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57話.アメリカ車の開発ラッシュ〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エルウッド・へインズ:1857年生まれ。合金づくりに熱中したアメリカ人技術者。
■エルマー&エドガー・アパーソン:1861年と69年生まれ。ヘインズと手を結んだ兄弟。
■ウィリアム・スタインウェイ:1835年頃の生まれ。ピアノビジネスで大成功した移民。
■チャールズ・グッドイヤー:1800年生まれ。化学物質に興味を持つアメリカ人。
■アレクサンダー・ウィントン:1860年生まれ。ウィントン社を創業したアメリカ人。



 C.グッドイヤーの技術によって、クルマ用ゴムタイヤ産業がアメリカ各地で勃興した 


ここからはゴムタイヤの話である。
19世紀前半におけるゴムの加工技術では、イギリスが一歩も二歩も世界をリードしていた。
ところが、1839年にアメリカ人のチャールズ・グッドイヤーがゴムと硫黄を混ぜて加熱するゴム熱加硫法という新しい技術を開発したことから、アメリカではゴムの利用法が広がった。

その一方で、ゴムタイヤに関しては、スコットランドの獣医であるジョン・ダンロップの功績が大きい。
ダンロップは息子との約束を守るため、空気入りゴムタイヤをつけた3輪車を完成させた。
ダンロップの空気入りゴムタイヤは、スチール車輪の上にゴムチューブを皮で巻きつけてあって、ゴムの中の空気がクッションの役割をして、それまでのソリッドゴムだけのタイヤに比べて格段に乗り心地が良くなっていた。
こうして、最初の空気入りゴムタイヤは自転車に採用され、タイヤ産業が勃興して需要は高まった。


自転車用のゴムタイヤ需要に代わって、クルマ用ゴムタイヤが必要となる時代になると、アメリカのタイヤ産業も動きが活発になった。
その最初は、アメリカ人軍医のベンジャミン・グッドリッチである。
グッドリッチは、医療のかたわらゴムの研究を趣味にしていた。
そのうちに趣味が本業に代わることになって、職業が医者から化学者となった。
今度は、自分の得意分野であるゴムを使った製品をつくって人々に喜んでもらおうということで、1870年にB.F.グッドリッチ社を設立し、今度の職業は事業家になった。


Goodrich,Benjamin第二巻057話
〈軍医出身のベンジャミン・グッドリッチ〉





この会社はたくさんのゴム製品をつくるようになったが、グッドリッチはクルマ用タイヤがゴム利用の中心になるに違いないと確信をもって、研究を進めていた。

試作品ができあがったので、アレクサンダー・ウィントンという男が創業したウィントン社に試作品を持っていった。
ウィントンはこのタイヤをたいそう気に入って、「前金を払うので、最初に当社に供給してくれるよう頼む」ということになり、グッドリッチのタイヤビジネスは幸先のよいスタートを切ることができた。
空気入りゴムタイヤは、ゴムだけでつくったのでは強度が弱いことがわかってきた。
そこで、強度を高めるために“コード”と呼ばれる織物をゴムで皮膜する構造が考えられるようになってきた。
その頃の繊維は、絹を別格とすれば麻と綿しかなかったが、どちらを使っても必要とされる強度が得られなかった。
ところが、グッドリッチが強度を高める工夫をこらしてバイアス織という織り方のコードを補強材として使用するタイヤを開発したところ、このタイヤの車重に耐える力と耐久性は、それ以前のタイヤに対して数倍あるという優れたものとなった。



 自転車屋の青年アレクサンダー・ウィントンが、小型のガソリンエンジン車をつくった  


ここで、グッドリッチからコード入りタイヤの話を持ちかけられたアレクサンダー・ウィントンの話をしておかなくてはならない。

デトロイトに近いオハイオ州クリーヴランドの町で自転車の製造をしていたウィントンは、この仕事に飽きてきて、何か新しい乗り物はないかと探していた24歳の時に、『科学アメリカ』のベンツ車の構造図をみて大いに啓発され、ガソリンエンジンで動く乗り物づくりを始めることになった。

自転車の技術しかないウィントンは、今回のような高度な機械は初めてなので苦労を重ねたが、1896年になって艱難辛苦の末に小型軽量のガソリンエンジン車の試作モデルをつくることができた。
試走を繰り返して完成度を高めて、商品として売り出すことができると自信を持ったので、この乗り物をビジネスにするウィントン社を創立した。

最初の製品は期待したように売れることはなかった。そこで、1号車の抜本的な改良に取りかかったら、軍医のベンジャミン・グッドリッチから、新しいタイプのタイヤの話が舞い込んできたのである。
さっそく、これを装着して走行試験をしてみたところ、従来のタイヤより、操縦性、走行性、乗り心地、耐久性というタイヤに求められる性能が著しく向上していることに気がついた。
今まで死に物狂いで仕事をやってきた自分に、やっとのことで幸運の女神が舞い降りてきたと確信を持ったウィントンは、次に売り出す新型車にグッドリッチのバイヤスタイヤを採用することにした。

