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40-31.第2次世界大戦の惨劇④~史上最大の作戦~

皆さん、2012年6月に始まったブログ『クルマの歴史物語』は、本日1,300回目の更新を迎えることになりました。
1回目から無事に5年7ヶ月が経過したと思うと、著者:蜷田晴彦にとっては感慨深いものがあります。
途中で心臓開胸手術を受けるなど、継続することが困難になる障害に何度もぶつかりましたが、今日まで継続できて実に嬉しく思います。

それと本日は、『6部 戦争の自動車』の『40章 戦時体制への道』の掲載最終日となります。
明日から、『41章 戦争に向かう日本』が始まります。


40.戦時体制への道


史上最大の作戦と名高いノルマンディー上陸作戦が決行され連合軍の優位が決定した


アメリカ合衆国が加わった連合軍が、フランスに上陸することを阻止するために、スカンジナビア半島からスペイン国境に至る長い海岸線をドイツ軍は守備していた。
そして、連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御線として「大西洋の壁」を建設する作業に邁進していた。
全長で4千キロ以上に及ぶ全ての海岸に連合軍が挑んでも侵入不能な壁をつくる作業は難渋を極めたが、少しずつできあがっていた。


第2次世界大戦において、ドイツ軍におけるもっとも優秀な戦場リーダーと言われるのがエルヴィン・ロンメル将軍である。
北アフリカ戦線で上げた功績から『砂漠の狐』との異名を持ち、卓越した戦略家であった故に連合国側からの評価も高い軍人であった。

フランス海岸線に布陣するドイツ軍部隊を率いることになったのは北アフリカ戦線から異動してきたばかりのロンメル将軍であった。
大量の連合軍がフランスに上陸するとしたらノルマンディー海岸の可能性がいちばん高いと考えたロンメル将軍は、ノルマンディー沿岸全域にわたって防衛施設の構築を推し進めていった。
ロンメル将軍は手に入る限りの資材・武器弾薬・兵器の全てを投入したが、その中でも地雷が最も多く投入され、ノルマンディー沿岸に埋められたその数は600万個と言われている。


スタートした頃の上陸作戦づくりの最高責任者はイギリス人バーナード・モンゴメリー将軍であり、“史上最大の作戦”と称されたフランスへの上陸作戦の立案とその準備作業には1年間を要したという。

作戦プランの構築に続いて、この大規模作戦で必要とされる兵員、兵器、輸送手段等を揃えるだけでも大変であり、ブリテン島そのものが巨大な補給基地となっていった。

いよいよ準備が整い、上陸作戦決行時期は1944年6月早々と決定した。
この大規模な上陸作戦の指揮を執ることになったのは、アメリカ合衆国から赴任してきたドナルド・アイゼンハワー将軍であった。


Eisenhower,Donald6下293話
〈ノルマンディー上陸作戦の指揮を執るアイゼンハワー将軍〉








絶対に失敗が許されない作戦ということで、集結されたのは戦車1,500台、船舶5,300隻、航空機1万2千機という想像を絶する台数であった。
兵員総数は17万6千人にのぼり、イギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍を合わせた26個師団にアメリカ軍21個師団が加わり合計47個師団編成となっていた。
一方、ドイツ軍海岸守備隊の責任者となっていたロンメル将軍は、6月に入って悪天候が続いていたので、まさかこんな時期に連合軍が海峡を渡って侵攻してくることはないと判断し、妻の誕生日を祝うため、本国へ帰国していた。

この作戦が実施される前に、既にドーバー海峡の制海権と制空権は連合軍側が掌握しており、歴史的な大船団は抵抗を受けることなく上陸地点に向かうことができた。
また、連合軍はノルマンディーより東側のカレー地域沿岸にドイツ軍の注意を向けさせる陽動作戦を展開していた。

1944年6月5日、ノルマンディー海岸とは別のドイツ軍占領地域にパラシュート部隊を降下させることによって、ドイツ軍に対するかく乱が始まった。
そして上陸予定地への空襲と艦砲による集中砲撃が続くことになった。


翌6月6日の朝が明ける頃には、ノルマンディー沖合にイギリスからやって来た数えきれない船舶が見渡す限り集結していた。
この上陸作戦の中核をなすのは兵士を大量に輸送するための上陸用舟艇部隊であるが、この船は砲撃を受けたらひとたまりもない簡易な防御しか装備してななかった。
上陸用舟艇のタラップが降りた瞬間、その開口部は敵からの集中砲火にさらされ、ドイツ軍が待ち構えている地域に上陸しようとした部隊は惨憺たる被害を被った。
最も戦闘が激しかったオマハビーチに最初に上陸した1,450人の連合軍兵士の内、実に3分の1以上が、上陸開始1時間で死亡、または負傷したと言われている。

