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9-32.レースの歴史:ヨーロッパ編16~第2回ACFグランプリ~

今日のブログでは読者の皆さんにお知らせすることがいっぱいあります。
その第一点は、ブログの更新回数です。
ブログ『クルマの歴史物語』は本日をもって更新200回目を迎えます。
このブログを始めたのが、昨年の6月のことでしたが、ほぼ1年の間に200回も更新し続けてきたということは実に大きな意味を持っていると自負しています。

第二点は、このブログをご覧いただく閲覧者数の累計総数が17,000名を昨日突破することができました。
振り返ってみますと、昨年6月12日にスタートを切ったブログ『クルマの歴史物語』ですが、途中で病気入院による休載があったものの開始半年後の12月11日に掲載回数108回にして、閲覧者総数が5,000名を突破しました。
その後、皆さんのご支援によりカウンターの数字の伸びは急ピッチとなり、10,000名を突破したのが本年2月25日のことでした。
10,000名を突破してから本日まで、わずか3ヶ月間に7,000名の増加を見たことになりますので、来月中には20,000名突破が期待されます。
毎日、ブログ『クルマの歴史物語』を読んでいただいている熱心な読者の皆さんには、何とお礼を申してよろしいか、本当にありがとうございます。

第三点となるお知らせは、本日をもって『クルマの歴史物語』の「第9章 自動車レースの始まり」は終了します。
この章では、【自動車の歴史:フランス編】が1回、【自動車の歴史:イタリア編】が2回、【レースの歴史:ヨーロッパ編】が11回、【ルノーの歴史】が10回、【メルセデスベンツの歴史】が2回、【ロールス・ロイスの歴史】が5回、【プジョーの歴史】というように、自動車レースが勃興し始めた時代のヨーロッパの自動車業界の様子を記述してきました。

第四点は、ブログ『クルマの歴史物語』は明日以降、新しい章のスタート準備のためお休みをいただき、6月3日(月曜日)に第201回目となる掲載を再スタートさせるというお知らせです。
ブログ『クルマの歴史物語』の“2部自動車産業の興隆”で、「第9章 自動車レースの始まり」に続くのは「第10章 ヨーロッパの新興勢力」となります。
この章では、【自動車の歴史:フランス編】【自動車の歴史イギリス編】【自動車の歴史:ドイツ編】【自動車の歴史イタリア編】、【レースの歴史:ヨーロッパ編】、さらには【ブガッティの歴史】が登場してきますので、ご期待いただきたいと思います。

本日のお知らせの第五点は、2013年1月に入ってから掲載を続けてきた「私の自叙伝」は、本日の慶應義塾大学卒業をもって、いったんお休みに入ります。
振り返ってみれば、本年1月8日に著者:蜷田晴彦の本名が蟹江雅彦であることを明かし、翌1月9日の第122回から「私の自叙伝」の連載が始まりました。
本日の200回まで79回連続の掲載となりましたが、この間に記されているのは誕生から大学卒業までの22年間に過ぎません。
私は現在68歳になりますので、学校を卒業して以来46年間を生きてきましたが、この全てを「私の自叙伝」として書き続けるには多大なエネルギーを必要とします。
そこで、この段階で一旦「私の自叙伝」はお休みをいただき、6月3日の第201回の掲載から「私のサードライフ」というタイトルのお話を始めたいと考えています。
どんな内容になるか、ここではお伝えしませんが、お楽しみにしていただければ幸いです。


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〈慶應義塾大学の卒業証書をいただいた筆者〉(昭和42年春)








9自動車レースの始まり


ドラージュ車がフランスの自動車レース界に大旋風を巻き起こした


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〈ドラージュのブランドマーク〉

鳴り物入りでスタートしたACF・GPは、初回レースの大成功によって国民的関心事になり、1907年に開催予定の第2回レースに向かって日に日にムードが高まってきた。

次回の優勝を狙うフランスの自動車メーカー各社は、ハイパワーのレース専用車づくりにしのぎを削ることになったが、とりわけ熱心なドラージュ社という新興自動車メーカーがあった。

