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39-35.VWプロジェクトの進展⑤~プロトタイプの完成~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、『6部 戦争と自動車』の6つ目の章である『39章 ドイツ車の復興』の最終回です。
来週から、6部では7つ目の章となる『40章 戦時体制への道』が始まります。
引き続いてのご愛読をよろしくお願いいたします。


39.ドイツ車の復興


 “VW3”車の後に製作された“VW30”の走行テストにはナチス親衛隊員が駆り出された 


次のステップは、3台の“VW3”のテスト走行で加えられた改良版の“VW30”プロトタイプ車の製作である。
1936年7月にボデー及びシャシーの製造、クルマ全体の組み立て業務委託契約をポルシェ設計事務所と結んだダイムラーベンツ社は、10ヶ月間で“VW30”と呼ばれることになる30台のプロトタイプ車をつくり上げたのである。

“VW30”の耐久走行テストは、フェルディナント・ぷるしぇ博士の長男であるフェリー・ポルシェが総責任者に任命されたが、ここにナチス親衛隊(以下、SSと略)が登場することになった。
SS隊員は軍人であるから機密保持に都合が良いこと、テスト結果の最も厳密な保証になること、という理由からであり、ヒトラー総統の発想と思われる。

さっそく運転免許証を所持している200名のSS隊員を集めて本格的な走行テストの準備が進められ、その手順と走行ルートの詳細計画が策定された。
そして検査を厳密にするために、各車にはブレーキやペダルを踏み込んだ時の電圧計、ペダルやレバーの作動数測定器、速度ごとの空冷エンジンの温度測定器、オイル循環測定器等さまざまな器具が搭載された。

“VW30”プロトタイプ車のテスト走行は、1台に少なくとも4人のSS隊員が搭乗し、運転手が交代で昼夜連続走行を繰り返し、1938年3月上旬まで続けられた。
これを計算すると30台で1日120人、200名がローテーションを組んで8ヶ月間、30台の走行距離は240万キロ(1台平均8万キロ)を超え、中には10万キロオーバーのクルマもあったという。

フェリー・ポルシェの任務は、これら全ての結果を分析し、欠陥があればその部分を改良し、2ヶ月ごとにRDAに報告書を提出することであった。
全てのテスト走行が終了し、RDAが下した結論としては「概ね良好」というものであった。
その一方で、改良点として前方開きから後方開きへのドア取り付け方法の変更がなされたが、その他の改良部分は些細な点ばかりであったという。

この結論を受けて次なるステップとして“VW60”と呼称されるプロトタイプ車30台の製作に取り掛かることになった。
この理由は、“VW30”の30台は恵まれた気候下で走行テストされたので結果に甘い所があるとして、次の“VW60”プロトタイプ車30台は、さらに過酷な条件下での走行テストを行うためというのが建前であったが、その実態は今となっては分からない。


“VW60”プロトタイプ車30台の走行テストは1938年10月中旬には終了し、大きな問題点や改良点を指摘されることはなかったので、いよいよ生産型の“VW38”の50台の生産に移ることになった。
尚、“VW38”という呼称はプロトタイプ車を38台生産するという意味ではなく、1938年生産車という意味であり、やはり走行テストが実施されたが、それも1939年8月には終了することになった。


こうして振り返ってみると、空冷方式の水平対向4気筒エンジンは、もともと1934年に製作された“NSUポルシェ32プロトタイプ”を原点としていることが判る。

そして、“VW3”を3台、“VW30”を30台、“VW60”を30台という経過をたどってきた。
さらにプロトタイプ車としての最終モデルとなる“VW38”を50台というようにステップバイステップで進化し、完成度を高めてきたのである。

クルマの発展史を振り返ってみても、このように徹底した走行テストを繰り返して欠点と潰した事例はかつて存在したことはなかったという。

(※39-32話【第1,269回】は、ここまで)