この乗り物は自転車用のパイプフレームとワイヤホイールを使い、これまた自転車用のチェーンを強化し使用するなど、自転車にエンジンを載せたような乗り物であった。
方向チェンジは棒ハンドルで操舵するやり方であったが、アッカーマン機構を採用していたのでスムースに回ることができた。
また軽量に仕上がっているので、排気量が小さな水冷方式単気筒エンジンでも軽快に走ることができたのである。
1898年から新型車の市販が始まると、ウィントン車の評判は徐々に上がってきて、馬なし馬車製造業者としての経営はだんだんと軌道に乗ってきた。


ここまでに記したイリノイ州のデュリエ兄弟、インディアナ州のエルウッド・ヘインズ、オハイオ州のアレクサンダー・ウィントンたちは、雑誌『科学アメリカ』に掲載されたベンツ車の構造図をみて立ち上がり、アメリカ合衆国のガソリンエンジン車のリーダーたらんと活動を開始するのであったが、この他にもたくさん若者が挑んでいた。

ミシガン州ランシングでは20歳になったばかりのランソム・E・オールズが、デトロイトでは16歳のチャールズ・キング少年が、ガソリンエンジン車づくりに挑戦を始めている。

このような動きは若者ばかりでない。
ミシガン州ディアボーンではエジソン電灯会社で働く31歳のヘンリー・フォードという男も、ガソリンエンジン車づくりに励むことになった。

本話に登場した6人(組)の名前は、実際クルマづくりに成功して、アメリカ自動車史に名前をとどめている人物ばかりであるが、この他にどれほど多くの人たちが新しい乗り物をつくろうと必死の努力を続けたことであろうか。
その正確な人数は、今となってはわからない。

(「57話」はここまでで、58話は来週の火曜日に掲載。)


57話.アメリカ車の開発ラッシュ〔前編〕

《 主な登場人物 》
■エルウッド・へインズ:1857年生まれ。合金づくりに熱中したアメリカ人技術者。
■エルマー&エドガー・アパーソン:1861年と69年生まれ。ヘインズと手を結んだ兄弟。
■ウィリアム・スタインウェイ:1835年頃の生まれ。ピアノビジネスで大成功した移民。
■チャールズ・グッドイヤー:1800年生まれ。化学物質に興味を持つアメリカ人。
■アレクサンダー・ウィントン:1860年生まれ。ウィントン社を創業したアメリカ人。



 天然ガス会社を経営するエルウッド・へインズは新しい乗り物の必要性を痛感した 


1889年に雑誌『科学アメリカ』に掲載されたドイツ人カール・ベンツが開発したガソリンエンジン車の構造図は、アメリカ人技術者を大いに刺激し、アメリカ合衆国での最初の開発者にならんと、あちこちでクルマづくりが始まった。

その中にインディアナ州ポートランドに生まれたエルウッド・ヘインズという優秀な技術者がいた。
ヘインズが学校卒業後に取り組んだ仕事は金属の研究であり、金属固有の特性を最適に組み合わせて新しい性質を持つ合金づくりに熱中した。
そしてタングステン・クローム鋼、クローム・ニッケル鋼、ステンレス鋼などの開発に関与するなど大きな仕事をした。
このうち、ステンレス鋼はクロムと鉄の合金、それにニッケルを加えた合金類の総称で、大気中で使用した場合、肉眼で見えるような錆をほとんど生じないという優れた特性をもつ合金で、20世紀には広く普及することになる。


Haynes,Elwood第二巻057話
〈合金を研究していたエルウット・ヘインズ〉





へインズは30代の半ばを過ぎる頃には、才能を認められてインディアナ州に本拠地を置く大手の天然ガス会社の事業責任者に就いた。
天然ガスの実態把握のためにアメリカ各地を視察することが多く、鉄道がある所は列車を利用するが、駅から先は馬車での長旅となることがしばしばあった。
そこで、馬車よりもっと早く目的地に行けて体が疲れない乗り物の開発を考えるようになった。

自分の持っている科学知識を総動員しても、新しい乗り物の具体的なイメージが描けなかったが、毎月購読している『科学アメリカ』に掲載されたベンツ車の構造図を見たことが開発のきっかけとなった。
そして、ガソリンエンジンで動く乗り物の設計作業にとりかかると同時に、地元で評判の高いアパーソン機械製作所に、一緒に仕事をやらないかと話を持ち込んだ。

この会社を経営しているアパーソン兄弟もやる気満々になって、1893年11月にガソリンエンジン車をメインビジネスにするヘインズ・アパーソン社が設立され、設計はヘインズ、製作はアパーソン兄弟という仕事の役割が確認された。
ヘインズが考えた乗り物は、2ストロークタイプで出力は1HPという単気筒エンジンを水平に設置し、ミッションを経由してエンジンパワーをチェーンで後車輪を駆動するという、現代用語で言えばミッドシップ型である。
設計図を受け取ったアパーソン兄弟は、これに基づいて製作に没頭した。
できあがったガソリンエンジン車は車両重量が370キロと軽かったので、時速20キロというスピードで走行できる優れた性能が発揮されたのである。

1894年7月のアメリカ合衆国独立記念日に、大勢の人びとが驚きと不安をもって見守る中を、小さなガソリンエンジン車はインディアナ州の田舎町でコトコトと音をたてながら走リ出した。

