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78話.サーキットレースの出現〔前編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ・ドラージュ:1874年生まれ。ドラージュ社を創業したフランス人技術者。
■オーガスチン・ルグロ:1880年生まれ。プジョー自動車会社に移籍したフランス人。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー自動車会社で新車開発に邁進した男。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。フランスのプジョー兄弟社社長。



J.ゴードンベネットに規則改訂を断られたACFは自分たちのレース開催を決定した


フランスでは産業革命の進展に伴って19世紀末から保険産業が活況を呈してきて、いろんな保険が出現したが、中でも自動車保険は将来の有望分野になることが期待されていた。

ル・マンという町は、フランスにおける保険業の中心地であり、当地に住む保険業者は、生まれたての自動車に対して大きな期待をもっていた。

この時代、フランスで自動車レースを主催する団体としては、1886年にアルベール・ド・ディオン伯爵の尽力によって創設されたACFがあった。
ACFが主催する初期のレースはパリとヨーロッパの都市を結ぶ、いわゆる都市間レースばかりであったが、1903年に開催されたパリ~マドリッド間レースが事故の続出で中止されたのがきっかけになって、都市間レースは禁止されることになった。

この一方、アメリカの新聞王がスポンサーのゴードンベネット杯は年々人気が高まっていた。
このレースは、国別対抗戦が本来の趣旨であるため、出走台数が各国3台に制限されていた。
自動車メーカーがたくさんあるフランスは出走枠の拡大を要請したが、聞き入れられることはなかったので、ACFはゴードンベネット杯への不参加を決議した。


この後、ACFの幹部の間で新しい自動車レースを自分たちが主催してやろうじゃないかという意見が強くなってきた。
ACFが新しいスタイルのレースの開催を考えているという噂を伝え聞いて、ル・マンの町の人々はぜひとも当地でやらせて欲しいと申し出たのである。



ACFの主催によって世界で最初となるGPレースがル・マンのサーキットで始まった


蒸気自動車で名を成したアメデ・ボレーが、ル・マンが位置するサルト県の出身なので、当地の住民は自動車レースに対して比較的好意を持っていた。
ところが、パリ~マドリッド間レースの事故の話が誇張されて語られたこともあり、不安からくる拒絶反応がないでもなかったので、サルトに住む自動車愛好家たちは住民を回り説得に当って、レース開催の賛意を取り付けた。


それまでの自動車レースは都市間レースという性格上、A地点からB地点に直線的に進むというのが基本であつたが、ル・マンではサーキットと呼ばれる周回コースが設けられた。

ポン・ド・ジュネスからスター卜して、最初に国道23号線を走って、この道が国道157号線とぶつかった交差点を左に曲がり、今度は国道157線に入る。
このふたつの国道は三角形の二辺に当り、底辺にあたる部分は地方道を使い、ゴールはポン・ド・ジュネスに戻るというサーキットであった。

こうしてコースレイアウトは決定したが、大きな問題点がクローズアップされた。
それは路面である。
この時代、道路は舗装されていなかったので、そこをクルマが高速で走るとドライバーも見物人も、ほこりで真っ白になってしまう。
これを解決するためにいろんな知恵が出され、最終的に路面にタールを敷くというアイデアが採用されることになった。


ル・マンの自動車愛好家たちの努力が実を結び、全長103.2キロのサーキットを6周するACFグランプリ(GP)は、1906年6月26~27日の2日間にわたって開催されることになった。

主催者のACFは、1トン以下という重量規制によって参加車のエンジン排気量を抑制できると期待していたが、自動車メーカー側は、巨大エンジンを搭載するためにシャシーを軽量化して重量規制をクリアした。


第1回ACF・GPの出走車は、フランスばかりでなく、ドイツからベンツ、イタリアからフィアットなども参加し、参加台数は32台を数えた。

フランスの自動車メーカーでは、パナール&ルヴァソール、ゴブロン・ブリリエ、モールなどの常連に加えてクレマン・バイヤールとド・ディートリヒという新鋭が参戦した。

これらの参戦車は、いちばん小さくても排気量車が7.4リッターというように大排気量車ばかりとなり、その中で最大となるパナール&ルヴァソールは18リッターに達していた。


ここで新登場となる“クレマン・バイヤール”について少し説明を加えておこう。
1903年10月、フランス財界の大立者であるアドルフ・クレマンは自動車メーカーのクレマン・グラジエーター社を、イギリス最大のタイヤメーカーであるダンロップ社のハーベイ・デュクロ社長に売り渡して、再出発することになった。

ところが、デュクロがクレマン・グラジエーター社を買収する条件の中に、“クレマン”というブランド名を専有できることになっていたので、アドルフ・クレマンは自分の名前を車名に使えなくなってしまった。
そこで、16世紀初めの頃の〔フランスVSイタリア〕戦争でフランスを勝利に導いた愛国者で自分が尊敬するバイヤール将軍にちなんで、“クレマン・バイヤール”というブランドをつくりあげたので、似かよった名前のクルマがフランスでデビューすることになった。


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←“クレマン・バイヤール”のブランドマーク→





第1回ACF・GPは、1日目に103.2キロのサーキットを6周し、2日目も同じで、12周1,238キロを走ることになった。

レース開始は午前6時で、各車は90秒間隔でスタートした。
ド・ディートリヒが最初にスタートすることになっていたが、どういうわけかエンジンが動かなくなり、フィアットを運転するヴィンチェンツォ・ランチアが最初にスタートを切った。
こうして激闘が始まったが、32台のレース参加車のうち完走したのはわずか11台で、最終的にハンガリー生まれのヘレン・シスが運転するルノーが平均時速101.4キロで走り切り、初代GPウイナーの栄誉に輝いた。

(金曜日の〔78話:後編〕に続く)


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