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15話.オペル社の創業〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アダム・オペル:1837年生まれ。ミシン事業で成功したドイツ人事業家。
■ゲオルグ・オペル:1838年生まれ。兄アダムの事業パートナーの弟。
■ゾフィ・オペル:1840年生まれ。アダムの妻で5人の男の子の母親。
■カール・オペル:1873年生まれ。アダム&ゾフィ夫妻の長男で、5人兄弟のリーダー。


 ミシンで成功したアダム・オペルは、需要アップが期待される自転車づくりを決意した 


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〈夫を支え5人の男児を育てたゾフィ・オペル〉





オペル夫妻はいつも仲がよかった。
妻のゾフィは、ドイツ女性の典型的なしとやかさを持ちつつ、家庭をしっかり守るタイプで、夫に家のことを心配させることはなかった。
そして、上からカール、ウィルヘルム、ハインリッヒ、フリッツ、ルートヴィッヒ、という5人の男の子に恵まれた。

アダムはこの会社の将来のことを思うと、ミシンだけでは経営は安定しないと考えて、新しいビジネスを模索していた。
そのために1年に1回、妻のゾフィと花の都パリに行くことを楽しみにしていた。
アダムはパリで、前輪の大きなオーディナリー型自転車を目にして、今までの自転車と形が変っているのに驚いた。
そして、人々が自転車をいかにも得意そうにして乗っているということに強い印象を持ち、「ひょっとしたら、この新型の自転車は、プロイセンでも売れるようになるのではないか!」と閃いたのである。

自転車はイギリスとフランスでは大きな産業に育ちつつあった。
アダムは、さっそく自転車の部品を取り寄せて、自分の会社で組み立ててみたところ、操作性もスピードも充分な性能を持っていることがわかった。
そこでアダムは、オペル社の自転車として工夫を加えるべく改良に取り組んだ。こうしてオペル社として最初の自転車が完成し、市販されたのはアダムが50歳の時、1886年の春のことであった。


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←創業期“オペル”のブランドマーク








 アダム・オペルは自転車の販売促進活動に、5人の息子の競争チームを活用した 


アダム・オペルはミシンに続く大型事業として自転車を取り上げ、これを大量生産して売上を伸ばそうと考えたが、最初の頃は思惑どおりにことが運ばなかった。
苦労してつくった自転車はちっとも売れず、どうしたら売れるようになるかを日夜考えていたアダムは、その解決策を求めるために自転車先進国であるイギリスを訪問することにした。

そしてイギリス各地の自転車工場見学の折に、偶然見た“自転車レース”に集まったイギリス人の熱狂ぶりに驚いて、この光景から自転車を売るためのヒントを瞬間的につかんだのである。
「プロイセンの人々にも自転車レースに興味を持ってもらおう。そしてオペル社も自転車チームを編成して、優勝すれば、オペルの自転車の優秀性が証明されて、うちの自転車は人気が出るに違いない」と考えた。
このようなアイデアが、頭の固い職人育ちのアダム・オペルから生まれたということは驚異である。
イギリスで連戦連勝を飾ったハーベイ・デュクロの6人兄弟の活躍ぶりを目のあたりにして、「そうだ、うちには5人の男の子がいる。この子たちにひと働きしてもらおう」と考えたのかも知れないが、本当はどうだったのだろう。

イギリスから帰国後、アダムは5人の息子を集めた。
「君たち5人は今日から自転車競技の選手になるよう訓練を始めるぞ!」
子供たちはいちように驚いた。
反抗期の息子もあり、性格や考えの違いもあって、全員がその気になったわけではなかった。
そこで、アダムは会社の現状と今後の改善プランを、この機会に息子たち全員に話すことにした。

「お父さんの会社の経営は、現在大変苦しい状況にある。というのは、自転車に進出するに際して、工作機械などの設備を整えるために資金を使ったにもかかわらず、せっかくつくった自転車はまったく売れてない。この現状を打破するために、どうしたらいいのかを必死で考えた結論が、君たち5人による“オペルチーム”をつくって、自転車レースに出場することだ。この競技で5人のうち誰かが優勝すれば、オペルの自転車の優秀性が証明されて、うちの自転車はきっと売れるようになるに違いない」

