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92話.アメリカの自動車レース人気アップ〔後編〕

《 主な登場人物 》
■リー・チャドウイック:1875年生まれ。エンジニアリング社のアメリカ人創業者。
■ジョージ・ロバートソン:1880年頃の生まれ。伸び盛りのアメリカ人レースドライバー。


AAAに対抗するACAという新組織が、アメリカ大賞杯というレース開催を決定した


1908年10月24日に、第4回ヴァンダービルト杯を開催することをウィリアム・ヴァンダービルトは発表した。
今度の開催場所は今までと違って、ロングアイランドに特別につくられたコンクリート製の私道を中心としたコースであると発表されたが、実際には23キロの公道を含んでおり、押し寄せる群衆に対する防御策はこの年も完全というわけにはいかなかった。

安全対策に十分な配慮をしないAAAに対する批判勢力は、新しい自動車レース開催組織としてアメリカ自動車クラブ(以下、ACAと略)を創設した。
この新組織が“アメリカ大賞杯”と名付けた自動車レースを1908年11月にフロリダ州サバナで開催すると発表したところ、ヨーロッパの自動車メーカー各社は、ACA主催のアメリカ大賞杯に出場することになった。


コンクリート舗装の新コースをつくって準備を整えていたヴァンダービルトはACAの動きとそれに同調するヨーロッパ勢を苦々しく思っていたが、アメリカ車に関してはニューヨークという地の利があるので勧誘に努めたところ、レースに参戦するアメリカ代表車が集まってきた。

トーマス-フライヤーは1906年型の改良型2台を出場させた。
この頃から始まったストックカーレース専用車を開発した“ノックス”という新ブランド車も参戦してきた。
ルイス・シボレーはこれまた新ブランドの“マセソン”を運転することになった。
歴戦の勇士ジョージ・ロバートソンはロコモビルで参戦することになった。
またアメリカ自動車レース史上初となるスーパーチャージャー装備車の“チャドウイック”が参戦することになった。


Chevolet,Luis①第二巻092話
〈移民3兄弟の次男ルイス・シボレー〉





チャドウイックに関しては、ボールベアリング会社のエンジニアであるリー・チャドウイックという男が、自社製品の優秀性をアピールするために試作車をつくったのが、自動車事業との係わり合いの最初であった。
その腕を買われて、新興自動車メーカーに移ることになったチャドウイックは、4気筒車を設計することになったが、この会社は倒産してしまった。
チャドウイックは残った部品を安く買い取り、フェアモント・エンジニアリング社という自動車メーカーを設立し、1906年に40台のチャドウイック車を生産した。
その後、スピードが160キロ以上出る排気量11.2リッターのモンスター・エンジン車をつくるようになり、各地のレースに出場し実績を重ねての参戦であった。

第4回ヴァンダービルト杯に参戦するヨーロッパ勢は、イソッタ・フラスキーニがイタリア代表となった。
フランス代表車は排気量12.1リッターのルノーと排気量16.3リッターのオッチキスである。
ドイツ代表車は排気量14.4リッターのメルセデスだけだった。


この年の観客は前年よりさらに増えて、警備を担当する警察官の手には負えなくなり、人々は群集となって有料道路の鉄柵を破ってスタート地点になだれ込んできた。
1人当たり50ドルという高額の桟敷券を買って観覧席に座っていた観客の前に、無料入場を果した群集が立ちはだかり、せっかくの観覧席から走行する自動車が見えなくなるという異常事態が発生した。
これでは、何のために準備を進めてきたかがわからなくなってしまうと、怒り心頭に発したヴァンダービルトは、居直りを続ける群衆を追い出すよう指示を出した。
緊急手配した散水車が到着して、群集に強力な放水を浴びせて引き下がらせたのである。



