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43話.フィアット社の創業〔後編〕

《 43話の主な登場人物 》
■ジョヴァンニ・チェイラノ:1865年生まれ。イタリアにおける乗り物ビジネスのパイオニア。
■エマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵:1869年生まれ。トリノに住むイタリア貴族。
■ジョヴァンニ・アニエッリ:1866年生まれ。農業経営と養蚕業に限界を感じたイタリア人。
■ロベルト・ビスカレッティ:1845年生まれ。人望厚いイタリア人のジャーナリストで議員。
■ルドヴィコ・スカルフィオッティ:1850年頃の生まれ。やり手のイタリア人弁護士。


 新しい自動車会社の会社名の単語の頭文字からフィアットというブランドが誕生した 


新しい自動車会社設立に関する発起人会における第二の議題である会社名について、エマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵は参加者各位の意見を求めることにした。
「それでは2つ目の議題である会社名の審議に移りたいと思います。新たに設立する会社名を構成する要素としてはどんなものが考えられますか」

すかさず弁護士のカルロ・ラッカが口を切った。
「私は輸出を考えると、イタリア製自動車であることがわかるように、会社名にイタリアという国名を入れるべきだと思います」

この意見に対して両替商のルイジ・ダメヴィーノから、「トリノの資本家が出資した会社であることがはっきりわかるように、トリノ自動車製造会社というのはいかがでしょうか」という提案がなされた。

2人から異なる意見が述べられ、これをどのように取りまとめるかをブリケラシオが思案していたら、本日の参加者の中では貴族としての爵位がいちばん高いフェッレーロ侯爵が、右手を静かに上げ発言の許しを得た。
「只今のお2人のご意見に対して私見を申し上げるならば、イタリアを代表する都市であるミラノとローマ、さらには観光都市であるベネチア、フィレンツェ、ナポリは世界中に知れ渡っています。しかし、誠に残念な事実ですが、トリノは未だ知られておりません。したがってトリノという都市名を冠した自動車会社名ではスケール感が発揮できないので適当ではないと思います。そこで、トリノに本社があるという意味で、“トリノのイタリア自動車製造会社”という会社名はいかがでしょうか」
イタリア産業界では大立者として通っている侯爵の意見であるだけに反対する者はなく、スカルフィオッティ弁護士は自分の出番が来たと思った。

「只今の侯爵のご意見に私は賛成いたします。皆様、この会社名でいかがでしょうか」

これで決まりだと多くの参会者が思っていたところに、自己紹介以降、一言も発することがなかったジョヴァンニ・アニエッリが、遠慮がちに発言を求めたのだ。
「少しよろしいでしょうか。私も侯爵からご提案をいただいたトリノのイタリア自動車製造会社という会社名に賛成をいたします。ところで、本日の議題には会社名の審議はございますが、ブランドに関する審議は議題にのっておりませんが、この点はいかがでしょうか」

これを受けたブリケラシオは、「ブランドについては、会社が設立されてから決めればいいと思っていますが、何かご意見がありますか」と、逆にアニエッリに問いかけた。

「私は自動車メーカーにとっては会社名以上にブランドが大切だと思っています。ここで、ビジネス経験が充分でない自分が先輩諸氏に対して強調するまでもないことですが、ブランドは商品のイメージを集大成したものであり、品質保証の証でもあります。そこで皆様に対する私からの提案となりますが、会社名を侯爵のご提案どおり『トリノのイタリア自動車製造会社(Fabbrica Italiana Automobili Torino)』と決定して、ブランドは会社名を構成する各単語の頭文字を取ってFIAT、即ち“フィアット”とするのはいかがでしょうか。せっかくのことですので、会社名を議決するこの機会に、ブランドをフィアットとすることを決定するというのもひとつの考えだと思うのです」

この提案を聞いた参加者は、アニエッリの豊かな発想と、ビジネスセンスのすばらしさに脱帽することになった。




 ブリケラシオ伯爵の考えで、フィアット社の株式は発起人各自に平等に配分された 


ブリケラシオ伯爵家で開催された新しい自動車会社の設立に関する発起人会での第二の議題は、ジョヴァンニ・アニエッリのすばらしいアイデアを採用することによって審議が終了した。

進行役のブリケラシオは、「次いで第三の議題である、組織及び役員人事に移りたいと思います。最初に、主要役員について私から提案させていただいてよろしいでしょうか」と参加者に問いかけた。

「賛成」と発言したビスカレッティ伯爵に続いて、「異議なし」とルイジ・ダメヴィーノが続けたので、ブリケラシオは「会社の最高責任者である社長にはここにいらっしゃる弁護士のルドヴィコ・スカルフィオッティ氏を推薦させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか」と提案したら、すぐにフェッレーロ侯爵から「賛成です」という発言がなされた。

本件に関しては、既にブリケラシオ伯爵が中心となって、フェッレーロ侯爵、ビスカレッティ伯爵、スカルフィオッティ弁護士の4名で何回となく話し合いがもたれていた。
このプロジェクトの推進者であるブリケラシオ伯爵が社長になるべきという意見も強かったが、31歳という若さゆえに固辞したのである。


Scarfiotti,Ludovico第一巻043話
〈初代社長となるルドヴィコ・スカルフィオッティ〉




全体の流れを見ていたスカルフィオッティは、「よかろう。引き受けましょう。但し、今般の新会社設立にご奮闘いただいたブリケラシオ伯爵には、私を補佐する副社長に就いていただくという条件があります。皆様、いかがでしょうか」と問いかけたら、「賛成」「異議なし」という声が次々と上がった。
この後、本日の参会者全員が取締役に就任することが議決され、新会社の組織もブリケラシオが提案したとおりに可決されて、第三の議題も無事に終了した。