この話を聞いた5人は、会社の危機を救うために少しでも自分たちが役立つことができればという気になって、翌日の朝から競い合うようにして自転車レースの訓練を開始したのである。

プロイセンで行われた自転車レースでは強力なライバルもいなかったので、オペルチームは連戦連勝を重ねて、瞬く間にオペルの自転車は有名になっていった。
そして、オペルブランドの自転車は年毎に売れるようになり、1890年代になると自転車の売上はミシンを上回るほどになって、オペル社の大黒柱に育ったのである。

このように順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のオペル社であったが、1895年9月、オランダを旅行中に感染した伝染病が原因で、アダム・オペルはこの世を去ることになった。58歳という若さの創業者の死であった。


Opel,Adam1上015話
〈ミシンから自転車へ事業を拡大したアダム・オペル〉





(「15話」はここまでであり、『一のⅡ章 交通産業の始まり』も本日で終了しました。7月17日(火)より、『一のⅢ章 内燃機関の発展』がスタートいたします。)


15話.オペル社の創業〔前編〕

《 主な登場人物 》
■アダム・オペル:1837年生まれ。ミシン事業で成功したドイツ人事業家。
■ゲオルグ・オペル:1838年生まれ。兄アダムの事業パートナーの弟。
■ゾフィ・オペル:1840年生まれ。アダムの妻で5人の男の子の母親。
■カール・オペル:1873年生まれ。アダム&ゾフィ夫妻の長男で、5人兄弟のリーダー。


 フランスで技術を学んだドイツ人アダム・オペルは、ミシンの大量生産を成功させた 


アルマン・プジョーに続き、『クルマの歴史300話 第一巻』において2人目の主役を演じるのは、アダム・オペルである。
1837年にプロイセンのフランクフルト近郊リュッセルハイムの町で、錠前職人の長男としてアダムは生まれた。
そしてアダムが生まれた翌年に弟のゲオルグが生まれた。

アダムは成長するにつれ、自分の知らない新しい世界の話に興味を持つようになった。
特に、ロンドンやパリという大都会では新しい技術が発表されて、どんどん街が変わっているようすが、噂話として小さな田舎町にも知らされていた。
田舎から飛び出してパリに行って新しい技術を勉強したいと思うようになったアダムは、都会の魅力にどうしても抗することができなくて、自分の夢を親に語ったが、予想どおり大反対されてしまった。
それでも挫けず2年がかりで説得した結果、ようやく許可が下りて、見識を深め技術を磨くヨーロッパ各地への旅に出かけることになった。

この時代のプロイセンは、大きな政治的な動きがなく平和な時代であった。
一方、フランスもナポレオン三世の治世で、ひと時の平和と経済的発展を謳歌していて、プロイセンとフランスは自由に往き来できる時代だった。

1858年、アダム21歳の時、旅の最終目的地であるパリに到着した。
最初は生活のためにパン職人になったが、この仕事ではアダムの機械技術に対する関心を満足させることはできないので、翌年フランスでは最大のミシンメーカーに就職することにした。
ミシンは産業革命が生み出した機械の中で、人々の生活に密着しているという点で最も象徴的な存在であったが、その対象は服をつくることを職業とする専門家用であり、一般家庭に普及するというほど大衆的な製品ではなかった。

アダムはこのミシン工場に弟のゲオルグを呼び寄せ、兄弟で会社が持っているミシン技術を勉強して、必要とされるスキルを身に付けた。
2人はここで働いているうちに、自分たちが生まれ育ったプロイセンではミシンは近代産業に育っていないので、田舎に帰ってミシンを製造する会社を興そうという夢を持つようになり、ミシンのメカニズムを徹底的に研究し、新しいミシンの開発に没頭したのである。




