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84話.ドイツ車とイタリア車の多様化〖前編〗

《 主な登場人物 》
■ハインリッヒ・エールハルト:1840年生まれ。エールハルト社を創業するドイツ人。
■ハインリッヒ・クレイエル:1853年生まれ。アドラー社を創業するドイツ人事業家。
■エドムント・ルンプラー:1872年生まれ。ネッセルスドルフ社で働くチェコ人技術者。
■チェザーレ・イソッタ:1862年頃の生まれ。フラスキーニのパートナーのイタリア人。
■ヴィンチェンツォ・フラスキーニ:1870年頃の生まれ。イソッタと組んだイタリア人技術者。


 アイゼナハ社は、車名をヴァルトブルグからディキシーに変えて再出発を図った    


『クルマの歴史物語 第二巻』の「82話」でフランス車とベルギー、オランダ車のカーブランド一覧表を掲載したので、ここではドイツ、チェコ、オーストリア、イタリアにおいて1908年までに誕生したカーブランドの一覧表を読者に提供する。

❖ドイツ:ベンツ 1886~、G
❖ドイツ:ダイムラー 1886~、G
❖チェコ:ネッセルスドルフ 1897~、G
❖ドイツ:オペル 1898~、G
❖ドイツ:ホルヒ 1899~、G
❖オーストリア:オーストロダイムラー 1899~、G
❖イタリア:フィアット 1899~、G
❖イタリア:イソッタ・フラスキーニ 1900~、G
❖ドイツ:アドラー 1900~、G
❖ドイツ:ヴァルトブルグ 1900~、G
❖ドイツ:メルセデス 1901~、G
❖イタリア:イターラ 1904~、G
❖ドイツ:ディキシー 1905~、G
❖イタリア:SPA 1906~、G

既に『第一巻』と本書を通して、ベンツ、ダイムラー、ネッセルスドルフ、オペル、ホルヒ、オーストロダイムラー、フィアット、メルセデスに関する記述は済んでいるので、残りのブランドのうちドイツのヴァルトブルグ、ディキシー、アドラーと、イタリア車のイソッタ・フラスキーニに関する説明を始めることにする。

ドイツ人実業家のハインリヒ・エールハルトという男が、1896年12月に軍需品ビジネスを目論んでアイゼナハ社という設立した。
軍需品産業はいったん戦争が起これば超多忙になるが、平和な時代に戻ると仕事がまったくなくなってしまうというように、経営基盤が極めて不安定である。
これを何とかしなくてはと考えたエールハルト社長は、かねてから知り合いのカール・ベンツが成功したのを見て、自分も自動車ビジネスを始めることを決意し、新車開発に取り組んだ。
そして、ベンツ製2気筒エンジンを積む3輪試作車を1898年につくりあげたが、高評価を得ることはできなかったので、この市販は諦めた。


エールハルト社長はあくまで事業家であって、オリジナリティにこだわるクルマを製作する考えはなく、先発メーカーに太刀打ちできるようになるためには、すでに評価の定まっている機構や部品を採用するのが最善の道だと考えた。
そこで、技術導入に適した会社はどこかを調べるために、ドイツと並ぶ自動車先進国となっているフランスに出向いて、社長自ら目ぼしい会社と話し合いを進めた結果、最終的には小型軽量車分野で人気急上昇中のドコーヴィル社から技術導入することになった。
ただちに契約書にサインし、アイゼナハ社でドコーヴィル車のライセンス生産が始まり、“ヴァルトブルグ”というブランドを冠した1号車が走り出したが、このクルマはドコーヴィルそのものであった。

その後エールハルトは、自らの名を冠したクルマを市場に送り出すことを考えるようになり、1904年にアイゼナハ社を手放して、エールハルト社という自動車メーカーを設立した。
一方、アイゼナハ社の方は、エールハルトの退社を機にヴァルトブルグという車名を止めて、代わりに“ディキシー”を採用することにした。
ディキシーとは、ラテン語で「私は既に語った」という意味であり、会話における最後の言葉、つまり完成の極みを象徴している。

アイゼナハ社の新車開発は順調に進み、1905年に〈ディキシー/T型〉を市場導入したところ、この新車はよく売れた。
その後も改良が重ねられ2年後にはU型シリーズへと発展したが、このシリーズの最上級車が排気量7.3リッター4気筒エンジン搭載の〈ディキシー/U35〉と名付けられた高級車である。

1908年になると、排気量1.5リッター4気筒エンジン搭載の小型車〈ディキシー/R8〉が登場することになった。
このクルマのエンジン出力は16HPとたいしたことはないが、車体が軽いので最高速度が65キロも出て人気車になったのである。



 ドイツのアドラー社の創業者クレイエルは、パリでルノー車に出会い目を奪われた 


次の話は、フランクフルトに本拠を置き、ハインリッヒ・クレイエルという人物によって1886年に自転車を製造する会社としてスタートを切ったアドラー社である。


adler2下084話
←“アドラー”のブランドマーク




19世紀末になるとアドラー社は自転車だけでなくタイプライターをつくるなど、ドイツを代表する機械メーカーとして、ドイツ語で鷲を意味する“アドラー”という名前にふさわしい会社に育っていた。
1895年頃になると、フランクフルトの街をダイムラーやベンツなどの4輪自動車が走るのを見かけるようになっていた。
クレイエル社長は、このようすを見て、自動車ビジネスへの参入を真剣に考えるようになった。

そこで、ドイツと並ぶ自動車先進国であるフランスの自動車業界の実態を把握しようと考えて、1899年にパリを訪れたクレイエル社長は、ドイツ車にはない特徴をもつルノーの小型車に目を奪われ、ルノー車こそ自分たちが目指す方向であることを確信して帰国した。
アドラー社の技術陣は、ルノーを見本とした自動車の開発に着手し、一方でド・ディオン・ブートン社から排気量1リッターの出力3.5HP単気筒エンジンを調達することを決めた。
このエンジンをフロントに積み、ルノー同様シャフトドライブで後輪を駆動するFR車が完成し、1900年から生産を開始して本格的な自動車事業をスタートさせたところ、この小型車は好調な売れゆきとなった。

これで自信を持ったので、ド・ディオン・ブートン製8HPのエンジンを搭載した大型の〈アドラー/4.5HP〉を1903年に市場に送り出したら、このクルマも好評をもって迎えられた。


この頃、クレイエル社長は技術力強化を図ることを狙って、チェコの自動車メーカーのネッセルスドルフ社の技師長として腕をふるっていたエドムント・ルンプラーを引き抜いた。

ルンプラーはクレイエル社長の期待に応えたいと新機構を次々と生み出し、独自技術を満載した自動車の開発を進めていた。
ところが、ルンプラーに技術革新を期待したはずのクレイエル社長が新機構の採用にストップをかけたのである。
そんなことをするくらいなら、最初からルンプラーのような革新的なエンジニアを引き抜かなければよいのにと思うのであるが、どこの会社も似たようなもので、社長の考えることは複雑過ぎてよくわからないところがある。

ルンプラーが開発した画期的な新機構は、それから数年後、彼がこの会社を去る頃になると、世間的な評価が定まることになるのであるから、その技術力はたいしたものだった。


Rumpler,Edmund②第二巻084話
〈革新的な技術者エドムント・ルンプラー〉





(金曜日の〔84話:後編〕に続く)

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