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70話.ヘンリー・フォードの挫折と挑戦〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アレックス・マルコムソン:1850年頃の生まれ。フォード社に出資するアメリカ人商人。
■ジェームス・コウゼンス:1872年の生まれ。フォード社に乗り換えるアメリカ人。
■ジョン・ダッジ:1864年の生まれ。自動車部品メーカーのアメリカ人創業者兄弟の兄。
■ホレイス・ダッジ:1868年の生まれ。常に兄ジョンをサポートする4つ違いの弟。
■ジョージ・ピアス:1846年生まれ。金物メーカーのピアス社を創業するアメリカ人。
■パーシー・ピアレス:1865年頃の生まれ。ピアレス社を創業するアメリカ人事業家。
■バーニー・オールドフィールド:1878年生まれ。当代一の人気自動車レースドライバー。


“ピアレス”と“ピアスアロー”という名前が似た高級車のライバル同士が競い合った


ヘンリー・フォードの話が長く続いたが、次はピアレスとピアスアローという2つのブランドの誕生ストーリーに移ることにする。

この2つのブランドは名前も似ているが、生い立ちも似かよっていて、ピアレス社はオハイオ州のクリーヴランドで、パーシー・ピアレスという男が1890年代に自転車屋として仕事を始めた。


peerless2上070話
←“ピアレス”のブランドマーク




一方のピアス社の方は、ペンシルベニア州の農家の家に生まれたジョージ・ピアスという男が創業者である。
ピアスは仲間をさそって家庭用金物の製造会社を興し、鳥籠、洗濯バケツ、氷で冷やす冷蔵庫などのビジネスを始め、1878年に独立してピアス社を設立し自転車をつくるようになった。

その後、ピアレス社とピアス社はともに単気筒のド・ディオン・ブートン製小型エンジンを付けたオートバイをつくってから自動車メーカーへの変身を考えるようになるというように同じ道をたどった。

本格的な4輪ガソリンエンジン車づくりのための研究を進めた両社は、徐々に技術を蓄積し、1902年にはピアレス社が、1903年にはピアス社がそれぞれ2気筒エンジンを搭載したガソリンエンジン車を市場に送り出し、その後は両社ともに4気筒エンジン車の販売を開始するのである。
最初の頃、ピアス社のクルマのブランドはグレートアローであったが、後にピアスアローに代わった。


pierce-arrow2上070話
←“ピアスアロー”のブランドマーク






さて、1902年10月に、アレクサンダー・ウィントン運転の弾丸号との対決で、999号のハンドルを握るバーニー・オールドフィールドが華々しいデビューを飾って以来、999号とバーニーとのコンビに、大当たりをもくろむ興行主からの招待が舞い込むようになった。
興行主たちは、それまで競馬にしか使用しなかったダートトラックを、自動車レースに使用して、東部の人々に自動車の魅力を楽しんでもらおうと考えたのだ。
レースは8キロを走行して速さを競い、3レースのうち2レースをとった方が勝ちというのがルールとなった。
999号を運転するバーニーが競馬場で戦う相手は、ピアレスが新たにつくったレース専用車であった。

コースの感じを掴んだバーニーは、ニューヨークっ子たちに、自動車レースとはどんなものであるかを見せつけた。
直線コースでは柵にぴたりとくっついてハイスピードで走行し、コーナーにかかると大きくふくらんで、もうもうと土煙を巻き上げた。
そして満員のメインスタンド前で、ピアレスの新車を抜き去ったのだ。



〈ピアレス/グリーンドラゴン〉を手に入れたB.・オールドフィールドは連勝を重ねた


パーシー・ピアレスはバーニー・オールドフィールドに何度も苦い味の経験をさせられた。
そこで、この男を敵に回していたらとても勝ち目がないと考えて、ピアレス車の専属ドライバーになってもらうよう、契約交渉を進めることになった。