 オペル製のミシンは、プロイセンVSオーストリア戦争のおかげで飛ぶように売れた 


1862年、25歳になったアダムはリュッセルハイムに戻ることになった。
毎日ミシンのことばかり考えているアダムに対して、父親は繰り返し錠前屋の後継ぎになるように説得を重ねたが、アダムは頑として、自分はミシン会社をつくると主張し続けた。

そして、その年の秋も深まったある日、とうとうアダムの新型ミシンは完成したのである。
この記念碑ともいうべき第1号のミシンは,リュッセルハイムの仕立屋に納入された。
この仕立屋はアダムのミシンを使ってみて、使い心地のよさ、そして何よりも正確に縫製する機械としての信頼感の高さに驚いたという。

自分がつくったミシンの評判が思いのほか高かったので、アダムはミシンづくりを生涯のビジネスにすることを決断して、“アダム・オペル”の看板を掲げたミシン会社がオープンした。
弟のゲオルグはアダムが帰国してからもパリで勉強を続けていたが、アダムのミシン会社がオープンして1年後にはリュッセルハイムへ帰ってきて兄の店を手伝うようになった。
この新しいミシンビジネスは、当初はなかなか軌道に乗らなかった。ところが、オープン4年目に入った頃から状況が大きく変ってきた。

プロイセン政府は、かねてから準備してきたオーストリアとの開戦を決行しようとしていたが、この戦争準備に関しては、ヘルムート・モルトケ参謀総長の指導力がいかんなく発揮された。

まず兵士を増員して訓練しなくてはならない。
すると軍服がたくさん必要になるので業者に発注する。
業者は大急ぎで大量の軍服を縫製しなければならない。
そうなるとミシンが必要になる、というプロセスの中で、ミシンは飛ぶように売れ、リュッセルハイムという田舎町のミシン生産工場は大忙しとなったのである。

アダムは生産を増強すべく、大規模な工場建設に取り組んで需要を満たすようにした。
同時に、将来に見通しを持てるようになった31歳のアダムは結婚を考えるようになり、資産家の娘ゾフィと結婚した。

裕福な家庭に育ったゾフィはアダムとの結婚に際して相当額の持参金を携えてきたが、これらはアダムの事業拡大のための資金として使われることになった。
機械加工メーカーとして不可欠の動力源として、定置用蒸気機関を買い、最新の工作機械や工具をそろえたが、これらがアダムオペル社(以下、オペル社)の経営基盤を形成したのである。

〔プロイセン VS オーストリア〕戦争はプロイセンの勝利で終わり、続いて〔プロイセンVSフランス〕戦争という大戦争が始まった。
軍服需要は引き続き旺盛で、ミシンはいくらつくっても飛ぶように売れて、オペル社は瞬く間にプロイセンの代表的なミシンメーカーに育ったのである。

パリを占拠することによって〔プロイセンVSフランス〕戦争は終結することになり、ヴェルサイユ宮殿で統一ドイツ帝国初代皇帝が戴冠式を行ったのは1871年の1月のことであった。
この戦争終結に伴って軍服需要は激減して、ミシンの注文もストップするという事態が訪れた。
この時アダム・オペルは35歳という働き盛りであった。

(「15話」は金曜日に続く)


14話.プジョーの自転車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エミール・プジョー:1823年頃の生まれ。プジョー家を受け継ぐフランス人事業家。
■ジュール・プジョー:1825年頃の生まれ。兄エミールの死後、その後を継いだ弟。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー家の栄光を夢見るエミールの息子。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。安定経営を志向するジュールの息子。


 経営幹部が揃う朝食会席上で、アルマンが提案した自転車事業化プランは紛糾した 


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〈兄の急死により社長に就いたジュール・プジョー〉





ジュール・プジョー新社長は就任してから、息子のウジーン・プジョー以外、自分に対して仕事上の報告や相談に来る役員が少なく、企業統治(現代の経営用語でガバナンスという)がうまくできていないと自覚することが多かった。
そこで、毎週月曜日の朝に、役員が集まって朝食を一緒にすることを義務付けた。
この朝食会に参加するのは、社長と、プジョー兄弟社の仕事を実質的に取り仕切っているアルマン・プジョー専務、そして最近影響力が強くなってきたウジーン・プジョー常務の他に、財務責任者、工場支配人、営業支配人、監査役の弁護士という7人であった。

