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28話.パナール&ルヴァソールの先行〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ:1856年生まれ。車に挑戦したフランス人。
■ルネ・パナール:1841年生まれ。ペラン・パナール社を経営するフランス人技術者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。ルネ・パナールと手を組むフランス人技術者。
■エドワール・サラザン:1855年頃生まれ。ベルギー人の弁護士でG.ダイムラーの知人。
■ルイーズ・サラザン:1858年頃生まれ。フランス人でエドワール・サラザンの妻。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ドイツにあるダイムラーエンジン社の社長。


 パナールとルヴァソールの友人ピエール・サラザンはダイムラー社長を紹介した 


ガソリンエンジンを開発しようとして、適切なパートナーを探していたルネ・パナールとエミール・ルヴァソールは、自分たちの友人であるエドワール・サラザンに相談を持ちかけた。
「サラザンさん。私たちは蒸気機関ビジネスで成功を収めてきましたが、20世紀はガソリンエンジンの時代だと見ています。残念なことに自分たちは、ガソリンエンジンのことはからっきしわかりません。サラザンさんは交友範囲が広いので、優秀な方をご存じないでしょうか」

「そうですか。私は技術のことは門外漢でよくわかりませんが、ガソリンエンジン技術だったらドイツのゴットリープ・ダイムラーさんが一番だと思いますよ。ダイムラーさんなら、ここ数年親しくお付き合いをしていますので、ご紹介しましょうか」

サラザンの返事を得て、2人はこのドイツ人に強い関心を持つこととなった。


Sarazin,Edouard第一巻028話
〈ドイツとフランスの橋渡し役:エドワール・サラザン〉





パナールとルヴァソールの直面したガソリンエンジン開発問題の解決に一肌脱ごうと思ったサラザンは、その一方でこの話を自分のビジネスに取り込むことを考えた。
そして、ドイツに赴きゴットリープ・ダイムラーに会って、「フランスでのダイムラーエンジン現地生産化には大きなビジネスチャンスがあるので、この営業代理権を自分に与えるよう」、熱心に要請したのである。

最初は、フランスがドイツと政治的に不仲の関係にあるので、ちゅうちょしたダイムラーであるが、やがてその熱意にうたれ、サラザンに自分の技術を供与することを決断した。

サラザンは、さっそくパナールとルヴァソールを訪問し、自分が権利を得たいきさつを話したところ、喜んだ2人はダイムラー製エンジンを搭載する新しいガソリンエンジン車の開発に取り組みを開始したのである。


ところが、新しいビジネス関係がスタートしようという矢先に、エドワール・サラザンの急死という悲劇が襲い、せっかくの計画は頓挫する危機に直面した。

この危機を救ったのが、エドワール・サラザンの妻ルイーズであって、けなげにも夫の後任として、仕事を引き継ぐ決意を固めるのである。
ルイーズが事実関係を調べてみると、エドワールとゴットリープ・ダイムラーの間には口頭での約束はあったが、文書化された契約は何もないという事実が浮かび上がってきた。

エドワールの葬儀を終えると間もなく、ルイーズはカンスタットのダイムラー本社に赴きゴットリープ・ダイムラー社長を訪問して、フランスでの営業代理権取得に関する交渉に臨むことになったのである。


Sarazin,Louise第一巻028話
〈夫の仕事を継いだルイーズ・サラザン>








 夫の意志を継いだルイーズ・サラザンの英知と美貌がフランス自動車界に貢献した 


ルイーズは、この難局を乗り切るには誠意ある態度を示すことしかないと思って、この仕事を自分に任せてくれるよう懇請を繰り返した。
ダイムラーは、ルイーズの熱情とその魅力に負けて、彼女にフランスとベルギーでのダイムラーエンジンの営業代理権を与えることに同意したのである。

交渉を終えて一刻も早く仕事が進むようにと、ダイムラーの新型エンジン1基を旅行荷物として梱包し、ルイーズは国際急行列車に乗って帰国の途についた。
ところが、パリに向かう国境での手荷物検査で、梱包した荷物が税関検査員の目に留まってしまった。
危うく旅行荷物を開封されエンジンが没収されるところであったが、列車のコンパートメントでルイーズと談笑していたフランス人政治家が税関員に声をかけてくれたおかげで、ルイーズは間一髪、窮状から脱出することができたのである。

