FC2ブログ

41-20.ブリッヂストンタイヤの苦難~品質保証確立~

ブログ『クルマの歴史物語』は、「41章 戦争に向かう日本」に入って以降、「ダットサンと日産自動車」シリーズ、「オート三輪車の人気アップ」シリーズ、「豊田喜一郎とA型エンジン」シリーズ、「豊田製自動車の発進」シリーズの掲載が既に終了しました。
「41章 戦争に向かう日本」で残っているのは「ブリッジストンタイヤの苦難」だけでしたが、既に4回連続シリーズのうち3回を掲載しましたので、残るのは本日掲載分だけとなりました。
これをもちまして、『6部 戦争と自動車』の最後の章である「41章 戦争に向かう日本」は完了することになりますが、同時にグログ『クルマの歴史物語』は完結することになります。

2012年6月12日にスタートを切ったブログ『クルマの歴史物語』は途中で筆者が心臓手術を受けるなど、いろいろなことに遭遇しましたが、おかげさまで5年8ヶ月間、1,320回目の掲載をもって完結といたします。
読者の皆さんには、この機会をお借りして厚く感謝を申し上げます。
皆さんが読んでいただけたので、本日を迎えることができました。

さて、ここでご案内がございます。
本年4月3日から、装いも新たにブログ『クルマの歴史300話』がスタートできるように、現在筆者は準備を進めております。
そこで明日から3月末までの期間、蜷田晴彦がヒストリカルノベル『クルマの歴史物語』をどのような考えで執筆してきたか、そして『クルマの歴史物語』をなぜブログ化したのか等、読者の皆さんがお聞きしたいような【よくある質問(Q&A)】シリーズをお届けします。
また、ブログ『クルマの歴史300話』がどんな内容なのかの予告編も用意していますので、明日からも引き続きブログ『クルマの物語』〈http://ninada.blog.fc2.com/〉をご覧いただけます様、ご案内申し上げます。


41.戦争に向かう日本


 製品はできてきたが不良品が多く信用獲得に向かって血のにじむ努力が重ねられた 


1931(昭和6)年の新会社創立と共に、ブリッヂストンタイヤ営業部隊は、本格的な市場開拓活動を開始した。
この時代日本で自動車を生産していたのは日本フォード社の横浜工場、日本GM社の大阪工場、東京瓦斯電気工業の大森工場、石川島自動車製作所の佃島工場、ダット自動車製造の大阪工場であり、これらの会社に売り込みを図ったが、新興メーカーのタイヤを採用してくれる会社はどこにもなかった。

自動車タイヤは人間の生命を直接託する製品であるから、ブランドに対する信用が売行きに大きく影響する。
伝統あるダンロップと、グッドリッチの技術を導入した横浜ゴムに伍して市場を争うためには、信用がこの上なく重要な意味を持っていることを正二郎社長は痛感していた。

そこで、タイヤ販売に当たっては、購買者に対する誠心誠意溢れるサービスの提供を掲げ、品質不良製品が発生した場合は、速やかに新品と無料で引き替えるという徹底した品質保証制度を採用した。

ところが実際には、わずかな破損でも不良品といって収替えを要求する者、故意に破損させて取替えを要求する不埒者が続出した。

創立以来の3年間での返品タイヤは10万本に達した。
この間の生産本数は42万本であったから、約25%という極めて高い返品率であった。
こうした状況を打破できたのは、絶え間ない技術の向上に伴う品質アップがあったからであり、年ごとに返品は減ることになったのである。

ブリッヂストンタイヤの品質向上を最も端的に表現するできごとは、1932(昭和7)年1月に商工省から優良国産品の認定を受けたことである。
また、同じ年、合衆国のフォード本社での厳格な品質テストに合格し、日本フォード社に対する納入適格品タイヤとして認められたことは大きかった。続いて、日本GM社のテストにも合格することができたのである。
創立以来、ブリッジストンタイヤ社は本社を日本足袋本社と同じ久留米市に定めていた。
自動車用タイヤばかりでなく、自転車用、バイク用、オート三輪用とタイヤ製品のラインが拡大する一方で、販路も地元九州から関西・中部エリアに、さらには首都東京へと広がっていった。


