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78.サーキットレースの出現〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ・ドラージュ:1874年生まれ。ドラージュ社を創業したフランス人技術者。
■オーガスチン・ルグロ:1880年生まれ。プジョー自動車会社に移籍したフランス人。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー自動車会社で新車開発に邁進した男。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。フランスのプジョー兄弟社社長。


新興メーカーのドラージュ車がフランスの自動車レース界に大旋風を巻き起こした


鳴り物入りでスタートしたACF・GPは、初回レースの大成功によって国民的関心事になり、1907年に開催予定の第2回レースに向かって日に日にムードが高まってきた。

次回の優勝を狙うフランスの自動車メーカー各社は、ハイパワーのレース専用車づくりにしのぎを削ることになったが、とりわけ熱心なドラージュ社という新興自動車メーカーがあった。

ドラージュ社の創設者であるルイ・ドラージュは、1874年にブランデーで有名なコニャック地方で生まれたが、生まれつき片目しか視力がなかった。
15歳で学校を卒業すると、官営工場で働きながら機械工学を独力で学んだ。
次いで別の会社に製図工として入社し、ここで技術者として基本となる知識を身に付け、その数年後にプジョー自動車会社に移って自動車に関連した仕事をするようになった。

ルイ・ドラージュは、まもなくプジョー自動車会社の実験テスト部の責任者となったが、しばらくするとかねてからの夢であったオリジナル車をつくりたいという想いがふつふつと沸いてきた。
これを実行するとなると準備がたいへんであるが、幸いにして資金に関しては何人かの後援者から大金をせしめることができたので、1905年にここを飛び出して新会社を設立した。

この時、ルイ・ドラージュと一緒にプジョー自動車会社を離れたのが主任設計者として腕を振るっていたオーガスチン・ルグロという優秀な技術者であった。
ルグロを得て勇気百倍のルイ・ドラージュは、パリ近郊に2台の旋盤と工員数人の町工場をつくって、自動車づくりを始めた。
収入はプジョー社時代の3分の1となったが、自分の会社が持てたことで意気軒昂であり、ルグ口もルイ・ドラージュの片腕として会社の発展に寄与することを忘れなかった。


delage2上078話
←“ドラージュ”のブランドマーク



1906年デビューした最初のドラージュは、堅実で保守的なスタイルをもつヴォワチュレットクラス車で、4.5HPと9HPのド・ディオン・ブートン製単気筒エンジンを載せていた。

この年、ヴォワチュレットレースとして人気が出てきたロト杯にドラージュ車が初めて参戦したら、2位に入ることができて幸先のよいスタートを切った。

ドラージュがその名声を確立したのは、1907年開催の第2回ACF・GPの前座となるヴォワチュレットレースにおいてであった。
2気筒車2台と単気筒車1台が参戦したところ、単気筒車を運転するアルベール・ギヨが平均時速80.1キロという他車を圧するスピードで走って、ドラージュとして初めての優勝を勝ち取った。


さて、前年の大成功に続く第2回ACF・GPは、主催者のACFが、エンジンの大型化を抑制する目的で、重量規制の他にもうひとつ、「ディエップの768キロの新コースを231リッターの燃料で走ること」という燃料規制を設けて実施された。

レースの結果は、フィアットに乗るフェリーチェ・ナツァーロが、平均時速113.6キロというスピードによって優勝を果たしたが、このクルマには、11リッターも燃料が残っていて、燃料規制はほとんど意味を持たなかった。



アルマンが去った後、プジョー兄弟社は“ライオンプジョー”ブランド車を登場させた


1886年にカール・ベンツによって開発されたガソリンエンジン車は、ドイツではあまり評価されることはなく、むしろ隣国のフランス人がその価値を見つけ出した。

自社のガソリンエンジン技術が未熟な頃、ダイムラーエンジンを載せるクルマをつくっていたパナール&ルヴァソール社やプジョー兄弟社は、ドイツのエンジン技術から学べることは全て学んだ後、オリジナリティあふれるクルマをつくれるようになっていた。

そんな状況の中で誕生したのがルノーである。
ルイ・ルノーによって創業されたルノー兄弟社は、小型軽量を活かしたクルマづくりで人々の評価を得て、生産台数を増やしていった。
そして、商用車分野への拡充を図って、自動車製造業者として着実に地盤を築いていた。