アメリカ人運転のアメリカ車ロコモビルが、ヴァンダービルト杯史上初の優勝となった


新しく設定されたコースを11周する420キロのレースで、ゼッケン1番のジョージ・ロバートソン運転のロコモビルがスタートを切ったのは、午前6時30分だった。 
2周を終えた100キロ地点では、ロコモビルはチャドウイックを1分リードしてトップを走っていたが、4周目に入るとパンクをした。
この時代のレースでパンクが発生したら、積んであるスペアタイヤにその場所で履き替えて再スタートできるルールになっていたが、作業時間をロスしたロコモビルは4位に下がってしまい、チャドウックがトップに踊り出た。
ロコモビルは先行する3車の追撃に入り、最初にメルセデスを捉え、次いでイソッタ・フラスキーニも抜き、チャドウイックに15秒差に迫ってきた。

200キロ地点で、トップを走るチャドウイックはイグニッションに故障が発生してレースから脱落することになり、ロコモビルが再びトップに立った。
ロバートソンは荒っぽい運転できしみ音を発しながらコーナーを通過し、橋の中央では空中に飛び上がるなど派手な運転ぶりであった。
これに対して2位のイソッタ・フラスキーニは安定した走りを続けてロコモビルにひたひたと迫っていた。

アメリカ車として初優勝がかかったロコモビルは最後の爆走に入った。
最終回となる11周目に、スピードを出し過ぎたロバートソンは横滑りを起こしタイヤをパンクさせてしまい、これで大観衆の期待は幻となったかと思われたが、クルマを止めたロバートソンは助手と一緒に、大急ぎで残る1本のタイヤを装着した。
貴重な2分間を失ったものの、まだチャンスを残しているロコモビルはコースに戻り、ゴールまでの残り30キロ走行で優勝を目指してアクセルを全開した。

このまま行けば、アメリカ車が初優勝するということで、観客は興奮しまくっていた。
前に前に身を乗り出してクルマが走るのを見ていたが、とうとうコースに入ってきた。
トップを走り優勝目前となったロコモビルに観客という危険が迫って来たが、優勝目前のロバートソンには、観客は見えなかった。
人垣で1台分しか通れない幅に狭まってしまったその間を、時速160キロという超スピードで、チェッカー・フラグをめざして駆け抜けたのである。
この猛ダッシュでなぎ倒された観衆はひとりもいなかったのは奇跡だった。


092話ロコモデル
←第4回優勝車のロコモビル





ロバートソン運転のアメリカ車ロコモビルは第4回ヴァンダービルト杯において平均時速103キロで走行して、イソッタ・フラスキーニに1分48秒の差をつけて優勝したのだった。

主催者のヴァンダービルトを始めとした全てのアメリカ自動車業界人が夢にまで見たアメリカ車の優勝がついに実現し、ロバートソンは純銀製の優勝カップを高々と掲げて、応援をしてくれたアメリカ人観客の歓呼に答えたのである。

(〔92話〕はここまでで、〔93話〕は来週の火曜日に掲載。)


92話.アメリカの自動車レース人気アップ〔前編〕

《 主な登場人物 》
■リー・チャドウイック:1875年生まれ。エンジニアリング社のアメリカ人創業者。
■ジョージ・ロバートソン:1880年頃の生まれ。伸び盛りのアメリカ人レースドライバー。


第3回ヴァンダービルト杯はヨーロッパ車が強くアメリカ車は3位までに入れなかった


1904年に第1回が開催され、アメリカの自動車産業を活性化するという目的を果たすことになったヴァンダービルト杯は、翌年2回目が開催されると人気が沸騰して、アメリカ自動車レース界としては最大の呼び物となってきた。

3回目となる1906年度のヴァンダービルト杯にも参戦希望が殺到して、アメリカ代表入りを競い合うための12台のクルマが予選会に出場した結果、アメリカ車代表は、トップで予選を通過したロコモビル、2位のトーマス-フライヤー、3位のヘインズの他に、フレイヤー-ミラーとクリスティの5台が出走することになった。


いよいよ1906年の第3回のヴァンダービルト杯レースの本戦が開催されることになった。
このレースには、フランス、ドイツ、イタリアというヨーロッパ勢に対して、予選を勝ち抜いてきたアメリカ勢が、前年の雪辱をかけて戦うということで前人気は異常に高まっていた。

