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82話.シルバーゴーストの誕生〔前編〕

《 主な登場人物 》
■フレデリック・シムズ:1863年生まれ。ダイムラー社の価値を見抜いたイギリス人。
■ハリー・ローソン:1852年生まれ。イギリス最大のカーグループづくりに励む事業家。
■フレデリック・ランチェスター:1868年生まれ。ダイムラー社に移籍したイギリス人。
■ウィリアム・ヒルマン:1840年頃の生まれ。自動車ビジネスに挑戦するイギリス人。
■フレデリック・ロイス:1863年生まれ。ロールス・ロイス社の創業に参加した技術者。
■チャールズ・ロールス:1877年生まれ。ロールス・ロイス社の創業者で営業担当。


 ローソン帝国が送り出すデイムラーが、イギリス王室御用達車の第1号となった 


ゴットリープ・ダイムラーによって始められたドイツでのガソリンエンジン車ビジネスに着目したイギリス人モータージャーナリスのフレデリック・シムズは、ダイムラー社と話をつけてダイムラー車のイギリス国内独占販売権を取得して、輸入車ディーラービジネスを始めようと考えた。

ところが、モータージャーナリストとしての仕事が多忙になって、自動車ビジネスだけにエネルギーを投入できなくなったので、この権利をハリー・ローソンという、やり手のビジネスマンに譲渡した。


Lawson,Harry②第二巻082話
〈やり手のビジネスマン:ハリー・ローソン〉






ローソンは、ドイツ語発音のダイムラーを英語読みにして、つづりは同じ“デイムラー”の名を冠した自動車ビジネスを立ち上げ、最初はドイツから輸入したクルマの、車名プレートを取り替えるだけのやり方で仕事を始めた。
次いで、輸入部品を使った組み立て生産方式の経験を積んで、徐々に国産部品を使うようになり、デイムラーはだんだんイギリス車になってきた。

そんな時、ゴットリープ・ダイムラーの長男パウルが、デイムラー車の技術責任者としてドイツからイギリスに赴任してきた。
パウルは、強欲で独裁的なローソンのやり方にはついていけていけないところがあったが、イギリスにおいてデイムラーが一流ブランドになるよう仕事には真剣に取り組んだ。

イギリス自動車産業の完全制覇を目論むローソンは、デイムラーの他にもいろいろな自動車メーカーをつくり、これらの会社で生産する全てのクルマでシェアを獲得する作戦で、いったんは“ローソン帝国”と呼ばれる強固な組織をつくりあげたかに見えたが、20世紀に入った頃から、ほころびが目立つようになってきた。

ここで、話は10年ほど遡ることになるが、イギリス王室ファミリーとして史上初めて自動車を運転したのは、皇太子時代のエドワード七世である。
皇太子は毎年夏になるとドイツの保養地でバカンスを楽しむことにしていたが、1893年のある日、大金持ちのフランス人が所有するセルポレ蒸気自動車の運転をさせてもらったのがきっかけとなって、自動車が大好きになり、その後もクルマに関心を持ち続けた。

イギリス王室では、皇族の移動や儀式で使う乗り物として馬車を使うのが普通だが、自動車ファンのエドワード七世は、個人用として〈デイムラー/6HP〉を1900年に購入して、密かに運転を楽しんでいたそうだ。
エドワード七世は20世紀の世の中は、馬車に代わって自動車の時代になるに違いないと確信を持っていて、公式行事で自動車を使ったらどうかという考えを持つようになっていた。

この意向を受けたイギリス宮内庁は、公式に王室御用達の自動車を購入することにして、どんな自動車がふさわしいのかを把握するために、入手できる輸入車と国産車の全てについて走行テストを繰り返した。
この中には、ガソリンエンジン車に混じって、蒸気自動車や電気自動車もあったという。
走行テストの結果、ガソリンエンジン車の〈デイムラー/22HPモデル〉が総合性能でいちばん優れていて王室で使うには最も適していると結論が出されたが、ここでひともんちゃくあった。


082話ダイムラー1902年22HP_Tonneau
←イギリス王室御用達となったデイムラー


それは、ドイツオリジナルのデイムラーがイギリス王室で使うにはふさわしいかという論議である。
既にデイムラー車のほとんどが国産部品であったことと、イギリス王室がドイツと深いかかわりがある点が考慮され、大きな問題にはならなかったようだ。
このことで、落ち目になりかかっていたローソン帝国に幸運の女神が降り立った。
王室御用達車に採用されたことが発表されてから、デイムラー車は上流階級の人気の的となり、売上が急増して生産が間に合わなくなるほどで、帝国は息を吹き返したのである。
デイムラー車独特のシェル模様のラジエターグリルが開発されたのは、それからまもなくのことであった。


