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50話.イギリス車の大敗北〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アドルフ・クレマン:1855年生まれ。乗り物ビジネスでフランス制覇をたくらむ事業家。
■ハーベイ・デュクロ:1845年頃の生まれ。ダンロップタイヤのフランス進出を企てる男。
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。イギリス人の大金持ちの息子で自動車マニア。
■モンタギュー・ネイピア:1879年生まれ。自動車メーカーに転じたイギリス人技術者。
■セルイン・エッジ:1864年生まれ。オーストラリア国籍のダンロップ社幹部社員。


 S.エッジは助手のチャールズ・ロールスと一緒になって、イギリス車の勝利を狙った 


ネイピア車のディーラーであるモーターパワー社のセルイン・エッジ社長は、新たに開発された最高出力16HPを発揮する4気筒エンジンを積むネイピア車で走行試験を繰り返し、これならフランスにもって行ってレースに参戦したら上位入賞できるに違いないと確信した。

そこで、9月に開催されるパリ~ツールーズ間往復レースにエントリーした。
そして、ドライバーである自分、運転助手のチャールズ・ロールス、メカニックとしてのモンタギュー・ネイピア、それに新型ネイピア車と一緒にドーヴァー海峡を渡ったのである。
この3人の中ではエッジが36歳といちばん年上であり、ロールスは23歳、ネイピア21歳という若さであった。

レースの結果は散々であり、20世紀の幕開けを2カ月後に控えた1900年10月末に、エッジ、ロールス、ネイピアの3人はロンドンへ帰るため、連絡船に乗り込んだ。


この船にはイングランド風のバーが営業していた。
さっそく3人はここに入って、ビールを注文した。
フランス滞在中、自動車レースに明け暮れ疲れ果てていた3人は、苦さの中に独特のこくがあるギネスを久方ぶりに味わったら、最初の瓶はすぐに飲み干された。
中でもいちばん若いネイピアは急ピッチで3本目を空にし、4本目を注文した。

「エッジさん。ふがいない成績で終わった今回のフランス行きは、残念でなりません」
ネイピアは早くもくだを巻きかけていた。

フランス滞在中、リーダーを勤めたエッジは、ここでもネイピアの慰め役に回った。
「ネイピア君。そんなにがっかりすることはないよ。確かに、君が言うように期待した成績に遠く及ばなかったことは事実だ。しかし、考えてみれば、フランス遠征前までは、イギリスとフランスの技術格差がどの程度なのかも正確に把握できてなかったのだから、その点を充分認識できたことは今回の収穫といえるのではないか」

兄貴格のエッジがいくら慰めても、ネイピアの元気は回復する気配がなかった
「エッジさん。確かにイギリスはガソリンエンジン車技術で大きく出遅れてしまったけれど、俺はフランスに渡る前は、それほど差があるという実感はなかったんだ。だけど実際レースに参戦してみると、どうあがいても勝てないという現実にぶつかって、この差をこれから埋めることができるかと不安になっているんだ」

これを受けて、ネイピアより先輩格のロールスが話をつないだ。
「ネイピア君の意見に僕も近いが、僕がフランスのレースで戦ったのは今回が2回目だ。前回はフランス車のプジョーで参戦したが、最下位というなさけない成績で、実に空しい思いをしたのだ」
ロールスは悔しがりながらギネスを飲み干すと、こちらも3本目が空になった。


このまま飲ませていると若者たちは暴走するに違いないと心配し始めたエッジは冷静さを保ち続け、2人を説教するように、あるいは自問するようにしゃべり始めた。
「イギリスのガソリンエンジン車の夜明けとなった年は赤旗法が廃止された1896年のことであり、ドイツではその10年前にガソリンエンジン車が動き出している。この10年間の差は実に大きなものがある」

ロールスがエッジに問いかけた。
「エッジさん、この差を埋めることができますか」

「技術における10年差を追いつくことはかなり難しいが、不可能ではない。それともうひとつ、自動車レースに関して、世界初となるルーアン走行会が1894年に始まり、歴史に残るパリ~ボルドー間レースが1895年に開催されている。イギリスでガソリンエンジン車がよちよち歩きを始めた時代に、既にフランスでは自動車レースを始めているという事実もある」