専属契約が成立して、ピアレス社専属ドライバーになったバーニーは、1903年のゴードンベネット杯に出場したピアレス車の改良型を駆って各地のレースで勝利を重ねたが、快進撃も再度の事故発生により中断してしまった。

怪我の治療で入院しているバーニーの回復を待っていたのは、ピアレスが渾身の力を投入して完成させた“グリーンドラゴン号”という名の、重心が低く車体が頑丈なレース専用車であった。
このクルマの高性能と運転のし易さに驚いたバーニーは、ピアレスとのコンビの成功を確信した。
デビューしたばかりのグリーンドラゴン号は次々と勝利を獲得した。
その一方で、スピード記録にも挑戦して、1マイルから50マイルまでのレコードを塗り替えた。
最後の目標となったのが1904年暮れに開催された選手権レースであり、激しい競い合いの結果、グリーンドラゴン号はトップでゴールインして、ピアレスとバーニーの2人は多額の賞金を手に入れた。

バーニーは、どんな時でもショーマンぶりを発揮することを忘れなかった。
相手のクルマに追い抜かれて面目を失いそうになると、観客の見える所にクルマを止めるのである。
そしてボンネットを勢いよく開いてエンジン・ルームをのぞき込んだ後、手信号でクルマが駄目になったと知らせると、アナウンスを聞いた何千という観客がため息をもらして残念がる。

このシーンを初めて見る人は、無念にもマシントラブルでリタイヤと考えるが、実はバーニー一流の演技なのであって、しょっちゅうレースを見ている事情通は、またかと冷笑するのである。


Oldfield,Banny①第二巻070話
〈アメリカ人のスターになったバーニー・オールドフィールド〉





1906年にニューヨークのブロードウェーで上演された『ドラゴン』というミュージカルで、当代一の人気女優とバーニー・オールドフィールドは共演することになった。

その舞台で、足踏み車に乗ってスピードを競い合ったのは、バーニーの“グリーンドラゴン号”とトム・クーパーの“ブルーストリーク(青い電光)号”で、爆発音が轟く中を2台のクルマは真っ赤な照明を浴びながら前進するのである。
葉巻をくわえたバーニー本人が、舞台につくられた巨大な優勝カップに向かってリードを奪い始めると、主演女優と一緒に観客は歓声をあげるのだった。

こうして華やかなスターになったバーニーであるが、グリーンドラゴン号の栄光は長く続かなかった。
無鉄砲な運転で知られた若き日のバーニーを思い出させる若者たちが頭角を現してきたのである。

またこの頃、ダートコースでのガソリン車の優位を脅かす、重心が低く先の尖った形をした蒸気自動車のホワイトが登場してきた。
この蒸気自動車はスピードが出てくると蒸気自動車特有の金切り音を出すところから“ホイッスリング・ビリー”というニックネームが付けられていた。
蒸気自動車は、発進加速が良いという特徴があるので、ホワイト蒸気車は、短距離ではバーニーが打ち立てた記録を次々と塗り替えるのであった。

(〔70話〕はここまでで、〔71話〕は来週の火曜日に掲載。)


70話.ヘンリー・フォードの挫折と挑戦〔前編〕

《 主な登場人物 》
■アレックス・マルコムソン:1850年頃の生まれ。フォード社に出資するアメリカ人商人。
■ジェームス・コウゼンス:1872年の生まれ。フォード社に乗り換えるアメリカ人。
■ジョン・ダッジ:1864年の生まれ。自動車部品メーカーのアメリカ人創業者兄弟の兄。
■ホレイス・ダッジ:1868年の生まれ。常に兄ジョンをサポートする4つ違いの弟。
■ジョージ・ピアス:1846年生まれ。金物メーカーのピアス社を創業するアメリカ人。
■パーシー・ピアレス:1865年頃の生まれ。ピアレス社を創業するアメリカ人事業家。
■バーニー・オールドフィールド:1878年生まれ。当代一の人気自動車レースドライバー。