39-34.VWプロジェクトの進展④~ダイムラーベンツ社の協力~

本日は「勤労感謝の日」で休日です。
私は、10年前に毎日決まった時間にお仕事に向かうという生活に別れを告げました。
従がって、毎日が日曜日の生活を過ごしておりますので、本日もいつものようにブログ『クルマの歴史物語』を掲載いたします。


39.ドイツ車の復興


 VW3車の仕様を最終決定したポルシェ博士は工場建設のために合衆国を訪問した 


次の問題はVWの生産体制である。当初、VWはRDAに所属する民間自動車メーカーで分散生産する方法が考えられていた。
ところが、ヒトラーが主張する1,000マルク以下の売価設定を実現するための目標コストを達成するためには大量生産体制の構築が欠かせないので、既存設備を活用するという案は大きく後退することになった。

そんな時にヒトラー総統の、「このプロジェクトを実現するために公益会社を設立する。そしてこの会社が、大量生産適性を備えた巨大工場を新設して、そこをVWの生産拠点にする。この工場建設業務もポルシェ博士にお願いしよう。」という考えが伝わってきたのだ。


こうしてフェルディナント・ポルシェ博士は、VWの開発だけでなく、その生産体制に関しても深く関与することになったのである。
さらに、ヒトラー総統からポルシェ博士に対して、「アメリカ合衆国に行って、デトロイトの自動車メーカーが既に実施している流れ作業による大量生産方式の実体と、それを実現している生産施設を視察して欲しい」という内容の連絡を6月末に受け取った。

この通告を受けたポルシェ博士はVW車の仕様を最終決定した上で、ベルリン・オリンピックが開催されている最中に、自身初となるアメリカ合衆国の自動車産業視察の旅に出発することになった。



ヨーロッパ自動車産業の技術リーダーとして、合衆国でもその名が知れ渡っているフェルディナント・ポルシェ博士の合衆国視察ツアーは、訪問先各地で歓迎式典が催されるなどたいへんな騒ぎとなった。

“ビッグ3”と呼ばれるフォード社、GM社、クライスラー社の本社と主力工場訪問では、ポルシェ博士は大切な客人として扱われ、どこも喜んで門戸を開いて見せてくれた。

ストップウォッチを片手に工場に入った博士は、ベルトコンベア流れ作業による大量生産方式と最新の大型工作機械に関する知見を広め、ボデーの製作プロセス、素材の扱い方などアメリカ車が蓄積してきた最新技術の多くを懸命に学び、合衆国滞在中に記した記録はノートブック数冊分になったという。
ポルシェ博士は、これらの大量生産用の専用機械があれば、VWの車両コストは目標とする1,000マルク達成も決して夢ではないことを改めて認識することになった。


さて、最終仕様の“VW3”の3台の製作が完了しRDAに引き渡されたのは、1936年10月中旬のことであり、直ぐにRDAの検査官が同乗の上、走行テストが開始された。
走行テストのコースは、すでに完成したアウトバーンでの高速連続走行での折り返し、および急坂の上り下りとカーブが多い山岳コースなどであり、厳しいテスト走行が来る日も来る日も繰り返し実施された。

そこで、強靭さと信頼度を欠いている部品は過酷なテストに耐え切れなくて悲鳴を上げることになり、もう一度設計をやり直す部品が数限りなく出現した。
この3台は70日間で、それぞれ5万キロを走破したという。
そして、RDAの検査官が「根本的な欠陥はない、クルマの性能と特性は良好であり、開発をさらに推し進めるだけの価値はある」と走行テストの終了を宣言したのは、1936年のクリスマス直前のことであった。

一方、小型車“モデル130”の挫折が明らかになったダイムラーベンツ社のヴィルヘルム・キッセル社長は、総統が直接指揮を執る国家プロジェクトへの参画を役員会で正式議決し、VWプロトタイプ車のボデー製作を引き受けることになった。


Kissel,Wilhelm6下286話
〈ダイムラーベンツ社のキッセル社長〉

(※39-31話【第1,268回】は、ここまで)