一方、プジョー兄弟社の方は、自転車から自動車へ進出する際に社内に確執が生まれ、自動車推進派のアルマン・プジョーは保守的な経営陣とたもとをわかち、プジョー自動車会社を設立した。
こうしてフランスの自動車産業は、ルノー兄弟社とプジョー自動車会社の2社が大きなウェイトを占めるようになってきた。

アルマン・プジョーが去ったプジョー兄弟社は、何かとうるさい専務がいなくなってほっとしたのか、ウジーン社長は病気になって、息子のジュールに社長の座を譲った。
新任のジュール社長は引き続き自動車に関心を示すことはなく、アルマン・プジョーの動きを傍観していた。

ところが、プジョー自動車会社が“べべ”の愛称をつけたコンパクト車をヒットさせると、ジュール社長の弟ロベールに代表される社内の若手から自分たちも自動車を続けるべきであったという意見が出てきた。
ウジーン社長としては、自動車進出に反対した手前、若手社員の意見を抑えにかかったが、燎原の火のごとく広がった自動車再開論を排除することはできなかった。

こうして1906年から、プジョー兄弟社は自動車ビジネスを再開することになった。
そして、アルマンの会社の“プジョー”と区別するために“リヨンプジョー”というブランドを採用した。

リヨンはライオンの意味を持つフランス語で、プジョー家のシンボルを表している。
本書では、その意味を汲んで日本語表現は“ライオンプジョー”で統一することにする。

(〔78話〕はここまでで、〔79話〕は来週の火曜日に掲載。)


78話.サーキットレースの出現〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ・ドラージュ:1874年生まれ。ドラージュ社を創業したフランス人技術者。
■オーガスチン・ルグロ:1880年生まれ。プジョー自動車会社に移籍したフランス人。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー自動車会社で新車開発に邁進した男。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。フランスのプジョー兄弟社社長。



J.ゴードンベネットに規則改訂を断られたACFは自分たちのレース開催を決定した


フランスでは産業革命の進展に伴って19世紀末から保険産業が活況を呈してきて、いろんな保険が出現したが、中でも自動車保険は将来の有望分野になることが期待されていた。

ル・マンという町は、フランスにおける保険業の中心地であり、当地に住む保険業者は、生まれたての自動車に対して大きな期待をもっていた。

この時代、フランスで自動車レースを主催する団体としては、1886年にアルベール・ド・ディオン伯爵の尽力によって創設されたACFがあった。
ACFが主催する初期のレースはパリとヨーロッパの都市を結ぶ、いわゆる都市間レースばかりであったが、1903年に開催されたパリ~マドリッド間レースが事故の続出で中止されたのがきっかけになって、都市間レースは禁止されることになった。

この一方、アメリカの新聞王がスポンサーのゴードンベネット杯は年々人気が高まっていた。
このレースは、国別対抗戦が本来の趣旨であるため、出走台数が各国3台に制限されていた。
自動車メーカーがたくさんあるフランスは出走枠の拡大を要請したが、聞き入れられることはなかったので、ACFはゴードンベネット杯への不参加を決議した。


この後、ACFの幹部の間で新しい自動車レースを自分たちが主催してやろうじゃないかという意見が強くなってきた。
ACFが新しいスタイルのレースの開催を考えているという噂を伝え聞いて、ル・マンの町の人々はぜひとも当地でやらせて欲しいと申し出たのである。



ACFの主催によって世界で最初となるGPレースがル・マンのサーキットで始まった


蒸気自動車で名を成したアメデ・ボレーが、ル・マンが位置するサルト県の出身なので、当地の住民は自動車レースに対して比較的好意を持っていた。
ところが、パリ~マドリッド間レースの事故の話が誇張されて語られたこともあり、不安からくる拒絶反応がないでもなかったので、サルトに住む自動車愛好家たちは住民を回り説得に当って、レース開催の賛意を取り付けた。


それまでの自動車レースは都市間レースという性格上、A地点からB地点に直線的に進むというのが基本であつたが、ル・マンではサーキットと呼ばれる周回コースが設けられた。

ポン・ド・ジュネスからスター卜して、最初に国道23号線を走って、この道が国道157号線とぶつかった交差点を左に曲がり、今度は国道157線に入る。
このふたつの国道は三角形の二辺に当り、底辺にあたる部分は地方道を使い、ゴールはポン・ド・ジュネスに戻るというサーキットであった。