3つ目となる会社を成功させると誓ったヘンリー・フォードは真剣に将来を考えた


デトロイト自動車会社、ヘンリー・フォード社という2つの会社の不幸な経験を経て、ヘンリーは40歳にして、自分がリードできる新しい自動車会社としてフォードモータース社(以下、フォード社)を1903年6月に設立した。
この会社の共同出資者はデトロイトで石炭ビジネスをやっているアレックス・マルコムソンという商人であった。
ヘンリーが携わった会社は既に2回も失敗しているので、新会社の設立資金集めは難しかったが、新しいパートナーとなったマルコムソンは資金集めが上手だった。
マルコムソンに説得されて株券を買った株主は幸運を手にした。この新会社の歴史的大成功によって投資したお金の何倍も、いや何10倍ものリターンを得たからである。

新しい会社を立ち上げるに際して、ヘンリーが考えたことは、今まで自分がやってきたことの中でどこが正しくて、どこが間違っていたかを、きちっと整理することであった。
そして反省するところは反省して、これから長く自動車メーカーとして生き抜くために、自分の強みが何であるか、つまり、自社のドメイン(ビジネス用語で、企業の生存領域のこと)がどこであって、その中で自分の競争力の源とも言えるコアコンピタンス(ビジネス用語で、その企業の中核に存在している強みのこと)が何であるかを見極めることであった。

このことは、近代経営にとっては常識ともいえる部分であるが、アメリカン・ビジネスマンの考えはもっと単純で、ビジネスは金儲けの道具であって、金儲けになるならば何でもやるという風潮であった。

そもそも、ヘンリーが自分でクルマをつくろうと思ったのは、「金儲けが目的であったのか」、「単に自分の好奇心を満たす機械としてクルマをつくりたかったのか」、それがはっきりしないまま40歳まで突っ走ってきた。
そこには、理念もビジョンもなかった。
それがゆえに、デトロイト自動車社、ヘンリー・フォード社という会社が設立されたものの、2つの会社とも経営的に成り立たなかったのである。

この点にやっと気がついたヘンリーは、フォード社を設立するに当って真剣に考えた。
そして原点に戻って、馬小屋でつくろうとしたのは誰のためのクルマなのかを振り返ってみた。
それは決して金持ちのためではなかったはずである。
自分と同じレベルの生活をしている、アメリカ合衆国の大部分を構成している農家や都会の労働者向けの実用的なクルマづくりこそ自分のミッション (ビジネス用語で、企業の使命のこと)ではないかと思い立ったのである。

自分の使命をすっかり忘れて、レース専用車に夢中になってエンジンの出力を上げることだけに熱中してきた、この数年間はいったい何であったのか、ヘンリーは反省しきりの毎日だった。


 

フォード社として最初となる〈フォード/A型〉がエンジン外注方式で生産を始めた


ヘンリーの新しいパートナーとなったアレックス・マルコムソンは、石炭商という自分の仕事に集中するため、腹心であるジェームス・コウゼンスという男をフォード社に送り込んだ。
コウゼンスは慎重な性格のくそまじめな男で、人間的な魅力に欠けるところもあるが経理と財務に関しては頼りになると思われた。

2つ目の会社において資金面で問題を起こしたヘンリーは、今度は決して間違いを起こさないように、コウゼンスに大きな権限を与えた。
そして、会社の財務問題は全て任せてコウゼンスの言うことには従うようにしたが、このことが結果的にフォード社を財政的に健全な会社として発展させる大きな要素となったのである。

ヘンリー・フォードは、フォード社として最初に設計したクルマを、アルファベットの頭であるAを使い“A型”とネーミングした。
このクルマは高級車ではなかったので、売価はできるだけ安くしたかった。


ford2上70話1903
←“フォード社”創業期のカンパニーマーク




ここで大きな問題となったのは、いかに低コストで製造するかという点である。
主要部品を全部自社工場でつくるとどうなるかをコウゼンスが試算してみたところ、1千ドルで売ったのでは利益が出ないことがわかった。
そこで、エンジン本体を含めて主要部品を外注することを考えた。
果たして引受けてくれる会社があるか調べてみたところ、ダッジ兄弟社という会社が、オールズモビル社のカーブドダッシュのエンジンを年間4千台も製造して評判を得ていることがわかった。