39-33.VWプロジェクトの進展③~VW車の仕様決定~

フォルクスワーゲン、即ちVWは“国民車”を意味するドイツ語ですが、今やドイツを代表する大手自動車メーカーの呼称となっています。
この会社の原点となるのが、ナチスのアドルフ・ヒトラー総統である点は、決して消えることがない事実です。
そして、もう一人の主役がフェルディナント・ポルシェ博士でした。
数十年の時代の変遷によって、今やスポーツカーメーカーとして揺るぎないポジションを確立している“ポルシェ”車は、今日のVW社を構成する大きなファクターを担っているという事実が存在しています。


39.ドイツ車の復興


 小型車を放棄したメルセデスベンツ社キッセル社長はVWプロジェクト参画を決意した 


ポルシェ博士は最初の契約を締結して7ヶ月が経った1935年1月の時点で、契約終了期限である1935年4月末までにVWのプロトタイプ車を完成させることには無理があると判断して、RDA(ドイツ自動車工業連盟)に対して1936年3月末までの1年間の延長を申し入れたところ渋々ながら承認された。

ところが、ポルシェ博士とRDA間による契約期間の延長了承の話しが総統にはまったく知らされていなかった。
それが故に、1935年3月、毎年恒例となっているベルリン・モーターショー開会式での演説で、VWの開発状況に触れた総統は、「高名なフェルディナント・ポルシェ博士とそのスタッフが全力で開発に取り組んでいるので、この夏までにはVWのテスト走行は間違いなく完了することになろう。」と言ってしまったのだ。
これを聞いたポルシェ設計事務所の開発スタッフは冷や汗がしたたり落ち。

そうはいっても、最高のクルマができるまで手が抜けるわけではなく、ポルシェ設計事務所のスタッフは総力を挙げて“VW3”と呼ばれる3台のプロトタイプ車の開発に努めていた。

そして1936年の年明け早々になって、ポルシェ博士は未だ開発途上である“VW3”の2台を、シュトゥットガルトからミュンヘンまで200キロ以上を走破して、ヒトラー総統のもとに持参し順調な開発ぶりをアピールした。

これを見て喜んだ総統は次のステップとして、VWの売価を1,000マルク以下に抑えるために、フォード流ベルトコンベア流れ作業方式による大量生産が可能となる大工場の建設を考えるようになっていた。


1936年2月、ドイツ自動車メーカー界の重鎮を一堂に集めるRDA総会がベルリンのダイムラーベンツ社本社で開催された。この日の会議にはポルシェ博士が参加していてVWプロジェクの進行状況の報告がなされた。

このプロジェクト報告では、①エンジンは2ストロークサイクル2気筒型と4ストロークサイクル4気筒型(空冷方式)が共に完成、②中央バックボーン・シャシーは完成、③トーションバーによる4輪独立懸架方式を採用、④変速装置も完成、⑤大量生産を前提としたボデーは完成途上であるとし、ポルシェ博士はRDAメンバーに対して、「引き続いて技術的物質的援助を願っている」と最後を締めくくった。

この報告に対して出席者から、いろいろな意見が飛び出した。
中には批判的な内容も少なくなかったが、議長役であるダイムラーベンツ社ヴィルヘルム・キッセル社長はヒトラー総統の意向を汲んで、「VWプロジェクトは継続すること、シャシーとボデーを各社が分担して製造すること、本年6月末日までに3台のプロトタイプ車のテスト走行に入ること」などを総会議決として決定した。

このような経緯で着実に前進を重ねてきた“VW3”プロトタイプ車3台の各種走行データを総合的に判断して、ポルシェ博士が下さなければならないのはエンジンの選択とその配置であった。
そこでベルリン・オリンピックの開催期間中(1936年8月1日~16日)、最終的に排気量995ccの4ストロークサイクルで空冷方式の水平対向4気筒エンジンが選択された。
そして、このエンジンの配置は当初から候補に挙がっていたミッドシップ案が放棄されリアに置かれることに落ち着いた。
これによって、試行錯誤を繰り返してきた技術的な難問の多くに結論が下されることになったのだ。

(※39-31話【第1,267回】は、ここまで)