こうしてコースレイアウトは決定したが、大きな問題点がクローズアップされた。
それは路面である。
この時代、道路は舗装されていなかったので、そこをクルマが高速で走るとドライバーも見物人も、ほこりで真っ白になってしまう。
これを解決するためにいろんな知恵が出され、最終的に路面にタールを敷くというアイデアが採用されることになった。


ル・マンの自動車愛好家たちの努力が実を結び、全長103.2キロのサーキットを6周するACFグランプリ(GP)は、1906年6月26~27日の2日間にわたって開催されることになった。

主催者のACFは、1トン以下という重量規制によって参加車のエンジン排気量を抑制できると期待していたが、自動車メーカー側は、巨大エンジンを搭載するためにシャシーを軽量化して重量規制をクリアした。


第1回ACF・GPの出走車は、フランスばかりでなく、ドイツからベンツ、イタリアからフィアットなども参加し、参加台数は32台を数えた。

フランスの自動車メーカーでは、パナール&ルヴァソール、ゴブロン・ブリリエ、モールなどの常連に加えてクレマン・バイヤールとド・ディートリヒという新鋭が参戦した。

これらの参戦車は、いちばん小さくても排気量車が7.4リッターというように大排気量車ばかりとなり、その中で最大となるパナール&ルヴァソールは18リッターに達していた。


ここで新登場となる“クレマン・バイヤール”について少し説明を加えておこう。
1903年10月、フランス財界の大立者であるアドルフ・クレマンは自動車メーカーのクレマン・グラジエーター社を、イギリス最大のタイヤメーカーであるダンロップ社のハーベイ・デュクロ社長に売り渡して、再出発することになった。

ところが、デュクロがクレマン・グラジエーター社を買収する条件の中に、“クレマン”というブランド名を専有できることになっていたので、アドルフ・クレマンは自分の名前を車名に使えなくなってしまった。
そこで、16世紀初めの頃の〔フランスVSイタリア〕戦争でフランスを勝利に導いた愛国者で自分が尊敬するバイヤール将軍にちなんで、“クレマン・バイヤール”というブランドをつくりあげたので、似かよった名前のクルマがフランスでデビューすることになった。


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←“クレマン・バイヤール”のブランドマーク→





第1回ACF・GPは、1日目に103.2キロのサーキットを6周し、2日目も同じで、12周1,238キロを走ることになった。

レース開始は午前6時で、各車は90秒間隔でスタートした。
ド・ディートリヒが最初にスタートすることになっていたが、どういうわけかエンジンが動かなくなり、フィアットを運転するヴィンチェンツォ・ランチアが最初にスタートを切った。
こうして激闘が始まったが、32台のレース参加車のうち完走したのはわずか11台で、最終的にハンガリー生まれのヘレン・シスが運転するルノーが平均時速101.4キロで走り切り、初代GPウイナーの栄誉に輝いた。

(金曜日の〔78話:後編〕に続く)


77話.ゴードンベネット杯の終わり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ジェームス・ゴードンベネット:1860年頃の生まれ。国別対抗戦自動車レースの主催者。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー兄弟社から独立する自動車ビジネスマン。


プジョー兄弟社ではきしみが起きて、自動車推進派のアルマン・プジョーは独立した


『クルマの歴史300話 第一巻 自動車の誕生』で、主役を演じたアルマン・プジョーは、不思議な存在感を持つ人物である。

ゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツのように自動車の歴史を語るのに絶対欠かせない人物とはいえないが、だからといってアルマン・プジョーが登場しない自動車の歴史などあり得ないというように、自動車という機械を人々の毎日の生活に結びつけるのに貢献した人物として、『第二巻』でも活躍することになる。


19世紀末のプジョー兄弟社はジュール・プジョー社長、社長の兄の長男であるアルマン・プジョー専務、社長の長男のウジーン・プジョー常務という経営トップ体制でフランスナンバーワンの自転車製造業者として隆盛を極めた。

ところがその内実は問題だらけで、アルマンのあまりに強引なやり方に、ジュール社長親子は警戒心を強め、一方、時代に合わせ事業拡大に取り組んできたつもりのアルマンは社長親子の事業センスのなさにあきれていて、両者はいつも衝突ばかりしていて、社内では大きなしこりになっていた。