ダッジ兄弟社は、ジョンとホレイスというダッジ兄弟が経営する機械製造業者であり、2人とも腕のいい機械職人として評価は高かった。

ヘンリーがA型に搭載できるように設計したエンジンは2気筒8HPである。
このエンジンと、トランスミッションとファイナルドライブギヤ(最終減速歯車)を同じケースに組み込むトランスアクスルを一括発注するというのが、フォード社からダッジ兄弟社への提案であった。

これから先が価格交渉となる。
価格を決める最大要因は製造ロット数である。A型の販売目標は650台を予定していた。
この台数を買取り保証するのはリスクがあったが、ヘンリーは今度のクルマは絶対に売れると確信を持っていたので、ダッジ兄弟社に対して650台全量を必ず買うことを約束した。


070話フォードA型
←人気車となった〈フォード/A型〉




こうしてA型の製造コストの目途はついたが、次は売価設定が重要になる。
この時代、アメリカで販売されていた自動車で、1台1千ドル以下というプライスタグがついているのは少なかったが、ヘンリーは常識を覆す価格にこだわって1台850ドルという思い切って安い価格で売り出すことにした。
この売価では利益が少ないので、コウゼンスは強く反対したが、ヘンリーは聞く耳を持たなかった。

フォード社の第1号となる新型車〈フォード/A型〉は、1903年7月に発表するやいなや今までにない反響を呼んで、たちまち人気車になってピケットアベニュー工場は大忙しになり、最終的には1,700台を売り切ったのである。
ヘンリーはこのA型をベースとして、部分的に改良を重ねて、次は“B型”へ進んだ。
このクルマは、フォード社として始めての4気筒エンジンを搭載した大型車で、売価は一気に2千ドル代へと高くなった。

(金曜日の〔70話:後編〕に続く)


69話.スピード狂のヘンリー・フォード〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ヘンリー・フォード:1863年生まれ。2度目の会社でスピード車の開発に燃える技術者。
■アレクサンダー・ウィントン:1860年生まれ。ウィントン社を創業するレース好きの男。
■トム・クーパー:1870年頃の生まれ。スピード車999号を製作するアメリカ人技術者。
■バーニー・オールドフィールド:1878年生まれ。自動車の運転に才能を示すアメリカ人。


〈ウィントン/弾丸号〉を手に入れたB.オールドフィールドは、レースで連勝を重ねた


ヘンリー・フォードが設計してトム・クーパーが製作した999号は、バーニー・オールドフィールドの運転によって大成功をおさめ、バーニーは自動車レース界のスターになってゆくが、これで収まらないのはウィントンである。
何とかして、この借りを返さなければと考えるうちに、自分のクルマをバーニーに運転させれば、アメリカには敵はいなくなると妙案を考えた。
そして、密かにバーニーに接触することにしたところ、ウィントンの出した好条件を受け入れたバーニーは、打倒ウィントンの立場を捨て、弾丸号に乗ることになった。

アメリカ車最大のパワーを得たバーニーは、各地で開催される自動車レースで連戦連勝を重ねるようになり、1904年には時速133キロという、スピード記録を樹立した。

このバーニーのライバルは、かつての仲間のトム・クーパーであったが、バーニーが運転する弾丸号に、トムの999号は追いつけなくなっていた。
天狗になったバーニーは運転が荒っぽくなり、観客を死亡させるという大きな事故を起こし、自らも怪我によって入院したが、事故はこれだけで収まらなかった。
その後も度々事故を起こすバーニーに対して、アメリカ自動車クラブ(AAA)は出場停止を命令したのである。
この不名誉な事態を契機にして、ウィントンはバーニーと関係を絶つことにした。

