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86話.TTレースの始まり〖後編〗

《 主な登場人物 》
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。ロールス・ロイス社の人気者経営者。
■ジョージ・ジョンストン:1865年生まれ。アロール-ジョンストン社のスコットランド人社長。
■ジョルジュ・リシャール:1873年頃の生まれ。ユニック社を創業したフランス人事業家。
■ロック・キング:1865年頃の生まれ。ブルックランズサーキットをつくったイギリス人。
■セルイン・エッジ:1868年生まれ。ネイピア社を支援するオーストラリア人ビジネスマン。
■エビル・ホワイト:1872年頃の生まれ。ブルックランズに貢献するイギリス人審判。


 世界で最初となる人工サーキット場が、ロンドン郊外のブルックランズで完成した 


自動車レース場のメッカとして、世界中にその名をとどろかせることになるブルックランズは、世界最初のコンクリート舗装のバンク付きサーキットとして、ロック・キングというイギリス人の金持ちにより、ロンドン郊外西方に建設されることになった。

ブルックランズのコース幅は30メートルで、カーブにはバンクがつけられた。
コース外周は1周4,450メートルで、“フィニッシングストレート”と呼ばれる900メートルの長さの直線と、半径300メートルのバンクが2つあった。

ブルックランズサーキットの建設工事は1906年の秋に始まり、1年後の1907年6月にオープンすることになった。
この時、オープン記念走行を〈ネイピア/66HP〉で行ったのは、1902年のゴードンベネット杯で〈ネイピア/40HP〉に乗って優勝をはたしたセルイン・エッジであるが、この優勝以降は、ネイピア社の陰の実力者としての役割を果していた。


086話ネイピア 速度記録車
←ブルックランズでエッジが走行したネイピア車




エッジはここで〈ネイピア/66HP〉を操って、時速100マイル(160.9キロ)を超えるスピードで走ってみせた。
引き続きエッジは、24時間単独走行に挑戦し、2,544キロを平均時速106.1キロで走破するという、すばらしい記録を打ち立て、ブルックランズの完成を祝ったのである。

ブルックランズでの最初のレースは、1907年7月6日に開催された。
午前中にパリ~マドリッド間レースで事故死したマルセル・ルノーを記念するレースが開催され、〈ネイピア/40HP〉が優勝した。
そして午後にはイギリス自動車業界の大立者であるモンタギュー伯爵が提供する優勝杯レースが実施され、ダイムラー社の最新技術を盛り込んだレース専用車の〈メルセデス/グランプリ〉が優勝を飾った。

しかし、第1回のレースは成功とはいい難かった。
サーキットがあまりにも大きすぎて自動車が小さく見え、スピード感がまったくなかったからである。
また、出走車にナンバーが付いていなかったため、どのクルマがトップを走っているか見分けることができなかった。
それに加えて、本格的なレース専用車から、車体の一部を取り去りレース用に軽くしたツーリングカーまで 種々雑多のクルマが参戦したので、白熱したレース展開にはならなかったことが決定的であった。

ブルックランズでのレースが大きく変わったのは、“エビー”というニックネームで仲間から親しまれていた公式計測員のエビル・ホワイトがレース委員会を説得して、レース専用車の規格やハンディキャップを定め、出場車にナンバーの数字を大きく付けるようになってからである。


White,Evil第二巻086話
〈自動車レースの人気向上を図ったエビル・ホワイト〉





こうしてハンディキャップを設けた自動車レースが始まったが、最初に実施されたレースで悲劇が発生した。
ベルギー製ミネルヴァを運転していたビンセント・ハーマンは、トップでゴールインした。
ここまではよかったが、最高スピードでゴールを駆け抜けたハーマンにバンクが迫ってきた。ハーマンは急ブレーキをかけて停止しようとしたがスピードを制御することができないままバンクヘつっこんで、さらにバンクを飛び越し、橋の欄干に激突して事故死をとげてしまったのである。

ブルックランズでフィニッシングストレートを設けたのは、明らかに誤りだった。
ゴール地点を手前に移す措置がとられたが、その後、クルマのスピードが上がるにつれ、それでも安全とはいえなくなったため、結局フィニッシングストレートは使用されなくなり、レースは外周サーキットからスタートし、そこでゴールすることになった。



