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64話.フィアットのモンスター路線〔後編〕

《 主な登場人物 》
■モンタギュー・ネイピア:1879年生まれ。ネイピア社を立ち上げたイギリス人技術者。
■セルイン・エッジ:1868年生まれ。M.ネイピアを支援するオーストラリア人ビジネスマン。
■ジョヴァンニ・アニエッリ:1866年生まれ。フィアット社の指揮を執るイタリア人事業家。
■ヴィンチェンツォ・ランチア:1881年生まれ。フィアット社専属のイタリア人ドライバー。


 トリノ財界人によって創業されたフィアット社の経営実権はG.アニエッリに移った 


1899年7月に、イタリア北部の産業都市トリノにあるエマヌエーレ・ブリケザリオ伯爵の自宅に集まった9名の仲間によって、イタリア最初の自動車メーカーである「トリノのイタリア自動車製造会社」(以下、フィアット社)が設立された。


fiat2上064話
←“フィアット”のブランドマーク




新会社がスタートして2年目に入ると、この会社の実質的なリーダーは、平取締役に過ぎないひとりの男に移っていくが、この男こそフィアット社をイタリア最大の自動車メーカーに育て上げるジョヴァンニ・アニエッリである。

この会社の役員は他に本職を持っている男ばかりであり、自動車ビジネスに100%打ち込めるのはアニエッリだけだった。
アニエッリは、イタリアの自動車産業を育成して、先行しているドイツとフランスに追いつき、やがて世界最高水準の自動車を自分の手でつくるのだという野望に燃えていた。

スタートを切ったフィアット社が最初に市場に送り出した〈フィアット/3.5HP〉は不完全なできであり、人気を得ることはなかった。
次いで開発した排気量1.1リッター2気筒エンジンを搭載する〈フィアット/6HP〉は評判を得ることができた。
アニエッリはこのクルマをベースにして、レース専用車を開発するように指示を出した。
完成したクルマは〈フィアット/6HPコルサ〉と名付けられ、各地のレースに出場して名声を得るようになった。
これ以降、フィアット社はレース用のクルマには“コルサ”とネーミングする慣わしとなる。


設立間もないフィアット社は、ジョヴァンニ・アニエッリという名指揮官のもとで、高性能車を各地のレースに出場させ、優勝を重ねることによって、たちまちヨーロッパ各地にその名を知られるようになった。
魅力的なクルマをつくりたいというアニエッリの夢と情熱は、フィアット社の経営幹部や出資者の共感を得て、ますます膨らんでいった。

そんな時に、ブリケザリオ伯爵から、「名目的な経営陣を一新して、新しい経営陣に編成替えをした方が良いのではないか」という提案があって、設立3年目の1902年に、アニエッリは社長に就任した。

今までも思うように指揮を取ってきたつもりのアニエッリであったが、これで誰も怖い人はいなくなり、自由に裁量をふるえる会社になった。
フィアット社をイタリア最大の自動車会社に育て、ドイツ車やフランス車に対抗するという、アニエッリの最初の構想は単なる夢ではなくなってきたのである。


Agnelli,Giovanni ②第二巻064話
〈フィアット社の若きリーダー:ジョヴァンニ・アニエッリ〉





正式に社長に就任したアニエッリは、二つのテーマに真剣に取り組むことになった。
一つは、フィアット社の国際競争力アップであり、こちらはマスコミや社員、株主に機会ある毎に力説を続けていたので完璧に周知できていた。

もう一つは、増資と株主構成の大幅変更問題である。
フィアット社は、イタリアを代表するビジネスマンたちが、イタリアナンバーワンの自動車会社をつくろうという考えで設立された会社であるだけに、その趣旨に賛同した数多くの出資者が頭数を揃えていて、自分はそのうちの一人にすぎないという現状をいかにして打破するかがアニエッリのテーマとなったのだ。