次は、第四の議題である資本金と株式の設定に移ることになり、再び執事が各自に資料を配布したのを確認して、ブリケラシオが原案を説明することになった。

「皆様。お手元にお届けした資料を参考にして、私の説明を聞いていただきたいと思います。新会社の資本金は80万リラを考えております。株式に関しては200リラで1株となりますので、全部で4千株となります。株式の所有内容は、取締役合計で1,200株、銀行関係で800株、残りの2千株を一般から公募する予定をしております」

この案に対してビスカレッティ伯爵から、「取締役間の配分はいかがになりますかな」とポイントになる点を質問してきた。

ブリケラシオはこの問題を考え続けてきた。
そして得た結論は公平性である。
一人ひとりに差を設けないという考えに立脚しないと、全員の納得性が得られないと答えを出したのだ。

「本日ご来会いただいた私を含めて9名の方全員が、均等に133株を所持していただくというのが私の案です。このように考えた背景として、今回新設の自動車会社は個人所有会社ではなく、あくまで公の企業であるべきという思想があるからです。したがって、誰一人として突出する持ち株にならないように考えてきたのです。本件についての皆様のご意見をお伺いしたいと思いますが、いかがでしょうか」

個人の負担額とリスクが絡む微妙な問題だけにすぐに意見を述べる人はなく、静寂の時間が流れたが、これに回答したのもやはりフェッレーロ侯爵であった。

「この種のことは言い出すときりがありませんが、本日参加した発起人全員を一律の持ち株にするというご提案は、納得性が高く、私利私欲にとらわれないというブリケラシオ伯爵のご挨拶の趣旨に添ったものであると、私は理解をし、賛成を表明させていただきます」
この発言で、難しい問題は一挙に解決に向かったのである。


五番目の議題は、ブリケラシオが実質的に所有しているJ.B.チェイラノ社の資産である町工場や従業員などの生産設備の新会社への譲渡という案件である。
これも微妙な問題であるが、「その対価は市場価格とする」という議決がなさ、これで予定された全ての議題の審議が終了したのである。

こうしてトリノのイタリア自動車製造会社は、発起人会で採用されたフィアットブランドそのままに、イタリアの人々から“フィアット社”と親しく呼ばれるようになるのであった。

(「43話」はここまで。「44話」は来週の火曜日に登場します。)


43話.フィアット社の創業〔前編〕

《 43話の主な登場人物 》
■ジョヴァンニ・チェイラノ:1865年生まれ。イタリアにおける乗り物ビジネスのパイオニア。
■エマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵:1869年生まれ。トリノに住むイタリア貴族。
■ジョヴァンニ・アニエッリ:1866年生まれ。農業経営と養蚕業に限界を感じたイタリア人。
■ロベルト・ビスカレッティ:1845年生まれ。人望厚いイタリア人のジャーナリストで議員。
■ルドヴィコ・スカルフィオッティ:1850年頃の生まれ。やり手のイタリア人弁護士。


 イタリアでの乗り物産業のパイオニアたちの1人がジョヴァンニ・チェイラノであった 


20世紀末のイタリアには大衆車のフィアット。
スポーティ高性能車のランチア、アルファ・ロメオ。
スーパーカーであるマセラティ、フェラーリ、ランボルギーニなど、世界中の幅広いニーズに提供する多彩なブランドのクルマが個性を競い合っている。

これらのうち20世紀末時点ではフィアット、ランチア、アルファ・ロメオ、マセラティ、フェラーリという5ブランドはフィアットグループを形成していて、フィアット社はイタリアにおける唯一の自動車メーカーといっても過言ではないほどの存在になっている。
このフィアット社の基礎を築いたのが、本書の主役のひとりとなるジョヴァンニ・アニエッリであり、これからフィアット社の創業物語を始めることにする。

イタリア北部にあって地中海沿いに位置する工業都市トリノに、J.B.チェイラノ社という小さな会社があった。
この会社はジョヴァンニ・チェイラノという男が、エマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵の資金援助を得て、イギリス生まれのオーディナリー型自転車を輸入して、これを販売する仕事をしていた。

イギリスから輸入すれば、どうしても高くつくので、国産化が必要と考えたチェイラノは、自力で自転車をつくり始めたら、自転車ビジネスは日ごとに大きくなっていった。
新し物好きのチェイラノは、自転車にはすぐに興味を失った。
その次に関心を持ったのはオートバイだった。
ところが、オートバイにはエンジンが必要となるので、新型オートバイ開発は自転車ほど簡単にはいかなかった。

フランスではガソリンエンジン技術は急速に進んで、既に小型エンジンを製造できる水準に到達していたので、フランスからエンジン技術を学んだチェイラノは、オリジナルのオートバイを開発し、イタリアで最初となるオートバイとして“ウェリーズ”というブランドで販売が開始された。

その後、イタリア人の金持ちが興味を示し始めた自動車にチェイラノが関心を持つようになるのは自然の成り行きで、トリノを走り回っているドイツ製のベンツやダイムラー、フランス製のパナール&ルヴァソールやプジョーなどを研究し、見よう見まねで製作を始め、1899年4月に〈ウェリーズ/3.5HP〉という自動車が完成したのである。




 トリノの資本家たちが自動車会社を設立するために、E.ブリケラシオ伯爵家に集った 


Bricherasio,Emanuele第一巻043話
〈提案者のエマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵〉





1899年7月のある夜のこと、トリノ市内にあるエマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵の屋敷に9人の男たちが集まった。
この夜、イタリア産業界の現状と行く末に関して、日頃議論を重ねているビジネスマンがここに集結し、新しい自動車会社の設立発起人会が開催されることになっていた。

