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7話.スティーブンソンと鉄道システム〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ジョージ・スティーブンソン:1781年生まれ。炭鉱で働くイギリス人技術者。
■ロバート・スティーブンソン:1803生まれ。J.スティーブンソンの息子で継承者。


 J.スティーブンソンはロケット号でスピード競争に勝利してリーダーの地位を確立した 


1821年ストックトン~ダーリントン間21キロの石炭を運ぶ鉄道敷設工事が、ジョージ・スティーブンソンの指導によって開始された。
この路線は、人を乗せることを目的にしたものではないが、イギリスで、というよりは地球上で初めての鉄道であった。

この工事と同時に、世界で最初となる本格的な蒸気機関車工場の建設がスティーブンソンの手によって始まった。
初めての製造工場であるので、熟練工員を養成するなど時間はかかったが何とかやり遂げることができ、機関車が完成した。
次いで、石炭を乗せる貨車ができあがった。

一方、敷設工事の方もトラブル続きではあったが、作業者たちも次第に鉄道工事に習熟するようになってスピードアップが図られ、1825年にストックトン~ダーリントン鉄道が開通した。

最初の頃の列車は、時速20キロ台というゆっくりしたスピードで運行されたが、それでもレール馬車に比べればはるかに効率がよかった。

この成功に刺激されて、今度は“人”を運ぶ鉄道を建設しようという意見があちこちから出されるようになって、マンチェスター~リバプール間45キロに旅客用鉄道が建設されることになった。
そこで、新たに鉄道運営会社が設立されてオープン準備に入ったが、ここで使う蒸気機関車を選定するために、スピードコンテストが実施されることになった。

今となっては信じられない話であるが、この時代の話題の中心は、「伝統的な“馬”と、新興勢力である“蒸気機関車”は、どちらが早いか」というものであった。
そこで、馬を交えて蒸気機関車のスピード競争をやることになった。
これにはスティーブンソンが製作したロケット号の他にも3台の蒸気機関車が参加した。
ロケット号は、スタート直後は馬に遅れをとったが、やがて加速がついて難なく追いつき、アッという間に抜き去って蒸気機関車の優秀性を証明した。
その時の記録によると最高スピードは時速47キロというものであった。

このエピソードはあまりにも有名であって、“スティーブンソン=ロケット号”になりがちであるが、ロケット号は彼の業績のほんの一部に過ぎず、鉄道産業興隆に貢献した偉業は永遠に評価されてしかるべきであろう。




 父J.スティーブンソンの息子ロバートは、鉄道開発で父に劣らぬ貢献をした 


旅客鉄道として最初に実用化されたマンチェスター~リバプール鉄道は、ジョージ・スティーブンソンと息子のロバート・スティーブンソン親子が指揮をとり、着工してから多くの困難を乗り越えて1830年に完成した。
1825年に石炭を運ぶことを目的に、1830年に人を運ぶことを目的に鉄道が開設されてから、人々の鉄道に対する期待は一気に爆発した。
そして、ロンドン、マンチェスター、リバプールなどの中核都市間を結ぶ鉄道網が続々と形成されたのである。


Stephenson,Robert1上007話
〈父を支援したロバート・スティーブンソン〉






イギリスでは蒸気機関車が出すスピードが、鉄道人気をあおることになった。
人を乗せる鉄道が開通してわずか9年後の1839年には、蒸気機関車ルシファー号は、時速90キロというスピード記録を樹立した。
走行スピードがアップすることが鉄道の価値を高めて、19世紀の中頃までにはイギリス国内をネットワークする鉄道網が着々と張り巡らされた。
中でもエポックメイキングだったのは、ヴィクトリア女王がロンドン郊外で約30分間にわたって乗車したことである。
このことは鉄道の安全性を証明するものとして、その人気を確たるものにした。

その後、イギリス人の関心は地上から地下を走る鉄道に移り、1863年に世界で最初となる地下鉄がロンドンで開通した。

イギリスにおける鉄道延長の総距離は、1830年にスタートして20年後には8千キロを超え、国内全域をほとんどカバーするまでになった。

イギリスは鉄道の輸出に意欲的に取り組んだが、蒸気機関車だけを輸出したわけではない。鉄道システムそのものを輸出するのであるから、蒸気機関車を動かす運転手まで輸出したのだ。