アルマンは、プジョー兄弟社の経営方針としては、自動車ビジネスの拡大が最優先の課題であると繰り返し主張した。
ところが、スタートしたばかりの自動車ビジネスは順調に発展しているわけではなく、もたもたしていたので、この点をウジーンにつかれて、とうとうアルマンの堪忍袋の緒が切れてしまった。

「ならば、自動車部門は独立するしかない」ということで、1897年にアルマンはプジョー兄弟社から独立して、プジョー自動車会社(以下、プジョー社)を設立して、自分の責任で自動車製造業者としての事業活動を始めたのである。



アルマン・プジョーが発足させたプジョー自動車会社は小型車のべべを生み出した


Peugeot,Armand②第二巻077話
〈自動車メーカーを設立したアルマン・プジョー〉





プジョー社をスタートさせるに当って、アルマン・プジョー新社長は、自動車に全てを賭ける社員との運命共同体づくりに邁進した。
この時代の風潮として、自動車は海のものとも山のものともわからない状況であったが、やり方によっては大きな可能性を持つ産業になるかもしれないという予感はあったので、社員は喜んでアルマンについてきてくれた。
それと、自動車に関心を示す新しい社員も加わって、社内が一本化でき、設立の熱気に包まれた技術陣は張り切って仕事を進めた。

新会社が最初に取り組む仕事は、新エンジンの製作である。
今までは、ダイムラーエンジンをパナール&ルヴァソール社から供給してもらっていたが、今度こそ自作のエンジンを開発する必要があった。

技術陣は総力をあげて、エンジン開発に取り組んだ。
次いでギヤミッション、舵取り装置、制動装置などのメインパーツ、そしてシャシーとボディというように、クルマに必要なあらゆる部品の開発に、スタッフは追われることになったが、新しい息吹に燃えるプジョー自動車会社の社員に何の苦痛もなかった。
通常なら数年かかる新車づくりであるが、アルマン社長の強力な指揮下で、次々と新型車を発表して世間の注目を浴びたのである。


1905年、プジョー自動車会社は排気量650㏄という小型エンジンを搭載したオープン2シーターのコンパクト車を開発した。
フランス語で“赤ちゃん”を意味する〈プジョー/べべ〉という車名で登場したこのクルマは、前進3速トランスミッションを採用、ステアリング形式はラック&ピニオンという新方式が採用された。

このクルマのホイールベースは166センチしかなく、たいへん小さなボディでありながら最高時速は40キロというスピードが出て人気商品に育ち、年産400台の規模になってきた。

ここで注意しなくてはならないのは、この小型車を誰が買ったかという点である。
現代人の発想では、大型車はお金持ちで、小型車は庶民と考えがちであるが、この見方は間違っている。

この時代のフランス庶民は、例え小型車であっても買えるような所得水準になかった。
庶民がクルマを買えるようになるのはもっと後のことで、小型車のオーナーは全てお金持ちであり、奥様用やお嬢様用という2台目、3台目需要がほとんどであった。


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←“プジョー/ベベ”のブランドマーク


(〔77話〕はここまでで、〔78話〕は来週の火曜日に掲載。)


77話.ゴードンベネット杯の終わり〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ジェームス・ゴードンベネット:1860年頃の生まれ。国別対抗戦自動車レースの主催者。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー兄弟社から独立する自動車ビジネスマン。


フランスに戻った第6回ゴードンベネット杯で、リシャール・ブラジエが連勝した


1900年に第1回レースが開催されたゴードンベネット杯は、国別対抗戦という趣旨がなかなか理解されず、第2回、第3回、第4回とレースを重ねたものの、あまり盛り上がることはなかったが、1904年にドイツで開催された第5回から参加国も多くなり、本来の国別対抗戦のおもしろさがヨーロッパの人々にも理解されるようになってきた。

1905年開催の第6回ゴードンベネット杯は、前年にフランス車が優勝したことでフランスが開催国になり、オーベルヌ山地の台地に特別につくられた137キロの狭い山岳路を4周することになった。

このコースは、最初はコル・ド・モレノの山頂に上り、そこから下りになり、崖っぷちの狭い道やヘアピンカーブが数多くあった。
したがって、高性能なクルマと、ステアリングの正確性、加速減速の繰り返しの中での最適ギヤミッション選択、制動の適正タイミングなど、高度な運転テクニックを持つドライバーが要請され、厳しい競い合いが予想された。