ところが、敵の銃砲陣地の狭間や、煙幕が展開されたポイントに上陸した部隊はほとんど損害なく海岸に拠点を確立することができた。
そして、フランス国内に大量の物資を輸送するためにの仮設桟橋がつくられて、次々と物資が陸揚げされたのである。


こうして第2次世界大戦の雌雄を決することとなった“史上最大の作戦”は、見事に連合軍の思惑通りの成果をもたらし、ヨーロッパ戦線に向かってアメリカ兵は歩みを進めることになった。

イギリスとアメリカの連合軍がパリを目指して進撃を開始すると、地下に潜っていたフランス人の抵抗運動が活発化することになった。
そして、ノルマンディー上陸作戦から2ヶ月後の8月になると、パリ市民は自力でパリを解放し、救国の英雄ド・ゴール将軍を迎え入れたのである。

その一方で、ソ連軍の進撃も目覚ましく、東ヨーロッパ各国やバルカン諸国のドイツ軍を殲滅してベルリンに向かって戦車部隊を進めていた。


DeーGaulleCharles6下294話
〈フランス救国の英雄ド・ゴール将軍〉







1944年10月のこと、戦場で負傷したロンメル将軍が首都ベルリンの病院で療養している最中に、ヒトラー総統暗殺未遂事件が発生した。
この事件に関してナチス上層部はロンメル将軍が関与しているのではという疑惑を抱いた。
そして本人に対して『自決か軍事裁判か』の選択を強要したのである。

名誉を守るため服毒自殺を選んだ偉大な指揮官であるロンメル将軍は、53年間生涯を閉じることになった。
ロンメル将軍の死は、戦傷によるものと説明され、その葬儀は国葬として執り行われ、多くの参列者の涙を誘うことになった。
ヒトラー暗殺計画に本当にロンメル将軍がかかわったかどうかという真相は謎のまま永遠に秘匿されている。


1945年2月に、ソ連のスターリン最高指導者、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相が保養地のヤルタに集まり、大戦後の体制問題が話し合われた。

この年4月に入ると、ソ連軍はついにドイツの首都ベルリンに突入した。事態に絶望したヒトラーは拳銃で頭を砕いて自らの命に止めを刺した。
この結果、指導者を失ったドイツは5月7日に降伏し、ナチスが築き上げた第三帝国は名実ともに消滅した。

こうして1939年9月に始まったヨーロッパでの5年7ヶ月に渡る戦争は終結を見ることになったのである。

(※40-31話【第1300回】は、ここまで)


40-30.第2次世界大戦の惨劇③~日独伊三国同盟~

ブログ『クルマの歴史物語』では、現在『6部 戦争と自動車』の『40章 戦時体制への道』を継続中です。
そして、40章の最後となる「第2次世界大戦の惨劇」シリーズの3回目となる、サブタイトルが“日独伊三国同盟”というコンテンツを本日皆さんにお届けします。
ここでは、6部が始まってから久方ぶりに“日本”が登場します。


40.戦時体制への道


 〔ドイツ+イタリア+日本〕という三国同盟に対する包囲網が徐々に形成されてきた 


フランスを打倒したヒトラー総統はイギリスとの妥協を考えるようになっていた。ところが、「ファシズムは人類の敵」と信じ徹底抗戦を貫く覚悟が定まっているチャーチル首相には、ドイツと妥協するという考えは一切なかった。

ヒトラー総統はイギリスを屈服させる以外に答えが出ないことを悟り、イギリス本土への上陸を決意し、ロンドンを爆撃する準備に邁進した。

ドイツがフランスを降伏させ、イギリス本土への上陸の気配を示すと、日本ではドイツとイタリアとの関係を強化する方針を確定させて、1940年9月に〔日本+ドイツ+イタリア〕という3国同盟が結ばれた。
こうして、第2次世界大戦は、〔イギリス+ソ連〕VS〔3国同盟国〕という構図ができあがったが、アメリカ合衆国は中立を保つ姿勢を崩さず、決して動こうとはしなかった。


