できたのである。



イギリス人事業家のジョージ・シンガー氏によって創業されたシンガー社は、1905年に自動車メーカーのリー・フランシス社を買収し、“シンガー”ブランドを冠するカービジネスを開始した。

シンガー車がイギリス自動車界で注目を集めるようになったのは、排気量1,000㏄の小型車“テン”を売り出して以降のことであった。
世界大戦中もテンは継続生産されたが、戦後になると排気量を拡大して性能向上に努めたことで、人気を維持することができた。
そして、1924年には排気量1,300ccの“モデル10/26HP”を、1926年には排気量850ccの“ジュニア”発表したら大好評を博して、イギリスブランド車としては、モーリス、オースチンに次ぐ存在になったのである。


この頃がシンガー車の最盛期であった。その後は大きな存在感を発揮することなく大恐慌時代を迎えることになり、1932年に“ナイン”という970ccの小型車を発売したものの、期待する売上に届くことなく、今日までジリ貧状態が続いている。



シンガーの次は、三輪自動車で有名になったモーガンの出番である。
代々聖職者をやっているイギリス人の家に生まれたヘンリー・フレデリック・モーガン氏はロンドンの工業大学で技術を学び、1910年に父からの出資金でモーガン社を創業して、“モーガン”ブランドの三輪自動車ビジネスを始めた。
売価が安いことが最大の魅力の三輪自動車はイギリス市場で独自の存在感を発揮したが、世界大戦後のモータリゼーションの時代を迎えると、年毎に小型車が安くなり、三輪自動車は出番がなくなってしまった。

そこで、三輪自動車専門のモーガン社は、“モデル4/4”というネーミングの4つの車輪を持つ小型車を1935年に開発した。
このクルマは、価格を安く設定したこともあって売上は順調に伸びて、モーガン社を立ち直すきっかけをつかむのであった。
                   【イギリス自動車産業レポート その5.イギリス車の再編成:次回に続く】


(※36-22話【第1,185回】は、ここまで)


36-21.イギリス車の再編成⑥~イギリス・フォード社の戦略転換~

いつもブログ『クルマの歴史物語』を愛読いただき本当にありがとうございます。
おかげさまで、本ブログは2012年6月12日から始まり、昨日までに実に1,183回の記事の更新を続けてきました。
現在このブログは、1929年から1945年までを記述対象とする『6部 戦争と自動車』の3つ目の章である『イギリス車の再編成』の21回目を迎えています。
本日のテーマは、“イギリス・フォード社の戦略転換”とサブタイトルが付いています。
引き続いてのご愛読をよろしくお願いいたします。


36.イギリス車の再編成


 イギリス・フォード社はイギリス人のライフスタイルに合致した大衆車を開発した 


                 『モーター・ジャーナル1937年4月上旬号』掲載
              《 ピーター・ウィリアムス記述:イギリス自動車産業レポート 》
                    その5.イギリス車の再編成⑥

ボディサイズの大きなA型を主力車種に育成しようと考えていたイギリス・フォード社の幹部は、戦略の見直しを余儀なくされることになった。
それは、A型を継続生産するか、それともイギリスの国情に合致した小型車を新たに開発するかという選択で、デトロイトのフォード本社を交えて激烈な議論が重ねられたという。


増資をして株式の40%をイギリス国内の一般投資家に開放するという政策をとった直後であるだけに、イギリス・フォード社は、「地元の人々に愛されるクルマづくりを目指すことこそ自分たちの歩む道である」との結論を導いた。
そして、道路状況やイギリス流ライフスタイルに合致した小型車の開発が始まった。

開発名称を“Y型”というイギリス・フォード社として初となる自社開発小型車は、〈フォード/エイト〉という名前でデビューすることになった。
このネーミングは〈オースチン/セブン〉のワンランク上をゆくクルマであることを主張するために、セブン(7)に1つ足したエイト(8)にしたものと思われる。