この日は、朝食前にいつものように財務責任者、工場支配人、営業支配人という順番で会社の現状に関する報告がなされて、いよいよ食事という段になって、突然アルマン専務が口を開いた。
「皆さん、食事の前に私から提案がありますので、聞いていただけませんか」

これにすぐに反応したのはジュール社長である。
「アルマン君、薮から棒に。話とはいったいどんなことかね」

「社長、僕から新しいビジネス提案をさせていただいてよろしいでしょうか」

「会社の発展につながる話なら結構です。話を進めてください」

「2年ほど前に、僕がイギリスで見聞した自転車の話をしたことを覚えていらっしゃる方が多いと思います。イギリスでオーディナリー型という前輪が大きな自転車が出現したという出張報告でした。あの時、当社も自転車ビジネスに取り組むべきだと申しましたが、どなたにも真剣に取り上げていただけませんでした」

アルマンの説明が途中であるにもかかわらず、ウジーン常務が口をはさんだ。
「あの時取り上げなかったのは、正しい判断だったと思いますよ」


Peugeot,Ujine1上014話
〈権力志向が強くなったウジーン・プジョー〉






アルマンは、ウジーンの発言を無視して話を続けた。
「今日はその話の続きです。皆さんも、前輪が大きな自転車がパリの街で走るようになっていることはご存じだと思いますが、つい先頃、この町で新型自転車に乗っている人を見かけてびっくりしました。その人に、どこでつくった自転車かを聞いてみたところ、イギリス製でした。輸入品ですので、たいへん高かったそうです」

先ほどまで落ち着いて朝食会の進行状況の把握に努めていたジュール社長は、アルマン専務の説明が長くなっているのが気になり始めていたので注意をすることにした。
「アルマン君。話は長くなるかね。食事をしながら君の話を聞くというのはどうだろうか」

社長の提案に対して、アルマンはやんわり拒絶した。
「社長。申し訳ありませんが、最初にお断りしたように、本日の話は僕からのビジネス提案であり、経営上重要な検討事項だと思いますので、もう少し辛抱していただけませんでしょうか」

アルマンの発言を聞いて、社長は自分の提案が軽視されたと感じた。
「わかったよ、アルマン君。諸君、しばらく我慢して話を聞いてください」

アルマンは社長発言にカチンときたが、ここは冷静にと思い直して話を続けた。
「イギリスに続いて、わが国でも自転車は間違いなく大きな産業に育ちます。幸いなことに、フランスで自転車を手掛けている会社は小さな会社ばかりです。今、うちが自転車ビジネスを始めれば、会社を大きくするチャンスが巡ってきます」

こう熱弁を振るうアルマンを、社長は苦々しい思いで聞いていた。
「アルマン君。その話は2年前に聞いたよ」

「社長、2年前と今ではまったく状況が違います。あの時は、わが国にオーディナリー型自転車は1台もありませんでした。しかし、さっき話したように、最近ではこの町でも使っている人がいるんですよ」

そこに再びウジーンが口をはさんだ。
「社長がおっしゃるように、当社は自転車をやらないことに決めたことを忘れてはならないと思います」

ウジーンのアルマン攻撃はここ数カ月間、辛らつであった。
ここで押されたら、自転車事業は前に進まないし、経営の主導権をもぎ取られかねないのでアルマンも負けるわけには行かなかった。
「2年前と状況が大きく変わっていると言っているのだ。経営は時代の変化に合わせて柔軟に意思決定すべきだから、もう一度真剣に自転車ビジネスへの参入を考えるべきで、2年前に決まったから審議しないというのは、おかしいんじゃないか」

だんだんいきり立ってきたアルマンを制したのは社長である。
「アルマン君、いいかげんにしたまえ。今日は朝食会であって、こうして口角泡を飛ばすことを目的としている訳ではないんだ。せっかく用意してある朝食がまずくなってしまうじゃないか」