ヨーロッパ勢の中心となるフランス車代表は、前々年優勝で前年2位のジョージ・ヒースが運転するパナール&ルヴァソール、前々年2位のアルベール・クレマン運転のクレマン・バイヤール、前年優勝のビクトル・エメリーに代わってルイ・ワグネルが運転するダラック、アーサー・デュレイ運転のド・ディートリヒ、さらには新顔オッチキスも参戦することになった。
ドイツ代表のメルセデスにはカミーユ・ジェナッツィが、イタリア代表のフィアットには、前年同様ヴィンチェンツォ・ランチアとフェリーチェ・ナツァーロが乗ることになった。

レース前夜に開催された前夜祭は、前年よりさらに陽気な雰囲気の中で繰り広げられた。
前夜祭と当日のレースを見に集まった観衆は30万人に膨れ上がっていた。
観客は自動車の走る姿を見に来たというより、自動車レースの興奮と、予想される事故を楽しみにしているといってもいいほどであり、流血のスリルが見られそうな急カーブ地点に陣取った。

10月6日午前6時15分、レース開始の旗が振られた。
うなり声をあげて最初に発進したのは、トーマス・フライヤーだった。
次に喚声を浴びたのはフィアットを運転するヴィンチェンツォ・ランチアとロコモビルのジョー・トレーシーで、最後に轟音をとどろかせてド・ディートリヒを運転するアーサー・デュレイが観客に手を振りながら飛び出して行った。


Lancia,Vincenzo第①二巻092話
〈レーサー時代のヴィンチェンツオ・ランチア〉





スタートして20分もたたないうちに、ロコモビルがピットインし、主催者席で止まった。
観客が不思議な思いをもって見守る中、クルマを降りたトレーシーはヴァンダービルトに駆け寄り、「無分別な観客がコースに侵入していて、群衆整理ができていないこの状態では、流血事故が起こりかねない」と緊急報告したのである。

ヴァンダービルトは直ちにこれに応えた。
愛車〈メルセデス/ジンプレックス90HP〉の運転席に乗り込み、医者を同乗させて急いでコースをひと回りした。
レース場の様子や観客の入り具合をつぶさに観察し、危険と思われた場所での安全確保に向かって応急措置をするように部下に指示をした。


レースは中盤に差し掛かり5周目に入る頃には、ダラックが1位、フィアットが2位、ド・ディートリヒが3位で、メルセデスは4位につけていた。
ここまでは事故もなく順調であったが、そのうちに接触事故や、運転を誤り群衆の中に突っ込むクルマが出てきたが、幸いにして死者は出なかった。
ところが、オッチキスがスピードをコントロールできなくてコース外に飛び出して観客1名を死亡させるという事故が発生した。
この他にも負傷者がいっぱい出て、主催者のヴァンダービルトが期待する無事故というわけにはいかなかった。

後半に差し掛かると地元観客の応援もむなしく、アメリカ車は次々と脱落してヨーロッパ車同士の闘いになり、トップを独走するダラックと、これを追いかけるフィアットとド・ディートリヒの2位争いに観客の関心が集まった。
スタートして以降、一度もトップを譲ることなく走りきったルイス・ワグネル運転のダラックは、平均速度98.8キロというスピードで、ぶっちぎりの差をつけてゴールインした。

2位争いは熾烈で、最後まで抜きつ抜かれつの接戦が続いたが、最終的にヴィンチェンツォ・ランチアが運転するフィアットが2位に入り、アーサー・デュレイが運転するド・ディートリヒが3位となった。

この年も、3位車がゴールインしたら興奮している観客がコース上になだれ込み、危険を感じたヴァンダービルトが緊急停止の旗を振り、最後までレースを続けることができなかった。