イシ石橋正二郎
〈ブリッジストンタイヤ社の石橋正二郎社長〉

この頃になると石橋正二郎社長は、朝鮮、満州市場を視野に入れていたので、タイヤ事業の本拠地として久留米は不便であると考えた。

この時代は、政府による統制経済が強化されていくばかりであり、行政当局とのコミュニケーション強化が欠かせなくなったので、1937(昭和12)年5月に本社を東京に移転した。


1938年(昭和13)8月、商工大臣通達により、軍用以外の乗用車製造は禁止されることになった。
したがって、自動車用タイヤの生産は普通トラック用に限られ、それもほとんど軍需品になっていった。


1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったら、ブリッヂストンという英語を使った会社名はけしからと軍部から文句が来たので、やむを得ず会社名を日本タイヤ株式会社に変更することにした。

戦争の進展と共に、トラック用タイヤの比重が増すばかりであり、1942(昭和17)年にはトラック用タイヤの構成比が90%を超えるという状態になっていた。

(※41-20話【第1,320回】は、ここまで)


41-19.ブリッヂストンタイヤの苦難③~タイヤに進出~

本日のブログ『クルマの歴史物語』は、最後の“部”となる『6部 戦争と自動車』の最後の“章”となる「41章 戦争に向かう日本」の最後のコンテンツである「ブリッヂストンタイヤの苦難」シリーズの3回目です。


41.戦争に向かう日本


 ゴム靴メーカーの日本足袋はブリッヂストン印での車用タイヤ事業への参入を決めた 


『クルマの歴史物語 5部 日本車の夜明け』にて、日本足袋の石橋正二郎社長の指導力によって、足袋製造業者からゴム靴製造会社に変貌し、その後タイヤビジネスへの進出を企てるところまで記述したが、『6部 戦争と自動車』ではタイヤビジネスを軌道に乗せるようすをお伝えしよう。


自動車用タイヤの国産化に情熱を傾ける石橋正二郎社長が経営する日本足袋は、1929(昭和4)年にタイヤ部を設置して自動車用タイヤの試作を開始した。
日本足袋の各部門から選抜された20名の従業員が試作に当たることになったが、輸入した機械は成型と加硫用だけだったので、作業はほとんど手仕事となった。
この仕事に携わる従業員はタイヤづくりの知識と経験が皆無なので、輸入機械に添付されていた10枚余りの簡単な仕様書を唯一の頼りに試作を進めたのである。


合衆国にタイヤ製造機械を発注する際にタイヤの金型を注文することになるが、金型には製品のブランドを刻印する必要があったので、発注前に商標を決定しなければならなかった。

この時代の日本では、舶来品崇拝の風潮が強くて、舶来品即高級品を意味していた。
特に自動車に関しては国産乗用車の完成度はアメリカ車と比べるべくもなく、街を走っているのはフォード車、シボレー車を始めとした外車ばかりであり、それらには外国製タイヤが装着されていた。

そういう事情がある故、国産タイヤといえども舶来品イメージが欠かせなかったので、アルファベット表記ができるブランド名を工夫する必要があった。

自動車タイヤには、ダンロップ、ファイアストーン、グッドイヤー、グッドリッチ、ミシェランなどと発明者または創業者の名前が付けられているケースが多い。

正二郎社長は、石橋の姓を英語で表記する「ストーン・ブリッヂ」としてみたが、語呂がよくないとの指摘が専門家から寄せられた。
そこで石と橋をさかさまにした「ブリッヂストン」としたら、リズム感が出て力強くなったので、これをブランド名として採用することにした。