「社長! これは経営上の重要問題ですよ!」
アルマンは必死で食い下がった。

「しつこいな、君は。それでは今日の打合せはこれで終わります。食事を始めましょう」
ジュール社長は給仕長に合図を送った。

「もはやこれまで」と、アルマンはフォークを取って苦い味の朝食を始めるのであった。




 アルマンの才覚でプジョー兄弟社はフランスでの自転車産業のパイオニアとなった 


この朝食会に懲りたアルマンはそれからしばらくの間、経営会議のメンバーに自転車のことを蒸し返すことはなかった。

しかし現実は、アルマンが想定したよりはるかに早く、フランスでもオーディナリー型自転車は普及していた。
フランスの自転車メーカーがつくったものもなくはなかったが、祖国の国土を走り回っている自転車の大半はイギリス製であった。

1880年頃には、フランス人の間で自転車の人気が沸騰してきた。
この頃になって、ジュール社長はようやくアルマンの意見を受け入れ自転車ビジネスに新規参入する方針を掲げ、プジョー兄弟社は自転車の生産販売事業を開始することになった。
アルマンの最初の説得から数えて実に12年後のことであった。

プジョー兄弟社が最初に開発した自転車は、前輪が大きなオーディナリー型であったが、その後、ローヴァー型に切り替えられた。
ワイヤーホイール構造が採用され、ペダルをこいでチェーンで後輪を走らせる新型の自転車は、その乗り心地のよさで人々から熱狂的に支持され大ヒット商品になり、プジョー兄弟社はフランスを代表する大企業に育っていった。

フランス国内でプジョー製自転車が走り回るようになると、自転車製造業の追随者があちこちで現れ、競争が激しくなってきた。
この結果、価格は年々安くなったが、このことが新たな需要を生み出し、自転車はフランス人の毎日の生活に欠かせない存在になってゆくのである。

さらに、この自転車人気に火をつけたのは、自転車レースであった。
最初の自転車レースはイギリスで開催され、娯楽の少ない民衆が大好きなイベントに育ってゆくが、この人気がヨーロッパ大陸のフランスに飛び火したのである。

フランスの大手新聞社ル・プティ・ジュルナル社は、パリから真西方向に向かって出発し、ブルターニュ半島の先端の都市ブレストに行って、パリに帰ってくる1,200キロの自転車レースを主催した。
このレースに群がった人の数は主催者の予想をはるかに越えるもので、その熱狂ぶりに自転車レースの時代が始まったことを実感することになった。
(「14話」はここまで。「15話〔前編〕」は7月10日(火)に掲載。)


14話.プジョーの自転車〔前編〕

《 主な登場人物 》
■エミール・プジョー:1823年頃の生まれ。プジョー家を受け継ぐフランス人事業家。
■ジュール・プジョー:1825年頃の生まれ。兄エミールの死後、その後を継いだ弟。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー家の栄光を夢見るエミールの息子。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。安定経営を志向するジュールの息子。


 フランス東部スイス国境近くに住むプジョー家は、代々金属加工業をやっていた 


『クルマの歴史300話 第一巻 自動車の誕生』の主役を演じるのは、産業革命の進展に伴って最初に自転車産業を興し、これをベースとして自動車産業に進んだフランス人のアルマン・プジョーとドイツ人のアダム・オペルだ。
次いで、ガソリンエンジン開発からスタートして自動車という複雑構造をもつ乗り物へと進んだドイツ人のゴットリープ・ダイムラー、ウィルヘルム・マイバッハ、カール・ベンツの3人。
さらには、チェコの地に生まれ自由な発想でクルマづくりに取り組むフェルディナント・ポルシェ、フランス自動車産業興隆に貢献するルイ・ルノー、イタリア自動車産業の生みの親であるジョヴァンニ・アニエッリという、自動車産業パイオニアたちである。