このクルマは翌年にはヘインズ・アパーソン社から販売が開始されたが、新しい乗り物に興味を示す人は少なくなかったが、実際購入するとなると話は別で、いっこうに売れなかった。



 ドイツから移住したピアノ王スタインウェイとダイムラー社の合弁事業は失敗となった 


アメリカの自動車史の中で、ドイツのゴットリープ・ダイムラーと、アメリカの“ピアノ王”との合弁企業の失敗という有名な話があるので、ここで紹介するとしよう。
“スタインウェイ”ブランドで有名なピアノメーカーであるスタインウェイ社の創立者ハインリッヒ・スタインベルクは、ドイツの地で高級家具やオルガンを製造していた。
自分たちの技術を生かして、ビジネスの幅を広げようということでピアノ製作に手を伸ばし、1839年に自作の第1号ピアノを博覧会に出品したところ金賞を得た。
これで自信をつけ、スタインベルクはピアノ製造業に仕事を変えることにしたが、この変身は心配した以上にスムースにことが運んだ。

ところが、1848年にフランスで起きた2月革命によって王制が破壊されると、この影響はすぐにドイツの地に及んで、自分たちの仕事を支えてくれていた王侯貴族たちのピアノ需要が急減する事態となった。
家長のスタインベルクはこのままでは先行きに見通しが立たないと判断して、思い切って一家をあげて新大陸に移住することにした。


スタインベルクは1853年にニューヨークでピアノ製造会社を設立したが、ブランドが“スタインベルク(Steinwerg)”ではあまりにドイツ的すぎるので、ファミリーネーム共々ブランドもアメリカ流に“スタインウェイ”(Steinway)に改めることにしたところ、スタインウェイのピアノは音が素晴らしいということで、アメリカ人の人気ブランドになってきた。

1856年にベッセマー法という新しい製鋼法が開発されて鉄鋼の大量生産が始まり、産業界にいろいろな影響が出てきた。
そのひとつとしてピアノ線が安価になったので、ピアノを低コストで製造できるようになり、その分価格を安くすることができた。
この結果、それまで高嶺の花であったピアノは、庶民でも買う気になれば手に入るようになり、合衆国でのピアノ人気は一気に高まった。
スタインウェイのビジネスは、豊かになりかけていた人々の購買心を大いに刺激して、やがて“ピアノ王”と呼ばれるまでになるのである。


Steinway,William第二巻057話
〈ドイツ移民のピアノ王ウィリアム・スタインウェイ〉





19世紀の後半になると、長男のウィリアム・スタインウェイが先代の後を継いで事業に当っていた。
経営は順調に運んでいたが、ウィリアムはなぜか、話題が多くなってきたガソリンエンジンに注目した。
そして、ピアノだけでは将来経営が安定しないかもしれないと思い、次世代事業としてガソリンエンジンビジネスを考えるようになっていた。


ピアノづくりをしている会社がガソリンエンジンをつくるとなると、まったく技術がないことは自明である。
そこで、アメリカでもその高名は知れ渡っていたドイツ人ゴットリープ・ダイムラーから技術導入をして、アメリカ国内でライセンス生産する事業化プランをつくり上げた。

1888年の春、ウィリアム・スタインウェイは、ドイツのカンスタットを訪問してダイムラーに会った。
そして、ダイムラーのエンジン技術をアメリカで活かすべく、「共同で会社を設立して、アメリカでダイムラーエンジンを生産しませんか」と提案した。

ダイムラーはこの提案を受け入れることにして、この年の秋にスタインウェイ側とダイムラー側の折半出資によって、アメリカ合衆国法人が設立された。
新会社の事業内容は、当初は小型船舶用のガソリンエンジンを生産し、その後にダイムラー車そのものを生産することで合意が得られた。

こうして、ジョイントベンチャーは船出することができたが、経営方針を策定するに際してドイツ側とアメリカ側の利害が衝突してばかりいて、スムースな運営ができず、いつもギクシャクしていた。

合衆国におけるダイムラー車の生産は1895年から始まったが、この国にはガソリンエンジン車に関心を示す人が少なく、期待した台数を販売することができなかった。
さらに合衆国特有の特許問題があったりして、ゴットリープ・ダイムラーはアメリカでの事業をやる気が少しずつなくなってきた。
1896年にウィリアム・スタインウェイが死去したこともあって、アメリカとドイツの合弁事業は大きな成果を生み出すことなく解散することとになったのである。

(金曜日の〔57話:後編〕に続く)


56話.アメリカで最初の自動車レース〔後編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・アダムス:1860年頃の生まれ。自動車好きのシカゴ在住アメリカ人。
■ハーマン・コルサート:1845年頃の生まれ。シカゴタイムス新聞社の社長。
■フランク・デュリエ:1870年生まれ。アメリカ初のガソリンエンジン車を製作した男。
■ジェリー・オコーナー:1870年頃の生まれ。アメリカ初の自動車レースに参戦した若者。