(「7話」はここまで)
【一のⅠ章 産業革命の広がり】は今回で終了し、来週から【一のⅡ章 交通産業の始まり】となります。


7話.スティーブンソンと鉄道システム〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ジョージ・スティーブンソン:1781年生まれ。炭鉱で働くイギリス人技術者。
■ロバート・スティーブンソン:1803生まれ。J.スティーブンソンの息子で継承者。


 R.トレヴィシックの偉業は機械博士と呼ばれたジョージ・スティーブンソンに伝わった 


リチャード・トレヴィシックが蒸気機関で動く乗り物の開発に夢中になって取り組んでいた頃、イングランド北東部に位置するニューカッスル地方でジョージ・スティーブンソンという10歳若い男も、レールを使う乗り物のあり方を考えていた。

炭鉱坑夫の息子として生まれたジョージ・スティーブンソンは、家が貧しくて学校に行くことができず、鉱山で働くことになった。
やがて、機械に対して強い関心を示すようになり、努力家で勤勉であることが認められて、トーマス・ニューコメンが開発した大気圧蒸気エンジンのオペレーターに就くことができた。
この頃から、夜間学校に行って勉強して機械工学知識の蓄積に努めた。

こうして、スティーブンソンは数少ない機械技術者として頭角をあらわし、やがて技師長となり、鉱山では“機械博士”として名をとどろかしていた。
この炭鉱では石炭を坑内から搬出する方法として、スチールレールの上を走らせるトロッコを馬に引かせていたが、この輸送手段をいかに効率化するかが鉱山経営者にとっての大きな課題だった。
この難題に挑戦したスティーブンソンは、馬に代えてジェームス・ワットが開発した蒸気機関を搭載しトロッコを牽引する乗り物の開発に取り掛かることになった。


Stephenson,George1上007話
〈鉄道システムの創始者ジョージ・スティーブンソン〉






そんな時にリチャード・トレヴィシックという男が蒸気機関車第1号の開発に成功したという知らせが入ってきた。
この知らせはスティーブンソンにとっては大きな刺激となり、より実用性の高い蒸気機関車を製作しようと研鑚を積んで、1814年7月にレールの上を走る蒸気機関車の試運転に成功した。

こうして、蒸気機関車はできあがったが、鉄道はいろんな要素の組合せであって、単に客車を牽引する蒸気機関車があればいいというものではない。
そのことに気がついてから、鉄道とはどんなものであるべきかをスティーブンソンは模索し始めたのである。




 鉄道をシステムとして捉え、これを完成させたのはJ.スティーブンソンが最初だった 


スティーブンソンは、現代的表現で言えば、鉄道を構成する諸要素を組み合わせて“鉄道システム”を、世界で初めて完成させた人物である。

そこで鉄道を構成する要素とはいったい何かということになるが、筆者は以下4つが主だったものであると考える。

1番目は線路とレールである。鉄道が開通するためには、線路を建設しなければならない。
鉄道は高低差があり過ぎると登れず、急カーブすぎると曲がれない。
そこで、線路はできるだけ水平で、そして直線であることが求められる。
そのためにはトンネルを掘ったり橋をかけたりする技術が必要となる。
線路のレールはスチール製で頑強でなくてはならないし、高温時に伸びるのでこれを吸収する構造が必要である。
また列車が走る時の振動を少なくするように、枕木構造にしなければならない。
レール幅は、路線ごとで異なるとお客さんがいちいち車輌を乗り換えなくてはならないから、どの路線も同じ幅でなければならない。

鉄道の構成要素の2番目は駅である。鉄道を開通するには、どこに駅をつくったらいいのかを決めなくてはいけない。
また駅での停車時間や走行スピードがどのくらいかを想定して、走行計画表(英語ではダイヤグラム)をつくらなければならない。

そして、3番目は鉄道車両である。
走行計画表に基づいて鉄道営業に必要な蒸気機関車、客車、貨車の車両台数を算出し、開業までに間に合わせなくてはいけない。

最後の4番目は人である。
蒸気機関車を運転する技術者を養成する必要がある。また料金を徴収する仕組みを開発しなくてはならない。

これらの諸要素を高度に組み合わせたのが鉄道であって、これをやり遂げる力のある人間は、当時のイギリスではジョージ・スティーブンソンの他にはいなかった。

(「7話」は金曜日の〔後編〕に続きます。)