ネイピアはやけになりつつあった。
「エッジさんの話を聞いていると、フランスに追いつくことは絶望的だと思えてくるよ」

「イギリスはガソリンエンジン車のスタートでは確かに出遅れたが、これからがんばれば充分取り返せる時間だと思うよ」

エッジが慰めにならない言葉を続けたら、これを聞いたネイピアから、「それならいいのだけど」と、投げやりな返事が返ってきた

今度はロールスがネイピアを元気付けるように励ました。
「今回のネイピア車では優勝こそできなかったが、途中までは結構互角に戦えたじゃないか」

エッジがロールスに言い放った。

「レースは途中までトップであったということは何の意味もないのさ。勝負は最後のゴールを1位で飛び込むことであって、これができなきゃ、参戦する意味がないね」

この頃になると、エッジの自制心が緩み、3本目のギネスを空にして、4本目を注文していたのである。


 ロールスはエッジに、高級輸入車ディーラービジネスをやりたいと自分の夢を語った 


Napier,Montague①第一巻050話

〈若手技術者として腕を磨くモンタギュー・ネイピア〉





3人はかなり酔いが回っていた。
8本目を注文したネイピアは、既にろれつが回らなくなって、自分が何を言っているのかがわからなくなっていたが、ロールスは酒の席では絶対に醜態を見せてはいけないという教育を受けていたので、一見して酔っているようには見えなかった。

「エッジさん。僕はやっぱり夢を持つことが大切だと思うのです」

「それはそうだが、君はどんな夢を持っているんだい」

「僕は、大学を卒業したら、自動車ディーラーをやることを考えているのです」
エッジはロールスの言葉を聞いて驚いた。
この優れた青年が自動車ディーラーとしてライバルとなるのは、あまり気持ちのいい話ではない。

「それじゃ。自分と同じ仕事をやるということか」

「もちろんディーラーであることは変わらないけど、僕が考えているのは、金持ち相手の輸入高級車専門のディーラーなんです」

「ロールス君。君も知っているように、自分はフランスからの輸入車の販売をやるつもりになっていたら、クレマン社との提携がご破算になった。そこで、国産のネイピア車のディーラービジネスを始めたが、なかなか期待どおりに売れてないんだ。君が考えているのは高級車専門なんだろ。そんな仕事は、商売になるのかいな」

ネイピアはギネスの空瓶を枕にして、スースーと寝息を立てていた。
さっきからギネスのピッチが早くなり饒舌になっているエッジは、6本目のギネスをウェイターに注文した。

ロールスとエッジの会話が続いていた。
「エッジさん。僕が生まれ育った周りの人たちは、大金持ちばかりで、彼らはイギリスが馬車の時代から自動車の時代に移りつつあるという認識を持ち始めているのです。彼らが、必要とするのは、馬車に替わる実用性を備え、しかも馬車に負けないステイタスを誇示できる自動車なんです」

「現在のイギリスにはそんな自動車は存在していないな」

「だから輸入車に頼らなくてはならないんです」

「輸入車といっても、お前さんの期待に応えてくれるメーカーは少ないな」

「そこのところが難しいと思っているのです。イギリス人のお金持ちが、今自動車に求めているものは何か。単なる実用性ではないことは確かです。馬車に替わることができる条件を満たす乗り物としての機能に加えてプラスアルファの魅力が必要になるが、それがいったい何かを僕はまだ見極めていないのです」

「ロールス君。君なら夢を実現することはできると思うよ。実は今回のフランス旅行で、自分が求めているのが何かがわかったような気がするんだ」

「エッジさん。教えてくださいエッジさんの夢を」

「俺の夢は、イギリス車を世界最速車にすることさ」

「すごい。さすがエッジさん」

「今回のレース参戦でつくづくわかったんだ。やっぱり自動車の魅力はスピードに尽きるということさ。ハイスピードを実現するためにはハイパワーのエンジンが必要になる。このエンジンをつくることができるイギリス人としてモンタギュー・ネイピア君がいる。だから、世界最速車をつくることが自分の夢なんだ」

「エッジさん。あと2カ月で、20世紀の幕開けになります。僕は20世紀になったらイギリスの自動車産業が世界のリーダーに戻ることになるという予感がしてなりません。もちろん、ただ座っていては、実現できません。イギリスの自動車関係者が総力で新しい技術開発に専念して、先行するドイツやフランスとは異なる世界で、イギリス車を世界一にしようじゃありませんか」

自分より若いロールスから思わぬ刺激を受けたエッジは、自信を取り戻したように感じた。
「ロールス君。われわれは産業革命で世界をリードした大英帝国の国民だ。この誇りを忘れなければ、必ずできる。できるまで、やりぬこう」

こうして、セルイン・エッジとチャールズ・ロールスの間で結ばれた固い握手はしばらくの間離れることはなかった。
一方、モンタギュー・ネイピアは、相変わらずの高いびきが続いていた。