勿論、この狙いは誰にも悟られてはならないし、やり方も慎重の上に慎重な行動が必要になる点は分かり切っていたので、親しい弁護士を交えて、作戦計画を練り上げる日々が続くことになった。



 G.アニエッリはレースで勝利するためにモンスターエンジン開発の指示を出した 


アニエッリ社長体制のフィアット社は、1902年にレース専用車の〈フィアット/24HPコルサ〉を発表して、ヨーロッパ中の自動車人から注目を浴びることになった。

オールスチール製のシャシーを持つこのクルマには、6.4リッターという大排気量の4気筒エンジンが搭載され、最新技術の4速トランスミッションを備え、エンジン性能をフルに引き出すことができるようになっていた。
トップドライバーであるヴィンチェンツォ・ランチアの絶妙なドライビングテクニックによって、この新型車は各地のヒルクライムレースでだんだんと優勝を飾るようになってきた。

アニエッリ社長の指揮によって、フィアット車はレースで優勝することができる大排気量車にだんだんとシフトしていくことになる。
こうした生き方は、現在イタリア最大の自動車メーカーとして小型車にウェイトをかけているフィアット社のクルマづくりと大きく異なるが、それは20世紀初頭のイタリア社会がどのような社会であったかを、しっかり把握しないと理解できないだろう。

国家統一されたばかりのイタリアは、イギリス、フランス、ドイツに工業化で大きく遅れをとり、ヨーロッパでは後進国であった。
そこで、産業革命を進め近代工業の育成に力を入れていたが、20世紀に入ったばかりのイタリアは農業国であることには何ら変らなかった。
したがって、この国の支配者は貴族や大地主ばかりであったが、北部のミラノやトリノという大都市に新たに誕生しつつあった産業資本家たちが、それに加わっていた。

このような社会構造にあるイタリアで、自動車を買えるのはとてつもない大金持ちだけであり、自動車は実用的な乗り物というより、金持ちのおもちゃみたいな存在であったので、売れるのは豪華な大型車ばかりであった。



 レースで勝利を重ねるフィアット社は、先行メーカー各社を脅かすようになってきた 


1903年にフィアット社は、排気量10.6リッターという超巨大エンジンを搭載するレース専用車を発表した。
その前年に排気量6.4リッターのエンジンを売り出し、今度は10.6リッターである。
このような巨大なエンジンを次々に開発して市場に送り出すイタリアの新興メーカーのフィアット社に、先行していた自動車メーカー各社は次第に警戒心を強めるようになってきた。

アニエッリ社長のモンスター路線は、誰も止めることはできなくなり、1904年には、排気量14.1リッターのレース専用車〈フィアット/S61コルさ〉を発表した。


064話フィアットS61コルサ
←〈フィアット/S61コルサ〉



さらに翌年には排気量16.3リッターのフィアット社として初のオーバーヘッドバルブ(以下、OHVと略)エンジンを搭載したモンスター〈フィアット/100HPコルサ〉と〈フィアット/110HPゴードンベネット・コルサ〉を発表して、世界中の自動車愛好家の度肝を抜くことになった。

このようにレース専用車が急速に大排気量化したのは、この時代はまだモータースポーツの世界にエンジンスペックの規制がなかったため、大排気量車が速いという単純な考えが支配的であったからである。

アニエッリ社長の積極経営は、輸出という側面でもいかんなく発揮された。
1903年にはアメリカに輸出を開始し、世界を視野に入れた自動車ビジネス構想を推進した。
また、自動車以外にも関心を示し、1903年には小型船舶用のエンジン製造を開始したのである。

(〔64話〕はここまでで、〔65話〕は来週の火曜日に掲載。)


64話.フィアットのモンスター路線〔前編〕

《 主な登場人物 》
■モンタギュー・ネイピア:1879年生まれ。ネイピア社を立ち上げたイギリス人技術者。
■セルイン・エッジ:1868年生まれ。M.ネイピアを支援するオーストラリア人ビジネスマン。
■ジョヴァンニ・アニエッリ:1866年生まれ。フィアット社の指揮を執るイタリア人事業家。
■ヴィンチェンツォ・ランチア:1881年生まれ。フィアット社専属のイタリア人ドライバー。