 RACが主催するようになった最初のTTレースで優勝したのはハンバーだった 


イギリスの自動車クラブACGBIがクラブ名を変えたのは、1907年のことである。
自動車に深い理解を示していたエドワード七世は、このクラブに王室という権威を付与した“ロイヤル・オートモビール・クラブ”という名前を付けることを許可した。
このクラブは略称の“RAC”として人々に親しまれるようになり、イギリスにおける自動車の普及に多大な貢献をすることになる。

名前を変えた時点で、RACの会員数はすでに1万人を超えていて、各種モータースポーツイベントを主催する一方で、自動車を運転する会員の安全を守る措置がとられた。

そのひとつが、イギリス各地にある長い下り坂の終点部の道路脇に緊急非難所を設置することであった。
今日の若いドライバーには、これがどんな意味を持つのか理解し難いかもしれないが、長い下り坂をエンジンブレーキを使わずに、フットブレーキで走行し続けるとブレーキパッドが摩擦熱で作動しなくなり、クルマの制御ができなくなるという事故が昔は多発した。
このような場合、下り坂のいちばん下の部分に砂地の緊急避難スペースがあれば、制御不能車を救済することができるのである。

RACはこのような安全対策の他に、電話相談所を設けるなどして自動車に対する質問を受け付けたり、赤旗法制定以来根強い自動車に対する偏見を払拭することに大きな役割を果たすことになった。


1907年のレースシーズンがやってきて、主催者となるRACは、正式のTTレースに関しては6周に延長し、他にツーリスト大型車クラスのレースを加えて、同時に2つのレースを開催することにした。

激しい雨天をついて強行された2つのレースは、厳しすぎる燃費制限のために、完走できたのは各レース共それぞれ2台だけというさびしい結果に終わり、TTレースの方は排気量3.5リッターの〈ローバー/20〉が、ツーリスト大型車クラスの方は〈ハンバー/ビーストン〉が優勝した。


Humber,Thomas第二巻086話
〈自動車への進出を決断したトーマス・ハンバー〉





ここで、ビーストンを生み出した、ハンバー社を紹介しておこう。
ハンバー社を創業したのは、1868年にイギリスのコベントリーで自転車製造業を始めたトーマス・ハンバーという人物である。

イギリスでは19世紀末になると、自転車製造業者が乱立して安売りが横行するようになっていた。
ハンバーは先行きを考えて、今まで蓄積してきた自転車技術をベースとしてオートバイを開発した。
そして、オートバイ事業で自分たちのビジネスを拡大しようと挑戦を始めたが、すぐに自動車の人気が高まってきた。

この頃、イギリスではウーズレーブランドの小型車に着目する人が増えてきた。
これをみていたハンバーはフランスに渡ってレオン・ボレーと交渉を持ち、製造ライセンスを取得することに成功した。
こうして、1898年からレオン・ボレー設計によるガソリンエンジン搭載の小型3輪自動車をソシアブルの名で売り出した。その後、これの4輪版であるクオドリシクルへと発展させた。

これで自動車技術の基本をマスターしたハンバー社は、次に本格的な4輪自動車の自社開発に挑戦して、出力5HPを発揮する水冷単気筒エンジンを搭載した、2人乗りの4輪車ハンバレッドの製作を開始した。
翌1901年には、フランス人の設計家ルイ・コータレンが入社して、彼が指揮を執って開発されたのが本格的な大型車となるビーストンであり、これが1907年に開催されたTTレースで優勝したのである。


humber2下086話
←“ハンバー”のブランドマーク




イギリスでは、厳しすぎる燃料規制によって、TTレースを完走したのがたったの2台だけという結果を生んだ反省から、新しい年に入るとレース規定の改訂をするものと誰もが思っていたところ、RACが1908年のTTレースのために発表した新しい4インチ規定は人々を驚かせた。

1908年は燃費制限がなくなった代わりに、最低重量726キロ、エンジンは4気筒まで、ピストンのボア直径は102ミリ(4インチ)までという規定が設けられたが、このボア規定は多くのツーリングカーの現実とはかけ離れたものだった。
4インチ規定に対してザ・タイムス紙を中心に激しい反対の声があがった。
そこで批判をかわすために、RACはコースを60.7キロに短縮し、さらに道路に点在している穴を埋め、ドライバーの視角のじゃまになっていた廃屋をとりのぞき、コーナーごとに表示板を設けるなどして、事故防止のための数々の処置をとって、非難から逃れようとした。