こうして無事パリに運ばれた新型エンジンは、パナールとルヴァソールの手に引き渡された。
2人は徹底的にエンジンを分解してみて、ダイムラー製エンジンの優秀性を真に理解した。
そして、これを使って自動車をつくるという判断の正しさを、改めて認識したのである。


新しい自動車づくりは、エンジンを得てからは急ピッチに進み、ガソリンエンジンをクルマの中央に搭載するパナール&ルヴァソール社としての1号車が1890年2月に完成することになった。

しかし完成した1号車は走行試験を重ねると、安定性に問題があることがわかった。
そこで、より走行安定性を高めるために、車両の構造のあり方にメスを入れる必要性を痛感した。
その結果、エンジンを最前部に置いて、クラッチ、ギアボックス、ファイナルドライブという順にレイアウトして、エンジンの回転力を後輪に伝え、この力で後輪を駆動するという、フロントエンジン・リアドライブ(FR)構造の原型となる方式が採用された。

この方式は、後に“システム・パナール”と呼ばれ駆動方式の標準になるが、2人にとっては一所懸命クルマづくりに取り組んだだけで、自分たちが歴史に名を残すような大きな仕事をしたという認識はまったくなかったのである。

(「28話」はここまで。「29話」は来週火曜日に登場。)


panhard-levassor1上028話
〈“パナール&ルヴァソール”のブランドマーク>




28話.パナール&ルヴァソールの先行〔前編〕

《 主な登場人物 》
■エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ:1856年生まれ。車に挑戦したフランス人。
■ルネ・パナール:1841年生まれ。ペラン・パナール社を経営するフランス人技術者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。ルネ・パナールと手を組むフランス人技術者。
■エドワール・サラザン:1855年頃生まれ。ベルギー人の弁護士でG.ダイムラーの知人。
■ルイーズ・サラザン:1858年頃生まれ。フランス人でエドワール・サラザンの妻。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ドイツにあるダイムラーエンジン社の社長。


 ドゥブドヴィーユが世界初となるガソリンエンジン車をつくったという記録が残っている 


産業革命によって、世界をリードしたのはイギリスであった。
そのイギリスに続いて、フランスが工業国の仲間入りをし、さらに統一を果たしたドイツが続くことになった。

一方、ガソリンエンジン車の発展の歴史を見ると、世界で最初に実用化に成功したのはゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツを生み出したドイツであるが、ドイツで開発されたガソリンエンジン車は、フランスで発達することになった。
そして、フランスの影響を受けたイギリスが3大国では最後になるというように、産業革命の誕生とその影響の流れとはまったく逆になったのは、何という皮肉であろう。


ドイツでのガソリンエンジン車誕生の話に続いて、これからフランスでのガソリンエンジン車の誕生と発展の物語を始めることにする。

この時代、ヨーロッパで最も道路整備が進んでいた国はフランスであった。
フランスは、馬車交通網が既にできあがっていたので、鉄道に対する関心はあったものの、イギリスのように急速に全国レベルで鉄道建設が進んだわけではない。
むしろ、19世紀末に誕生した自動車に対する関心の強さは他のヨーロッパ人にはないもので、道路を自由に動き回ることができる乗り物に対する期待は高まっていた。

フランスのルーアン郊外で織物業を営んでいたエドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユという、とてつもなく長い名前の男が、1883年に排気量4.4リッターで2気筒の2ストロークエンジンの開発に挑戦した。

その記録によると、期待どおりにはエンジンは動かなかったという。
翌年ドゥブドヴィーユは、石炭ガスを燃料とするエンジンを開発し、馬車を改造したボディにエンジンを載せて試走に成功したことになっているが、この話が本当であるという証拠は今のところ見出されていないようだ。

しかし、ドイツのダイムラーやベンツに先立つ1884年2月に、電気スパーク点火装置、キャブレター、ラジエターなどを備えたエンジンと、最低限の装置を備えた乗り物に関する特許をドゥブドヴィーユがフランス特許局に申請したという記録が残されている。

それゆえに、フランス人の中にはドゥブドヴィーユをガソリンエンジン車の第1号とみなす人もいるが、現在ではフランス以外の国の自動車人はドゥブドヴィーユをガソリンエンジン車のパイオニアとは認めていないようだ。


