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37-24.ブガッティの無残⑤~息子ジャンの成長~

本日は9月に入って初めての月曜日となります。
今週も金曜日まで週5回のコンテンツ更新を続ける予定ですので、変わらぬご愛読をよろしくお願いいたします。
さて、7月26日に始まった『37章 シトロエンの生と死』は、本日をもって最終回となります。
ブログ『クルマの歴史物語』は『6部 戦争と自動車』に入ってから、『34章 大恐慌下のアメリカ車』、『35章 大恐慌からの回復』、『36章 イギリス車の再編成』、そして『37章 シトロエンの生と死』というように続いてきました。
ここまでで、『6部』は半分が経過したことになります。
明日からは、『38章 イタリア車のがんばり』が始まり、次いで『39章 ドイツ車の復興』、さらに『40章 戦時体制への道』というように続き、最後の章は『41章 戦争に向かう日本』を掲載する予定となっています。


37.シトロエンの生と死


 カー・デザイナーとしての才能を父から受け継いだ長男ジャンは名作57SCを開発した 


ストラスブールのホテルでのピーターとスーザンの会話話続いていた。

「エットーレ・ブガッティにはジャノベルトという名の息子がいた。
この子は“ジャン”という愛称で両親に可愛がられて育った。
ジャンは父親の影響を大きく受けて、子供の時から自動車が大好きだった。
特に、自動車の絵を描けば、本職の画家をうならせる素晴らしい才能をもっていた」

「お父さんの血を引いてるのね」

「ジャンはそのうちに、オリジナルデザイン車を描くようになってきて、15歳の時には本格的にカーデザインを行なったというように、優れたカー・デザイナーとして将来を約束されていたのさ」

「お父様も、きっと頼りにしていたことでしょうね」

「このジャンがボデーを設計したのが、自動車デザインの最高傑作といわれる57SCアトランティックなのさ」

「それはどんなクルマなの」

「僕も実物を見たことはないけど、一度見たらきっと衝撃を受けること間違いないよ」

「それは楽しみね。ぜひ写真を撮りたいわ」

「ところが、このクルマが現在どこにあるかは分かっていないのだ」

「それは残念ね」

「こうして自動車ビジネスに取り組んでいたブガッティ親子であるが、1930年代に入ると、再びドイツとフランスの対立が避けられない状態になってきた」

「戦争が近づいているということなの」

「ブガッティの工場があるモルゼール地方は、両国にとってたいへん重要な戦略エリアとなっているのさ」

「今ここにいると、何か知らない緊張感を感じるわ」

「ブガッティ社に働く全ての従業員はブガッティ家の家族であり、自分が盟主として従業員の幸せに最大努力を注入することと引き換えに、全ての従業員もご主人様に絶対忠誠を誓って欲しいというのが、エットーレ・ブガッティの哲学なのさ」

「ずいぶんと封建的な考えね」

「この関係は長い間保たれており、ル・パトロンと呼ばせ家長として君臨していたのさ。
ところが、最近、フランスの人民戦線の動きが強まるにつれ、従業員たちもストライキをやるようになったわけさ」

「ストライキは珍しいことではないと思うわ」

「そんなことがあろうとは夢にも思っていなかったブガッティは強い衝撃を受けて、パリに引きこもり、モルゼールには戻ろうとしなかった。
そして、工場の運営は、息子のジャンと有能な部下たちまかせるようになった」

「ブガッティさんはまだ若いのでしょう」

「年齢の問題ではなく、生き方の問題なのさ」

「それにしても極端な哲学をお持ちの方で、そんな人がいるなんで、私受け入れることができないわ」

「エットーレ・ブガッティは世の中からロワイヤルが受け入れなれなくなったことで、自動車づくりの方向を見失い、どんなクルマを創ったらいいのかが分からなくなってしまったようだ」

「ブガッティさんの生きがいがなくなってしまったの」

「そんな時に、タイヤメーカーのミシュラン社がフランスの国鉄と共同して、ゴムタイヤ付の車両がレール上を走るという“軌条車”という乗り物を開発していることを知って興味を抱いたのさ」

「それでどうなったの」

「エットーレ・ブガッティはパリに設計事務所を設けて、ミシェラン社と国鉄との間で開発チームが編成され、モルゼームの工場では試作車づくりが始まったという噂があるそうだ」