ウィントンのその後であるが、1907年に開発した新型自動車は耐久性があり故障が少なかったので、自分でこのクルマを運転し長距離走行に挑戦することにした。
オハイオ州のクリーヴランドからニューヨークまでの1,280キロを、修理や休養で10日問を使ったものの、正味走行時間はわずか79時間という短さで走って、ガソリンエンジン車の実用性を実証したのである。



デトロイトの資本家たちはヘンリー・フォード社という自動車メーカーを立ち上げた


本話は、アレクサンダー・ウィントン、そしてバーニー・オールドフィールドへといささか脱線したが、再び本筋のヘンリー・フォードに戻すことにする。

レースで勝利することに成功したヘンリー・フォードの、自動車設計家としての名声は高まってきた。
そこで、ヘンリーの高名を利用して新しい自動車メーカーをつくろうという動きが始まり、ヘンリーが参加する2度目の会社となるヘンリー・フォード社がデトロイトの資本家たちの意向によって設立されることになった。
この資本家の中には、かつてデトロイト自動車会社に投資して大損した人もいた。
その人たちはレースで優勝を重ねるヘンリー・フォードの名声をもってするなら、“フォード”ブランドを冠した自動車が売れるに違いないと読んだのだった。
この会社は社名こそ“ヘンリー・フォード”となっているが、ヘンリーの立場は前の会社と同じで、雇われ技術者に過ぎなかった。


再び欲まみれの船出をした新会社は、すぐに暗礁に乗り上げることになったが、その原因は経営路線の違いにあった。

「実用車をつくることを経営方針とすべきというヘンリーの考えと、豪華な大型車をメインビジネスにすべきという投資家たちの考えが対立した。ヘンリーの考えは少数派であって聞き入れられることはなく、多勢に無勢で退職に追い込まれた」というのが、ヘンリー・フォードが事業家として成功した後の『フォード自伝』の中で語られた内容である。

しかし、この話に真実味があるとはとても思えない。
なぜかといえば、最初の会社がだめになった後、ヘンリーは自動車レースに全てを賭けることを自分で決めたのであって、レースで成功して名声を獲得した直後に、今度は一転して“実用車”というコンセプトが重要であると主張するのは一貫性がなく、現代の読者への説得力に欠けることは間違いない。

したがって、本書では、ヘンリー・フォードがいつ頃から実用車が重要だと感じて、それがどのようなプロセスをたどって確信に変わったかを見極めたいと思っている。
それがなるほどと理解できれば、自動車という20世紀が生み出した怪物の正体が少しずつ見えてくると筆者は思うのである。

アメリカ人のレイ・バチュラーが書いて、日本経済評論社より出版された『フォーディズム』(原題は『Henry Ford』)という本によれば、「ヘンリー・フォード社時代のヘンリーは、会社方針である高級車の開発に取り組むことなく、自分が関心を持っているレース専用車の方に頭の全てが行ってしまっていた」と述べているが、どうもこれが真実に近いようだ。

ヘンリーは、会社の宣伝のためと称してスピード記録専用車を開発して“ニューアロー号”と名付け、氷の張り詰めたセントクレア湖でのスピード記録に挑戦することにした。
なにしろ氷上でスピード記録を目指して突っ走るのであるから危険極まりないが、ヘンリーが運転するニューアロー号は、時速147キロというとてつもない速度で走ったという。
100マイル(約160キロ)の壁こそ突破できなかったが、この時代としては桁違いのスピード記録を樹立したのである。

こんなことをやっていても、ヘンリー・フォード社の経営には少しも貢献していないことに、もっと早く気がつくべきであったが、それができないところがヘンリーの経営者としての未熟さであったと思われる。