(「50話」はここまで。これで『クルマの歴史300話』の「第一巻 自動車の誕生)はおしまいです。「第二巻 自動車産業の興隆」の最初となる「51話」は4月2日(火)に始まります。


50話.イギリス車の大敗北〔前篇〕

《 主な登場人物 》
■アドルフ・クレマン:1855年生まれ。乗り物ビジネスでフランス制覇をたくらむ事業家。
■ハーベイ・デュクロ:1845年頃の生まれ。ダンロップタイヤのフランス進出を企てる男。
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。イギリス人の大金持ちの息子で自動車マニア。
■モンタギュー・ネイピア:1879年生まれ。自動車メーカーに転じたイギリス人技術者。
■セルイン・エッジ:1864年生まれ。オーストラリア国籍のダンロップ社幹部社員。


 フランスのクレマン社とイギリスのダンロップ社との間で欲まみれの提携話があった 


いよいよ『車の歴史300話 第一巻 自動車の誕生』の最終話である。本話は、「38話 アドルフ・クレマンの野望」の続きである。

フランスの新興自動車メーカーとして注目を集めるクレマン社のオーナーであるアドルフ・クレマン社長は自動車業界の帝王になることを虎視眈々と狙っていた。
そして、自社の自動車をイギリスで大量販売しようと考えた。

一方、イギリスのタイヤ産業をリードするダンロップ社のハーベイ・デュクロ社長は、ミシュランに対抗できるクルマ用空気入りゴムタイヤの市場導入を急ぎ、地元のイギリスだけでなくフランスでも大量販売しようと考えた。
こうして、市場支配をもくろむフランス人とイギリス人は話を進め、相互に事業を乗り入れることにした。


ダンロップ社のハーベイ・デュクロ社長が取り組みを始めたのは、クレマン社が手がけるグラジエーター車をイギリスで販売することであった。
そのために総代理店となるモーターパワー社を1899年に設立して、この会社の支配人にセルイン・エッジを任命した。

一方、クレマン社はダンロップブランドのイギリス製クルマ用タイヤをフランスで販売するために、ダンロップ社の資本を入れた合弁企業のフランスダンロップ社をパリ市内に設立した。
欲にまみれた2人の野心的なビジネスマンは、取らぬ狸の皮算用ともいうべき大構想を押し進めた。
しかし、しょせん欲だけの関係であって、真の信頼関係がない2人は、互いに自分の意見を主張するだけで、妥協という言葉を知らないのだから、提携関係はおかしくなってしまった。

フランスからの輸入車をイギリス人に売ることを真剣に考えていたエッジは、はしごを外され途方に暮れたが、そんな時にモンタギュー・ネイピアのことを思い出した。

ネイピアに関しては、「34話」で既に語られているので多くの読者は覚えていると思うが、ダンロップ社の社員セルイン・エッジが宣伝用にフランスで購入したパナール&ルヴァソールをイギリスに持ち込み、チューンアップを依頼した機械屋である。

優れた技術者であるネイピアは、エッジの期待にこたえるパワーアップを実現した。
この経験を通して、エッジはネイピアのエンジン技術なら商売になるに違いないことを確信した。
そして、ネイピアにオリジナル車を開発して、自動車メーカーを始めるように勧め、自分に一手販売権を与えてくれればネイピア車をイギリス中に売りまくるとアピールしたのだった。

最初は、そこまで考えていなかったネイピアであるが、エッジの説得によって心が動き、ネイピア社という自動車メーカーをスタートさせたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


napier1下050話
←“ネイピア”のブランドマーク


その一方で、エッジはハーベイ・デュクロによって設立されたモーターパワー社の株式を自分が買い取り、この会社のオーナー兼社長としてネイピア車のディーラービジネスに専念することを考えた。

この構想をデュクロ社長に伝えたところ、この会社の清算を考えていた社長から大歓迎で受け入れられ、エッジはダンロップ社でのサラリーマン生活に別れを告げたのである。




 S.エッジはお金持ちの息子チャールズ・ロールスを自車の運転助手として採用した 


モーターパワー社の社長に就いたセルイン・エッジは、どうしたらネイピア車の売上を拡大することができるかを日夜考えた。

この時代のイギリスにはガソリンエンジン車の需要がほとんどなく、クルマに興味を示す人は、新しもの好きなとてつもない金持ちに限られていた。
これでは商売にならないので、売上を増やす道はないかと模索していたエッジは、ダンロップ社勤務時代に気がついた自動車レースの活用を思い出し、フランスに行ってネイピア車でレースに参戦することにした。
レース場ではエッジ自らハンドルを握ることにしたが、運転をアシストする助手が必要であり、いろいろ探した結果チャールズ・ロールスという大学生を見つけた。