今回のレースへの参加申し込みは、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカらの6ヶ国であり、国別対抗戦という本来の主旨が浸透してきたことを主催者のジェームス・ゴードンベネットは喜んだ。


1905年7月5日午前6時、6ヶ国を代表する18台のレース専用車が、順番にスタートを切った。
この中には、前年優勝したリシャール・ブラジエのレオン・テリー、前々年優勝のメルセデスのカミーユ・ジェナッツィ、新鋭フィアットのヴィンチェンツォ・ランチアなどの、この時代のトップドライバーたちが揃っていた。

見るだけでも恐ろしげなこの難コースの数多い危険箇所の中でも、“ロシュフォールのヘアピンカーブ”は最難所といわれていた。
鋭い左カーブを回るドライバーにとって、ハンドル操作の紙一重の違いは死に直結するだけに、“死に挑む"という表現が新聞報道では使われることが多かったという。

この曲かリくねった山岳コースで事故が続出した。ダラックは接触によって爆発し炎上した。
パナール&ルヴァソールは運転操作を誤って谷底に墜落した。

レースは抜きつ抜かれつの激しいバトルが繰り広げられ、沿道につめかけた数万人の観衆が、自動車レースの興奮を満喫できる好勝負となった。


結果はレオン・テリーが運転するフランス車のリシャール・ブラジエが、前年に続いて優勝カップを手にした。
このレースでは、3位までをフランス車が独占し、表彰台ではフランス人観衆の熱狂の渦の中でシャンパンが抜かれた。
ドイツ人の期待を担ったカミーユ・ジェナッツィの勝利は実現しなかったし、アメリカ勢の挑戦も退けられた。

こうして、1904年と1905年ゴードンベネット杯の勝者となったレオン・テリーであるが、自分の限界を知ったかどうかわからないが、この年をもって引退を表明した。



出場枠の拡大を要請したACFは拒否されたためにACFグランプリの主催を決断した


ゴードンベネット杯は1900年から毎年開催され、6回続いたので次は7回目という時にフランス国内では、前年から尾を引いている3台の出走枠を巡るACFと自動車メーカーとの争いに大きな動きがあった。

メーカー数が多いフランスでは、ゴードンベネット杯に参戦したいという自動車メーカーがいっぱいあり、出場枠の争奪戦は必死の様相を呈していた。
そこで、ACFは予選会で3台を選ぶことにしたが、そもそも各国3台という規則自体が不公平だとして、主催者のゴードンベネットにフランス車の出走枠の拡大を要求したところ、「国別対抗戦の趣旨が崩れるので、フランスの意見を受け入れることはできない」と回答があった。


ACFフランス自動車クラブ
←“フランス自動車クラブ(ACF)”のロゴマーク




これを聞いたACFは、翌年のゴードンベネット杯への出走を拒絶して、新たに“ACFグランプリ(GP)”という自動車レースの開催を発表した。

この知らせを受けたゴードンベネットは、自動車振興という本来の趣旨がフランス人によって踏みにじられたと強く感じて、ゴードンベネット杯は1905年の第6回をもって終了することを決断したのである。

(金曜日の〔77話:後編〕に続く)


76話.時速100マイルへの挑戦〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ・リゴリ:1880年頃の生まれ。ゴブロン・ブリリエで記録に挑むフランス人ドライバー。
■ポール・バラ:1878年頃の生まれ。ダラック車で速度対決をするフランス人ドライバー。
■ヴィンチェンツォ・フローリオ:1883年生まれ。タルガフローリオを創始したイタリア人。
■フェリーチェ・ナツァーロ:1881年生まれ。20世紀初頭のイタリアを代表するドライバー。
■マッテオ・チェイラノ:1870年頃の生まれ。イターラ社を創業したイタリア人技術者。


イタリア最南部のシチリア島でのタルガフローリオを企画したのはV.フローリオだった


自動車レース史上最古のサーキットレースはACFグランプリであるが、閉鎖した公道をサーキットとみなすのであれば、ACFグランプリよりほんの少し早く開催されたレースイベントが存在していた。