「成功するといいわね」

「それ以上の情報がないので何とも言えないけど、明日はブガッティ社を訪問する予約が入っているので、そこらへんも聞いてみようと思っているのさ」

「ブガッティさんの話はよく分かったわ。
せっかくここまで来たのにお部屋で話ばかりしているのは時間がもったいないわね。
ホテル周辺を歩いてみましょうよ」と話を結んだウィリアムス夫妻は、ストラスブールの街へ出かけるのであった。


Bugatti,GeamJ
〈エットーレ・ブガッティの息子ジャノベルト〉


(※37-24話【第1,210回】は、ここまで)


37-23.ブガッティの無残④~ロイヤルの完成~

いつもブログ『クルマの歴史物語』を愛読していただき、厚く感謝を申し上げます。
2012年6月にスタートを切った本ブログは、既に5年2ヶ月を経過し、本日は1209回目の更新を迎えました。
このブログは現在『第6部 戦争と自動車』の4つ目の章である『37章 シトロエンの生と死』を連載いたしておりますが、本章は次回(9月4日、月曜日)に最終回を迎えます。
そして、火曜日から『38章 イタリア車のがんばり』が始まることになっています。
本ブログは、まだまだ続きますので、引き続きましてのご愛読をよろしくお願いいたします。


37.シトロエンの生と死


 エットーレは世界最高級の乗用車を目指して巨大な“T40/ロワイヤル”を開発した 


ブガッティ・ストーリーを続けているうちに徐々に興奮してきたピーター・ウィリアムスの話は一向に終わりそうになかった。

「ブガッティはモルゼームの邸宅にお客様を招いてパーティをするのが大好きだった。
食事の間の話題は、どうしてもレースの話が多かったようだ。
ある日いつものように開催された夕食会の席上で、ある貴婦人がなにげなく、『レース場ではたしかにブガッティ車は優秀ですが、路上を走るクルマとしてはロールス・ロイスに一歩を譲るのではないでしょうか』と口走った。
これを聞き逃さなかったブガッティは、無言の会釈をした上で席を離れ、そのまま製図板に向かって新車の設計にとりかかったのさ」

「いったいブガッティさんに何が起こったの」

「ブガッティは気位が高いのさ。
それなら世界最高級のクルマをつくってやろうじゃないかと考えて、くる日も来る日も新型車の開発に明け暮れ、1926年に“モデル41”という開発ナンバーが付いた超豪華車が完成したのさ」

「ロールス・ロイスに勝るクルマが本当にできたの」

「後に自動車好きのスペインのアルフォンソ十三世が買いたい意向を示したため、“ロワイヤル”呼ばれる最高級車なのさ」

「そんなにすごいクルマなの」

「何しろ当初のプランでは、排気量が14,700㏄で300HPというエンジンを載せるつもりだった。
また、このクルマのホイールベースは430センチもあって、空前の大きさの乗用車が生まれることになったのさ」

「現代のクルマと比較してみるとどうなの」

「実際の生産型エンジンは12,700㏄となったけれど・・・」

「それで、その超豪華車は売れたの」

「そこが問題なのだが、誕生したタイミングが悪かった。
大恐慌の荒波がヨーロッパの経済を直撃した後だけに、興味を示す人はいたが実際買うとなると話は別で、1号車を買ったのはフランスの成金業者であり、どこの王室からも声がかからず、最終的に売れたのは6台だけだったと言われている」

(※37-23話【第1,209回】は、ここまで)


37-22.ブガッティの無残③~レースでのT35の活躍~

今日は8月31日で8月の最終日です。
ブログ『クルマの歴史物語』は現在、第6部の4つ目の章である『37章 シトロエンの生と死』をお届けしています。
37章に入ってから7回連載の「シトロエン社の盛衰」、2回連載の「ビッグ3の海外進出戦略」、5回連載の「大恐慌下のルノーとプジョー」、同じく5回連載の「フランス車の生き残り戦争」というように進展してきました。
現在は37章としては最後となる「ブガッティの無残」シリーズに入っていて、本日はその3回目の掲載となります。