Wagner,Louis①第二巻092話
〈ダラック車を運転して優勝したルイス・ワグネル〉








 第3回レースでの事故多発を反省したW.ヴァンダービルトは、翌年は中止した


ダートトラックでの自動車レースはアメリカ人の人気を集め、入場料収入で大儲けをたくらむ常設レース場はアメリカ国内に10力所以上つくられ、あちこちのレース場で頻繁に自動車レースが開催されるようになったが、人身事故は日常的で、運転手ばかりでなく観客の死者も多かった。

この事実を憂える教会関係者や、住民の安全を確保する法律を定める役割の州議会、あるいは社会正義を主張する新聞社などから、自動車レースに強い反対の声が上がり始め、レース主催者としてロイヤルティを徴収して開催許可を下しているAAAに対する風当たりが強くなってきた。

1904年から始まったヴァンダービルト杯についても、1906年の第3回レースで数多くの人身事故が起きたため、翌年のレース中止を主張する声が高くなってきた。
ニューヨークではレース批判の論調が強くなってきた時期であるにもかかわらず、リゾート地のフロリダ州、さらに太平洋岸のカリフォルニア州から、第4回ヴァンダービルト杯レースを開催したいとの申し込みがAAAに舞い込んできた。

この時点になって、ウィリアム・ヴァンダービルトは1907年度のレース開催をどうすべきかに頭を悩ますことになった。
ニューヨークを離れることは考えていないヴァンダービルトは、今までどおりのやり方では批判勢力をかわすことはできないことを知っていた。
そんな悩みの日々の中で、自動車レース専用のコンクリート製の舗装道路をロングアイランドにつくることを思いついた。
ヴァンダービルトの友人は金持ちで土地持ちばかりだったので、道路建設予定地に土地を持つ友人たちに協力を依頼した。

「新しいコンクリート道路は外部とは柵で囲って私有地であることを明示し、1カ所だけ設けられた出入口から道路に入れるようにする。
ここを走りたい自動車の持ち主は料金を払って中に入り、思う存分運転を楽しんでもらおう」というのがヴァンダービルトの考えだった。

こうすれば自動車レースは私有地内での開催となり、批判勢力の意見をかわすことができると判断してコンクリート舗装工事が始まったが、でき上がるまで時間がかかるので、1907年度のヴァンダービルト杯レースは中止することにした。

(金曜日の〔92話:後編〕に続く)


91話.ヴァンダービルト杯の始まり〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ウィリアム・ヴァンダービルト:1878年生まれ。自動車が大好きなアメリカ人の大金持。
■エドウィン・トーマス:1850年生まれ。トーマス社を創業するアメリカ人事業家。
■ジョン・ウォルター・クリスティ:1886年生まれ。前輪駆動車を開発するアメリカ人。


ヴァンダービルト杯の人気の高まりによって、アメリカ車だけの予選会が実施された


いろいろ問題が多かった1回目のヴァンダービルト杯であったが、当初予想されたのとまったく逆で、アメリカ人庶民の人気を得ることになって、新聞各紙の論調は実施前とは大きく変化してきた。

主催者のヴァンダービルトは、第1回としては成功の部類に入ると判断して、翌年に2回目を開催することを決断して実施プランを発表したところ、いろんな反応が押し寄せてきた。

中でも、地元住民のレースに対する見方が変わったことが大きかった。
それまでは反対意見が強かったが、予想以上の経済効果が生まれ、「自動車レースをロングアイランド名物にしよう」という意見まで生まれ始めた。

もうひとつの変化は自動車メーカー各社の参戦意欲である。
1回目はさほどでなかったが、新聞各紙で取り上げる広告効果の大きさから、「レースで優勝して有名になろう」という考えが生まれ、特に新興自動車メーカーは優勝を真剣に狙うようになっていた。


1905年度の第2回ヴァンダービルト杯では、アメリカ車の出走申込みが多すぎるために予選会が行なわれた。
この予選会では、ポープ・トレド、ヘインズ、ローヤル、ロコモビルという4台に加えて、トーマス・フライヤーが勝ち残り、これら5台が本戦に出場することになった。