ヘンリー・フォードにとっては2度目となる自動車会社のヘンリー・フォード社は、何の成果を生み出すこともなく解散することになった。

(〔69話〕はここまでで、〔70話〕は来週の火曜日に掲載。)


69話.スピード狂のヘンリー・フォード〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ヘンリー・フォード:1863年生まれ。2度目の会社でスピード車の開発に燃える技術者。
■アレクサンダー・ウィントン:1860年生まれ。ウィントン社を創業するレース好きの男。
■トム・クーパー:1870年頃の生まれ。スピード車999号を製作するアメリカ人技術者。
■バーニー・オールドフィールド:1878年生まれ。自動車の運転に才能を示すアメリカ人。


自分の力を誇示したいヘンリー・フォードは、狂ったようにスピード記録に挑戦した


ヘンリー・フォードが最初にかかわったデトロイト自動車会社は、1901年に解散することになった。
この解散とともに失職してしまったヘンリーは、自動車づくりの方向を見失ってしまい、自分の技術は厳しい競争を打ち勝つのに充分通用するかという疑念が湧いてきて、しばらくの間悩みに悩むことになる。

そこで得た結論は、自分の自動車技術が世間で通用するかどうかを、自動車レースの場で確かめることにした。

「レースで負けるだけの性能のクルマしかできないならば、自動車業界から足を洗おう」

こう決意したヘンリーは、持てる資金とエネルギーの全てをレース専用車の開発につぎ込んだ。

この時代のアメリカのクルマづくりは、部品メーカーがつくったパーツを使って組み立てるというのが普通であった。
エンジン、トランスミッション、ブレーキ、タイヤなどを、自動車の骨組みとなるシャシーにどのように組み合わせるのかが腕の見せどころであり、エンジンに関しては、馬力を向上させるチューンナップ技術も重要なファクターとなっていた。

ヘンリーはレース専用車として巨大な排気量を持つ2気筒エンジン車を製作し、1901年10月のデトロイト・ダートトラックレースに自らの運転で初出場することにした。
このレースでの競争相手は、アレクサンダー・ウィントンであり、ここに〔フォードVSウィントン〕の宿命の対決が始まった。

アレクサンダー・ウィントンは、アメリカ自動車産業の中では初期に当る1896年に自動車メーカーを創業していて、1号車はベンツの物まねで不評であったが、1898年から発売を開始した2号車には、ベンジャミン・グッドリッチが開発したバイヤスタイヤが装着され、エンジン性能もアップしたので、市場から好評をもって迎えられた。


Wimton,Alexander第二巻069話
〈自動車レースが大好きなアレクサンダー・ウィントン〉





このクルマで自動車業界における名声を確立したウィントンは、自動車レースに対しても意欲的で、1900年にヨーロッパで開催されたゴードンベネット杯の第1回目に、アメリカ代表として出走したが、この時は完走できず、ヨーロッパ車との実力差をまざまざと感じることになった。

ウィントン車の特徴はピストンを水平に置いたエンジンにあった。
最初は排気量3.8リッターの単気筒であったが、次は2気筒に拡大し、このクルマがデトロイト・ダートトラックレースで、初出場のフォードと対決することになったのだ。

号砲一発スタートを切った2車であるが、ウィントンが先行した。
フォードもコースに慣れてスピードを上げ、両車が一線に並びかけた時、ウィントンからもうもうたる黒煙が出て、やがて動かなくなった。

こうしてヘンリー・フォードは初レースに勝利することができ、「ウィントンに勝った」ということで、一躍有名になるのである。



バーニー・オールドフィールド運転の〈フォード/999号〉が、ウィントン車に勝利した


この頃、ニューヨーク~シカゴ間を18時間走行という新記録を樹立した“999号”という黄色に塗られた蒸気機関車が街中の話題になっていた。
このニュースに刺激を受けたヘンリー・フォードは、自動車で999号と同じような話題をつくってやろうと思って、汽車に匹敵するスピード車の開発を考えた。
ヘンリーが設計を担当し、トム・クーパーという技術者が製作を担当した4気筒の大型レース専用車ができあがってきた。
ヘンリーはこのクルマを真黄色に塗って、汽車と同じ999号とネーミングした。