Rolls,Charles①第一巻050話
〈『大金持ちの息子チャールズ・ロールス〉





この若者は、これからたびたび登場することになるので、ここで生い立ちを記しておこう。

ロールスは1877年にロンドンで誕生した。
ロールス家はもともと貴族の家系で、庶民とはかけ離れた裕福な生活をしていた。
幼い頃から最高レベルの教育を受けたロールスは、ケンブリッジ大学に進学、最新工学理論を学ぶなど、何不自由なく成長していた。

大金持ちのお坊ちゃんの典型的な事例として、ロールスは学生時代にはスポーツと自動車に熱中した。
そして、19歳の時、最新のフランス製自動車のプジョーを親から買ってもらうことになるが、現代のお金持ちがどら息子に自動車を買い与えるのとわけが違う。
クルマそのものの価値を現代に置き換えると小型飛行機が1機買えるぐらいであるから、ロールス家がどれほどの金持ちで、両親はいかに子供を盲愛していたかは容易に想像がつくのである。


イギリスには、1865年に制定された悪名高き赤旗法が残っていた。
ロールスの仲間たちは、赤旗法を揶揄(やゆ)するように買ったばかりのプジョーでロンドン市内を走り回って、ロンドンっ子のひんしゅくを買ったが、それは今日マフラーをはずして轟音を鳴り響かせて暴走する若者に対する大人たちの反応と同じものであったろう。

いつまでもガキっぽい行動に留まっていたら、単なる馬鹿なお坊ちゃんで終わってしまうが、ロールスはそこのところが違っていた。
自動車の可能性に魅せられて、将来、自動車こそが陸上交通の主役になるのではないかという確信をもっていた。
そこで、自動車の魅力をもっと多くのイギリス人に知ってもらおうということで着目したのが自動車レースだった。

1899年22歳のロールスは、愛車プジョーと共にドーヴァー海峡を渡りパリを訪れた。
そして、パリ~ボローニャ間自動車レースにエントリーしたが、このレースの結果は、最下位という無残なものであった。

このことでロールスは自分の運転技術レベルが、一流ドライバーに比していかに低いかを正しく認識することになり、いい教訓になった。
と同時に、「このレースにはイギリス製の自動車が1台も出場していないという事実、しかも唯一出場しているイギリス人である自分がフランス車に乗っているというもうひとつの事実」を、強く意識することとなった。

蒸気機関や各種工作機械の優秀性で、産業革命の盟主として世界中から畏敬を集めていたイギリスが、自動車産業という分野で著しく立ち遅れている点を強く実感したイギリス人は、チャールズ・ロールスが最初と思われる。

(金曜日の〔50話:後編〕に続く)


49話.ゴードンベネット杯の始まり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アンドレ・ミシュラン:1853年生まれ。タイヤに情熱を傾けるフランス人兄弟の兄。
■エドワール・ミシュラン:1859年生まれ。兄アンドレをサポートする弟。
■ジェームス・ゴードンベネット:1860年頃の生まれ。レースを主催するアメリカの新聞王。


 アメリカの新聞王ジェームス・ゴードンベネットは、国別対抗自動車レースを企画した 


Gordon_Bennett,James①第一巻049話
〈新聞王のジェームス・ゴールドベネット〉





アメリカのニューヨークに本拠を置くヘラルド・トリビューンという巨大新聞社のオーナーで、19世紀末にパリに住んでいたジェームス・ゴードンベネットというビジネスマンがいた。

この男は、起こったニュースを報道するというよりも、自らニュースをつくりだす、といったタイプの男で、例えば、アフリカで行方不明になった探検家リヴィングストンの捜索に資金をだし、その発見をいち早く世界中に報道するなど、新聞を売るためにはあらゆる手段を講じていた。

ゴードンベネットは、世紀末を迎えて時代の寵児となりつつあるクルマの話題を読者に提供することが新聞の人気アップには重要だと考えて、自動車レースを開催しようと発想した。

そこで、フランス自動車業界を取り仕切るACF(フランス自動車クラブ)会長のド・ジュイラン男爵に、1万フランを提供するから自動車レースをやらないかと話を持ちかけた。

スタートしたばかりのACFは、自分たちの存在を知ってもらうにはレース開催はうってつけの企画だと判断して提案を歓迎し、正式名称を“国際杯レース”という自動車レースが催されることになった。
しかし、この名は定着することなく、一般的にはスポンサー名をとって“ゴードンベネット杯レース”と呼ばれるようになる。

