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38-24.アルファ・ロメオ社の破綻③~3強並走時代~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は「アルファ・ロメオ社の破綻」の3回目(最終回)であり、“3強並走時代”とサブタイトルが付いています。
本日をもって、『38章 イタリア車のがんばり』は最終回となります。
振り返ってみますと、ブログ『クルマの歴史物語』としては最後の“部”となる『6部 戦争と自動車』の最初の章である『34章 大恐慌下のアメリカ車』がスタートを切ったのが今年の4月3日のことでしたので、本日まで半年間が経過したことになります。
『34章 大恐慌下のアメリカ車』に次いで、『35章 大恐慌からの回復』ではアメリカ車の動向をお伝えしてきました。
そして、舞台はヨーロッパに渡って、『36章 イギリス車の再編成』、『37章 シトロエンの生と死』、そして『38章 イタリア車のがんばり』というように『クルマの歴史物語』は進行してきたのです。
今日は金曜日ですので、来週の月曜日から『39章 ドイツ車の復興』の連載が始まります。


38.イタリア車のがんばり


 タツィオ・ヌヴォラーリはマセラティへ、ルイ・シロンはアルファチームへ移籍した 


1936年末のミラノのレストランでのウィリアムス夫妻の会話は続いていた。

「ヌヴォラーリはアルファチームからマセラティチームに移籍した。
一方、マセラティチームを離れたヴァルツィはブガッティチームでレース活動を続けていた。
シロンはブガッティチームからアルファチームに移籍した」

「まるで、三角トレードみたいね」

「3人が話し合って決めたわけではなく、チーム監督同士が相談して決めたのでもないよ」

「相性の問題が大きいじゃないの」

「前年、アルファチームで働いたカラッチオラは、母国ドイツのメルセデスチームに復帰した」

「7月に開催されたベルギーグランプリでは、マセラティチームに移籍したばかりのヌヴォラーリが、ブガッティのヴァルツィを抑えて優勝し、マセラティとしてはフランスグランプリに続く優勝となった」

「いろいろ話を聞いてだんだん分かってきたけど、実際の話、レースで勝利する要素としてクルマの性能とドライバーの腕とどっちが大きいの」

「自動車レースで勝利するのはクルマかドライバーかという問題が常に付きまとっている。
この例は、競馬と同じで、勝利に影響が強いのは、馬か騎手のどちらかという話とよく似ている。
競馬の場合は、馬の持つ能力をいかに引き出すのが騎手の腕であり、騎手は馬が持っている能力以上に早く走らせることはできない。
自動車レースの場合も同じように思われるが、今日の自動車の性能を考えると、ドライバーの運転技術の差は勝負に直結するが、それ以上に強く影響するのが自動車の性能の方だと思うよ」

「自動車のスピードの差はどこから生まれるの」

「それは馬力だよ。
エンジン出力は決定的にスピードに影響を与えるが、エンジンのパワー差だけでなくて、シャシーやブレーキ性能など全体のバランスが大切なのだ」

「その点は分かったわ。ところで、この年のイタリアグランプリはどうだったの」

「アルファ・ロメオが優勝して、2、3位がマセラティとなった」

「この年は、アルファ・ロメオが新興マセラティを何とか抑え込んだと言えるのかな」

「1933年最後となるスペイングランプリもルイ・シロンが操縦するアルファ・ロメオが優勝を飾ったので、その通りといえるかも知れないね。
1933年に国名をつけたグランプリレースで開催されたのは、モナコ、フランス、ベルギー、イタリア、チェコスロヴァキア、スペインの6つあった。
自分なりに採点してみると、総合点の84点中、アルファ・ロメオが44点で、2位がマセラティの25点、3位のブガッティ15点を合わせると84点となるので、1933年はアルファ・ロメオ独走時代から、マセラティ、ブガッティの3強並走時代を迎えたことがよく分かると思うよ」

スーザンは食事中、レースの話ばかりでうんざりしていた。
ここら辺で話題を変えようと考え、「私はカンザスという田舎で育ったので、レストランで食事をいただくという経験があまりなかったわ。大学生活で過ごしたフロリダではイタリアレストランがたくさんあったので、時々友達と行ったけど、このパスタを食べていると、本場のイタリア料理がいかに違うかがよく分かったわ」と舵を切った。