タイヤ工場では幾多の苦心のすえ、1930(昭和5)年4月、ようやく自動車用タイヤの試作品1号ができあがったが、とても市場に出せるような代物ではなかった。
日本足袋タイヤ部では、血のにじむ苦労を重ねてさらなる製品改良を半年間続けた結果、製品品質の確保に一応の見通しを立てることができたので、10月から自動車用タイヤの製品販売が始まった。

この時代、自動車用タイヤは都会に点在するタイヤ屋と呼ばれる業者によって取り扱われており、三井物産、三菱商事などの商社が輸入した有名ブランドのタイヤしか扱わなかった。
ブリッヂストン製品は、タイヤ屋に売り込むことから始まったが、品質も信用も未知数の商品を扱ってくれるタイヤ屋はどこにもなかった。

日本足袋タイヤ部の名刺では足袋屋のタイヤかと軽蔑されるだけであり、タイヤ屋は避けて、タイヤの修理業者を選ぶか、または日本足袋の販売ルートに依存するより他に方法がなかった。

こうして市場開拓を進める中でいちばん問題になったのは、やはりタイヤの品質であり、その向上のためには、技術者全体のレベルアップが最大の課題であった。
当時の日本で信頼しうる技術者が育っているのは日本ダンロップ社に限られていたので、同社の技術者をスカウトすることが最も適切な解決策であった。


1930(昭和5)年以降は世界大恐慌の余波を受けて経済情勢は不況のどん底にあったが、タイヤ事業にかける正二郎社長の信念は揺るぎがなく、日本足袋タイヤ部は株式会社として分離独立させることとなった。

1931(昭和6)年1月、新会社設立のための発起人会が九州久留米の日本足袋本社において開催された。
ここでブランド名と同じになるように、社名をブリッヂストンタイヤ株式会社(戦後の社名復旧の時、ツをとって、ブリヂストンタイヤに変わった)とすることを決定した。
創立総会において、会杜定款を決定し、役員選任を行った後の役員会で代表取締役社長として石橋正二郎が改めて選任されたのだ。

(※41-19話【第1,319回】は、ここまで)


41-18.ブリッヂストンタイヤの苦難②~横浜ゴムの創業~

本日は月曜日です。
今週もいつものように金曜日まで5日連続でブログ『クルマの歴史物語』をお届けしますと、書きたいところですが、ブログ『クルマの歴史物語』は今週の水曜日で完結することになっています。

ブログ『クルマの歴史物語』は『6部 戦争と自動車』の「41章 戦争に向かう日本」に入って以降、「ダットサンと日産自動車」シリーズ、「オート三輪車の人気アップ」シリーズ、「豊田喜一郎とA型エンジン」シリーズ、「豊田製自動車の発進」シリーズの掲載が既に終了しています。
先週の金曜日から本章最後となる「ブリッヂストンタイヤの苦難」シリーズが始まりましたが、本日はその2回目を読者の皆さんにお届けしましょう。
但し、本日のコンテンツはタイトルとは異なり横浜ゴム創業のお話です。


41.戦争に向かう日本


 世界ランキング7位の横浜ゴムはグッドリッチ社との合弁企業としてスタートした  


明治時代に古河市兵衛が設立し育成した古河財閥は、15大財閥の一つと言われ、特に鉱業、工業分野には大きな支配力を発揮していた。

その中核をなす古河電気工業の関連会社として誕生した横浜電線製造株式会社(以下、横浜電線社と略)は、電線を製造する際に不可欠の電線被覆用ゴムの製造を行なっていた。

1913(大正2)年頃、横浜電線社の実務を取り仕切っていた中川末吉常務は、日本における工業用ゴムの需要が急上昇するに違いないと見ていた。
そこで業界リーダーとしての地位を確立するためには、外国から先進技術を導入する必要があると考えた。