Deboutteville,Delamare第一巻028話
〈エドワール・ドラマール・ドゥブドヴィーユ〉








 ルネ・パナールとエミール・ルヴァソールは、力を合わせて自動車メーカーをつくった 


蒸気自動車の全盛期を迎えていたこの時代、フランスにおいてガソリンエンジンで自動車を動かそうと真剣に考えたのは、ドゥブドヴィーユだけではなかった。
ルネ・パナールとその友人のエミール・ルヴァソールという2人の男も、これからはガソリンエンジン車の時代が来るかもしれないと予感していた。

ここで、2人の会社であるパナール&ルヴァソール社に関して、会社設立の経緯を簡単に説明しておこう。
1841年生まれのルネ・パナールは、若い時にペラン社という木工機械の会社に就職した。
技術者としてだんだんと頭角を現したパナールは、やがてこの会社の共同経営者となり、会社名はペラン・パナール社に変わることになった。
その後、パナールの友人で3歳若いエミール・ルヴァソールが経営に加わることによって、会社名はパナール&ルヴァソール社となった。

パナールとルヴァソールが手を結ぶことになった頃、木工機械をメインビジネスにしていた会社は金属機械会社への転身を図った。
そして、定置用蒸気機関を製作したところ、その高性能ぶりで評判を得るようになった。

しかし世の中の動きを見ると、10数年後にやってくる20世紀は蒸気機関ではなくガソリンエンジンの時代に違いないと考えるようになったものの、蒸気機関を専門としていたので、まったく異なる技術基盤にあるガソリンエンジンを開発することは容易ではなかった。

パリの街でドイツ製ガソリンエンジン車が走るのを見かけることが多くなってきて、ルヴァソールから「自分たちもガソリンエンジン車をつくろう」という提案がなされたら、技術者としてプライドが高いパナールに強いインパクトをもたらし、今まで蓄積してきた機械技術の全てを動員して、自動車のメカニズムの研究に取り組みを始めるのであった。

時間はかかったが、パナールの尽力によってクルマの基本構造である舵取り装置は何とかできあがり、ボディを完成させる目途はだんだん立ってきたが、肝心要のガソリンエンジンに関しては、技術的な問題点が多く、開発の見通しが立たない状態が続いていた。


Panhard,Rene第一巻028話
〈ルヴァソールとコンビを組んだルネ・パナール〉





一方、これに先立つ数年前のこと、ドイツ社のニコラス・オットーは、フランスでの4ストロークエンジンの特許トラブルに関して、パリ在住ベルギー人のエドワール・サラザン弁護士に問題解決を依頼した。

この時オットーの代理人としてサラザンと打ち合わせを重ねたのがドイツ社の技師長をしていたゴットリープ・ダイムラーであった。
それ以来、2人は大の仲良しになり、どんなことでも話し合える関係ができていた。

(「28話」は金曜日に続く)


27話.ヴェロで躍進するベンツ社〔後編〕

《 主な登場人物 》
■カール・ベンツ:1844年生まれ。自動車メーカーとして着実に前進するベンツ社社長。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ベンツ社を追走するダイムラー社社長。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。ダイムラー社で社長をサポートする技師長。
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。ダイムラー車の商権を狙うイギリス人。


 スピード規制の出現で小型化したヴェロは、ベンツ社として初のヒット商品となった 


ところが「好事魔多し」という言葉があるように、苦労してつくりあげた自動車が売れ始めたところに、当局から思わぬ連絡が入った。

「自動車の走行スピードは、都市部は時速6キロ、郊外では12キロ以下で走行すること。また、他の自動車や馬車に出会ったら、必ず速度を下げること」という指図書がベンツ社に届いたのである。これにカール・ベンツはびびってしまった。

こうなると、もっと小さいクルマをつくらなくてはいけないかと思って、ヴィクトリアより小さい排気量1.1リッターで1.5HP出力のエンジンを搭載した“ヴェロ”が1894年にベンツの3号モデルとして開発された。


027話ベンツ・ヴェロ
〈ベンツ/ヴェロ〉後期スチールホイール車




このクルマは2人乗りに徹した構造を採用した。
前輪の径を後輪より小さくして、ヴィクトリアの欠点である前面視界不良を改善した。タイヤは軽量のメリットを追及して自転車用のワイヤーホイールが採用されたが、後に強度のあるスチールホイールに変更されることになる。
このクルマの変速装置は、最初の頃は2速であったが、やがて3速になり中間軸にプラネタリー・ギアが使われた。