1908年に開催されたTTレースの5周目までは、排気量5リッターのダラックのひとり舞台であったが、最後のラップでキャブレターが燃えあがって脱落し、ネイピアが大逆転で優勝をもぎ取った。

(〔86話〕はここまでで、〔87話〕は来週の火曜日に掲載。)


86話.TTレースの始まり〖前編〗

《 主な登場人物 》
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。ロールス・ロイス社の人気者経営者。
■ジョージ・ジョンストン:1865年生まれ。アロール-ジョンストン社のスコットランド人社長。
■ジョルジュ・リシャール:1873年頃の生まれ。ユニック社を創業したフランス人事業家。
■ロック・キング:1865年頃の生まれ。ブルックランズサーキットをつくったイギリス人。
■セルイン・エッジ:1868年生まれ。ネイピア社を支援するオーストラリア人ビジネスマン。
■エビル・ホワイト:1872年頃の生まれ。ブルックランズに貢献するイギリス人審判。


 イギリス初の自動車レースとなるツーリスト杯(TT)レースが開催されることになった 


ガソリンエンジン車の歴史は、ドイツから始まり、フランスがそれに続き、イタリアとイギリスがその後を追ったが、自動車レースの興奮を最初に体験したのはフランス人であった。
そのフランス人の後を追うように、イギリス人も自動車レースにのめり込むようになる。

20世紀の幕が開けた頃、イギリス政府は公道での自動車レースを禁止していて、イギリス人のレース愛好家はレースの場所を探すのに苦労したが、幸いにしてブリテン島以外のマン島や北アイルランドでは、レース実施のために公道を閉鎖することが法律で認められていた。

ACGBI(イギリス・アイルランド自動車クラブ)は、市販車だけが出場できる競技として、“ツーリスト・トロフィ”(略称TT)レースを、1周84キロの周回路を4周する全長336キロのマン島コースで開催することを発表した。

1905年の第1回TTレースでは、1リッターで8キロ以上走ることという燃費、590~726キロという車両重量、229センチ以下というホイールベース、運転手と助手のメカニックを含めて全部で300キロ以下という積載ウェイト、4座席のツーリングタイプ、同じクルマがレース後1カ月間は希望者に一定価格で販売されること、というようなたくさんの規制が全ての出走車に設定されていた。


第1回TTレースでスタートラインに並んだのは、イギリス車28台プラス外国車14台の合計42台であり、レース前に優勝候補ナンバーワンと呼び声が高かったのは、28歳のチャールズ・ロールスが運転するロールス・ロイスであった。
ロールスは、エンジニアのフレデリック・ロイスがつくったクルマに無限の可能性を信じ、共同でロールス・ロイスという自動車ブランドをつくることを提案して、前年末に契約書に調印したばかりであった。

発足したばかりのロールス・ロイスにとって、自分たちの存在を世間にアピールするいいチャンスが巡ってきたと考えて、TTレースに2台エントリーした。
号砲一発、歴史的な第1回TTレースがスタートを切ることになったが、どういうわけかロールスがハンドルを握るロールス・ロイス車は、思いどおり動いてくれなくてレースから脱落してしまった。

このレースでは、排気量3.8リッターの2気筒エンジン搭載のアロール・ジョンストン車と、もう1台のロールス・ロイス車との間で激しいトップ争いが続いた。
接戦の末、このレースを制したのは平均時速55.2キロを記録したアロール・ジョンストンであり、ロールス・ロイスに2分9秒の差をつけて優勝を飾ったのである。


086話アロール・ジョンストン1904
←アロール・ジョンストンの1904年モデル





第1回TTレースで優勝したアロール・ジョンストンは、スコットランド人の蒸気機関エンジニアであるジョージ・ジョンストンがつくったクルマである。

ジョンストンは、自動車に蒸気機関を載せようとして研究を進めていたが、どうしてもうまくいかないので、これを諦めてガソリンを燃料とする内燃機関の研究に没頭し、とうとう4気筒のガソリンエンジンを完成させた。

この技術に着目したウィリアム・アロールという事業家は、ジョンストンに新しい自動車メーカーをつくらないかと話を持ちかけ、共同で“アロール・ジョンストン”という名前をつけたガソリンエンジン車の製造販売ビジネスを1895年からスコットランドで開始した。