これはスピードが出ることだけを目的につくったクルマであり、余分な機能は一切省いてあり、エンジンもシャシーも裸のままで露出していた。
座席は1つしかなく、1,500回転まで回り80HPというパワーをひねり出すことができる高性能エンジンを搭載していた。

このレース専用車のドライバーとして、オートバイレースでは実績があるが自動車レースに出場したことがない、24歳のバーニー・オールドフィールドという男がハンドルを握ることになった。


1902年10月に開催されたチャレンジ杯の最終レースで、バーニーが戦う相手は、アレクサンダー・ウィントンが開発した排気量8.4リッターの直列4気筒エンジンを並列に置いた16.8リッターのモンスター車で、“弾丸号”という名前が付けられていた。
強大なトルクがあるこのクルマは、ギヤボックスは必要なく、アクセルを吹かせばそれだけで前に進むという代物であった。
バーニーは今まで一度も999号を運転したことがなかったにもかかわらず、見事な運転ぶりを発揮して、ウィントンの弾丸号を破り、新記録のスピードで優勝してしまった。
この後、バーニーが運転する999号は自動車レースで次々と優勝を飾るのである。


069話フォード999号
←記録に挑んだ“フォード999号”





(金曜日の〔69話:後編〕に続く)


68話.20世紀初頭のアメリカ車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アンソニー・ルーカス:1866年頃の生まれ。テキサス州で原油鉱脈を発見する技師。
■ジョナサン・マックスウェル:1864年生まれ。マックスウェル社を創業するアメリカ人。
■ベンジャミン・ブリスコ:1869年生まれ。デトロイトで自動車部品をつくるアメリカ人。
■セオドア・ルーズヴェルト:1858年生まれ。アメリカ合衆国第二十六代大統領。


自動車による大陸横断挑戦やスピードを競い合うレースがアメリカ各地で始まった


1900年3月、創立されて間もないアメリカ自動車協会(AAA)はフランス自動車クラブ(ACF)の先例にならい、ニューヨーク州ロンクアイランド島で自動車レースを開催した。

ここでの走行距離80キロのレースは、19世紀末から普及が進んでいた蒸気自動車に対して、新興の電気自動車とガソリンエンジン車が挑戦するというのが企画の主旨で、多くのアメリカ人の関心を集めた。

レースの結果は、自分でつくったバッテリーを積んだ電気自動車の“ライカー”が平均時速39キロで走行して、ガソリンエンジン車と蒸気自動車を破って優勝した。
このレースによってロングアイランド島は大都市ニューヨークという地の利によって、アメリカにおける自動車レース場として、その人気は定着した。


20世紀が始まったばかりのアメリカ合衆国におけるクルマ好きの男たちの夢は、北アメリカ大陸横断であり、何度も試みられたにもかかわらず、1903年の夏までは成功した者はいなかった。

バーモントに住むホレイショ・ジャクソン医師は、自動車で大陸横断ができるかどうかを仲間と議論しているうちにだんだん興奮して、「やれる」と主張した手前、50ドルの賭けに応じて大陸横断に挑戦することになった。

ジャクソンは早速ウィントンの新車を購入し、一緒にやってくれる運転手を雇い、自分の身を守るピストル、さらに食糧を確保するための釣り竿など、必要と考えられる道具を全て積み込んでサンフランシスコを出発した。

一行にとって最大苦行は、パンクの補修と泥道からの脱出であった。
タイヤのパンクは数え切れなかったし、道中いたる所で泥沼にはまり込み動けなくなり、砂丘や川床から脱出するのに、しばしば滑車の助けを借りることになった。

途中でいろいろあったが、決して諦めることなく突き進んだジャクソン一行は、サンフランシスコを出発して64日後にニューヨークに到着し、賭けの相手から50ドルを手に入れるのに成功したのである。


