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36話.イギリスでのデイムラー〔後編〕

《 36話の主な登場人物 》
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。G.ダイムラーと接点を持ったジャーナリスト。
■ハリー・ローソン:1863年生まれ。自動車事業に野望を抱くイギリス人事業家。


 F.シムズからダイムラー社の商権を譲渡されたH.ローソンはデイムラー社を創業した 


イギリス人のジャーナリストのフレデリック・シムズを中心とした赤旗法の改正運動は着実に成果をあげ、1896年が始まる頃には、改正案が上程されるという情報をキャッチした。
シムズはこのタイミングを逃さなかった。
すぐにドイツに渡り、再びダイムラー社に対してイギリスに進出するチャンス到来を告げたところ、イギリスに足がかりを持っていないダイムラー社は、シムズの提案を受け入れることにした。

こうして順調に仕事が進むかに見えたシムズであるが、自動車雑誌の仕事が忙しくて、どうしても時間が取れなくなってしまった。
そこで、ダイムラーエンジンにかかわる権利の全てを、ブリティッシュ・モーターシンジケートという組織をつくって自動車に並々ならぬ関心を示しているハリー・ローソンというやり手のビジネスマンに譲渡してしまうのである。


Lawson,Harry①第一巻036話
〈野心家のハリー・ローソン〉




この頃のローソンは旺盛な事業欲によって、あちこちの会社のM&Aを進めていた。(M&Aは、英語で合併を意味するMergerと買収を意味するAcquisitionからきているビジネス用語である。)
M&A戦略によって急速に巨大化したローソンの企業群は、人々から“ローソン帝国”とやゆして呼ばれるようになっていた。

ダイムラーエンジンに関する権利を入手したローソンは、ダイムラー社と話を詰めて、1896年1月にイギリス法人のデイムラー社を設立して、本格的な自動車メーカーを目指して新会社をスタートさせた。

ここで、デイムラーと発音されたのはドイツ語のダイムラー(Daimler)のつづりを英語読みしたものであって、ダイムラーとデイムラーは当然のことながら同じ起源である。


daimler-england1下036話
〈“デイムラー”のブランドマーク〉




 赤旗法廃止に訴えたフレデリック・」シムズの努力が報われ悪夢の31年間が終結した 


会社設立とともにコベントリーにある紡績工場の跡地を購入し、ドイツから輸入したダイムラー車に“デイムラー”のプレートを付けるだけというビジネスが始まることになった。

ローソン帝国が取り扱うのはデイムラー車ばかりではなかった。
ローソンはダイムラー社への100%依存を回避するために、もうひとつの自動車メーカーとしてモーター・マニファクチュアリング・カンパニー(以下、M.M.C.社と略)という会社を設立していた。
こうしてローソン帝国は、国内技術のM.M.C.社とドイツ技術のデイムラー社の2本立てとなった上に、アメリカ人発明家のペニントンが開発した新型エンジンの特許使用権をも入手していたので、デイムラーは、ローソン帝国の一翼を担うひとつのブランドに過ぎなかった。


自動車ジャーナリストとして、イギリスの自動車産業振興の旗振り役を買って出たフレデリック・シムズは、ヨーロッパ大陸で自動車がどのように発展しているかを、多くのイギリス人に目の当たりに見てもらいたいと考えた。
そして、世界では初めてとなるモーターショーを、1896年5月にロンドン商工会議所において開催すべく努力を重ねてきた。

このモーターショーでは、ドイツのダイムラー車が展示され、後にエドワード七世となるイギリス皇太子が試乗して、たいへんな話題になった。
こうした具体的なアクションを通して、シムズは赤旗法にこだわることがいかに間違っているかを、大衆に強く訴え続けたのである。

シムズの努力も大いに貢献することによって、人々の意識にも少しずつ変化が訪れて、法制化してから31年ぶりとなる1896年11月に赤旗法の改正案が議会を通過して、イギリスの自動車産業はようやく動き始めるのであった。

(「36話」はここまで。「37話」は来週の火曜日に掲載。)