20世紀に入りイギリスではガソリンエンジン車産業があちこちで勃興して、メーカー間の競争が激しくなってきた。
生き残りのためには、有名にならなくてはいけない。
自動車メーカーが有名になるには、レースで優勝することがいちばん手っ取り早いと考えたアロールは、マン島で第1回TTレースが開催されることを知り、さっそくエントリーしたところ、優勝することができたのだ。
この優勝で勢いを得たアロール・ジョンストンは、地元のスコットランドばかりでなく、積極的にイングランド市場の開拓に努めたのである。


Arrol-Johnston2下086話
←“アロール・ジョンストン”のブランドマーク




 イギリスのマン島で開催されたTTレースでC.ロールスは前年の雪辱を果し優勝した 


1905年のゴードンベネット杯は、6回目にして最後の開催となった。

この年のゴードンベネット杯では、排気量が11.2リッターにアップした新エンジン付きのリシャール・ブラシエ車を運転したレオン・テリーが前年に続いて2連勝を飾り、会社の勢いは上がる一方となった。
1905年12月のパリサロンでは、テリーが優勝したクルマを誇らしげに展示していたが、実のところ、ゴードンベネット杯の2カ月前に、リシャールはブラシエとけんか別れをしていて、この会社を去っていた。
ジョルジュ・リシャールは、パリから離れたプトーでリシャール社という名前の自動車メーカーを再度設立して、“ユニック”というブランドを付けたクルマの生産を始めた。


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←“ユニック”のブランドマーク



一方、アンリ・ブラシエの方はリシャールがいなくなったので、直ぐに車名と会社名をリシャール・ブラシエから“ブラシエ”に変更して事業活動を再開したので、ユニックとブラシエは宿敵になるのだった。


さて、1905年にマン島で開催された第1回TTレースが好評であったことから、主催者のACGBIは、1906年に2回目となるTTレースの開催を決定した。
今回はコースが64.8キロに短縮され、規定もホイールベースは244センチ以下、燃費制限として1リッター当り8.85キロ走行以上と変更された。

前年は調子が悪く棄権したロールス・ロイスのチャールズ・ロールスにとっては、第2回TTレースは名誉挽回のチャンスとなった。
第1回TTレースの覇者は出場しなかったので、フランスの新興自動車メーカーのベルリエ車がロールス・ロイスに次ぐ優勝候補と呼ばれていた。
チャールズ・ロールスが運転するロールス・ロイスはスタート直後にトップに立ち、そのまま一度もトップを譲ることなく、圧勝して前年度の雪辱をはたすことができた。

このレースでのロールスの平均時速64.2キロは、前年度の55.2キロを9キロも上回る立派なもので、2位に大差をつけたのである。

(金曜日の〔86話:後編〕に続く)


85話.続々誕生するイギリス車〖後編〗

《 主な登場人物 》
■ジョン・マーストン:1836年生まれ。自動車へ進出を図るイギリスのサンビーム社社長。
■レジナルド・モーズリー:1871年生まれ。スタンダード社を創業するイギリス人事業家。
■F.W.ホッジス:1872年頃の生まれ。ヴォクゾール社でエンジンを開発するイギリス人。


 イギリスでの人気ブランド“ヴォクゾール”の誕生ストーリーは12世紀末から始まった  


次は、20世紀初頭に誕生したイギリスのカーブランドの中で現代まで生き残っている“ヴォクゾール”に話を移すことにする。
現在ヴォクゾールブランドで売っているクルマは、ドイツ製のオペルと同じといっていい。
なぜなら、ヴォクゾールもオペルもGM社のグループ企業であって、ブランドこそ違っているものの、クルマそのものは同じである。

ヴォクゾールの起源は、12世紀末に遡る。
イギリス国王の信頼が厚いフォーク・レ・ブレアント(Fu1k le Breant)という貴族が、国王の命令でロンドンの中心地に館をもっていて莫大な遺産を相続している未亡人と結婚することになった。
この館は、フォークスホール(Fulk's Hall)と呼ばれるようになったが、後になまってフォクスホール(Fawks-hal1)になり、さらにヴォクゾール(Vauxhall)となってきた。
それから400年が経ち、その館があった場所にヴォクゾール・ガーデンという遊園地がつくられて、“ヴォクゾール”という名前がロンドンっ子の間で有名になってゆく。