楕円テーブルを囲んで全員が椅子についたことを確認して、メンバー中最年少の31歳という若さの主催者ブリケラシオ伯爵が歓迎の挨拶を始めた。

「本日は皆様方におかれましては、たいへんご多忙の中、わざわざ私の自宅にお越しいただきまして、心より感謝申し上げます。本日の主題は既にご案内のとおり、普段からイタリアの産業界をリードされていらっしゃる皆様方と、ドイツとフランスの両国に大きく立ち遅れているわが国の自動車産業の現状をどのように捉えたらいいのかをご一緒に考え、そして必要があるというなら、皆様方と共同で自動車会社を設立するためにこうしてご参集いただいたわけであります」

ここまで一気に話を進めたブリケラシオは、用意された水差しからコップに水を注いで、のどを潤し挨拶を続けた。

「さて、イギリスで発生した産業革命の嵐はヨーロッパ全域に広がっており、先行するイギリスをフランスが追いかけました。そして、ドイツがものすごいスピードで両国に追いつきつつあります。残念ながら、イタリアの現状は国家統一がなされ30年が経ったばかりであり、産業近代化の動きはイギリス、フランス、ドイツという3国に大きな差をつけられており、本日の主題である自動車産業に関しては推して知るべしという状況があります。現実にトリノの街をドイツ製やフランス製ガソリンエンジン車が走っているのを目にすることが多くなっており、イタリアも本格的な自動車産業を持たないと、輸入車に依存することになって、取り返しがつかない事態になるという危機感を私は抱いております。イタリア人として生まれ、この地で育った私としては、世界に伍して戦える自動車メーカーがこの国にないのが残念でなりません」

ここで、じっくりと参加者を見回したブリケラシオの顔には、全員が設立趣意に賛同するまでは帰さないぞという気迫があふれていた。

「皆様。私が考えていることは私利私欲のためではありません。イタリアの将来のためには、どうしても自動車会社が必要です。それもミラノではなく、ここトリノに必要なのです。どうか私の意図する点について深いご理解をたまわり、本日用意されている新会社設立に向かっての諸議題に積極的なご意見をいただきたいと思います」

熱気あふれるブリケラシオの挨拶が終わったら、参加社全員から拍手が響きわたった。




 ブリケラシオ家に集った男たちは、新しい自動車会社設立に関する意見を交換した 


エマヌエーレ・ブリケラシオ伯爵は今朝から、発起人会の段取りをどうするのか、冒頭の挨拶の内容として何にするか悩んだが、簡潔に言いたいことが伝わったことに満足し、進行役としての任務を始めることにした。

「せっかくの機会ですから、本日ご参加の皆様方全員に自己紹介をしていただきたいと思います。最初はフェッレーロ侯爵から、お願いします」

こうして、ブリケラシオの指名にしたがって自己紹介が始まり、銀行家のケーレ・マイノーリが続いた。
自己紹介の3番目は両替商のルイジ・ダメヴィーノ、4番目は弁護士のチェーザレ・ガッティ、5番目に同じく弁護士のカルロ・ラッカ、6番目に弁護士としては3人目となるルドヴィコ・スカルフィオッティというように続いた。

7番目に指名を受けたのはジョヴァンニ・アニエッリという人物であった。
アニエッリは、ブリケラシオとはトリノ駅前にある行きつけのカフェで話を交わすことがあり、誘われて発起人メンバーとして参加したのだった。


Agnelli,Giovanni ①第一巻043話
〈若き日のジョヴァンニ・アニエッリ〉





「自分はジョヴァンニ・アニエッリと申し、今年34歳です。トリノ郊外で農園をやっている家に生まれ、陸軍士官学校に入り、卒業して騎兵隊に入隊しました。ここで知り合った同僚の妹と結婚することになり、長女ティナと長男エドワルドという子宝に恵まれています。除隊してからは、親から受け継いだ農業経営と養蚕業に従事しておりますが、最近イタリアのシルク生地の製造産業は地盤沈下が非常に激しくなっております。自分は、イタリア養蚕業の衰退は一時的な現象ではなく、国際分業による生産構造の変化であると読んでおります。したがって、いくらがんばっても見通しが立たないと判断して、新しいビジネスを模索しており、ここのところは自動車分野がいちばん高い成長の可能性があるのではと考え、関心を持っております。そんな時に、今回の新しい自動車会社設立のお話をブリケラシオ伯爵からお伺いして、喜んで参加させていただきました。皆様方におかれては、今後よろしくお付き合いをお願いします」

アニエッリの自己紹介が終わると、執事によって、『発起人会議題』と見出しが書かれたペーパーが配布された。
各自が目を通したタイミングを見計らってブリケラシオが説明を始めた。

「それでは本日の予定を申し上げます。そこに記されていますように、本日は、①自動車会社設立の趣意説明、これはカルロ・ビスカレッティ伯爵にお願い致します。②会社名の決定、③組織と主要役員の選任、④資本金と株式の設定、⑤J.B.チィイラノ社の権利譲渡の件、の5項目を議題として考えております。会議は9時終了予定として、お開きになりしだい、この辺りでは評判のレストランにご案内いたしますので、議事進行にご協力をお願いいたします」

「了解しましたので、会議を進めてください」と、スカルフィオッティ弁護士から発言があった。
「それでは最初の議題である、自動車会社の設立趣意に関して、ビスカレッティ伯爵よりご説明をお願いします」