36話.イギリスでのデイムラー〔前編〕

《 36話の主な登場人物 》
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。G.ダイムラーと接点を持ったジャーナリスト。
■ハリー・ローソン:1863年生まれ。自動車事業に野望を抱くイギリス人事業家。


 イギリス人のF.シムズはダイムラーエンジンに惚れこんでG.ダイムラーに接近した 


近代文明に万国博覧会が果たした役割がいかに大きいかは、既に何度も本ブログで語られている。
1851年のロンドン万国博覧会以降、パリをはじめとしたヨーロッパの主要都市では万国博覧会が幾度となく催され、多くの来場者を魅了した。

ドイツのブレーメンで1889年に開催された博覧会にも多くのイギリス人が見学にやって来たが、その中にフレデリック・シムズという好奇心の塊のようなジャーナリスがいた。


Simms,Frederic第一巻036話
〈赤旗法撤廃に活躍したフレデリック・シムズ〉





近代科学技術に強い関心を持っているシムズは、この博覧会で展示してあるダイムラー製エンジンのできの良さに惚れこんだ。
このエンジンをイギリスに輸入することができれば、きっといい仕事ができるに違いないと確信を持ち、イギリスでの輸入権を自分にくれるようにゴットリープ・ダイムラーと交渉に入った。
そして、サンプルとしてこのエンジンをイギリスに送ってもらうように依頼した。

ロンドンを流れるテムズ川で小型船を借りうけて、イギリスに到着したダイムラーエンジンの船舶用エンジンとしての可能性を試してみたところ、シムズが想定していたよりはるかに高性能であり、実用性も高いことがよくわかった。

シムズはこの後も、ドイツのダイムラー社とは関係を持ち続けていた。
そうこうしているうちに、フランスのパナール&ルヴァソール社がダイムラー設計のガソリンエンジンのライセンス生産を始めたというニュースをキャッチして、いてもたってもいられなくなって、再びドイツに渡りダイムラー社を訪問するつもりであった。


この時、ゴットリープ・ダイムラーはダイムラー社の資本家たちとの衝突によって、ウィルヘルム・マイバッハともども会社を飛び出して研究生活に没頭していた。

ダイムラー社の経営者たちは、最初の頃は「すっきりした」と強がりをいっていたが、やがてダイムラーがいなくては、この会社は成立しないことに気がつき始めた。
2人に帰ってきてもらいたいと思うようになっていたが、自分たちではなかなか言い出せなかった。
この仲介の労をとったのがイギリス人のシムズであり、ダイムラーとマイバッハを説得して、2人はダイムラー社に復帰することになった。

かねてからダイムラー車の部品をイギリスに輸入して、これを組み立ててガソリンエンジン車を生産するビジネスの新会社を設立するプランをもっていたシムズは、この機会をとらえてイギリスでの製造販売権を取得したいとダイムラー社に再度申し込んだが、細部の問題で合意が形成されず、まとまることはなかった。




 赤旗法の早期撤廃運動を推進するF.シムズはイギリス人に自動車の啓蒙活動をした 


イギリスにおけるガソリンエンジン車の歴史を調べてみると、J.H.ナイトという人物が、3輪構造でベルト駆動の単気筒ガソリンエンジン車を、1895年に開発したという記録が残っているという。

この時代、イギリスにはヴィクトリア女王が1865年にサインした赤旗法が生き続けて、自動車を動かすためには、「常に自動車の前を赤い旗を持った人が歩いて、自動車が来ることを周りの人々に知らせなくてはならない」と規定していたので、ナイトは試作した自動車を走らせるのにたいへん苦労したようだ。
やっとの思いで完成したが、赤旗法の規制下では需要がまったくなく、ナイトの自動車ビジネスは商業ベースに乗ることはなかった。


本気になってイギリスで自動車ビジネスをスタートしようと考えていたシムズにも、赤旗法という難題が直面した。
「皆さん、こんな法律が存在したのでは、イギリスで自動車産業が発展することはありえません。赤旗法を改正しない限り、産業革命でせっかく先行したイギリス工業の優位さを保つことができなくなりますよ」と、シムズは必死で政治家たちに訴えた。

