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78.サーキットレースの出現〔後編〕

《 主な登場人物 》
■ルイ・ドラージュ:1874年生まれ。ドラージュ社を創業したフランス人技術者。
■オーガスチン・ルグロ:1880年生まれ。プジョー自動車会社に移籍したフランス人。
■アルマン・プジョー:1849年生まれ。プジョー自動車会社で新車開発に邁進した男。
■ウジーン・プジョー:1852年頃の生まれ。フランスのプジョー兄弟社社長。


新興メーカーのドラージュ車がフランスの自動車レース界に大旋風を巻き起こした


鳴り物入りでスタートしたACF・GPは、初回レースの大成功によって国民的関心事になり、1907年に開催予定の第2回レースに向かって日に日にムードが高まってきた。

次回の優勝を狙うフランスの自動車メーカー各社は、ハイパワーのレース専用車づくりにしのぎを削ることになったが、とりわけ熱心なドラージュ社という新興自動車メーカーがあった。

ドラージュ社の創設者であるルイ・ドラージュは、1874年にブランデーで有名なコニャック地方で生まれたが、生まれつき片目しか視力がなかった。
15歳で学校を卒業すると、官営工場で働きながら機械工学を独力で学んだ。
次いで別の会社に製図工として入社し、ここで技術者として基本となる知識を身に付け、その数年後にプジョー自動車会社に移って自動車に関連した仕事をするようになった。

ルイ・ドラージュは、まもなくプジョー自動車会社の実験テスト部の責任者となったが、しばらくするとかねてからの夢であったオリジナル車をつくりたいという想いがふつふつと沸いてきた。
これを実行するとなると準備がたいへんであるが、幸いにして資金に関しては何人かの後援者から大金をせしめることができたので、1905年にここを飛び出して新会社を設立した。

この時、ルイ・ドラージュと一緒にプジョー自動車会社を離れたのが主任設計者として腕を振るっていたオーガスチン・ルグロという優秀な技術者であった。
ルグロを得て勇気百倍のルイ・ドラージュは、パリ近郊に2台の旋盤と工員数人の町工場をつくって、自動車づくりを始めた。
収入はプジョー社時代の3分の1となったが、自分の会社が持てたことで意気軒昂であり、ルグ口もルイ・ドラージュの片腕として会社の発展に寄与することを忘れなかった。


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←“ドラージュ”のブランドマーク



1906年デビューした最初のドラージュは、堅実で保守的なスタイルをもつヴォワチュレットクラス車で、4.5HPと9HPのド・ディオン・ブートン製単気筒エンジンを載せていた。

この年、ヴォワチュレットレースとして人気が出てきたロト杯にドラージュ車が初めて参戦したら、2位に入ることができて幸先のよいスタートを切った。

ドラージュがその名声を確立したのは、1907年開催の第2回ACF・GPの前座となるヴォワチュレットレースにおいてであった。
2気筒車2台と単気筒車1台が参戦したところ、単気筒車を運転するアルベール・ギヨが平均時速80.1キロという他車を圧するスピードで走って、ドラージュとして初めての優勝を勝ち取った。


さて、前年の大成功に続く第2回ACF・GPは、主催者のACFが、エンジンの大型化を抑制する目的で、重量規制の他にもうひとつ、「ディエップの768キロの新コースを231リッターの燃料で走ること」という燃料規制を設けて実施された。

レースの結果は、フィアットに乗るフェリーチェ・ナツァーロが、平均時速113.6キロというスピードによって優勝を果たしたが、このクルマには、11リッターも燃料が残っていて、燃料規制はほとんど意味を持たなかった。



アルマンが去った後、プジョー兄弟社は“ライオンプジョー”ブランド車を登場させた


1886年にカール・ベンツによって開発されたガソリンエンジン車は、ドイツではあまり評価されることはなく、むしろ隣国のフランス人がその価値を見つけ出した。

自社のガソリンエンジン技術が未熟な頃、ダイムラーエンジンを載せるクルマをつくっていたパナール&ルヴァソール社やプジョー兄弟社は、ドイツのエンジン技術から学べることは全て学んだ後、オリジナリティあふれるクルマをつくれるようになっていた。

そんな状況の中で誕生したのがルノーである。
ルイ・ルノーによって創業されたルノー兄弟社は、小型軽量を活かしたクルマづくりで人々の評価を得て、生産台数を増やしていった。
そして、商用車分野への拡充を図って、自動車製造業者として着実に地盤を築いていた。


一方、プジョー兄弟社の方は、自転車から自動車へ進出する際に社内に確執が生まれ、自動車推進派のアルマン・プジョーは保守的な経営陣とたもとをわかち、プジョー自動車会社を設立した。
こうしてフランスの自動車産業は、ルノー兄弟社とプジョー自動車会社の2社が大きなウェイトを占めるようになってきた。

アルマン・プジョーが去ったプジョー兄弟社は、何かとうるさい専務がいなくなってほっとしたのか、ウジーン社長は病気になって、息子のジュールに社長の座を譲った。
新任のジュール社長は引き続き自動車に関心を示すことはなく、アルマン・プジョーの動きを傍観していた。

ところが、プジョー自動車会社が“べべ”の愛称をつけたコンパクト車をヒットさせると、ジュール社長の弟ロベールに代表される社内の若手から自分たちも自動車を続けるべきであったという意見が出てきた。
ウジーン社長としては、自動車進出に反対した手前、若手社員の意見を抑えにかかったが、燎原の火のごとく広がった自動車再開論を排除することはできなかった。

こうして1906年から、プジョー兄弟社は自動車ビジネスを再開することになった。
そして、アルマンの会社の“プジョー”と区別するために“リヨンプジョー”というブランドを採用した。

リヨンはライオンの意味を持つフランス語で、プジョー家のシンボルを表している。
本書では、その意味を汲んで日本語表現は“ライオンプジョー”で統一することにする。

(〔78話〕はここまでで、〔79話〕は来週の火曜日に掲載。)


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