ナカ中川末吉
〈今日の横浜ゴム社設立に尽力した中川末吉〉

一方、東京に事務所を構えて自動車用タイヤ製品、工業用ゴム製品等の輸入・販売業務を営んでいたアメリカ合衆国のグッドリッチ社は、アジアの拠点となる日本にタイヤ製造工場を新設できないかと構想を練っていた。
そんな中で、古河財閥がゴム製品の国際提携先を探しているという情報をキャッチしたグッドリッ社東京事務所長は、アメリカの本社の了解を取り付けた上で、横浜電線社の中川末吉常務に対して、「両社でジョイント企業を設立してタイヤ工場を建設しないか」と提案したのだった。

1917(大正6)年6月、グッドリッチの本社代表が来日し古河財閥側と折衝に入り、技術はグッドリッチが提供し、経営は古河側が担当するという基本骨子で覚書が調印された。
引き続いて同年10月には、ジョイントベンチャーとして横浜護謨(ゴム)製造という会社が設立されたのだ。

新会社の設立後は、グッドリッチ社の協力を得て順調な発展をたどっていたが、1923(大正12)年9月に関東大震災が発生したことで、横浜にあるタイヤ工場は完全に崩壊し、さらに焼失した。

翌年3月に合衆国グッドリッチ社からレーモンド副社長が来日した。
アメリカを出発する段階では、工場再建を断念する意向であったが、実際に現場を訪れた際に、焼け跡の見事な整理と機械の手入れに専念する従業員たちの真摯な姿に感動し翻意することとなった。

レーモンド副社長滞在中に、日本側親会社である横浜電線社を交えて問題解決のための議論が重ねられた結果、具体的な再建対策案が合意されることになった。
レーモンド副社長は、合衆国の本社に打電し、日本市場の将来性と事業継続の有望性を主張したことで、工場の再建と事業の継続が正式に決定し、横浜電線社との間で合意書が締結された。

こうした経過を踏んで横浜ゴム社長に昇進した中川末吉の強力なリーダーシップが発揮され、その一方で社員たちが多くの努力を重ねることで工場は見事に再建された。
そして、1931(昭和6)年の満州事変発生以降は経営が軌道に乗るようになって、横浜ゴム社は業界で確固たるポジションを得るようになったのである。

(※41-18話【第1,318回】は、ここまで)


41-17.ブリッヂストンタイヤの苦難①~世界No.1タイヤ~

ブログ『クルマの歴史物語』は、「41章 戦争に向かう日本」に入って以降、「ダットサンと日産自動車」シリーズ、「オート三輪車の人気アップ」シリーズ、「豊田喜一郎とA型エンジン」というように展開し、昨日は「豊田製自動車の発進」シリーズの掲載が終了しました。
本日からは最後に残った「ブリッヂストンタイヤの苦難」シリーズが始まりますが、このシリーズを4回掲載すると、「41章 戦争に向かう日本」は完了することになります。
ということは、ブログ『クルマの歴史物語』は完結を迎えることを意味しています。


41.戦争に向かう日本


 足袋製造業から始まったブリヂストンタイヤは世界最大のタイヤメーカーに育った 


『クルマの歴史物語』の「6部 戦争と自動車」は、いよいよ最終話が近くなってきたが、今回はタイヤの話である。

ある調査によると、今日世界一のタイヤメーカーは日本のブリヂストンタイヤ株式会社(以下、ブリヂストンタイヤ社と略)だそうだ。

ランキング2位はフランスのミシュラン、3位はアメリカ合衆国のグッドイヤー、4位はドイツのコンチネンタル、5位はイタリアのピレリーというように、自動車先進国といわれる各国のトップブランドが並んでいる。

ここで注意していただきたいのは5位のピレリーであり、2015(平成27)年3月にピレリーの全ての株式は中国国有の化学メーカーの中国化工集団によって71億ユーロという巨額で買収されたので、今や中国メーカーという色彩が加えられている。


タイヤ企業世界ランキング6位以降になると、アジア勢が多くなる。
6位には日本の住友ゴム工業がランクインし、次いで日本企業である横浜ゴム社が7位に入っている。

8位には韓国のトップメーカーであるハンコック社が登場する。
1941年創業の新しい会社ながら韓国で1位、アジアで3位、そして世界で8位のタイヤメーカーに発展している大企業である。
世界約185カ国に輸出しており、日本国内ではダイハツや三菱自動車などに新車装着タイヤとして採用され、世界ではフォルクスワーゲン社、フォード社、GM社など多くの自動車メーカーにも採用されている。