フォード製小型車には排気量930ccの4気筒エンジンが載せられていたが、ボディデザインはA型の縮小版そのものであった。
大人2人プラス子供2人分のスペースしかない〈オースチン/セブン〉に対して、何とか大人4人が乗れるスペースを確保したこのクルマが、1932年から売り出されたら、人々から“ベビーフォード”という愛称で親しまれるようになり、たちまちヒット商品になったのである。

発売開始して既に10年近くが経過し、人気にかげりが出ていた〈オースチン/セブン〉に対抗しようというイギリス・フォード社の小型車進出計画は “エイト”を市場導入したことで、販売開始2年目には年間3万台以上を売るように大成功を収めたのである。
                   【イギリス自動車産業レポート その5.イギリス車の再編成:次回に続く】


(※36-21話【第1,184回】は、ここまで)


36-20.イギリス車の再編成~モーリス社長の野望~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は“イギリス車の再編成”の5回目で~モーリス社長の野望~とサブタイトルが付いています。
このシリーズで残るサブタイトルは、~イギリス・フォード社の戦略転換~、~AC、シンガー、モーガン~、~GM傘下のヴォクゾール車~の3つだけとなります。


36.イギリス車の再編成


 イギリスN.o1メーカーの座を狙うW.R.モーリス社長はウーズレー社を傘下に収めた 


                 『モーター・ジャーナル1937年4月上旬号』掲載
              《 ピーター・ウィリアムス記述:イギリス自動車産業レポート 》
                    その5.イギリス車の再編成⑤

《イギリスの自動車産業最新動向レポート》では大手自動車メーカーの一つであるモーリス社のウィリアム・リチャード・モーリス社長がたびたび登場する。

モーリス社長が陣頭指揮を執るモーリス社が、イギリスの自動車業界で注目されるようになったのは、世界大戦が始まる1年前に、小型車の〈モーリス/オックスフォード〉を売り出して以降のことである。

世界大戦後、モデルチェンジしてサイズアップしたオックスフォードとその廉価版を担うカウリーという2本柱によって経営するモーリス社は、1920年代の中頃には大手自動車メーカーの一角に食い込んでいた。


自動車メーカーを立ち上げた時から、業界トップメーカーの座を狙ってきたモーリス社長の野望はとどまることがなかった。
M&A(企業の合併と吸収)によって自動車業界の支配力を高めようと、次に狙いを定めたのは羊毛刈取り機メーカー時代にハーバート・オースチン氏によって生み出されたウーズレー社である。
このブランドの所有権は、イギリスを代表する重機メーカーのヴィッカーズグループに移っていた。

大戦が終わるとヴィッカーズグループから自動車部門は分離されることになり、ウーズレー社は独立企業として経営されていた。
ところが、時代の変化に乗り遅れ赤字経営が続き、1926年に倒産してしまった。
競売に付されることになったウーズレー社に目を付けたのがモーリス社長であり、豊富な資金量にモノを言わせて、自分の個人所有企業としてモーリスグループ入りをさせたのである。


1920年代の始めの頃のイギリス自動車業界のトップメーカーは、T型で市場を席巻していたイギリス・フォード社であった。
2位には大衆車セブンをヒットさせて上昇気流に乗ったオースチン社が食い込み、3位以下は団子状態であったが、ウーズレー車を加えたモーリスグループが、この塊の中から抜け出してきた。
1929年に入ると、モーリス社は小型車“マイナー”を開発して〈オースチン/セブン〉を追撃する体制に入ったら、このクルマは年間1万台以上販売するヒット商品に育ってきた。


こうして、イギリスのモータリゼーションは着実に進展することになり、1928年には1/4に過ぎなかった小型車の構成比は、5年後には過半数を占めるまでになったのだ。


さて、モーリスグループ入りしたウーズレーのその後であるが、1931年に〈モーリス/マイナー〉をベースにして、排気量1,300㏄の2ドア軽量スポーツタイプの〈ウーズレー/ホーネット〉を売り出した。