このレースは自動車の真の実力を国同士が競い合うという国別対抗戦が企画趣旨なので、出場車の選考は各国のオフィシャル機関によってなされ、それぞれの国に最大3台の出場枠が与えられることになったが、こまかい部品にいたるまで出場車は全て自国製であることと、優勝した国が次回の開催国になるというというのがルールとなった。

また、出場車はどの国のクルマかすぐに識別できるように色分けされることになったが、これが自動車レースのナショナルカラーの起源となった。




 第1回となる“ゴードンベネット杯”には4カ国の6台しか参戦を表明しなかった 


19世紀最後の年である1900年6月14日に、第1回となるゴードンベネット杯レースが開催され、フランス、ベルギー、ドイツ、それにアメリカ合衆国の4国からの代表車がそろうことになった。
開催国であるフランスだけは出場枠いっぱいの3台が参戦したが、フランス以外は各国1台しか出場しなかった。

ベルギー代表として参戦することになったカミーユ・ジェナッツィは、つい先頃ロバ伯爵のジャントー電気自動車と熾烈なスピード競争をして、特製のラ・ジャメ・コンタン号で、史上初の100キロ超を達成して勝利したことで、“赤い悪魔”というニックネームと共にフランス中に知れ渡っていた。

ドイツ代表はベンツ車であり、開発したばかりの新車を、パリまで陸送してきて参戦することになった。

もう1台は、大西洋を渡ってきたウィントン車である。
ウィントン社は1897年に創業されたばかりの自動車メーカーであり、自動車レースにはとりわけ熱心であった。

これらの参戦車はどこの国の代表かがわかるように、フランスは青、ベルギーは黄色、アメリカは赤、ドイツは白というように、決められた色をボディに塗っていた。


レースはパリ~リヨン間の570キロの公道で行う予定だったが、事前の関係当局への走行手続きが充分でなく許可を得られなかったので、いつスタートするのか、どこを走るのかが出場車に知らされていなかった。
コースとスタート時間が最終決定されたのが24時間前というように、このレースは段取りがきちっとできていなかった。

直前にコースと出発時間を知らされた各車は慌てることになったが、ドイツからわざわざやってきて見ず知らずの土地を走ることになるベンツチームは、準備が間に合わないとしてスタートすることをきっぱりと拒否した。

ベルギー代表のジェナッツィも主催者の準備不足に抗議する意味でスタートを拒否したが、著名な“スター”が出場しないとレースが盛り上がらないと心配したACF役員の懸命の説得に折れて、出場することをしぶしぶ了承した。

アメリカの新聞社がスポンサーになっていることで、ル・プティ・ジュルナル紙やル・マタン紙などフランスの新聞社は無視して一切報道しなかったこともあって、多くのパリ市民はレースの開催そのものを知らなかった。実際、ヴェルサイユ宮殿前のスタート地点に集まったのはレース関係者とその知人だけであった。




 準備不足のままスタートした第1回ゴードンベネット杯は、まったく盛り上がらかった 


フランス車3台、ベルギー車1台、アメリカ車1台によるレースが始まると、あちこちで混乱が発生した。
アメリカから来たウィントン車は、車輪を壊してしまいリタイヤした。
この結果残るは、フランスとベルギーの2国だけとなり、国別対抗戦の主旨からほど遠くなってきた。

出発直前に手渡された地図を頼りに走り始めたジェナッツィであるが、この地図が不完全なできであり、コースをミスしてフランスの田舎道をあちこちさまようことになった。
いっこうに正式なコースにたどり着くことができないので、堪忍袋の緒が切れたジェナッツィは、決してハンドルを握ろうとしなかった。

これで残ったのは、フランス代表の3車だけとなり、国別対抗戦としての興味は完全になくなった。
例え不完全な地図であっても、フランス人であるだけにミスコースすることはなかったが、メカニズムの方がいうことを聞いてくれなくて、1台は故障で動かなくなってしまった。
残る2台のうち先頭を走っていたクルマは、羊の群れに突っ込んで数匹ひき殺してしまったが、自車の破損も大きく、これまた動かなくなってしまった。

この結果、パナール&ルヴァソールが1台だけ残ることになったが、このクルマの運転手は、走っているのが自分だけだと知らされた時には疲れ果てて、走行する意欲がなくなっていた。

全車リタイヤとなると、レースが成立しなくなるので、ACFスタッフの必死の説得によって何とかゴールにたどり着いたが、ゴールインした時には、ほんのひとにぎりの見物人とわずかな役員が待ちうけていたにすぎなかった。