9位はマキシスというブランドでビジネスを拡大している台湾の正新ゴム工業である。

10位にはアメリカのクーパー社が入っている。クーパー社は日本人にはあまり知られていないメーカーであるが、米国を拠点とするタイヤ会社としてグッドイヤーに次いで2番目の規模を誇っている。

ちなみに、『クルマの歴史物語』において既に登場したタイヤブランドで、このベスト10ランキングに記載のないのはダンロップとグッドリッチ、そしてファイアストーンの3つである。

ダンロップの今日までの歴史的変遷は少し複雑なので、先にグッドリッチに関する情報を提供しよう。

1988(昭和63)年にアメリカのグッドリッチ社はフランスのミシュラン社に吸収され、そのグループの一員としてアメリカを中心にグッドリッチブランドで今もタイヤビジネスを続けているが、全ての製品はミシュラン社の工場から供給されている。

次いで、長らくフォード車のタイヤサプライヤーとして発展してきたファイアストーン社であるが1988(昭和63)年に財政危機に陥って、日本のブリヂストンタイヤ社がその経営を引き継ぐことになった。

さて、ダンロップといえば、タイヤビジネスのパイオニアとして今日までその偉業が伝承されている世界的なタイヤブランドである。
日本での事業展開も早く、1909(明治42)年には神戸市に日本ダンロップ社を設立しタイヤ製造工場を建設しており、これがわが国における最初のタイヤ生産工場となった。
最初は馬車向けや人力車向けタイヤから始まり、1913(大正2)年には日本初となる自動車用タイヤを製造したという実績を持っている。

この日本ダンロップ社に大きな変化が訪れたのは1963(昭和38)年のことで、住友グループが日本ダンロップ社の株式をダンロップ本社から買い取り、住友ゴム工業という社名で再出発することになった。
この結果、住友ゴム工業は日本国内でのダンロップ・ブランドの独占使用権を取得したことになる。
そして、タイヤだけでなく、テニスボール、さらにはゴルフボールのブランドとしてのダンロップは日本人に広まっていった。

その後、イギリスのダンロップ社は経営難に陥り、1985(昭和60)年にコングロマリットのBTRに買収された。
その後、BTRはタイヤ部門の営業権を住友ゴム工業に売却したことで事態は大きく進展した。

さらに1999(平成11)年になると、住友ゴム工業がアメリカ最大のタイヤメーカーであるグッドイヤー社と提携を結んだため、ダンロップ・ブランドによる自動車用タイヤの製造・販売事業は北米および欧州市場はグッドイヤー社が、日本を含むアジア市場は住友ゴム工業がそれぞれ担当する形となった。

この複雑な話は続きがあって、2015(平成27)年6月にグッドイヤー社と住友ゴム工業の提携関係は解消されることになった。
その結果、北米とヨーロッパでのダンロップ・ビジネスは引き続いてグッドイヤー社が、日本を含むアジア、およびロシア、トルコ、アフリカ諸国でのダンロップ・ブランドビジネスは住友ゴム工業が継承することになったのだ。

(※41-17話【第1,317回】は、ここまで)


41-16.豊田製自動車の発進⑤~本田宗一郎の奮闘~

本日のブログ『クルマの歴史物語』のコンテンツは「豊田製自動車の発進」シリーズの5回目で、このシリーズとしては最終回となります。
本ブログでは、「豊田喜一郎とA型エンジン」シリーズが4回、そして「豊田製自動車の発進」シリーズで4回、合わせて8回にわたってトヨタ自動車の創業物語を語ってきました。
本日は「豊田製自動車の発進」シリーズの5回目となっていますが、話の中身はホンダの創業者である本田宗一郎の奮闘記となっています。