 第2回目となるゴードンベネット杯も、初回の失敗と同じく盛り上がることはなかった 


1900年にアメリカの新聞王のゴードンベネットはヨーロッパの地で自動車レースをやることを思いついた。
その狙いは国別対抗戦というコンセプトにあり、人々を興奮させるような新聞記事づくりを狙ったのである。
ところが現実は、充分な準備ができないまま第1回レースが実施されたこともあり、その内容はおそまつで、とても国際自動車レースといえるようなものでなかった。

20世紀に入って最初の年である1901年に、2回目のゴードンベネット杯が開催されることになった。
フランスの自動車業界はこのレースにあまり関心を示さなかったが、それ以外の国はなおさらで、エントリー車が少ないためパリ~ボルドー間レースと合同で行なわれることになった。

第2回ゴードンベネット杯の出場車はフランス代表の出走枠3台ともパナール&ルヴァソールであり、外国からの参加はイギリス代表のネイピアだけだった。

このネイピア車について説明を加えると、これをつくったのは、セルイン・エッジとモンタギュー・ネイピアである。
世紀末のイギリスで、自転車レーサーとして有名になっていたネイピアはクルマを走らせてスピードを競い合うことに熱中すると同時に、メカニズムの勉強に集中して、効率よいエンジン構造の研究に取り組んだ。


Napier,Montague②第二巻064話
〈ネイピア社を創業したモンタギュー・ネイピア>






ある日、知り合いでダンロップ社に勤めているセルイン・エッジから、「買ったばかりのパナール&ルヴァソールのエンジン出力をもっとアップして、スピードが出るように改造して欲しい」という要請を受けたネイピアは、このエンジンを分解して研究を重ね、難があった点火装置を新しい電気スパーク点火方式に改良するなどのチューンアップに取り組んだ。

改造車を受け取ったエッジは、そのできの良さに感心して、ネイピアの技術なら商売になるに違いないと確信した。
そこで、ネイピアに自動車メーカーをつくるよう勧めて、ネイピア社が1900年に設立されることになった。


その一方でセルイン・エッジは、フランスのグラジエーター車をイギリス国内で売るために新設されたモーターパワー社の社長に就いた。
ところが、このビジネスは急きょ取り止めになったので、モーターパワー社はネイピア車の総販売代理店に鞍替えすることになった。

こうしてネイピア車のPRを担当することになったセルイン・エッジ社長は、新たに開発された16HPの4気筒エンジンを積むネイピア車でパリ~ツールーズ間レースに参戦することを決意し、ドライバーである自分、運転助手のチャールズ・ロールス、メカニックとしてのモンタギュー・ネイピア共々ドーヴァー海峡を渡った。

レースの結果はみじめなもので、1900年10月末に、エッジ、ロールス、ネイピアの3人はロンドンへ無念の帰国となったのである。



 スパイカーの6気筒車に刺激を受けたM.ネイピアは、6気筒エンジンを完成させた 


1903年2月にロンドンで開催されたオリンピア・モーターショーでオランダからやってきたスパイカーが水冷6気筒エンジン車を発表したことは、誇り高きイギリス人技術者たちを大いに刺激し、6気筒車づくりの競いあいが始まった。
中でもモンタギュー・ネイピアは異常なほど6気筒車づくりに燃えたが、これに火をつけたのはセルイン・エッジである。

イギリスで最初となる6気筒エンジン車として栄誉を受け取ったのは、ネイピア社によって開発された〈ネイピア/シックス〉で、1903年10月に発表された。
この新型車を開発したのは、もちろんモンタギュー・ネイピアであったが、このクルマを成功裏に導いたのはセルイン・エッジの力量であった。
新車デビューのお膳立てから、宣伝、販売の全ての仕事を担当し、またたく間に〈ネイピア/シックス〉は有名になっていった。