「パスタに関しては、アメリカ産とイタリア産は原料が全く違うようだよ」

「その点は前に聞いたことがあるけど、イタリア産パスタの原料となる小麦はデュラーム・セモリナ種というパスタ専用の小麦なんでしょ」

「僕自身は食品に関して自慢できるほど知識はないけど、アメリカで食べたパスタはぱさぱさしているが、イタリアではコシがあるので味が全然違うことはよく分かるよ。
ちょっと横道にそれてしまったが、1933年はアルファ・ロメオが圧勝したヨーロッパレース界であったが、1934年に入って最初の大レースとなったミレミニアでもアルファ・ロメオは3位まで独占して幸先の良いスタートを切ったのさ」

せっかくスーザンが仕掛けた話題チェンジに、ピーターは乗ることなく再びレースに話を戻すのであった。

ここに至って話題変更は無理だと悟ったスーザンは、改めて夫に付き合うことにした。
「優勝ドライバーはどなただったの」

「優勝はヴァルツィ、2位はヌヴォラーリ、3位はシロンという3大スターの競演という結果になった。
続く、タルガフローリアもアルファ・ロメオを操縦するアキーレ・ヴァルツィが優勝したのさ」

「1934年のモナコグランプリは、ブガッティチームからアルファ・ロメオチームに移籍したルイ・シロンが独走していたが、残り2周でスピンして、チームメイトに優勝をさらわれた」

「地元出身だけに悔しかったでしょうね」

「さらにこの年のアルファ・ロメオは敵を寄せ付けず、またもル・マン24時間耐久レースで4連覇を達成したのさ」

この後も二人の間で雑談が続いて、ラ・ペンチでのコース料理の最後を飾る食後酒をいただいて、このレストランを出たのは11時過ぎであった。


(※38-25話【第1,234回】は、ここまで)


38-23.アルファ・ロメオ社の破綻②~カンパーリの事故死~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、「アルファ・ロメオ社の破綻」の2回目で“カンパーリの事故死”とサブタイトルが付いています。


38.イタリア車のがんばり


 独走するアルファ・ロメオをマセラティが急追しイタリア車同士の戦いが激しくなった 


1936年末のミラノのレストランでのウィリアムス夫妻の会話は続いていた。

「1930年代に入り、イタリアレース界の主役はP3の登場によって、ブガッティからアルファ・ロメオに入れ替わった」と、今日の仕事を予定通りこなしたピーターは機嫌がいい。

「私もすっかりクルマ通になったから、その辺はよく分かるわ」と、夫の上機嫌が妻のスーザンには嬉しかった。

「そして、これらのレーシングカーを操るドライバーも1920年代のアントニオ・アスカーリ、ジュゼッペ・カンパーリの時代から、タツィオ・ヌヴォラーリ、ルイ・シロン、ルディ・カラッチオラ、アキーレ・ヴァルツィ、バコーニン・ボルザッキーニへと替わっている」

「さっきから何回も出ている名前ばかりだから、もう覚えたわ」

「1933年のレースシーズンはミレミニアから始まった。
イタリア国中を熱狂させるこのレースで優勝したのはアルファ・ロメオを運転するタッツィオ・ヌヴォラーリであり、アルファチームはトップスリーを独占したのだ」

「ヌヴォラーリさんは、今も現役なの」

「1892年生まれだから、今年で確か44歳になったと思うが、現在も活躍しているよ」

「一度、どんな方かお会いしたいわ」

「君は、ヴァルツィが好きじゃなかったの」

「最初はそう思ったわ。その後、話を聞いているとどちらも好きになったの」

「1933年のフランスグランプリで、ジュゼッペ・カンパーリがハンドルを握るマセラティが、後ろから追いすがるアルファ・ロメオをつき離しで優勝したのは一種の驚きだった」

「さっき聞いたマセラティね」

「1933年のモナコグランプリは、前年度からの連勝を期待するアルファ・ロメオと、リベンジを誓ったアキーレ・ヴァルツィのブガッティT51の対決となって接戦が続いたが、最後にはヴァルツィが逆転優勝したのだ」

「・・・。ジュゼッペ・カンパーリのことは話したよね」

「何回も聞いているわ」

「1920年代のイタリアを代表するレースドライバーといえば、1888年まれのアントニオ・アスカーリと1892年生まれのジュゼッペ・カンパーリになるが・・・」

「だからどうしたの」

「そんなにせかせないでくれよ。イタリアの食事時間は長いのだから」

「分かったわ。
聞いてあげるわよ」

「アスカーリは1925年にレース中に事故死したのだ」

「自動車レースは死の臭いがついて回るからきらい」

「もう一方の雄の、カンパーリの話しをこれからしようと思う。
1933年7月のフランスグランプリでマセラティ8C-3000を操縦するカンパーリは、大逆転して優勝をもぎ取った。
こうして、フランス車代表のブガッティ対イタリア車代表のアルファ・ロメオにマセラティをプラスして、三つ巴の時代を迎えたのだ」