トーマス・フライヤーは『クルマの歴史物語』では初めて登場するブランドとなるため、ここで説明をしておこう。
エドウィン・トーマスというエンジニアがニューヨーク州都のバッファローで設立したE.R.トーマス社は、自転車とオートバイをつくる製造業者としてスタートを切った。

この会社が自動車ビジネスを始めたのは1902年のことで、1号車は単気筒エンジンを積む小型車であった。
次いで2気筒車が加わり、1903年には、近代的スタイルをもつ3気筒車を登場させた。

これら3つのクルマは、すべて自分の名前を付けた“トーマス”の車名で売られていたが、これを“トーマス・フライヤー”に変え、この名を冠した1号モデルを1904年早々から売り出すことにした。
この名前の変更は、1903年12月17日に、ライト兄弟が“フライヤー号”で世界初飛行に成功したとのニュースの影響を受けて、トーマスにフライヤーを加えたものと思われる。

トーマス社のニューヨーク地区販売代理店主のウィリー・ハウプトはドライバーとして当代一と名を馳せていたモンティ・ロバートを起用してヴァンダービルト杯に送り込んだのであった。


274トーマス
←“トーマス・フライヤー”のブランドマーク




この時予選を通過したロコモビルは、本書で既に登場しているアメリカン・ロコモティブとは違う会社のクルマである。
アメリカン・ロコモティブ社は蒸気機関車(英語ではロコモティブ)メーカーが出発点であるが、こちらは、蒸気自動車のパイオニアであるスタンレー兄弟の会社を引き継いだ会社であり、蒸気自動車からの転換を考えて、新型のガソリンエンジン車を1904年から市販開始をしていた。
そこで、ヴァンダービルト杯レースで優勝できれば、有名になりクルマが売れるようになるに違いないと考えて予選会に出場したのである。

予選会を通過したアメリカ車5台は2日後の本番レースに向かって準備を進めていたところ、5台のうち前年出場したポープ・トレドと優勝候補の呼び声が高いロコモビルの2台を除く、ローヤル、ヘインズ、トーマス・フライヤーの出場がヴァンダービルトによって取り消され、前輸駆動車のクリスティとホワイト蒸気車が出場すると発表があった。
この変更はヴァンダービルトの独断によるものだけに、レースが始まる前から大荒れとなった。


ヴァンダービルトの推薦で登場してきたクリスティについて、少し説明を加えておこう。
独創的なレース専用車づくりでアメリカ自動車業界に登場することになったジョン・クリスティという発明家は、1903年に前輪駆動(フロントエンジン・フロントドライブ、FFと略。)方式を採用し、30度の傾斜角度を持つV型8気筒構造で排気量9.3リッターというクルマを開発した。
続いて翌年にV4及びV8構造の10リッターを超える大排気量エンジンを横置きにした前輪駆動のレース専用車を開発して世間から注目を集めていたので、ヴァンダービルトが特別に出場を推薦したのだった。



第2回ヴァンダービルト杯で、アメリカ人運転のアメリカ車ロコモビルが3位入賞した


1905年度の第2回ヴァンダービルト杯には、世界最強車を擁するフランス、イタリア、ドイツから強豪チームが再び姿を現わした。

イタリア代表のフィアットチームのドライバーとして花形のヴィンチェンツォ・ランチアとフェリーチェ・ナツァーロに、アメリカ人のルイス・シボレーが加わった。
フランス代表のダラックに乗るのはビクトル・エメリーとルイ・ワグネルである。
また排気量17リッターのド・ディートリヒにはアーサー・デュレイが乗ることになっていた。
前年にパナール&ルヴァソールで優勝したジョージ・ヒースも参戦し、ドイツ代表のメルセデスチームには赤い悪魔ことカミーユ・ジェナッツィがいた。


アメリカ中から集まった25万人の観衆を集めたレースの幕が切って落とされた。
向こう見ずで評判のジェナッツィが最初にスタートし、18台のクルマが次々とスタートしていった。