41.戦争に向かう日本


 22歳で独立した本田宗一郎は浜松に帰ってアート商会浜松支店を立ち上げた  


1928年(昭和3年)4月、22歳になった本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)はアート商会での6年間の奉公を終えて郷里に戻り、暖簾分けの形でアート商会浜松支店を開業した。

この時代、日本には国産車はまだわずかしかなくて、民生用ではタクシーか公用車、そして軍用のトラックが中心であった。

帝国陸軍の自動車部隊では、国産の軍用トラックはエンジンが非力な上、よく故障したので厄介者扱いだった。
人気があったのはシボレー車やフォード車で、国産車を割り当てられた部隊は渋い顔をしたものだ。


自動車部品の世界でも外国製部品は圧倒的に優秀であったが、輸入品であるので人手するまでに時間がかかった。
自動車を修理しようとしても、必要な部品が揃うまで、修理にかかれないということも多かったと言う。


そういう中で、宗一郎は部品がなければ、自分でつくってしまうのだ。
旋盤を使いこなせたし、鍛造も板金もできた。
フェンダーも自分で鉄板からたたき出したので、アート商会浜松支店は修理が早いし、うまいという評判が立った。

さらに宗一郎はタイヤスポークが木製のものしかないことに目をつけて、鋳物製のスポークを開発して特許を取り、評判になると共に、売り上げを大きく伸ばすことができた。

その結果、開業1年目の年末に帳簿をしめた時には80円しか残らなかったのが、3年目には月に千円の利益が出るようになっていて、従業貝は30人を超えるようになっていた。

ところが、毎日続く修理の仕事に飽きてしまったのかどうかわからないが、30歳になったばかりの宗一郎は、1936(昭和11)年なると、アート商会浜松支店をたたんで、東海精機重工業という会社を興してエンジン用ピストンリングの製造に取り掛かることになった。

ピストンリングとは、シリンダーの内壁とピストンを密着させて、余計なオイルがシリンダー内に入り込まないようにするための部品であり、1分間に何千回も上下するピストンとシリンダーの間に挟まれているので、ピストンリングには高い熱と圧力がかかるから厄介だ。
何度も試作を繰り返しても決して成功することはなかった。

これは困ったと浜松高専の専門家の先生を訪れ試作品を検査してもらったら、先生から決定的な知識不足を指摘された。

金属特性に関する基礎知識が全くない宗一郎は、浜松高専の聴講生になり必要な知識の吸収に努めた結果、9ヶ月かかったが使い物になるピストンリングの開発に成功することができた。
そこで、自動車づくりに取り組み始めたばかりの豊田自動織機製作所に納入しようと訪れた宗一郎はまったく相手にされなかった。
だが、それから後が宗一郎らしい。
改良を重ねて問題点を解消し、たちまちのうちに東海地方でも有数の会社に育て上げてしまうのである。


ホン本田宗一郎
〈東海精機重工業を立ち上げた本田宗一郎〉

宗一郎はタイヤのスポークの特許をとっただけでは終わらず、次から次へと新しい工夫や発明を重ねていった。
旋盤を改良して、未熟練工でも、それまでの4倍の能率で作業ができるようにした。
こうした宗一郎の努力と実績を見ていた豊田自動織機製作所は、その将来性を買って東海精機重工業に資本参加するようになったのだ。

1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が勃発し、軍用トラックの生産は増産に次ぐ増産となって、それに伴い東海精機重工業の仕事は増えて従業員2千人を擁する大企業に育っていた。

しかし1944(昭和19)年、東海地方を襲った南海大地震で大きな被害を受けた上、さらに繰り返しアメリカ軍の空襲や艦砲射撃にもさらされた。
1945(昭和20)年8月、太平洋戦争が日本の敗戦で終結した時には、宗一郎がつくった工場は壊滅状態に陥っていた。
その時、宗一郎は39歳になっていて、働き盛りの真っただ中にいたのである

(※41-16話【第1,316回】は、ここまで)