それがイタリア半島最南部に位置するシチリア島を舞台とした、タルガフローリオであり、第1回のレースは1906年に開催された。


タルガフローリオの名前は、このレースを企画し実施までの推進者となったヴィンチェンツォ・フローリオの名にちなんで付けられたもので、フローリオは後に伯爵の称号を手に入れると同時に“ヨーロッパ・モータースポーツの父”として仰がれることになる人物である。

シチリア島に拠点を置くフローリオ一家は大金持ちで、大地主であるばかりでなく鉄道、海運、貿易にも手を出しビジネスは拡大するばかりであった。
ところがヴィンチェンツォの父が急逝したため、兄が家業を継ぐことになった。

次男で自由の身であるヴィンチェンツォはヨーロッパ本土を旅行しては、いつも珍しい物品を手に入れて島に持ち帰っていたが、シチリア島での自動車第1号となるド・ディオン・ブートン製3輪自動車を乗り回しているうちに、自動車の魅力のとりこになり、次々と新しいクルマを買いこんでは自転車や馬と競争して遊んでいた。

島でのスピード競争に飽きると、友人のフェリーチェ・ナツァーロと一緒にイタリア各地で開催される自動車のスピード競技会でパナール&ルヴァソールを駆って転戦するようになった。


Nazzaro,Felice第二巻076話
〈フローリオの友人フェリーチェ・ナツァーロ〉





ここで、初期のイタリアを代表するレースドライバーのフェリーチェ・ナツァーロのことを紹介しておこう。
1881年にトリノに生まれたナツァーロは背が高く貴族的な容貌の好男子で、15歳でJ.B.チェイラノ商会に入社し、自動車に関する経験を積んだ。
フィアット社がこの会社を買収すると、フィアット社の走行テスト部門で、ヴィンチェンツォ・ランチアと一緒に仕事をするようになった。

その後、ヴィンチェンツォ・フローリオと知り合い、貴族趣味で気があった上に年齢が2歳違いと近いこともあり、2人は大の親友になった。

シチリア島のフローリオ家に世話になることが多くなったナツァーロはフランス語がぺらぺらでインテリジェンスがあるので、ヴィンチェンツォのお母さんの大のお気に入りになった。

ヴィンチェンツォの母は猛スピードで走る息子が心配でたまらなかった。
危険な自動車レースで最愛の息子を失うことを恐れた母は、なんとかレースを止めさせようと必死になり、無理やりに手を引かせる代わりに、ヴィンチェンツォが自動車レースを主催することだけは認めることにした。


1905年には、フローリオ杯レース(イタリア語でコッパ・フローリオという)をイタリア本土で開催したヴィンチェンツォは、翌年からシチリア島で盾を意味する“タルガ”を冠して、“タルガフローリオ”という名前の自動車レースを開催することを突然アナウンスした。

シチリア島には自動車が走れるようなまともな道がないことを知っているこの島の人々は、フローリオ家のお坊ちゃんは気が狂ったかと思ったが、ヴィンチェンツォは真面目に考えていた。

この島で自動車レースをやるとなると道路整備を含めて巨額の資金が必要になるが、母の財力をバックにしたヴィンチェンツォは道路工事の指揮に乗り出した。
ナツァーロはコースの設計で協力を惜しまなかった。
なにしろ、牛や馬が通る道を自動車が通れるようにするのであるから大工事であり苦難の連続となったが、ヴィンチェンツォの若さが推進エネルギーになって、1年間という短期間で見事に全長150キロのレース周回路を確保したのである。

この周回レースは、パレルモ市内にある中心駅からスタートして、すぐ山岳地帯に入るが、ここから曲がりくねった道が続き、急な坂道を上がるとだんだん険しくなり、自動車が通れそうには思えないような細い道が続いた。

やがてこのコースの頂点となる標高1,120メートル地点に到達し、再び海岸に向かって曲がりくねった下りの坂道が続いて、スタート地点へ戻ってくる“マドニエ”と呼ばれるコースができあがったのは1906年春であり、この時ヴィンチェンツォは23才になったばかりであった。

マドニエコースの完成の目途が立つとナツァーロはシチリア島に別れを告げて、トリノのフイアット社に戻って各地のレースに参戦した。



V.チェイラノの弟のマッテオは、イターラ社という新しい自動車メーカーをつくった


イタリアではヨーロッパの先進国に遅れて産業革命がやってきて、新しい時代を反映して自転車の人気がアップした。
次いでオートバイが登場し、イタリア人の間に機械で動く乗り物に対する興味は高まり、やがて人々の関心は自動車に移った。