 F.アダムスはシカゴタイムス紙のコラムで、誕生した“馬なし馬車”の可能性を論じた 


Corsate,Harman第二巻056話
〈アダムスの提案を受け入れたハーマン・コルサート〉






それから間もなくして、シカゴタイムス新聞社は、馬なし馬車品評会の開催を社告として新聞紙上で発表した。

この品評会では、外観、居住性、乗り心地など数多くのチェック項目で、馬なし馬車の総合性能を審査することになったが、中でも走行スピードは最大要素であることが読者に知らされた。
それと、隠れた技術者を発掘することを狙って、優勝賞金として5千ドルという破格の大金が与えられることも伝えられ、多くの読者の関心を引くことになった。

アメリカで最初となる品評会の企画から運営までの全ての仕事を任されたフレデリック・アダムスは、すぐに準備活動に入った。
アメリカ中を駆け巡りながら馬なし馬車の開発に取り組んでいる技術者を発掘し、これらのパイオニアたちを経済的に援助し、さらに自分の技術者としての能力を活用して助言したりした。


そして、誕生したばかりの馬なし馬車の将来性を知ってもらおうと、シカゴタイムス新聞のコラム欄をもらい、『合衆国の発展と馬なし馬車』と題する次のような論説を書いたのである。

『ガソリンを燃料とする内燃機関を載せて走る乗り物は、ドイツ人のカール・ベンツによって1886年に開発され、ドイツ国内ばかりでなく、瞬く間にフランス、イギリスなど先進諸国に広まっていった。
わが国では、1889年に雑誌『科学アメリカ』に、ベンツ車の構造図が掲載されたことがきっかけになり、イリノイ州のデュリエ兄弟を始めとして、挑戦意欲のある若者が次々とガソリンエンジンで動く乗り物をつくり始めているが、この乗り物の将来性に疑問をさしはさむ人が多いので、この機会に馬なし馬車の将来性に関する私の考察を披瀝させていただくことにする。
馬車に代わる交通機関として、電気モーター式、蒸気機関式、ガソリンエンジン式の3つのカテゴリーの馬なし馬車が既に売り出されている。
現在のところ、これらのどのカテゴリーが主流になるかは予断を許さない。
最後に勝利するのは、製造コストと維持コストがいちばん安い乗り物になることは間違いないが、そのためには、同じ車種を大量生産することが前提となろう。
国土が広く、鉄道だけでは国内くまなく交通網をつくることが難しいわが国では、自力走行できる馬なし馬車はうってつけの交通手段である。
現時点では、道路舗装ができていない上に、馬なし馬車の性能が充分でないので普及が遅れているが、この2点が解決されると状況は一変するに違いない。
それと、馬なし馬車が走る道路を国内全域に新設することができれば、わが国は大きな発展が期待され、工業力で先行しているイギリス、フランス、ドイツに追いつくことは不可能ではないことを認識すべきである。
馬なし馬車のアメリカ産業への貢献は工業分野だけに留まらない。農業分野における貢献によって、産地と消費者は直接結びつくことになり、国内のどこかでつくられた農産物が、短時間のうちに大都市に住む消費者に届けられる時代がすぐやって来るであろう。
このように馬なし馬車は、20世紀の幕開けと共に、アメリカの基幹産業を形成し、人々の生活を豊かにすることに貢献するに違いないことを私は確信している。

フレデリック・アダムス』



 11月に延期されたモトサイクル品評会に集まったのは、たった5台しかなかった 


シカゴタイムス新聞社が主催する馬なし馬車品評会の実行責任者になったフレデリック・アダムスは、人々の関心を引き寄せるために次々と新企画を打ち出したが、そのひとつに名前募集キャンペーンがあった。

「馬なし馬車という名前は、いかにも即物的だ。もう少しスマートな名前はないか」という考えに基づいて、エンジン付きの乗り物にふさわしい名前を募集するコンテストの実施を新聞紙上で発表したところ、たくさんの応募があった。

コルサート社長を委員長とする審査員がディスカッションを重ねた結果、“モトサイクル”という名前を採用することにし、この名前で応募した3人に、500ドルの賞金が等分して与えられた。
これ以来、モトサイクルの呼び名は、品評会に参加する全ての乗り物に適用されることになった。

シカゴタイムス新聞社が主催するモトサイクル品評会への参加申し込みの締切日がやってきた。

当日までの参加申し込みは85台という期待以上の多さでコルサート社長を喜ばせた。
アダムスが申し込み車を1台1台チェックしてみたら、ほとんどが発明家の卵たちの思いつきや夢想的なもので、本当に動くものは10分の1に満たないと推定されたが、とりあえず幸先のよいスタートに胸をなで下ろすことになった。


いよいよ、アメリカで最初となるモトサイクル品評会が1895年7月4日の独立記念日に開催されることになり、参加申し込みをした85人に具体的な審査基準など詳細情報を連絡して参加を促した。
ところが、この時点でモトサイクルを完成させている技術者はほとんどいなくて参加する旨の返事が少なく、今度はアダムスをがっかりさせるのである。
これではとても予定通り開催できる状況でないことがはっきりしたので、シカゴタイムス新聞社は、4カ月後への延期を発表した。