「カンパーリさんはイタリア人だから、イタリア車のマセラティがフランスグランプリ初優勝を飾ったことで、フランス人レースファンの機嫌は悪かったでしょうね」

「イタリアにも愛国者が多いが、フランスはもうひとつ気位が高いからね」

「フランスに滞在してみると、フランス人はいかにプライドが高いかよく分かったわね」

「話はイタリアに戻るがカンパーリは、オペラ歌手顔負けの美声で有名だった。
9月に予定しているモンツァグランプリが終わったらレースの世界から身をひき、オペラ界入りすることを発表したのさ」

「レースファンはがっかりしたでしょうね」

「カンパーリにとって最終レースの日がやってきた。
モンツァサーキットでは、午前中にイタリアグランプリが開催された。午後から同じ場所でモンツァグランプリのスタートが切って落とされた。
路面はすべりやすくなっていた上に、オイルがこぼれていたようだ。
カンパーリはトップ争いを続けながらコーナーにさしかかったら、突然スピンのうえクラッシュして即死したのだ。
彼にとっては最後のレースのつもりだったのに、人生の最後になってしまったのだ」

「かわいそうに。だから私は自動車レースが好きになれないの」


(※38-23話【第1,233回】は、ここまで)


38-22.アルファ・ロメオ社の破綻①~忍び寄る財政危機~

ブログ『クルマの歴史物語』は、現在『38章 イタリア車のがんばり』を掲載しています。
この章に入ってから、「1930年代のフィアット車」が3回、「ランチアとイタリ車」が4回、「スクーデリア・フェラーリの誕生」が5回、「ヌヴォラーリとヴァルツィの対決」が5回というように続いてきました。
その後、「アルファ・ロメオP3の時代」に移り、昨日その3回目が終了いたしました。
今日から「38章 イタリア車のがんばり」の最後のシリーズである「アルファ・ロメオ社の破綻」が、3回続きますが、このシリーズをもって本章は終了します。


38.イタリア車のがんばり


 財政破綻したアルファ・ロメオ社に救済の手を差し伸べたのは国営企業IRIであった 


イタリア自動車産業の実態把握に訪れたアメリカ人自動車ジャーナリストのピーター・ウィリアムスと妻のスーザンは商都ミラノにある著名なレストランのラ・ペンチで本場のイタリア料理を楽しんでいた。

セコンドピアット(第二の皿)はパスタである。
ピ-ターはペペロンチーニ(唐辛子)のスパゲッティを、夫人はペスカトーラ(海鮮)のマカロニを注文していた。

イタリアを訪問する前、ウィリアムス夫妻は合衆国で本格的なイタリア料理店に入ったことはなかったので、イタリア流食事法をまったく知らなかった。

二人にとって初めてのイタリアレストランは、トリノに到着した時にフィアット社の広報部長に夕食の招待を受けた店だった。
この時、驚いたのは食事時間である。
広報部長から夕食は9時からという言葉を聞いた時に耳を疑った。

お客様であるわれわれをそんなに遅く食事に誘うということが信じられなかったが、実際案内されてみると9時というのはレストランのオープン時間で、お客さんはまだ来ていなかった。

それと、食事のコースが何ステップもあることを初めて知った。
食前酒から始まり、第一のお皿を意味するプリモピアットが前菜だとすれば、第二のお皿はパスタかスープである。
パスタの替わりにリゾットという米料理でもいいというが、いずれにしても第二のお皿の後でなければ、メイン料理は出てこない。
メインは魚か肉のどちらかか、どちら共である。

これらが終わると、デザートが欠かせないが、これがまたおいしいのだ。
その後がコーヒーで、食後酒の時間になると、たいてい11時を回っている。

イタリアでレストランに入るということは、これだけのコースを平らげるということを知って以降、郷に入れば郷に従えの言葉どおり、食事が毎日の楽しみになっていた。


二人の会話は、ヨーロッパ自動車レースでのイタリア車アルファ・ロメオの活躍が目立った1932年度レース結果の総括の所まできていた。

「アルファチームにとってここまではよかったが、この後がいけなかった。
1933年のレースシーズンがやってきた。
華やかなレースでの勝利の裏側で、アルファ・ロメオ社の経営状態は悪化の一途をたどっており、資金不足が一気に表面化することによって、P3によるレース継続を断念せざるを得なくなったのだ」