Edge,Selwyn②第二巻64話
〈やり手のビジネスマン:セルウィン・エッジ






さて、フランスとイギリスという2国間の対抗戦となるはずであった第2回となる1901年のゴードンベネット杯で、思わぬハプニングが起こった。

イギリス代表として参戦したネイピアはパリのスタート地点へ向かう途中でパンクしてしまい、タイヤをイギリス製ダンロップからフランス製ミシュランに交換した。

いよいよスタート時間になって、エンジンをかけようとした瞬間、主催者からタイヤ問題でクレームが入り、「出走車は外国製の部品を使用してはならない」という規定にひっかかって、ネイピアは出走できなくなってしまった。

この結果、第2回ゴードンベネット杯はフランス車のパナール&ルヴァソール3台だけのレースとなったが、このうち1台は事故を起こしてリタイヤし、もう1台も故障のため最後まで走れなかった。
結局完走したのはレオンス・ジラルドが運転するクルマだけで、たった1台の完走車が優勝するという珍しいレースとして記録に残っている。

(金曜日の〔64話:後編〕に続く)


63話.フランスの新興自動車メーカー〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ&エミール・モール:1868年と70年生まれ。モール社を創業するフランス人兄弟。
■アンリ・ブラジエ:1875年頃の生まれ。モール社で新車開発に携わるフランス人技術者。
■ギュスタフ・ゴブロン:1870年頃の生まれ。フランス人でゴブロン・ブリリエ社創業者。
■オイゲン・ブリリエ:1867年頃の生まれ。ゴブロン・ブリリエ社の共同経営者で生産担当。
■アレクサンドル・ダラック:1855年生まれ。自動車に進出する移り気な事業家。



 A.ダラックが開発したダラック車は高い評価を得て、各地でヒット商品に育ってきた 


モール、ゴブロン・ブリリエの次に本話に登場するフランス車はダラックである。

このブランドをつくったアレクサンドル・ダラックは時代の変化に敏感で常に最新のビジネスに挑戦するタイプの男で、最初は兵器を手掛け、次は主婦が大好きなミシンのビジネスに関心が移った。
その次は人気急上昇中の自転車となり、グラジエーターサイクル社という会社をつくって、自転車ビジネスに熱心に取り組んだ。


Darracq,Alexandre②第二巻063話
〈時代の変化に即応するアレクサンドル・ダラック〉





そんな時、アドルフ・クレマンというフランス実業界で有名な人物がダラックに一緒にならないかと話を持ちかけたことで、ダラックがつくった自転車メーカーはクレマングループ入りした。

ダラックはこのグループの一員として、自転車とオートバイ部門の責任者に就いて仕事を始めたが、やがて事業の力点はオートバイに移された。

時代の変化に敏感なダラックの関心が、オートバイから自動車に移るのは時間の問題であって、クレマングループから独立して、自動車メーカーのA.ダラック社を設立した。

そして、ボレー兄弟の弟であるレオン・ボレーからヴォワチュレットと呼ばれる小型自動車のフランス国内での製造権を買いとり、自動車ビジネスを始めることにしたが、最初のクルマは期待したように売れなかったので、ダラックはポール・リベイロという若手エンジニアを採用して、この男に設計を任せて完成したのが6.5HPモデルである。


〈ダラック/6.5HP〉は、ルノー車と同じシャフトドライブ方式で、単気筒エンジンをフロントにおき3段ミッションギヤを経由して後輪を駆動するという、フロントエンジン・リヤドライブ(FR)の構造が最初から採用されていた。

このクルマは、コンパクトで価格も安かったので、それなりの売れ行きを示した。
特にイタリアでは小型車需要は高く、〈ダラック/6.5HP〉はたいへん好評で、ダラック社の礎をつくることに成功した。


