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61話.20世紀初頭のドイツ車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■フェルディナント・ポルシェ:1875年生まれ。電気自動車を開発したチェコ人技術者。
■パウル・ダイムラー:1859年生まれ。イギリスからオーストリアに移るダイムラーの息子。
■アウグスト・ホルヒ:1868年生まれ。ベンツ社を離れ独立したドイツ人若手技術者。
■カール・ベンツ:1844年生まれ。よる年波に勝てず引退を決意するベンツ社社長。



 ベンツ社で技術を磨いた後に独立したアウグスト・ホルヒは、A.ホルヒ社を創業した 


『クルマの歴史300話 第二巻』で活躍する主人公たちは多彩である。
ドイツ人として、既にウィルヘルム・マイバッハが登場しているが、これから話が進むアウグスト・ホルヒもまたマイバッハに負けないカーガイとして、語り継がれている人物である。


Horch,August②第二巻061話
〈挫折からの再出発に挑むアウグスト・ホルヒ〉





アウグスト・ホルヒは、モーゼル川沿いの小さな町で鍛冶屋の息子として生まれた。
工業学校で機械工学を学んだホルヒは、造船所の設計事務所に就職した後、マンハイムのベンツ社で働くようになった。
ここで働くうちに、ホルヒの技術知識とそれをいかす工作力は頭ひとつ抜け出すようになり、カール・ベンツ社長の目に適い抜擢された。

そんな時に、ホルヒの技術を見込んでスポンサーがつき、独立して自動車修理業をやらないかと勧められ、自動車の修理や整備をメイン事業とするA.ホルヒ社が設立された。

新しい会社がスタートしたが、自動車修理だけで満足するようなホルヒではない。
何とか自分のオリジナル車ができないかと考えて、設計図を引き、夢中になって試作を重ね、1903年には4気筒エンジンを搭載した〈ホルヒ16/20HP〉というクルマができあがった。
このように自動車の名前の数字が2つ並んでいるのは、前が自動車税の基準となる課税馬力であり、後ろが実馬力である。

このクルマは、一部のカーマニアの評価を得たが、ホルヒが期待したほどには売れなかった。
開発資金ばかり使って、自動車をつくってもいっこうに売れることはなく、会社の経営は次第に苦しくなり、とうとう財務的に行き詰まって、倒産してしまうのである。
今まで順調な人生を歩んできたホルヒにとって、初めての挫折が訪れた。


しかし、ここで挫けないのがホルヒの偉いところで、新しいスポンサーを探してきて、A.ホルヒ&自動車製造会社という名前の新会社を設立した。
今度の会社は、最初から自動車を製造販売することを目的とした会社であった。


horch1上061話
←“ホルヒ”のブランドマーク




新会社設立直後から、ホルヒは売れるクルマづくりに邁進する。
クルマの基本は16/20HPモデルでできているので、このクルマの欠点をひとつずつつぶして、完成度を高める作業を重ねた。

こうして、1904年には排気量2.7リッターの4気筒オーバーヘッドバルブ(以下、OHV)エンジンを搭載し、4速トランスミッション付きの新型車の販売が開始された。
このクルマは、メルセデスやベンツに充分対抗して戦えるだけの実力を備えていたので、期待どおり売れてホルヒの名声を高めるのに役立った。



 カール・ベンツ社長は実用車づくりこだわり、ダイムラー社の新路線を無視した 


よく、「自動車を発明した人は誰ですか」という素朴な質問をする人がいる。
これに対して、「ドイツ人のカール・ベンツです」と答える人が多いが、この答えは正しいともいえるし、正しくないともいえる。
なぜかと申せば、質問の中での“発明”という言葉が、自動車という複雑な機械にふさわしいかどうかという点から解明しないと、正しい答えが導き出されないからである。

広辞苑で“発明”を調べてみると、「①物事の正しい道理を知り、明らかにすること。②新たに物事を考え出すこと。③機械・器具類、あるいは方法・技術などをはじめて考案すること。」と、説明されている。

その一方では、本書では“自動車”を、「3輪以上の車輪を持って、自分で所有しているエンジンを使って、運転者の意思によって自在に、発進し、曲がって、停止することができる乗り物」と定義している。

この定義にあてはめてみると、自動車という複雑な構成要素を持っている機械を「はじめて考案した(広辞苑)」人は、いったい誰であるかというクエスチョンに対するアンサーが必要になるが、答えは簡単ではない。

それでは発明に代わって、どんな言葉がふさわしいかを考えてみれば、“開発”という言葉が適当で、「自動車を世界ではじめて開発したのは、いったい誰ですか」ということになるが、実はこの質問に対する答えもはっきりしない。

18~19世紀の産業革命という嵐の中で、蒸気エネルギーを動力とする乗り物を最初に完成させたのは1769年のニコラス・キュニョーが開発した大砲運搬車であるが、これは運転者の自在に曲がったり停止したりできないので、どう考えても自動車とはいえない代物といえよう。

次いで、ジェームス・ワットの助手のウィリアム・マードックが開発した蒸気で動く乗り物はどうかということになるが、正確な記録があまり残っていないので、本当のところははっきりしない。