シムズのやり方は実に巧みで、多面的に自己主張を展開した。
そのひとつとして、自動車専門の雑誌『ザ・オートカー』を1895年に発刊して、ドイツやフランスなどヨーロッパ大陸の地ではガソリンエンジン車の人気が上昇していることを、イギリスの人々にも知ってもらおうとしたのである。

(「36話」は金曜日に続く)


35話.致命傷を負ったルヴァソール〔後編〕

《 35話の主な登場人物 》
■エミール・ドライエ:1850年頃の生まれ。ドライエ社の創業経営者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。パナール&ルヴァソール社の経営者。
■ルイーズ・ルヴァソール:1858年頃の生まれ。エミール・ルヴァソール夫人。
■アンドレ・ドスタング:1878年頃の生まれ。エミール・ルヴァソール運転車の助手。


 ルイーズ夫人の必死の看病もむなしく、E.ルヴァソールはこの世を去ることになった 


パリを出発したクルマの半分に満たない数が、艱難辛苦の果てに5日間かけて折り返し点のマルセイユにたどり着いて、しばし疲れをいやすことになり、必要最小限の修理も行われた。

この時点でのトップは、パナール&ルヴァソールのマヤドであり、ルヴァソールから運転を代わったドスタングは3位で折り返すことになった。

マルセイユからパリへの帰途についてからも、馬車に衝突したり、狂暴な牛におそわれてクルマを壊すなどの事故が相次いだが、前半に比べれば天候は順調で、各車とも何とかパリにたどり着くことができた。

パリ~マルセイユ間往復レースで優勝を飾ったのは、平均速度は25.3キロで走りきったマヤドが運転するパナール&ルヴァソールであった。
ルヴァソールから運転を代わることになったドスタングは4位でゴールインした。


転倒したクルマからほうり出されて負傷したルヴァソールは、ジラルドの配慮で、小さな村で治療を受けることになった。
ジラルドはすぐに会社に電報を打ち、事故によってルヴァソールがケガをしたことを知らせた。
この知らせを聞いて妻のルイーズは現地に駆けつけて、看病に当ることになったが、これからは決して夫を自動車レースに出場させないと、固く心に誓うのである。

村の医者の手によって応急措置を受けたルヴァソールは、本格的な治療をパリで受けることになったが、ルイーズの懸命な看護にもかかわらず元気を回復することないままに、54歳という働き盛りでこの世を去ってしまった。自動車史に残る英雄の悲しい死であった。




 パリ都市間レースとして初の往復国際レースが、アムステルダムとの間で開催された 


パリマルセイユ間レースの翌々年の1898年に、パリからオランダの首都アムステルダムまでの往復レースが開催されることになった。
このレースには、パリ警視庁のポシェ警部という実にいやらしい人物が登場する。


Pochet第一巻035話
〈パリ都市間レースに待ったをかけたポシェ警部〉





ポシェは、車両の走行を規制する昔からの条例をもちだし、全出走車を条例にてらしあわせて総点検をした。
そしてこんなに違反者が多いレースを許可することはできないと、主催者のACF(フランス自動車クラブ)に宣言したのだ。
それだけならともかく、各車が勝手にスタートするのを防ぐために、歩兵小隊を配置し、道路に2門の大砲をすえつけ、命令違反のクルマに砲火をあびせる構えをとったのである。
これに驚いたのは主催者のACFで、全ての出場車をポシェ警部の権限の及ばないパリ市の隣接地区に移動してもらい、そこからスタートを切ることになった。

このレースでは連勝中で無敗のパナール&ルヴァソールに対して、流線形をしていて“陸上の魚雷”を意味する〈ボレー/トルピヨール〉と名付けられた強敵がデビューした。


035話ボレー トルピヨール
空力ボデーが採用された〈ボレー/トルピヨール〉






このクルマは、蒸気自動車からガソリンエンジン車に転向したボレー二世のアイデアから生まれた。
ボレー二世は、何度もスピードレースに出場した経験から、より速い速度を出そうとするなら、ボディの空気抵抗をできるだけ減らすことが重要であることに気がついた。
そこで、アルミニウム部品を多用し、フロントとリヤを鋭くとがらし、空気の流れがスムースになるような形を採用し、リヤに置いた8HP出力の4気筒エンジンによって時速60キロを出すことができるという優れたクルマが完成したのである。