ここにあげた8名の生まれた年は、ゴットリープ・ダイムラーが最も早く、その16年後の1849年に誕生し、フランスで自転車を、そして自動車を大きなビジネスに育成したアルマン・プジョーの物語を、これから始めよう。


プジョー家の歴史は古い。
15世紀からフランス東部スイス国境近くの町で、プジョー家はその時代なりの事業を営んでいたが、19世紀の始めの頃に新しい金属加工技術を開発してからは、エミールとジュールというプジョー兄弟が推進役として、この技術を生かした工具や、時計用スプリング、コーヒーミルなどの事業分野を徐々に拡大していた。

読者の中には、18世紀をテーマとした映画の中で高貴な女性がスカートを傘のように膨らませているのを見た人も多いと思うが、あのふっくらとした形は鯨のひげを芯材として使用していた。
大きな鯨からひげを取るのだから当然価格は高くなって、貴族や大商人などの特別な人しか手に入れることができなかった。

そこで、プジョー家の人々は金属で鯨のひげの代替品ができないかと研究を重ねた。
鉄線は弾力がないので適当でなく、銅線を使うことで満足する品質を得ることができ、これを最初に商品化して成功させた。
スカート用の銅線芯材はハイクラス女性の必需品だったので、このビジネスはプジョー家を大いに潤わせた。
さらに、この技術を応用して今度は傘の骨を開発し、これも成功することができた。

これらはプジョー家のビジネスの一部に過ぎず、他にも種々の金属加工製品をフランス人の日常生活の中に普及させ、人々の生活レベル向上に貢献する企業に育っていたのである。

そこで、今までの家業を近代的な会社組織に組替えようとして、1880年にプジョー兄弟社という名前の会社を設立し、この会社が生み出す全ての商品に、プジョー家が代々受け継いできた由緒ある紋章であって、ファミリーの誇りでもある“ライオン”マークを付けることにした。


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←創業期“プジョー”のブランドマーク







 プジョー兄弟社のアルマン・プジョーは、イギリスで自転車の可能性を見つけ出した 


エミール・プジョーの息子であるアルマン・プジョーは、何不自由なくすくすくと成長した。
21才になったアルマンは、エンジニアとしての技術習得のため、産業革命の進展によって最先端を走るイギリスに留学した。
その頃のイギリスは、自転車の技術革新が著しく進んで人々の関心を引いていた時代であった。

折りしも、ジェームス・スターレイとウィリアム・ヒルマンが開発したオーディナリー型自転車が市場に出た直後であった。
この自転車は、大口径前輪に付いているペダルで前輪を直接廻して進むという構造である。
そして、ワイヤーホイールが採用され軽量で扱いやすく、その上にソリッドゴムタイヤのおかげで乗り心地が良かった。

これを見たアルマンは、旧来の自転車に代わってオーディナリー型が主流になるに違いないと直感した。
アルマンは帰国後、会社の経営幹部に対して、「オーディナリー型自転車は人気が出るので、今のうちにこの仕事に手をつけて将来に備えるべきではないか」と、説いて回った。
その根拠として、自転車部品のワイヤーホイールはプジョー兄弟社が今まで蓄積した技術が生かせる分野であることを挙げ、他社に負けない競争力があると主張したのである。

これに対して、社長のエミール・プジョーは同意してくれたが、他の役員は自転車に対する理解が足りず、アルマンのいうことに耳を傾けなかった。
そして説得に時間がかかってしまったアルマンに、過酷な運命が待ち受けていた。

アルマンが会社で自転車ビジネスの提案を始めて2年後に、父親でありプジョー兄弟社社長のエミール・プジョーが死んでしまったのだ。
このため、この会社の社長に、エミールの弟であるジュール・プジョーが就任することになり、ジュールとその息子ウジーンの影響力が強くなってきた。
この2人は、自転車ビジネスへの進出はプジョー兄弟社を危険に導くと強く反対し、アルマンが構想した自転車への進出計画は暗礁に乗り上げてしまった。

(「14話」は金曜日に続く。)