ドラージュ社の創設者であるルイ・ドラージュは、1874年にブランデーで有名なコニャック地方で生まれたが、生まれつき片目しか視力がなかった。
15歳で学校を卒業すると、官営工場で働きながら機械工学を独力で学んだ。
次いで別の会社に製図工として入社し、ここで技術者として基本となる知識を身に付け、その数年後にプジョー自動車会社に移って自動車に関連した仕事をするようになった。


ルイ・ドラージュは、まもなくプジョー自動車会社の実験テスト部の責任者となったが、しばらくするとかねてからの夢であったオリジナル車をつくりたいという想いがふつふつと沸いてきた。
これを実行するとなると準備がたいへんであるが、幸いにして資金に関しては何人かの後援者から大金をせしめることができたので、1905年にここを飛び出して新会社を設立した。

この時、ルイ・ドラージュと一緒にプジョー自動車会社を離れたのが主任設計者として腕を振るっていたオーガスチン・ルグロという優秀な技術者であった。

ルグロを得て勇気百倍のルイ・ドラージュは、パリ近郊に2台の旋盤と工員数人の町工場をつくって、自動車づくりを始めた。

収入はプジョー社時代の3分の1となったが、自分の会社が持てたことで意気軒昂であり、ルグ口もルイ・ドラージュの片腕として会社の発展に寄与することを忘れなかった。

1906年デビューした最初のドラージュは、堅実で保守的なスタイルをもつヴォワチュレットクラス車で、4.5HPと9HPのド・ディオン・ブートン製単気筒エンジンを載せていた。

この年、ヴォワチュレットレースとして人気が出てきたロト杯にドラージュ車が初めて参戦したら、2位に入ることができて幸先のよいスタートを切った。


ドラージュがその名声を確立したのは、1907年開催の第2回ACF・GPの前座となるヴォワチュレットレースにおいてであった。
2気筒車2台と単気筒車1台が参戦したところ、単気筒車を運転するアルベール・ギヨが平均時速80.1キロという他車を圧するスピードで走って、ドラージュとして初めての優勝を勝ち取った。


さて、前年の大成功に続く第2回ACF・GPは、主催者のACFが、エンジンの大型化を抑制する目的で、重量規制の他にもうひとつ、「ディエップの768キロの新コースを231リッターの燃料で走ること」という燃料規制を設けて実施された。

レースの結果は、フィアットに乗るフェリーチェ・ナツァーロが、平均時速113.6キロというスピードによって優勝を果たしたが、このクルマには、11リッターも燃料が残っていて、燃料規制はほとんど意味を持たなかった。(※9-32話【第200回】は、ここまで)


9-31.レースの歴史:ヨーロッパ編15~第1回ACFグランプリ②~

昭和41年5月に一生の大事である就職先がカゴメ株式会社に決まりました。
この頃、私にとって大きな挑戦として“関東学生ボディビル選手権大会への出場”というテーマが残っていました。

私が大学三年生に進級した昭和40年6月に開催された第一回となる関東学生ボディビル選手権大会では、KBC(慶應ボディビルクラブ)は個人優勝(鬼頭選手)と団体優勝を飾りました。
設立間がない関東学生ボディビル連盟は第一回大会を成功裏に終えたことで自信を持ち、熱心に大会開催に取り組んだ結果、春と秋の年2回、大会が実施されることになりました。
昭和40年秋に開催された第二回となる関東学生ボディビル選手権大会で、KBCは個人(石山選手は初優勝)と団体の各々で2連勝を重ね、その強さには他校を寄せ付けないものがありました。

私は、KBCに入部した時点では虚弱な体格であったため、トレーニングをいくら積んでも代表選手として出場できる体になれず、バックアップする役目を続けていましたが、いつか選手権大会に出場したいという願望を密かに抱いていました。
そうこうしているうちに、昭和41年春に開催される第三回大会から、競技種目が従来からの「ボディビル・コンテスト」に、新たに「オッドリフト・コンテスト」が加わることになりました。
肉体美を競うボディビル・コンテストに対して、オッドリフト・コンテストは力を競う競技です。