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←“ダラック”のブランドマーク



兵器→ミシン→自転車→オートバイ→自動車というように、時代の変化を的確に捉え、その一方で移り気なアレクサンドル・ダラックは、フランスの実業界で着々と実力を蓄えていたのである。



 ルッツマンとの提携に失敗したオペル社は、A.ダラック社と組んでやり直すことにした 


ここで話の舞台はフランスからドイツに移ることになる。

アダム・オペルがミシンメーカーとして創業したアダムオペル社(以下、オペル社)は、自転車メーカーとして会社を大きくした。

ところが、販売競争が激しくなった自転車業界は乱売を繰り返し、事業として拡大する魅力を失ってきたので、少しずつ需要が高まってきたガソリンエンジン車に着目した。
そして、フリードリッヒ・ルッツマンが開発した自動車の生産を始めたが、このジョイントビジネスはうまく行かなかった。

自動車ビジネスの体制立て直しを急いでいたゲオルグ・オペル社長は、1901年に開催されたパリサロンを参観し、ここに展示されているフランス製のクルマが、ドイツ製の〈ベンツ/ヴェロ〉に対してかなり改良が進んでいる点に着目した。

そこで、フランスの自動車メーカー各社の実力調査を本格的に進めて、最終的にアレクサンドル・ダラックが創設したA.ダラック社の〈ダラック/6.5HP〉に白羽の矢を立てるのだった。
アレクサンドル・ダラックは、この話を大歓迎し、提携交渉は順調に進展した。

オペル社は、1902年にダラック社とドイツ国内でのライセンス生産の契約を結び、ダラック製シャシーとダラック製の排気量1.1リッターの4気筒エンジンを輸入して、その上にオペル社がボディを架装するという仕事に取りかかった。

ダラックの技術とオペル社の持ち味を組み合わせて完成した自動車は〈オペル/ダラック〉と名付けられた。
この新型車は〈ダラック/6.5HP〉から大いに進歩していて、ドイツとしては高級車の部類に属するものであった。
やがて、〈オペル/ダラック〉は、オペル兄弟の期待どおりの売上を示すようになってきて、オペル社の自動車事業は軌道に乗ってきた。

この後、自社技術で自動車の全てを満たす考えに転換したオペル社は、ダラック社との契約を1906年までに限定して、独自開発モデルの準備を進めた。


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←“オペル”のブランドマーク



そして、オペル社として初めての独自開発となる排気量1.9リッターの水冷2気筒エンジンを試作完了したが、このエンジン性能は立派なものであった。
さらに、オペル社はシャフトドライブという最先端の技術を採用し、これらを織り込んだ新型試作車は何回もテストドライブを繰り返して、ようやく完成を見たのである。

(〔63話〕はここまでで、〔64話〕は来週の火曜日に掲載。)


63話.フランスの新興自動車メーカー〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ&エミール・モール:1868年と70年生まれ。モール社を創業するフランス人兄弟。
■アンリ・ブラジエ:1875年頃の生まれ。モール社で新車開発に携わるフランス人技術者。
■ギュスタフ・ゴブロン:1870年頃の生まれ。フランス人でゴブロン・ブリリエ社創業者。
■オイゲン・ブリリエ:1867年頃の生まれ。ゴブロン・ブリリエ社の共同経営者で生産担当。
■アレクサンドル・ダラック:1855年生まれ。自動車に進出する移り気な事業家。


 大金持ちのアメリカ人W.ヴァンダービルトは、モール車で速度記録を塗り替えた 

   

人間は他人より早く走ることに強い関心を示し、19世紀の中頃まで、最も早く走る乗り物の主役は馬が担っていた。
長く続いた馬の時代では、騎乗している馬をうまく操ってスピードを達成できるかどうかは、その人物の評価に直結していたし、戦いの場合は勝利に欠かせない条件となっていた。

馬より早く走ることができる乗り物として自動車が登場したのは、19世紀末のことであり、時速100キロのスピードの壁は、1899年にカミーユ・ジェナッツィが運転するベーカー製電気自動車のラ・ジャメ・コンタン号により突破された。