10月が終わって11月2日になり、アダムスは準備万端整えて参加者を待っていたら、品評会当日に集まったのは、ドイツ製のベンツ車とアメリカ製のデュリエ車しかいなかった。
これでは、まともな品評会にならないので、コルサート社長は3週間後の第四木曜日の感謝祭の日まで再度の延期を決断した。



 モトサイクル品評会の走行競技会で勝利したのは、アメリカ車の“デュリエ”だった   


参加車が少ないため2度にわたって延期されたモトサイクル品評会は、最後のチャンスである第四木曜日の感謝祭の日を迎えることになった。
不幸にもこの3日前、シカゴ地方に初雪が降った。
これが例年にない大雪で鉄道網は寸断され、あらゆる乗り物は立ち往生してしまった。
交通復旧に向かって昼夜をわかたない作業が続けられたが、感謝祭の日になってもあちこちに雪が残っているという最悪のコンディションの中での品評会の開催となった。

このような状況の中で、本当に出場してもらえるか不安になったアダムスは、品評会の前日に申し込み者の11人に、次の朝どんなことがあっても参加するという約束をとりつけて、安心して眠りについた。
ところが、翌日スタート時間に集まったのは、ガソリンエンジン車が4台と電気自動車が2台の合計6台で、蒸気自動車は1台もなく、開催を2度にわたって延期した効果はまったく出ていなかった。
エントリーしたエレクトロバット車とスタージェス車の2台の電気自動車は、バッテリー充電基地をコース途中に設営することができなかったので、勝利は絶望的であった。
4台のガソリンエンジン車のうち3台はドイツ製のベンツ車で、そのうちの1台のドライバーはジェリー・オコーナーという金持ちの若者であった。
ガソリンエンジン車の残りの1台は唯一のアメリカ製となったデュリエ車で、弟のフランクがハンドルを握ることになった。


O’Cornor,Jerry第二巻056話
〈レースに参戦したジェリー・オコーナー〉





6台は展示会場に並べられ、外観や内装、そしてエンジン出力などの基本的な性能が採点された後、スピード競技が行われることになった。

大雪の後遺症があって、スピード競技は当初予定していた市内中心部から郊外の森を往復する148キロでは無理があるので、行く先は42キロ先のエバンストンに変更された。

くじでスタート順位か決められることになり、1番くじを引いたデュリエ車が審判長の合図によって午前9時にスタートを切り、間隔をおいて残りのクルマが続いた。
走行スピードで勝る軽量のデュリエ車は、2位以下にどんどん差をつけたが、10キロ地点でハンドルを折ってしまった。近所の鍛冶屋に飛び込んで修理してもらったが1時間をロスし、フランクが運転席に戻った時にはオコーナーのベンツ車にリードを奪われていた。

走行コースに面している自宅の2階の窓を開けて、今か今かと待っていたコルサート社長は、雪の吹きだまりを蹴散らしながらベンツ車が近づいてくるのを見て、アダムスを信用し品評会を援助してきた自分が間違っていなかったとほっとした。


トップを走るオコーナーのベンツ車はエバンストンを折り返した。
その後をデュリエ車が追走した。
既に、電気自動車2台とベンツ車2台はリタイヤしており、走行しているのはオコーナーのベンツ車とフランクのデュリエ車だけとなった。

スタートを切って8時間が経過する頃、ベンツ車にデュリエ車が追いつき、並走することなく追い抜いた。
これで冷静さを失ったオコーナーはベンツ車のエンジンを全開して必死の追走を続けた。

ここまで限界いっぱいの走行を続けてきたフランク運転のデュリエ車は、シカゴ市内に戻ってきたら点火装置が壊れてしまった。
何とか修理をしなければと、近くにあった機械職人の店を見つけたが、祝日だったため営業をやっていなかった。
これで諦めるようなフランクではない。
店主の住んでいる所をしつこく聞いて回り、店主の自宅まで行き頼み込んで修理をやってもらい競技会に復帰した。
この間、オコーナーのベンツ車の方も無理がたたり、エンジントラブルによって動かなくなっていた。
こうして平均速度8キロで10時問半を走りきったデュリエ車がゴールインすることによって、スピード競技は終了した。


この品評会で、唯一のアメリカ製ガソリンエンジン車が、スピード競技ばかりでなく総合成績でもトップになったことで、デュリエ車は“アメリカ大陸でのガソリンエンジン車のパイオニア”としての名誉と喝采をあびることになった。

アメリカで最初となるモトサイクル品評会のようすは、シカゴタイムス新聞を通じて報道され、多くの読者の関心を呼ぶことになった。

パリ~ボルドー間レースでのエミール・ルヴァソールの平均時速24キロに対して、この品評会の平均スピードは8キロというように、アメリカの技術水準は、ヨーロッパに対して大きな隔たりがあるという現実が明らかになった点は、アメリカ人技術者への刺激剤になった。
この一方、アダムスが推進したモトサイクルという名前は、これ以降まったく普及することはなかったようだ。

(「56話」はここまでで、57話は来週の火曜日に掲載。)