6話.トレヴィシックの蒸気自動車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■トーマス・テルフォード:1757年生まれ。運河、鉄橋、道路技術に優れるイギリス人。
■ウィリアム・マードック:1754年生まれ。蒸気自動車を試作するイギリス人。
■リチャード・トレヴィシック:1771年生まれ。蒸気機関車を開発するイギリス人。


 W.マードックから学んだリチャード・トレヴィシックは道を走る蒸気自動車を開発した 


ボールトン&ワット商会に、ウィリアム・マードックより17歳若いリチャード・トレヴィシックという男が働いていて、マードックから蒸気機関で動く構造物について、ノウハウを受け継いだようだ。
特許を申請しようとして、ボスのジェームス・ワットに阻止されたいきさつを大先輩のマードックから聞かされていたトレヴィシックは、このままボールトン&ワット商会にいたのでは研究の自由がなくなるに違いないと考え、ここを辞めて独立して、蒸気で動く乗り物の研究に打ちこむことにした。

トレヴィシックが着目したのは乗り物としての実用性である。
そこで、御者と乗客収容スペースがしっかり確保されている大型馬車構造をそのまま採用することにした。
ただし、馬車の場合、牽引力となる馬は御者の前に位置しているが、トレヴィシックの車両は、乗客スペースの後方に動力が置かれる方式が採用された。

研究を始めて5年後の1801年に、トレヴィシックはとうとう蒸気機関で動く乗り物を完成させた。
この車両に、どのような制動装置が付いていたかが定かでないが、おそらく馬車で使っていたと同じような、走行スピードをダウンさせ、停止させる装置は付いていたに違いない。
トレヴィシックの車両がマードックの試作車両と決定的に違うのは、運転席があり7~8人が乗れるスペースが設置されていた点で、乗り物としての実用性がきちっと確保されていたようだ。

試運転で恐る恐るながら乗せてもらった人々は、大きな音をたてながら路上をゆっくり進む物体に興奮したという。
この走行速度は、途中で降りた人が追いつくことができないほどの速さであったので、乗り物としての完成度はかなりのものだったに違いない。


トレヴィシックは試運転を重ねながら、完成度をさらに高めるように努力を重ねたところ、この蒸気自動車は通常の道路走行は問題なくこなせるようになってきた。
ある日、郊外まで行って凸凹の激しい林道を走ったが、途中の小川を渡る段になって、衝撃のため舵取り棒が取れて転倒するという事故が発生した。
とりあえず車両を起こし道まで運び出した後、休憩のために近くの食堂で昼食をして戻ってみたら、自動車は焼失した後であった。犯人は分からなかったが、この乗り物に恐れを感じていた誰かによって火をつけられたと思われる。


トレヴィシックは、最初の蒸気自動車の欠点を改良した2号車を1802年に完成させた。
これは直径3.2メートルもある巨大な駆動用の後輪をもつ4輪構造であった。
背が高い馬車の車体の後部に1気筒の蒸気機関を備えていた。
そして釜たき職人が乗車して石炭をくべる蒸気自動車の構造に関する特許を申請したところ、期待どおりに許諾された。

これを港町のプリムスまで自分で運転して、そこから船に載せてロンドンまで運び、市内の交通機関として使えないかと、あちこちに売り込んだが誰も相手にしてくれなかったそうだ。
乗り物としての完成度にも向上の余地があったかもしれないが、なにぶん大きすぎて、この頃の道路事情では実用性が低かったためと思われる。


006話とレヴィシックの蒸気自動車
〈トレヴィシックがつくった蒸気自動車〉





既に、『クルマの歴史物語』では、「自動車とは、3輪以上の車輪を持って、自分で所有している動力を使って、運転者の意思によって自在に、発進し、曲がって、停止することができる乗り物」という定義がなされているので、今までの話を当てはめてみると、世界で最初となる自動車はトレヴィシックの蒸気自動車ということになりそうである。

繰り返しなるが、ポイントなる点は制動装置に対する評価であるが、筆者なりにいろいろ調べてみたものの、これがもうひとつ答えははっきりしないので、ここでは断定的な表現は避けて、『クルマの歴史物語』を前に進めたいと思うのである。