人々のスピード熱は20世紀の幕開けとともに一層高まることになり、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアというヨーロッパ各地、そして新興国であるアメリカ合衆国で速度記録を樹立しようとして爆走が始まった。

1902年4月にフランスで、レオン・セルポレという優れた技術者が自社製蒸気自動車で時速120.8キロというスピードを達成して、公式記録として華々しく発表された。


これに刺激を受けて、速度新記録に挑んだのがフランスの新興自動車メーカーのモール社である。

この会社は、父がやっていた電気器具の会社を1880年に引き継ぐことになったルイとエミールのモール兄弟が創業した。
2人は小さい時から乗り物にたいへん興味を持っていて、1892年にダイムラーエンジンを積むパナール&ルヴァソールを購入して、これを乗り回すうちにこのエンジンの欠点を把握した。

もっと優れたエンジンはないかと探し回ったが、見つけ出すことができなかったので、兄弟は力を合わせて自分たちが得意とする電気に関する知識を総動員して、画期的な電気スパーク点火装置をもつ排気量2リッターの空冷V型4気筒エンジンを新たに開発して、見よう見まねで製作したボディにこのエンジンを載せ、商品として売り出した。

1895年に開催された有名なパリ~ボルドー間レースは、実質的にはパナール&ルヴァソールの優勝であったが、その翌々年に開催されたパリ~ボルドー間レースでは新興のモール車が優勝して一躍有名になった。

1900年になるとモール社は、空冷方式で各シリンダーに専用のキャブレターを付けるという凝った構造のV型4気筒エンジンのレース専用車をつくるようになったが、このクルマを設計したのはアンリ・ブラジエという若きエンジニアであった。
ブラジエはモール車を最高のスピード車にしようとエンジンに工夫を重ねて、高出力をひねり出した。


20世紀最初の年にフランス国内で実施された自動車レースとしては、最も規模も大きく権威あるのがパリ~ボルドー間レースであり、開発したばかりの新車で優勝することになったモール兄弟の喜びは普通でなかった。

この優勝の知らせは、たちまち新聞で報道され、モール車の人気はうなぎ昇りとなり、モール社は増産に励んで一気にフランスでトップクラスの自動車メーカーにのし上がるのである。

ブラジエが開発するモール社のレース専用車は、常勝を続けて来たパナール&ルヴァソールを脅かす存在になり、1902年6月に開催されたパリ~ウィーン間レースでは最高時速124キロという記録を出すほど高性能になっていた。


063話モールのレース専用車
←“モール”のレース専用車




モール車の高性能に目を付けたのがアメリカ人のウィリアム・ヴァンダービルである。

この年の8月に、排気量9.2リッターの直列4気筒エンジンを載せた〈モール/60HP〉を運転して、スタートしてから1キロ地点でスピードを測定する助走スタート方式によって、時速122.4キロという新記録をマークしたが、これがガソリンエンジン車としての、史上初めてのスピード公式記録となったのだ。



 ゴブロン・ブリリエが、ルノー、プジョー、モールのライバル車として急浮上してきた 


20世紀の初頭のフランスで、モール社と並んでスピード記録樹立やレースでの勝利に燃える会社として、フランス人のギュスタフ・ゴブロンとオイゲン・ブリリエの2人の協力によって、1898年に創業されたゴブロン・ブリリエ社があった。
2人の役割は、ゴブロンが設計を担当し、ブリリエが生産を担当するというものであった。

最初、2人は1898年に2気筒の“対向ピストン・エンジン”という凝った構造のエンジンを搭載する新型車を開発した。

対向ピストン・エンジンとは、シリンダー内に上下2つの向かい合うピストンをもつエンジンのことで、上のピストンは混合気の圧縮専用で、下のピストンが普通のピストンの働きをするというもので、上下のピストンはコンロッドで接続されているので連動するようになっていた。
通常のエンジン以上の高出力を得ることができる対向ピストン・エンジン技術によって、ゴブロン・ブリリエ車は同じ排気量の他車よりパワフルであったが、複雑な構造であるので製造コストが高く、実際動かしてみると故障が多く、また耐久性も乏しかった。

