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154話.シトロエン社の創業〔後編〕

《 主な登場人物 》
■アンドレ・シトロエン:1878年生まれ。シトロエン社を創業するフランス人。
■ジョルジュ・アールト:1878年頃の生まれ。A.シトロエンの友人で支援者。
■ジュール・サロモン:1884年頃の生まれ。A.シトロエンに見出されたフランス人技術者。


 世界大戦で金を溜め込んだA.シトロエンは自動車分野への新規参入を考えた 


世界大戦はフランス側の勝利に終わり、戦後の復興に向かった。
アンドレ・シトロエンは、戦時中の砲弾製造でお金をしっかり溜め込んだものの、戦後体制の中で事業の再編成を余儀なくされ、戦前から引き受けていたモール社での自動車生産に脚光が当ることになった。

「人々は毎日の生活の足として、自動車を欲しがるに違いない。それは今まで自動車メーカーがつくっているようなクルマではないはずだ。フランスで誰もやったことがないような魅力的な小型車を開発して、大量生産の仕組みで製造し、安い価格で売り出せば必ず売れるに違いない」とアンドレは考えた。

大量生産のやり方に関しては、既に砲弾生産で成功しているので、いよいよ自動車生産で本格的に実施することになり、A.シトロエン社(以下、シトロエン社)として再出発することになった。


砲弾製造で大量生産技術を身に付けたアンドレは、複雑な構造物である自動車の大量生産を考えるために自動車工学を徹底的に学ぶことにした。
先生役を引き受けたのは、モール社でこの分野のエキスパートに育っていたジョルジュ・アールトである。

エコール・ポリテクニクで機械の基礎を身に付けていたアンドレは、アールトによる集中講義と、モール社での生産現場でのトレーニングによって、またたく間に自動車エンジニアとして成長し、モール社での生産工程の問題点を指摘できるまでになり、先生役のアールトを驚かせるようになってきた。



 A.シトロエンはグループ・エンジニアリングの考えを確立して、新車の設計に入った 


Citroen,Andre①第四巻162話
←自動車への進出を決意したアンドレ・シトロエン







アンドレ・シトロエンはジョルジュ・アールトと一緒になり、フォード社で学んだベルトコンベア方式での大量生産を考えたが、フォード社が実践してから既に10年という年月が経過しているので、単なる物まねに終わりたくなかった。

そこで、フォード方式の問題点を徹底的に洗ってみると、T型は最初から大量生産適性を考えて設計したクルマでないことが分かってきた。

それならば、自分たちは最初からベルトコンベア方式での大量生産を前提にして、自動車を設計しようと考え、グループ・エンジニアリングのコンセプトを思いついた。

それまでの自動車は、エンジンをはじめ、変速装置、伝達装置、ステアリング、制動装置というメインパーツを自社工場でつくり、あるいは専門企業から調達して、全体を組み合わせるという方法がとられていたが、このやり方だと自動車全体の効率的生産をどうするかまで頭が回らないという現実があった。

グループ・エンジニアリングの考えは、最初から大量生産を前提において設計に入るので、今までのやり方とは根本から違うことになる。
具体的には、ひとりのチーフエンジニアの指導と統制によって、エンジンなどのメインパーツを各々の専門家が設計するという考えであり、チーフエンジニアとして、ジュール・サロモンという技術者が選ばれた。


話は少し遡るが、20世紀のはじめの頃、フランスでサイクルカーがブームになったことがある。
サイクルカーというのは、自転車を横に2台並べたような貧弱なシャシーにオートバイ用エンジンを載せ、自転車同様にチェーンで後輪を駆動するという乗り物で、ブレーキはこれまた自転車と変わらず手動というように危険極まりない代物であった。

この頃、フランスには大小合わせて300を超える4輪車メーカーが林立し、その多くが町工場であった。
こんな時代に、ジュール・サロモンは、4気筒エンジンに3速トランスミッション、シャフトドライブを備えて、自動車をそのまま縮小したボディを持つ“ル・ゼーブル”というサイクルカーを製作した。
このクルマのできの良さに着目したアンドレ・シトロエンによって、新興自動車メーカーのシトロエン社に引き抜かれたのであった。


アンドレ・シトロエンが目指したグループ・エンジニアリングでは、各装置とも、構造が複雑にならないことが強く要求され、実際の生産がベルトコンベアで流れやすいかどうかの検証が重視される。
したがって、最初に生産方法の考察を重ね、その結果がメインパーツのあり方に結びつくことになった。
メインパーツの仕様がはっきりしてくると、次に取り組むのが本流となるシャシー組み立てラインの設計となり、この仕事を担当したのが、モール社で自動車ビジネスの実際を身につけたジョルジュ・アールトであった。


各々のメインパーツの生産を支流にして、シャシーを流す本流をどのようにするかの考察が重ねられた。
この結果、本流をスムースに流すために、支流であるメインパーツの生産について不都合が発生すれば、設計を一からやり直すことにした。
これを繰り返しながら、メインパーツの構造が決定され、一方シャシーを組み立てる本流の流れもできあがり、だんだん新しいクルマが姿を現してきた。


新型車のエンジンは、排気量1.3リッターの直列4気筒構造で最高出力18HPというスペックになった。
このエンジンのボア(シリンダーの内径)は65ミリ、ストローク(ピストンの距離)は100ミリとなったが、この100ミリのストロークは、シトロエン車の伝統として継続されることになる。

こうして、この時代として標準的な技術を組み合わせ、際立った特徴のない試作車が完成した。
これと併行して、工場の製造ラインもできあがったが、ヨーロッパで最初の流れ作業による自動車生産の立ち上げは、画期的であるがゆえにトラブルの連続となり、ていねいにこれらをつぶすことによって、工場での生産が始まった。

アンドレの思想を具現化した新型車には〈シトロエン/A型〉という名前が付けられた。
シトロエン社として最初のクルマであることを表す“A”を採用したが、これはヘンリー・フォードのやり方から影響を受けたからである。


大量生産はコストダウンを引き寄せ、コストダウンは販売価格の引き下げを可能にする。
このプライスダウンは、販売台数の拡大に貢献することになり、販売台数の拡大は生産台数の増加に直結する。生産台数が増加すれば、コストダウンが実現する。

このような、大量生産→コストダウン→プライスダウン→販売台数増加→大量生産という一連の好循環を生み出すことがアンドレの狙いであった。



citroen4上154話1919
←創業期“シトロエン”のブランドマーク



二重になった山型歯車をシンボル化したマーク(英語ではダブルシェブロン・マークという)をつけた〈シトロエン/A型〉は1919年に1万1千フランの値付けがされ販売が開始された。

しかし、最初の頃はディーラー網の弱体もあって年間数十台しか販売できなかったが、翌年に価格を7,500フランに下げたところ、年間販売台数は2万台を越えるというように急増することになり、アンドレの狙いは見事に当ったのである。

(〔154話〕はここまでで、〔155話〕は一週間お休みをして再来週の火曜日に掲載。)


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