このクルマは、価格が安く設定されたこともあって若者の支持を受けヒット作となったが、ウーズレーブランド車が人気を呼んだのはホーネットが最後だった。
                  【イギリス自動車産業レポート その5.イギリス車の再編成:次回に続く】


(※36-20話【第1,183回】は、ここまで)


36-19.イギリス車の再編成④~オースチン社の成功~

アメリカ人の自動車ジャーナリストであるピーター・ウィリアムスが記し、『モーター・ジャーナル1937年2月上旬号』に掲載される《イギリスの自動車産業レポート》は「その1.高級車メーカーの競争激化」から始まって、2月下旬号の「その2.ロールス・ロイスとベントレー」、3月上旬号の「その3.MGの躍進」と「その4.スクワイヤー車ストーリー」、3月下旬号の「その5.イギリス車の再編成」というように続いています。
これらでは、第1次世界大戦が終結してやっと平和な時代が訪れたと思ったもののつかの間、1929年10月に忽然と発生した株価大暴落、その日からの世界大恐慌を乗り切るために苦闘しているイギリス自動車メーカー各社の様子が記されていました。
本日のブログ『クルマの歴史物語』は。『モーター・ジャーナル3月下旬号』の「その5.イギリス車の再編成」の続きであり、例によって『クルマの歴史物語』の読者の皆さん向けに、筆者:蜷田晴彦が日本語に翻訳した記事をお届けします。


36.イギリス車の再編成


 ハーバート・オースチンはイギリス人大衆の心を掴んだセブンで大ヒットを飛ばした 


                 『モーター・ジャーナル1937年4月上旬号』掲載
              《 ピーター・ウィリアムス記述:イギリス自動車産業レポート 》
                    その5.イギリス車の再編成④

20世紀の始めの頃、フレデリック・ウーズレー社長の誘いを受けて羊毛刈り取り機メーカーのウーズレー社に入社したハーバート・オースチン氏は、総支配人にのし上がった。
ところが、自動車事業への進出を巡って他の会社役員と意見が合わなくなり、この会社を離れた後に、幾多の変遷を経て自動車メーカーのオースチン社を設立した。

新発足したオースチン社はなかなか軌道に乗ることがないまま時間が経過してしまい、世界大戦が勃発するとオースチン社長は弾丸や武器などの軍需物資の供給に専念する方針に切り替えた。

イギリスはドイツに勝利して、大戦後の復興に向かうことになり、大衆はクルマに関心を示し始めていた。
これからは小型車の時代がやってくると確信を持ったオースチン社長は、息子のエッジ部長と一緒に、新しいコンセプトをもつ排気量700ccの水冷4気筒エンジンを載せる小型車の設計に取り組んだ。

そして、〈オースチン/セブン〉と名付けられた264センチの長さと117センチの幅しかない超小型車が1922年に誕生した。
このクルマは燃費がよく、維持することが負担にならない経済車で、値段を安くしたこともあって評判は上々であった。


1920年代の中頃になると、イギリス人の生活レベルは着実に上昇し、〈オースチン/セブン〉が走り出すことによって、庶民にとって自動車を持つことは決して夢の中の話ではない時代を迎えることになり、モータリゼーションが始まった。

世界大戦後、イギリスでは自動車税が馬力比例方式に変更され、小型車の税額は安くなった。
その一方で、サイズの大きなクルマは税負担額が大幅アップしたことで、売上に影響が出始めた。
中でもイギリス国内のトップセラー車として独走を続けていた国産〈フォード/T型〉の売上ダウンは急ピッチとなってきた。
このような状況を受けて、イギリス・フォード社は本家アメリカに続いて、生産車を“A型”に切り替えたが、T型を売り出した時のような人気が出ることなく経営陣は頭を抱えることになった。
                   【イギリス自動車産業レポート その5.イギリス車の再編成:次回に続く】


(※36-19話【第1,182回】は、ここまで)