13話.ゴムタイヤの始まり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■クリストファー・コロンブス:1451年生まれ。アメリカ大陸を発見したイタリア人冒険家。
■チャールズ・グッドイヤー:1800年生まれ。ゴム熱加硫法を発明するアメリカ人化学者。
■ハーベイ・デュクロ:1845年頃の生まれ。自転車事業を始めるイギリス人事業家。


 アメリカ人のC.グッドイヤーは硫黄を加えることでゴムが柔らかくなることを発見した 


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〈ゴム熱加硫法を発明したチャールズ・グッドイヤー〉





ゴムタイヤの話をするために、ロバート・フルトンに続くアメリカ人としてチャールズ・グッドイヤーが登場する。

アメリカ合衆国コネチカット州で金物屋をやっているグッドイヤーの趣味は化学の実験で、店の奥で暇を見つけてはいろんな化学物質を混合して、どのように変化するか夢中になっていた。
それらの中では、“ゴム”という物質がいちばんおもしろかった。

1839年のある日、いつものように店の奥でゴムの実験をしていた時に、客がやってきた。
とっさに持っていたゴム片と実験材料である硫黄をストーブの上の置き台に乗せて、客の応対に出た。
この客には時間が取られたが、ようやく帰ったので実験室に戻ったところ、ゴムが柔らかくなっているではないか。
温度変化に敏感ですぐに硬くなるゴムが、硫黄を加えて熱することによって弾力ある柔らかさに変化するという性質があることを、グッドイヤーは見つけ出した。
ゴムに硫黄を混ぜて加熱するという“ゴム熱加硫法”という大発明は、こうした偶然の中から生まれたのである。

グッドイヤーはゴムの特性を生かすものは何かを考えているうちに、軽量車両の車輪の外側にゴム加工技術を使ったらどうかと思いついた。
3年間にわたって実験を繰り返した後、1842年に車両用のソリッドゴムタイヤの試作に成功した。
このゴムタイヤは、ゴムの厚い層を接地面に付けただけだったが、木製タイヤやスチールタイヤに比較すると、騒音と乗り心地を大幅に改善することができた。

その数年後、スコットランドに住むロバート・トムソンという土木技師がゴムと皮で空気入りゴムタイヤをつくる方法に挑戦した。
これは、ゴムチューブに空気を入れ、空気が漏れないよう皮で車輪に固定するというアイデアであり、1846年に特許を得た。
しかし実用性はというと、ゴムそのものが非常に高価であった点に加えて、すぐにパンクしてばかりいたので評価されなかった。

この空気入りゴムタイヤの特許は人々の関心を引くことなく、タイヤ技術は19世紀後半になるまでの30数年間、発展をみることはなかったという。


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〈ゴムタイヤの特許を取得したロバート・トムソン〉







 自転車レースの新聞記事を読んだハーベイ・デュクロに優れたアイデアがひらめいた 


19世紀後半に入って産業革命の恩恵によって繁栄を続けるイギリスに、ハーベイ・デュクロという事業家がいた。
デュクロは金になりそうな仕事なら何にでも手を出すというタイプの男で、工業化が進む中で開発される新技術に目を光らせ、それを使うニュービジネスで事業を拡大することに夢中になっていた。

デュクロが新ビジネスに意欲的に取り組むのには、もうひとつ理由があった。
デュクロ夫妻は仲がよく、愛の結晶の子供が次から次に生まれ、とうとう6人になってしまったが、どういうわけか男の子しか生まれなかった。
この男の子たちに自分のビジネスを引き継いでもらうことがデュクロの夢であり、兄弟仲良く過ごすためには、どうしても6つの異なる事業分野で、仕事の基盤を確立しなくてはならないと思っていた。

デュクロが最も関心を持っていたのは自転車ビジネスである。
オーディナリー型自転車が開発されて、急速に大衆レベルに普及する時代にあって、放漫経営で行き詰まった小さな自転車会社を手に入れ、これに“デュクロ”のブランドを付けて売り出した。