「それは残念ね」

「この知らせはすぐに、ムッソリーニ総統の所に伝わったと思われる。
その後、イタリア政府内でどんな話し合いがあったか分からないが、結果として言えるのは、この年の夏、アルファ・ロメオ社の救済に立ち上がったのは、イタリア国家そのものといえる産業復興公社という意味を持つIRIで、アルファ・ロメオ社は国営企業グループの一員として再生の道を歩むことになったのさ」

「それってちょっと違うんじゃない」

「既にグランプリレースシーズンは半ばを過ぎていた。
グループ企業としてアルファ・ロメオブランドの再起を期すことが課せられたIRIから派遣された新経営陣は、レースで勝ち続けることが重要だと判断して、P3がグランプリレースに再び参戦できるように、スクーデリア・フェラーリへのP3の提供を約束してくれたのさ」

「エンツォ・フェラーリさんが喜んだでしょうね」

「スクーデリア・フェラーリが担当するアルファチームは再び強力な武器を得ることによって、イタリアグランプリ、スペイングランプリなどで勝利を重ねて、いかんなくその高性能ぶりを発揮したのさ」

「イタリア人はこの知らせを聞いて喜んだでしょうね」

「自動車レースというのは、オリンピックと同じで国家のエゴとか、国家威信の場であってはならないことは誰でも知っているが、オリンピックを観客席で見ていると同国人を応援したくなるのは、人間として自然なことなんだろうね」

「だからといって、勝つために国民の税金まで投入するのはバカげてるわ」

「ここは、イタリアだよ。
そんなことを言っていると、誰かが聞いているかもしれないから注意してくれよ」

「分かったわ。
しかし、いやな時代に入っているのね。
合衆国に住んでいる時には全く感じなかったきな臭い匂いを感じるのは私の直観なのかしら」

「とにかく政治的な発言は、ホテル内でもホテル外であっても慎むように。
われわれ2人にとって、ヨーロッパ4国の自動車産業の最新レポートをつくりあげたら、合衆国に無事に帰国できることがいちばん大切なことなのだ」と、スーザンの目に向かって静かに話すピーターであった。

(※38-22話【第1,232回】は、ここまで)


38-21.アルファ・ロメオP3の時代④~1932年度ドイツGP~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、『38章 イタリア車のがんばり』の21回目の掲載となります。
そして、本日のコンテンツは「アルファ・ロメオP3の時代」の4回目(最終回)であり、“1932年度ドイツGP”と副題がついています。


38.イタリア車のがんばり


 メルセデスからアルファチームに移籍したカラッチオラはドイツグランプリで優勝した 


1936年末のミラノのレストランでのウィリアムス夫妻の会話は続いていた。

「ムッソリーニ総統は自動車レースに強い関心を示すようになり、世界一のスピード車であることを証明するグランプリレースの結果をいつも気にしていて、イタリア車が勝利したときの喜びは尋常でないそうだ」

「そんな偉い人が、自動車レースに夢中になるのが、私には分からない」

「自動車レースは国家の競い合いそのものだと考えたら分かりやすいと思うよ。
イタリア車躍進の原動力はアルファ・ロメオであり、P3の活躍はムッソリーニ総統の楽しみになっていたようだ」

「1932年のレースシーズン半ばの7月にドイツのニュルブルクリンクサーキットで開催された第6回となるドイツグランプリで、ドイツ人のカラッチオラがイタリア車のアルファ・ロメオP3を操縦することになった」

「それで結果はどうなったの」

「レースはカラッチオラが優勝し、2位がヌヴォラーリ、3位がボルザッキーニというように続いて、P3はまたもや3位まで独占したのさ」

「ドイツグランプリでのイタリア車の大勝利はムッソリーニ総統にとって最高の喜びだったでしょうね」

「それと裏腹に、イタリア車にトップスリーを独占されたドイツ人のレースファン、ダイムラーベンツ社のレース関係者、それにナチス党幹部、さらにヒトラー首相まで、あらゆるドイツ人が自分たちの名誉を著しく傷つけられたと、怒り狂ったに違いない。
そして、その矛先がイタリア車に乗ってドイツグランプリで優勝したルドルフ・カラッチオラに向けられたようだ」

「本来の自動車レースは、あくまで民間企業の事業活動の一環であるが、それが政治問題にまみれちゃっているのは残念なことだわ」

「それで1932年のグランプリレースの年次総得点はどうなったの」

「1932年に国名をつけたグランプリレースで開催されたのは、モナコ、イタリア、フランス、ドイツ、チェコスロヴァキアの5つであった。
僕流の採点をしてみると総合点は70となり、アルファ・ロメオが53点で大半を占め、その他はブガッティ10点、他にマセラティ7点があっただけで、1932年はアルファ・ロメオがP3の登場によって独走した年であったのいえる」

