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60話.メルセデスの誕生〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ウィルヘルム・マイバッハ:1847年生まれ。高性能化に邁進するダイムラー社技師長。
■エミール・イェリネック:1853年生まれ。ダイムラー社のマイバッハ技師長を訪問した男。
■メルセデス・イェリネック:1888年生まれ。エミール・イェリネックの長女。


 再びドイツを訪れたE.イェリネックは、ダイムラー社のW.マイバッハとの再会を果した


19世紀の最後の年の春、ニースに住むオーストリア人のエミール・イェリネックという金持ちがドイツのカンスタットにあるダイムラー社のウィルヘルム・マイバッハ技師長を訪問し、エンジンのパワーアップの必要性に関する意見を述べた時から、2ヶ月が経過した。

イェリネックの話を聞いてから、マイバッハは直ちに35HPの出力が発揮できるガソリンエンジンの開発に取り組むことになったが、それまでもパワーアップこそ自動車技術者としての最大課題であるとの認識を持ってはいても、具体的な目標値を設定してなかったマイバッハにとっては、イェリネックの訪問は大きな刺激になっていた。


Jellinek,Emil第二巻060話
〈メルセデスの生みの親エミール・イェリネック>





イェリネックの2回目となるカンスタット訪問は、春から初夏に移りつつある頃であり、北ドイツ地方ではいちばん気候が良い季節であった。

1回目のマイバッハとの会談では、イェリネックが一方的に自分の考えを伝えるだけだった。
自分の話に対する反応ぶりを見て、ある種の感触をつかんだイェリネックは、ニースに帰ってから自宅の書斎にこもりきりになり、夢中になって仕事に打ち込んだ。

そうして、新ビジネスのフィージビリティ・スタディを総力挙げて完成させ、今回の訪問ではこれを携えて来た。

“フィージビリティ・スタディ”というのはビジネス用語で、新しい事業を始める前に、その事業計画案の概要と収益見通しなど全ての情報を網羅する重要書類であり、日本語では実行計画書、あるいは事業開発書と言われることが多い。


再会を果した2人は固い握手の後、会談に入った。

「イェリネックさん。いちばん良い季節のドイツにようこそ。再会できてたいへん嬉しく思います」

「マイバッハさん。今日こうしてお会いできて、私も心から喜んでいます。ドイツではいちばんいい季節ですね。列車から見る田園風景のすばらしさは一生忘れられません」

「景色ばかりでなく、本日のビジネスミーティングも一生の思い出となるような、充実したものであることを期待していますよ」

「マイバッハさん。私も同感です」

「この前イェリネックさんにお聞きしたエンジンのパワーアップの重要性に関するお話はたいへん参考になりました。自分は常日頃から、自動車のエンジンはもっと排気量が多く、パワーが出るものを開発すべきだと社内で主張しているのですが、必ずしも同調者ばかりでないのです。そこで、お話をおうかがいしてから、イェリネックさんの意見を経営者全員に披瀝したところ、社内の雰囲気は一変して、会社を挙げてパワーアップする大排気量エンジンの開発に取り掛かることになりました」

「それは良かったですね」

「しかし、誠に残念ながら、イェリネックさんが目標とする35馬力に到達する目途は、現時点まったくたっておりません」

「そこで、今日は私から、新しい事業に関する提案がございます」と言いながら、イェリネックは持参した鞄から分厚い書類を取り出すのである。



 E.イェリネックがW.マイバッハに、2カ月かけたフィージビリティ・スタディの説明をした 


ニースからやってきたエミール・イェリネックとダイムラー社のウィルヘルム・マイバッハ技師長との面談は続いていた。

「マイバッハさん。今日ここにお持ちしたのは、私が考えた新事業のフィージビリティ・スタディでして、私はこの新事業を“メルセデス・プロジェクト”と名付けました」

マイバッハにとって、メルセデス・プロジェクトという気になる言葉があったが、すぐに質問するのも変だと思って保留し、相槌を打った。

「おもしろそうですね」

「このプロジェクトはダイムラー社と私の共同事業となりますので、ただ今から説明致します。まず、この事業の“商品は何か”から始めますと、商品はダイムラー社で新規開発する35馬力を発揮する高性能車でして、この完成が前提となります」

35馬力を発揮する高性能車の開発に関しては、先回の訪問時にも聞いた話である。

「大変残念な話ですが、先回お話をお伺いしたばかりであり、最高出力35馬力のエンジンを完成させる目途はまったく立っていないのですよ」

「マイバッハさん。現時点ではできていないことは承知していますが、1年以内に高出力エンジンを搭載する高性能車を完成させることができますか」

マイバッハは、自動車ビジネスのポイントを決して外さないイェリネックの見識の高さを再認識することになった。
「これから1年以内ですか。約束はできませんが、技術は日進月歩です。不可能ではないと思いますよ」

「これで商品がどんなものかはおわかりいただいたと思います。次は生産台数に移りますが、私はダイムラー社にこの新車を36台発注したいと考えています」

一瞬、マイバッハは自分の耳を疑った。
「何ですって! 36台ですって! そんなに多くの台数を発注していただけるのですか」

「私は趣味でクルマづくりをやるのではありません。ビジネスをやろうとしていますので、ある程度の規模が必要となります。それと、後ほどコストの話になりますが、台数保証がないと想定コストが高くなってしまいますので、最低保証台数と考えていただいて結構です」
マイバッハはイェリネックの提案のすごさに舌を巻いたが、その一方で、本気かどうかを疑っていた。
「イェリネックさん。現在ダイムラー社で何台の自動車を生産しているかご存じですか」

「詳しくは知りませんが、私の推測では年間300台から400台ほどではないでしょうか」
イェリネックが事前にダイムラー社の経営実態調査に怠りなかったことは、その回答を聞いてよくわかった。

「昨年が312台ですので、36台というのは1カ月分より多い台数となります。納期については少し余裕を見ていただけますか」

「ダイムラー社も私のクルマばかりに集中生産することは難しいでしょうから、納期は1号車の生産が始まってから半年間を考えています」

「半年あれば、36台の生産は不可能ではないと思いますよ」

「次は販売方法ですが、このクルマは私が発注したものですので、全量責任を持って引き取ります。代金支払いは工場出荷後、30日以内にキャッシュでお支払いいたしましょう」

「支払条件は問題ありません。それでは価格に移りますが、現時点スペックが決まっておりませんので、コストの試算がまったくできません」

「マイバッハさん。価格は、ビジネスで最も重要なポイントです。私としての希望価格はありますが、現時点で申し上げるわけには行きません。最終的なスペックと取引約定が固まった時点での価格交渉ということでいかがでしょうか」

「私としてはそれで了解します」

「ダイムラー社としての新車開発資金が必要となるでしょうから、当方から手付金として3万マルクを支払います。これは、もし価格の合意ができなくなり、メルセデス・プロジェクトがご破算になった時には、返却しなくて結構です」

マイバッハは自分の生涯で、これほど見事にビジネス交渉を運ぶ人物に出会ったことはなかった。
「いろいろご配慮いただきまして、ありがとうございます。こうした条件がはっきりすると、役員会で決裁を取りやすくなります。さすがにイェリネックさんはビジネスで百戦錬磨ですね。自分たちにとって受け入れやすい条件を用意していただいて、感謝しています」

ここまでは順調な話し合いであり、コーヒーブレイクとなった。

(金曜日の〔60話:後編〕に続く)


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