 R.トレヴィシックは道路を走る車両を諦めてレール上を走る蒸気機関車を完成させた 


トレヴィシックは蒸気で動く乗り物の可能性を信じて蒸気自動車を開発したものの、誰からも評価されることなく失意の日々を過ごしていたが、ふとしたことがきっかけでレールに着目するようになった。
この時代には、木製レールは姿を消し、スチールレールが各地の鉱山で使われるようになっていた。
「道路と違って、スチールレールの上ならスムースに走行できるに違いない。さらに路上を走る乗り物は左右に曲がるのに舵取り装置が必要となるが、レールの上を走るのであれば舵取り装置が要らないだけ構造がシンプルだ」と考えて、車両を牽引することができる蒸気機関車の製作に熱中した。
既に蒸気自動車を完成させたトレヴィシックにとって、レールの上を走る蒸気機関車はそれほど難しい仕事ではなく、すぐに完成することができた。

トレヴィシックは、蒸気機関車を1台製作すれば済むものを、ごていねいにも貨車5台を製作し、鉄道車両がいかにすばらしいかをアピールするために鉄鋼10トンと70人を乗せた6両連結の蒸気機関車の走行テストを1804年に公開することにした。
ところが、車両の重さにレールが耐え切れず脱線してしまって、このテスト走行は失敗に終わった。

その後、トレヴィシックは数多くの改良を重ね、世界で最初ともいえる実用性を備えた蒸気機関車を完成させたのである。
さらにトレヴィシックは、ロンドン市内で円周50メートルくらいの環状レールをつくって、お金を出していただいた客に蒸気機関車の走行する姿を見せるという、とてつもないアイデアを思いついた。
この機関車は、“捕らえられるなら捕らえてごらん号”(英語名:Catch me if you can)というふざけた名前を付けていたが実力はたいしたもので、5両の貨車を引き、時速8キロくらいでゆっくり走行を続けた。
今となっては信じられないことであるが、機関士は機関車の後をついて走りながら石炭を燃やしたという。

(「6話」はここまで)


Trevithick,Richard1上006話
〈蒸気自動車を完成させたリチャード・トレヴィシック〉




6話.トレヴィシックの蒸気自動車〔前編〕

《 主な登場人物 》
■トーマス・テルフォード:1757年生まれ。運河、鉄橋、道路技術に優れるイギリス人。
■ウィリアム・マードック:1754年生まれ。蒸気自動車を試作するイギリス人。
■リチャード・トレヴィシック:1771年生まれ。蒸気機関車を開発するイギリス人。


 蒸気機関車で動く鉄道システムに先立ち、レール馬車という便利な乗り物が普及した 


Telford,Thomas1上006話
〈交通施設を改革したトーマス・テルフォード〉







18世紀末になるとイギリスでは交通革新が始まるが、交通革新の先導役を担ったのは運河の開発であり、これをリードしたのはトーマス・テルフォードというスコットランド生まれの土木技術者であった。
テルフォードはスコットランドの首都であるエジンバラを基盤にして建築家として活躍していたが、その実力がイングランドにも知られるようになり、ロンドンやポーツマスで鉄橋や港湾などの土木建設の仕事を任せられることが多くなった。
中でもイングランドと南ウェールズを結ぶ運河の建設は困難を極めたが、1793年にこれを完成させ、運河設計者としての腕が内外に広く知られるようになった。

さらに1819年にウェールズ北西部に位置するアングルシー島とグレートブリテン島とを結ぶつり橋建設に取り組み、7年後に完成させ、橋づくりの金字塔といわれる偉業を行った。

テルフォードは、運河や鉄橋だけでなく、道路舗装のあり方に関しても工夫を凝らし、砂利と石の四層構造からなる独特の道路舗装方式を開発した。
この舗装道路によって馬車が快適に走行できるようになり、人や荷物を運搬する上で欠かせない貢献を果たした。


現在、地球上の陸上輸送の中心は鉄道と自動車が担っている。
自動車の発展物語は、本物語の主題として詳しく語られることになるので、その前に鉄道の発展物語を始めることにしよう。