1941年6月、ソ連国境に配備していたドイツ北部軍、中部軍、南部軍は、2年前に締結された〔ドイツ+ソ連〕不可侵条約を一方的に破棄し、一斉にソ連領内に侵入した。
北部軍はバルト3国を経てレニングラードを包囲した。
中部軍は立ちはだかるソ連軍を打ち破り首都モスクワに迫っていた。また、南部軍はウクライナへの侵攻を開始した。
そうこうしている内に秋になったので、焦ったヒトラーはモスクワ攻略を命じたが、ここから情勢は変化し始めた。
攻撃に手間取っているうちに寒さがやってきたのだ。ロシアの寒さの厳しさが真に分かっていないドイツ軍の冬装備は充分でなく、やがて“冬将軍”に対抗することができなくて、モスクワ攻略を放棄せざるを得なくなった。


ドイツ軍がソ連国内でもたついている1941年12月に日本海軍航空隊がハワイの真珠湾を攻撃した。
宣戦布告前の奇襲攻撃に憤激し、「真珠湾を忘れるな!」を合言葉としてアメリカ合衆国は連合国メンバーとして第2次世界大戦に参戦することが決まったのだ。

こうして、〔イギリス+ソ連+アメリカ〕という連合軍は最優先課題をヨーロッパ戦争の終結に置き、ドイツ打倒に全力をあげる方針が確認されたが、具体的な作戦をめぐってイギリスとソ連は激しく対立した。


ソ連のヨシフ・スターリン最高指導者は、自国の負担軽減のため、ヨーロッパ戦線への集中を強く要求した。
一方のチャーチル首相は、地中海から中東、インドに至る大英帝国の植民地体制を確保するために、北アフリカ戦線終結を優先すべきと主張した。

1942年の夏、激戦が続いていた北アフリカ戦線でドイツのロンメル装甲師団は、カイロから僅か100キロの所にまで迫まり、エジプトがドイツの手に落ちようとしていた。
これに対してバーナード・モントゴメリー率いるイギリス戦車部隊は反撃に転じ、アメリカ軍のジョージ・パットン率いる戦車部隊もこれに呼応して上陸し、ロンメル師団は東西から挟撃され進路を阻まれた。


この頃、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦っているのはソ連軍だけであった。
冬に入りソ連軍の反攻がスターリングラードから始まり、敗北が続くドイツ兵の内、母国に逃げ帰ることができたのはほんの一握りで、大多数のドイツ兵が凍り付いた大地で倒れていった。

こうした経過をたどって、ヨーロッパ戦線で残る課題はフランスの奪還だけとなった。
そこで1943年の夏前頃から密かにフランスへの大規模な上陸作戦の準備が始まり、この年の10月には、〔アメリカ+イギリス+ソ連〕による外相会議が開かれた。
続いて12月には、同じ3国の首脳がテヘランに集まって、ドイツ殲滅への道筋を論じたのである。

(※40-30話【第1299回】は、ここまで)


40-29.第2次世界大戦の惨劇②~ロンメル装甲師団の進撃~

本日は月曜日です。
新しい年に入っても金曜日まで5日間連続の記事更新を続けるつもりですので、読者の皆さんの応援をよろしくお願いいたします。
さて今日のブログ『クルマの歴史物語』は、『40章 戦争と自動車』の最後となる「第2次世界大戦の惨劇」シリーズの2回目です。
このストーリーの主役を演じるのは、ドイツ軍第7装甲師団のエルヴィン・ロンメル師団長です。


40.戦時体制への道


 ドイツ装甲師団リーダーのロンメルはフランスに侵攻し短期間で勝利をもぎ取った 


 ドイツ装甲師団リーダーのロンメルはフランスに侵攻し短期間で勝利をもぎ取った。

ここからのストーリーの主役を演じるのはドイツ人エルヴィン・ロンメルという人物である。

1891年にごく普通の家庭に生まれ、少尉として第1次世界大戦に従軍したロンメルは、26歳になった1917年には1万人に近い捕虜を捕獲した功績によって、ドイツ軍人として最高の勲章を授与された。
このことが証明しているように、その軍務の優秀さは既に鳴り響いていて、大戦終戦時には中尉に昇進するというスピード出世を果たしていた。

第1次世界大戦の敗戦によるベルサイユ体制下、ドイツ軍は再び戦争ができないように僅か10万人まで軍人が削減されたが、残留することを許されたロンメルは、歩兵学校の教官を努めることになった。

ヒトラー総統が率いるナチスが政権を握り、再軍備が宣言されると軍人に対する人々の見方が大きく変化し、才気溢れるロンメルにスポットライトが当たり、ヒトラー総統の警護責任者に抜擢された。