39-32.VWプロジェクトの進展②~プロトタイプの始まり~

本日1,266回目となる『クルマの歴史物語』は、『6部 戦争と自動車』の「39章 ドイツ車の復興」の最後を飾る「VWプロジェクトの進展」シリーズの2回目です。


39.ドイツ車の復興


 メルセデスベンツ社が市販した小型車のモデル130は完全な欠陥車で販売を停止した 


ヒトラー総統が前年のモーターショーで「モータリゼーションヘの大志」を表明した演説に対して、ドイツの自動車メーカー各社は敏感に反応して、この年のベルリン・モーターショーには各社ならではの“国民車”が勢ぞろいして出展していた。

具体的には、アウトウニオン社の〈DKW/モデル1001〉が、アドラー社の〈アドラー/トランフ・ユニオール〉が、オベル社の〈オペル/P4オリンピア〉というような小型車だけでなく、高級車を専門としていたダイムラーベンツ社から〈メルセデスベンツ/モデル130〉という小型車が出展されていた。

この〈メルセデスベンツ/モデル130〉は、ポルシェ博士がダイムラーベンツ社に在籍していた時代に設計した排気量1,300ccのリアエンジン車で、ポルシェ博士の辞任と共に完成途上のまま放棄されていたのを急きょ復活してモーターショーに間に合うせたクルマであった。

この“モデル130”はモーターショーの3ヶ月後の6月から市販が開始された。
ところが、ダイムラーベンツ社初の小型車という魅力につられてみずてんで購入した人々から、故障が頻出するなどの苦情が殺到した。
技術陣が総力を挙げて問題解決に取り組んだが、ダイムラーベンツ社として初となる小型リアエンジン車という構造上の問題が根底にあるだけに、品質改良は行き詰まり、ダイムラーベンツ社の小型車ビジネスは頓挫することになった。


1934年6月、ポルシェ設計事務所は、総統からの指示によってドイツ自動車工業連盟(以下、RDAと略)との間で、VWの開発とプロトタイプ車製作に関する契約を結ぶことになった。

この契約対象期限は僅か10ヶ月しかなく、RDAからポルシェ設計事務所に支払われる開発費用は毎月2万マルクという金額が記されていた。
なお、この契約書には年産50万台規模を前提として1台当たりの生産コスト達成目標として900マルクと示されていた。

この契約内容は、あまりにも短期間での開発であること、新型車を開発するための提供資金が少額すぎること、日産1,000台以上の大量生産を可能にする工場を建設することが果たして可能であるかどうか、というようにたくさんの問題点が内包していた。

しかし、難題ばかりの条件を気にすることもなく、ポルシェ博士をリーダーとする技術者集団は、勇躍果敢にVWの開発に邁進することになったのである。

こうした経緯でポルシェ設計事務所のスタッフは、1933年5月の会見で総統に説明したアウトウニオン社向けのV型16気筒エンジンを搭載するレーシングマシン開発と、VWプロジェクトという2つの大きな仕事を掛け持つことになって、契約締結以降は多忙を極めることになった。


新型自動車を1台新たに開発するとなると数千単位の部品が必要となる。
これら各種部品の製造および組み立て作業は、シュトゥットガルトのポルシェ家のガレージが作業所となり、旋盤、ボール盤、切削盤、電気ドリル等を使いながらの手作業で進められた。
VW開発チームメンバーはたった12名しかいないので仕事はなかなか捗らず、次から次へと技術的な難問にぶち当たり、開発作業は遅滞を余儀なくされたのである。

(※39-31話【第1,266回】は、ここまで)