56話.アメリカで最初の自動車レース〔前編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・アダムス:1860年頃の生まれ。自動車好きのシカゴ在住アメリカ人。
■ハーマン・コルサート:1845年頃の生まれ。シカゴタイムス新聞社の社長。
■フランク・デュリエ:1870年生まれ。アメリカ初のガソリンエンジン車を製作した男。
■ジェリー・オコーナー:1870年頃の生まれ。アメリカ初の自動車レースに参戦した若者。



 フランスでの自動車レースの人気を知ったフレデリック・アダムスにアイデアが閃いた 


アメリカの雑誌『科学アメリカ』に載っているベンツ車の図解を見て刺激を受け、合衆国各地のエンジニアの若者がガソリンエンジン車づくりに邁進している頃、ヨーロッパ大陸のフランスでは自動車の人気が急速に高まっていた。

これを刺激したのは自動車レースであり、最初に行われたのは1894年7月ル・プティ・ジュルナル新聞社が主催したパリ~ルーアン走行会であり、パリからルーアンまでの128キロの片道コースで行われた。
この走行会には、プジョーやパナール&ルヴァソールを始めとするガソリンエンジン車と、ド・ディオンやセルポレなどの蒸気自動車が、全部で102台参加したという。

翌年6月、今度は“パリ~ボルドー間往復自動車レース”が開催された。
このレースは、1,200キロという長丁場で、スピードと耐久性を競う本格的なものであり、15台のガソリンエンジン車、6台の蒸気自動車、1台の電気自動車の合計22台がその実力を競い合うことになったが、この時代の技術水準では1,200キロもの長距離を完走するだけでも大変であり、故障や事故による途中退場車は後を絶たなかったようだ。

過酷なスピードレースをトップでゴールインしたのはエミール・ルヴァソールが運転するパナール&ルヴァソールであった。
これだけの長距離をひとりで運転して、48時間47分という驚異的な記録で走りぬいたのである。

このようにヨーロッパ、特にドイツとフランスのガソリンエンジン車産業は世界の先頭を走っていたのに対して、アメリカは大きく遅れていた。


こんな時、シカゴに住むフレデリック・アダムスという名前の機械技術者は、フランスで新聞社が主催して、世界で最初となる乗り物レースが開催されたことを知った。

アダムスは、誕生したばかりの馬なし馬車のスピード競走はアメリカでも人気が出るに違いないと考えた。
それと、このレースを主催したのが新聞社である点に着目し、自分なりの素晴らしいアイデアが点灯したと確信した。
そこで、シカゴではいちばん著名な新聞社であるシカゴタイムス・ヘラルド(以下、シカゴタイムス)社に自分のアイデアを売り込むことにした。
そして、これだけ大きな企画となると下っ端では話にならないので、直接社長を口説くのが早道だと考え、新聞社のハーマン・コルサート社長宛てに手紙を書いた。

これを読んだコルサート社長から、「興味があるので話を聞きたい」と返事が来て、アダムスを喜ばせたのである。


Adams,Frederic第二巻056話
〈自動車レースを提案したフレデリック・アダムス〉









 シカゴタイムス新聞社のハーマン・.コルサート社長は、F.アダムスの提案に共感した 


それから1週間後、フレデリック・アダムスはシカゴタイムス新聞社ビルの前に立ち、そびえ立つ高層建築を見上げて深呼吸をした後、勇気をふるって社長室まで直行した。

物々しいいでたちの守衛が警護する中で、受付の秘書とおぼしき中年の女性に訪問意図を伝えたところ、「お待ちしていました」という返事と共に社長室に導かれた。
そこには、50歳代と思われる精力的なビジネスマンが、立って出迎えてくれた。
「アダムス君だね。かけたまえ」
コルサート社長は、来客にやさしく声をかけた。

「コルサート社長、本日は私のために貴重な時間を割いていただきまして本当にありがとうございました」
お礼の言葉がスムースに出たことでアダムスは少し落ち着くことができた。

「わしは君の手紙に書いてある新聞の売上増につながる新提案にたいへん興味を持っているのだ。何しろ、うちの新聞はライバル紙のトリビューンと熾烈な売上競争をしていて、何か記事のねたになる企画はないかと、いつも思っているところに手紙を受け取ったので、君に来てもらったんだよ。手紙に書いてある新聞の売上増と合衆国の発展に貢献するイベントというのは、いったいどんなものなのかね」

コルサート社長はいかにもやり手の経営者という感じで、ずばり本題に切り込んできたので、アダムスとしても話しやすくなった。
「それではお話させていただきますが、私が考えたのは“馬なし馬車”の品評会というイベントです」

アダムスのアイデアを聞いたコルサート社長は、直接自分に売り込んできたアイデアなので、もう少しスケールの大きなイベント企画かなと思っていたので、少しがっかりした。
「馬なし馬車だって。この前うちの新聞に載った、アメリカ大陸で最初に開発されたガソリンエンジンで走る乗り物のことか」
この提案が間違いではないかと、コルサート社長は念を押した。