Rommel,Erwin6下293話
〈ドイツ第7装甲師団のロンメル師団長〉








1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことを受けて、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告を行うことで、第2次世界大戦が始まった。

ヨーロッパ制圧を夢に描くヒトラー総統にとって、ポーランドの次の戦略目標地はフランスであった。
このことを理解していたロンメルは、自ら前線勤務を総統に申し出て、1940年2月に第7装甲師団の師団長に就任することになった。
装甲師団とは、戦車部隊を中心に、戦車に随走する機械化された歩兵部隊、同じく工兵・砲兵・偵察・通信など戦闘に欠かせない諸兵科の部隊から構成される戦闘組織のことである。


ヒトラー総統はフランスへの侵攻に当たって、ベルギー南部のアルデンヌの森を突破してドーバー海峡まで進撃して、ベルギーと北フランスに展開する〔イギリス+フランス〕連合軍を分断孤立させるという作戦を構築した。

1940年5月初め、ロンメル師団長が指揮を執る第7装甲師団はアルデンヌの森に向かって進撃を開始した。
この時点での総合戦力は、〔イギリス+フランス〕連合軍の戦車が4千台であったのに対してドイツ軍は2,800台というように量的に劣っていたが、速度ではドイツ製戦車が勝っていた。

地形的に厳しい条件があるが故に、アルデンヌの森にドイツ軍が侵入することはないと判断した同盟国軍は守備隊を配置しておかなかった。

この結果、難なくアルデンヌの森を突破することができた第7装甲師団がベルギーの中央部を流れるムーズ河を渡った。
ロンメルは常に先頭を走る戦車に乗って陣頭指揮を執り、猛スピードで前進を続けた。
しばしば師団先頭に歩兵部隊が追い付けない程であり、敵と遭遇したとしても常に前進するよう命令を発し続けたのである。


第7装甲師団はフランス国境を越え、次の戦略拠点であるアラスの街に突入することになった。
ここにはフランス軍の他に、装甲が厚いイギリス軍のマチルダⅡ戦車隊が待ち構えていた。
第7師団が備えている戦車砲ではマチルダⅡの分厚い装甲を打ち抜くことができなかったが、代わりに登場した最新鋭8.8センチ高射砲の威力で何とかイギリス軍を抑え込むことができたのである。

アラスの戦いは厳しかったとはいえ、まだまだ進撃するだけの余力を持っているロンメル率いる第7装甲師団はドーバー海峡に向かった。
イギリスを結ぶ港湾都市のダンケルクを抑えてしまえば、フランス軍の主力部隊、さらにはイギリスから派遣された膨大な兵員による攻撃力を一気に無力化できると考えたのだ。

そして実際、ダンケルクの包囲が完了し、連合軍の退路を断った上での殲滅を目前にした5月24日、突如、ドイツ全軍に対し進撃停止命令が出されたのだ。


これにより、思いかけず時間を稼げぐことができたイギリス軍は、就任したばかりのウィンストン・チャーチル首相の指揮の下で、ダンケルクからブリテン島への撤退作戦を敢行した。

この撤退作戦では、イギリス国中のあらゆる船舶、その中には漁船、観光船、ヨット、フェリーなどを含めて千隻近くの船という船をかき集めてドーバー海峡に突入させのだ。
この結果、ダンケルクの港から24万人のイギリス兵を、次いで12万人のフランス兵をイギリス本土へと脱出させることに成功したのだ。

ダンケルクで連合軍の壊滅に失敗したドイツ軍は、パリに向け総攻撃を開始し、5月中旬にはパリは占領され、フランスはドイツに降伏を申し入れた。
休戦協定によって、フランス本国の約3分の2はドイツ軍の占領下に置かれることになったのである。

こうして書くと、ロンメル一人の活躍でドイツはフランスに勝利し、パリ開城に結び付いたように誤解する人もいるかもしれないが、このストーリーは『クルマの歴史物語』向けにロンメルの働きを強調して記されているわけで、実際の戦争はそれほど単純なものではないことを、付記する次第である。
(※40-29話【第1298回】は、ここまで)



Churchill,Winston6下293話
〈イギリスの新リーダーとなったチャーチル首相〉








40-28.第2次世界大戦の惨劇①~ドイツのポーランド侵攻~

本日のブログ『クルマの歴史物語』から、『40章 戦争と自動車』に入ってから7つ目となる「第2次世界大戦の惨劇」シリーズが始まります。
本シリーズは4回連続で掲載し、来週の水曜日に終了することになりますが、この時点で『40章 戦争と自動車』は完了します。
そして、翌1月18日(木)から『41章 戦争に向かう日本』をスタートさせる計画で現在進んでいます。