パリ~アムステルダム間レースの結果は、シャロンが運転するパナール&ルヴァソールがトップでゴールインし、チームメイトのジラルドが続いて、ワンツーフィニッシュとなった。
これらのクルマはパリ~アムステルダム問の特急列車の速度記録を破り、平均速度は33キロという当時としては驚異的なスピードであったという。

大きな注目をあびたトルピヨールの3台のうち、ボレー二世が運転するクルマは途中でレースを止めてしまったが、他のクルマは3位と6位に入賞した。
このレースの後、トルピヨールには注文が殺到して、わずか数週間で予約金の山ができたそうだ。

(「35話」はここまで。「36話」は来週火曜に掲載。)


35話.致命傷を負ったルヴァソール〔前編〕

《 35話の主な登場人物 》
■エミール・ドライエ:1850年頃の生まれ。ドライエ社の創業経営者。
■エミール・ルヴァソール:1844年生まれ。パナール&ルヴァソール社の経営者。
■ルイーズ・ルヴァソール:1858年頃の生まれ。エミール・ルヴァソール夫人。
■アンドレ・ドスタング:1878年頃の生まれ。エミール・ルヴァソール運転車の助手。


 今度のパリ都市間レースの目的地は、地中海に面した港町のマルセイユとなった 


イギリスで生まれた蒸気機関車は、フランスに渡り、次にドイツに伝わった。
乗り物産業として蒸気機関車に次いで誕生したガソリンエンジン車づくりはドイツが最初であったが、自動車の価値を大衆レベルで認め、自動車が人々の関心事になったのはヨーロッパではフランスが最初となった。

そうはいっても、実際に自動車を所有したり乗車できる人は限られるので、大衆は自動車が走るのを見て楽しむだけだが、19世紀末のパリ市民にとって、自動車レースは最高の娯楽イベントになっていた。

最初に実施された自動車レースは、ル・プティ・ジュルナル新聞社が運営した、パリから北東方面130キロの距離にあるルーアンへの走行会であった。
このイベントは、単に速く走るだけではなく、経済性、快適性、安全性などを総合的に評価しようとするものであった。

これで成功した新聞社は、1895年6月に本格的なスピードレースとしてパリ~ボルドー間往復1,200キロレースを企画したところ、蒸気自動車、電気自動車、ガソリンエンジン車が20台以上出場し、エミール・ルヴァソール運転のパナール&ルヴァソールがトップでゴールインした。
このレースによって、パリを始点とする都市間自動車レースの人気は沸騰して、次の企画に対する期待は高まるばかりとなっていた。

パリ~ボルドー間レースの翌年9月に開催されるレースの行く先は地中海に面したマルセイユとなった。
このレースでは運転者の負担を軽減するために1日当りの走行区間が厳しく規制され、10日間にわたるパリ~マルセイユ間往復レースが華々しく開催されることになった。

このレースでは、本レースの他に“ヴォワチュレットレース”という名前の小型車レースが併設されることになった。
このヴォワチュレットという言葉は、1895年にフランス人レオン・ボレーがつくった小型3輪車の車名として商標登録されたものであるが、しばらくするとこの名前は、小型軽量車の代名詞となっていた。

通常のレースではエンジン排気量の制限がないので大排気量車が有利になるのに対して、小型市販車だけのカテゴリーでスピードを競うというのがヴォワチュレットレースの主旨であり、初回のレース出場車はボレー車ばかりであった。