皆さんはオリンピックの種目である重量挙げをご存じのことと思います。
重量挙げは、鉄でできているバーベルを両手で頭上に持ち上げ、その重さを競うスポーツで、ウエイトリフティング(Weightlifting)と呼ばれています。
競技種目には「スナッチ」と「クリーン&ジャーク」の二つがあり、それぞれ3回ずつの試技を行い、各種目の最高挙上重量の合計(トータル重量)で順位を決めます。

関東ボディビル選手権大会で採用されたオッドリフト(Oddlift)コンテストは、重量挙げの「スナッチ」と「クリーン&ジャーク」に代わって、「ベンチプレス」と「スクワット」の2種競技で力を競います。
このうちベンチブレスは地面に平行の置かれたベンチに背をつけて、胸の上のバーベルを持ち上げる競技です。
一方のスクワットは、背の上に載せたバーベルを、いったん足を屈曲させ、元の位置に戻す競技で、この2つの動作で上げた重量の合計値を競うのです。

第三回となる関東学生ボディビル大会では、重量級、中量級、軽量級の体重別競技となっていますので、私は本来の体重から3kg減らして軽量級(63kg未満)に挑戦することになりました。
力を落とさないで、3kg減量を1ヶ月間で達成することは至難の業でしたが、中量級にはKBCの仲間でパワーリフターの細田選手が優勝候補として名乗りを上げている関係上、どんなにつらくても軽量級をパスできる体重への減量をやり遂げなければ、出場する意味がありませんので必死でした。

昭和41年6月、いよいよ第三回関東学生ボディビルが開催されました。
最初はこの大会の花であるボディビル・コンテストであり、KBCは団体での3連勝を達成し、個人の部でも石山選手が連勝し、イケイケムードが満ち溢れていました。
ボディビル・コンテストの興奮の余韻が満ち溢れる中で、関東学生ボディビル連盟初となるオッドリフト・コンテストが始まりました。
最初の軽量級にはKBCから4年生の私と、2年生の丹羽選手が出場し、3回の試技を重ねながら記録を伸ばし、最後は上位選手の競い合いとなりました。
これを制したのは何と私であり、表彰台の一番高い所に立った時の誇らしい気持ちは今でも忘れられない一生の思い出となったのです。


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第三回関東学生ボディビル選手権大会で表彰台に立つ筆者(昭和41年6月)











9自動車レースの始まり


ACF主催のサーキットレースがルマンで開催された


ル・マンの自動車愛好家たちの努力が実を結び、全長103.2キロのサーキットを6周するACFグランプリ(GP)は、1906年6月26~27日の2日間にわたって開催されることになった。

主催者のACFは、1トン以下という重量規制によって参加車のエンジン排気量を抑制できると期待していたが、自動車メーカー側は、巨大エンジンを搭載するためにシャシーを軽量化して重量規制をクリアした。


第1回ACF・GPの出走車は、フランスばかりでなく、ドイツからベンツ、イタリアからフィアットなども参加し、参加台数は32台を数えた。

フランスの自動車メーカーでは、パナール&ルヴァソール、ルノー、ゴブロン・ブリリエ、モールなどの常連に加えてクレマン・バイヤールとド・ディートリヒという新鋭が参戦した。

これらの参戦車は、いちばん小さくても排気量車が7.4リッターというように大排気量車ばかりとなり、その中で最大となるパナール&ルヴァソールは18リッターに達していた。


ここで新登場となる“クレマン・バイヤール”について少し説明を加えておこう。
1903年10月、フランス財界の大立者であるアドルフ・クレマンは自動車メーカーのクレマン・グラジエーター社を、イギリス最大のタイヤメーカーであるダンロップ社のハーベイ・デュクロ社長に売り渡して、再出発することになった。
ところが、デュクロがクレマン・グラジエーター社を買収する条件の中に、“クレマン”というブランド名を専有できることになっていたので、アドルフ・クレマンは自分の名前を車名に使えなくなってしまった。