40.戦時体制への道


 ドイツのポーランド侵攻によってイギリスとフランスが宣戦布告し世界大戦が始まった 


1937年11月、国家社会主義ドイツ労働者党(以下、ナチスと略)のアドルフ・ヒトラー総統はドイツ軍首脳に対して、「オーストリアとチェコスロバキア(以下、チェコと略)を併合する」と、重大な決意を打ち明けた。翌年春になると、その言葉通りオーストリアを併合し、さらにチェコの併合を画策していた。

こうしたドイツの動きに神経をとがらせていたのがヨーロッパの大国と自負するフランスとイギリスである。

フランスはソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連と略)に近づき同盟を結ぶ方向に歩みを進めることになったが、もう一つの大国であるイギリスのネヴィル・チェンバレン首相の考えは違っていた。


Chamberlain,Neville6下293話
〈イギリスのチェンバレン首相〉

日本ではイギリスとか英国と短く表記されることが普通であるが、イギリスの正式国名はThe United Kingdom of Great Britain and Norther Ireland(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)であり、あまりにも長い国名なので日本語では“大英帝国”と略されることもある。

1931年には“イギリス連邦”がスタートしていた。この体制は、イギリス国王に対する忠誠によって結ばれ、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の連合体であり、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦等がメンバーとなっていた。
これらの国々とは別に、イギリスが植民地支配していた国々にはインド、パキスタン、エジプトなどの大国があり、イギリスの国家概念は途方もなく広かった。

チェンバレン首相にとっての最大の関心事は、大英帝国体制を維持することにあり、そのためには平和を必要としていた。
チェンバレン首相は、「わが国にとっての最大の脅威はドイツである。イギリスは、ドイツによるベルサイユ体制への修正要求が大英帝国の権益を脅かすものでない限り、これを認めることにする。ドイツとの間に対立関係ができあがると、世界戦争に発展する危険が高くなるから、絶対回避すべきである」と、考えたのだ。


一方、イタリア国家ファシスト党首で首相に就いていたベニート・ムッソリーニ総統がヨーロッパ仲介人役となって、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの4ヶ国会談が急きょミュンヘンで開催されることになった。
この会談で、ヒトラー総統の要求をのんで、「チェコのズデーテン地域をドイツに割譲する」というミュンヘン協定が成立することになり、この結果を受けて1939年3月にドイツ軍はチェコに侵攻した。

ヒトラー総統の次なるターゲットはポーランドであることがはっきりしてくると、チェンバレン首相の弱腰外交への批判が急速に高まってきた。

ヒトラー総統はポーランド攻撃の準備を急ぐように軍部首脳に命令した。

この情報をキャッチしたイギリスはドイツとの戦争が避けられないことを覚悟し、徴兵制の実施を決定した。
イギリスの態度硬化を把握したヒトラー総統は、〔ドイツ+イタリア〕軍事同盟条約を締結し、いよいよヨーロッパの地に戦争の危機が切迫してきたのである。


ドイツによるポーランド侵攻が、〔ドイツVSソ連〕戦争に発展することを阻止するため、ドイツに急接近したソ連は極秘裏に交渉を進めた結果、〔ドイツ+ソ連〕不可侵条約が1939年8月に締結された。
これは、全体主義と社会主義という相反するイデオロギーをもつ両国の結託であるだけに、全世界を驚愕させると同時に強い衝撃をもたらした。
この時点で、イギリスによるドイツ懐柔政策の破綻は決定的となったのだ。


9月1日にドイツはポーランドに侵入した。この翌々日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第2次世界大戦は火蓋を切ったのである。

ポーランドに侵攻したドイツ軍は、2週間足らずでポーランド軍主力部隊を撃破した。
一方、ソ連軍もロシア系民族保護の名目でポーランドに侵入して当地を占拠し、侵略国となった両国は友好条約を締結し、ポーランドを自分たちだけで勝手に分割したのである。

(※40-28話【第1297回】は、ここまで)


40-27.軍用車の時代④~傑作機メッサーシュミット~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、『40章 戦争と自動車』としては6つ目となる「軍用車の時代」シリーズの4回目で、このシリーズの最終回となります。
本日のサブタイトルとして、“傑作機メッサーシュミット”と付いているように、本日は軍用車から離れてドイツの軍用機のお話となります。