39-31.VWプロジェクトの進展①~ポルシェ博士の指名~

本日は月曜日です。
今週も金曜日まで、5日連続で記事を更新する予定ですので、引き続きましてのご愛読をよろしくお願いいたします。
ブログ『クルマの歴史物語』では、全6部構成の最終となる『6部 戦争と自動車』の6つ目の章である『39章 ドイツ車の復興』を10月9日から掲載してきました。
既に、4回連続の「再軍備に向かうヒトラー政権」、同じく4回連続の「合併後のダイムラーベンツ社」、さらに4回連続の「ドイツでのアメリカ企業」、続いて4回連続の「アウトウニオンの誕生」、そして3回連続の「ドイツ車の生き残り戦略」を掲載してきました。
また先週金曜日まで、4回連続で「ポルシェ博士の苦難」シリーズを掲載してきました。
本日から、『39章 ドイツ車の復興』としては最後となる「VWプロジェクトの進展」シリーズが始まります。
このシリーズは金曜日に終了する予定であり、来週月曜日から『6部 戦争と自動車』の7つ目の章である『40章 戦時体制への道』が掲載できるように現在準備を進めています。


39.ドイツ車の復興


 ヒトラー総統はVWの開発リーダーにフェルディナント・ポルシェ博士を指名した 


ここからドイツ語でフォルクワーゲンVolks Wagen(以下、VWと略)、日本語に訳すと“国民車”の話しを進めよう。

最初に読者にお伝えしなくてはならない点は、この巨大プロジェクトの原点となった人は、やはりナチスのアドルフ・ヒトラー総統である。
ヒトラーはミュンヘン事件で獄中にあった1924年には、「多くの失業者に職を与える」べく、「国民をより近く結び付ける高速道路網を建設し、誰でも買える小型車を大量生産する」ことを考えていたようだ。

そしてこの巨大プロジェクトのもう一人の主人公となるフェルディナント・ポルシェ博士がVWと関わりを持つこととなったのは、総統からの召喚状が設計事務所に届いた1933年の秋のことであった。
おっとり刀で首相官邸を訪れたポルシェ博士をにこやかに出迎えたヒトラー総統は、自分が描いているVW構想を滔々と述べたという。

それは、大人2人と子供3人がゆったりできる空間を持つ小型乗用車で、新しく建設するアウトバーンを時速100キロで走行できる高性能と、1リッターのガソリンで14キロ以上走れる低燃費を併せ持つクルマを大量生産するというものである。
そしてドイツ国民なら誰でも購入できるように1,000マルク以下の価格設定が欠かせないとし、これらが実現できたら、ドイツ国民は週末に家族そろって小旅行に出かけるようになる点を強調した。

この頃、ドイツにおける乗用車生産台数ナンバーワンメーカーはシェア40%を占めているオペル社であり、いちばん低価格車であっても1,800マルクもした時代なので、1,000マルク以下というのは想像を絶する安さであった。

この要請を聞いたポルシェ博士は、今まで最高のクルマを送り出してきた技術者としての自負があるだけに総統の提案を拒否する自分を許さなかった。
こうして、ヒトラー総統のかねてからの夢であるVW構想は、フェルディナント・ポルシェ博士という天才的設計者とコンビを組み合うことで、単なる夢の世界から具体的な計画段階に移ることになったのである。


ヒトラー総統との会談の後、ポルシェ設計事務所では全スタッフを集めて会議が持たれた。
そして、総統から提示のあったVWプロジェクトの詳細化と現実化の検討が始まった。

それから4ヶ月ほど経った1934年1月にポルシェ博士は自分たちが取りまとめたVWプロジェクトの起案書を総統宛てに提出した。

そこには、ポルシェ博士が考える理想的なVWとして、エンジンは①2ストークサイクルの星型3気筒、②2ストークサイクルの直立2気筒、③4ストークサイクルの空冷方式水平対向4気筒の3種類を候補とする。
排気量は1,250cc及び1,000cc。最高出力は26HPでリアエンジン配置。
バックボーン・フレームの採用。
トーションバーによる全輪独立懸架。
ホイールベース250センチ、トレッド120センチ、車両重量650キロ、最高時速100キロ、ガソリン消費量12キロ/リッター、座席数は4と記されていた。

VW開発に関する起案書をポルシェ博士から引き出させたヒトラー総統は、前年続く、1934年3月開催のベルリン・モーターショー開会式での演説で、初めて公にVWについて言及をしたのだ。

(※39-31話【第1,265回】は、ここまで)