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←“ヴォクゾール”のブランドマーク



1857年のこと、遊園地の跡地に、フォーク・レ・ブレアントの軍旗に描かれていた半分鷲で半分ライオンの伝説上の怪獣“グリフィン”を社章とするヴォクゾール鉄工所が事業を始め、テムズ川を往来する曳き舟や外輪船の多くは、ヴォクゾール鉄工所がつくった蒸気機関を使用するようになった。
しかし、この会社は問題が多く経営危機におちいり、1896年に管財人のコントロール下に入ってしまった。

管財人は、既に蒸気機関の時代は終わったと判断し、できるだけ速い時期にガソリンエンジンに転換して、このエンジンを使った自動車をつくるという再建策を押し進めた。
この仕事を担当したのがF.W.ホッジスという技術者である。
ホッジスはドイツ人のカール・ベンツが開発した4ストロークサイクルのガソリンエンジンから多くのことを学び、定置用の小型ガソリンエンジンの試作を繰り返し、これを完成させた。

その後本格的に自動車づくりに取り組み、1903年夏には排気量1リッターの単気筒エンジンを積む小型車を完成させた。
このクルマは構造が簡単で故障しにくく、取り扱い易かったのでたいへん評判は良かった。
その次に取り組んだのは排気量2.4リッターの3気筒エンジンを載せた一回り大きなクルマであったが、これは価格が高いこともあって成功することはなかった。

最初はパッとしなかったヴォクゾール車が、躍進のきっかけをつかんだのは、1905年にロンドンで開催されたオリンピア・モーターショーで発表した、初の4気筒車となる“18HPモデル”であった。
このクルマは、ボディ後部の屋根の上に運転席を設けるという奇妙なスタイルをしていて、ロンドン市民から“モーターハンサム”と呼ばれて、親しまれるようになった。


085話ヴォグゾール・モーターハンサム
←ヴォクゾールの“モーターハンサム”








 3輪トラック製造業から仕事を始めたAC社は、個性を求める人々から支持を受けた


20世紀に誕生したイギリスのカーブランドとして、次は手づくりのスポーツカーとして今日まで生き延びてきたACの話しである。
AC社の起源は、ウェラーとポートワインという同じジョンという名前の2人が、1904年にガソリンエンジン車ビジネスを立ち上げたことに遡る。

最初の頃は、小型で“オートキャリア”として親しまれる排気量630㏄の単気筒エンジンを載せる3輪トラックをつくっていた。
そのうちに、ロンドンにあるセルフリッジ百貨店やグレートウェスタン鉄道から4輪貨客車づくりを依頼されたことで、4輪のクルマをつくるようになった。

この4輪貨客車は、ドライバー席が後輪の上にあって、乗客は前部に乗るタイプであり、“ソシアブル”と名付けられた。
そこでオートキャリアとソシアブルを並行して生産するオートキャリアーズ社を1907年に設立したが、この会社は略してAC社と呼ばれるようになった。
新会社が販売するオートキャリアとソシアブルの両車種とも100ポンドたらずの価格であったこともあって、売れゆきは好調だった。

(〔85話〕はここまでで、〔86話〕は来週の火曜日に掲載。)


85話.続々誕生するイギリス車〖前編〗

《 主な登場人物 》
■ジョン・マーストン:1836年生まれ。自動車へ進出を図るイギリスのサンビーム社社長。
■レジナルド・モーズリー:1871年生まれ。スタンダード社を創業するイギリス人事業家。
■F.W.ホッジス:1872年頃の生まれ。ヴォクゾール社でエンジンを開発するイギリス人。


 20世紀に入ったイギリスで、雨後の筍のごとくガソリンエンジン車メーカーが誕生した


「82話」と「83話」において、ヨーロッパ各国で1908年までに誕生した自動車のブランド一覧表を掲載しているが、今度は1908年までに登場したイギリス車の14ブランドを誕生順番に並べた一覧表である。

❖イギリス:ランチェスター 1895~、G
❖イギリス:アロール・ジョンストン 1895~、G
❖イギリス:デイムラー 1896~、G
❖イギリス:ライレー 1898~、G
❖イギリス:ウーズレー 1899~、G
❖イギリス:ネイピア 1900~、G
❖イギリス:サンビーム 1901~、G
❖イギリス:スタンダード 1901~、G
❖イギリス:ヴォクゾール 1903~、G
❖イギリス:AC 1904~、G
❖イギリス:ロールス・ロイス 1904~、G
❖イギリス:ローバー 1904~、G
❖イギリス:オースチン 1905~、G
❖イギリス:ヒルマン 1907~、G