マードックの次に蒸気自動車を開発したのは、リチャード・トレヴィシックであり、数多くの工夫を重ねることによって、道路上を動くことができる乗り物を完成させたのである。


筆者は、「3輪以上の車輪を持って、自分で所有している蒸気機関を使って、運転者の意思によって自在に、発進し、曲がって、停止することができる乗り物」を、「世界で最初に開発したのはリチャード・トレヴィシックである」という見解に立脚しているが、これは少数派の意見かもしれない。


Benz,Carl②第二巻061話
〈自動車のパイオニア:カール・ベンツ〉





さて、質問を「世界で初めてガソリンエンジン車を開発したのは誰ですか」に代えれば、その答えは「1886年に、ドイツ人のカール・ベンツが開発した3輪自動車が、世界で最初のガソリンエンジン車です」ということになる。

カール・ベンツは単にガソリンエンジン車を開発したばかりでなく、ベンツ社という会社をつくって、ヴィクトリアとヴェロという傑作車をつくって、19世紀末には世界一の自動車メーカーになっていた。

ところが20世紀に入ると状況は一変して、ダイムラー社がエミール・イェリネックの要請によって開発したメルセデスブランドの35HPモデルによって、一気に高性能車メーカーとして躍進してきたのに対して、もう一方の雄であるベンツ社の方はしばらくの間、停滞時代を迎えたのである。

「自動車というものは、本来実用的なものでなくてはならない。スピードを競うというのは、考えが間違っている」
カール・ベンツ社長はいつも同じことを繰り返し述べていた。
この考えは信念となっていて、誰が何を言おうが変わることはなかったし、ヴィクトリアとヴェロに固執して、〈メルセデス/35HP〉のような大排気量の高性能車を開発しようとは決して思わなかった。


20世紀に入った頃からベンツ車の売れ行きは減少するばかりであって、出資者たちは将来の展望が開けないとあせり、カール・ベンツ社長の考えに反発し始めた。

この最初の行動をとったのは、部長から常務に昇格したユリウス・ガンスである。
内務を取り仕切るフリードリッヒ・フィッシャー専務が病気で出社できなくなり、ガンスの会社内でのポジションは、ベンツ社長、息子のオイゲン・ベンツ専務に続くナンバー3になっていた。
ガンスは営業を担当していたので、自社のクルマが市場からどのように評価されているかをよく知っていた。

「ベンツ車の弱点は、ベルトドライブ方式にある。これからの自動車はシャフトドライブ方式でないと売ることが難しい」と考え、手始めにフランスからルノー車を輸入して技術陣に分解させて、シャフトドライブ方式を研究させた。
そして社長に無断で、シャフトドライブ方式のクルマを開発するように命じたのである。
これを知ったベンツ社長は、烈火のごとく怒ったが後の祭りだった。

この結果、ベンツ社として最初のシャフトドライブを装備したクルマができあがった。
ところが、何ぶん急ごしらえであり、技術的に未完成のままで売り出したので評判はさっぱりで、社長の反対を押し切って強行したガンス常務の地位は脅かされることになった。


窮地に陥ったガンスは覚悟を決め、新しい自動車設計者をフランスから呼び寄せ、メルセデスに対抗できる新車の開発を命じた。
これを知ったベンツ社長はまたも大反対したが、ガンスの方もベンツ社における自分の地位が守れるかどうか必死である。

そればかりでなく、世界で最初のガソリンエンジン車を生み出したカール・ベンツの技術には往年のさえはなく、もはや時代に取り残されているという認識を強く抱くようになっていたガンスは、この際、ベンツ社の実権をベンツファミリーからもぎ取ろうと意識していたのだ。


1903年4月、不振のベンツ社にあって経営方針を巡る争いは更に深刻さを加えて、とうとうカール・ベンツ社長と息子のオイゲン・ベンツ専務はガンス常務の策略にはまって、会社から追い出される羽目になった。

こうして会社経営の実権を手に入れたガンスは、カール・ベンツがいなくなったので、ベンツ社の自動車から“ベンツ”という車名を取ってしまおうと考えた。
やがてガンスによって開発を指示され、従来のベンツ車とは一線を画す大排気量車ができあがり、“パルジファル”というブランドを冠して華々しく発表されたのである。

このコンセプトはダイムラー社のメルセデスの丸写しであったから、市場からは「二番煎じ」と評価は散々の上、性能的にメルセデスに大きく劣り、販売はまったく振るわず、わずかしか売れなかった。
この失敗は、ガンスとしては痛かった。
この新ブランド車が売れれば、ガンスが社長としてリーダーシップを発揮することに誰も文句はいえなかったはずであったが、クルマが売れないとなると話は別で、ガンスの横暴ぶりに周りから批判が集中し、とうとう辞任せざるを得なくなった。
ガンスの辞任に伴い、ベンツ親子はベンツ社に復帰することになったのである。



061話ベンツ1902年バルジファル
←ベンツ社の新車〈パルジファル〉





(〔61話〕はここまでで、〔62話〕は来週の火曜日に掲載。)


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