そこで、16世紀初めの頃の〔フランスVSイタリア〕戦争でフランスを勝利に導いた愛国者で自分が尊敬するバイヤール将軍にちなんで、“クレマン・バイヤール”というブランドをつくりあげたので、似かよった名前のクルマがフランスでデビューすることになった。


第1回ACF・GPは、1日目に103.2キロのサーキットを6周し、2日目も同じで、12周1,238キロを走ることになった。

レース開始は午前6時で、各車は90秒間隔でスタートした。
ド・ディートリヒが最初にスタートすることになっていたが、どういうわけかエンジンが動かなくなり、フィアットを運転するヴィンチェンツォ・ランチアが最初にスタートを切った。

こうして激闘が始まったが、32台のレース参加車のうち完走したのはわずか11台で、最終的にハンガリー生まれのヘレン・シスが運転するルノーが平均時速101.4キロで走り切り、初代GPウイナーの栄誉に輝いた。(※9-31話【第199回】は、ここまで)


9-30.レースの歴史:ヨーロッパ編14~第1回ACFグランプリ①~

昨年6月に始まったブログ『クルマの歴史物語』ですが、本年に入って最初の更新日である1月8日に、著者である蜷田晴彦の本名が蟹江雅彦であることを告白し、誕生以降の私の歩んできた道を「私の自叙伝」として今日まで記述しております。
現在大学四年生になった直後の頃の就職試験受験の様子を記していますが、本日を入れて残り3回で大学時代は終わることになります。
繰り返しになりますが、私の人生の人格形成に大きく影響したのは慶應義塾大学に入学してから、在学中の4年間に経験した『慶應ボディビルクラブ(KBC)』と、大学二年生から2年間お世話になった無教会派キリスト教施設である『登戸学寮』での生活でした。
当時の東京は敗戦後の復興にめどをつけて、東京オリンピック開催を成功させようと沸き立っていました。
そんな中で、田舎出の貧乏学生が華やかなイメージが付きまとう慶應義塾大学生として、都会の魅力に溺れることなく、まっとうな道を進むことができたのは、いつに「KBCと登戸学寮の先輩諸氏並びに同年輩の友人諸君のおかげ」と感謝の気持ちを込めて、ここまで「私の自叙伝」を記させていただいています。

本日の「私の自叙伝」は、卒業を控えた就職問題に決着がついた日のことです。
翌々日、カゴメ株式会社の入社試験日がやってきました。
当日の受付で確認したら、何と慶應大学から8名が試験会場に来ているとのことでした。
後から聞いた話ですが、この年はあまりに受験申込者が多かったため、カゴメとして初めて有名大学生だけが受験できる絞り込みをしたそうです。
この日は、文科系の経済学部、経営学部、商学部卒業者のペーパーテスト日でした。
試験会場に集まった受験者に、「本日の問題は小論文記述と設問方式の2種あり、どちらかを選択するかは各自の自由とする」との説明がありました。
私は、小論文の方が簡単に思えて、その旨を伝えた、試験問題を手渡されました。
すぐに問題を見たら、そこには「戦後20年が経過したわが国が抱える問題を解決する経済政策を記述せよ」と質問がありました。
とっさにこれは難しいと判断した私は、設問方式の方に変更をお願いし、問題用紙を交換していただきました。
この判断が、私の人生に決定的なプラスをもたらしてくれました。
と申すのも、設問方式の問題は、就職試験問題集に記されているような一般常識問題ばかりでした。
そのかなりの部分が、問題集で学んだ質問とまったく同じでしたので、就職試験問題に取り組んできた私にとっては解答することが易しい問題ばかりでした。

こうしてペーパーテストが終わり、次に面接となりましたが、父の飲み仲間でもある人事課長さんとは、特別緊張することもなくスムースに終わり、私はカゴメ株式会社の就職試験を無事に突破することができたのです。
ちなみに、私と一緒に受験した慶應大学生は全員不合格になりました。