これらのうち、19世紀に誕生した自動車ブランドは『クルマの歴史物語 第一巻』で既に説明がなされている。
また『第二巻』では、ロールス・ロイス、ローバー、オースチン、ヒルマンについての説明は完了しているので、残りの4ブランドに関するブランドストーリーをこれ以降に記すことにする。



 自転車メーカーのサンビーム社J.マーストン社長は、自動車への進出を決断した


金儲けには手段を選ばぬというところがあって、利益を生み出す仕事がないかといつもぎらぎらと目を光らせているジョン・マーストンというビジネスマンがイギリスにいて、前輪が大きいオーディナリー型自転車の人気が急上昇したことに着目して、1877年に自転車メーカーを立ち上げた。

マーストンは、自分の自転車に太陽光線を意味する“サンビーム”というブランドを付け、会社名もサンビーム社に変え営業に力を入れたところ、イギリスでトップクラスの自転車メーカーになってきた。

最初の頃は収益が良かった自転車ビジネスであるが、だんだん価格競争が激しくなってきた。
いろいろ工夫を重ねて他社との差別化に務めたが、自転車部品専門メーカーが大量生産によって部品を安く供給するようになると、今までのように儲けることが難しくなり、そのうちに赤字になってしまった。
これでは困るので、何とか突破口はないかと探っていたマーストン社長の目にとまったのが、19世紀末に成長を始めつつあった自動車である。

この時代はドイツから来たベンツ車の影響が大きく、イギリス中の自転車屋がこぞってベンツ車の物まねをしてクルマづくりに走っていた。
この競争に負けてなるものかと、技術陣にハッパをかけた結果、サンビームとしての自動車1号となる単気筒エンジンの試作車が完成したのは1899年のことであった。
これはベンツ車にそっくりであって、他の物まね車同様売れることはなかった。

物まねではダメだと反省したマーストン社長は、他とはまったく違うクルマをつくろうと思い立ち、マッバレイ・スミスという有名な装飾品デザイナーにユニークな自動車の設計を依頼したところ、〈サンビーム/マッバレイ〉というクルマができあがってきた。
このクルマは前と後ろに1輪ずつ、中央左右に各1輪を付けた菱形の車輪配置をもつ奇妙なスタイルをしていた。
この試作車を実際に走らせてみると、走行安定性が悪く、急カーブを曲がろうとするとすぐに転倒するというように安全性に問題があり、話題になるだけだった。

オリジナリティにこだわり過ぎたことを深く反省したマーストン社長は再び大きく方針転換を行い、フランスのベルリエ車を仕入れて、“サンビーム”の刻印を打ち付けたクルマを売り出すという安易な路線に転じたが、こんなやり方で成功するほど世の中は甘いわけがない。


最初はベンツの物まね、2号モデルは菱形4輪車という奇抜な車、3号モデルはフランス車のプレートを変えただけのクルマと失敗続きのマーストン社長の懐は、だんだん空っぽになってきた。

3度目の反省をしたマーストン社長は、木製シャシーに4気筒エンジンを載せたオリジナル車を開発したところ、1904年頃から徐々に売れるようになってきた。
これで元気を取り戻したので、新型車として〈サンビーム/シックス〉を製作して“イギリス初の6気筒車”と銘打って大々的に売り出したところ、既に6気筒車を世に送り出していたネイピア社から、「イギリスでの1号は自分たちだ」と厳しい抗議を受け取ることになった。

このように、20世紀が始まったばかりのサンビームには何ひとつ良い話題がなかったのは、創業者であるジョン・マーストン社長の人間性に問題があったためと思われる。



 ごく“普通”のクルマをつくることを目的として、スタンダード社が設立された 


Maudslay,Reginald第二巻085話
〈発想が豊かなレジナルド・モーズリー〉





20世紀に入ってから、イギリスでは自動車メーカーの創業が相次いだが、その中にスタンダード社という会社があった。
スタンダード、すなわち“普通”という名前を持つこの会社を創業したのは、レジナルド・モーズリーというイギリス人であった。

この会社を設立する前のモーズリーは、ロンドン名所として有名なテムズ川にかかるタワーブリッジを設計したことで有名なバーリー卿のアシスタントをしていた。
バーリー卿から独立したいとの思いが強くなったモーズリーは、イギリスで人気が出始めていたガソリンエンジン車メーカーを創業することを思いついたのは1903年春のことであった。