この頃、ランチェスター社を創業したランチェスター兄弟の長兄フレデリック・ランチェスターは、自分の会社を倒産させてしまい、デイムラー社のチーフエンジニアになっていた。
そこに、エンジンの回転が滑らかで、静かなエンジンとして注目を集めていたスリーブバルブ・エンジンを開発したアメリカ人のチャールズ・ナイトから説明を受けたら、すっかりこれが気に入って、交渉の結果、イギリス国内での一手製造権を入手した。
スリーブバルブ方式という最新機構が採用されたエンジンを搭載する排気量3.3リッターから10.4リッターまでの幅広いレンジの4気筒車と6気筒車が、デイムラー車の標準型式となった。
堂々としたボディスタイルで静かに走ることができるデイムラーは、このエンジンを得て、いっそう格調の高いクルマとなり、ロールス・ロイスと並んで上流階級のステイタス車のポジションを保ち続けるのである。



 ミシンからスタートしたヒルマン社は、自転車事業を経由して自動車メーカーになった 


hillman2下082話
←“ヒルマン”のブランドマーク


20世紀初頭に誕生したイギリスのカーブランドの案内は、いよいよ“ヒルマン”に入る。
このブランドを聞くと、懐かしいと感じる日本人の年配読者は多いと思う。
第2次世界大戦後のある時期、いすゞ自動車がライセンスを受けて製造したクルマの名前である。

ロンドン北方に位置する工業都市のコベントリーの住民ウィリアム・ヒルマンはミシン会社の職工長から身をおこし、金属スポークやギヤ技術でイギリスナンバーワンといわれた自転車メーカーで技術を磨き、その後独立してヒルマン社を設立した。
20世紀に入る頃になると、イギリスの自転車業界は過剰生産で、価格が低落して、採算を取るのが難しくなり、倒産する会社がいっぱい出現した。
ヒルマン社長は、このまま自転車メーカーを続けたら、企業として行き詰まることは必死と考えて、イギリスで新しい産業として注目が集まっている自動車分野に新規参入することを決意した。
しかし、自分には自転車技術があるものの、エンジンを必要とする自動車技術が欠けていることを自覚していたので、この頃、名前が知られるようになっていたルイ・コータレンというフランス人技術者を採用して新しいクルマの設計を依頼した。



Coatalen,Louis第二巻082話
〈優秀な自動車設計家のルイ・コータレン〉





こうしてヒルマン社としての最初となる排気量1.3リッターの単気筒エンジンを積む“9HPモデル”が誕生したのは、1907年5月のことであった。
自動車メーカーにとってレースでの勝利がいかに重要であるかを認識することになったヒルマン社長は、1907年6月にブリテン島とアイルランド島の間に位置するマン島で開催されるツーリスト・トロフィー(以下、TT)レースへの参戦を決意し、コータレン技師長にレース専用車を製作するように命じた。
間もなくして、排気量6.4リッターの4気筒エンジンを載せたレース専用車が完成したので、TTレースへエントリーした。
このクルマは、設計者のコータレン自らが運転することになって、1周目にベスト周回タイムを記録したが、2周目に入ったところでスプリングが折れる事故が発生してリタイヤしてしまい、ヒルマン車のレースでの勝利は思惑どおりにはゆかなかった。

1907年の11月、コータレン開発による排気量9.7リッターの新型6気筒車が完成したので、オリンピア・モータ-ショーに出展したところ、たいへんな好評を得たことで自信を持ったヒルマン社長は、このクルマを積極的に売り出すことにした。


082話ヒルマン6気筒車
←ルイ・コータレンが設計したヒルマン1号車




自転車をやめて自動車に転じて以降、苦労が耐えないヒルマン社長であるが、コータレン技師長が開発した新型6気筒車の売出しに成功して、これから楽になるに違いないと思い始めた時に、突然コータレンが会社を辞めると言いだした。
ここで辞められたらたいへん困る事態になると思った社長は精一杯引きとめたが、コータレンの意思は変わらなかった。
やむなくヒルマン社長は、技術陣の再編成にとりかかったが、この時代のイギリスに数多くの自動車技術者がいたわけではなく、コータレンの抜けた穴を埋めることは難しく、ヒルマン社の成長に急ブレーキがかかったのである。

(金曜日の〔82話:後編〕に続く)


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