これも入社後に聞いた話ですが、入社試験のペーパーテストの正解率は私が一番だったそうです。
就職のための学校推薦がもらえなかった代わりに、就職試験問題集を一所懸命に勉強した成果が結果に結びついたのです。



9自動車レースの始まり


ゴードンベネットに断られたACFは自分たちのレース開催を決定した


フランスでは産業革命の進展に伴って19世紀末から保険産業が活況を呈してきて、いろんな保険が出現したが、中でも自動車保険は将来の有望分野になることが期待されていた。

ル・マンという町は、フランスにおける保険業の中心地であり、当地に住む保険業者は、生まれたての自動車に対して大きな期待をもっていた。


この時代、フランスで自動車レースを主催する団体としては、1886年にアルベール・ド・ディオン伯爵の尽力によって創設されたACFがあった。
ACFが主催する初期のレースはパリとヨーロッパの都市を結ぶ、いわゆる都市間レースばかりであったが、1903年に開催されたパリ~マドリッド間レースが事故の続出で中止されたのがきっかけになって、都市間レースは禁止されることになった。


この一方、アメリカの新聞王がスポンサーのゴードンベネット杯は年々人気が高まっていた。
このレースは、国別対抗戦が本来の趣旨であるため、出走台数が各国3台に制限されていた。
自動車メーカーがたくさんあるフランスは出走枠の拡大を要請したが、聞き入れられることはなかったので、ACFはゴードンベネット杯への不参加を決議した。

この後、ACFの幹部の間で新しい自動車レースを自分たちが主催してやろうじゃないかという意見が強くなってきた。

ACFが新しいスタイルのレースの開催を考えているという噂を伝え聞いて、ル・マンの町の人々はぜひとも当地でやらせて欲しいと申し出たのである。



蒸気自動車で名を成したアメデ・ボレーが、ル・マンが位置するサルト県の出身なので、当地の住民は自動車レースに対して比較的好意を持っていた。
ところが、パリ~マドリッド間レースの事故の話が誇張されて語られたこともあり、不安からくる拒絶反応がないでもなかったので、サルトに住む自動車愛好家たちは住民を回り説得に当って、レース開催の賛意を取り付けた。

それまでの自動車レースは都市間レースという性格上、A地点からB地点に直線的に進むというのが基本であつたが、ル・マンではサーキットと呼ばれる周回コースが設けられた。

ポン・ド・ジュネスからスター卜して、最初に国道23号線を走って、この道が国道157号線とぶつかった交差点を左に曲がり、今度は国道157線に入る。
このふたつの国道は三角形の二辺に当り、底辺にあたる部分は地方道を使い、ゴールはポン・ド・ジュネスに戻るというサーキットであった。

こうしてコースレイアウトは決定したが、大きな問題点がクローズアップされた。
それは路面である。この時代、道路は舗装されていなかったので、そこをクルマが高速で走るとドライバーも見物人も、ほこりで真っ白になってしまう。
これを解決するためにいろんな知恵が出され、最終的に路面にタールを敷くというアイデアが採用されることになった。(※9-30話【第198回】は、ここまで)


9-29.プジョーの歴史9~アルマン・プジョーの独立②~

昨日、KBC同期会の京都旅行から帰ってきました。
そこで、本来なら今朝一番にブログ『クルマの歴史物語』を更新するはずでしたが、旅行の疲れか、それとも年のせいか、すっかり忘れてしまいました。
夕方になって、それを思い出して急いで作業をしております。
本日の更新を楽しみにしていただいている方には、二度手間、三度手間を煩わせてしまし、本当に申し訳ありません。
今回の京都旅行のテーマは、「新緑の京都を楽しむ」でしたが、晴天に恵まれる中で訪れた洛西地域の光悦寺、仁和寺、大覚寺、それに比叡山延暦寺のどこも、まばゆい新緑が私たちを迎えていただき、大学時代の盟友たちと一緒になって新しい思い出を積み重ねることができました。