 パリ~マルセイユ間レースでの転倒事故によってルヴァソールは内臓を傷めた 


1896年のパリ~マルセイユ往復レースの本レースには、当時フランスで生産されているほとんどの自動車メーカーが出場することになった。
パナール&ルヴァソールは、このレースに備えて排気量3リッターで12HPを発揮する直列4気筒エンジン搭載のレース専用車を4台用意した。
リーダーで優勝候補筆頭なのがエミール・ルヴァソールであり、このクルマには助手兼メカニックとしてドスタングという若者が乗ることになった。
他の3台のドライバーとして、マヤド、シャロン、ジラルドが選ばれチームが編成された。
レースの2週間前から参戦メンバー全員が集って合宿訓練に入り、走行コースの勉強と攻略法を練り、練習を重ねていた。


Delahaye,Emile第一巻035話
〈ドライエ社を創業したエミール・ドライエ〉






エミール・ドライエによって創業されたばかりのドライエ社は、デビュー戦ともいえるこのレースに4台を出場させたが、このうち1台はドライエ自身が運転することになった。


delahaye1下35話
〈“ドライエ”のブランドマーク〉


もうひとつの注目車は、唯一の蒸気自動車として出場したアメデ・ボレー二世である。

いよいよスタートとなり、太陽がさんさんと輝く中で、全車がマルセイユを目指して走り始めた。
最初の日の午後3時を過ぎた頃から天候が激変し、激しい嵐に襲われた。
木々があちこちで吹き倒され、どしゃぶりの雨のために道路はすべりやすい泥沼と化してしまった。
出走車は強風に吹きつけられ、点火バーナーの火を吹き消されて動けなくなるクルマが続出した。
ボレー二世の運転する蒸気自動車は、倒れた木が正面から覆い被さってきてクルマはつぶされ、同乗していた助手ともども泥の中に埋まり、レース放棄を余儀なくされた。
嵐はますますひどくなって、倒れた木に道をふさがれることになった。
これを解決するには、近くの農家からのこぎりを借りてきて、木を小さく切り刻んで道路から取り除いて、再び走行を始める必要があった。
シャロンが運転するパナール&ルヴァソールは馬車と衝突し、転覆してホイールを壊してしまったが、クルマを元に戻すと何とか走れるのでそのまま走ることにしたが、期待するスピードを出すことはできなくなっていた。

上り坂にくると、滑りやすくなっていることと逆風のために坂道を登ることができなくなり、乗員は降りてクルマを押してようやく坂の上にたどりついたが、そこに突風が吹いてきて、アッと思うも間もなく押し戻され、坂の下まで後戻りしてしまった。

エミール・ルヴァソールが運転するパナール&ルヴァソールはトップのポジションをキープしていたが、突然犬が飛び出してきて、これを避けようととっさにハンドルを切ったところ、クルマは転覆してしまった。
この瞬間に助手のドスタングとともに投げ出されたルヴァソールは車両に内臓が押しつぶされて重傷を負うことになった。

助手のドスタングは、助けを呼ぼうにも周りには民家もなく、途方に暮れてしまった。
「ルヴァソールさん、大丈夫ですか」

「少し痛むが、大丈夫だと思う」

「近くに民家もありませんし、これからどうしたらいいのでしょうか、私は頭が混乱して考えがまとまりません。ルヴァソールさん教えてください」

「俺は体が動かせない。ドスタング君、クルマを元に戻すことができるか、すぐにやってくれないか」

ルヴァソールから、転倒したクルマを元に戻すように指示を受けたドスタングは、急いで持ち上げようとしたが、ひとりではどうにもならなかった。
てこを使ったら元に戻せるのではないかと思って、てこになりそうな木材を探して、いくども挑戦したが、雨とともに汗がしたたり落ちるだけでびくともしなかった。
万策尽きたとドスタングが思った時に、向こうからクルマがやってきた。

それはレオンス・ジラルドが運転するパナール&ルヴァソールであり、すぐに停車し、ジラルドとその助手、そしてドスタングという3人がかりで車両からルヴァソールを離すことができた。
「ルヴァソールさん、大丈夫ですか」と、心配そうに訊ねた。