それからしばらく後に、2台の〈オールズモビル/カーブドダッシュ〉に乗った若者グループが、ニューヨークからオレゴン州ポートランドまでの大陸横断ドライブにトライして、44日という記録を打ち立てた。

これらの大旅行を達成したのは全て男性であったが、22歳のアリス・ラムゼイを中心とする3人の女性が、マックスウェルに乗ってニューヨークを出発し、サンフランシスコまでの53日間にわたる大陸横断旅行に成功したのは、1902年のことであった。



J.マックスウェルとB.ブリスコは、合弁の自動車メーカーを立ち上げることにした


大陸横断という栄光に包まれることになった“マックスウェル”は、ジョナサン・マックスウェルという技術者によって創業された新興自動車メーカーのクルマである。


maxwell2上068話
←“マックスウェル”のブランドマーク



マックスウェルが初めて就いた仕事は、インディアナ州でエルウッド・ヘインズが設計した自動車の製作業務であり、次いでランサム・E・オールズが創業したオールズモビル社に移った。
これらの現場で自動車技術をマスターしたマックスウェルは、チャールズ・キングと一緒に新しい自動車メーカーを興した。

このキングの名前を覚えている読者は多いと思う。『科学アメリカ』で紹介されたベンツ車の構造図に触発された数多くの若者のひとりとして、「デトロイトでは16才のチャールズ・キング少年が、ガソリンエンジン車づくりに挑戦を始めている」と記されている人物である。

共同経営をスタートさせたマックスウェルとキングの2人であるが、頑固な技術者同士であるので、うまが合わず、すぐにこのジョイントビジネスは解消することになった。

キングと別れたマックスウェルは、ベンジャミン・ブリスコという男と知り合った。
自動車部品メーカーとして地盤を形成しつつあったブリスコは、オールズモビル社を始め数多くの自動車メーカーに各種部品を納品していて、自動車業界内での自分たちの存在をもっとしっかりしたものにしようと画策していた。

マックスウェルの才能に目をつけたブリスコは、共同事業化の話を持ちかけて、1904年に自動車メーカーのマックスウェルブリスコ社が設立された。
新会社は、マックスウェルが設計した新型車モデルAの生産に入ることになり、2年後には販売台数は2千台を超えるようになってきた。


068話マックスウェル・モデルA
←〈マックスウェル/モデルA〉




さて、副大統領から大統領に就いたセオドア・ルーズヴェルト大統領は数多くの試練を経ることによって、自分のやり方に自信を持つようになった。
そして、帝国主義思想に毒されたヨーロッパ列強の動きに呼応するかのように、大国として積極的に世界各国に関わっていく。
そのために軍事力、特に海軍力の強化に努めて、1907年にはアメリカ艦隊が世界を一周して、国民の間の海軍熱を煽るとともに、アメリカ合衆国の実力がいかに強いかを世界中の国々に強く印象付けることに成功したのである。

ちなみにルーズヴェルト大統領は、大統領公式専用車としてホワイト蒸気車を採用したことで、自動車史に残っている。

ホワイトについては今まで説明がしてなかったが、この時代の蒸気自動車を代表するブランドとしては、スタンレーと並ぶ有名ブランドである。
ミシンの製造をしていた兄ローリンと弟ウォルターというホワイト兄弟は、蒸気自動車こそ20世紀の陸上の覇者になるに違いないと考え、1900年に蒸気自動車を完成させた。

この蒸気自動車には、準備時間が短くて済むセミ・フラッシュボイラーが採用されていた。
振動もそれまでの蒸気自動車より格段に少なく、かつ乗り心地が良かったので、蒸気自動車としては歴史的なヒット車となったのである。


068話ホワイト大統領専用車
←ホワイト大統領専用車






(〔68話〕はここまでで、〔69話〕は来週の火曜日に掲載。)