レース途中はいろいろあったが、最初にゴールインしたのはビクトル・エメリー運転のダラックで、優勝車の平均時速は99キロと、1回目の84キロから大きくスピードアップした。

ジョージ・ヒース運転のパナール&ルヴァソールは2位となり、連続優勝を逃すことになった。
3位にはジョー・トレーシーが運転するアメリカ車のロコモビルが入賞し、国際自動車レースでアメリカ車が獲得した最高の成績となった。
その後にヴィンチェンツォ・ランチア運転のフィアットが4位でゴールインしたが、この直後にレースで興奮しまくった観客がコースになだれこんだため、主催者はレースの即時中止を決定したのである。

(〔91話〕はここまでで、〔92話〕は来週の火曜日に掲載。)


91話.ヴァンダービルト杯の始まり〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ウィリアム・ヴァンダービルト:1878年生まれ。自動車が大好きなアメリカ人の大金持。
■エドウィン・トーマス:1850年生まれ。トーマス社を創業するアメリカ人事業家。
■ジョン・ウォルター・クリスティ:1886年生まれ。前輪駆動車を開発するアメリカ人。


アメリカで初となる本格的自動車レースとして、ヴァンダービルト杯レースが始まった


世界の自動車史を語るのに、 “アメリカ自動車レースの開祖”と呼ばれるヴァンダービルトという人物は欠かせない。
ヴァンダービルト財閥の後継者であるウィリアム・ヴァンダービルトは、アメリカ合衆国で国産ガソリンエンジン車が走っていなかった当時、数人の自動車マニアの仲間と共に、アメリカ自動車連盟(以下、AAAと略)をという名前の、合衆国として最初となる自動車レースの団体を設立し、いくつものレースを主催した。


Venderbilt,William第二巻下091話
〈自動車レースの生みの親ウィリアム・ヴァンダービルト〉





ヴァンダービルトは、1902年にヨーロッパに渡り、ダイムラー社の〈メルセデス/ジンプレックス90HP〉に魅了されて、このクルマで数多くのレースに出場した。
そして、パリ近郊の公園で時速105.8キロのスピード記録を樹立した。この年には、3回にわたって記録を更新する一方、フランス車のモールでパリ~ウィーン間レースに参戦している。

その後、アメリカに帰国したヴァンダービルトはフロリダ州のデイトナビーチにおいて、愛車〈メルセデス/ジンプレックス90HP〉を駆ってスピード記録に何度となく挑戦して、とうとう時速100マイル(約160キロ)の壁を突破したが、これ以降は、レースに参加することが少なくなり、自らの名前を冠したヴァンダービルト杯レースの開催準備に全力を集中することになった。

自動車が登場した頃のアメリカでは、自動車レースといえば競馬場のダートコースでスピードを競うトラックレースが戦いの場になっていた。
1週間前に塗り替えられた記録をわずかでも更新するレコードが出ると、新聞で華々しく報道されるというように、人々は自動車が出すスピードに酔っていた時代である。

自動車は本来道路を走るものだ。
ヨーロッパでの自動車レースの人気ぶりを知っている人から見ると、競馬場のダートコースで自動車が競争をすることは信じられないできごとである。

道路上でスピードを競うのが本来の姿であることはアメリカ人の有識者もわかっていたが、都市間を結ぶレースができるほどの舗装された道路が国内のどこを探してもなかったから、こういうやり方しかなかったのだ。

こんな状況の中で、ヨーロッパに大きく遅れているアメリカ合衆国の自動車メーカーを刺激することによって、国際競争力を向上させて先行するヨーロッパ車メーカーに対抗することを目的とした自動車レース開催を、ヴァンダービルトは華々しく発表したのである。


1904年10月8日、直径79センチの純銀製のカップをめぐって争われる第1回となるヴァンダービルト杯の開催日がやってきた。
ニューヨークのロングアイランドの公道を使って、三角形のコースを10周する全長48キロを走るために集ってきたエントリー車は、全ての部品が各々の国製であることを義務付けられていたが、運転者の国籍は問われなかった。