Biscaretti-di Ruffia,Carlo第一巻043話
〈参加者最高齢のカルロ・ビスカレッティ〉





ブリケラシオから指名を受けたカルロ・ビスカレッティ伯爵は54歳になっていて、この会合に参加したメンバーの中では最年長であった。
もともと貴族としては珍しいジャーナリストとして、あるいは議員として活躍を続け、祖国の自動車産業の遅れを指摘して啓蒙活動を続けている人物である。

「ブリケラシオ伯爵におかれては、新しい自動車会社の設立発起人会の冒頭にすばらしいご挨拶をいただき、私として大いに感動をいたしました。さっそくですが自己紹介させていただきますと、私はカルロ・ビスカレッティと申します。本日に至るまで、ブリケラシオ伯爵と一緒に設立準備活動に当ってまいりました。そんな関係で、本日の議題の最初となる設立趣意についてご案内をする大役をおおせつかりました。既に、皆様もご存知のように祖国イタリアは1868年に国家統一されて以降、近代化に向かって必死に全産業が改革の機運に燃えて仕事をやっております。本日のテーマであります自動車に関してはブリケラシオ伯爵が支援をしているJ.B.チェイラノ社に代表されるような小規模メーカーはあるにはありますが、ドイツおよびフランスというガソリンエンジン車産業の先進国に比べてかなりの遅れとなっているのが現状です。かかる状況下、ここでイタリア産業界、特に工業都市としてのトリノの実業界が一致団結してイタリアを代表する本格的な自動車メーカーを設立することは、大変喜ばしいことだと存じております。私がここでイタリアの歴史を持ち出すまでもなく、イタリアは長い間、フランスやオーストリア、さらにはスペインにまで従属を強いられてきました。この民族の屈辱的状況を打破するために立ち上がったのが・・・・」と、ビスカレッティの演説は延々と続くことになった。

ブリケラシオとして大先輩に趣意説明をお願いした以上、途中でさえぎることもままならず我慢して聞くことになった。
25分ほど話が続いたら、さすがに場の雰囲気を察したビスカレッティ伯爵は、話のまとめに入って、最初の議題は無事に終了することになった。

(金曜日の〔43話:後編〕に続く)


42話.イタリア車のパイオニアたち〔後編〕

《 42話の主な登場人物 》
■ジュゼッペ・マッツィーニ:1805年生まれ。イタリア統一運動に取り組む政治家。
■ジュゼッペ・ガリバルディ:1807年生まれ。共和制イタリアの建国に命を懸ける革命家。
■カミロ・カヴール卿:1810年生まれ。国民選挙による王政イタリア実現を策す政治家。
■ナポレオン三世:1803年生まれ。フランス皇帝(在位1852~70年)。
■オットー・ビスマルク:1815年生まれ。ドイツ統一に邁進するプロイセンの豪腕政治家。
■エドワルド・ビアンキ:1865年生まれ。自転車からオートバイに進出した事業家。


 統一イタリアが実現するとイタリアでも産業革命が起こって近代産業が勃興した 


イタリアが国家統一を達成し、近代化を本格的に推進しようとしていた時代は、イギリス、フランス、ドイツの3カ国では既に産業革命が進展を遂げていて、大きく差がつけられてしまった。

この時代のイタリア産業としては農業が支配的であった。
政府は農業を保護しながら近代産業を育成する方針を樹立し、遅くらばせながらスタートを切ったイタリアの産業革命であるが、時代を見る目が確かな事業家たちによって、各々の産業分野において新興会社が次々と設立された。

彼らはいちように、「先行する3国の企業に追いつかないと、自分たちは支配下に置かれてしまう」という危機感を抱いていたので、必死になってビジネスに取り組んだ。
この時代に生まれた新興企業の中に、ピレリー社というゴム加工業者があったが、やがてこの会社は、イギリス代表のダンロップ社、フランス代表のミシュラン社に並ぶ、イタリアを代表するタイヤメーカーに育つことになる。


さて、イタリアの自動車産業は、産業革命の先生であるイギリスにならって蒸気自動車から始まった。
1829年にガーニー卿が蒸気自動車を開発して、ロンドンと温泉町バースの間を運行したという話はイタリアにも伝わった。

当地の技術者たちの間で、自分たちも負けずに蒸気自動車をつくろうという動きが始まり、ヴィルジニオ・ボルディーノという人物が馬車(コーチ)構造そのままで、後部に2気筒の蒸気機関を置いた蒸気自動車を製作したが、これはイタリアで最初となる自動車であった。
このクルマは大量の石炭を消費しながら、時速8キロで走ったと伝わっているが、1台限りの試作品であったようだ。
この蒸気自動車が製作されたのは1854年であったが、フランス人のアメデ・ボレーがオベイサントを製作したのが1873年のことなので、イタリアにおける蒸気自動車技術は、フランスとドイツに対しては先行していたものと思われる。

ボルディーノ・コーチが製作されて27年後の1891年に、蒸気自動車の可能性を信じていたエンリコ・ペコリという貴族は小型1人乗りの3輪自転車といっても差し支えない実にユニークな蒸気自動車を製作した。
これに載せられた蒸気機関は、超小型で3つの自転車用車輪に載せても負担にならないほどの軽さであったが、これも試作の範囲に留まっていて実用性は証明されていない。

このように、イタリアにおける蒸気自動車は散発的な挑戦で終わってしまったので、イギリスやフランスのように蒸気自動車ビジネスへの挑戦がなされたわけではなかった。


042話ペコリの蒸気三輪車
←ペコリの超小型3輪蒸気自動車







 産業革命の進展に伴い、イタリアにおいてもガソリンエンジン車づくりが始まった 


Bernardi,Enrico第一巻042話
〈イタリア車の先駆者エンリコ・ベルナルディ教授〉





イタリア北東部に位置して、観光地として知られる水の都ベネチアに近いパドーヴァー大学のエンリコ・ベルナルディ教授は4ストローク・ガソリンエンジンの開発に取り組み、1883年にイタリア初として完成したエンジンに“ピア”という名前を付けた。