馬車でもなく、自転車にも似ていないコンセプトをうまく表現したヴェロは、ヴィクトリアが4千マルクの値札が付いていたのに対して、半額の2千マルクという安い価格が設定された。
販売が開始されると、カール・ベンツ自身が驚くほどの反響が起こり、ベンツ社として初めてのヒット商品となったのである。


benz1上027話
“ベンツ”のブランドマーク



1893年に発表した4人乗りのヴィクトリアで市場の評価を獲得し、翌年2人乗りのヴェロでヒットをとばすというように、ベンツ社の乗用車ビジネスは順調な売上の拡大が続き、19世紀末のヨーロッパはガソリンエンジン車ブームの様相を呈してきた。

そんな時にシュツットガルトで乗合馬車を経営している実業家がいた。
坂の多いシュツットガルトの街には、馬車では行けない所があって、このような細い道でも通ることができる新型自動車のヴェロに着目した。
そして、このクルマをタクシーとして活用しようと考えたのだ。
こうして、1896年3月にシュツットガルトの街を史上初の“タクシー”として、2台のヴェロが走り出したのである。




 C.ベンツとG..ダイムラーは自転車型から始め、馬車型を経てクルマ型を完成させた 


世界で最初にガソリンエンジン車を開発したのはカール・ベンツであるが、1895年までにベンツが開発に携わってきたモデルを整理してみると以下のようになる。
  1号モデル(1886年)ガスモトールワーゲン/自転車型の3輪車
  2号モデル(1893年)ヴィクトリア/馬車型の4輪車
  3号モデル(1894年)ヴェロ/クルマ型の4輪車

一方、ゴットリープ・ダイムラーが開発したモデルは以下のようになる。
  1号モデル(1885年)ライトワーゲン/オートバイ型の2輪車
  2号モデル(1886年)馬車型の4輪車
  3号モデル(1889年)シュタールラートワーゲン/自転車型の4輪車
  4号モデル(1893年)リーメンワーゲン/クルマ型の4輪車

このように整理してみると、カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーは共通した開発プロセスをたどっていることが理解できると思う。

その共通点の第一は、ベンツは3輪車、ダイムラーは2輪車と乗り物としての形態は異なるものの、ガソリンエンジン車の1号モデルはともに、自転車をベースに置いた小型車の設計がなされているという点である。
ダイムラーの1号車は現代のオートバイの形態をとったが、オートバイそのものの存在が知られていない時代に、見も知らぬ乗り物に関心を示す酔狂な顧客は1人もいなかった。
ベンツの1号モデルも似たようなもので、エンジンが付いただけの3輪自転車に付いている値札を見て、普通の自転車の何十倍もする価格に驚くばかりで、買ってみようという物好きはほとんどいなかった。
結果を見ると、どちらの1号モデルも評判を得ることはできなかったのだ。

ベンツ車とダイムラー車の新車開発プロセスにおける共通点の第二は、自転車ベースの1号モデルの次に、2号モデルとして、馬車のイメージを取り込んだ4輪車を開発したことである。
カール・ベンツもゴットリープ・ダイムラーも根っからの技術者であり、『最初に技術ありき』の発想でつくった1号モデルが極めて不評で、新聞の論評の中には、馬車で親しんだ豪華なイメージがひとつもない乗り物という酷評もあったようだ。
そこで、これらの意見を受け入れ、高い値段を納得してもらうために馬車のコンセプトを取り入れた新型車を開発することにしたが、実際に馬車型自動車が完成したら評判が良くなったというわけではなかった。
いくらがんばってみても、生まれたばかりの自動車が本物の馬車に勝てるわけではなく、馬車型自動車は一種のカタワであり、やはり受け入れられなかったのである。

こうして、自転車型の1号モデル、馬車型の2号モデルという経験を経て、次に自動車のあるべき姿を創造したとことが、ベンツとダイムラーに共通する第三のポイントである。
ベンツの場合は、3号モデルとなったのがヴェロ(1894年発表)であり、自動車として適度な大きさと、自転車と馬車のどちらにも似ていない形態ができあがった。
ダイムラーの場合は少し違って、3号モデルの自転車型(シュタールラートワーゲン)を経て、4号モデルとしてリーメンワーゲンを1893年に発表したが、このクルマで自動車のあるべきサイズとデザインに到達したのである。