37.シトロエンの生と死


 世界大戦後の活動を再開したエットーレ・ブガッティは傑作レースカーT35を完成した 


ドイツのアルザス地方の中心都市のストラスブールのホテルでのウィリアムス夫妻の会話は続いていた。

「世界大戦後のブガッティ社はどうなったの」

「幸いにして1910年に誕生したT13モデルは名作の誉れが高く、大戦後もこれを売ってくれという客が多く、売れ行きは順調だった」

「技術進歩が著しいレースカーの世界で、何年にもわたって一つのクルマでビジネスをやり続けることができるなんて、すばらしいわね」

「確かにT13は素晴らしいクルマだった。
そうはいっても、時代に合致したより魅力的な新型車を送り出さないとお客さんが離れてしまうことを知っているエットーレ・ブガッティは、T13の設計思想をより今日的に、そしてよりスピードが出る新型車の開発に熱中したのさ」

「それで、T13を上回る人気車ができあがったの」

「世界大戦後は、大型3リッターのエンジンを積むスポーツカーのT28からスタートし、さらにT30へと改良を重ねたが、世界大戦後のヨーロッパ・レース界で急速に強くなったアルファ・ロメオなどのライバルにどうしても勝てなかったのさ」

「それがどうして勝てるようになったの」

「後にブガッティの最高傑作と呼ばれるようになるT35が1924年に完成したからだ」

「それはどんなクルマなの」

「エットーレ・ブガッティは、乗用車とレースカーの基本は変わらないと考えていて、強靭なシャシーに高出力なエンジンを搭載する。
それに高速直線路と急カーブを共に耐えられる柔軟なサスペンションを取り付けるだけという単純な設計思想の持ち主なのだ」

「その思想なら、他のメーカーとちっとも変わらないでしょう」

「単純なだけにそれら要素のバランスをとるのが難しいのさ。
T35はレースカーとしては小型に属し、排気量規制値いっぱいの2,000ccエンジンを搭載したオープンモデルで、レースに勝利することだけを考えたクルマなのだ」
「それで、レースでの結果はどうなったの」

「T35が登場したのはリヨンで開催された1924年度フランスGPであり、初登場レースでいきなり優勝してしまったのさ。これ以降、第1回、第2回、第3回モナコGPでの3年連続優勝、タルガ・フローリオでの優勝など、参戦するレース全てで優勝に絡むことになったので、ブガッティの名声は高まるばかりとなったさ」
(※37-22話【第1,208回】は、ここまで)


37-21.ブガッティの無残②~T13の大ヒット~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は「ブガッティの無残」の2回目で、“T13の大ヒット”とサブタイトルが付いています。


37.シトロエンの生と死


 ブガッティがヨーロッパの自動車レース界で存在感を発揮したのはタイプ13からだった 


ストラスブールでの宿泊ホテルでのウィリアムス夫妻の会話が続いていた。

「ブガッティ社の1号車として誕生したのが排気量1,300㏄の軽量スポーツカーの“タイプ13”だった。
このクルマは、ハイスピードである上にロードホールディングがよかったので、各地のレースで優勝を重ねたのさ」

「新車をつくったら、すぐに優勝するなんてすごいじゃない」

「現代と違って、製作者の才能がクルマの性能に直結する時代なので、結果が早く出るのさ。
ブガッティ車は、フランス、イタリア、スペイン、ドイツなど各地のレースで優勝を重ねて、その速さで他車を圧倒したのだった」

「そうするとブガッティさんがつくるのはレーシングカーだけなの」

「レーシングカーだけでは、会社として経営できない。
その点は抜け目なく、レーシングカーベースのスポーツカーや乗用車を開発して、これらのクルマでビジネスをやっていたのさ。
それと、レーシングカーも、売ってくれという客がいたら販売したのだよ」

「1910年に創業したということは、すぐに戦争になったということね」

「ドイツがフランスと戦争を始めることを知ったブガッティは、モールスハイムの工場閉鎖を決断し、従業員全員を解雇した。
フランス軍に技術が盗まれないように、自分で開発したエンジンをていねいに油紙で包んで地中深く埋めて、自分はミラノに引き上げたのさ」