ドイツ人のカール・ベンツが3輪のガソリンエンジン車をつくったことを知ったベルナルディ教授は、次はガソリンエンジン車づくりに挑戦したが、なかなかうまくいかなかった。
それでも諦めずに努力を重ねた結果、カール・ベンツに遅れること8年後の1894年に、やっとのことで排気量280ccの3輪自動車を完成させたが、これはイタリアでのガソリンエンジン車第1号の名誉を担うことになった。

その翌々年、ベルナルディ教授は空冷方式で排気量600ccの単気筒エンジンを積む小型軽量車を設計したところ、これを実際につくって商売にしたいと考えるビジネスマンが出現した。
このクルマのシャシー構造はレオン・ボレーが設計した前2輪・後1輪のヴォワチュレットに似ていたが、ボレー車が縦並びの2人乗りであるのに対し、ベルナルディ車は横並びのシート配置になっている点が違っていた。


次にイタリアでの自動車の発展史を語る上で欠かせない、エドワルド・ビアンキによって創業されたビアンキ社に話を進めよう。

1865年に大きな食料品屋の息子として生まれたビアンキが、父親に資金の提供を頼んで、ミラノに自転車メーカーとしてのビアンキ社を創業したのは、20歳になったばかりの時だった。
ビアンキが最初に手がけたのは、イギリスで開発されたオーディナリー型自転車の生産であり、1890年頃になると、ビアンキ製自転車はイタリア国内の自転車レースに参戦するようになり、数多くの勝利を重ねて人気は高かった。


Bianchi,Eduald第一巻042話
〈ビアンキ社を創業したエドワルド・ビアンキ〉





自転車で成功したビアンキ社は、1897年になるとオートバイを手がけるようになった。
これにも反応があったが本命はガソリンエンジン車なので、その翌年にド・ディオン・ブートン製の空冷単気筒エンジンを載せ後輪を駆動するという自転車ベースの4輪自動車がつくられた。
そんな時に、ジュゼッペ・メロージという技術者が技師長に就いて腕をふるうようになり、19世紀最後の年である1900年に、ビアンキ社として2番目となるモデルの販売が始まり、ビアンキ社はイタリアでのトップメーカーを目指して歩み始めるのである。


bianchi1下042話
←“ビアンキ”のブランドマーク





もうひとつ、イタリアの自動車史に残るのがミラノに本社があるブリネッティ&ストゥッキ社で、フランスでヒットした〈ド・ディオン・ブートン/トリシクル〉を手本とした小型3輪ガソリンエンジン車をつくっていた。
この会社として初となる小型4輪のガソリンエンジン車が1899年に発表されたら、たいそう評判になったという。

(「42話」はここまで。「43話」は来週の火曜日に登場します。)


42話.イタリア車のパイオニアたち〔前編〕

《 42話の主な登場人物 》
■ジュゼッペ・マッツィーニ:1805年生まれ。イタリア統一運動に取り組む政治家。
■ジュゼッペ・ガリバルディ:1807年生まれ。共和制イタリアの建国に命を懸ける革命家。
■カミロ・カヴール卿:1810年生まれ。国民選挙による王政イタリア実現を策す政治家。
■ナポレオン三世:1803年生まれ。フランス皇帝(在位1852~70年)。
■オットー・ビスマルク:1815年生まれ。ドイツ統一に邁進するプロイセンの豪腕政治家。
■エドワルド・ビアンキ:1865年生まれ。自転車からオートバイに進出した事業家。


 赤シャツ隊を率いるジュゼッペ・ガリバルディは、いったんは勝利を宣言した 


ブログ『クルマの歴史300話』では、ヨーロッパの自動車生産国の近代の歩みについて大まかな流れを記述している。
既に、イギリスに関しては「8話 大国化するイギリス」、フランスに関しては「9話 フランスの近代工業」、ドイツに関しては「10話 統一ドイツの出現」において、各国のようすに触れているが、本話では、それまでバラバラであったイタリアがひとつの国家に統一される歩みから始まることになる。

ローマ帝国が崩壊した後、イタリアはたくさんの都市国家に分割されていたが、16~17世紀の期間、その領土はフランス、スペイン、オーストリアという3国に侵食されていた。
これら3国によるイタリア分割という状況を打破したのはナポレオン・ボナパルトである。
フランスから大軍を率いてイタリアへの侵攻を開始し、1810年頃にはイタリア半島のほぼ全域を支配下に治めるようになった。

1815年のワーテルローの戦いでナポレオン軍がヨーロッパ連合軍に負けたことによって、イタリア人の間に今までばらばらであった国々をひとつにしてイタリア統一国家をつくろうという思想が芽生えてきた。
ところが、ナポレオン戦争の終戦処理にあたったウィーン会議での列強諸国協議の結論として、イタリア北部の多くの土地はオーストリア領となってしまい、統一の夢とはまったく逆になってしまった。

このような状況から幾多の変遷を経て、イタリア統一国家ができ上がることになるが、このリーダーとなったのは、ジュゼッペ・マッツィーニ、ジュゼッペ・ガリバルディ、カミロ・カヴールの3人である。