鉄道の原型は、木製レールの採用から始まった。
15世紀の終わり頃、プロイセンの鉱山で、人が押すトロッコ用に使われたのが木製レールの始まりであるが、これが広く普及するようになったのは18世紀に入ったばかりのイギリスで、有力な炭田が集中していた北部のニューカッスル地方が最初であった。
炭田鉱内でのトロッコによる石炭の輸送に、また鉱外では石炭運搬馬車に木製レールが使われた。
この地方では石炭の生産量が急増し、炭鉱が河口から内陸部に広がったため、河岸の港まで石炭を輸送する手段としてレール馬車という新しい交通システムが開発された。

レール馬車は、敷設された木製レールの上に載った車両を馬が引っ張る仕組みであるが、レールのない普通の馬車輸送力に比較して数倍もの荷物が運べるというように輸送能力が格段に優れていた。

木製に代わって鉄製のレールが現れたのは18世紀後半に入った頃のことで、初めは摩耗しやすい屈曲部のみに鉄を張り付けていたが、オールスチールレールの先駆けとなったのは、ダービー製鉄所であった。
1760年にここで生産された鉄を使って、製鉄所から港までのレール馬車用にスチールレールが敷設された。
これ以降、ダービー製鉄所にならって、各地で使われていた木製レールはスチールレールに切り替えられることになり、炭鉱や製鉄所の専有物であったレール馬車は、19世紀になるとイギリスでは一般貨物や旅客用に利用されるようになってゆくのである。


006話レール馬車 (2)
〈19世紀後半に普及したレール馬車〉






 ウィリアム・マードックは蒸気機関を動力として道路上を動く乗り物の開発に挑戦した 


ここまで読み進んできた読者の中には、自分はクルマのファンであって、自動車発展の歴史を勉強しようと思っているのに、ニコラス・キュニョー以降、ちっとも自動車が登場しないのでイライラしている方も多いと思う。
そこで、クルマが大好きな読者の期待に応えるのが、蒸気自動車の登場物語である。

蒸気機関で動く乗り物の歴史はキュニョーのファルディアから始まったが、それから14年たったイギリスで、蒸気機関で動く乗り物を開発しようと挑戦を開始したのが、ウィリアム・マードックという男である。
その当時、ジェームス・ワットのビジネスパートナーである実業家のマシュー・ボールトンは、バーミンガムで共同事業会社としてボールトン&ワット商会を設立して、新しい機械を開発したり、蒸気機関の製造をしたりしていた。
そこに、ウィリアム・マードックが社員として採用され、ワットの部下となった。

ボールトン&ワット商会で働くマードックが取り組むことになったのは蒸気機関によって地上を動くことができる車両の開発であった。
この時代、鉄道の概念はまったくなかったので、道路上を動く乗り物の開発はとてつもなく難しいテーマであり、これと取り組むことになったマードックは、最初は4輪ではなく、3輪の車両構造を考えた。

マードックが製作した車両は実物大ではなく縮小モデルであり、その前輪は小型車輪が1つで舵が切れ易いようになっていた。
2つの後輪の直径は前輪の2倍ほどあり、後車輪上に設けられた平面スペースに蒸気機関が載っていたが、運転席や乗客席はまったく設定されていないので、人が乗って移動する乗り物とは言い難かった。
この車両を動かすためにはシリンダーに蒸気エネルギーを供給するボイラーを熱する必要があったが、石炭をくべる釜たき職人は乗員ではなく、地上でこの仕事をやることになっていた。
シリンダーに送り込まれた蒸気圧によってピストンが上下運動して、この動力によって後車輪が回転することになったら、どのような挙動をするのかというところまでは検証されていない危険な物体であったが、当初は実験的な試作品にとどまっていたと思われる。

その後、マードックは乗り物として実用化が図れないかと改良を重ねたら、3輪構造をもつ蒸気機関搭載車の実物大の試作モデルができあがってきた。
これが実際に動くかどうかを路上で実験したくてたまらなくなったマードックは、昼間だと人目につくので暗くなるのを待って、ボイラーの温度を上げて、作業所の通り側に付いていた出入り口を開け、スロットルを操作して高圧蒸気をシリンダーに供給したら、大きな音を出しながら道路に向かって前進を始めたのである。