「イリノイ州のデュリエという若者が合衆国として最初となる馬なし馬車をつくったことはご存じのとおりですが、私の調査によると、デュリエ兄弟と同じように馬なし馬車をつくりあげた技術者は他にもいます。また現在製作中で、近く完成する見込み者を加えると相当な人数になります。そんな技術者をシカゴに集めて、彼らが製作した乗り物の品評会をやるのです。このイベント企画をシカゴタイムス紙で発表し、品評会が終わるまでの経過を記事にすれば、馬なし馬車に関心を持っている人たちばかりでなく、一般読者も興味を持って新聞を読み続けるに違いありません。そうなればシカゴタイムス紙を読みたいという人が増えると思いませんか」
アダムスの説明は熱を帯びることになった。

「なるほど、企画の趣旨はわかったが、問題は何台の馬なし馬車が参加するかだな」

「私はその点は心配していません。アメリカには、きっかけさえあれば有名になりたいという若手技術者が山といるのです」
コルサート社長の不安を打ち消すように、アダムスはきっぱりと断言した。

「しかし君、馬なし馬車はそんなに簡単にできる物ではないんだろ」

再び頭をもたげてきたコルサート社長の不安を取り除かないと、この話は取り上げてもらえない。
この企画は単に、おもしろいからやろうとか、新聞の売上につながるからやろうということでは前に進まないことを強く実感しているアダムスは、アメリカ合衆国の国益に係わる一大イベントであることを強調しようと考えた。

「確かに簡単ではありません。この10年間で、アメリカの機械技術は長足の進歩をとげていますが、それでもイギリス、フランス、ドイツの3カ国にかなり遅れています。これを、いつまでも放置していてはいけません。何とかヨーロッパに追いつかないと、新興国としてのアメリカの繁栄はありません」

「その点は同感だ」

ここでコルサート社長の関心を引き出したと確信したアダムスは、もう一押しするのを忘れなかった。
「ガソリンエンジンで動く乗り物は、ドイツで誕生しましたが、まだ10年の歴史しかありません。今わが国が頑張れば追い着くことは不可能ではないと私は信じています。コルサート社長、お宅の新聞社がこのイベントを実施すれば、アメリカの科学技術の発展に大きく貢献することになりますよ」
この大義にコルサート社長は鋭く反応した。
「なるほど、祖国の発展につながる意義深い企画であることは間違いない。うちの主催でやろうじゃないか。君に全体の指揮を執ってもらうことになるが、大丈夫だね」

この企画の実行を約束してくれたコルサート社長は、同時にアダムスを実施責任者に任命したのである。

「私を信頼していただきまして、ありがとうございます。全力をつくしますので、よろしくお願いします」
これに異論があろうはずがないアダムスは、深々と頭を下げた。

コルサート社長から差し出された手と固い握手を交わした後、会談が成功したことに満足を感じながら、アダムスはシカゴタイムス新聞社の社長室を後にするのであった。

(金曜日の〔56話:後編〕に続く)


55話.デュリエのガソリンエンジン車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■チャールズ・デュリエ:1861年生まれ。現状脱皮を考えるアメリカ人の自転車職人。
■フランク・デュリエ:1870年生まれ。兄チャールズ・デュリエを支援し続けた弟。



 自転車職人のデュリエ兄弟がアメリカで最初のカソリンエンジン車を開発した  


この時代、アメリカにはガソリンエンジンを陸上の乗り物の動力に使うという発想がほとんどなかったが、1889年に『科学アメリカ』という雑誌でカール・ベンツのガソリンエンジン車構造図が紹介されたことが、新しい時代への引き金になり、これに刺激を受けて新しい乗り物をつくってみようと考える男たちが合衆国中でいっぱい出現するのである。

そんな男たちの中に、チャールズ・デュリエがいた。
それまで、エンジンをどこに載せ、エンジンの回転をどのように減速して車輪に伝えるのかという点で、行ったり来たりしているだけで前に進むことのなかった思考が、ベンツ車の構造図を見て一気にすっきりした。

1891年頃になると、構想が固まってきたので、学校を卒業したばかりの弟のフランクを誘って、一緒に4輪構造の乗り物の製作に乗り出すことにしたが、最初にやる仕事は資金調達である。
チャールズはスポンサー探しに奔走することになったが、偶然知りあった強欲のビジネスマンが、条件付きであるが資金提供を約束してくれた。

この間、チャールズは試作車のボディとして使用するために中古の馬車を買い入れた。
その後、作業場を見つけ、2人の共同作業としてガソリンエンジン車づくりが始まったが、いちばん苦労したのはエンジンである。

アメリカにおいて定置用ガソリンエンジンはかなり普及していたが、いずれも大型のもので乗り物用としては適していなかった。
自転車大手企業で定置用ガソリンエンジンメーカーの仕事を始めたばかりのポープ社のエンジンが、それらの中では良さそうに思えたので、これを使うことにした。


Durea,Charles第二巻055話
〈ガソリンエンジン車に挑戦するチャールズ・デュリエ〉





1892年4月から馬車のボディにガソリンエンジンとトランスミッション(エンジンの回転を減速する変速装置)を取り付ける作業にとりかかったが、技術者としての蓄積がないフランクには難しい仕事ばかりであり、ちっとも捗らなかったが毎日忍耐強い作業が続けられた。