このうち最初に行動を起こしたのは、この頃イタリアに属していたマルセイユで、1831年に“青年イタリア党”という革命組織を結成したジュゼッペ・マッツィーニである。
マッツィーニはオーストリア支配からイタリアを解放し、民主的な共和国を建設することによって民族統一を達成しようと考えた。
青年イタリア党は、同志を集めて北イタリア各地で繰り返し武力蜂起を試みたが、全て失敗に終わってしまった。
この失敗によって祖国を追われたマッツィーニはイギリスに亡命し、産業革命真っ盛りのロンドンで人々に接するうちに、労働者を中心とした大衆運動の重要性に気がついた。

イタリアに帰国したマッツィーニは、労働者の組織化を図って、青年イタリア党の再建を試みたが、イタリア民衆には労働運動という概念がなく、なかなかうまくいかなかった。
そんな時に、1848年のパリ2月革命に続くウィーン3月革命のニュースが、イタリア最大の商業都市ミラノに届いた。
これに刺激を受けたミラノ市民はオーストリア軍を追い出そうと立ち上がり戦闘の口火が切られ、ミラノばかりでなくイタリア各地で反乱が勃発することになった。


ジュゼッペ・マッツィーニに続くイタリア統一のヒーローは、マッツィーニより2歳年下で、同じ名前をもつジュゼッペ・ガリバルディである。
ガリバルディはニースの漁師の息子で、少年時代から聡明で勇敢な行動で鳴らし、イタリア統一に向かって “赤シャツ隊”を編成した時から新しいリーダーとして注目を浴び、反乱の先頭に立って戦った。


Garibaldi第一巻042話
〈イタリア統一への革命家ジュゼッペ・ガリバルディ〉





1849年2月になると、蜂起した民衆は盟主であったローマ教皇を追放する行動に移った。
民衆と一体となったガリバルディはローマに侵攻し、自らが中心になって臨時政府を樹立して民衆支配による共和国の成立を宣言したのである。

この宣言に脅威を感じたのはイタリア人支配層ばかりではない。
ローマは世界各国のカトリック信者のシンボリックな都市であり、その代表であるローマ教皇の動向は、ヨーロッパ大陸のカトリック教徒全体にとってゆゆしき大問題であった。

熱烈なカトリック教徒であるナポレオン三世は、「イタリア人の野郎が、ローマ教皇を追放してしまうとは何ごとか!絶対に許すわけにはいかない!」と烈火のごとく怒りを表して、教皇を復位させるためにローマにフランスから大軍を派兵した。
これを迎え撃つガリバルディ部隊は素人戦士の寄せ集め集団であり7月には撤退を余儀なくされ、ローマは再びフランス軍に占領され、イタリアの共和国体制は短期間で崩壊してしまった。




 イタリア統一のもうひとりの主役であるカミロ・カヴール卿は、智恵の限りを使った 


イタリア統一国家成立のもうひとりの主役は、カミロ・カヴールである。

ガリバルディより3つ年下のカヴールは、何から何までガリバルディと正反対であった。
ガリバルディが貧しい漁師の出であるのに対して、カヴールは“卿”と名乗ることができる貴族の出身である。
ガリバルディは行動の人であるが、カヴールは思想の人である。
ガリバルディはオープンマインドの正攻法で戦うのに対して、カヴールは策謀をめぐらすのが得意である。
このようにイタリア統一という夢は同じであったが、全く人生のスタイルが異なる2人は別々の道を歩むことになった。


Cavour,Camillo第一巻042話
〈イタリア統一の功労者カミロ・カヴール卿〉





トリノの侯爵家に生まれたカヴールは、、スイス、フランス、イギリスを旅行して、産業革命によって誕生した資本主義的自由主義体制がいかにすばらしいものであるかを実地に学んで帰国した。

イタリアが統一した国家にならなければ、自分たちは外国人の支配下で一生暮らさなくてはならないという危機感を抱いたカヴールは、1847年にイタリア語で統一という意味を持つ『リソルジメント』という新聞を発刊し、政治活動を開始した。
そして、イタリア半島を支配するサルデーニャ王国の下院議員となったら、たちまち頭角を現し、1852年に42歳という若さで、ここの首相に選ばれた。

この国にはヴィットリオ・エマヌエーレという、聡明な王様がいた。
カヴールは、「イタリア統一はヴィットリオ・エマヌエーレ国王を盟主とする“イタリア王国”の建設によって成し遂げなくてはならない」と信じていた。
この思想を実現するためには、ガリバルディのような暴力的な革命を抑え込まなくてはならないと考え、国民選挙によるイタリア統一国家建設を仕組んで、着々と準備を整えていた。




 G.ガリバルディは、ナボレオン三世と手を組んだC.カヴールに必死の抵抗を続けた 


カヴールは、オーストリアを追い出すためには隣国のフランスの援助が必要であると考えて、ナポレオン三世の支援をもらえるように、クリミア戦争ではフランスと一緒になってロシアと戦った。
こうして、ナポレオン三世の信頼を勝ち取ったカヴールは、1858年にフランスとの間で対オーストリア秘密軍事同盟を結び、翌年になるとオーストリアに宣戦を布告し、ミラノがあるロンバルディア平原からオーストリア軍を追い出した。

ここまではカヴールの筋書通りであったが、気まぐれで飽きっぽいナポレオン三世は、カヴールを裏切ってオーストリアと妥協する行為に出た。

これでシナリオが狂って頭に来たカヴールは、さっさとサルデーニャ王国首相の地位を辞任してしまう。
しかし、辞任したのはポーズに過ぎなくてすぐに首相にカムバックし、それまでイタリア領であったニースをフランスに引き渡すことと引き換えに中部イタリアを併合した。