商都ミラノにあるレストランのラ・ペンチで本場のイタリア料理を楽しんでいるピーター・ウィリアムスと妻のスーザンの会話は、まだまだ続いていた。

(※38-21話【第1,231回】は、ここまで)


38-20.アルファ・ロメオP3の時代③~アルファ・ロメオの台頭~

月日の経つのは本当に速いもので、本日は10月になって初めての掲載日となりました。
また、今日は月曜日ですので、今週も金曜日までの週5日連続掲載を続けます。
ブログ『クルマの歴史物語』は、最終部となる『6部 戦争と自動車』の5つ目の章である『38章 イタリア車のがんばり』を掲載しています。
9月5日にこの章に入ってから、「1930年代のフィアット車」が3回、「ランチアとイタリア車」が4回、「スクーデリア・フェラーリの誕生」が5回というように展開してきました。
ここまでは、アメリカ人のカー・ジャーナリトであるピーター・ウィリアムスが記述し、1937年の『モーター・ジャーナル誌』に掲載された記事の日本語翻訳版でした。
その後、9月21日から始まった「ヌヴォラーリとヴァルツィの対決」に入り、ここからは著者:蜷田晴彦の創作に代わりました。
こうして、「ヌヴォラーリとヴァルツィの対決」が5回続いて、「アルファ・ロメオP3の時代」に移り、本日はその3回目となります。
例によって、著者が書き下ろした本文の文章は明朝体で表示されている点を確認させていただきます。


38.イタリア車のがんばり


 1932年に入るとブガッティに代わってアルファ・ロメオが優勝を重ねるようになった 


1936年末のミラノのレストランでのウィリアムス夫妻の会話は続いていた。

「1932年になると、メルセデスチームのルディ・カラッチオラがアルファチームに移籍することになったが、この知らせは自動車レース界の大ニュースとして人々を驚かすには充分だった」

「ドイツ人レースファンは裏切られた思いだったじゃないの」

「シーズン最初に開催されたモナコグランプリにカラッチオラはさっそくアルファ・ロメオ車で参戦したのさ」

「それを待ち受けているのは、地元出身のルイ・シロンのブガッティというわけね。
レースファンの興奮は異常に高まったでしょうね」

「レースは大挙して押し寄せたアルファチームの圧勝で、優勝がタツィオ・ヌヴォラーリ、準優勝がルディ・カラッチオラで、ルイ・シロンは3位に入るのが精一杯だった」

「シロンさんは悔しがったでしょうね」

「この3週間後に開催された23回目となるタルガフローリオは、スポンサーのビンチェンツオ・フローリオがムッソリーニ総統に直接かけあって資金を獲得し、全面的に整備し直した新コースで開催されたのだ」

「あまり大きな声で言えないけど、総統の権力はすごいのね」

「それはそれとして、タルガフローリオはヌヴォラーリが2連勝を飾り、これ以降もアルファ・ロメオの連勝が続いているのさ。
6月に第10回イタリアグランプリがやってきた。
このレースに間に合わせるためにアルファ・ロメオに移籍したヴィットリア・ヤーノ技師長は必死でP3の製作を急いだが、2台しか用意できたなかったので、1台はタツッオ・ヌヴォラーリとジュゼッペ・カンパーリのコンビに、もう1台をバコーニン・ボルザッキーニとルディ・カラッチオラのコンビに与えたのだった」

「それで2台は期待どおりの走りを見せたの」

「イタリアグランプリのレースが切っておろされた。
予想されたとおりの混戦が続く中で、ヌヴォラーリ組のP3は、ライバル車の追撃を振り切りトップでゴールインし、アルファ・ロメオ社に勝利をもたらしたのさ」

「P3は幸先のよりスタートを切ったというわけね」

「次に開催された第18回フランスグランプリには3台のP3が用意され、タツィオ・ヌヴォラーリが優勝し、2位にバコ-ニン・ボルザッキーニ、3位にルディ・カラッチオラというように続き、トップスリーを独占したのさ」

「ブガッティの天下に代わって、アルファ・ロメオ時代がいよいよやってきたのね」


Borzacchini,B
〈イタリア人レーサーのバコーニン・ボルザキーニ〉


(※38-20話【第1,230回】は、ここまで)