(「27話」はここまで。28話は来週の火曜日に登場。)


27話.ヴェロで躍進するベンツ社〔前編〕

《 主な登場人物 》
■カール・ベンツ:1844年生まれ。自動車メーカーとして着実に前進するベンツ社社長。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。ベンツ社を追走するダイムラー社社長。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。ダイムラー社で社長をサポートする技師長。
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。ダイムラー車の商権を狙うイギリス人。


 地球上で最初のカーガイのW.マイバッハは自動車の基本機能のあり方を考えた 


世界中の自動車会社の経営者は、経営のスペシャリストとして会社をマネジメントする“事業家”タイプと、自動車が好きで好きでたまらなく、オリジナリティあふれる高性能車をつくりたいという“カーガイ”タイプに区分される。

ガソリンエンジン車の誕生以来、最初のカーガイといえる人物は、ウィルヘルム・マイバッハではなかろうか。
マイバッハは、自動車という機械の性能を高めることが、自らの使命であると信じて疑わなかった。
そして、そのために昼夜を分かたず自分の持つエネルギーの全てをつぎ込んだ。

マイバッハは、「自動車とはエンジンと車体がまとまって、ひとつの有機体として機能するもの」という考えを持つようになっていて、“走る、曲がる、止まる”という自動車の基本機能を構成する各種装置のあり方について、ひとつひとつ問題解決に熱心に取り組んだ。
この考えに対して、ゴットリープ・ダイムラーは自動車全体を考えるというより生粋のエンジン技術者であって、どうしたら効率の良いエンジンを開発できるかという1点に興味があって、エンジン以外の自動車部品のあり方に関心を示すことは少なかったという。


新車開発プランが上程された役員会で、出席役員たちの謀略によって自分が設立したダイムラー社を追われたゴットリープ・ダイムラーは、マイバッハとともに再び研究生活に入ることになった。
この時代は2人にとって最高に充実した時であって、混合気をエンジンに送るためのフロート式キャブレターや、ハニカム(蜂の巣)式ラジエター、更にはこれらを装着した“フェニックスエンジン”を完成させるのである。


2人が研究一途な生活を過ごしている間、ゴットリープ・ダイムラーなきダイムラー社では、リーダー不在で大混乱が発生していた。
これを早く収束させなくてはと関係者は解決策を模索するが、決め手に欠けてモタモタしている間に、フレデリック・シムズというイギリス人ジャーナリストが現れた。
シムズはダイムラーのエンジン技術力を高く評価して、イギリス人である自分にイギリス国内での製造ライセンスを与えて欲しいと懇請を重ねていた人物である。
シムズは、ダイムラー社の社内抗争を早く解決しないと、せっかく自分が見つけたビジネスチャンスが逃げてしまわないかと心配して、調停に乗り出した。
調停人が同国人であると、論点が際立ってなかなかまとまらないことが多いが、外国人が間に入ることによってダイムラー社の社内抗争は解決し、ダイムラーとマイバッハはそろってダイムラー社に戻ることになったのである。


そして、ガソリンエンジンを搭載する乗り物としてオートバイ型1号モデル、馬車型2号モデル、3号モデルのシュタールラートワーゲンに続く、ダイムラー車としての4号モデルとなる“リーメンワーゲン”の開発に邁進することになった。

このモデルは、2号モデルが馬車型自動車であったと同じように、エンジンを中央部に置くというレイアウトと、向かい合せ乗車座席(ビザビ型という)が採用されたが、車両重量は500キロというように軽くできていた。
さらにこのクルマは、動力伝達にベルトドライブ方式が取り入れられ、ステアリングは垂直棒に取り付けらられた丸ハンドルを操作するという新方式によって運転がしやすくなった。(ちなみに、リーメンワーゲンはベルトドライブ車の意味である。)


027話ダイミラー・リーメンワーゲン1893
〈ダイムラー/リーメンワーゲン〉





V型に配置された水冷方式の2気筒エンジンは、排気量が1リッターと1.5リッターの2種類あり、それぞれ3.7HPと4.5HPという出力になっていた。
これらのエンジンには、マイバッハが開発した気化器を始めとした数々の新技術が採用されていた。