一方の雄であるガリバルディは、自分の故郷のニースをフランスに譲渡するカヴールを絶対に許すことができなかった。
ガリバルディは熱烈な同志と一緒になってシチリア島に集結し、最初にこの島を制圧した。
そして、イタリア半島を北上して最終目的地であるローマを目指し進軍を開始した。この間ガリバルディの兵力は当初の1千人程度から5万人を超えるまでに増えていた。
何とかナポリまでたどり着いたが、ここからローマへの道は容易でなかった。
この地を支配しているサルデーニャ王国正規軍の強い抵抗にあい、一方自分を支援してくれると信じていた農民の反乱に遭遇するなど、毎日が抵抗勢力との戦いであった。

いちばん強い抵抗勢力は、ガリバルディが主張する共和制国家を何としても阻止して、イタリア王国を建設しようとするカヴールの動きである。
カヴールが仕掛けた国民選挙で、大衆はイタリア王国建国によるイタリア統一という思想に同調するようになってきた。
この動きが広まることによって、ガリバルディ支援者は徐々に減ってきて、不本意ながらローマ攻撃を断念せざるを得ない状況となってきた。

1861年3月、国民選挙の集計結果が発表されて、カヴールが夢に見たイタリア国家統一は、フィレンツェを首都とする“イタリア王国”という形で大きな一歩を踏み出すことになった。

初代の国王にはヴィットリオ・エマヌエーレが、そして行政の最高責任者である首相にはカヴールが就いて、ヨチヨチながらイタリア王国は歩みを始めるのである。
ところが、カヴール首相が急逝したことで、ローマ教皇を守ることを大義名分とするフランス軍がローマに居座り続けた。

ここにオットー・ビスマルクが登場する。
ビスマルクは北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一まで後一歩のところまできていたが、ナポレオン三世の干渉が強く、南ドイツの諸国は北ドイツ連邦への参加を渋っていた。

ドイツを統一するためにナポレオン三世をたたく戦術を考えていたビスマルクは、ローマに居座るフランス軍を側面から揺さぶる作戦をつくり、ガリバルディにアプローチをして、秘密の連絡ルートができることになった。

1870年、ナポレオン三世はビスマルクの術策にはまって、プロイセンとの戦端を開くことになった。
ローマに駐在しているフランス軍は、プロイセンとの戦争に借り出されたので、イタリア王国軍は手薄になったローマに侵攻し勝利して、イタリア王国がローマを併合することを宣言した。
そして、首都をフィレンツェからローマに移して、“イタリア統一”がようやく実現したのである。

(「41話」はここまで。「42話」は来週の火曜に登場します。)


41話.ルノー兄弟社の創業〔後編〕

《 41話の主な登場人物 》
■ルイ・ルノー:1877年生まれ。ボタン商人の四男で機械が大好きなフランス人青年。
■マルセル・ルノー:1872年生まれ。ボタン商人の三男でルイのすぐ上の兄。
■レオン・セルポレ:1858年生まれ。蒸気自動車の性能アップに努めるフランス人。


 ルイとマルセルは話し合って、自動車メーカーのルノー兄弟社を設立することにした 


 ある日夕刻、ルノー家の自宅で、ルイはすぐ上の兄であるマルセルの部屋にきて扉をノックした。
「兄貴。ちょっと話があるけど入っていいかい」

扉を開けたマルセルは、いつになく深刻な表情をして立っている弟をみて、いったい何が起きたのかと不思議に思った。
「ルイ、どうしたんだ。部屋に入りなよ」
マルセルは備え付けデスクの椅子をルイに譲って、自分はベッドの端に腰を下ろした。

ルノー家の6人兄弟の中では、ルイはすぐ上の兄であるマルセルには、どんな相談でも乗ってもらえる関係ができていたので、ここ数日考えていることが口に出た。
「兄貴。この前のクリスマスパーティーの件だけど・・・・」
口には出したけれど、ルイは迷っていたので歯切れが悪かった。

これを察したマルセルから、質問を受けることになった。
「パーティー会場に持ち込んだルイがつくったクルマの反響はすごかったな。お金を出してもいいからといって10人以上の人から購入申し込みがあったんだろ。実際、これからどうするつもりなんだい」

この瞬間にルイの迷いは吹っ切れて、自分の考えを正直に伝えることにした。
「その件だけど、兄貴はどう思っているか知らないけれど、僕としては、親父がやっているボタンビジネスに、ちっとも興味が持てないんだ」

マルセルもボタンの仕事は、自分には合わないと感じていたので、弟のクルマの評判がいいことが嬉しくて仕方なかった。
「実は、俺もルイと同じで、ボタンの仕事は一番上の兄貴に引き継いでもらえばいいので、俺自身は別の世界を切り開かなければならないと考えているんだ」

「やっぱり兄貴もそう思っているのか。僕は、一生クルマづくりにかかわれたらこんな幸せなことはない。これから本気で自動車ビジネスに取り組んで、自分の人生をクルマに賭けて見ようと考えているんだ」

「それならそれで相談に乗ろうじゃないか。俺の人生はまだ白紙の状態だからルイの話の内容によって、いかようにでもなるぜ」

「兄貴。僕の構想は兄貴と一緒に会社をつくって、この会社で自動車ビジネスやろうというものなんだ」

ルイは会社をつくることを考えているのか。
そこまで本気だったら、自分の考えをしっかり伝えなくてはとマルセルは思った。
「だけどな、ルイ。これから会社をつくるというのは、単なる思い付きではダメだよ。男が一生をかけてやろうという仕事は、それだけの覚悟がないとね」

「兄貴。フランスのガソリンエンジン技術はドイツに大きな遅れをとっているんだ。そんな中で、僕が開発したシャフトドライブ技術とトップギヤのダイレクト駆動技術はドイツに負けない世界最新技術だと思うよ」