このレースは公式の表彰式をひらくこともなく、19世紀末の最後の年に開催された国際杯レース、すなわちゴードンベネット杯レースは散々な結果で終了したのである。

(「49話」はここまで。来週火曜日に第一巻「自動車の誕生」の最終回である50話〔前篇〕をお届けします。)


49話.ゴードンベネット杯の始まり〔前編〕

《 主な登場人物 》
■アンドレ・ミシュラン:1853年生まれ。タイヤに情熱を傾けるフランス人兄弟の兄。
■エドワール・ミシュラン:1859年生まれ。兄アンドレをサポートする弟。
■ジェームス・ゴードンベネット:1860年頃の生まれ。レースを主催するアメリカの新聞王。


 ミシュラン兄弟がつくるクルマ用新型タイヤはパリ~ボルドー間レースでデビューした 


『クルマの歴史300話』では、タイヤの話がいっぱい出てくる。
「13話 ゴムタイヤの始まり」を皮切りにして、「24話 空気入りゴムタイヤの誕生」では自動車の発展に決定的な影響を与えたタイヤの新技術を紹介している。
さらに、「31話 ミシュラン兄弟の挑戦」と「32話 パリ~ボルドー間レースの興奮」では、フランスにおけるタイヤ産業のパイオニアであるミシュラン社の成長のようすが語られているが、本話はこの続きとなる。


兄アンドレと弟エドワールのミシュラン兄弟は力を合わせて技術を磨きタイヤビジネスを一生の仕事と定めて、1891年に自転車用空気入りゴムタイヤをつくるミシュラン社を創立した。

その後はクルマ用タイヤの試作を行い、実用化に向かって努力を傾注していたが、1895年にパリ~ボルドー間1,200キロレースの開催が発表されると、自分たちが開発した空気入りゴムタイヤの優秀性を証明しようと考えて、スペアタイヤを山のように積んで参戦した。

レースは兄弟が考えたより実際は過酷で、新型タイヤを装着したプジョーは、スタート直後は順調にスピードを上げるのであるが、すぐにパンクしてしまい、車輪を取り替えるのに時間がかかっているうちに後続車に追い抜かれた。
新品に履きかえると再びスピードを上げて前車を追い抜くのであるが、次々とパンクが襲い、パリに戻ってきた頃には、締切り時間をとっくに過ぎていた。
ところが、最後まで完走したことで兄弟の熱意と執念に対する評価が高まり、ミシュラン製空気入りゴムタイヤの存在は多くの人々の知るところとなったのである。




 ミシュランタイヤのキャラクターのビバンダム君はエドワールの頭脳から生まれた 


自動車マーケティング史の中で、ミシュランタイヤのPRキャラクター“ビバンダム君”は大きな成功事例として、あまりにも有名である。
この誕生は、今から100年以上前の19世紀末に遡るというように、歴史的なPRキャラクターなので、ここでビバンダム君の誕生を振り返ってみよう。


Michellin,Edouard①第一巻049話
〈ビバンダムを発想したミシュラン兄弟の弟エドワール〉





1898年、ミシュラン兄弟の弟のエドワールは、展示会で自分たちがつくったタイヤが山積みされている所を通った。
数多くのタイヤが何の工夫もなく単純に積み重ねられているだけだったが、エドワールには、なぜかこれが動く人間のように見えたのである。

その時、エドワールに新しいアイデアが閃いた。
それは、タイヤ人間をつくろうという突飛なものだった。
自分がイメージした人間にするためには、手足をつける必要がある。
そうすればミシュランを象徴する巨人ができるに違いないと考え、知り合いの漫画家に自分のイメージを伝えて、新しいキャラクターを書かせることにした。

数日後、漫画家は1枚の絵を携えてきた。その絵は、巨大なタイヤ男が中央に立ち、右手に大きなグラスをかかげ、グラスの中身を飲みほさんと、口を開けていた。
タイヤ男が飲みほそうとしているのは、何とガラスであり、釘であり、道にころがっていてタイヤをパンクさせる様々なものだった。

このタイヤ男の絵には、「乾杯! さあ、今こそ飲みほそう」を意味する「ア・ヴォートル・サンテ。ヌンク・エスト・ビバンダム」というラテン語のキャッチコピーがついていた。
つまり“ビバンダム”とは、飲みほそうという意味のラテン語であったが、ここで不思議に思うのは、なぜフランス語でなくラテン語なのかという点である。

今は必ずしもそうではないが、19世紀末のフランスの上流階級ではラテン語は常識になっていて、自動車は限られた上流階級のおもちゃのような存在であり、これに関心を持つような人々にはラテン語がぴったりだったのだ。