「おなかのあたりが痛むが、大丈夫だ。とにかく医者に行くことが必要だ」

ジラルドは「それでは、これに乗ってください」と言って、助手を降ろしてルヴァソールを隣の座席に乗せた。
「医者のいる所まで、このクルマで急ぎますので、しばらく我慢してください」

「ジラルド君、ありがとう。ドスタング君、私のクルマは君が運転して、最後まで走るんだぞ。わかったな」と言い残した。

こうして、傷ついたルヴァソールに代わって運転をすることになったドスタングはレースを続行することになった。

ジラルドが運転するクルマは、やがて民家が密集している村落にたどり着き、医者を探した。
「ルヴァソールさん、もう大丈夫です。ここで、お医者さんに見てもらいましょう」

「ジラルド君、ありがとう。ここから先は自分でやるから、君はレースに戻りたまえ」

「ルヴァソールさん。私はもうレースには戻りません」

「君はトップを走っているんだ。すぐに戻りたまえ」

「いくらルヴァソールさんの命令であっても、これだけは聞けません。一緒にいさせてください」

「・・・」
ルヴァソールは、これ以上一言も言葉を発しなかった。

(「35話」は金曜日に続く)


34話.セルイン・エッジのフランス出張〔後編〕

《 34話の主な登場人物 》
■ハーベイ・デュクロ:1845年頃の生まれ。ダンロップタイヤのフランス進出を狙う事業家。
■セルイン・エッジ:1864年生まれ。オーストラリア国籍のダンロップ社幹部社員。
■モンタギュー・ネイピア:1879年生まれ。自動車技術を磨くイギリス人技術者。


 S.エッジはパリ滞在中にダンロップ製空気入りゴムタイヤの新しい宣伝方法を考えた 


フランスから帰国したばかりのダンロップ社幹部社員のセルイン・エッジによるハーベイ・デュクロ社長への報告は、途中でいろいろあったが最終的にはエッジの思惑どおりにことを運ぶことができた。

次に第二ステップが控えているので、エッジは慎重に言葉を選んだ。
「社長。私から新しい提案があるのですが」

「何かね」
未だ興奮が覚めやらず少し不機嫌なデュクロは、ぶっきろぼうに返事した。

「ご存じのようにイギリスでは、赤旗法の制約があってガソリンエンジン車の需要はほとんどありません。しかし時間の経過とともに、イギリスでも自動車の人気は高まるに違いありません。それを加速させるのがレースだと思うのです」

「なるほど」
デュクロは相づちを売ったものの、エッジの話にあまり興味があるように見えなかった。

「社長。自動車レースはダンロップタイヤの優秀性を知ってもらい、ブランドの知名度をアップさせる最高の舞台だと思うのです」

「エッジ君。それがどうしたのだ」

いっこうにラチが明かないデュクロ社長の態度に、何としてもレースの重要性を理解してもらおうと、エッジは焦り始めた。
「社長。当社でガソリンエンジン車を1台買って、うちの空気入りゴムタイヤをつけて、レースに参戦するのです」

「君。わが国には自動車レースはないんだよ」

「社長。それはわかっています。フランスでは、自動車レースがあちこちで開催されていることを思い出してください」

エッジの意見を聞いて、デュクロの頭は再び混乱を始めた。ここは、イギリスだ。エッジは何を考えいるのかと不思議に思った。
「馬鹿なことを言うな。フランスのレースに出ても、何の意味もないじゃないか」

デュクロはエッジに強く反発したが、エッジは社長の抵抗にひるむことなく、フランス滞在中に考えてきた宣伝プランの説得を続けた。
「社長。それは違います。フランスのレースでイギリス人が運転して勝利すれば、必ずニュースになります。イギリスの新聞に写真入りの記事が出れば、ボディに大きく書かれたダンロップのロゴマークによって、このクルマがダンロップチーム車であることがイギリス人にもわかるのです」

「なるほど。新聞記事に載る回数が増えれば有名になるし、クルマ用ダンロップタイヤも売れるようになるというわけだな。エッジ君、すごいアイデアじゃないか。ところで、このアイデアをイギリスの産業界で最初に実行したのは、誰だか知っているかい」