そこに偶然通りかかったのは、この街の牧師である。
爆音のする方向に目を向けたら燃え盛る炎と蒸気に包まれた異様な物体が眼に止まり、とっさに「悪魔がきたぞ!」と叫んで大騒ぎになったという話が今日まで伝わっている。


Murdoch,William1上006話
〈蒸気自動車を試作したウィリアム・マードック〉







その後マードックは実験を続けてきた車両構造の考えを整理して、特許を申請するための準備に入った。この話を伝え聞いたワットは、自分の部下が勝手に特許申請をやっていることが許せなかった。
徒弟制度の時代での上下関係は、現代企業でのボスと部下の関係とはまったく違っていて、新しい技術を個人として所有するということは絶対にあってはならないことであり、ボスであるワットはマードックの特許申請を差し止めさせ、同時にボールトン&ワット商会は蒸気機関で動く乗り物の開発を中止してしまった。

マードックが蒸気自動車の開発に携わったのは1870年代の中頃の話であった。
その後、これで気落ちをすることなくマードックは、ボールトン&ワット商会で難しい技術問題解決に向かって不断の努力を継続するのであった。
そして、1792年にマードックは会社の裏庭にレンガづくりの炉をつくって、そこに石炭を入れ蒸し焼きし、その際に出るガスを回収して点火することに成功したが、これはガス利用技術発展の礎となる偉業となった。

その後、マードックの技術が改良されることによって、石炭から製鉄に必要とされるコークスを生産するに際して大量に発生するガスの使い道として照明事業が開始され、19世紀の初めの頃からロンドンの街にガス燈が設置されるようになったのである。

(「6話」は金曜日に続く)


5話.蒸気機関で動く兵器の登場〔後編〕

《 5話の主な登場人物 》
■ニコラス・キュニョー:1725年生まれ。蒸気で動く乗り物に挑戦する軍人技術者。
■ジェームス・ワット:1736年生まれ。復動化によって蒸気機関を完成させる技術者。
■マシュー・ボールトン:1728年生まれ。ジェームス・ワットのビジネスパートナー。
■ヘンリー・モズレー:1771年生まれ。“旋盤の父”と呼ばれるイギリス人。


 J.ワットの蒸気機関は復動式になることによって完成し、大量生産されるようになった 


ジェームス・ワットは、イギリス産業界ではいちばん注目を集める技術者として時代の寵児になってゆく。
ワットの偉いところは発明に終わりがない点で、普通なら名声に溺れてその後努力をしなくなる場合が多いが、高名を確立してからも、いっそう立派な業績を挙げたのである。

その業績とは、復動式蒸気機関であった。
それまでの蒸気機関では、構造上ピストンの片面に蒸気圧をかけるため大気圧側が放熱部とならざるを得なかった。
そこで、この放熱部の部分をなくすことができないかとワットは考えた。
その結果、大気圧を使わずに、低圧の蒸気をピストンの両面に交互に送り込んで往復とも出力工程とする復動式蒸気機関を、1782年に発明した。
これによって、同じ大きさの蒸気機関で2倍の出力を得ることができるようになったが、この原理は高圧の蒸気を使う現代の蒸気エンジン構造とまったく変わらない大発明であった。

その後、ワットは平行4辺形運動の機構を発明し、1784年に特許を取った。
これは複動運動に欠かせない機構であって、これによりピストン軸はぶれることなく直線的に運動することができるようになった。
この機構は今日でも“ワット・リンク”と呼ばれ、いろいろな機械で採用されていて、これまた優れた大発明と言えよう。
これらが複雑に組み合わさって、ワットの蒸気機関はニューコメンの時代のものより、著しい熱効率の向上につながることになった。
このように、ジェームス・ワットはこの時代の技術社会の中でも特筆すべき業績をあげ、イギリス産業革命の推進役を務め、その発明は人々の毎日の生活を快適にするという点でも多大な貢献をしたのである。




