52話.アメリカの産業革命と混迷〔前編〕

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《 主な登場人物 》
■マーク・トウェイン:1835年生まれ。19世紀のアメリカを代表する小説家。
■トーマス・エジソン:1847年生まれ。“発明王”として世界中で有名になるアメリカ人。
■ロバート・フルトン:1765年生まれ。世界で初めて蒸気船ビジネスを始めたアメリカ人。
■ロバート・リビィングストン:1746年生まれ。フルトンを支援するアメリカ人外交官。



 イギリスから独立して誕生間もないアメリカ合衆国に産業革命の嵐がやってきた 


18世紀に入って繊維産業で幕開けした産業革命は、ジェームス・ワットが開発した蒸気機関という革命的な動力源を得たことで、イギリス国内を嵐のように吹き荒れた。
この嵐はドーバー海峡を渡り、フランスの産業革命が急速に進行した。
それと同時に、1776年にイギリスから独立したばかりで建国の気運に燃えるアメリカ合衆国にも強い影響を与え、ここでも産業革命の嵐が吹き荒れることになった。

1790年のこと、イギリスからアメリカにやってきたサミュエル・スレーターという男が、リチャード・アークライトが開発した水力紡績機の工場をアメリカで最初に完成させたが、このことはアメリカにおける産業革命の始まりといわれている。

この後、南部の豊富な木綿資源を使った繊維産業はアメリカ合衆国の中核産業に育っていく。
その代表がボストンの商人であるフランシス・ローウェルであり、1814年にマサチューセッツ州で新工場を建設したが、この工場では糸を紡ぐ紡績と布を織る織布を同時化させることに成功し、後に“世界で最初の完全な工場”と呼ばれるようになる。

アメリカにおける産業革命の担い手として、繊維産業に続く大きな産業として育っていくのが船舶と鉄道である。
産業革命の推進役を担った蒸気機関を船の推進動力にしようという試みは、各国の技術者によって競われたが、その中ではアメリカ人のロバート・フルトンが特に有名となる。


Fulton,Robert②第二巻052話
〈蒸気船ビジネスを始めたロバート・フルトン〉





肖像画を勉強するためにイギリスに渡ったフルトンは、産業革命真っ盛りの現地でメカニズムに興味を持つようになった。
そして、小型の蒸気船を開発して、フランス政府に売り込みをかけたが失敗してしまう。

ここでフルトンの技術力の高さを見抜いたのが、フランス駐在のアメリカ人外交官ロバート・リヴィングストンある。
その後、2人はアメリカで再会し、共同でハドソン川での蒸気船ビジネスを企てた。
1807年8月、クラーモント丸と名付けられた新造の蒸気船は、大勢の客を乗せてニューヨークからハドソン川を航行し、目的地のオルバニーに到着した。

この成功に刺激され、アメリカ合衆国とイギリスで定期就航蒸気船ビジネスの先陣争いがあちこちで始まり、19世紀半ばには蒸気船による大量輸送時代を迎えることになった。


Livingston,Robert第二巻052話
〈フルトンを支援したロバート・リヴィングストン〉







 産業革命の成果である鉄道産業は急成長し、アメリカ経済の牽引役を担った 


アメリカにおける、インフラとしての交通機関の最初は運河であり、ミシガン湖畔に位置するシカゴは、アメリカを代表する都市として重要な役割を果たすことになった。

シカゴが都市として発展するきっかけになったのは1825年のエリー運河の完成であり、中西部諸州から集荷した穀物がエリー運河によって直接東部に輸送できるようになった。
さらに1848年になると、イリノイ・ミシガン運河が開かれ、五大湖とミシシッピ水系が結ばれた。

アメリカで最初の人を乗せる鉄道はボルティモアとオハイオ間に開設され、1830年5月から動き始めたが、レールはあったものの蒸気機関車ではなく馬が車輌を引っ張ったレール馬車での営業開始となった。
ボルティモア&オハイオ鉄道会社は、蒸気機関車による本格的な鉄道運行を計画して、性能テストを実施したところ、充分いけるとの結論が出て、いよいよ蒸気機関車による鉄道時代が幕を開けることになった。

1840年時点でのアメリカ合衆国における鉄道の総延長は4,500キロに達し、その後10年間でさらに1万キロが増設され、アメリカ北部を中心に鉄道ネットワークはどんどん広がって鉄道車両を牽引する蒸気機関車の需要も高まった。
最初の頃はイギリスからの輸入が中心であったが、蒸気機関車メーカーの創業が相次いで、合衆国製の蒸気機関車が国中を走り回るようになってきた。


1848年の、カリフォルニアでのゴールドラッシュ発生に伴って、東部と西部を直結する大陸横断鉄道への期待が高まり、1862年7月になると、鉄道建設を促進することを目的とした太平洋鉄道法が合衆国議会を通過した。

この法律が成立した直後に、セントラル・パシフィック鉄道会社が設立され、カリフォルニアから東へ向かって鉄道建設を進めることになった。
翌年にユニオン・パシフィック鉄道会社が設立され、ネブラスカから西方に向かって線路の敷設が始まった。


自分たちの居住区を犯されると脅威を持ったアメリカンインディアンの妨害や、山岳地帯のきびしい気侯条件にもかかわらず、鉄道建設は着々と進められ、いよいよユニオン・パシフィック鉄道と、セントラル・パシフィック鉄道が、結びつく日がやってきた。
1869年5月10日、ユタ州プロモントリーの地では、レールの上にセントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道の機関車が向かい合い、著名な政治家や鉄道業界代表者が集う中で、大陸横断鉄道完成のセレモニーが華々しく開催された。
電信によって、この世紀の大ニュースが知らされるやいなや、アメリカ合衆国全土は大きな喜びに包まれた。


この頃、鉄道会社は鉄道が本来の目的とする「人と物の移動に貢献する」という大義をすっかり忘れ、政府からの交付金と公有地の払い下げという利権を得ることだけを考えていた。
政府の援助を得るために、大陸横断鉄道会社は敷設スピードを競ったのであるが、しばしば工事の手が抜かれ、実際に列車を走らせてみると危険な場合が多かった。

いろいろな問題を内包しているこの国の鉄道であるが、1870年頃には総延長距離は8万5千キロになり、ピーク時には16万5千キロに到達したというが、この数字はヨーロッパ全域よりも長い鉄道ネットワークができたことを意味している。

(金曜日の〔52話:後編〕に続く)



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