エッジのアイデアは、フランス滞在時の自動車レース観戦中に閃いたのであって、既に同じことを実行した人がいたなんて聞いたことがなかった。
「正直言って、自分は存じませんが・・・・」

「君。わしが最初にやったのだよ」

「何ですって!」
エッジは驚きを隠せなかった。

先ほど来、このオーストラリア生まれの社員は、社長に対して敬意を抱いてないのではと疑念を抱いていたデュクロは、ここはビシッと教えておかなければと気持ちが高ぶっていた。
「その昔、といってもそんな前のことではないが、わしが自転車事業を始めた頃にデュクロブランドを多くの人に知ってもらおうとして、考え出したのが息子たちによる自転車競走チームなのだ」

「デュクロチームの誕生ですね」

「そうだ。うちの息子たち全員をトレーニングし、デュクロマークを付けたユニフォームを着せ、レースで連勝を重ねてデュクロ自転車は有名になったのだ」

「社長。私が考えたことは社長のアイデアとまったく同じです。これからは自動車レースの時代がきますので、ぜひやりましょう」

「エッジ君。実に優れた提案だ。すぐにクルマを買ってレースに出場しようじゃないか」
満面笑みを浮かべたデュクロは上機嫌であった。

社長の変化を察し、ここは許しを得るために告白する絶好のタイミングとエッジは判断した。
「ご理解いただき、ありがとうございます。実は、パリ滞在中に高性能車を仮発注してきたのです」。

「いささか段取りがよすぎるが、よかろう。レースで優勝できるように、しっかり頑張ってくれたまえ」
デュクロの機嫌はすっかり直って、その表情はいつものように自信にあふれていた。




 エンジンをチューンアップするモンタギュー・ネイピアの技を、S.エッジは高く評価した 


034話パナールルヴァソール フェートン1891
〈“パナール&ルヴァソール”〉









ダンロップ社の社員セルイン・エッジは、ハーベイ・デュクロ社長には仮発注と言っておいたが、実はパナール&ルヴァソール車の正式発注書へのサインは完了していたのだ。

ダンロップ社が所有することになり、“ダンロップ”のロゴマークが大きく書かれたパナール&ルヴァソールは、1896年のパリ~マルセイユ間レースに出走することになった。

エッジは、当初の構想どおり出場車の運転手はイギリス人にしたかったが、地理をよく知っていて運転技術が高いイギリス人を見つけることができなかったので、やむなくフランス人に運転を依頼した。

このレースの結果は2位入賞という立派な成績であったが、ドライバーがフランス人であったため、イギリスの新聞にはエッジが期待したように大きく取り上げられることはなかった。

このレースの後、エッジはクルマをイギリスに持ってきて、あちこちを走り回ったところ、急坂が多いこの辺りではパワーが弱いと感じることが多かった。
エッジは、かねてからの知り合いでネイピア社という機械屋の跡取り息子のモンタギュー・ネイピアという青年が近頃ガソリンエンジンの研究に熱中していることを思い出し、ネイピアの所にクルマを持ち込んだのである。


ネイピア社の原点となる会社は1788年の創業である。
創業者の孫に当るモンタギュー・ネイピアはスピード狂で、自転車レーサーとして知られるようになったが、ネイピアの興味は、次第に自転車から自動車に移ってきて、単に早く走らせるばかりでなくエンジン構造にも関心を深めていた。

そんな時に、ダンロップ社のセルイン・エッジから、パナール&ルヴァソール車のチューンアップの依頼を受けた。
このクルマのエンジンを分解して、集中した研究を続けた結果、ネイピアは点火方式に問題点があることを見つけ、電気点火方式に改良した。
同時に、あちこち手を入れてエンジンのパワーアップに努めて、エッジに引き渡した。

チューアップ車を受け取ったエッジは、試走を繰り返してみて、見違えるように早く走るようになった性能の良さに驚き、ネイピアの自動車技術と自分の将来が深い関りを持つようになることを予感するのであった。

(「34話」はここまで。「35話」は来週の火曜日に登場します。