 産業革命を支えたのは、スミートンやモズレーなどの工作機械の開発者たちであった 

 
Maudslay,Henry1上005話
〈“旋盤の父”ヘンリー・モズレー〉





18世紀後半のイギリスでは、蒸気機関がそれまで使用されていた馬や水車に代わる強力な動力機関として急成長した。
そして、鉄鋼産業が発達して、紡績機や蒸気機関などは鉄鋼部品でつくられるようになり、鉄鋼を加工するために精度の高い工作機械の必要性が高まってきた。
イギリスにおける工作機械の発展史に関しては、中刳り盤を開発したジョン・スミートンとジョン・ウィルキンソンに続いて、“旋盤の父”と呼ばれているヘンリー・モズレーの存在を欠かすことができない。
モズレーは1797年に送り台つき大型旋盤を製作したが、これは今日の旋盤の原型をなすものとして広く普及した。
次いでモズレーはねじ切り盤を開発した。

こうして鉄を加工する工作機械で、穴を開けたり表面を削ったり、いろいろな加工ができるようになってきたが、加工精度を上げるために正確な寸法を取る必要性が高まって、モズレーはこの解決のためにマイクロメーターを開発した。
これによって100分の1インチまでの精度で、正確に採寸できるようになったが、このマイクロメーターは蒸気機関などの新しい機械の精度向上に欠かせない存在になっていく。

モズレーは生涯、工作機械の発展に力をつくしたが、とりわけ人材育成には熱心で、数多くの工作機械開発者を育成した。
モズレーの指導によってリチャード・ロバーツは、いろいろなタイプの工作機械を開発したが、中でも平面を加工するための旋盤の開発は産業界の技術革新と生産性の向上に貢献した。

また、ジェームス・ナスミスは大型の機械製作に欠かせない蒸気ハンマーを開発した。
これによって、それ以前は金属をたたき上げ密度を高めるという鍛造技術の限界によって小型砲しかできなかったものが、大型砲もできるようになって、戦闘時の破壊力が一気に高まることになったという。

一方、ジョセフ・ホイットワースは、新しい工作機械を開発するというより、工作機械を製造するメーカーの道を選んだ。
ホイットワースの工場では、あらゆるタイプの工作機械が生産されて、これを必要とする製造業者に安価で提供されたのである。


 M.ボールトンのアイデアで、J.ワットはエンジン出力を馬の力で表示することを考えた 


私たちが何げなく使っている技術用語に関して、その意味を調べてみると意外な事実にぶち当ることがある。
例えば、“馬力”というエンジン出力を表す専門用語がそれである。エンジンパワーを馬の力で表しており、もう少し別な表現があってもよさそうに思うが、世界中でこの表現が常識となっている。

そこで、馬力という単位はどのようにして生まれたかを探ってみよう。
この概念を生み出したのはジェームス・ワットである。
ワットは自分が開発した高効率の蒸気機関をビジネスにするに際して、普通であれば製品をつくって販売するということになるが、販売方式を採らずにレンタル(賃貸)方式という画期的なやり方を採用した。

売ってしまえば、その時の販売代金が収入となる。
収入を最大にしようと思うと販売価格を高くせざるを得なくなって、需要が落ちることが心配になる。
そこで、賃貸方式で毎月の使用料をいただくということにすれば、初期費用が安くすむので使用者側としては発注しやすくなるのではないかと考えた。
実際やってみると多くの注文が舞い込んだのである。技術一途のワットにこのような営業的なすばらしい知恵があったとは想像し難いので、おそらくビジネスパートナーであるマシュー・ボールトンのアイデアであったろう。


Boulton,Matther1上005話
〈ワットのビジネスパートナー:マシュー・ボールトン〉







ここで、自分が開発した定置用蒸気機関の使用料基準をいくらに設定したらよいのかというテーマが登場する。
「蒸気機関の仕事はもともと馬がやっていたのだから、同じ仕事をするのに馬が何頭必要であるか、換算すればよい」

このように考えたワットは、あるビール会社に頼んで、そこにいる馬車馬を何頭か使って実験をしてみた。
深い井戸の滑車を使って、ロープの端に100ポンドの重しを縛って井戸の底に下ろした。
ロープのもう一方の端を馬1頭に繋いで馬を歩かせ、100ポンドの重量を井戸の底から引き上げながら歩く速さを測定して、平均すると馬1頭が時速2マイル半を歩くことを確認した。
これに諸要素を加えて、結論として「1頭の馬は、550ポンドの重さの荷物を1秒間に1フィート持ち上げる能力を持つ」と定めて、これを1馬力(Horse Power、以下HP)と規定したのである。

(「5話」はここまで。6話〔前編〕は5月8日(火)に掲載。)