このクルマは、キャブレターの代わりに回転式のガソリン補給装置を備えていて、ガソリンのほかに純粋アルコールや、ジン、ブランディー、ウイスキーといったアルコールが濃い酒をも燃料とすることができたが、メカニズムに凝った割には市場評価が低く、自動車メーカーとしては厳しいスタートとなった。

1901年になると、パリ~ベルリン間レースにアルコールを燃料とするレース専用車を開発して参戦したが、トラブル続きで完走できなかった。
その後、このレース専用車の改良に務めたところ、1902年にルイ・リゴリという優れた運転技術を持つドライバーにめぐりあい、ローカルレースで優勝を飾ることができるようになってきた。

こうなると自信が出てきて、1903年に開催予定のパリ~マドリッド間レースでの優勝に向けて、ルイ・リゴリにアーサー・デュレイを加えたゴブロン・ブリリエチームを結成し、排気量13.5リッターというモンスターのような4気筒エンジンを積む〈ゴブロン・ブリリエ/110HP〉を完成させたのである。


063話ゴブロン・ブリリエ1904
←“ゴブロン・ブリリエ”のレース専用車




(金曜日の〔62話:後編〕に続く)


62話.オランダ車とベルギー車の誕生〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ヘンドリックス・スパイカー:1870年頃の生まれ。スパイカー社を創業するオランダ人。
■ヤコブパイカー:1872年頃の生まれ。スパイカー社で兄を支え続ける弟。
■ジョセフ・ラビオレット:1890年頃の生まれ。オランダのスパイカー社の先進的技術者。
■シルヴァン・ド・ヨング:1870年頃の生まれ。ミネルヴァ社を創業するベルギー人。



 ベルギーはゴムの利権を奪取するためにアフリカ奥地に進出し、コンゴを入手した  


この「62話」の前半でオランダの話は終わったので、次はベルギーに移ることにする。

既に語られているように、ナポレオン戦争の戦後処理を決めるウィーン会議で、ベルギーとオランダをひとつにしたオランダ連合王国がつくられたが、ベルギーはこれに反発して独立戦争を起こし、1839年に中立国としてのベルギー王国が建国された。

初代国王に就いたレオポルド一世はたいへん賢い君主で、「君臨すれど統治せず」という立憲君主制国家のコンセプトをイギリスから学び、この思想を国民に植え付けた。
ベルギー国民の間に、国王はあくまで国家のシンボルであり、政治は自分たちでやるのだという気運が高まり、1848年の3月革命の嵐も避けることができ、王国体制が堅持された。
ベルギーが大きく変貌するきっかけとなったのは、アフリカ中部のコンゴに進出して、ここに集中して利権を確保したことである。


Livingstone,David第二巻062話
〈アフリカ奥地に入ったデーヴィット・リヴィングストン〉






話は少しさかのぼることになるが、1840年に南アフリカに渡ったイギリス人牧師のデーヴィット・リヴィングストンは、原住民へのキリスト教布教活動に努めているうちに、知らず知らずにアフリカ奥地に入り込んで、現地のようすを文章として取りまとめた最初のヨーロッパ人となった。

リヴィングストンの行動とそのアフリカ探検レポートはヨーロッパ人の関心の的となった。
中でも、アフリカ黒人の奴隷狩りの実態に触れ、人道上これを許すことができないと糾弾したことは、奴隷貿易の禁止に大きな影響を与えたと世界中から評価された。
1866年になると、ナイル川の水源を調査することを目的とした探検旅行に出かけたリヴィングストン牧師の消息が分からなくなり、ヨーロッパ中が大騒ぎになった。