前日まで反対していた地元住民に関しては、コース付近では見物席料としての現金が入るなど、5万人もの観衆が落とすお金が巨額であることがわかって反対は立ち消えになった。

第1回目のレースに配備された警官は全コースにたった100名だけしかいないというように、観客の安全を守るための準備がまったくできていなかった。

今か今かとスタートを待ち構える観客の前にレース参戦車が姿を現してきた。
最初はフランス車代表で、クレマン・バイヤール、ド・ディートリヒ、ルノーに続いて3台のパナール&ルヴァソールが登場した。
続いてドイツ車代表として5台のメルセデスが、さらにイタリア車代表として2台のフィアットが登場した。

最後に13台のヨーロッパ勢を迎え撃つ形となる地元アメリカ車代表として、ポープ・トレドなどが登場して、アメリカ人観客の興奮を駆り立てたが、事前の予想では、レース経験豊かなヨーロッパ勢が圧倒的に優勢だといわれていた。
中でも一番人気は排気量12.8リッターエンジンを積むド・ディートリヒであり、二番手は排気量15.4リッターのパナール&ルヴァソールで、メルセデスも優勝候補にあげられていた。



第1回ヴァンダービルト杯で、はるばる来たヨーロッパ勢がアメリカ車を圧倒した


午前6時、18台の車が2分問隔でスタートを切ったが、コースには、ほこりを押えるために油が撒かれていて、スピードを出すと滑りやすく危険極まりなかった。

最初にトップに立ったのはメルセデスで、残りが一団となって続いた。
そのうちに、コースの途中にある鉄道の踏み切りでクラッシュしたり、無理してスピードを出すために強度不足で車体が折れ曲がったり、走行中に前輪が外れてしまったりして脱落車が相次いだ。

当初リードしていたメルセデスはじりじりと後退し、代わってジョージ・ヒースが運転するパナール&ルヴァソール、アルベール・クレマンが運転するクレマン・バイヤールがトップ争いを演じることになり、激しいレースが続いた。

後半に入ると、先頭を走るヒースがトラブルに巻き込まれている間に、アルベール・クレマンがトップに踊り出て、このままゴールインするかと思われた。
そこに巨大エンジンを積むパナール&ルヴァソールを操るジョージ・ヒースが最後の2周で勝負をかけ猛然と追い込んで、アルベール・クレマンを追い抜きそのままゴールインしたが、優勝車の平均時速は84キロであった。
2位にはアルベール・クレマンが運転するクレマン・バイヤールが入ったが、第1回のヴァンダービルト杯レースはこの2台だけが10周完走車となった。

アメリカ車は完全に力負けしたが、ポープ・トレドは2周遅れの8周を走り、やっとのことで3位に入ることができたのだった。
アメリカ車がゴールに到着すると観衆たちはレースに興味を失ってコース上を歩き始めたものだから、レースは即刻中止され、1回目のヴァンダービルト杯は混乱のうちに終了することになった。


Clément,Albert第二巻091話
〈アドルフ・クレマンの息子アルベール・クレマン〉





(金曜日の〔91話:後編〕に続く)


90話.1908年までに誕生したアメリカ車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ハワード・マーモン:1876年生まれ。ピストンのV型配列を考えるアメリカ人技術者。
■ハーバート・フランクリン:1867年生まれ。空冷エンジンにこだわるアメリカ人技術者。
■チャールズ・デュリエ:1861年生まれ。アメリカ初のガソリンエンジン車の開発者。
■フランク・デュリエ:1870年生まれ。兄と別れた後、優れた自動車を開発する弟。


車輌メーカーのスチュードベーカー社は、EMFという会社と手を組んで大失敗した


Studebaker,Clement第二巻090話
〈創業者のクレメント・スチュードベイカー〉





この時代の自動車を語るのに、スチュードベーカー兄弟の名前を忘れるわけにはいかない。

当時のアメリカでは、家族の連帯が強く、特にメカ好きの兄と弟が力を合わせて会社を創業するというのが一種の流行になっていて、アメリカ中でたくさんの自動車メーカーが林立した時代であった。

