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125話.ブガッティがつくった傑作車〔後編〕

《 主な登場人物 》
■エットーレ・ブガッティ:1881年生まれ。オリジナル車の開発に熱中する技術者。
■エルンスト・フリードリヒ:1888年頃の生まれ。エットーレ・ブガッティの忠実な助手。
■リヒャルト・イエニケ:1861年頃の生まれ。ヴァンダラー社を設立するドイツ人事業家。
■ヨハン・ヴィンケルホッファー:1861年頃の生まれ。ドイツのヴァンダラー社の創設者。



 プジョー兄弟社の技術陣は、E.ブガッティ設計の超小型車の魅力に引き付けられた 


エットーレ・ブガッティは〈ブガッティ/タイプ13〉の成功によって進歩が止まるという人間ではない。
次の新車として、2人乗りの排気量850ccの直列4気筒のエンジンを積む超小型乗用車を考えていたので、工場から少し離れた所に設計スタジオをつくって、ここで新車の設計図を引くのに熱中する日々を過ごしていた。

いよいよ試作車もできあがり完成に近づいてきたが、工場の方は、順調な売上が続く〈ブガッティ/タイプ13〉の生産に追われていて、とても新型車を追加する余裕がなかった。
この際、もうひとつ工場をつくろうかと考えたが、ド・ヴィスカヤ副支配人との約束を思い出し、この超小型乗用車の自社生産は取り止め、設計図を売ることを考えたのである。


ここで、『クルマの歴史300話』の舞台は、時間を戻したドイツに移ることになる。
1885年、ドイツ東部の町でリヒャルト・イエニケとヴィンケルン・ホッファーという名前の2人がヴァンダラー社という名前の会社をつくって、イギリス製自転車の販売業を始めた。
そのうちに、単に販売だけでは面白くないと思い始め、自分たちの自転車をつくるようになって事業を拡大し、やがてオートバイに興味を持つようになってエンジン技術を学び、1902年からオートバイメーカーとして成長していた。


Jaenicke,Richard第三巻125話
〈オートバイメーカーを経営するリヒャルト・イエニケ〉







この頃、ベンツやダイムラーの成功に刺激されて、自動車は話題の商品となっていた。
オートバイで築き上げたエンジン技術があるので、自動車産業への新規参入を狙って、イエニケとホッファーの2人は、初のクルマづくりに挑戦することになったが、なかなか自分たちの思うようには進まなかった。

そんな時に、エットーレ・ブガッティを知ることになった。
「自分はすごい性能の小型車を開発し、試作車も完成したので、ぜひ見て欲しい。そして、気に入ったら設計図を買わないか」と売り込みがあった。

自分たちのクルマづくりに行き詰まっていた2人は、ブガッティの提案に興味を示し、「ぜひクルマを見たいので、ドイツまで試作車を持ってきて欲しい」と返事を記した。ブガッティはこの手紙を読んでたいへん喜び、早速フリードリヒに命じて、クルマをドイツまで陸送することにした。

ところが、フリードリヒは何を思ったのか、ドイツへの陸送途中でプジョー兄弟社の工場に立ち寄った。
この思いがけない行動で、小型車の運命が大きく変わることになるのである。

駐車場に止まっていた今まで見たことのない小型車に、プジョー兄弟社の技術者たちは目を奪われた。
小さな外観にかかわらず、居住性はしっかり確保されていて、このクルマの設計者の実力を垣間見る思いである。

技術者たちは頼み込んで、乗せてももらってさらに驚いた。
小型車にありがちな走行の乱れはなく、騒音も振動も少なくスムースに加速して、完成度が信じられないくらい高いのである。

プジョー兄弟社の技術スタッフは、試作車のできがあまりにもいいので、これがライバル社に渡ったら、とても勝ち目がないと思って、このクルマの製造権をプジョー兄弟社に売って欲しいとフリードリヒに要請した。

この背景として、自動車ビジネスを再開したものの、技術スタッフの多くがアルマン・プジョーの会社に移ってしまって、マンパワーが質量ともに不足していたという事情もあった。
現実に新車を開発しようとしてみたけれど、なかなか軌道に乗らなくて、〈プジョー/べべ〉のような小型車の開発力をどうしたら強化できるかにプジョー兄弟社は腐心していたのである。

フリードリヒはこのことをすぐに電報でブガッティに知らせた。
ブガッティとしては、既にヴァンダラー社に話をつけてあったので、申し出を受けて大いに戸惑ったが、要請は執拗で、あまりの熱心さに負けてプジョー兄弟社に、この小型車の設計図を売ることにした。


wanderer3上125話
←“ヴァンダラー”のブランドマーク





この結果、ヴァンダラー社は小型自動車の自社開発を余儀なくされることになった。
覚悟を決めたイエニケとホッファーの2人は、自分たちのクルマづくりにあらん限りの努力を重ねて、前後に1人ずつ乗る小さなクルマを開発し、1911年から販売が始められた。

2人は、本格的に自動車メーカーとしての道を歩み始めようとしたが、時あたかも戦雲がたなびいてきたので、これ以上進展をすることが難しくなってきた。



 E.ブガッティ設計の〈プジョー/べべⅡ〉は、フランスで最初にヒットした自動車となった


プジョー自動車会社とライオンプジョーのプジョー兄弟社は販売の一線でも、レース場でも、血を血で争う凄まじい抗争を続け、時間の経過とともに両社とも疲弊してしまった。
そこで、アルマン・プジョーとロベール・プジョーは話し合って、元のさやに収まることになり、新体制のプジョー自転車&自動車会社が再スタートを切ることになった。

ここで、タイミングよくエットーレ・ブガッティが設計し、ライオンプジョー社の主力モデルとなる予定の超小型車の生産体制が整ってきた。
このクルマは、〈プジョー/べべ〉の後継車と位置付けられ、〈プジョー/ベベⅡ〉として販売が開始された。

長さ262センチ、車幅150センチで道路占有面積3.8平方メートルというサイズの中に排気量850㏄エンジンを搭載した軽量構造で、最高時速は70キロという性能を持つ〈プジョー/ベベⅡ〉は、たちまち人気を獲得した。

1913年に生産開始された〈プジョー/ベベⅡ〉は、フランスでは最初の大量生産車となってきたが、1914年秋の世界大戦の開始に伴って、乗用車生産が禁止されることになるので、3千台が生産されただけだった。


125話プジョー・ベベ2
←ブガッティ設計になる小型車の傑作プジョー・ベベⅡ






〈プジョー/べべⅡ〉と併行して、エットーレ・ブガッティが設計したもう1台が〈ブガッティ/ブラック・ベス〉と呼ばれる排気量5リッターエンジン搭載のレース専用車で、1912年のACF・GPのためのプジョーチームの控えのクルマとなった。

史上初のDOHCの排気量7.6リッターエンジンつきのプジョーは、ジョルジュ・ボアロが運転して、フランスGPに優勝を果たしたため、〈ブガッティ/ブラック・ベス〉の出番はなかったが、これと同タイプのクルマが飛行家ローラン・ギャロに引き渡され、“ギャロ・ブガッティ”として有名になるのである。

(〔125話〕はここまでで、〔126話〕は来週の火曜日に掲載。)


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