このような時に、ベルギーのレオポルド国王はヘンリー・スタンレーという探検家を雇ってリヴィングストン牧師を見つけ出すよう特命を出し、コンゴとタンザニア間に位置するタンガニーカ湖畔で元気な姿を発見したことは、ベルギーという国家の存在を一気に高めることになった。


Stamlay,Henry第二巻062話
〈リヴィングストンを発見したヘンリー・スタンレー〉





このようにベルギー国王がアフリカに強い関心を持ったのは、この地に豊富に生えているゴムの木の価値を知っていたからであり、1890年になると、ゴムの利権を確保するためにコンゴを併合して、新国家樹立を宣言することによって、帝国主義国家の仲間入りを果たしたのである。



 ベルギーでミネルヴァという高級車が完成し、イギリスやアメリカなどに輸出された 


ここで、ヨーロッパ各国においてメルセデス、ロールス・ロイス、デイムラーに匹敵する高級車として名をはせたベルギー生まれの “ミネルヴァ”に関して紹介しておこう。


minerva2上062話
←“ミネルヴァ”のブランドマーク





ミネルヴァはローマ神話に出てくる学問と芸術の女神の名に由未した名前で、このクルマをつくったのはシルヴァン・ド・ヨングというベルギー人技術者である。

ド・ヨングの最初の仕事は自転車の製作であり、1897年から仕事を始めた。
次に取り組んだ仕事はオートバイ用のエンジンづくりであり、これでエンジン技術をマスターし、その次に自作エンジンで動くオートバイづくりに乗り出した。

多くのベルギー人ビジネスマンは自国だけで商売をすることの限界をよく知っていて、ド・ヨングも自社製オートバイが、各国でどのように評価されているかを調べるために、各地を巡回して最新情報の収集に努めていたが、この時代はオートバイよりガソリンエンジン車の方に勢いがあることに気がついた。

ガソリンエンジンならオートバイで蓄積した技術があるので、自分たちの自動車をつくりたくなったド・ヨングは、さっそくクルマづくりに励み、小型の試作車ができあがったのはオートバイの仕事を始めて3年目のことであった。
その後改良に努めて、これなら市販しても大丈夫だと確信したド・ヨングは1904年からミネルヴァブランドの自動車を販売開始したのである。

排気量1.5リッターの2気筒エンジンを前部に積んで後輪を駆動するという、FR構造が採用されたミネルヴァとしての1号モデルは、良くできてはいたが決して革新的なクルマではなかった。
その後、エンジンはシリンダーを追加して、排気量2.2リッターの3気筒に、さらに排気量3リッターの4気筒へとスケールアップしていった。

これらの本格的な4輪自動車と並行して、超小型の3輪自動車の分野にも意欲的に取り組んだところにド・ヨングの賢明さがあり、利益をもたらしたのは3輪車ビジネスの方であった。

この3輪車は、水冷方式の640㏄単気筒エンジンを前部に搭載し、チェーンで後部の2輪を駆動するという構造をしていたが、値段を安く設定したことで好評を得た。


小型3輪自動車ビジネスを成功させ、こちらで利益を確保して、競争の激しい4輪自動車ビジネスの方は、クルマをより魅力的にするために、大きなエンジンを搭載するようになってきた。

ミネルヴァ社で製作された3輪自動車は国内消費が多かったが、4輪車の大半は国外に輪出されることになった。

イギリスでは、チャールズ・ロールスという青年が、ロンドンで自動車ディーラーを開業したが、ロールスが最も力を入れたクルマはベルギー生まれのミネルヴァであった。
ロールスは、いくつかのミネルヴァのうち最大モデルで、鋼製フレームが採用されシャフトドライブ方式の排気量3リッター車に的を絞っていた。
このクルマは乗り心地がよい割に値段が手ごろで、ロールスの思惑どおりたいへんよく売れたのである。


062話ミネルヴァ1908年
←1908年型”ミネルヴァ”





(〔62話〕はここまでで、〔63話〕は来週の火曜日に掲載。)