ここまでは、誰でもできそうであるが、ここから先がモーズリーの優れたところである。
最初に考えたのは自動車メーカーに欠かせない技術の取得である。
自分は自動車技術を何ひとつ知らないので、技術責任者としてアレキサンダー・クレイグという若手エンジニアを採用した。

エンジニアは入手できたが、自動車をつくる建物や、工作機械が必要になる。それに工場従業員を雇い入れて、訓練をしなくてはならない。
これらをやりこなすには巨額の資金を必要とするが、モーズリーの財布はもともと空っぽなので、次の仕事は巨大な金庫を探すことになった。

この役割を期待したのは、今まで仕えてきた大金持ちのバーリー卿であり、人の心を掴むのがうまいモーズリーにとって、バーリー卿から資金を引き出すことはちっとも難しいことではなかった。


こうした普通でないやり方で、コベントリーで自動車メーカーを立ち上げることになったが、会社の名前が未だ決まっていなかった。
普通に考えると、モーズリー自動車会社、あるいはスポンサーの名前を冠するバーリー・モーズリー自動車会社となるが、モーズリーの発想は普通でなかった。

モーズリーは会社名を決める前に、新会社としての経営方針を先に考えた。
新会社が送り出す自動車は、既に他のクルマで試みられて信頼性が実証されたこと以外は決して採用しないこと。
すなわち普通のクルマをつくることを基本方針に設定したのである。

そうなると、「名は体を表す」の言葉通り、会社名は“普通”のクルマづくりを表現するスタンダード自動車会社がベストという結論にたどり着き、この案をバーリー卿に話したところ、「おもしろい」という一言で新社名は決定した。


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←“スタンダード”のブランドマーク



このようにスタンダード自動車会社の設立経緯を振り返ってみると、普通であることを基本方針とすることの意味が、どこにあるのかが現代人には理解し難いが、この時代の自動車業界の実態を知ると、この考えは実に優れていたことがわかる。

既に、『第一巻』と『第二巻』を通して、イギリスのガソリンエンジン車産業が、ドイツとフランスに大きく遅れてスタートを切ったことが記されているが、続々と誕生するイギリスの自動車メーカー各社は、先行メーカー追撃を急ぐあまり、自動車技術として確立していない新技術を採用することが多かった。
これらの中には危険な装置や、耐久性のない部品などがたくさん存在していて、人々の自動車に対する信頼を裏切ることが多かった。

この点に、深い思慮を示した人物がロールス・ロイス社を立ち上げたフレデリック・ロイスであり、ロイスはユーザーの信頼性向上を最重点に置く方針を徹底した。
しかし、ロールス・ロイスは高額で、このクルマに手が届く人はほんの一握りであるが、これを普通のお金持ちが買えるクルマで実現しようと考えたレジナルド・モーズリーのことは、イギリス自動車史の1ページとして、現代まで伝承されているのである。

(金曜日の〔85話:後編〕に続く)


84話.ドイツ車とイタリア車の多様化〖後編〗

《 主な登場人物 》
■ハインリッヒ・エールハルト:1840年生まれ。エールハルト社を創業するドイツ人。
■ハインリッヒ・クレイエル:1853年生まれ。アドラー社を創業するドイツ人事業家。
■エドムント・ルンプラー:1872年生まれ。ネッセルスドルフ社で働くチェコ人技術者。
■チェザーレ・イソッタ:1862年頃の生まれ。フラスキーニのパートナーのイタリア人。
■ヴィンチェンツォ・フラスキーニ:1870年頃の生まれ。イソッタと組んだイタリア人技術者。


 弁護士イソッタと技術者フラスキーニによってイソッタ・フラスキーニ社が誕生した 


20世紀の初頭、レース専用車と高級車に特化して、イタリア本国ばかりでなくアメリカ合衆国でも人気を集めたイソッタ・フラスキーノというクルマがあった。
イソッタ・フラスキーニ社は、会社設立資金を提供する弁護士のチェザーレ・イソッタと、技術屋として実質的に会社をリードするヴィンチェンツォ・フラスキーニという2人によって、1898年に輸入車を扱うディーラービジネスを始めたことが原点である。