40.戦時体制への道


 ドイツ航空機産業の礎を築いたユンカースに代わってメッサーシュミットが登場した 


『クルマの歴史物語』はタイトルが示す通り、自動車の誕生から脈々と継続される発展ストーリーを綴っているので、軍用車に関する情報は欠かせないが、戦争の帰趨に大きな影響がある軍用機に関して、例外としてドイツ人のフーゴー・ユンカースとウィリー・メッサーシュミットの二人に少しだけ触れることにする。


1859年に生まれたフーゴー・ユンカースは、ドイツ・ナンバーワンとして有名なアーヘン工科大学で学び、大学を卒業すると対向ピストンの2ストローク式ガスエンジンの研究に没頭した。
1894年にオイルヒーターに関する特許を取得し、温水器の製作をメインビジネスとするユンカース社を創立したが、この間にアーヘン工科大学の教授も兼ねていて、その見識の広さはドイツ中に広まっていた。

対向ピストンのディーゼルエンジンの1号機を1902年に完成させた以降は、出力100HPから750HPまでと幅広い需要に応じることができる発電用固定エンジンビジネスを拡大していった。

これで豊富な資金力を得たユンカース社は1912年から航空機製作ビジネスへの取り組みを開始したら、第1次世界大戦の勃発で軍用機への関心が一気に高まった。
大戦が長引き始めた1915年に、ユンカース社は世界初となる全金属構造の中翼単葉機の実験機“ユンカース J1”を開発し、世界大戦中には“ユンカース J4”など多数の軍用機を製造した。


Junkers,Hugo6下292話
〈ドイツ飛行機産業の生みの親のフーゴー・ユンカース〉







第1次世界大戦が終わり航空機の生産が禁止されたので、ユンカース社では1926年から自動車用のディーゼルエンジンの生産ビジネスが始まり、トラック・バスなど大型車両に使われるようになった。
フーゴー・ユンカースがすごいのは、この2ストロークエンジンを航空機で使えないかと考えた点で、1929年には“ユモ”の名で呼ばれる航空機用ディーゼルエンジンの1号機がつくられ、実際に空を飛んだのであった。
この優れた航空機用ディーゼルエンジンを搭載したのが全金属製の双発軽爆撃機や4発重爆撃機である。

齢70歳を超え、自由主義的な思想の持ち主のユンカースの開発意欲は旺盛であった。
ところが、ナチスを批判した言動が取り上げられて、自ら設立したユンカース社の経営から追放される羽目に陥った上に、ナチス監視下での逼塞生活を強いられたことで、1935年に死去することになった。



ドイツ航空機産業の父がフーゴー・ユンカースであるとすれば、この産業を世界最高水準に育成したのはウィリー・メッサーシュミットと言えよう。
フーゴー・ユンカースの誕生から39年後の1898年にフランクフルトのワイン商の家に生まれメッサーシュミット少年は幼い頃から飛行機が大好きだった。
10代の頃には、めざましい進歩が続く航空機の世界に魅せられ、「いつかは自分で飛行機を設計したい」と夢見るようになっていた。

実際に航空機の設計に携わるきっかけとなったのは、12歳になって入学した実科学校の授業でグライダーを製作したことであった。
そしてミュンヘン工科大学に進学して本格的に航空工学を学ぶと、25歳という若さで設計事務所を設立して飛行機の設計を生涯の職業にした。
この会社で最初に誕生したのが単葉滑空機“S14”であった。


Messerschmitt6下292話
〈ドイツの戦闘機王ウィリー・メッサーシュミット〉







メッサーシュミットの飛行機設計方針は、「最小の機体に最強のエンジンを搭載する」というシンプルなもので、これを実現するために、主翼を小さくするなどの独創的な構造を数多く考案した。

ドイツでは第1次世界大戦の敗戦に伴い戦闘機の製造が禁止されていたが、1933年にヒトラー総統率いるナチス政権が成立すると全てが大きく変わり、着々と再軍備態勢が敷かれ、極秘に始まった空軍戦闘機開発計画にメッサーシュミットは加わることになった。

ここで誕生した“Bf 109”は、以後改良されながら20年間という長きにわたって3万5千機以上生産され、第2次大戦中に活躍した日本の“零戦”、アメリカ合衆国の“P5I”、イギリスの“スピットファイア”と共に、傑作機として良く知られている。

(※40-27話【第1296回】は、ここまで)