 ベンツ社は1号車の反省を踏まえて、次は馬車の形をしたヴィクトリアを開発した 


1886年春にカール・ベンツによって完成された世界で最初のガソリンエンジン搭載の3輪自動車は、1888年の夏には妻のベルタが、フォルツハイムまでドライブするまでに性能は向上したが、人々の評価は定まらず、いっこうに売れるようにはならなかった。

ベンツは4輪構造のステアリング装置の開発の目途がつかなかったため、とりあえず自転車方式を採用したのであって、3輪車では魅力的なクルマに仕立てるのが難しいことは充分知っていたので、いよいよ本格的に4輪のステアリング装置の開発に取りかかった。

少し時間はかかったが、1892年にはキングピン方式の前輪舵取り装置が世界で最初に開発された。
これは特許を取得した優れものの技術であり、この機構によって4輪車はうまくカーブを切れるようになった。

こうして4輪のステアリング装置は完成したが、次はエンジンのパワーアップである。
ホルヒ青年からショッキングな意見を直接受けた後、訪れたガンス部長からパワーアップの要請を受けていたベンツはじっくり腰をすえて、この問題に取り組んだ。
3輪車の時のエンジンは1リッターに満たない排気量であったものを、一気に3倍近くアップして、水冷方式で排気量2.9リッターの出力3HP単気筒エンジンを開発し、これを水平に設置することにした。
キャブレターは表面式から、浮き輪により自動的にガソリン液面が一定に保たれるフロート式に変更された。


27話ベンツ ヴィクトリア1893
〈ベンツ/ヴィクトリア〉





こうしてベンツ社としての最初の4輪自動車となる2号モデルは、勝利の女神の意味を持つ“ヴィクトリア”という車名を付けられて、1893年に完成をみたのである。
フランスのド・ディオン社の蒸気自動車の名前もヴィクトリアであったが、この時代の人々の発想が一致したことによる偶然であろう。

最初の3輪車が、それまで慣れ親しまれていた馬車のイメージがなかったため評判を得ることができなかった反省から、ヴィクトリアは馬車イメージを大切にした設計がなされ、通常の2座車両のほかに2名ずつの対面座席のビザビ型車両も製作された。
このクルマに4千マルクの売値を付けて売り出したところ、市場から高い評価を得ることができ、ベンツ車はようやく売れるようになってきたのである。

(「26話」は金曜日に続く)


26話.ダイムラー社の混乱〔後編〕

《 26話の主な登場人物 》
■ウィルヘルム二世:1859年生まれ。ドイツ帝国の第三代皇帝に就いた若者。
■ゴットリープ・ダイムラー:1834年生まれ。新車開発に取り組むダイムラー社社長。
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。社長をサポートするダイムラー社技師長。


 短期収益を重視する資本家と長期視点に立つG.ダイムラーとの間で論争が起こった 


daimler1上026話
〈“ダイムラー”のブランドマーク〉

1890年になると、カンスタットの地でゴットリープ・ダイムラーは自動車ビジネスを推進するために、出資者とともにダイムラー社を設立した。

ダイムラー社がスタートした頃はダイムラーと資本家の仲に波風が立つことはなかったが、投資した資金の短期回収を期待する資本家と純粋に自動車開発に熱中するダイムラーとの間に、徐々に大きな溝ができ、やがてこの溝は埋めることが難しくなってきた。


1893年のある日、2カ月に1回の予定で開催されているダイムラー社の経営方針を審議する定例の役員会が始まった。
この日の議題は新車開発計画であり、ウィルヘルム・マイバッハがダイムラー社長に代わって説明する大役を担っていた。
20分という限られた時間内に予定された項目の説明を完了したマイバッハは、書記席の隣に用意された説明者席に戻ることになった。

議長であり、技術陣のリーダーであるダイムラー社長が、マイバッハの説明の後に、念を押すように口添えした。
「役員の皆さん。先ほど来、マイバッハ君の説明にあるように、技術が日進月歩する自動車メーカーにおいては、新型車を開発しないと競争に負けてしまいます。だから、これからも新車開発にお金をかけなければなりません。その点を理解いただき、意見をお聞きした後に評決に移りたいと思います」

マイバッハが説明者として今までに参加した役員会では、役員間で議論が発生することはないわけではなかった。
ところが、この日はいつもと違う緊張感が漂っていた。
いったいどうしたのだろうとマイバッハが思い巡らしていたその時である。