この絵をじっと見つめていたエドワールは、大いに気に入ってすぐに兄のアンドレに相談した。
2人はこのタイヤ男をミシュランタイヤのマスコットにすることを決断し、タイヤ男をアピールするポスターがつくられ、あちこちに張られることになった。

しばらく経って、兄アンドレが町を歩いていた時、知り合いの男が自分を見つけて叫んだ言葉を聞き逃さなかった。
男はアンドレのことを、ラテン語のキャッチフレーズにちなんで、「おーい、ビバンダム君のお通りだぜ」と呼んだのだ。
これでタイヤ男の宣伝効果を強く認識したミシュラン兄弟は、タイヤ男の名前を“ビバンダム君”と呼ぶことに決めたのである。


ミシュランタイヤは宣伝だけに力を入れていたわけではない。
いちばん大切なのは技術開発であり、クルマ用としては未完成の空気入りゴムタイヤの改良に務めて、やがて多くの自動車はそれまでのソリッドタイヤに代わって、空気入りゴムタイヤを装着するようになってきた。
ミシュラン兄弟の技術の改善ぶりを証明したのは、速度記録挑戦車への装着であり、1899年に時速100キロ突破という速度記録を達成したカミーユ・ジェナッツィが運転する電気自動車にミシュラン製の空気入りゴムタイヤが採用されて、一躍有名になったのである。

(「48話」はここまで)


Bibanum第一巻049話
〈ミシュランタイヤのビバンダム君〉







48話.世紀末ヨーロッパ自動車業界〔後編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・ランチェスター:1868年生まれ。がんこで誇り高きイギリス人技術者。
■レオン・セルポレ:1858年生まれ。フラッシュボイラーを開発した技術者。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー自動車会社の創業者社長。


 オランダのスパイカーなど、ヨーロッパ各国でガソリンエンジン車の開発が始まった 


19世紀末のヨーロッパでは、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、オーストリアハンガリーというように、列強各国で自動車産業が形成されたが、その他の国でも注目すべき動きが続いていた。

オランダでは、世紀末の1900年に“スパイカー”という自動車が誕生したが、スパイをすることを目的としたクルマではない。
オランダ人のヤコブと弟のヘンデリックというスパイカー兄弟が共同して、外国に輸出することを前提として設計した2気筒エンジンを搭載したスパイカーは、軽快に走るということで、評判が徐々に形成されていった。

ノルウェー、スウェーデンと並んで北ヨーロッパ3国を構成するデンマークでは、カール・ベンツによるガソリンエンジン車開発の翌年という早い時期に、水冷2気筒のエンジンで毎分400回転を回し、3.5HPの出力を発揮する自動車をつくった男がいたらしいが、真偽のほどは定かでない。

ノルウェーでは1897年に、インゲンス兄弟が単気筒の石炭ガス・エンジンを搭載する自動車をつくった記録が残っているという。

一方、現在ボルボやサーブを生産している自動車大国スウェーデンにおいても、1897年に2ストローク水冷2気筒エンジンの自動車をつくった男がいたという。

このように、19世紀末のヨーロッパでは、どこの国にも自動車をつくろうと挑戦した男たちがいたが、ビジネスにするとなると話は別で、先行しているドイツのダイムラー社とベンツ社、フランスのパナール&ルヴァソール社、プジョー社、ド・ディオン・ブートン社などと、競争できるだけの力を持つ自動車メーカーに育つ会社は生まれることはなかった。

これらヨーロッパの大手自動車メーカーの中ではドイツのダイムラー社とベンツ社が最大であったが、それらに続いていたのがフランスのプジョー兄弟社である。
アルマン・プジョーは、プジョー兄弟社の新規事業として自動車を拡大すべくひとりで奮闘していたが、叔父であって社長のジュールは堅実経営を旨として、自動車事業の拡大に消極的であった。
2人は意見が異なることが多く、衝突ばかりするようになってきた。
アルマンとしては、妥協して社長の方針に従うか、それともこの際、自動車部門を分離させて自分がリーダーとして自動車専業経営をするか迷いに迷ったが、とうとう独立する決意を固めることになった。


こうしてアルマン・プジョーは1897年にプジョー自動車会社を設立し、勃興中のフランス自動車産業にあって、パイオニア企業としての陣地づくりに邁進することになった。

それまでのプジョー兄弟社時代のクルマは、パナール&ルヴァソール社がドイツのダイムラー社からライセンスを受けて生産したエンジンの供給を受けていた。
新会社としての最初となる新型車には、自社開発の排気量1.6リッター水冷2気筒エンジンが搭載されることになった。
このクルマはアルマンの持てる力が全て発揮され、優れた性能をもっていたので、顧客から好評をもって迎えられて、新会社としてはまずまずのスタートを切ることができたのである。