さて、「私の自叙伝」の方は、カゴメの受験日のお話です。
お正月以来の帰省となり、久方ぶりに会った両親にカゴメを受験することを伝えました。
これを聞いた母は声を震わせ、「私は愛知トマトに勤めるために、卒業までこうして頑張ってきたのではない。
なんのために慶應大学にいったのか」と叫び、嗚咽を始めたのです。
カゴメに就職が決まれば、同居ができるので両親に喜んでもらえると思い込んでいた私は、母の拒否的反応のすさまじさに戸惑うばかりでした。
母は、「雅彦は東京の大会社に就職してくれるものと信じて、そのことを楽しみに毎日励みにしてきた」ことを繰り返し述べ、私に翻意を迫りました。
その一方、父は慶應大学からの受験者の中に“蟹江雅彦”の名前を見つけた同僚の人事課長から確認を受けたことで息子のカゴメ受験を知っていましたが、母には伏せていたようでした。

私は、自分の経験を活かしてこの会社の近代化に努めたいと何度も主張しましたが、母は受け入れようとしません。
いつ果てるとも分からないやりとりが続いている中で、母は泣きながら自分が体験した辛い日々を告白したのです。
それは、愛知トマトの役員夫人から、自分の夫に対する酒癖などの悪評を何度も浴びせられ、そして成績優秀な息子に対する妬みの言葉など聞かされ、何度も悲しい想いを経験したとのです。
実際、上野工場の周辺地域では会社の外であっても、創業者一族の身分は一般従業員とは異なるものとなっていました。

その中で、母がいちばん悔しかったのは息子の慶應義塾大学入学の噂話が広がり、愛知トマトの役員幹部夫人の方から、「貧乏人が無理して慶應に入って・・・」という言葉を聞いたことでした。
これらの経験を通して、そして事実として母が指摘したのは、愛知トマトは同族会社であり、同族関係者しか出世できないし、同族以外者は役員には絶対なれないという事実でした。
この指摘に対して父は返す言葉がなく、事実として容認するしかなかったのです。

このように情報が限られている田舎町で、母は母なりに苦労を重ねていたことを初めて知り、私は強い衝撃を受けました。
そうは言っても、カゴメを選び名古屋に来たことで私の入社試験受験は既に閉ざされており、今更東京に戻って就職試験を受けることもできません。
母がどのようにわめこうが、泣き叫ぼうが、私はカゴメを受験して合格する他の道はもうないのです。


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〈両親が一緒に写っているたった一枚の写真〉












9自動車レースの始まり


自動車推進派のアルマン・プジョーはプジョー兄弟社を離れ独立した


『クルマの歴史物語 第1部 自動車の誕生』で、主役を演じたアルマン・プジョーは、不思議な存在感を持つ人物である。
ゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツのように自動車の歴史を語るのに絶対欠かせない人物とはいえない。
だからといってアルマン・プジョーが登場しない自動車の歴史などあり得ないというように、自動車という機械を人々の毎日の生活に結びつけるのに貢献した人物として、『第2部』でも活躍することになる。


19世紀末のプジョー兄弟社はジュール・プジョー社長、社長の兄の長男であるアルマン・プジョー専務、社長の長男のウジーン・プジョー常務という経営トップ体制でフランスナンバーワンの自転車製造業者として隆盛を極めた。

ところがその内実は問題だらけで、アルマンのあまりに強引なやり方に、ジュール社長親子は警戒心を強めていた。
一方、時代に合わせ事業拡大に取り組んできたつもりのアルマンは社長親子の事業センスのなさにあきれていて、両者はいつも衝突ばかりしていて、社内では大きなしこりになっていた。

アルマンは、プジョー兄弟社の経営方針としては、自動車ビジネスの拡大が最優先の課題であると繰り返し主張した。
ところが、スタートしたばかりの自動車ビジネスは順調に発展しているわけではなく、もたもたしていたので、この点をウジーンにつかれて、とうとうアルマンの堪忍袋の緒が切れてしまった。

「ならば、自動車部門は独立するしかない」ということで、1897年にアルマンはプジョー兄弟社から独立を決意した。
そして、プジョー自動車会社(以下、プジョー社)を設立して、自分の責任で自動車製造業者としての事業活動を始めたのである。