こんな時、機を見るに敏なジョヴァンニ・チェイラノという男が、J.B.チェイラノ商会という会社を興し、最初に自転車の輸入販売を手がけ、次いでオートバイに事業を広げ、さらには輸入車の販売業を始めるというように、時代の変化を的確に掴んで次々と新しい乗り物ビジネスを始め、ジョヴァンニはイタリアでの乗り物のパイオニアとなった。


Ceirano,Giovanni第二巻076話
〈チェイラノ3兄弟の長男ジョヴァンニ・チェイラノ〉






しかし、J.B.チェイラノ商会の経営は一向に安定することなく、チェイラノに資金援助を続けてきた貴族のブリケザリオ伯爵は、泥沼に入ることを避けるための考察を進めてゆくうちに、産業都市トリノの資本家を集めて、イタリアを代表する自動車会社を設立して、この会社にJ.B.チェイラノ商会を吸収させようと考え、実行に移したのである。

このジョヴァンニ・チェイラノにはマッテオという弟がいた。
マッテオはメカニックとして優れた腕を持っていて、兄弟はJ.B.チェイラノ商会で長い間一緒に仕事をやっていた。

ところが、兄がブリケザリオ伯爵の提案を受け入れて、自分たちが蓄積してきた全てを新設自動車メーカーに売却することを決めたことは、兄弟の仲たがいのきっかけとなった。

マッテオは、「どんなに苦しくても、誰の支配を受けない会社を維持してゆくことが、自分たちの生き方である」という考えを変えることはなく、1903年にイターラ社という自動車メーカーを設立した。
そして、翌年には排気量15.3リッターというモンスターエンジン搭載車を開発したのである。


itala2上076話
←“イターラ”のブランドマーク



イターラ社を設立して“イターラ”ブランド車の拡大に努めていたマッテオ・チェイラノは1906年になると、どういうわけか、今までの会社とは別にS.P.A.社(正式名称Societa Piemontese Automobili)という自動車メーカーをつくることになった。

ここでつくられるクルマはどうしてもイターラ車と似てしまって、実質的にイターラ車の弟分という関係にあった。


S.P.A.社としての1号車は4気筒エンジン搭載の24HPモデルであったが、すぐに6気筒エンジンを搭載した2号車の60HPモデルが登場することになった。
これらのクルマは、当時としてはまだ珍しかったシャフトドライブを採用しており、大きくて頑丈なつくりをしていた。


spa2上076話
←“S.P.A.”のブランドマーク→



さて、1906年に開催されることが発表された第1回のタルガフローリオ・レースには、22台のエントリー申し込みがあったが、シチリア島への航路で船員ストライキがあり、ダラックとモールの2チームが港で足止めされてレースに間に合わなかったので、実際スタートしたのは10台だけだった。

マドニエコースを3周する446キロをレースで、完走したのは6台であり、この中でトップを切ってゴールインしたのは、排気量7.5リッターのイターラに乗るアレサンドロ・カーニヨであった。
カーニヨは平均時速46.8キロというスピードでマドニエコースを9時間32分で走りきり、純銀製のタルガフローリオ杯を受け取ることになったのである。


Cagno,Arresandro第二巻076話
〈タルガフローリオで優勝したアレサンドロ・カーニヨ〉





シチリア島でのタルガフローリオの1907年の2回目となるレースは、前年と同じコースで行われることになり、出走車は44台に増加した。

レースは激しいバトルが繰り広げられ、最終的にフィアットに乗るフェリーチェ・ナツァーロが前回の記録を塗り替える平均時速53.7キロで走って優勝し、2位には同じくフィアットに乗るヴィンチェンツォ・ランチアが入った。

1906年に開催された第1回ACFグランプリ(GP)レースではヘレン・シス運転のルノーに続いて、ナツァーロは2位に入った。

翌07年の第2回ACF・GPレースには新型フィアットで念願の優勝カップを手に入れたナツァーロは、この年は最高に調子が良くて、ACF・GPレース、タルガフローリオ、ドイツ皇帝杯レースという3大レースのすべてに優勝するという快挙を成し遂げたのである。

(〔76話〕はここまでで、〔77話〕は来週の火曜日に掲載。)