だが実際やってみると自転車ビジネスは競争が熾烈で、先行しているローヴァーやヒルマンなどに販売競争で負けてばかりいて、ちっとも思うようにいかなかった。
このままでは、自転車ビジネスはものにならない。
どうしたら苦境を脱することができるか日夜腐心している時に、自転車のスピード競技会を見る機会があり、ここで数多くの観客が自転車の出すスピードに熱狂していることを知った。

翌朝、新聞を開いてみると、前日の自転車競技会の記事が大きく取り上げられていて、「ローヴァーが連勝!」と大見出しが躍っていた。
これを見た瞬間にデュクロの頭の中で新しいアイデアがぴかっと点灯した。
「そうだ、スピード競争に勝つことだ。優勝すれば、新聞の見出しになり、デュクロの自転車は有名になれるのだ。うちには、6人の息子がいる。明日からレースに勝つための猛特訓だ!」

こうしてデュクロ6人兄弟による自転車のトレーニングが始まった。
当時のイギリスでは自転車競技は始まったばかりで選手層が薄く、デュクロ兄弟はたちまちのうちにレベルアップした。
何しろ、ひとつのレースに6人のデュクロが出場するのであるから、そのうちの誰かが優勝すれば「またまたデュクロ優勝!」という事態となり、デュクロブランドの自転車はまたたく間に有名になり、売れるようになってきた。




 デュクロ家6人兄弟による自転車チームは、現代の販売促進活動の先駆けとなった 


現代マーケティングの視点で、ハーベイ・デュクロ社長の行動を振り返ってみると、実に優れた販売促進プランを実行したことがよくわかる。

ここで“販売促進”という用語が本書で初めて登場する。
これはマーケティング学の基礎用語であり、営業や新商品開発活動などに携わる人ならば日常的に使っているが、技術部門の人々にとっては縁遠いので、この機会に販売促進とはどのようなことを意味するのかを説明しておこう。

マーケティングの実践に当って重要となるのは、“マーケティングの4P”をいかに効率的にミックスして、成果である売上と利益を極大化するかという点である。
ここでいう4Pとは、「製品政策(Product)」「価格政策(Price)」「販売促進政策(Promotion)」「流通チャネル政策(Place)」である。

このうち、製品政策は、「どんな商品を開発するか? あるいは現行商品をどのように改良するか?」という、ビジネスの基幹となる部分をいう。

価格政策は、「その商品に、どのような価格を設定するか?」がテーマである。
価格を高く設定し過ぎれば期待した数量は売れない。
一方、安く設定すれば売れるかもしれないが、会社に利益をもたらさない。

流通チャネル政策の“チャネル”とは、流通経路のことをいう。
いくら魅力的な商品を開発しても、適切な流通経路がなければ商品は顧客に届けられない。
そこで、「どんなチャネルを使って商品を販売するか?」が重要となる。

さて、本題の販売促進である。
これは、会社が商品(またはサービス)を顧客に提供するために欠かせない一連の活動を表し、英語表現では“プロモーション”となるが、現代日本ではこちらの方が一般的である。

販売促進活動の基本は、買い手の立場にたち、顧客が関心を抱いている問題を解決して、商品(またはサービス)を購買したくなるように働きかけることにある。
販売促進の手段としては、マスコミ(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など)を使った宣伝活動、新聞記事になって情報提供することなど公のメディアを活用するPR(Public Relationsの略)活動、カタログやダイレクトメールなどの特定個人向け活動、店頭での試食や試用などの人的サービス提供活動、サンプル配布などの物品提供活動、取引業者への金銭の提供活動、顧客の組織化活動などがある。

ハーベイ・デュクロが考えたのは、宣伝活動とPR活動であった。
ラジオやテレビはなかったので、人々が集まる自転車レース場で、デュクロのロゴマークを大きく描いた競技服を息子たちに着せた。
これによって観客は意識しないうちにデュクロを知ることになるし、競技の結果が新聞で取り上げられるので、優勝すれば“デュクロ優勝”と大きな活字で報道されることになり、絶大なPR効果を発揮したのである。

(「13話」はここまで。「14話〔前編〕」は7月3日(火)に掲載。)