現在、アメリカの自動車史には数百のブランドに関する記録が残っているといわれているが、その中でも『クルマの歴史物語 第二巻』で取り上げた16のブランドのうち、兄弟が力を合わせて成功したのはデュリエ、スタンレー、パッカード、スチュードベーカーの4つであり、歴史に残るまで事業を拡大した兄弟の連帯力というのは、大いに評価されてしかるべきであろう。

スチュードベーカー社は、1852年にインディアナ州で創業し、最初の頃は荷車をつくっていた。
南北戦争によって車両需要は高まり、会社はおおいに繁栄し、ゴールドラッシュが起きた時に金鉱で使う1輪運搬車ビジネスでも大成功した。

20世紀に入ってしばらく経った頃から、アメリカ大陸では自動車がブームとなってきた。このまま荷車を続けることに危機感をもったスチュードベーカー兄弟は、自動車メーカーに変身することを考えたが、1902年に完成した最初のクルマは電気自動車であった。

豊富な資金力にものをいわせ、翌年になるとガソリンエンジン車を製品ラインに加えたが、これは自社開発ではなく、クリーヴランドにあるガーフォード社が製作したものを〈スチュードベーカー/ガーフォード〉の名前を付けて販売するだけであった。



studebaker2下090話
← “スチュードベーカー”のブランドマーク



1908年になると、スチュードベーカーは8千台を超える台数を販売するようになってきたが、フォードやビュイックに対抗するためには、もっと安いクルマを必要とした。

そこで、いろいろ探してみたところ、〈EMF/30〉というクルマを見つけ出した。これは、エバリット、メッツガー、フランダースという3人が創業した会社が、1908年に市場に出したばかりのクルマであった。

兄弟は〈スチュードベーカー/EMF〉という名前を付けて、このクルマを売り出したところ、販売台数は1万5千台を超えることになったが、この頃から消費者クレームの大波が押し寄せてきた。
要するにできが悪かったのだ。

その上、「Every Morning Fix it」(毎朝直す車)、「Every Mechanical Failure」(どんな故障もあり)などと、車名の“EMF”が悪い冗談を誘発することになり、売上はばったり止まってしまい、スチュードベーカー兄弟は、自分たちの自動車ビジネスの全面見直しを迫られることになった。



アメリカ初のガソリンエンジン車をつくったデュリエ兄弟は別々の道を歩んだ


これからは、アメリカで最初のガソリンエンジン車をつくった人物として既に登場しているデュリエ兄弟のその後の話である。
20世紀の幕が開けた頃、弟のフランクは兄と喧嘩別れし、マサチューセッツ州にあるスティーブンス・アームズ&ツール社の技師長に就いて、新車の設計に携わることになった。
ここでのニューモデルは“スティーブンス・デュリエ"とネーミングされ、華々しいデビューを飾り順調な売れゆきを示した。

一方、気分屋で集中力が続かない兄のチャールズ・デュリエの方は、3気筒エンジンを横置きに搭載する新型車を発表した。

このクルマには、運転のワンハンド・コントロールという新機構が付いていた。
これは、座席の間から出た1本のレバーで、自動車の“進む”“曲がる”という運転操作を行うという発想で開発されたものである。

進むに関しては、レバーを手前に引くとローになり、先端のグリップを回すと2速のトップにギヤチェンジし、レバーを下に押すとニュートラルとなることによって、ギヤ操作をすることができた。
曲がるに関しては、レバーを左に動かせば左に曲がり、右に動かせば右に曲がるというようにコントロールできるようになっていた。
この1本コントロールを実際に操作してみると、ギヤチェンジをする際に舵が切られたりして、危険な挙動をする事態が発生することが多く、完全な失敗作だった。

(〔90話〕はここまでで、〔91話〕は来週の火曜日に掲載。)