「ルイ、お前の技術は確かにたいしたものだ。しかしな、会社をつくるとなると、いくら優れた技術があっても、それだけでは成り立たないんだ。営業部門もいるし、経理や総務をつかさどる管理部門も必要になる。これらが全部揃って、会社は成り立つのだぞ」

「兄貴。正直にいって、技術以外のことを僕はまだわかっていないし、しばらくは技術と生産の仕事に集中したいんだ」

ルイは会社設立を簡単なことだと考えているが、そんな単純な問題ではないことを知っておかないと、後で困ったことになりかねないとマルセルは強く感じた。
「お前はそれでいい。問題は営業部門と管理部門だ。この責任者はルノー家の家族であることが、本来望ましいと思う。俺は性格的には営業に向いている。そうなると管理部門の責任者が必要になるが、フェルナン兄貴は慎重な性格で、お金も無駄遣いしないタイプだから、ぴったりだと思うよ」

ルイは兄弟の中でいちばん仲がいいマルセルと2人で会社を設立するつもりであったが、その上の兄まで巻き込むことに戸惑いを感じた。
「兄貴。フェルナン兄さんは、自動車会社の設立に賛成してくれるかな」

「ルイ。フェルナン兄貴も加わって兄弟3人が部門責任者になれば会社はスタートできることは確かだけど、本人の考えを聞いてみないとね。それと、親父から資金的な応援を貰わないと前に進まないぞ」

「そこらへんはマルセル兄貴に頼みたいところなのだ。会社経営のことは兄貴たちに任せて、自分としては技術問題に集中できることが理想的なんだが・・・・」

「フェルナン兄さんと親父を口説くのは、俺に任せなよ」

マルセル兄貴はやっぱり頼りになると、ルイは安心するのであった。
「兄貴、ありがとう。どんなことがあっても、僕と兄貴は運命共同体だ。力を合わせて、ルノーのクルマをフランスでいちばん有名にしようじゃないか」

「ルイ。俺も誓うよ。ルノー車をフランスナンバーワンにするために、この人生を捧げることを」

「兄貴。ありがとう。僕は今日のことは一生忘れないと思う」

「ルイ。力を合わせてがんばろう」


こうして、自動車会社に欠かせない技術の核はルイが担当し、フェルナンとマルセルという2人の兄が出資者として、さらには経営者として参加し、1899年2月にルノー兄弟社という会社が設立されることになった。

ここで注目されるのは会社名である。
3兄弟が力を合わせて経営に当るということで、会社名に“兄弟”の文字を入れたのである。

この会社では自動車の生産ばかりでなく、ルイが発明したシャフトドライブや3速ミッション・ダイレクト駆動技術の特許ロイヤルティーの管理も重要な仕事となった。

ルイの新会社は、資本金の半分で工作機械を買って、12人の顧客から代金を前借して資材を購入し、自動車の生産準備に入ったのである。


Renault1下041話1906
〈“ルノー”創業期のブランドマーク〉





 有名になるにはレースでの勝利がいちばんと考えたルノー兄弟は積極的に参戦した 


自動車を設計するに当って、ルイの関心はエンジンパワーと車重の関係にあった。
この考えは、専門用語でパワーウェイト・レシオという。
いくらパワーのあるエンジンであっても、車両が重いとスピードが出ない。
小さな排気量であっても、軽量ボディであれば自動車は速く走れる。
この考えによって、ルイはパーティー会場でのクルマをさらに改良すべく軽量車両の開発に集中して取り組んだ。

こうしてルノー兄弟社としての市販1号車の“1.75HPモデル”ができあがってきた。
全長1.75メートル、全幅1メートルという、道路占有面積はわずか1.75平方メートルの超コンパクト車は、350キロの重さしかなく、2人を乗せてガソリン1リットルで17キロも走り、最高時速は50キロというスピードが出た。
しかも、トップギヤが直結なので走行音が静かであった。

このクルマは、最初に注文を受けた12台に加えて、半年間で60台を製作し販売されたのである。


041話ルノー1号車
←超小型の〈ルノー/ 1.75HP〉





この頃、ルイは各地で人気が出始めた自動車レースに、自分が開発したクルマを持ち出して、スピードを競い合って楽しんでいて、「クルマの魅力はスピードにある!」といつも言ってはばからなかった。

1899年8月に開催されたパリ~トルヴィーユ(セーヌ湾に面した湾岸町)間レースでは、〈ルノー/1.75HP〉は平均速度39キロで2位に食い込んだ。

その3日後にはパリ~オステンド(ベルギーの海岸都市)間のレースに兄のマルセルともども出場して、兄弟で1位と2位を分け合うというように快進撃を続けたのである。

このようにレースで連勝を続けると、ルノーの名前がだんだんと知られるようになり、ブランドイメージが少しずつ形成されていった。


この時代、自動車エンジンの排気量はしだいに大きくなっていた。
排気量を大型化してパワーアップを図り最高スピードを上げようという考えが主流になりつつあったが、ルイは小型車にこだわり、ヴォワチュレットクラスでの優勝を狙っていた。
このクラスは車重400キロ以下が基準であり、ルイは500㏄に満たないド・ディオン・ブートン製の単気筒エンジンに固執して、このエンジンを改良してパワーを極限まで引き上げていた。

1900年の、パリ~ボルドー間レースのヴォワチュレットクラスで、ルノーチームは新開発の“3.5HPモデル”で4位までを独占するという快挙を成し遂げた。

さらに、1千キロを越すという長距離のパリ~ツールーズ間レースのヴォワチュレットクラスでは、兄マルセルが運転した3.5HPモデルが優勝したが、この過酷なレースでゴールインしたのはルノー車だけだった。

(「41話」はここまで。「42話」は来週の火曜に登場します。)