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←“イソッタ・フラスキーニ”のブランドマーク





20世紀に入ると、エンジンなど主要部品を外国から輸入して、これらを組み合わせて自分たちのクルマをつくり始めたが、しばらくの間は試行錯誤の日々が続き、1902年に、ようやくイソッタ・フラスキーニ社としてのオリジナル車をつくり出すことができた。
できあがったばかりのクルマは周りの評判がたいへん良いので売り出すことを決断して、ミラノの町工場で作業が進んだ。

この頃、ジュステーノ・カッタネオという優れた技術者がこの会社に入ってきた。
カッタネオは、さっそく120HPという最高出力を出す排気量17リッターの巨大な4気筒エンジンを製作して、これを搭載する大型のレース専用車“ティポD”をつくりあげた。ちなみにティポはイタリア語で型(英語ではタイプ)を意味している。

これをベースにして美しいデザインで包み込んだ市販車をつくって、販売を始めたところ、世間の評価は高かった。
そこで、2人はイタリア国内で既に自動車メーカーとして確固たる存在を誇っているフィアット社と差別化をはかるためにはどうしたらいいのかの議論を重ねて、イソッタ・フラスキーニとしてのアイデンティティを“豪華なスピード車”に設定し、このクルマを積極的に売り出すことにした。

ところが、現実は厳しく評判の割に販売台数は上向くことなく、会社の資金は底を尽き、1907年にフランスのド・ディートリヒ社から資本を受け入れることになったが、経営の自主性が確保されたのは幸せだった。



 第3回タルガフローリオで、初出場のイソッタ・フラスキーニが優勝し喝采を浴びた 


新しい血を入れて再び元気になったイソッタ・フラスキーニ車は、アメリカ合衆国各地のレースで活躍するようになり、知名度と人気は高まって、イソッタ・フラスキーニ社にとってアメリカは最大の市場になってきた。
1908年10月にロングアイランドで行なわれた、ヴァンダービルト杯レースでは、倍以上の排気量をもつアメリカ車のロコモビルを相手によく健闘し、2位に食い込んだことはアメリカ人のレースファンに強い印象を与えた。
こうして、イソッタ・フラスキーニ車はアメリカで有名になってきたが、この会社を経営するヴィンチェンツォ・フラスキーニは決して母国をないがしろにしたわけではない。


Fraschini,Vincenzo第二巻084話
〈やり手のヴィンチェンツォ・フラスキーニ〉





イタリアで有名になるには、知名度が上がってきたシチリア島でのタルガフローリオでの優勝がいちばんの近道だと考えてエントリーした。
1908年度第3回となるタルガフローリオは、前年に発生した地震の影響を受けて、道路があちこちで走れなくなってしまい、コースが短縮されるなど寂しいレースとなり、出場車は13台しかいなかった。
初出場のイソッタ・フラスキーニは、厳しい競り合いを制して優勝カップを手にしたのである。
この排気量1.2リッターの優勝車は、エットーレ・ブガッティというイタリア人の若手技術者が既に発表していた“ル・ピュール・サン”というクルマとたいへんよく似ていたので、レースファンの話題を集めることになった。
なぜこんなことになったのか、その謎を解くために、時計の針を少し逆回りさせてみよう。


既に述べたようにイソッタ・フラスキーニ社は経営が行き詰まって、ド・ディートリヒ社と資本関係を持つことになったが、この仲介の労をとったのは、イソッタとフラスキーニ共に親密な交友関係があるエットーレ・ブガッティだと伝わっている。
同じイタリア人技術者同士としてフラスキーニとブガッティは特に親密な関係を保っていたので、ブガッティがドイツで開発中の小型スポーティ車の設計図をフラスキーニに見せることによって、似たクルマができあがったという説がある一方で、オリジナル設計はフラスキーニの方で、ブガッティがフラスキーニのつくった試作車を見て、自分なりの新車開発をしたという説もあり、真実はよくわからない。

ここでいえることは、イソッタ・フラスキーニのレース専用に設計された小型車は、イタリア本土で開催されたフローリオ杯レースで勝利し、さらにその翌年にはタルガフローリオで優勝するなど、数多くの栄光を残している事実である。

イソッタ・フラスキーニ社は、このレース専用車をベースにして、排気量1.3リッターの小型市販車を市販して成功を収めることになったが、“豪華なスピード車”を標榜する以上は大型車がどうしても必要であるとの認識は、ジュステーノ・カッタネオの心の中でだんだんふくらんでいった。

(〔84話〕はここまでで、〔85話〕は来週の火曜日に掲載。)