アルマン・プジョー率いるプジョー自動車会社は、新車開発に意欲的に取り組んで、19世紀末には2シーターの小型車から12人乗りのバスまで10種以上の車種体系を持つようになった。
1898年の年間生産台数は150台を超え、翌年には倍増の300台を突破し、1900年には年間500台を生産する大会社になっていた。

19世紀の最後の年で、年間で100台以上を生産する自動車メーカーは、ヨーロッパではドイツのダイムラー社とベンツ社、そしてフランスのプジョー社の3社だけだったといわれている。




 蒸気自動車が劣勢の19世紀末に、レオン・セルポレは高性能蒸気自動車を発表した 


ここまでの物語の展開で、自動車の動力の主導権を巡る、蒸気自動車、電気自動車、ガソリンエンジン車の三つ巴の戦いは、ガソリンエンジン車の勝利が決定的になったという印象を持っている読者が多いと思うが、19世紀末に蒸気自動車の大逆転が起こるのではないかという技術革新がなされた。

蒸気自動車からガソリンエンジン車への転進に成功したド・ディオン伯爵に対して、フラッシュボイラーを発明し、蒸気自動車の完成度を高める努力を継続したのがレオン・セルポレである。

新技術によってフランスにおける蒸気自動車分野のスターになったセルポレであるが、彼が設計した蒸気機関を採用したプジョー社が撤退したことによって、急速に蒸気自動車の人気が落ちてしまった。

世紀末が押し迫った1898年に新しい小型蒸気機関を開発したことで、セルポレに再びスポットライトが当ることになった。
この水平設置2気筒蒸気機関のボイラー重量はわずか23キロしかなく、燃料となるパラフィンの供給量は水の供給量に応じて自動的に増減される装置が付いていた。
これを載せたセルポレの新型蒸気自動車は洗練されたスタイルをしていたので評判は上々だった。
このクルマにほれ込んだ金持ちのアメリカ人が出資者として名乗り上げたので、セルポレはモンマルトルに新工場を建設した。
ここで生産される新型蒸気自動車が、1900年から発売開始されると、各地のレースでガソリンエンジン車に劣らぬ走行性能を示して大活躍するのである。

こうして、19世紀末にセルポレがつくった高性能蒸気自動車によって、20世紀は蒸気自動車の時代に戻るとの観測が生まれるほどの強いインパクトをフランス自動車業界にもたらしたのである。


今から振り返ってみると、19世紀末のヨーロッパは中世から受け継いだ伝統的な文化と、産業革命によって誕生した近代工業が融合するという極めてユニークな時代であったと思われる。
大きく世の中が変化する中で、人々は人間性にあふれ、生き生きとした毎日を過ごしたわけだが、今ではとても考えられないようなことが次々と行われた。
現代人から見ると不思議なことも、当事者は真剣に考えて行動したに違いないので、単純に馬鹿にしてはいけないと思う。

そんなできごとの中で乗り物のスピードを競い合うというイベントは最も人気があった。
同種間の乗り物同士の競い合いもおもしろいが、異種間のスピード競争はもっとおもしろいということで、自動車、オートバイ、自転車、馬、そして人の混合スピードレースが1899年に開催されることになった。

これだけいろいろな乗り物が一緒に走ることになると、ある種のハンデキャップの設定が必要になって、これをどのように設定するかを主催者が決めるわけだが、基準があるわけではないので適当に決められてレース当日を迎えることになった。

今となっては、どんなハンデキャップが設定されたかは不明であるが、結果だけははっきりしていて、トップを切ってゴールインしたのは人が乗っている馬であった。
2位も馬で、3位がオートバイという順番になり、やっと4位に自動車が入ったという。

このようなレースは、ハンデキャップを設定しなければ、競争にならないが、この設定次第で優勝が決まるから、つまらないということで、これ以降開催されることはなかったそうだ。

1899年の自動車レースのメインイベントは、フランス国内を周回するツール・ド・フランスであった。
この2,200キロになんなんとするレースは、パリをスタートしてフランス国内をあちこち回ってパリに戻るという過酷なレースであった。
第1回のツール・ド・フランスで優勝したのは、パナール&ルヴァソールで、4位まで独占したが、流線型の新型車として登場したばかりの〈ボレー/トルピヨール〉はキャブレターがほこりを吸い込んだため、本来の性能を発揮できなかったにもかかわらず5位にくいこんだそうだ。

(「48話」はここまで)