こうして弟が汗水流して働いているのに、兄のチャールズの方に悪い癖が出て、乗り物づくりに熱意を失い、昔の自転車製造業に戻ってしまうのである。

残されたフランクの作業は孤独の中で進められた。
途中で病気になるなどたびたび中断したが、集中力が持続する弟は今まで格闘してきたエンジンではにっちもさっちも行かないことがわかってきた。

年が明け1893年になって、いっこうに期待した乗り物が完成しないので不安になったスポンサーから、作業の進行状況を見たいといってきた。
ありのままを見せれば資金援助を打ち切るに違いないと心配したフランクは、一計を案じた。ピストンに細工をこらして動いているように見せかけ、スポンサーの目をごまかしてピンチをしのいだが、次回はこんなごまかしは通用しないことをよく知っていた。

兄に誘われて新しい乗り物づくりを手伝うつもりだったが、いつの間にか兄はいなくなり、自分だけがとり残され悪戦苦闘の日々を過ごしてきたフランクは、経験を積んでメカニズムの知識を身に付けてくると、兄が考えた最初の構想そのものに問題があり、根本的にやり直さなければ絶対に完成しないことを悟るのである。

それからの進行は早く、白紙から新エンジンの設計にとりかかり、何とかこれを完成させ、トランスミッションのギヤ部品をひとつひとつていねいに組み合わせて、だんだん形が整ってきた。
1893年の夏が終わる頃になると乗り物らしくなってきたので、兄とスポンサーを呼んで路上でのテスト走行が始められた。
エンジンの調子が悪くのろのろとしか動かないのを見たスポンサーは、再び不安になってきて資金援助をしぶり始めた。
一大事の発生である。
兄のチャールズは必死にこのスポンサーを説得し、どうにか資金提供の打ち切りだけは食い止めることができた。


その後、兄弟が力を合わせて改良を続けたところ、エンジンの調子は徐々に上がってきて、1894年正月明けに行ったテスト走行からスムースに動くようになった。
しかし、その頃になると、金庫がすっかり空になったスポンサーは、忍耐もこれまでと、兄弟の乗り物づくりから手を引くと宣言したので、せっかくここまで投資したものが全部パーになってしまうのであった。



 デュリエ兄弟は自分たちがつくった新しい乗り物を“馬なし馬車”とネーミングした 


55号デュリエ馬なし馬車
〈←デュリエが開発したガソリンエンジン車1号〉





兄弟の苦労の結晶として、4輪馬車にガソリンエンジンを搭載する乗り物は完成したが、これを発表する段になって、ひとつの難問が浮上してきた。
それは、自分たちがつくった乗り物を何という言葉で表現するかという問題である。

兄弟2人でいろんなアイデアを出してみた。
そして議論を重ねた結果、“馬なし馬車”を意味する“ホースレス・キャリッジ”がいいという結論になったが、この選択はアメリカ中に大きなセンセーションの種をまくこととなった。

今から振り返ってみると、ホースレス・キャリッジは、この頃の時代背景を見事に表したネーミングといえよう。
キャリッジは“馬車”を意味する。
ホースレス、すなわち“馬なし”は、旧世代や保守勢力の象徴として馬をとらえ、「ホースレス=新しい時代」に繋がり、進取の気概あふれる技術者志望の若者をおおいに刺激した。


デュリエ兄弟が人々に公開した新しい乗り物は、アメリカ合衆国におけるガソリンエンジン車の始まりとなった。
この情報は新聞報道を通じて瞬く間にアメリカ中に伝わり、メカマニアたちは、「これからは、ガソリンエンジンが馬に取って代わるに違いない!」と、ガソリンエンジン車づくりの競い合いを始めることになったのである。

1894年の春がやってくると、チャールズは新しいスポンサーを見つけてきた。
この人から提供してもらった資金で部品を調達して、兄弟にとって2号モデルとなる馬なし馬車の製作にとりかかった。
この仕事は、ほとんどが弟フランクの仕事になり、兄は時々やってきて、いろいろ口出しをするだけだった。
フランクにとって8歳年上の兄の存在は父親に似た、絶対的な権威で、素直に従っていた。

2号モデルは初代の問題点を徹底的に見直して、問題のあった所は新機構を採用するなどフランクの知恵が随所に活かされていた。
さっそく設計図をつくりあげて兄に送ったところ、チャールズは自分の名前で新機構の特許取得手続きに入った。

チャールズとしては、特許の権利は兄弟共有のものであり、代表者である自分の名前で申請をした程度の軽い気持ちであったが、これを知ったフランクは兄の独断専行を許すことができなかった。

8歳年下の弟から強い口調で文句をいわれたチャールズは態度を硬化させて、弟を怒鳴りつけたが、これが決定的となった。
フランクは絶対に兄を許せないとして、2人は仲たがいしてしまうのである。

フランクは兄との関係をいっさい絶ち、いつかは兄を見返してやるという決意の元に、次なる新車の製作に打ち込んだ。
そして1895年9月になると、イリノイ州スプリングフィールドの地にデュリエ・モーターワゴン社(以下、デュリエ社)という乗り物製造業を設立し、その後の人生を馬なし馬車に賭けることにしたのである。

(「55話」はここまでで、56話は来週の火曜日に掲載。)