「議長!」
挙手とともに大声で発言を求めたのは、経理部門を統括する役員であった。
「ただ今のダイムラー社長の見解に対して、私の意見は異なることをはっきり申し上げます。この会社の現在の利益配当の利回りは、銀行預金以下です。私は当社の金庫番という責任を担っておりまして、既にダイムラー社長には直接話をさせていただきましたが、現在以上の利益率を実現しないと投資をしていただいた株主の皆様の申し訳が立ちません。既にこの解決策として、膨張を続ける新車開発費の大幅削減を提案させていただきましたが、その時はまことに残念ながら社長に拒否をされてしまいました。そうしたら本日の役員会で、新車開発の議案が上程されており、私が申した意見は無視され、ダイムラー社長はこれを強引に可決させようと考えているようです」

これを聞いたダイムラー社長は怒りがこみ上げ、発言者をねじ伏せるかのようにむきになっていた。
「君は何を言うのか! 魅力的な新車を開発しなければ、競争に負けてしまい、会社は成り立たなくなるのがわからないのか!」

この反応を捕らえた経理担当役員は、待ってましたとばかりに反論に移った。
「私は社長の脅しには屈しません。私たちは自動車会社を経営していますが、自動車会社であろうと、他の業種の会社であろうと、投資する限り目的はひとつです。それは、投資した資金を高い利回りで運用することです。これが実現できなければ、この会社に投資するのでなく、銀行に預けておいた方がいいじゃないですか」




 ダイムラー社長の追放に成功したダイムラー社には自動車技術者がいなくなった 


説明者席で傍聴していたマイバッハは、この役員の発言が“私”から“私たち”に変化したのを聞き逃さなかった。
そこで、臨席している役員たちの顔を見回してみると、彼らはいちように不安な表情を浮かべ、ことの成り行きを見守っていた。
この瞬間に、マイバッハは、今回の役員会で新車開発計画を破棄すべく彼らは何度も打ち合わせを重ねきたのではと疑いを持ち始めた。

経理担当役員のダイムラーへの反対意見はさらに熱を帯びてきた。
「私たちは資本の論理を言っているだけです。私たちの意見は、極めて簡単で、当社は新車開発を全て凍結して、現在販売中のクルマを継続生産するというものです。そうすれば、投資した資金の早期回収が実現します」

「何を馬鹿なことを言っているんだ。新車開発をしなければ、この会社を設立した意味がなくなってしまう。君はそんなこともわからないのか」
怒り心頭に発して、経理担当役員をどやしつけたダイムラーは、その一方で孤立無援になりつつあった。
ことの成り行きを見つめていたマイバッハは、いったいこの先どうなるのかと恐怖心を抱くようになってきた。

一方、ここまでの流れで経理担当役員は勝利を確信し、ダイムラーの糾弾を続けた。
「ダイムラー社長にあえて申し上げます。あなたは優秀な技術者であることは私も認めますが、はっきり申し上げると、経営のことがまったくわかっておりません。いつまでも常識はずれの意見を続けていますと、会社経営者として失格しますぞ」
社長に対して口に出すことがはばかられる言葉をいい放ったのである。

この段階にきてダイムラーは、役員たちが示し合わせて今日の会議に臨み、社長の椅子から自分を追い落とすという明確な意図を持っていることにようやく気がついた。

ダイムラーは会議に出席している役員全員を睨みつけて、呻いた。
「貴様たち、謀ったな!」
ダイムラーは、すぐさま席を蹴って役員会を退席したのである。


これ以降、ダイムラー社長は会社に出ることはなくなった。
この状況を受けた役員たちは、すぐに臨時役員会を開催し、ダイムラー社長を解任した。

ダイムラー社長の退任を受けて、マイバッハが退社届けを提出したことは、役員たちの計算外のできごとであった。
これで自動車技術の専門家がいなくなったダイムラー社は自動車メーカーとして成り立たなくなってしまったが、この時点では事態の深刻さを真にわかっている役員はいなかった。

ダイムラー社を離れた2人は、ガソリンエンジン車の技術開発活動に集中するために、自分たちだけで再び研究所生活に戻ることになったのである。

(「26話」はここまで。27話は来週の火曜日に続く。)