プジョー社をスタートさせるに当って、アルマン・プジョー新社長は、自動車に全てを賭ける社員との運命共同体づくりに邁進した。
この時代の風潮として、自動車は海のものとも山のものともわからない状況であったが、やり方によっては大きな可能性を持つ産業になるかもしれないという予感はあったので、社員は喜んでアルマンについてきてくれた。
それと、自動車に関心を示す新しい社員も加わって、社内が一本化でき、設立の熱気に包まれた技術陣は張り切って仕事を進めた。


新会社が最初に取り組む仕事は、新エンジンの製作である。
今までは、ダイムラーエンジンをパナール&ルヴァソール社から供給してもらっていたが、今度こそ自作のエンジンを開発する必要があった。

技術陣は総力をあげて、エンジン開発に取り組んだ。
次いでギヤミッション、舵取り装置、制動装置などのメインパーツ、そしてシャシーとボディというように、クルマに必要なあらゆる部品の開発に、スタッフは追われることになったが、新しい息吹に燃えるプジョー自動車会社の社員に何の苦痛もなかった。

通常なら数年かかる新車づくりであるが、アルマン社長の強力な指揮下で、次々と新型車を発表して世間の注目を浴びたのである。


1905年、プジョー自動車会社は排気量650㏄という小型エンジンを搭載したオープン2シーターのコンパクト車を開発した。
フランス語で“赤ちゃん”を意味する〈プジョー/べべ〉という車名で登場したこのクルマは、前進3速トランスミッションを採用、ステアリング形式はラック&ピニオンという新方式が採用された。

このクルマのホイールベースは166センチしかなく、たいへん小さなボディでありながら最高時速は40キロというスピードが出て人気商品に育ち、年産400台の規模になってきた。

ここで注意しなくてはならないのは、この小型車を誰が買ったかという点である。
現代人の発想では、大型車はお金持ちで、小型車は庶民と考えがちであるが、この見方は間違っている。

この時代のフランス庶民は、例え小型車であっても買えるような所得水準になかった。
庶民がクルマを買えるようになるのはもっと後のことで、小型車のオーナーは全てお金持ちであり、奥様用やお嬢様用という2台目、3台目需要がほとんどであった。(※9-29話【第197回】は、ここまで)


号外

本日は5月20日、月曜日です。
私は昨日、横浜市で開催された『WFPウォーク・ザ・ワールドfor アフリカ』というイベントに参加してきました。
このイベントは本年開催8回目となるウォークイベントで、晴天に恵まれて実に3,500名もの方が参加し、みなとみらいを起点として横浜の名勝地の5キロコース、または10キロコースのウォーキングを楽しまれました。
このイベントを主催したのは、“特定非営利活動法人(NPO) 国連WFP協会”です。
実は、私は2005年夏から2年間、このNPOで専務理事を務めておりました。
私が直接携わったのは第2回と第3回であり、当時は総参加者数が1,000名に満たない規模のイベントでしたが、8回目となる今回の参加者総数が飛躍的に多くなっていることに驚くと同時に、喜びを感じました。
国連WFP協会は、世界食糧計画〖World Food Programme=WFP〗という飢餓救済を目的として活動する国連の組織を、日本の民間人が支援をし、飢餓で苦しんでいる多くの人たちに寄付金を集めて、送金をしています。
ブログ『クルマの歴史物語』でも、いつか読者の皆さんにWFPの活動内容をお知らせしたいと思っておりますが、しばらくお待ちいただくことになります。

さて、本日から水曜日までの3日間、このブログはお休みさせていただきます。
既にご案内いたしたとおり、慶應ボディビルの同期の仲間と京都に行ってきます。
このブログで何度もふれたとおり、私が大学時代に触れあったKBCの仲間は、私にとってかけがえのない友人ばかりです。
こうして卒業して46年が経過しても、何のくったもなく友人付き合いができるというのは、“同じ釜の飯を食った仲間”ならではのことでしょうね。