「奥様を始め、ご家族も大変だったでしょうね」

「世界大戦の惨劇は、この辺りはすさまじかったと思うが、1918年に戦争が終わると、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ領からフランス領に代わったのだ。
そして、モールスハイムという地名はモルゼームというフランス名に変更になったのさ」

(※37-21話【第1,207回】は、ここまで)


37-20.ブガッティの無残①~ブガッティ社の独立~

『モーター・ジャーナル誌』の創刊15周年企画としてヨーロッパ取材旅行に訪れたピーター・ウィイリアムス&スーザン夫妻は、予定していたイギリスとフランスの取材を終え、ドイツ国境に隣接するストラスブールを訪れました。
本日のブログ『クルマの歴史物語』は、ストラスブールのホテルでのウィリアムス夫妻の会話から始まります。
例によってブログ本文に関して、『モーター・ジャーナル誌』の記事を日本語に翻訳した文章はゴシック体で、著者:蜷田晴彦が書いた文章は明朝体で表記してありますので、ご注意ください。


37.シトロエンの生と死


                                                    


Williams,Susan
〈同行カメラマンのスーザン・ウィリアムス〉

1936年12月の初旬、アメリカ人自動車ジャーナリストのピーター・ウィリアムスと妻のスーザンは、ドイツ国境に近いフランスのアルザス地方の中心都市のストラスブールのホテルの一室にいた。

ピーター・ウィリアムスは、「これから外出することになるが、この辺りはドイツ国境に近く、何が起きるか分からないという緊張感が漂っているので、外での会話は注意した方がいいと思うよ。そこで、ここでの取材テーマであるブガッティ社に関して、君との間で事前情報を確認したいと思っているのさ」と、妻のスーザンに注意を促した。

「それはいいけど、外はそんなに危険なの」

「この辺りの人々には危機が迫っているという認識はないと思うが、客観的に見ると、極めて難しい時期にさしかかっているに違いないよ」

「大変な所に来てしまったのね」

「ところで、ブガッティ社を創業したのはエットーレ・ブガッティという1881年生まれの人物であることは知っているよね」

「ブガッティさんはフランス人なの、それともドイツ人なの」

「どちらでもなく、イタリア人なのだ。イタリア最大の都市ミラノ生まれのブガッティは現在54歳という働き盛りで、小さなオートバイメーカーで技術を学んだのだ。
次に、当時はドイツ領で、ここからすぐ近くのニューデルファンという所にあるド・ディートリヒ社で2年間働いた」

「その会社はどんな仕事をやっていたの」

「1897年にド・ディートリヒ男爵という貴族が創業した機械メーカーで自動車をつくりたかったのだが、自社に開発能力がないものだからOEM生産をしていたのさ」

「そのOEMというのはどんなことなの」

「自分のブランド商品を製造するのではなく、依頼先の規格に従って、相手先ブランドで生産することだよ」

「そのこととブガッティさんと、どんな関わりがあったの」

「ド・ディートリヒ男爵は、ミラノで開催された博覧会でブガッティが設計したクルマを見て、これを製造したくなったわけだ」

「そこで、ブガッティさんがこちらに来て働くことになったのね」

「その通りさ。
ここで働いているうちにフランス人のエミール・マティスという人物と知り合い親しくなった。
マティスはこの地で、自動車デイーラーを営んでいたが、オリジナル車をつくりたくなりブガッティに新車を開発しないかと話をもちかけたに違いない。
ここに来て分かったことなんだが、マティスの設計オフィスがあった場所は、このホテルの最上階だったそうだよ」

「それまた、偶然ね」

「ブガッティはマティスが創業した会社でしばらく仕事をしていたが、1906年からドイツのケルンにあるドイツ・ガソリンエンジン社という自動車メーカーでチーフエンジニアとして働くことになったのだ」

「マティスさんとけんか別れしたの」

「そこらへんはよく分からないが、当らずとも遠からずというところかな。
ドイツ・ガソリンエンジン社で働いた後、28歳になったブガッティは自らの自動車会社を設立することを決意して、この地に戻り、当時はドイツ流の呼び方のモールスハイムという所で1910年にブガッティ社を設立したのさ」

「今から25年ほど前で、ちょうど私がカンザスの田舎の小学校に入った頃の話しね」

(※37-20話【第1,206回】は、ここまで)